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ルゥキアーノスとその作品

偽評論家

YeudologisthvV
(Pseudologista)





[解説]
 『弁論教師』や『無学なる書籍蒐集家に与う』に似た、しかしそのいずれよりも辛辣さにおいて抜きん出た個人攻撃。そのモティーフは、犠牲となる市民を際立たせるよりも、むしろ個人攻撃に対する復讐であった。当該人物を通過しながら、ルゥキアーノスは、ふと耳にされるに(疑いもなくそれが彼の意図であった)充分大きな声で、自分自身の意見を表明した。彼は慣用句としては廃れていた語を用い、うまい用い方で派手派手しい制裁を加えた。結果として、当の人物を嘲笑し、彼の言葉(これは致命的な失策であった)をわらいものにした。というのは、ルゥキアーノスが自分の用語について常に繊細であることは、『挨拶言葉の失敗』で証言するとおりであり、それゆえ、利子をつけてやり返すほどに刺激されたのである。

 これのように剥き出しの、手心を加えない皮肉のために、ルゥキアーノスが有する豊富な先例は、アルキロコスやセモニデスのイアムボス詩(ヒッポナクスの長短短長格を使って、彼自身がほのめかしている)の中や、古喜劇の中のみならず、抒情詩人(ロードスのティモクレオーンのみならず、アナクレオーン)の中にある。弁論の中で、これがかけ離れた目的に派手に奉仕している用例は、ティマルコスに対するアイスキネスが古典的実例である。弁論家たちの後は犬儒派、とりわけ街角型のそれで、彼らは生きた直言を守った。ルゥキアーノスの『デーモナクス』が充分な実例となる。

 ルゥキアーノスの犠牲者の名前がティマルコスであるということは、ぼくが思うに、アテーナイで彼〔ティマルコス〕に与えられた綽名アティマルコスからの間違った推測であろう。彼〔犠牲者〕は俳優であり、教師であり、さらにソフィストであった。生まれはシリアで、アンティオケー、エジプト、イタリア、そしてギリシアに住んだことがある。この小品は事件が起こった後間もなく、明らかにエペソスで書かれた。そのとき、このソフィストはそこに暮らしていた。その年代を定められるものは、この内容に含まれていない。(A. M. Harmon)




偽評論家、あるいは、アポプラースについて

 [1] だが、君がアポプラースという語(ajpofravV)を知らないってことは、きっと、万人に明らかなことだろう。なぜなら、ぼくが、君のことを、アポプラースにそっくりだ(というのは、君の性格を、ゼウスにかけて、そのような日になぞらえて言及したのだから)と云っているのに、言葉遣いの点で外人だと、君はどうして非難しえたろう。もしも、この語を聞いたことがないというのでないなら。そこでぼくが、アポプラースでいったい何が意味されているのか、少し後で君に教えてあげよう。しかし今は、アルキロコスのあのこと、つまり、「君は蝉の羽根をつかまえた」〔という科白〕を君に言ってあげよう。アルキロコスという、イアムボス詩の詩人を君が聞いたことがあるならばだが。〔彼は〕生まれはパーリオン人、すこぶる自由で、直言(parrhsiva)と同棲している人で、悪罵することに臆することのない人だった。たとえ、自分のイアムボス詩の胆汁に抵触した人たちが、このうえない苦痛に陥ろうともね。さて、その人が、そういう手合いのひとりから悪く〔言われるのを〕聞いて、蝉の羽根をつかまえたと謂ったのは、アルキロコスは自分を蝉にたとえたからだ。自然本性的に、何らかの必然性がなくてもお喋りであり、羽根でもつかまえられようものなら、ますます大声を出す本性によってだ。「君ときたら」と彼は謂った、「おお、すれっからしめ、何を望んでお喋りな詩人を自分に向けてけしかけるのだ。イアムボス詩の話材や主題を求めている詩人を」。

 [2] ぼく自身も君に同じ脅しをかけよう、ゼウスに誓って、自分自身をアルキロコスにたとえてではなく — どうして出来ようか。ぼくははるかに及ばないのだから — 、君によって生きられた無量の事柄が、イアムボス詩〔の題材〕に値することを知っているからだ。これに対抗するには、ぼくに思われるには、アルキロコスひとりでは出来ず、君にそなわる諸悪の一つでさえ、シモーニデースをも、ヒッポーナクスをも、自分と協力するよう呼び寄せる、それくらい、君ときたらあらゆる非道さにおいて、オロドキデースやリュカムベースやブゥパロスといった、あの人たちのイアムボス詩〔の題材となった連中〕を子どもにしているのだ。そして、どうやら、神々の中のどなたかが、〔ぼくによって〕言われたアポプラース〔という語〕に対して、あのとき君の唇に嘲笑を浮かべさせたのは、ご当人がまったく無教養であり、こんなありきたりのことさえご存知ないことが、スキュティア人たちよりも明々白々となるためであり、君を非難攻撃する言説に対する道理にかなった支配権を君が〔次のような〕人にもたらすためなのだ。〔その人とは〕自由人にして、君のことを家の中まで詳しく知っており、何でも口に出すことを何ら遠慮しないどころか、むしろ、あれら以前の多くの事柄に加えて、今もなお君が夜も昼も実行している事柄を触れ回る人である。

