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back.gifデーモステネース頌


偽ルゥキアーノス作品集成

カワセミ、あるいは、変身について

+Alkuw;n h] Peri; Matamorfwvsewn
(Halcyon)




[解説]

 この対話編は、写本Γおよび他のルゥキアーノス写本に現れるけれども、ルゥキアーノスの作品ではない、と一般的に認められている。また、幾編かのプラトン写本に見出され、アテナイオス506Cによって、プラトンの作品を挙げるところで言及されているが、プラトンの古註家たちは、プラトンの作品ではないと認めている。これがミュルトーに言及しているという事実は別にして、プラトン写本中の位置は、Parisinus 1807(A)とその写しの中、『シーシュポス』と『エリュクシアス』の中間にある偽作である。

 Diogenes Laertius 3.62は、プラトンの疑わしい作品であると言い、Favorinus (c. 80 - c. 150 A.D.)によって、レオーンなる者に帰せられているという。アテナイオスもまた、ニカイアのニキアスによって、アカデメイア派のレオーン作とされていると記録しているように、レオーンはありそうな作者とみなされるべきである。

 このレオーンは、おそらく、プルタルコスの『ポキオン』14.4の中に、アテーナイのアカデメイア学園で、ポキオンといっしょに学んだと述べられている人物であろう。この人物は、生国ビュザンティウムで弁論家、政治家、前340年にマケドニアのピリッポスの反対者として有名であった。彼の生涯に関するさらなる詳細は不明である。彼はc. 339 B.C.の戦いで戦死したか、ピリッポスが裏切りを期待しているビュザンティウム人たちのことを語っているので、国人によって暗殺されたのだろう。もしそうなら、このレオーンはペリパトス派になることはなかったろうし、スーダに記録されているように(そこにはビュザンティウムのレオーンとアラバンダのレオーンなる者との間にいくつかの混同がある)、アレクサンドロスについて歴史を書いたこともあり得ない。彼はまたビュザンティウムのピュトーンとも混同されている(アテナイオス 550に対するGulickの註を見よ)。彼はまた、アエリアノスV. H. 3.14や、アテナイオス442に言及されているレオニダスとも同一人物であったかもしれない。プルタルコス『ニキアス』22.3、『Moralia』88F、ピロストラトス『ソフィスト伝』204(485)も参照。ビュザンティウムのレオーンは、スーダの中でレオーンの息子レオーンと呼ばれているように、いくつかの難点は、父親とその息子との行跡が、ひとりの人物に帰せられたと想定することで、解けるかもしれない。父親レオーンは政治家であり、アカデメイア派であったのに対し、息子のレオーンはペリパトス派であり、歴史家であったのだ。

 FavorinusやNiciasがまずいとしても、ルゥキアーノスが作者であることはほとんどありえない。『カワセミ』は、ルゥキアーノスにふさわしくなくはない技量でもってプラトーンを模倣しているにしても、はっきりとルゥキアーノス的なところがない。ミュルトーに対する言及は、もしかするとこの対話編が風刺的な意図をもっていることを意味しているかもしれない。けれども、ルゥキアーノスがこんな仕方で仕事をしたとは、あるいは、重婚者注1)ソークラテースという動機を、もしもそれを彼がレパートリーにもっていたとしたら、他の機会に使いそこねたとは、ありそうにないことである。この対話編は額面どおりに受け取るのがより自然である。これがアカデメイア派レオーンによって書かれたのでないとすると、これの制作年代を前2世紀に置くBrinkmannによって示唆されているとおり、ストア派の影響を示しているのかもしれぬ。

 年代的な見地からも、ルゥキアーノスが作者である蓋然性があるようだ。ルゥキアーノスの生年を、(一般的に想定されている)ハドリアヌス帝の時代よりは、むしろ(スーダにおいて与えられているように)トラヤヌス帝の時代にあると仮定しても、そして、彼が『カワセミ』を非常に若い時に書いたと仮定しても、やはり、老Favorinus注2)がこれをすぐに読み、これの著者に関する自分の誤った見解をただちに公にした、と推測しなければならなくなろう。それはルゥキアーノス全集に到る道を見つけることになるかもしれない。というのは、その主題、その二者択一の題名『変身について』は、『ロバ』(あるいは、もともとの題名は『パトラスのルキウスの変身』)との混同に導くからである。

