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偽ルゥキアーノス作品集成

恋する者たち

!ErwteV
(Amores)




[解説]

 『恋する者たち(!ErwteV)』は、『肖像(EijkovneV)』c.4に明らかな言及があるにもかかわらず、この対話の文体から、作者はルゥキアーノスではなく、模作であることは明白である。執筆年代は不確かだが、c.7にリュキアの諸都市の衰微した様子が言及されていることから、おそらくは、ゴートやSaporの侵入後間もなく、紀元後3世紀最後の1/4よりそれほど早くない時期であろう。他方、ロードスはまだ繁栄していたようだが、紀元後4世紀の半ばに地震に見舞われ、ユスティニアヌス法典1.40.6が、385 A.D.にその栄華が失われたことを示唆していることをわれわれは知っている。したがって、この対話の最もありそうな時期は、紀元後4世紀初めである。

 わたし〔Macleod〕は、Harmonの魅力的な題名「Affairs of the Heart」を採用したが、これは誤解を与えやすく、もっと的確な訳は「愛の二相」であろう。ギリシア人における同性愛と異性愛の諸相の解説は、『古代ギリシアの愛の諸相』(R. Flacelière著。J. Cleughによってフランス語から訳された)を見よ。

 この対話の文学的先例は、プラトンの『パイドロス』と『リュシス』、クセノポンの『酒宴』――これらはみな一般に愛について議論している――、またプルタルコスの『愛についての対話』(Moralia, vol. ix, L.C.L.)にある。750 ff.の、夫婦愛の擁護者ダプナエウスと、少年愛の唱道者プロトゲネスとの議論――は、『恋する者たち』の特別な主題を先取りしている。しかし注目すべきは、プルタルコスにおいては、夫婦愛が勝利を宣せられているのに、〔『恋する者たち』〕c.51のリュキノスは、気のきいた言い廻しで、少年愛に好意的な判定を下していることである。

 Achilles Tatius 2. 35-38もまた、女性に対する愛と少年に対する愛との利点を比較して議論している点で、この対話といくらか似ている。Achilles Tatiusの小説の最も遅い時期は紀元後300年ころであり、くだんの小説はそれよりかなり早期のものであるから、『恋する者たち』は2つの作品よりも後であり、これの作者はAchilles Tatiusからいくつかの発想を採用したのであろう。

 この対話篇の最善の研究は、R. Bloch(Strasburg, 1907)による。

(M. D. Macleod)



[出典]

内田次信訳「異性愛と少年愛」(叢書アレクサンドリア図書館8『ルゥキアーノス選集』所収、p.371-413)




"t".1
恋する者たち

1.1
リュキノス
 わが友テオムネストスよ、きみは、真面目な話に接し続けて疲れ切ったこの耳に、性愛に関する戯れ言を早朝からたっぷり聞かせてくれた。そのような寛ぎを渇望していた僕に、きみの愉快な楽しい話はお誂えむきだった。人の心は、張りつめてことを行い続けるのには力弱く、誉れを求めて働くときでも、心にのしかかる懸案からしばし解放されて、快楽の気散じに憩いを得ようとするものだからね。本当に、きみが明け方してくれた淫らな話は、蕩かすように甘く心を引きつけて喜ばせてくれたから、僕は自分が、ミレトス風小咄に心を奪われているアリステイデスのように思えたくらいだった。それで、愛神の弓矢に対してかくも大きな的であることがわかったきみの恋愛体験の数々にかけて誓うが、きみが話を止めてしまったことが僕にはとても残念なのだ。僕がたわごとをいっているように思えるのなら、アブロディテ自身の名にかけてお願いすることにしよう。もしも男との愛であれ、女を相手のそれであれ、きみが言い残した話があったなら、少しずつでも思い出してほしい。それに今日はヘラクレス祭の供犠を行う祝日だ。この神が、アブロディテの業[色事]に関してどれほど熱心であったかは、きみもよく知っているはず。だから、こういう話を供物にすれば、 きっと嘉納なさると思う。

1.20
テオムネストス
2.1
海の波や、空から降りしきる雪片を数えるほうが、リュキノスよ、僕のこれまでの恋愛沙汰を数え上げるより早いくらいだろう。じつさい、エロスたちのやなぐいは、すっかり空になっていると思うね。だから、他のものを狙って飛んで行く気になっても、右手に矢がないので馬鹿にされるのが落ちだろうさ。少年期を脱して青年のうちに数えられるようになったほとんどそのときから僕は、次々に起こる欲情に惑わされ続けてきたのだ。愛欲に愛欲が踵を接し、前のがおさまらないうちに新しいのが始まるという調子で、まさしくレルネの蛇頭、いや再生する怪物ヒュドラより多数の頭が絡み合った化け物で、おまけにイオラオスに助力を仰ぐこともできない、火を火で消すわけにはいかないからね。それほどにはしこい虻が僕の目のなかに住みついて、美形と見れば手当たり次第に取りつくのだが、ただのひとりにも満足して留まるということがない。それで僕は、いったいこれはアプロディテのどんな怒りのせいなのだろうかと、いつも不審に思っているのだ。僕は太陽神の子孫でもなければ、レムノスの女たちのように、思い上がった覚えもない。またヒッポリュトスのように無礼を働いたこともない。これほどに女神の絶え間ない怒りを引き起こす原因は僕にはないはずなのだがね。

2.18
リュキノス
3.1
そのような見せかけの、不愉快な偽善ぶりはよしてくれたまえ、テオムネストス。運命がきみにこのような人生を割り当てたことを、きみは苦痛に思うのだって? 見目麗しい女たち や、美を花咲かせている少年たちと交わることが、きみには辛く思われるのだって? まあ、これほどに忌まわしい病いを癒すためには下剤も必要だ、ということになるのかな? よほど重症のようだからね。しかし、そのように馬鹿げたたわごとは止め、自分を果報者と考えたらどうだい。なんといっても神は、きみにむさくるしい百姓仕事も、旅商人の放浪も、武具を負った兵士の生活も割り振ることはしなかった。きみの関心事はむしろ、光輝く体育場や、贅美を凝らした華やかな衣裳や、人目を引く髪形の手入れ、といったことなのだからね。恋情につきものの苦悩自体がきみを喜ばせ、思慕の牙のごとき苛みも快く感じられる。口説くときには希望があり、望みを達したときには満足がある。来たらんとする快楽は、すでに得たものに劣らないからだ。少なくとも、先ほどきみが自分の恋愛体験をそもそもの初めから、ヘシオドスの作のように、次々と列挙していったときのきみの目は、愉悦にあふれて今にもとろけそうに潤んでいたし、声は上品に優しい響きを帯びて、リュカンベスの娘のそれにも引けを取らぬほどだった。それで、きみのそういう様子からだけでも、きみがそれら恋人たちのみならず、彼らにまつわる記憶をも愛していることがすぐわかったよ。
 それはともかく、きみがアブロディテの大海を周航して得た体験で、まだ言い残していることがあれば、何事も隠し立てをせず、ヘラクレスに捧げる供物を完全なものにしてくれたまえ。

3.26
テオムネストス
4.1
この神は牛を食らうお方で、香ばしい煙を出さない供物は少しもお喜びにならないというじゃないか。それでも、彼の一年ぶりの祭りを言葉で祝おうということならば、僕の話は明け方から続いてもう沢山だから、きみのムーサに、普段の真面目さは横に置いて、この神と一日愉快に過ごしてもらうことにしようではないか。そして、きみがどちらの情熱にも偏っていないことを僕は知っているから、少年を愛する者と女性を好む者とどちらが優れていると思えるか、公正な判定者になってほしいのだ。僕はどちらにも心を奪われて、正確な秤のように両方の秤皿が釣り合い、どっちつかずの状態にあるのだが、どちらにも束縛されないきみのほうは、理性を買収されざる判定者として用い、より良いほうを選ぶに違いない。さあわが友よ、もったいぶるのは一切やめ、僕の二種の恋愛感情について判定を下し、評決を明らかにしてくれ。

4.16
リュキノス
5.1
きみは、僕の語るべき話が、戯れの笑い事だと思っているのかい、テオムネストス? ところがこの話には、真面目に考えさせる面もあるのだ。場の成り行きでこの試みを引き受けたが、それはかつて二人の男がこのことで激しく言い争うのを聞いたときの記憶をいつも思い出す僕は、これがけっして戯れごとではないことを理解しているからなのだ。二人の情熱の種類は、その主張同様、まったく別々で、きみが安易な心から両方の果実を、

ときに牛を、ときに白い羊を放牧しながら〔Od. X, 85〕

寝る暇も惜しんで味わっているのとは異なり、一方が少年をことのほか愛して女性との色恋を奈落〔極悪人の刑場〕とみなせば、他方は男性との交わりから身を清く保ち、婦人に夢中になっていた。二種の情熱が戦う争いの裁定役を引き受けた僕は、言いようもない楽しい思いを味わうことができた。論争の一部始終は僕の耳にしっかりと刻み込まれ、今聞いたばかりのようにも感じられる。だから、ご免こうむるということわりは一切やめ、二人から聞いたことをきみに正確に話してあげよう。