 [3] いずれにしても、教育の法に基づいて君に向かって直言する(parrhsiavzesqai)のは、おそらく徒労で余計なことであろう。なぜなら、君自身が批判に応えてより善い人になることなど決してないのは、あたかもフンコロガシが、いったん自分たちに馴染みとなると、そういったものを転がすことをもはや説得によって考えを変えることはないようなものであるし、また、君によって敢行されたことや、君が老人として自分に対して犯した罪をしない人がいるとはぼくは信じられないないからだ。それほどまでに君は安全ではないし、嫌なやつであることが不明でもない。ライオン〔の皮〕を脱ぐような必要もない。荷驢馬であることが明らかだからだ。おそらく、極北人たちのところからわれわれのところに来たばかりの人とか、君があらゆる驢馬たちの中で最も横暴なやつ(uJbristovtatoV )であることを、見てすぐにわからず、そのうえさらに嘶くのを聞くまでは〔わからない〕ほど、それほどまでに君がキュメー人でないかぎりは。そういうふうに、君のことはぼくのはるか以前からも、あらゆる人々の間で、しばしば触れ回られていて、そのおかげで君は小さからぬ名声を得ている。アリプラデースを凌駕し、シュバリス人ヘーミテオーンを凌駕し、等しいことで知者であるキオス人バスタースを凌駕して。

 それでもやはり告げなければならない。古臭いことをぼくが言っているように思われようとも、[4] ぼくひとりそれらのことを知らないという責めを受けないために。否、むしろ、われわれのために召喚さるべきは、メナンドロスの序言のひとりである「吟味(!ElegcoV)」、すなわち、「真理(=Alhqeiva)」と「直言(Parrhsiva)」の友にして、舞台に上がる者たちのうち、目立たない者どころではなく、敵とするのは、彼の舌を恐れる君たちのみである。君たちとともに知っているかぎりの万事を知っていて、はっきりと詳説するので。とにかくそれは喜ばしいことになろう。この者が登場して、演劇のロゴス全体を観衆に説明することを望むならば。

 それでは、さあ、おお、序言とダイモーンたちの最善のもの「吟味」よ、聴衆にあらかじめはっきり教育する仕方を見よ。いかにすれば、われわれがこのロゴスに対戦するのが、徒労でなく、喧嘩好きからでもなく、諺にある「足も洗わずに」でもなく、この人の嫌味を憎むがゆえに、何か私的なことをも公的な事柄とともに防御できるかを。このことのみを云って、慈悲深くはっきりと説明したうえで、立ち去り、その他の事柄はぼくたちに残してください。なぜなら、ぼくたちはあなたを模倣し、多くの事柄を徹底吟味するつもりですから。直言と真理のために、ぼくたちがあなたを何ひとつ責めないですむように。しかしそれについてわたしを称賛してはなりません、おお、最愛の吟味よ、また、あいつにそなわっている諸々を勝手に溢れさせてもなりません。なぜなら、かくも唾棄さるべき事柄についてのロゴスが、神たるあなたの唇にのぼることは、ふさわしくないのですから。

 [5] 「というのは、この自称ソフィストが」と、これを謂っているのは今度は序言であるが、「かつてオリュムピアへ、著されたあるロゴスを大衆の前で演示するため、赴いたことがある。で、著作の主題は、ぼくの思うにアテーナイ人たちの中のある者によって、ピュタゴラスがエレウシスの密儀に異邦人として参加することを妨げられたことがあるが、その理由は、ピュタゴラス本人が、前生ではエウブゥロスでもあったことがあると言ったことだった。しかし彼のこの話は、まさしくアイソーポスの黒丸烏〔Perry101「黒丸烏と鴉たち」〕そのまま、他人の多彩な羽根の寄せ集めにすぎなかった。もちろん、古臭いことではなく、著書に由来することを即興で言っていると思われたくて、知り合いのひとりに(こいつはパトライの出身で、多くのことで訴訟にかかずらっているやつだったが)、話の主題のようなものを求めた際に、自分のためにピュータゴラースを選んでくれるように頼んだ。やつはそのとおりにした。こうしてピュータゴラースに関するあのロゴスを聞くよう観衆を説き伏せたのだ。[6] 結果は、演技的要素の点で彼はまったく非説得的であった。当然のことながら、はるか以前から用意されたこと、暗記されたことを、結びつけ、可能なかぎりの恥知らずさが側にあり、来援し、手を差し伸べ、彼を助太刀したとしてもである。聴衆からは、おびただしい笑いが起こった。そのあるものは、真ん中にいるあのパトライ人に注目して、この即興で彼に協力していることに気づいていないわけでないことをほのめかし、あるものは、言われている事柄そのものを知って、講演の間中、唯一次のことを仕事とし続けていた。つまり、われわれの少し前〔の時代〕に、いわゆる修練(melevth)で名を馳せたソフィストたちの誰のものかを見分けることにかけて、どれくらい記憶がいいかを、お互いに試しながら、である。