(M. D. Macleod)




"t".1
カワセミ、あるいは、変身について

1.1
カイレポーン
1.1
 おお、ソークラテース、遠く浜辺から、あの岬から、わたしたちの耳に届く声は、何ですか。何と耳に快いことか。一体全体、鳴いている動物は何ですか。だって、少なくとも水辺に棲息するものらは、無声なのですから。

1.5
ソークラテース
 おお、カイレポーン、一種の海鳥で、カワセミと名づけられ、哀しみ多く涙多き鳥です。この鳥については、古い話が人間たちによって物語られています。言い伝えでは、かつて女がいた、ヘッレーンの息子アイオロスの娘だが、彼女は自分の由緒ただしい夫、明けの明星の息子、トラキス人ケーユクス、つまり美しい父の美しい息子が亡くなったので、愛に焦がれて哀悼歌をうたった。それからついに、ある霊妙な摂理によって翼を得て、鳥となって、かの夫を捜して陸を飛びまわって、全地をさまよったが、見つけることはできなかった。

1.15
カイレポーン
2.1
 カワセミというのは、それをあなたは謂っているわけですが、あれのことですか。わたしはいまだかつてその声を聞いたことがありませんでしたが、わたしには本当に馴染みのない声に聞こえました。とにかくあの生き物は真に悲しそうな声をあげています。いったいどれくらいの大きさですか、おお、ソークラテース。

2.5
ソークラテース
 大きくはありません。しかし、夫に対する愛によって、神々から大きな名誉を受けました。というのは、あれらの巣作りの期間は、カワセミの日々(ajlkuonivdeV hJmevrai)とも命名され、世界は、冬の最中に、晴天に恵まれた日々を過ごすのですが、とりわけ今日もそうです。上天がいかに澄みわたり、海洋全体が波なく、ほとんど鏡のように凪いでいるのを、あなたは目にするのではありませんか。

2.13
カイレポーン
 あなたの言うのはただしいです。というのは、今日こそはカワセミの日のようですし、昨日もそのようなものでした。しかし、神々にかけて、原初の話に納得しなければならない所以はいったい何ですか、おお、ソークラテース、かつて鳥から女たちが、あるいは、鳥たちが女たちから生まれたなどと。なぜなら、そういったことはすべて不可能なことのようですから。

2.19
ソークラテース

3.1
 おお、愛するカイレポーンよ、われわれは可能事、不可能事のまったく目の霞んだ判定者であるらしいよ。というのは思うに、われわれは人間的な力に従って審査するけど、それは知なく、信なく、見ることもできぬ力なのだから。だから、多くの事柄は、それが精通した事柄であっても、精通できず、到達できる事柄であっても、到り得ず、たいていは無経験によって、たいていは心の幼稚さによって、そうであるだけです。というのは、あらゆる人間は本当に幼稚であるらしく、まったくの老人であっても、まったくの永遠に比べれば、人生の期間はまったくもって短く、赤ちゃんみたいなもんだから。そこでどうだ、おお、善き人よ、神々や精霊たちの能力とか、自然全体のそれについて無知な者たちが、云うことができるだろうか、何かそういった事柄が可能だとか不可能だとか。あなたは、カイレポーンよ、3日前、嵐がどれほどだったか目にしたね。というのも、あの稲妻、雷鳴、大暴風を思っただけでも、恐怖がひとを襲ったろう。ひとの住まいする全世界が壊滅するとさえひとは受け取ったろう。

4.1
 ところが少し経つと、驚くべき快晴の状態がやってきて、それは少なくとも今まで続いている。だから、どちらがより大きくて難しいことだと思うか、この快晴があの抗いがたい台風と騒乱から全世界を凪ぎに導くことか、それとも、女の姿が変形して、何かの鳥につくることと。というのは、後者のようなことは、われわれのもとにいる幼児でさえ、作り方を知っていて、泥とか蜜蝋とかを手に入れれば、同じ塊から、多数の自然を見つめつつ、容易に変形します。まして、われわれの諸能力に比べて比較もできないほど大きな超越性を有する精霊にとっては、こういったことすべてをおそらくはあまりにも簡単なことであったろう。というのは、天全体は、あなた自身よりどれくらい大きいと思いますか。あなたは謂えますか。