5.18
テオムネストス
では僕は、ここから立ち上がってきみの真向かいに座り、

アイアコスの裔〔アキレウス〕が歌い終わるのを待ち受ける〔Il. IX, 191〕

ということにしよう。そしてきみは、愛をめぐる論争の「いにしえの物語」を歌って聞かせてくれたまえ。

5.23
リュキノス
6.1
僕がイタリアヘ早船で行こうとしていたところ、イオニア湾沿いに住むリビュルノイ人がよく使うというあの二段櫂船が手配できた。それで僕にできるかぎりの礼を土地の神々すべて に尽くし、国を離れるこの旅立ちに天祐を垂れたもうよう客人の守護神ゼウスに祈ってから、一対の騾馬に車を引かせ町から海へ下っていった。若者の一団がいつまでも従いてきて、われわれに絶えず話しかけては別離を辛そうにしていたのだが、そういう見送りの者たちと今は別れを告げて艫に乗りこみ、舵取りの近くに腰を下ろした。漕ぎ手がすぐに櫂を操り、船を岸から離した。すると後方から風がたっぷり吹いてきたので、帆柱を中孔にはめ込み、檣頭に帆桁を取りつけた。そして脚索に沿って帆を全部拡げると風がそれをおもむろに満たした。舳先が海面を切り進み、波が低く轟くなか、飛失にも劣らぬくらいの勢いで船は走っていった。

7.1
 沿岸航海をする途中で、真面目なことにせよ戯れごとにせよ、起きたことを詳しく語るのは今はふさわしくない。キリキアの海岸を通過してバンビュリア湾に達したわれわれは、かつてのギリシアの繁栄せる境界をなしていたケリドネアイ諸島の沖合を苦労して走り過ぎ、リュキアの町のひとつひとつに立ち寄っては、栄華の痕跡がまったく見られないので、もっぱら土地の話を聞かせてもらって楽しんだ。そうこうして太陽神の島ロドスに着いたわれわれは、続けてきた航海をしばらく休止することにしたのだった。

8.1
 漕ぎ手は船を岸に引き上げ、かたわらにテントを張ったが、僕のほうは、ディオニュソス神殿の真向かいに宿を取ると、そこらを漫然と歩き回り、大きな喜びを味わった。太陽神にふさわしい美しさを備えたこの町は、真にこの神のものだといえた。それから、ディオニュソス神殿の柱廊を巡りながら絵画をひとつひとつ眺めて目を楽しませると同時に、英雄たちの物語を改めて思い起こした。つまり、数人がすぐに駆け寄ってきて、わずかな謝礼の代わりにどの物語にも説明を加えてくれたからなのだが、多くはまた、僕自身ですでに見当は付いていたのだ。

9.1
 さてもう鑑賞にも堪能し、宿へ帰ろうと思っていたとき、異国でいちばんうれしがらせてくれる出来事が起きた。昔からのなじみの友たちと遭遇したというわけだ。きみも、こちらでよくわれわれの許を訪ねてくる彼らを見かけているから、知らない人たちではないと思う。ひとりはコリントス出身のカリクレス。なかなかの美青年で、おまけに少し化粧までしているのは、女性の気をそれだけ引きつけようというつもりなのだろう。いっしょにいたのがアテナイ人カリクラティダス。ざっくばらんな性格で、政治論壇でも、われわれになじみの深い法廷弁論でも、指導者的な人物だ。彼はまた肉体鍛練にも熱心で、体育場を愛していたが、それは他でもない少年愛好のせいだったろう。これに心底から熱中する一方、女性への憎しみのあまり、プロメテウスをしばしば呪うほどだった。

 二人は、僕を見つけると、喜色満面で走ってきた。そして挨拶を交わすと、よくあるように、めいめいが自分の家へ来て欲しいと言い張った。彼らがいつまでも争いを止めないのを見て僕は、「今日のところは、」と口を出した、「カリクラティダスとカリクレスよ、これ以上喧嘩をしないよう、二人とも僕の宿へ来てくれるのがよい。しかし明日からは、僕の滞在は三、四日は続くから、きみたちが交代で返礼のもてなしをしてくれたまえ。どちらが先にするかはクジで決めよう」。

10.1
 二人は同意した。そしてその日は僕が主人となり、次の日はカリクラティダスが、その翌日はカリクレスがもてなしてくれた。歓待を受けているあいだも、めいめいの好みははっきり見てとれた。アテナイ人のほうは美形の少年たちを取り巻きにしているのだが、どの召使もほとんど額を生やしていない。にこ毛が顔に現れる頃までは側に留まれるが、両頬がそれで覆われてくると、各地の執事役やアテナイの地所の管理人にするべく送り出されてしまうのだった。10.10他方カリクレスには、多数の踊り子や歌い女からなる歌舞団が付き従い、家じゅうがテスモボリア祭をしているかのように女たちで満ちあふれ、男はというと、妬みと猿疑を引き起こす年齢にはない幼児や料理役老人が見受けられる程度だった。これらの点が、両者の気質の違いをよく表わしていた。二人はなにかというと小競り合いを起こし、その議論は決着を見ることがなかった。
 しかしもう船を出す頃合いになったので、同船を望む二人を連れてゆくことにした。彼らも、僕と同様、イタリアへ航海しようと考えていたのだ。

11.1
 アプロディテの神殿、プラクシテレスの巧みな技によるその真に魅惑的な美しさを称えられる作品を収めるあの建物も見ておこうと決まり、クニドスに投錨することにしたわれわれが静かに岸づけできたのは、女神自身が滑らかな凪を現出させ船を導いてくれたからだと思う。
 他のものたちはいつも通りの準備のあれこれに取りかかったが、僕は色好みの二人を両脇に同行させながらクニドスを歩き回り、アブロディテの町にいるのだから淫奔な陶器〔の絵〕をいろいろ見物して大いに興がった。それからソストラトス作の柱廊やその他の楽しむに足る場所を見て回ってから、アブロディテの神殿へ赴いた。僕とカリクレスの二人はいそいそと足を運んだのだが、カリクラティダスのほうは女神を見にゆくというので不承不承だった。きっと、クニドスのアブロディテの代わりにテスピアイ〔エロスの聖地〕のエロスだったら喜んだんだろうね。

12.1
 近づいたとたん、ちょうど神殿のほうから、アプロディテにふさわしい豊饒なそよ風がそれとなしに流れてきた。そこの中庭は、地面を滑らかな舗石で敷き詰めて草木の成育を阻む、ということはしていない。アブロディテの神域らしく一面に栽培植物が育っていて、よく繁った枝葉を遠くまで伸ばし、回りの空間を覆っているのだ。しかしとりわけ繁茂していたのは、実をいっぱい付けながら主人〔女神〕のかたわらで密生するギンバイカ〔その神木〕 や、美に恵まれたその他の木々だった、これらはもう年を経ているにもかかわらず、色褪せたり枯れたりせずに活力を保ち、若枝を大きく拡げて盛んだった。これらに交じっていたのが、多果というわけではないが、美しい実を付ける木々で、空にそびえ立つ糸杉やプラタナス、そして昔アブロディテから逃避したあのダブネだった。すべての木には好色な木づたが蔓を伸ばし巻き付いていた。葡萄の木は、一円に枝を拡げ、びっしり成った房を垂らしていた。アブロディテは、ディオニュソスといっしょになって互いに混じっているほうがそれだけ喜ばしく、甘美である。別々だと楽しみはそれだけ少ない。これらのなかでもとくに、飲み食いする者のための楽しげな寝椅子が影深い林のなかにいくつか置いてあって、上品なひとびとはそこにはめったにやって来ないのだが、巷の大衆は祭日には挙って集まってきて、本当にアブロディテの業を行うのである。

13.1
 庭木の観賞を十分に楽しんだわれわれは、神殿のなかへ入っていった。女神は中央に鎮座している。パロスの大理石を使ったたいへん美しいその作品は、軽く笑った驕慢な表情を見せている。衣服は少しも纏っていず、その美しさが裸形のなかで露わになっているが、恥部だけは一方の手でそっと覆っていた。力量あふれる作者は、あれほど硬く手強い質の石材を、女神の手足の一本一本に似つかわしく加工していた。
 カリクレスは、気が狂ったような途方もない声を張り上げ、「アレスは幸せなお方だ!」と叫んだ、「この女神のせいで鎖につながれたとは!」〔Od. VIII, 267〕同時に女神に駆け寄り、できるかぎり首を伸ばして唇をしっこく押し当て、何度も口付けした。だがカリクラティダスのほうは、無言のままかたわらに立ち、心のなかで感心しているだけであった。
 ところで神殿には、女神を背後から詳しく鑑賞したいという者のために、両側に入口が設けられており、嘆賞できない箇所はなにもないようにしてあった、もう一方から入って、女神の後ろ姿の美しさをも容易に眺められるというわけであった。