 [7] これらすべての人たちの中には、このロゴスを著している人も、笑っている人たちの中に、ご当人も含まれていた。どうして笑わないでいられようか、かくも明々白々な、非説得的な、無恥な図々しさを。そしてどうにかこうにか(笑いをおさえられないのだが)、片や声色を歌に転じたと思っているふうで、ピュータゴラースのために悲歌のようなものを笛にのせて唱え、片や、弁論のこの部分こそは、驢馬が竪琴を弾こうとしていると見て、大いに喜んで高笑いをした。ぼくのこの作者が。そこで前者は振り返って見た。これが彼らに喧嘩を惹き起こし、最近のこともここに起因する。[8] それは1年の初めであった、というよりは、大新月〔正月〕の第3日であった。この日に、ローマ人たちは、古習にしたがって、自分たちも1年全体のために祈りのようなものを捧げるとともに、供犠をする。それがノマース〔=ヌマ〕王が彼らに定めた神事であり、何よりもその日にこそ神々は祈る者たちに託宣されると〔ローマ人たちが〕信じてきた。さて、そういう祝祭と聖なる月に、かつてオリュムピアで、すり替えられたピュータゴラースを笑ったあの人は、唾棄さるべきペテン師、他人の言説の演技者が近づくのを見て(彼の性格をも、その他の好色も、人生の汚れも、彼が為していると言われている事柄も、為残している事柄もはっきり知って)、「われわれは」と、仲間たちの一人に謂った、『この縁起の悪い見物を避けるときだ。われわれにとって最も快適な日をアポプラースな日にするために現れたらしいやつを』。

 これを聞いてそのソフィストは、アポプラースを、ヘッラス人たちにとって異国風で余所余所しい名辞だと思って、すぐに笑い、その人物に、以前のあの嘲笑の報復をしようと、とにかくそう思ったふうで、みんなに向かって言った、『アポプラースとな、して、これは何ぞ? ある種の果物か、それとも、一種の植物か、それとも、道具か? はたして、食べ物の、あるいは、飲み物の一種がアポプラースなのか? わしはいまだかつて聞いたこともなく、いったい何のことを言っているのか理解できるときもあるまいよ』。[9] 以上を、この人物に対して述べたと思い、おびただしい笑いをアポプラースに浴びせた。しかし、その後に無教養の証拠を自分に対して提起したことに気づいていなかった。そういう次第で、諸君のためにわたしを先に送りこんだもの〔吟味〕がこのロゴスを著したのである。名にし負うソフィストが、ヘッラス人たちの常識的な言い廻しを知らず、製作所や商店で働いている連中でさえ知っているようなことも知らないということを示すために」。

 [10] 以上は、「吟味」、わたしの方は — すでにわたし自身が劇の残りを引き継いでいるので — もはやデルポイの鼎からの〔託宣〕を言うのが義しいであろう。あんたの祖国での〔所行〕はどんなだったか、パレスティナでの〔所行〕はどんなだったか、アイギュプトスでの〔所行〕はどんなだったか、フェニキアやシリアでの〔所行〕はどんなだったか、それに続けて、ヘッラスとイタリアでの〔所行〕を、そしてすべてのあとで、今エペソスでの〔所行〕を。これこそ、あんたの狂気の沙汰の極み、性格の頂点であり栄冠である。というのは、諺にあるとおり、君は「イリオン人であるからには、悲劇役者たちを賃借する」もはや君自身の諸悪を聞く好機なのだから。[11] いやむしろ、それはまだだ。アポプラースについてが先だ。

 どうか、ぼくに云ってくれたまえ、全衆の〔アプロディーテー〕とゲネテュッリスとキュベーベーにかけて、どうして、アポプラースが、非難さるべき嘲笑にあたいする名辞と君に思われたのか。というのは、ゼウスに誓って、ヘッラス人たちに固有の語ではなく、どこか、ケルタイ人たちやトラキア人たちやスキュティア人たちとの交流から彼らのもとに闖入したのだが、君は — 何しろアテーナイ人たちのことなら何でもご承知なものだから — これをすぐに閉め出し、ヘッラス世界から追放宣告し、〔君の〕嘲笑は、ぼくが非ヘッラス人であり、異国訛りであり、アッティカの境界を逸脱していること、このことに向けられたのだ。

