『「伝道の書」註解(Scholia in Ecclesiasten)』


[底本]
TLG 4110 031
Scholia in Ecclesiasten (fragmenta e catenis), ed. P. G刺in,
プagre le Pontique. Scholies a l'Eccl市iaste
[Sources chr師iennes 397. Paris: Cerf, 1993]: 58-82, 86-176.
5
= editio princeps.
(Cod: 6,429: Caten., Exeget.)





"t".1
『伝道の書』のための註解
1."11"
1, 1「ダウイドの子、伝道者の詞、
1."21"
ヒエルゥサレームに〔座を置く〕イスラエールの王たる」

1.1
 伝道の集まり(Ekklesia)とは、清浄な魂たちの真実なる覚知 — 代々と世々の、また、それらにおける裁きとはからい(pronoia)の〔真実なる覚知〕 — のことである。伝道者(Ekklesiastes)とは、この覚知の生みの親、クリストスのことである。あるいは、伝道者とは、いつもの観想によって、魂たちを浄化し、これを自然的観想へと導く者のことである。

2."11"
 1, 2「空の空、と伝道者は云った、
2."21"
空の空、いっさいは空」。
2.1
 叡智的〔伝道の〕集まりに参入する人たちや、生じたものらの観想に驚嘆する人たちに向かって、この言葉は謂う。 — これが究極目標だと考えてはならない、おお、会衆の諸君、もろもろの約束(epangelia)によってあなたがたにたくわえられたものが〔究極目標だと〕。なぜなら、これらは、神そのものの覚知の前には、すべて空の空だからである。なぜなら、完全な健康の後では、薬が空であるように、聖なる三位一体の覚知の後では、代々と世々の言葉は空であるのだから。

3."11"
 1, 11.1「初めのことどもは、想起されることがない」。
3.1
 初めのことどもは、想起されることがないのなら、どうしてダウイドは謂うのか。「昔の日々をわたしは想起した」〔Ps. 142:5〕とか、「永遠の歳月をわたしは想起した」と〔Ps. 76:6〕。それとも、それらすべてを忘れてしまうことになるのだろうか。ロゴス的自然が聖なる三位一体を受け容れたそのときには。というのは、そのとき、神はすべてのものにあってすべてとなられるであろうから〔1Col. 15:28〕。なぜなら、事象の表象が精神の内に生じて、その事象の想起へと理性を導くなら、理性は神を観想して、すべての表象から遠ざかるからして、生じたものらすべてを理性は忘却するであろう。聖なる三位一体を受け容れるのだから。

4."11"
 1,13.4-6「つらい(poneros)営み(perispasmos)を
4."21"
神は人の子らにお与えになった。
4."31"
それを営むようにと」。
4.1
 つらい労苦と言うのは、善に対立するもののことではない。なぜなら、こんなものを神は何びとにもお与えにはならないからである。というのは、〔神は〕諸悪の原因ではなく、善福(agathosyne)の源であるのだから。ただし、見放しの言葉にしたがって同意して与えた〔例えばヨブを神がサタンに与えたように〕と言われる場合は別である。

5."11"
 1,15「ねじれたものは、飾りつけられること(epikosmethenai)ができない。
5."21"
欠けたものらは、数えられることができない」。
5.1
 ねじれたものとは、不浄なる理性のことを言う。「なぜなら」と〔聖書は〕謂う、「ねじれた心は悪事を生むのだから」〔Prov. 6:14〕。『箴言』では、世を知恵(sophia)と名づけて、そこにおいて言う。「世は若者たちの知恵」〔Prov. 20:29〕。「だから、知恵は悪だくみする魂には入らない」〔ソロモンの知恵1:4〕。そこで〔伝道者が〕云ったのは、飾られること(kosmethenai)ができないというのではなく、飾りつけられること(epikoemethenai)ができないということである。というのは、何かを飾るのは正しい生活だが、神の知恵は飾りつけるのだから。そういうわけだからして、ねじれた理性は飾られることができる。しかし、飾りつけられることはできないのである。諸徳によってみずからを浄化し、主人のために有用な容器をつくらないかぎりは。
6.1
 神の数 — これによって聖徒たちを数える — は、霊的な人や定められた配置(taxis)を明らかにする。「なぜなら」と〔聖書は〕謂う、「星の多さを数え、それらすべてに名前をつけて呼ぶ」〔Ps. 146:4〕。この数とモーウセースとに、主は、イスラエールの息子たちを数えるよう下知なさるのである。しかし、ダウイドは、這う人間どもや、快楽に隷従する〔人間ども〕について、何と謂っているか。「そこにいるのは、数知れぬ這う者たち」〔Ps. 105:25〕。『箴言』の中でも、ソロモーンは悪について言う。「まことに多くの者たちを〔彼女は〕傷つけて打ち倒し、〔彼女が〕殺戮した者たちは数知れず」〔Prov. 7:26〕。そういうわけで、ここで言われている欠けたものらと、殺戮されたものらと、這うものらとは、同じ境涯、霊的数に調和しない〔境涯〕に属するのである。そこで、もし、ダウイドが、神の共知(synesis)も数知れないと言う場合、それを書いているのは、その〔共知(synesis)〕は数知れないという意味ではなく、それ〔共知(synesis)〕は、とらえがたいゆえに、自然本性的に数によっては示唆しえないという意味である。なぜなら、見えないものというのは二重の意味で言われるのであって、自然本性的に見られないものをも〔意味する〕ように、神は、自然本性的には見られるものではあるが、見られるものではないのである。ちょうど、水に隠されているゆえに鉄が深みにあるように、数えられないものというのも、自然本性的に数えられないものというのと、何らかの理由で数えられないものであるというのと、二重の意味で言われているのである。