14.1
 そこで、女神の全体を見ようと決まり、神域の裏側に回った。鍵の保管役の女性が扉を開けたとき、われわれはたちまち女神の美への驚嘆の思いに捉われた。じつさいアテナイ人は、つい先ほどは静かに見ていたのに、女神の体で少年を思わせる部分を目にするや、突然カリクレスのときよりも大きな声で叫んだ。「ヘラクレスよ、この背中の均整のよさはどうだ! 横腹はなんと豊かで抱擁のしがいがあることか! また臀部の肉付きが、痩せて骨そのものにへばり付きもせず、さりとて大きな脂肪の塊に盛り上がりもせず、きれいな曲線を描いている様子はどうだ! そして腿の付け根の二箇所に印されたくぼみがどれほど甘美に微笑んでいるか、だれにも言い表わせないだろう。腿とすねとが真直に足先まで伸びている姿は、正確に均整が取れている。すると天上のガニュメデスもこのような美しさでゼウスにネクタルを注ぎ、その味をそれだけ甘美にしているのだ――ヘベ〔ヘラクレスの天上での妻〕からは、たとえ給仕をされても、僕はけっして飲み物を受け取らないがね。」
 ものに取りつかれたようにこう喚くカリクラティダスのかたわらで、カリクレスは驚嘆のあまりほとんど硬直の態であった。目からとろけるように溢れ落ちる涙だけが、その感動ぶりを物語っていた。

15.1
 嘆賞にもようやく飽きたわれわれは、女神の一方の腿の上に、衣服のしみのような汚れを認めた。石像の他の部分の輝かしさが、醜いこの箇所を詰(なじ)っているようであった。僕はもっともらしい推測を立て、石材にはじめから欠陥があったのだろうと考えた。これほどのものでも災厄は免れえず、最高の実に達しうるものも偶然によってしばしば邪魔をされるものである。だから僕は、元々あった染みが黒ずんで見えるのだろうと思い、プラクシテレスが、石の見苦しい箇所をあまり点検されずにすむ部分に隠したことに感心したのだった。ところが、われわれの横にいた神殿守りが、信じがたい奇妙な話をしてくれたのである。彼女のいうところでは、ある生まれ卑しからぬ青年が――その行いのゆえに名は伏せられている――しばしば神域を訪れるうちに、不幸にも女神に恋をしてしまったという。そしてひねもす境内で時を過ごすようになったのだが、初めのうちは神を畏れ敬う敬虔な若者と思われていた。というのは、朝まだき、日も昇らぬうちからベッドを抜け出すと神域に足を運び、日が落ちてから不承不承家路につくという生活を続けつつ、境内では終日女神の前に座って、その上から片時も視線を離そうとしなかったのである。しかし実は彼の口からは、不明瞭なささやきが何度ももらされ、ひそやかな声ながら恋するものの恨みごとがしきりに繰り返されていたのである。

16.1
 自分の苦悩を少しでも紛らしたいと思うときには、まず女神に呼びかけてから、リビアのカモシカの趾骨を四つ数え、さいころとして机上に置いたうえで願いごとを占った。そしてよい目を振ったときには、とりわけ女神自身を運よく出して〔アブロディテと称される目の出し方になって〕どの賽も異なった数になったときには、願望がかなえられると考えて女神の足元にひれ伏し口付けした。しかし、しばしばそうであったように、机上の目が思わしくなく、むしろ不運な成り行きを告げる形になったときは、全クニドスに呪いをかけて、絶望的な災いに見舞われたかの如く意気消沈する。しかしすぐにまた賽を掴んで投じ直し、前の不首尾を取り返そうとするのであった。そうこうするうち、彼の情熱はますます昂じて、壁という壁には彼の熱い思いが刻み込まれ、柔らかい樹皮はどれも「美しいアブロディテ」を触れ回っていた。プラクシテレスはゼウスと同じほどに敬われ、家に所蔵されていた宝はすべて女神への献納物にされた。とうとう彼のあまりにも思い詰めた熱情は自暴自棄の状態になり、大胆さが欲望の取り持ち役を務めるに至った。日が沈みかけた頃彼は回りの者の目を盗んで扉の後ろにそっと忍び入り、いちばん奥まったところに身を隠して、ほとんど息もせずに鳴りをひそめた。そしていつものように神殿守りが戸を外から鎖したとき、この新しいアンキセス〔アブロディテの夫〕は内部に閉じ込められたのである。「語るに耐えないその夜の無謀な振舞の一々を、このわたしが喋々とみなさんにお話しすることもないでしょう。次の日になつて、愛欲に駆られたこれらの抱擁の痕跡が発見され、どのような仕打ちを受けたかをありありと示す染みの箇所が女神の体に認められたのです。しかし若者自身のほうは、伝えられるところによると、岩壁から身を投げたとも、海中に飛び込んだとも言われ、杏として跡を留めなかったということです。」

17.1
 神殿守りがこのように語りも終わらぬうちにカリクレスが叫んだ。「では女性は、石像であっても愛されるということだ! しかしこれほどに美しいものがもし生きていたとしたら、いったいどうなっていただろう? きっと愛の一夜は、ゼウスの王笏と同じくらい尊いものに思われたに違いない!」
 するとカリクラティダスが微笑を浮かべ、「いやまだわからないよ、」といった、「テスピアイに行ったら、このような話をいっぱい聞かせてもらえるかもしれないからね。今でも、きみが熟を上げているアプロディテがどんな扱いを受けたか、このように明らかな証拠があるじゃないか」。
 「どんな?」と尋ねるカリクレスにカリクラティダスが、僕にはじゅうぶん説得力があると思える答えをしていうには、例の恋する若者は、一晩の時を丸々与えられて、自分の願望をどのようにも満足させられた機会に、少年愛の仕方で石像と交わった、きっとその前面は女性たらざらんことを願いながらそうしたに違いない、と。
 二人が決着のつかない議論を、互いに吠えかかるように続けてやめないので、混乱した騒ぎを押しとどめて僕は、「わが友たちよ、」といった、「学問の掟は品位を尊ぶのだから、秩序ある探求の仕方を守ってくれたまえ。この紛糾した果てのない言い争いはもうやめて、きみたちのめいめいが、代わるがわる自分の意見を鋭意弁じるということにしたらよい。まだ船に戻るまで暇があるし、空き時間というものは、楽しみながら為にもなるという愉快な活動に当てるべきなのだからね。だから、神殿には信心深い参拝客が多いので外に出ることにし、あの酒宴用の場所に入りこんで、どんなことでも静かに聞いたり話したりすることができるようにしよう。そして、よく覚えておいて欲しいのだが、きょう敗れたものは二度と同じことでわれわれを悩ませない、ということにしてくれたまえ」。

18.1
 この提案が同意されたので、われわれは外に行った。なにも心に懸かることがない僕はうきうきしていたが、二人のほうは、プラタイアの祭りの行列で先導役を争い合うかのように、心中あれこれと考えを巡らしていた。枝に覆われてほの暗く、夏の暑気を避けるのにふさわしい休息所に着くと、「ここは快適だ、」と僕はいった、「梢で蝉たちが鋭い鳴き声を上げてもいるし」。そして、いかにも裁判官らしい様子で、他ならぬヘリアイア法廷の厳粛さを眉に浮かべながら僕は真中に座った。それから、どちらが先に話すべきか決めるべく籤を両者に差し出し、カリクレスが優先権を引き当てたので、すぐに話を始めるよう命じた。

19.1
 彼は右手で顔をそっとさすり、しばし間を置いてから、このように口を切った。
 「女神よ、あなたのために弁じようとするわたしの話を援助してくださるようお祈りし呼びかけます、アブロディテさま。なぜならどの行いも、あなたに固有の説得力がたとえわずかでもあなたから注がれたときにはじめて完全なものになるのですが、愛に関する話は、あなたを真の母とするがゆえに、とりわけあなたの力を必要とするわけですから。さあ、女神としてどうぞ女性の弁護をすべくお出ましください。しかし男たちにもまた、生まれた通りに、男のままでいることをお恵み下さいますように。
 では始めるに当たり、僕の主張の正しさを証言してくれるよう、最初の母であり、あらゆる生成の根源である存在に呼びかけることにする。僕のいうのは、すべての事物を生んだ聖なる自然のことである。それは初めに土、空気、火、水という宇宙の元素を作り出し、お互いを混ぜ合わせることによって、なべての魂あるものを生み出した。そして、われわれが死すべき素材による製作物であり、おのおのがわずかのあいだしか生きられない定めにあることを知る彼女は、ひとつの滅亡が他の生成となるよう工夫を凝らし、死の代替に生をあてがって、われわれが世代継承を通じて永遠に生きられるようにした。ところが、ただひとつのものからなにかが生まれることは不可能なので、めいめいの種類に二重の性を設けたのである。すなわち彼女は、男たちには彼ら自身の種を射出することを認める一方、女性はいわば生の受け皿と定め、共通の憧れを両者に混入して互いを交わらしめたのである。その際、聖なる必然の掟として、めいめいが自分固有の本性に留まるべしとなし、女性がそれにもと って男性的になることも、男性が不相応に柔弱になることもないように命じた。このお陰で、男性の女性との交わりは、不死なる継承を通じて、今日に至るまで人間の生命を保存してきたのである。大胆にも自分が男から生まれたと主張する男はだれもいない。ひとびとは、父と母とを同等に崇めながら、この二つの厳かな名称にあらゆる尊敬を払ってきたのである。