 よかろう、では、これと同様にアテーナイ人たちにとって土着化した語がほかにあるかと、君なんかよりこういったことをもっとよく知っている人たちは謂うことだろう。そこでエレクテウスやケクロプスを、外国人でありアテーナイへの侵入者として君はすばやく表明するだろう。アポプラースをアッティカ本来の生え抜きでないと示すよりも早く。[12] というのは、あらゆる人間たちと同じ仕方で、当の彼らも名づけたことが多数あるが、アポプラースをば、あの人たちのみは汚れた、堪えがたい、縁起の悪い、無為の、君に似た日と〔名づけた〕のだ。見よ、事のついでに、アポプラースな日が彼らにとって何を意味するか、君は学んでしまったね。

 執政官たちも業務を遂行せず、訴訟も審理されず、犠牲獣も犠牲にされず、幸先よいことは何も成就されないとき、それがアポプラースな日である。[13] これが制定されたのには、それぞれ各様の理由による。例えば、大きな争いに敗れて、その後、そういうことを受難したその日を、無為の、合法的行為の無効の日と定めたとか、あるいはまた、ゼウスに誓って — しかしながら、おそらくは時機を失し、もはや手遅れであろう、年老いた男に別の教育をしたり、こういうことを、これ以前の〔初歩的な〕ことさえ知らない者に、教え直すのはね。まさか、これが残りのことで、君がこれを学んだら、君はすべてをわれわれによって知った者になるだろうなんて。とんでもない、おお、君よ。なぜなら、ほかの〔語〕なら、はるかに通常でなかったり、多衆に不明な〔語〕であるかぎりは、知らなくても許されるが、アポプラースばかりは、君が望んでも、他の仕方で云うことはできないだろう。というのは、これはひとつの、あらゆる〔名辞の〕中の唯一の名辞だからだ。

 [14] 結構だ、とひとは謂う、が、古来の名辞のうちでも、あるものは言われ、あるものは、そのなかで多衆に馴染みのないかぎりは、〔言われ〕ないのは、聴衆を混乱させたり、共に在る者たちの耳を傷つけたりしないためだ。ところがぼくは、おお、最善の御仁よ、君に関するがぎりは、君についてそんなことを云ったのはおそらく誤りだった。然り、然り、ぼくは、パプラゴニア人たちとかカッパドキア人たちとかバクトリア人たちとかの父祖伝来の仕来りにしたがって君と対話すべきだったのだ。そうすれば、君は何が言われているかを君は学び取り、君にとって聞くに快よかったろうから。他のヘッラス人たちとは、思うに、ヘッラス語でつきあうべきなのだ。かてて加えて、アッティカ語の多くも、相当な期間の間に、その発音を転換させてきたが、その中にあって特にこの名辞は、常にこのとおりであり続け、彼らのすべての人たちから言われ続けてきた。

 [15] ぼくたちの前にこの名辞を使っていた人たちをもぼくは云ったことだろう。もしも、そういうふうにしても、君を混乱させるはずはないとしたら。詩作者たちや弁論家たちや著作家たちの、君にとって外国語であり〔君の〕知らない名を挙げてね。いや、云った人たちを、何しろ誰でも知っているのだから、ぼくが君に述べるよりも、むしろ、君がぼくに、昔の人たちの中で、この名辞を使ったことのない人を示して、ひとの謂うには、黄金像としてオリュムピアに立つがいい。とはいえ、誰にせよ老人にして高齢の御仁は、こういうことに無知である。アテーナイという都市はアッティカにあり、コリントスはイストモスにあり、スパルテーはペロポンネソスにあるということさえご存知ないとさえぼくには思える。

 [16] 残るはおそらくあのことを、つまり、君はこの名辞を知っているのだが、それの用法の点で非難していると君に言うことだ。では、さあ、この点についても、尤もなことをぼくは君に向かって弁明しよう。そこで君は心を傾注したまえ。何も知らないことが君にとってほとんどまったく気にならないというのでなければ。昔の人たちは、われわれよりも前に、こういった多くの〔非難〕を、君に似た人たちに投げつけたものだ、各々の人たちが当時の人たちを — というのは、当然ながら、当時も、左方の忌々しいやつや、汚れたやつ、性格の性悪なやつはいたのだから — ある者があるやつを「編み上げブーツ(kivqornoV)と云ったのは、その生が胡散臭いのをそういうふうな履き物に譬えたからであり、ある者が「暴れん坊(luvmh)」と〔云ったの〕は、騒々しい弁論家にして、国民総会を混乱させるのが常であったからであり、ある者が「七日目(eJbdovmh)」と〔云ったの〕は、子どもたちのように、七日目ごとに、その者も国民総会でからかい、嘲笑し、民会の真面目事を冗談事にするのが常だったからだ。だからぼくにも、アドーニスにかけて、あらゆる悪といっしょに育った極悪人を、忌まわしく縁起のわるい日に譬えることを君は許すのではないか。