4.15
カイレポーン

5.1
 人間界の誰が、おお、ソークラテース、何かそういったことを考えたり名づけたりできるでしょうか。口にすることさえできないのですから。

5.3
ソークラテース
 それでは更に、人間どもについても、相互に対比されるならば、可能性と不可能性において、一種の大きな優越性を有しているのではないか。例えば、大人の盛年は、生後5日目や十日目の幼児に比べれば、まったくの赤ちゃんで、人生のほとんどすべての行為おいて — かくも術策にとむかくかくの術知によって〔仕上げられる〕かぎりのことにおいても、神体と霊魂とによって仕上げられるかぎりのことにおいても — 、可能と不可能の相違は驚くばかりである。というのは、若者には、わたしが謂ったほどの子どもには、そういったことは考えることさえ不可能なようだから。
6.1
 さらにまた、成人ひとりの強さの大きさも、あれら〔幼児〕に比べて有している優越性も測り知れないほどである。というのは、そういった〔幼児〕が何万人いようとも、ひとりの成人で手玉にとることが容易だろうから。つまり、何事にも多分まったく通じず、無策な年齢というものが、初めから、人間どもには自然に付き添っているのだね。だから、どうやら、人間が人間にこれほど異なっている時、われわれの能力に比して、天全体がそういったことの観想に到達できるものたちにとってどう見えるかわれわれが考えることができようか。だから、たぶん、多衆にとって尤もらしく思えるのだろう、世界の大きさが、ソークラテースやカイレポーンの人像に優越しているその力も知慮も、われわれに関する状態の類推的知力も凌駕しているのだということに。
7.1
 そのうえ、あなたや、わたしや、他にも同様である多くの者たちにとっては、別の人たちにはきわめて容易な多くの事柄が不可能事なのです。例えば、笛を吹くことも、笛を知らない者たちにとって、また読むことや書くことも、読み書きの仕方に通じない者たちにとっては、知識をもたないかぎりは、女たちを鳥から、あるいは、鳥を女たちからつくることよりも、もっと不可能なことである。しかるに自然は、蜂巣のなか近くに、無足、無翼の生き物を生みつけながら、足を付け、翼をつけ、多くの美しい斑紋と、多種多様な色で輝かせ、神的な蜂蜜の作り手である賢い蜜蜂を示すのである。声なき魂なき卵から、有翼、陸生、水棲動物の数多くの種類を形づくるのである。ある人たちの言によれば、大いなる霊気の神聖なる術知を適用して。
8.1
 だから、不死なる者たちの力は偉大であるから、死すべき存在であってまったく卑小なものら、大きな事を見ることもできず、逆に小さな事もそうであって、われわれのまわりに結果する事態についても、その大多数のことに行き詰まり、精確に云うことができないのです、カワセミについても夜鶯注3)についても。しかし、名声を神話しつつ、父たちが伝えたように、そのようにわたしの子どもたちにも、おお、嘆きの調べ歌う鳥よ、おまえの讃歌を、わたしは伝えよう、そしておまえの敬神と夫を愛する恋をも、しばしばわたしの妻たち、クサンティッペーとミュルトー注4)のために賛美しよう、その他のことも語り、かてて加えて、神々からおまえが手に入れた名誉をも加えて。あなたもまた何かそうのようなことをするだろうね、おお、カイレポーンよ。

8.13
カイレポーン
 たしかにふさわしい、おお、ソークラテース、あなたの言辞も、女たちと男たちとの交わりに関して、二重の勧めを有しています。

8.16
ソークラテース
 それでは、カワセミには別れを告げて、もうパレーロン〔港〕から町へ進む時です。

8.18
カイレポーン
 たしかにそうです。そうしましょう。

2010.11.01. 訳了。

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