20.1
 さて、初めのうちは生は、いまだ英雄的な心性を抱きつつ、徳を神々の隣人として敬いながら、自然の定めた掟に服従していた。そしてふさわしい年頃に女性と交わりながら、生まれ正しい子供たちの親になったのである。しかし時代は少しずつそのような偉大さから快楽の奈落へと堕落してゆき、常軌を逸した異様な享楽の道を拓き始めた。それから、どんなことも手掛けずには済まない放縦は、とうとう自然そのものの法に背いてしまった。いったいだれが最初に、暴君的に無理強いしたにせよ、破廉恥に言いくるめたにせよ、男性を女性と見たのであろうか。同じひとつの性が同じしとねをともにし、自分自身をお互いのうちに認めながら、すること為されることを恥じもせず、いわゆる 「不毛の岩地に種まきをする」所業をして、わずかの快楽の代わりに大いなる不名誉を得たのである。

21.1
 ある者たちに至っては、大胆さのあまり、暴君的に鉄の刃を振るい、自然に村し聖物窃盗を犯すまでになった。すなわち男たちから男性を切除することにより、快楽を味わう期間を引き伸ばせることを見いだしたわけである。しかし、惨めで不幸な相手のほうは、より長く少年でいるという目的のために、もはや男でいることはなくなり、二様の本性の両義的な謎となって、生まれついた側の特性を保つこともなければ、転換した側のそれを所持することもかなわない。そして、青年期にまで残存する少年美の華は、彼らを年より早く老衰させることとなる。すなわち、少年のあいだに数えられていたその次の瞬間には、中間の壮年期を飛ばして、年寄りになってしまうのである。このようにして、あらゆる悪を教唆する汚らわしい放縦は、次から次へと恥知らずな快楽を考案してゆき、最後には、どんな淫蕩も知らずに済ましたくないとばかりに、品位をもって口にすることさえできないような病いにまで堕落してしまったのだ。

22.1
 もしわれわれのひとりひとりが、摂理により定められた掟に留まっていたならば、われわれはきっと女性との交わりに満足し、あらゆる恥辱から生活を清らかに保っていたことだろう。いうまでもなく、邪な心からなにか道を踏み外す、ということのあり得ない動物においては、自然の法は汚されぬまま保たれている。雄獅子が雄獅子に熟を上げることはなく、アブロディテが、頃合いを見計らって、彼らの欲望を雌へと向かわせる。群れを率いる雄牛は雌牛と交尾し、雄羊は雌の一団を男性の種で満たす。さらにどうだろうか。雄猪は雌と寝ることを求め、雄狼も雌狼と交わるのではないか。要するに、空を飛び行く鳥にしても、水中を居場所に得たものたちにしても、さらに陸上の動物にしても、どれひとつ雄との交わりを欲するものはおらず、摂理の定めた掟は犯すべからざるものとして働き続けているのだ。ところがきみたちは、思慮ある者との評判は嘘ばかり、真実は卑しい獣たる人間どもよ、いったいどういう奇怪な病いに取りつかれて法に背き、互いの陵辱へと情欲を煽りたてられているのか。なんという盲目の愚かしさに魂を満たされ、追うべきものからは逃れ、逃れるべきもののほうを追いかけるという二重の錯誤を犯しているのか。こういったことで、全員がなにがなんでも張り合おうとするならば、やがてはひとりも人間がいなくなることだろう。

23.1
 しかしここでソクラテスの徒が、例の驚嘆すべき議論を持ち出してくる。それを聞く少年たちは、成熟した論理力に欠けるので欺されてしまうのだが、思慮においてすでに完成に達しているものは惑わされないであろう。彼らは魂への愛というものをこしらえ上げ、肉体の美への愛を恥じつつ、徳を愛するものと自分たちを呼称する。それを聞くと僕は、しばしば腹の底から笑いたくなるのだ。いったいどんな巡り合わせであなたたちは、厳粛なる哲学者たちよ、その真価が以前から証明されてきた特質、いかにも似つかわしい白髪と長老ぶりがその徳を物語るあの特質〔思慮分別〕をなおざりにし、むしろ、自分らの進路について判断する理性をまだ持たない若者たちのほうに、賢明なる愛をことごとく燃え上がらせようとするのか。それとも、醜さはすべて悪と断罪する一方、美少年は文句なしに善きものとして称賛するという法があるのだろうか。しかし、真実の偉大な説明者たるホメロスによれば、

見た目はさえない男にも、
姿を飾る栄冠に言葉が神から与えられ、喜び湛えた人の目が
彼の上に注がれる。感じのよい慎ましさで
確固に弁を陳ずれば、集う衆に抜きん出る。
街を歩けばひとびとは、神のように仰ぎ見る。〔Od. VIII, 169 ff.〕

また詩人はこのようにもいっている。

するとお前の見てくれに、分別はついていなかったのだ。〔Od. XVII, 454〕

じっさい、美青年ニレウスよりも賢者オデュッセウスのほうが称賛を受けているのである。

24.1
 だから、思慮や、正義や、その他の、完成された人間の同胞たる徳性への愛が彼らの心中を訪れることはないのに、少年の美が熱情の強烈な衝動を引き起こすのは不思議である。パイドロスは、リュシアスを裏切ったがゆえに愛されねばならなかったのか、プラトンよ! アルキビアデスは、神々の像を毀損し、エレウシスの秘義を酒の席で口真似したがゆえに、その徳を愛されてしかるべきだったのか! アテナイが〔後者によって〕裏切られ、デケレイアに〔スバルタ軍の〕城砦が築かれて、独裁者を戴く生活が予見されるに至ってもなお彼と愛人であり続けたとだれが認めるだろうか? ところが、聖なるプラトンによれば、まだあご鬚に覆われていなかったあいだは彼は、だれもの愛の村象になっていたのである。しかるに少年から男へと彼が成長し、それまでに完成されることのなかった思慮が彼の理性全体を占領するようになると、みなから憎まれるようになつてしまったのである。
 結局どういうことなのであろうか。知恵の、というよりは若者の愛者というべき彼らは、恥ずべき情熱に面目ある名前を付して、肉体の見栄えのよさを魂の徳と称しているわけなのだ。しかし、名高いひとびとを憎む一心からあげつらっていると思われたくないので、この話題はこれくらいにしておこう。

25.1
 それで、真剣すぎる話からきみたちの、カリクラティダスよ、快楽のことにレヴュルを下げることにして、女性からわれわれが受ける稗益のほうが、少年の場合よりもずっとよいということを示したいと思う。まず初めに、僕の考えでは、すべての喜びは、長続きするもののほうがそれだけ楽しませてくれるはずだ。急な快楽は、終わったと気づいたときにはもう飛び去ってしまっているのに対し、継続する喜びはそれだけ歓迎されるわけである。だから、けちな運命女神が長い人生をわれわれに割り当ててくれていたら、そしていかなる苦しみにも心を苛まれることなく、始めから終わりまで健康でいられたら、と願わずにはいられない。そうなればわれわれは、全生涯にわたってお祭り騒ぎを続けられたろう。しかし意地悪な神霊が、大きいほうの幸福をわれわれに惜しんだので、現実に存する恵みのうちでは、持続するものがもっとも喜ばしいということになるのである。
 それで女性は、乙女のときから中年に至るまで、老齢による最後のしわが顔を覆ってしまわないうちは、男が喜びをもって抱擁できる伴侶であり、またたとえ盛りを過ぎてしまっても、

〔老女の〕経験は、
若い女より賢い言葉を語りうる。〔Euripides Ph. 529 ff.〕

26.1
 これに反し、二十歳の青年を口説こうとするものがいたら、まさしく彼はいかがわしい性愛を追求する倒錯者であると僕は思う。男に成長したその相手の手足の筋肉は硬く、以前の柔らかいあごは今は鬚に覆われごわごわである。よく発達した腿に密生する毛はまるで汚物のようだ。これらよりも目に付きにくい部分に関しては、それを試したことのあるきみたちの知るに任せることとしよう。
 ところが女性の場合には、美しい肌がいつも全身にわたって輝いているし、頭から垂れ下がる豊かな髪の房は、美しく咲くヒアシンスのように波打ちながら、背中に流れてその飾りとなり、耳やこめかみを草原のオランダセリよりもふさふさと覆う。しかし、少しの毛も生え出ないその他の部分は、人もいうごとく、琥珀やシドンの水晶よりも透き通った輝きを放っているのである。