 [17] われわれはといえば、右足の萎えた連中をさえ、とりわけ早朝に連中を見た場合にはとくに、廻り道をする。またひとがキュベレー僧や閹人を見たり、猿が家から直接出て来るのを〔見よう〕ものなら、くるりと向きを変えて引き返すのは、最初の邪悪で縁起のわるい前兆によって、自分にとってその日の行動は善くないことを占うからだ。ましてまる1年の最初には、戸口であろうと、最初の外出時であろうと、早朝であろうと、ひとが稚児や、口にできないことを為たりされたりしている者、それで有名な者、破滅した者、行為そのものの名前でのみ名づけられている者、欺瞞者、ペテン師、偽証者、疫病神、枷にかけられた者、穴坑を見た場合には、逃げ出し、これをアポプラースな日に譬えるのではないか。

 [18] いや、君こそそういう者ではないのか。君は否定する者となないだろう、ぼくが君の男らしさを知っているところでは、少なくとも君はこのことを大いに自慢しているようにぼくには思われる。君の功績の評判は失われることなく、万人に明らかであり、音に聞こえたひとだということを。しかし、そこから撤退し、〔自分は〕そういう者ではないと否定しても、誰に信じてもらえることを君はいうのか。君の同市民たちにか(ここから始めるのが義しいであろうから)。しかし、その人たちは君の最初の暮らしを知っている。つまり、破壊的なあの兵士に君は我が身を引き渡し、万事に仕えて、いっしょに堕落し、ついには君を、これは噂だが、ずたずたに引き裂かれた襤褸に仕立てあげたあげく、追い出したという。[19] さらに、当然のことながら、劇場で粋がり、合唱舞踏隊の脇役を演じながら、団長だと思いなしていたあの点も記憶されている。とにかく、君より先に劇場に入る者は誰もおらず、演目が何かを告げ知らせる者もおらず、君はまったくきちんと、黄金の沓を履き、僭主らしい着物を〔まとい〕、あらかじめ送りこんだ観衆から好意を催促し、彼らからすでに尊敬されているので、花冠を戴き拍手喝采の中を退場する。しかるに今は弁論家にしてソフィストである。だからして、君についてそういうことを聞き及びでもしようものなら、あの人たちは、これは悲劇の〔科白〕だが、「太陽が2つに見える」ように思うのだ、「テーバイもまた2つに」〔エウリピデス『バッカイ』918-9〕。そこで誰でもが咄嗟にすることは、すぐに「あの者はかつての — 、その後の — か」〔ということ〕である。そういう次第で、君自身も善く為してまったく足を踏み入れず、彼らと交流することもなく、自発的に亡命しているのだ。冬辛いわけでも、夏凌ぎがたいわけでもない祖国、フェニキアにあるあらゆる都市の中で最美にして最大の祖国を。なぜなら、昔のあのことを知っている人たちや記憶している人たちに、吟味され、つきあうことは、君にとって真に輪縄になるからだ。そのうえ、ぼくがこんな発言をするのはなぜか。いったい君が恥じ畏れるのは何か。最低のことのうち何を君は恥と考えるのか。聞くところによれば、彼らから大きな所有物が君のものになったという。それはみすぼらしい塔で、シノーペー人の樽が、ゼウスの大広間に匹敵するほどだと。

 いうまでもなく、君が万人のうちで最も忌まわしい者、都市全体に共有の汚辱ではないと、同市民たちを、いかにしても、断じて、君は説得できないだろう。[20] だが、他にシリアの人たちからなら、君が何ら邪悪な生き方をしたことがなく、咎められる生き方もしたことがないと言うなら、君はすぐに賛成票を投じさせられるだろうか。ヘーラクレース〔とんでもない〕! アンティオケイアはといえば、所行そのものをも知っているのだ。タルソスからやって来たあの若者を連れ歩いて — いや、それを暴露することさえぼくには恥ずかしい。しかしながら、よく知られているし、記憶されているのだ、当時君たちの傍にいて、君が膝に腰を据えているのを目にした人たちにね。いったい何をしていたのかというあのことの方は、君が知っている、君がまったくの健忘症でないかぎりは。

 [21] いや、アイギュプトスの人たちは、たぶん、君を知らないだろう。彼らは、シリアでの驚くべき功業の後、ぼくが云った理由で亡命した彼を受け容れた人たちだ。服屋たちによって追及されていたのだ。彼らから高価な衣裳を買って、路銀を得て。しかし、アレクサンドリアは少なからず君の間知者で、ゼウスに誓って、これ〔アレクサンドリア〕がアンティオケイアの次点と審判されるべきでないどころか、放縦はより露骨、かしこでの君の醜行はより気違いじみており、それらに起因する名声はより大きく、あらゆる点において頭は隠れなかったのだ。

 ただひとりの人が、そういったことは何ひとつしでかしたことはないと否定する君を信じ、救援者として立つだろう。最後の雇傭者、ローマの貴族階級の男だ。その名前そもののは、しかもぼくが誰を言っているのか誰もが知っている前では、謂わないことを、君はぼくに許してくれるだろう。さてその人が、交際している間に君によって好き放題されるのを我慢していたかぎりの他のことは、言うべき何があろう。しかし、君が若者の酌人オイノピオーンの両膝の中に横たわっているのを捉まえたとき、君はどう思うか。そういう者ではないと君を信じたであろうか。否だ、まったくのめくらでないかぎりは。それどころか、ただちに意思を明らかにしたのである、屋敷から追い出し、噂では、君の出て行った通路に、浄めをしまわって。[22] もちろん、アカイアとイタリアは全土、君の所行と、それが原因の評判に満たされている。名声を享受なされんことを。その結果として、ぼくとしては、今エペソスで君によって行為されていることを驚嘆する人たちに向かってあのこと言おう。それはまさに最高の真実、君の最初の〔所行〕を知っていたら、驚くことはなかったろうということだ。しかも、当地では新しいことを、つまり、女たちに対することを、君は学び加えたのだ。

 [23] されば、ぼくに云ってくれ、アポプラースと名づけられたのは、こういう御仁にぴったりなのではないのか。それなのに、ゼウスにかけて、あれらの所行がありながら、なおそのうえに口に接吻するようぼくたちに要求するのか。とにかく、それは横暴きわまりない(uJbristovtatoV)ことを君は為しているのだ、とりわけ、決してあってはならない相手に対して。つまり弟子(oJmilhthvV)たちであるが、君の口の諸悪、つまり名辞の非ヘッラス性、声の粗雑さ、不明瞭さ、自堕落、まったくの無旋律性、等々だけを味わうのが充分な者たちにに。これらを根拠に君に接吻するなんて、あってはならないのだよ、おお、厄除けの神様。ヘビとかマムシに接吻する方がまだましだ。そこでの危険は咬まれることと苦痛だが、医者が呼び入れられれば助けてくれる。だが、君の接吻とその毒からは、犠牲とか祭壇に近づける者があろうか。祈る者になお耳を傾けてくれるいかなる神があろうか。いかほどの御手洗場、いかほどの河川が必要であろうか。

 [24] 君自身そういう者でありながら、他の人たちの名辞や言い廻しを嘲笑した。このような〔所行〕、これほどの所行をしでかしながら。実際、ぼくなら、アポプラースを知らなければ大いに恥じるだろう。まして、〔アポプラースという語を〕云いながら否定するなど、〔恥じるのは〕いうまでもない。ところが君ときたら、ぼくたちの誰ひとりとして、brqmolovgoV〔「口汚い」〕とか、tropomavsqlhV〔「口達者なやつ」〕とか、rJhsmetrei:n〔「話の長さを告げる」〕とか、=Aqhniw:〔「アテーナイを慕う」〕とか、ajnqokrate:in〔「花たち=少数精鋭を支配する」〕とか、sfendikivzein〔「投石具で投げる」〕とか、ceiroblima:sqai〔「手で扱う」〕とか言っても、君を咎めだてはしなかった。言葉の神ヘルメースは、悪しき君を、言葉そのもので悪く潰したもうよう。いったい、書物のどこに、これら〔の語〕を見つけ出すのか。たぶん、悲歌の作者の誰かのどこかの隅に、カビと蜘蛛の巣に満たされて埋もれていたか、あるいは、君が手中にしているピライニスの『書板』のどこかから得たのであろう。しかしながら、君と、君の口にあたいするものではない。

 [25] ところで、口に言及したからには、君は何と謂うだろうか、もしも、舌が法廷に君を召喚して — そういうふうにぼくたちが想定するからだが — 不正の廉と、最も控え目に、侮辱(u{briV)の廉で追及し、〔以下のように〕言うならば。「わたしはそなたを、おお、恩知らずよ、貧しく困窮して生活に事欠いているのを引き取って、先ずは劇場で好評を博するようにさせ、今はニーノス、今はメーティオコス、次いで少し後にはアキッレウスに定めてね。その後は、子どもたちに綴り方を教える者として長い間養ってやった。そしてついに、他人の〔言説〕であっても、その言葉〔言説〕を演じて、ソフィストであると思われるようにしてやり、全然不相応な名誉(dovxa)をまとわせてやった。それなのに、こういうふうに、恥ずべき言いつけや唾棄さるべき奉仕を課して、そなたがわたしを扱うのは、告発すべきどれほど大きな容疑を持っているからなのか。わたしの日々の仕事 — 虚言、偽誓、これほどの戯言や無駄話を出しきること、いやむしろ、それらの言説の汚物を吐き出すことでは充分ではなく、夜も、悪霊に憑かれた暇を過ごすことをそなたは許さず、そなたのためにわたしひとりが何でも為し、踏まれ、汚され、そして、舌ではなくて手をこそ使わねばならないかぎりのことを識別した上で、あたかも他人の〔舌〕のように侮辱し(u{brivzein)、これほどの諸悪で浴びせ倒す。わたしの本務はしゃべることだけで、こういったことを為たりされたりすることは、他の部分に指定されている。何とありがたいことでしょう、ピロメーラーの〔舌〕のように、わたしをも切り取ってくれるひとがいたら。実際、わたしにとっては、わが子たちを呑みこんだ〔親〕たちの舌こそもっと浄福ですわ」。