27.1
 またわれわれは、受動者が、仕掛ける側とひとしく喜びを味わえる相互的な快楽をこそ求めるべきではないだろうか。一般的にいってわれわれは、理性のない動物とは異なり、孤独な生活を好まない。友と親しく契りを結んで幸福を分かち合えばひときわ喜ばしく、辛い運命はともに負えばそれだけ軽く感じられるのである。このことから共同の食卓が考案されたわけである。そして、友情の仲介役として設けられたそういう食事の場で、胃の腑に与えるべき飲食物を摂りながら、タソスの葡萄酒があればいっしょに飲み、豪勢な料理も一人占めにすることはなく、ともに味わうほうがおいしいと考えて楽しみを分け合いつつ喜びを深めるのである。女性との交わりも、相手に同等の快楽を与え返す。なぜなら、女性の悦楽は男のそれに倍するというティレシアスの判定はわきに置くとして、男女は互いに等しく働きかけ、等しく楽しんでから離れるのである。そして、僕の思うに、利己的喜びを求めて相手から快楽を吸いつくし、自分だけよい思いを味わって立ち去ろうと考えるのではなく、むしろ得られるものを共有し、等分の喜びを相手にも与えることこそ望ましいのである。
 ところが少年が相手の場合には、そのようなことが可能とはだれも言わないであろう。そう主張するほど頭のおかしいものはいないはずだ。仕掛ける側は、自分の思った通りの方法で、至上の快楽を得て立ち去るのだが、辱めを受けるほうには、初めは、苦痛と涙があるばかり。時が経てば苦痛は少しは減じ、もう不快を感じることはないとは言われるものの、快楽はわずかばかりも味わえない。
 ついでに少し言い添えるべきとすれば――じっさい、アブロディテの神殿にいる以上そうすべきなのだが――、女性とだったら、カリクラティダスよ、少年愛のやり方でも交わることができるわけで、二様の享楽を遂げることが可能なのだが、男性のほうはけっして異性愛的快楽を与えてはくれないのだ。

28.1
 だから、女性がきみたちをも満足させうるのなら、われわれ男たちは、互いのあいだに障壁を設けようではないか。だが男には男との交わりがふさわしいのだといいたいのなら、今後は女たちにもお互いを愛させるべきである。さあ、新しい時代よ、新奇な快楽を掟として立てる世代よ、男の逸楽の新しい方法を考え出したのだから、女たちにも同様の権利を認めよ。彼女たちにも、男と同じく、互いの交わりをなさしめよ。そして、不毛にして奇怪な淫蕩の用具を腰に付けさせ、男であるかのように女と寝添わせよ。めったに聞くことのない名前――言い及ぶのさえ恥ずかしいが――、あの淫らなしごき用具の名が大っぴらに口にされるようにせよ。そしてわれわれの女性すべてがピライニス〔放縦な芸妓〕になって、女が男となるふしだらな愛を行うがよい。それに、女性が男性の淫乱の領域に侵入するほうが、男性の気高さを女性化させるよりも、よほどましではないか!」

29.1
 カリクレスは、このように憤然とまくしたてつつ、恐ろしい獣のような目つきでにらみ上げながら話をやめた。少年愛という汚れを清める儀式を執り行っている、というようにも見えた。
 僕は静かに微笑み、アテナイ人のほうへおもむろに目を向けながら、「愉快な遊びの審判として座ったつもりだったが、カリクラティダスよ」といった、「なんだかカリクレスの激情のせいで、もっと真面目な議論に引きずり込まれてしまったようだ。まるでアレイオス・パゴスで、殺人や放火とか、毒盛りの件とかで論争しているみたいに、ひどく興奮していたじゃないか。だから、これまでにもあったことだと思うが、今こそは、プニュクスで市民相手に行われた演説のひとつなりとも思い起こし、アテナイの伝統を、ペリクレスの説得を、そしてマケドニアに盾ついた十人の弁論家の雄弁をここで披露するようきみは求められているのだ」。

30.1
 するとカリクラティダスは、しばらく間を置いてから、――その顔付きから察するに、闘争心を燃やしているようだった――、次のように答えの弁を開始した。
 「もしも女性たちに議会や裁判所を解放し、国家的案件への参与を認めたら、きみはきっと将軍や庇護者に選出され、広場に青銅像を立てられる名誉を与えられていたことだろう、カリクレス。なぜなら、賢女の評判を得ていた人たちですら、発言の許しを得て自分たちについて弁じたとしても、あれほど熱心には語らなかったであろう。スバルタ人に村して矛を構えたテレシッラ〔アルゴスの女流詩人〕、そのためアルゴスではアレス〔軍神〕は女性のための神に数えられるに至ったというあのテレシッラでさえ、またレスボスの甘美な誇りたるサッポーでさえ、あるいはビュタゴラスの知恵の娘ともいうべきテアノでさえ、あれほどに弁じることはなかったであろう。またきっとペリクレスも、アスパシア〔その情人〕のためにせよ、あれほどの弁護は行わなかったであろう。
 しかし男が女のために弁じるのがふさわしいのであれば、われら男は男のためにもまたそうしようではないか。あなたは、アブロディテ、どうかご機嫌うるわしくあらせられたい。われわれはあなたの息子エロスを敬っているのですから。

31.1
 僕はこの論争は、遊びの範囲のなかで陽気に進められるとばかり思っていたのだが、この人が女性を弁護する哲学論にまで話を広げようとした以上、僕もこのきっかけを喜んで利用させてもらおう。
 男同士の愛だけが、快楽と徳をともに育むことのできる営みなのである。もし可能なら、ソクラテスの話に聴きいったあのプラタナスの木、アカデメイアやリュケイオンよりも幸せな木、聖なる人〔プラトン〕がこの上なく優美に描いているように、パイドロスがそれにもたれかかったあの木が、われわれの側に立っていてくれたらと思う。そうすれば、枝から〔予言の〕聖なる声を響かせたドドネのかしの木のようにあの木も、美しいパイドロスのことを今でも思い出して、少年愛への讃美をみずから奏で出したことだろう。
 しかし、

陰濃い山脈と轟く海とが
あいだに横たわっている〔Il. I, 156 ff.〕

状態で、〔アテナイならぬ〕異国の地に引き離されているわれわれにはそれは不可能であるし、クニドスは〔アプロディテの聖地として〕カリクレスに有利な場所である。しかしわれわれは、臆し逡巡して真実を曲げることはしないであろう。

32.1
 ただ、天上の神霊よ、どうか時機を逸せず、われらの加勢に来たりたまえ、友愛の秘儀の親身な導師エロスよ。とはいっても、わたしが呼びかけるのは、絵師が戯れに描くごとき悪たれ小僧ではなく、なべての物の胚芽たる始原から生み出されるなり完全な姿を現したお方である。あなたは、無形の闇の混沌から万物を形造られた。あなたによって、全宇宙の共通の墓のごとくに偏在していたカオスは取り去られ、タルタロスの最奥の隅に追いやられたのである。そこでは真に、

32.10
鉄の門と青銅の敷居〔Il. VIII, 15〕

が設けられ、破るあたわざる拘禁のもと、帰還の道が閉ざされているのである。そして暗夜に光明を押し広げたあなたは、無生物と生あるものとのすべてをお造りになったのち、人間たちに格別な親和心を混入し、荘厳なる友愛の熱情で互いを結び付け、いまだ悪を知らぬ柔らかい魂から情誼が芽生えて育まれ、成熟に至るようお計らいになったのである。

33.1
 なぜなら、結婚が子孫を得るやむを得ざる理由から考案された手段であるのに対し、男同士の愛は、哲学的精神に課せられた美しい営みなのである。そして、満ち足りた状況の下に美徳を目指して行われる修養は、すべて、当座の必要のためになされる行為よりも高い尊敬を払われる。どの場合でも、必然より美のほうが優れているからである。無知なる生を送り、向上を目指して日々努めるべき閑暇をまだ持たなかったあいだは人間たちは、必要不可欠なものにだけ自己を局限して満足し、忙しい毎日のうちで、より高いものを見いだす余裕を与えられなかった。しかし、差し迫って必要な事物が達せられ、代を追って生まれてくる子孫たちの知性が必然から解放されてより善いものに思いをいたす時機を迎えると、そのときから漸次知恵が集積されていったのである。このことは、より完成された技術から類推することができる。たとえば、最初の人類は、造り出されるなり、日々の飢えを癒す手段を捜し始めたが、目下の欠乏に苦しめられ、よりよい食べ物を得る手立てに窮するなかで、そこらにある草に手を伸ばしたり、柔らかい根を掘り起こしたり、またたいていはドングリを糧とし たりした。ところが時が経つにつれ、ドングリは理性のない動物たちに投げ与えられるようになつた。農夫の勤勉は、小麦や大麦の種に目を付け、その年毎の発芽を見いだしたのである。穀物の穂よりドングリのほうが優るとは、頭のおかしいものでも言わないであろう。