 [26] 神々にかけて、以上のことを、舌が自分で自分の声を獲得し、代言者(sunhvgoroV)として髭に応援を求めて言うとしたら、これに君は何と答えるか。明らかにあれだな、最近、たった今為されたばかりの所行を理由に咎めたグラウコスに向かっても君によって述べられたこと、これのおかげで短期間のうちに素晴らしい者、万人に知られる者となったこと、弁論においてかくも音に聞こえた者になった所以だな。要は、歓愛さるべきは、いかなる手段であれ、有名な名のある者となることだと〔君によって述べられた〕。次いで、君の数多くの綽名、族民ごとに君がつけられた綽名を、彼女〔舌〕に君は列挙することだろう。実際ぼくが驚くのは、アポプラースには不機嫌になるくせに、それらの名前には君が腹を立てないってことだ、[27] シリアでは、+Rododavfnh〔学名Nerium Oleander(セイヨウキョウチクトウ)Dsc.IV-82〕と呼ばれが、その理由たるや、アテーナーに誓って、説明するのが恥ずかしい、したがって、ぼくの力の及ぶかぎりでは、いまだ不明としておこう。パライスティネーではFragmovV〔「柵囲い」〕、髭の棘にちなみ、ぼくが思うに、それが〔伸びる〕途中で突き刺さるからだろう。君はそれをいつも剃っているのだから。アイギュプトスではSunavgch〔扁桃腫瘍〕、これは明白だ。実際、噂では、君は三本帆柱の船乗りような者に行き合うと、すんでのところで窒息しそうになるという。彼が〔恋に〕落ちて、君の口を塞ぐからだ。アテーナイ人たちはといえば、最善者たちであるので、何ら謎めかしたことはせず、1文字を加えることで君をたたえて、=ATIVMARCOVと名づけていた。あの御仁〔ティマルコス〕を凌駕するようなことが君にそなわらなければならなかったからである。イタリアでは、何てこった、あの半神的な〔綽名〕、キュクロープスと添え名されていたのは、かつて、古臭い推敲に加えて、ホメーロスの〔作品〕そのものを基に、君も卑猥な吟誦をすることを熱望したことがあるからだ。そしてご本尊、やちたがりのポリュペーモスはすっかり酩酊して、手にキヅタの酒杯を持して横たわり、傭われた若者が、まっすぐな棒杭を持して、すっかりその気になって、オデュッセウスなる者として、君に向かって、目ん玉を抉りださんものと、向かってきた。

すると彼の者狙いそこねて、槍は傍へと外れ、
穂先は顎の底のわきから外へ突き出たり。

(もちろん、君のために言う者が馬鹿話をするのは何ら奇妙なことではない)。君はキュクロープスとして、口を押っ広げ、できるかぎりあんぐりと開けたまま、やつに盲目となって、顎を保った、というよりも、カリュブディスのように、船乗りたちそのものも舵も帆ももろとも、ウゥティスを丸呑みすべく求めつづけた。他に居合わせた人たちも、これを目撃していた。次いで、翌る日、君にとってひとつの言い訳は酩酊であり、〔割らない〕生(き)の〔酒〕に庇護を求めたのだ。

 [28] まさしくこのような、これほどの名前に富んでいるからこそ、君はアポプラースを恥じるのか? 神々にかけて、ぼくに云ってくれたまえ、多衆があのことをも言えば、つまり、君をレスボス女の流儀で扱ったり、フェニキア人の流儀で扱ったら、君はどんな気になるか。はたして、これらをも、アポプラースと同様に知らず、彼らから称賛されているとでも君は思うのだろうか。それとも、これらのことは習慣的に知っているが、アポプラースのみは知らないので、軽蔑し、名辞の登録簿から締め出すのか。そういう次第で、ぼくたちを非難する償いのようなことをしておらず、君は女部屋にまでも音に聞こえた者なのだ。例えば、ごく最近、キュジコスで大胆にも求婚したおり、万事をよくよく心得たかの最善者の女性が、「許しませんわ」と謂った、「本人までが夫を必要とする男なんて」。

 [29] すると、そういう事情にあるので、君には名辞が気になり、嘲笑し、他の人たちを唾棄するのは、尤もなことだ。なぜなら、ぼくたちは皆、君と等しいことは言えないからだ。ばかな。3人の姦通者を相手に、剣の代わりに三叉鉾を要求するような、そんな向こう見ずな者が誰かいようか。尤も、テオポムポスはといえば、『トリカラノス』を判定して、彼は三叉鉤のついた言葉で、首都が攻略されたと謂われるとのことだが。さらにまた、彼はヘッラスに三叉鉾を揮い、弁論におけるケルベロスだと〔謂われるとのことだが〕。というのは、ごく最近、君がランタンさえ点けて一種の兄弟を探したのは、思うに、彼〔兄弟〕が迷っていたからなのだ。他にも無量の事柄は、言及にも値しないが、聞いている人たちが想い出したあのことだけは別である。思うに、ある富裕者と、2人の貧乏人たちが敵同士であった。次いで、〔話の〕中ほどで、富裕者について言う、「彼は殺した」と君は謂う、「貧乏人たちのもうひとりを〔to;n e{teronではなく〕(qavtwron)」と。すると、尤もなことであるが、居合わせた人たちが笑ったので、君はすぐ訂正して、誤りを打ち明けて、「そうではなく」と君は謂う、「彼らのひとりを(a{teron)殺した」と。古いことは放置しよう。3ヵ月の間に〔こういう二重表現〕が、〔〔nhnrmiva(無風)の代わりに〕ajnhnemiva、〔pevtomai(わたしは飛ぶ)の代わりに〕pevtamai、〔ejkcei:n(注ぐ)の代わりに〕ejkcuvein、他にも美しい〔言い廻しの〕数々が、君の弁論に花を添えているのだ。

 [30] 貧しさに駆り立てられて君が為す事どもを、愛しのアドラステイアよ、ぼくはある〔ひとつの〕ことで悪罵しているのではない。例えば、ひとが同市民の男から委託金を受け取りながら、次いで、飢えに迫られて、何も受け取っていないと偽証したり、あるいは、ひとが恥知らずに要求、というよりむしろ強請んだり、着物剥ぎしたり、取税人になったりすることは容赦できる。ぼくが言っているのはそういうことではない。というのは、あらゆる手段を尽くして窮状を自衛することにいかなる嫉妬もないからだ。しかしあのことだけはもはや我慢ならない、〔つまり〕貧乏人のくせに、君が、恥知らずさから得た儲けを、そういう快楽のみに注ぎこんでいることだ。ただし、少なくともひとつのことでは、称賛してもぼくを許してくれるだろう、きわめて雅やかに君によって為し遂げられたことを。〔つまり〕『ティシアスの手引き書』を、それが縁起のわるいカラスの作品だということを君は知っていたのだが、自分でつくり、あのばかな老人から金貨30枚を巻き上げた。その〔老人〕としては、ティシアス〔という名〕にまるめこまれて、750ドラクマを払ったのだ。

 [31] 云うべきことがなお多数あるものの、他のことはすすんで〔云うのは〕君のためにやめておくが、ただあのことだけは付言しておこう、〔すなわち〕それらは、君の好きなように為し、こういったことに自分を溺れさせることをやめるな、しかしあのことだけはもはや〔やめよ〕。失せやがれ。同じふるまいをする連中を同じ竈に呼び、灌奠の儀式を執行し、同じ食い物に接するのは神法に悖ることである。いや、あのこともあってはならないことだ。弁論の後の接吻、それも、ずっと以前からでなく、君とアポプラースな関係になった者たちに対して、口〔づけ〕など、もってのほかだ。そして、いったん親愛なる忠告を始めたからには、あのことも、もしよければ、取りやめるがよい。白髪に香を塗ることや、あの箇所のみを脱毛することだ。というのは、もし何らかの病がさしせまったのなら、身体全体が手当てされなければならないが、そういうふうな病に何もかかっていないのなら、見られるはずもないところが奇麗に、滑らかに、脱毛されたところに仕立てあげられることが、どうして君にとって望ましいのか。そこは君にとって唯一知的なところで、白髪はもはや黒くなることもなく、それゆえ忌まわしさの覆いであろう。その点でも、ゼウスにかけて、それらをこそ惜しみたまえ、とりわけを髭そのものを。もはや汚してもいけない、侮辱して(u{brivzein)もいけない。さもなければ、少なくとも夜間、闇にまぎれてしたまえ。昼ひなかするなんて、ばかな、まったくの野蛮で獣じみたことだ。

 [32] 君には見えるね、カマリナは不動のままにしておき、アポプラースも、君の人生全体をアポプラースなものに仕上げかねないので、そのままにしておくことが君にとってどれほどいいことか。それとも、まだ何か付け加えるものがあるか。ぼくに関するかぎり、足らざるところは何もないだろう。とにかく、君はまだ知らないらしい、荷車まる一台分の荷を引き下ろしたということを。おお、細心なケツネよ、もじゃもじゃの、これこそ古い〔言い廻し〕だが、黒尻の男が、鋭く君を見つめただけで、ぺこぺこしなければならんくせに。おそらくは「細心」とか「ケツネ」とか、これらさえ君は嘲笑するのだろう、まるで何か謎や判じ物を聞いたかのように。それというのは、君の所行の名称が君には分からないからなのだ。おかげで、今や、これら〔の言い廻し〕をも中傷する機会がやって来たわけだ。アポプラースが三度、四度と、君のために完済しないならば。とにかく、あらゆる点で君自身を咎めたまえ。なぜなら、美しきエウリピデースが言い慣わしていたとおり、轡のない口と慎みのなさ(ajfrosuvnh)と無分別(ajnomiva)との行き着く先は不幸(dustuciva) 、なのだから。

2012.07.07. 訳了。

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