34.1
 あるいは、生活を始めた当初、体の被いをすぐさま必要とした人類は、獣の皮をはいで身にまとったのではないか? また、山の洞窟や、古木の根ないし幹の乾燥したうろを、寒気に対抗する潜み場所にすることを思いついたのではないか? それから、これらを模しながら絶えず改良を加えてゆき、外衣を織り上げたり、家屋に住まったりするようになった。これらの技術は、時を師としながら、いつのまにか、素朴な織物に代えてきらびやかな衣裳を編み上げるようになったのであり、安上がりの小屋の代わりに高価な石材を惜しまぬ高層な建物を設計し、裸の無粋な壁面に華やかな彩色を施すようになったのである。ただ、これらの技術や知識は、どれも初めは無言であったがゆえに、深い忘却に甘んじていたのだが、いわば長期の沈潜から徐々に浮上して、やがてそれぞれの輝かしい栄光に達した、というわけなのだ。それは、ひとりひとりが見いだしたものを後代に受け渡し、それを受け取ったものが、すでに学び得たものに新たな知識を付け加えて、足らざるところを補っていったから である。

35.1
 そして、男同士の愛も、太古の代からすでにあったと考えるべきではない。なぜなら、種をまかぬためわれらの種族が全滅するという事態を防ぐため、女性と交わることは必然不可避であったのに対し、多面にわたる知恵と、美を愛好するこの徳への希求とは、何事も探求せずにはおかぬ時の流れのおかげでやっとのことで出現するという運命にあったのであり、少年愛はこれによってはじめて神的な哲学とともに盛んになることを得たのである。
 だからカリクレスよ、初めは見いだされず、あとから考案されたものを、より劣っているものと断罪しないでほしい。少年愛よりも女性との交わりのほうに、より古い歴史を帰し得るからといって、もう一方を軽んじないでいただきたい。むしろ古いほうは、日々の必然不可避な営みであったと考えようではないか。逆に、閑暇を得た生活が、理性を通じて見いだしたもののほうをこそ、より善いものとして尊ぶべきではないか。

36.1
 先ほど僕は、カリクレスが理性のない動物や荒地住まいのスキュティア人を誉めるのを聴いて、あやうく笑い出しそうになった。論争に勝とうとするあまり彼は、ギリシア人に生まれたことをほとんど後悔までしてみせた。というのは、自分の趣旨と矛盾した論をなそうとしているという意識はまるでなく、小さな声で論議をごまかそうとすることもなしに、むしろ声を高ぶらせ張り上げながら、「ライオンが同性同士で愛することはない、熊も猪もそうである、雌への欲求だけが彼らを支配している」と主張したのだからね。しかしそれが驚くべきことだろうか。人が理性により選択して当然のことを、理知的たるを得ないものは愚かさのゆえに手に入れることができないのである。もしプロメテウスや他の神が、すべての動物に人間的な知性を授けていたならば、彼らはけっして荒地や山間に住むことはせずに、また互いを糧にすることもせずに、われわれ同様神殿を築いたであろう。各家庭の炉辺を個人的生活の中心にしながら、共同の法のもとに治められていたであろう。自然に隷属する定めにおかれ、摂理が理性を通じて授ける恵みになにもあずかっていない彼らが、他のこととともに、男同士の愛をも奪い取られているとしてもなんの不思議があろうか。ライオンは同性愛をしない、なぜなら彼らは哲学をしないからだ。熊もそれをしない、なぜなら友愛にもとづく美徳を彼らは知らないからだ。しかし人間においては、その知識と思慮とが、何度にも及ぶ経験にもとづき、最高の美を選択して、男同士の愛こそもっとも揺るぎない愛であると判断したのである。

37.1
 だからカリクレスよ、ふしだらな生活を伝える娼婦たちの話を寄せ集め、非難の言葉をむき出しにして、われわれの厳粛さを侮辱しないでほしいのだ。また、天のエロスを幼児のエロスと同列におかずに、このようなことを学び直すのには遅い年齢ではあるが、それでもとにかく、これまでそうしなかったのだから今こそ考えを改めてほしい。エロスという神には二種類あり、その来る道は同一ではなく、また同一の霊感でわれわれの魂を動かすわけでもない。一方は、おそらく考えがあまりにも子供っぼいので、理性もその心を制御できず、愚か者の魂のうちで勢威をほしいままにする神である。とりわけ女性への恋慕をその領域とし、一日しか続かぬこの色情の補佐役として、人の心を分別のない衝動の下に欲求の対象へ導いてゆく。他方、もう一体のエロスは、太古の時代の父として、どこから見ても神聖な、荘厳な姿を現し、思慮ある情熱を司りつつ、各人の心に温和な霊感を働きかける。この神の好意にあずかるものは、徳と結合した快楽を喜んで迎え入れる。じつさい、ある悲劇作家のいうように、エロスは二種の息吹を有し、同じ名でありながら、等しからざる情熱を共有しているのである。
 益とも害ともなる両義的な神霊といえば、恥じらいもまたそうである。

人を大いに害しまた稗益もする恥じらい。〔Hes. Op. 318〕

また、

争いの種族もひとつにあらず。地上に二種あり、
一は、思慮ある者の賛辞を得ようが、他方は
非難に値する。二者の心はかけ離れている。〔Hes. Op. 11 ff.〕

 だから、激情がたまたま徳と共通の呼び名を持ち、そのため、ふしだらな快楽も分別ある友愛もともにエロスと称されるようになっているのは、あやしむべきことではない。

38.1
 では、結婚は無意味であるとしてわれわれの生活から女性を追い出そうとするのか、それなら人類はどのように存続できるのか、ときみは問うであろう。賢者エウリビデスのいう通り、女性との交わりを止め、代わりに聖域に赴いて、金銀で世継ぎを購うことができたらと僕は願わずにいられない。必然は、われわれの首に重いくびきを乗せかけ、命令に服従させずにはおかないからである。われわれは、だから、理性によって美的なるものを選び取る一方、必然に対しては、やむを得ざるものを譲り渡すことにしよう。女性は、子供を得るだけのための、ただの頭数ということにし、その他の点ではわれわれから遠ざかっていてほしい。
 生まれつきの顔は醜いかぎりなのだが、己のものならざる人工的手段を用いて飾り立てることにより、生来の不細工を偽ろうとする女が、早朝から美顔に励む様子を見せられて、心ある者が耐えられようか。39.1 少なくとも、夜明けに起き出す女たちを見れば、人は、早朝にその名をロにするのは縁起が悪いあの獣〔猿〕よりも醜いと感じるであろう。それゆえに彼女たちは、わが身を屋内に用心深く閉じ込めて、どの男の目にも触れないように図るのである。
 同じく美に恵まれない老婆や下女たちの群れが、その回りに侍っている。彼女たちの不運な顔も、種々の化粧によって取り繕われている。彼女たちは、清い流れの水で寝ぼけた気分を一掃してすぐに真面目な仕事に取りかかる、という代わりに、化粧をごたごたと塗り重ねて不快な顔色を明るく見せようとするのである。その手には、町が催す行列〔祭事〕に参加しているごとく、おのおの異なった物を〔聖物のように〕携えている。銀盤とか、水差しとか、鏡とか、薬屋にあるような木箱の数々とか、歯みがき粉やまゆずみが納められた忌まわしい容器とかである。

40.1
40 しかしもっとも力が注がれるのは、髪の手入れである。自分の頭の生来の状態をよしとしない女たちは、真昼の太陽ほどに輝かしくする力を持つ薬品を用い、つまり黄色い花から得た染料を利用して、羊毛に対するように自分の髪を変色させる。黒い髪で満足できると考える女たちのほうは、亭主の財産を費やしながら、アラビア香水のほとんど全部の香りを自分の頭から漂わせ、弱い火で暖めた鉄の道具で無理やり縮らせ巻き毛にする。入念に整えられた髪は眉まで垂れ、わずかな額しか覗かせていない。後ろ髪はこれみよがしに背中まで波打っている。

41.1
 次の身支度は、花で染められ、肉に食い込みながら足を締めつけるサンダルと、裸と思われないよう申し訳程度に身を被う薄衣である。その内側の体の部分は顔よりもよく見えるほどなのだが、醜く飛び出ている胸だけは別で、これはつねに帯で縛り、隠しながら持ち歩いている。
 これらよりも金のかかる害禍については、詳しく語る必要はあるまい。耳たぶからは何タラントンもの値打ちのあるエリュトラの石〔紅海の真珠〕がずっしりと垂れ下がり、手首や腕には蛇形の輪がはめられる。黄金ではなく、本物の蛇であったらよかったのに! また頭には、インドの石を星のようにちりばめた冠を被り、首には高価な首飾りが掛けられる。哀れな黄金は足の先まで使用され、くるぶしの裸の箇所はすべてそれで締め回される。足首にかける枷はむしろ鉄のほうがふさわしかったのに! そして体全体をよそものの美の詐欺的装いで化けさせたあとは、恥知らずな頼に紅を塗り込み、太った白すぎる肌を緋色の輝きで赤く見せようとするのである。

42.1
 これほどの準備のあとで、女たちは一日をどう過ごすのか。その後すぐに家を出ると、彼女たちはあらゆる神々にお参りする。そのため亭主の財が費やされてゆくのだが、哀れにも男たちは、しばしばその神々の名さえ知らない。コリアデスとか、ゲネテュッリデスとか、プリュギアの神〔キュペレ〕とか、その不幸な愛をひとびとが悼みながら行列する羊飼い〔アッティス〕とかである。また、口外を許されぬ儀式や、男子禁制のいかがわしい秘儀を行い、自分たちの魂を――はっきりいうが――破滅させるのである。これらを終えると家に帰り、間を置かず長湯となる。それから豪勢きわまる食事を摂りながら、男に媚態を使う。目の前のご馳走をたらふく詰め込み、のどももう一口として受け付けないほどになると、前にある食べ物のひとつひとつに指を押しつけては、味見だけは楽しもうとする。それとともに、夜の営みと男女の共寝のことをロにし出し、女の匂いが充満してそこから起き上がる男はすぐに体を洗う必要があるベッドのほうに話題を向けるのである。

43.1
 こういうのが、まだまっとうな女の生活の仕方だが、憎々しい女たちについて真実をひとつひとつ究明してゆこうとすれば、メナンドロス中の人物のあのせりふを叫びながら、プロメテウスを心から呪いたくなるであろう。

すると、釘で岩に打ち付けられているプロメテウスを描く絵かきは、
正しいことをしているのではないか? たいまつはたしかに彼のお陰だが、
他にはなにひとつよいことをしていない。そのなかで、
おそらくすべての神々から憎まれていることは、
彼が女を造ったということだ。あの忌まわしい種族をだ、
43.10
尊敬すべき神々よ! だれかが結婚をしようとしているだって?
愚かな! これからは、人目を忍ぶ不義な欲望や、
夫婦の床に快楽をむさぼる間男や、毒盛りや、
いちばん厄介な病いで、女の人生につきまとう
嫉妬が彼にはあるばかり。〔fr. 718Körte〕

だれがこういうありがたいものを追い求めるだろうか。こういう不運な生活がだれの気にいるだろうか。

44.1
 女たちのもたらす禍の数々は、だから、至当にも、少年たちの送る男性的生き方と村比できる。少年は、朝早く独りの床から起き上がると、日にまだ残る眠りを清い水で洗い流し、肌着と上着を肩の上で差し止め、

父祖の炉をあとにし、
うつむき加減に歩みながら、〔作者不詳断片 366K〕

途中だれかに出会っても、正面から見つめることはしない。付き添いや守り役が、整然たる隊列を成して従ってゆく。彼らの手には、徳を涵養する厳かな道具が携えられている。それは、髪をすくのに適したぎざぎざのくしや、覗きこむ顔の形を絵かきの手を借りずに写し取る鏡などではない。何層にもなった書板とか、古の勲を伝える書物とか、楽師のもとへ行くときの響きのよい竪琴とかが後ろからついてゆくのである。

45.1
 そして、魂を養うよろずの哲学的学問を忍耐強く修得し、一般的教養が知性を満たすと、次に肉体を自由人にふさわしい訓練で鍛える。テッサリアの駒で乗馬にいそしみ、短期間で自分の血気を若駒のように馴致させたのち、狙い確かな右手で槍や矢を放ちつつ、平和のなかで戦の技を研く。それから、照り輝くレスリング場で、真昼の暑光のもと、壮健さを増しつつある身体を埃にまみらせ、競技に励みながら汗を滴らせる。そののち短い入浴を取り、すぐあとに続く修行を考慮して、酒気のない食事を済ます。それからふたたび先生の授業を受け、だれが勇敢な英雄で、だれが知をうたわれ、どんな人たちが正義と思慮を重んじたかということを、問答のうちで考えつつ学ぶ。
 このような徳の修学でまだ柔らかい魂を潤しつつ、夕闇が勉学の終わりを告げると、胃の必然的要求に対ししかるべき食べ物を与えつつ、昼間の活動のあとゆえだれにも非難されない深い休息のうちで、それだけ甘い眠りを味わうことになる。

46.1
 だれがこのような若者を愛せずにいられようか。だれがそれほどに盲いた目を、それほどにかたわの理性を持っていようか。レスリング場ではヘルメス〔運動競技の守護神〕であり、琴を手にすればアポロンであり、乗馬をすればカストルのごとく巧みで、死ぬべき身でありながら神的徳を追求する彼を、だれがいとおしく思わないだろうか。少なくともわたしには、天の神々よ、友の正面に腰を下ろし、快く笑う彼の声に近くから聞き惚れ、出歩くときには彼に従いてあらゆる行動をともにするという生活が、いつも変わらぬ暮らしであってほしいものだ! 愛するものは、愛の相手が運命の邪悪な妨害を経験せずに、蹉跌も逸脱もない日々を送りながら、老年に至るまで安楽に生きてほしいと願うことだろう。しかし、人の世のならいとして、彼が病いにおかされたときには、苦しむ彼と同じ患いに僕もかかりたいものだと思う。また彼が、嵐の海に出帆するときには、僕も同じ船に乗るだろう。暴君が彼に縛めをかけたときには、同じ鉄の鎖を僕も自分に巻きつけるだろう。彼を憎むものはみな僕の敵となり、彼に好意を寄せるものは僕の友となるだろう。もし賊徒や敵兵が彼に向かってくるのを目にしたら、僕の手にはおえないとわかっていても、武具を身にまとうことだろう。もし彼が死んだら、僕にはもう生は耐えられないことだろう。そして人生最後の指示を、彼の次に僕の愛するものたちに与え、「われわれ二人の上に共通の墓を盛り上げて骨と骨とを混ぜ合わせ、ものいわぬ灰となっても互いを離れ離れにしないように」と言い残すことであろう。

47.1
 このようなことを書くのは、愛されるにふさわしいものに情熱を捧げる僕がはじめてではあるまい。むしろそれは、友愛を死ぬときまで互いに寄せ合って生きた英雄たちの、神に近しい思慮が定めた掟であったのだ。ポキスの地は、オレステスとビュラデスとを、まだ幼いときから結び合わせた。神の仲介により互いに情熱を抱くようになった彼らは、同一の船で人生を航海するかのように、手を携えて出帆した。二人は、ともにアガメムノンの子であるかのごとく、クリュタイメストラを亡ぼし、アイギストスをも協力して殺害した。オレステスを駆り立てるエリニュス〔復讐女神〕のためビュラデスは彼以上に苦しんだし、裁きの場では彼とともに被告となった。そして友への愛をギリシアの境界内に留めようとはせず、スキュティアの地にまで、ひとりは病み、他方は看病しっつ、航海して行った。タウリケの地に二人が降り立つやいなや、母殺しに祟るエリニュスが彼らを出迎えた。夷秋の者たちが回りを取り囲むうちで、一方がいつもの狂気に襲われ倒れ込むと、ビュラデスは、

そのロから泡を拭い、体を介抱しながら、
美しく織った衣で被ってやった。〔Euripides, IT. 311 ff.〕

47.20
それは愛する者のみならず、父が示すのにふさわしい心遣いでもあった。どちらかひとりが残って殺されるのを待つ一方、もう一方は書簡を持ってミュケナイに向かうべしと決まったときには、相手が生き延びることで自分も生存することになると考えて、両者が互いの身代わりに留まることを望んだのであった。しかしオレステスは、ビュラデスのほうがそれにふさわしいとして手紙を持つことを拒み、ほとんど愛されるものの代わりに愛するほうになったのである。

彼が屠られるのは、わが耐えざるところ。
この企ての舵取りは僕なのだから。〔Euripides IT 598 ff.〕

47.30
またその後でも彼はこういっている。

この友に書板を与えよ。
彼をアルゴスに送り、幸多くならしめたい。
僕のほうは、そうしたいものが殺めるがよい。〔Euripides IT 603 ff.〕

48.1
 およそそういうものなのである。幼少から心中深く養われてきた真剣な愛が、今や分別を働かせ得る年齢に成熟すると、前から愛されてきた側は愛し返すようになり、どちらが愛し、どちらが愛されるほうなのか、見分けにくくなる。それは、愛する者の好意が愛される者の上に注がれると、あたかも鏡面からの反射のごとく、同じ好意が返されてくるからである。
 だから、きみはなぜ、神の法により掟とされ、代々受け継がれてわれわれにまで伝えられたこの愛を、われわれの時代の奇怪な逸楽として非難するのか。われわれはむしろそれを喜んで受け入れながら、清らかな気持ちで崇拝しているのだ。じつさい、賢者の言によれば、至福の人とは、

若い少年と、単蹄の馬とを有する人〔Solon fr. 23Bergk〕

であり、

若者に愛される老人が、
いちばん安らかな老年を過ごす〔C1llimachus Aet. Fr. 41〕

のである。
 ソクラテスの、徳を論じ批評する輝かしい教説は、デルポイの三脚鼎から敬意を表された。ビュトの神〔アポロン〕は、真実を告げる託宣を次のように述べたのだ、

48.20
なべての者に知恵優るはソクラテス。〔D. L. II, 37〕

そのソクラテスは、人の生を稗益するさまざまな発見とともに、少年愛をも格別為になる営みとして迎え入れたのだ。

49.1
 しかしわれわれは、ソクラテスがアルキビアデスと同じ外套にくるまりながら、父のように〔清らかに〕眠った仕方で少年を愛さねばならない。この話を終えるに当たって、僕としては、カリマコスの言葉を言い添え、ひとびとへの勧告とすることができれば幸いである。

少年に淫らな視線を投げるものたちよ、
エルキオスの定めた掟に従い
若者を愛せよ。さすれば市は男に恵まれん。〔Callimachus, fr.571〕

このことを肝に銘じ諸君は、青年たちよ、優れた少年たちに分別をもって近づきたまえ。そして、わずかの快楽を求めるあまり、長続きすべき好意を剃那に使いきり、ことさらにその激しさを誇張しながら情熱的な様子を振り回さないようにしたまえ。むしろ、天上のエロスを崇めながら、少年期より老年に至るまで、49.13 揺るぎない愛情を保つよう心がけよ。このように愛するものは、良心のやましさをなんら持たない快い現世に恵まれ、死後も万人に曝され讃美されるのだ。さらに、哲学の徒を信じるベきとすれば、このような愛を求めるものは、地上で過ごしたのち天空に迎え入れられ、よりよい生へと死んで、徳の報償たる不死を得ることになるのである。」

50.1
 このようにカリクラティダスが、血気盛んに高い調子で弁ずると、カリクレスがふたたび話そうとしかけたが、船に向かう時間だったので僕は押しとどめた。二人が判定を求めたので、両者の話をしばし比べ合わせてからこういった。
 「諸君の話は、友人たちよ、熟慮なしで咄嗟に行われた即席の演説には見えない。むしろ絶えざる粘り強い考察の結果である印がはっきり現れている。ほとんど論点を扱い尽くして、互いにこれ以上語るを許さない、という態だからね。二人とも、ものの道理に通じていることはもちろんだが、弁の巧みさにはもっと驚かされた。だから僕は、できることなら、あの二股膏薬テラメネスになって、両方が勝者として同じ栄冠の下に立ち去れるようにしたいほどだが、それはきみたちの同意を得ないだろうし、僕自身も、この点に関して航海中に二人から煩わされるのは絶村ご免だから、いちばん正しいと思える考えを述べることにしよう。

51.1
 結婚は人生に有益で、運に恵まれれば至福をもたらしてくれる一方、少年愛は、交友の聖なる正道にかなう関係を求愛するかぎりのものは、哲学のみに許された営みであると僕は思う。したがって、結婚はすべてのものが行うべきだが、少年愛は賢者にだけ委ねられるのがふさわしい。なぜなら、完全な徳は、女性においてはとうてい生い育つものではないからである。だから、カリクレスよ、コリントスがアテナイに勝ちを譲ることになっても、けっして気を悪くしないでもらいたい。」

52.1
 このように僕は、カリクレスへの配慮から、簡潔な判定をすると立ち上がった。彼がひどく打ちひしがれて、ほとんど死刑を言い渡されたという様子を見せていたのだ。しかしアテナイ人のほうは、晴れやかな顔付きをして嬉しそうに立ち上がると、先頭を誇らしげに進んで行った。サラミス沖でペルシア艦隊を撃破したかのようだと人は思ったことだろう。そして僕は、判決のおかげで、勝利を祝う宴を張った彼から、いつもより豪勢な馳走を振舞ってもらえた。もともと気前のいい男だったからね。僕はまた、カリクレスを穏やかな言葉でなだめようと試み、彼が弁を巧みに振るって、不利なほうの立場にいながら見事に演説したと、うまずたゆまず称賛してやった。

53.1
 まあこんな風に、クニドス訪問中女神のかたわらで行われた、陽気かつ真面目な、教養と戯れとを同時に示す会話は決着を見たわけだ。そこでテオムネストスよ、僕の昔の記憶を呼び覚ましたきみがあのとき審判を勤めたとしたら、どのような意見をきみは述べただろうか。

53.5
テオムネストス
僕のことを、きみの正しい判定に逆らう投票をするメリティデスやコロイボス〔ともに馬鹿の代名詞〕であると考えているのかい? じつさい僕は、きみの話があまりに楽しいので、 自分がクニドスにいるような気がし、この小さな部屋もほとんどあの神殿にほかならぬように思えたくらいだったのだ。
 とはいえ――祭りではなにを話しても場違いではなく、どんな冗談も、たとえ度を越えていても、祭礼に加わっているとみなされるからあえていうのだが――、少年愛のために誇り高く弁じられた話のほうは、その荘重さには感心させられたけれど、あまり僕の意には添わないと思ったのは、若者と毎日を過ごしながら、タンタロスの罰を耐えねばならぬということなのだ。つまり、少年の美がこちらの目をほとんど洗わんばかりに迫っているなかで、それを汲み取ろうとすればできるのに、わざわざ渇いたままでいなければならないというのだからね。愛するものを眺め、正面に座って話している彼に耳を傾けるだけでは満足はできないのだ。ちょうど快楽のきざはしを築いて昇ってゆくごとく、愛はまず視覚の土台を作って見ようとし、次いで、眺めたあとは、近寄って触れようと欲する。指先でさわるだけで、悦楽が全身を走り抜ける。これを容易に果たしたら、次に第三の試みを仕掛け、接吻をしようとする。しかしすぐに厚かましく出るのではなく、そっと唇に唇を近づけてゆくのだが、完全に触れる前にそれを離し、疑われる形跡を残さない。それから、相手の許しに応じて体を合わせてゆき、だんだん抱擁を密にしてゆきながら、その快楽にわれを忘れる。時には、膏をそっと開きながら、どちらの手も休ませないよう動かし続ける。服を着たままあからさまに抱き合い、互いの悦びを高め合う。あるいは人目を忍びながら少年の懐へしなやかに滑りこませた右手が、その胸を常より膨らませつつしばらく揉み絞り、大きく波打つその腹を指でむらなく掴み回す。その後、生えそめた青春の華に手を伸ばす。そして、

いうべからざることをなぜ語ろうか。〔Euripides, Or. 14〕

ここまでの許しを得た上は、愛はもっと熱烈な営みに取りかかることとなる。そして腿を手始めとし、ある喜劇作者のいうように、

的を射当てて〔作者不詳喜劇断片798K〕

終わるのだ。

54.1
 僕にはこのような少年愛が望ましい。空論をもてあそび、哲学者ぶる眉をこめかみよりも高く掲げる人たちには、無学の者をものものしく精妙な言葉でたぶらかせておくとしよう。こういうのは、ソクラテスも好色であったことは、他のだれにもひけを取らないくらいだったのであり、アルキビアデスが同じ外套にくるまって寝たときも、けっして貫かれもせぬうちに起き上がることはなかったのである。これは驚くには値しない。なぜなら、パトロクロスがアキレウスから愛されたのも、ただ正面に座って

54.10
アイアコスの商〔アキレウス〕がいつ歌い終わるかと待ち続ける〔Il. IX, 191〕

という程度に留まるものではなく、むしろその友情は快楽を通じて培われたのである。たとえばアキレウスは、死んだパトロクロスを悼みながら、激情を抑えられずこう真実を吐露している。

お前の腿との交わりを俺は崇め
哀悼する。〔Aeschylus, Fr. 136N〕

「浮かれ男」とギリシアで称される者も、まごうかたない愛欲者であると僕は思う。これをいうのは恥ずかしいことだと人は反撥するかも知れぬが、クニドスのアプロディテにかけて、真実なのだ。

54.19
リュキノス
54.20
テオムネストスよ、それを聞くのがふさわしいのは祭りの日だけで、他の時には耳から遠ざけねばならぬような話の第三段をきみが始めようとするのはお断りする。これ以上ゆっくりするのは止め、広場へ行こうではないか、神〔ヘラクレス〕に捧げる薪の山に点火する時間だからね。オイテ山での彼の運命を思い出させてくれるこの見せ物は楽しいものだよ。

2010.12.03. 入力。

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