7."11"
 2, 6「わがために、水をたたえる池どもをわたしは作った。
7."21"
それら〔の池〕から、林に茂る樹々に水を飲ませるために」。
7.1
 意味深長なことが述べられている。それら〔の池〕から、林に茂る樹々に水を飲ませるために。この一直線の朗読こそが、彼のものである。???

8."11"
 2. 10.1_4「わが眼の願求するものは何であれ、
8."21"
これをこれら〔眼〕からわたしは掠めなかった。
8."31"
わたしは妨げなかった。わが心の
8."41"
あらゆる好機嫌(euphrosyne)を」。
8.1
 魂が覚知(gnosis)を願求するのは、言葉(logos)によってではなく、清浄さ(katarotes)によってである。「なぜなら、わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が、必ずしもみな諸天の王国に入るわけではなく」と〔聖書は〕謂う、「ただ、わたしの父の思い(thelema)を行う者だけが〔入るのである〕」〔Matt. 7:21〕。覚知をも、この境涯(katastasis)との類比に従って、いわば、わたしたちがそれによって量り、またわたしたちにそれによって量り返してもらえるところの尺度によって、わたしたちは受け取ろう。そういう次第で、願求とは、ロゴス的魂の叡智的無心(noete apatheia) — 聖なる覚知を引き被せられるところの無心 — である。さて、こういうふうにして、あらゆる覚知を受け容れられるものとして自分自身を差し出す者は、眼から何ものをも掠めないのである。ここでわたしがあらゆる覚知というのは、魂 — 血と肉とにいっしょに結びあわされている — に、自然本性的に結果する〔覚知〕のことである。

9.1
 何ひとつ罪を犯していない者は、自分の心のあらゆる霊的好機嫌を妨げることがない。

10."11"
 2, 11.4「そして見よ、いっさいは空、風をつかまえる努力(proairesis)にすぎない」。
10.1
 霊は魂に名づける。なぜなら、つかまえる努力(proairesis)は、理性の動きのようなものであるから。ダウイドも、「わたしは、わが霊をみ手にゆだねます」〔Ps. 30:6〕。ステパノスも、「主イエスゥスよ」と謂う、「わたしの霊をお受けください」〔Act. 7:59〕。『列王記』の中でも、「ダウイドは」と謂う、「わが子アムノーンの霊をわたしは悲しませなかった」〔Reg. ii 13:21〕。

11."11"
 2, 14.1「知者その人の眼は、その頭にある」。
11.1
 もしも、「すべての男の頭はクリストスである」〔1Cor. 11:3〕なら、知者は男だから、知者の頭はクリストスである。いや、わたしたちのクリストスは知恵である — 「彼は神に立てられてわたしたちの知恵となった」〔1Cor. 1:30〕から — 、知者の頭こそが知恵であり、ここの中に知者は精神の眼を有する。生じたものらの言葉を観想するのは、その中においてなのだから。

12."11"
 2, 22「自分の労苦のかぎりを尽くし、
12."21"
自分の心の努力を尽くして、
12."31"
日の下でみずから労苦したとて、その人にとって何になろう」。
12.1
 ここに示されているのは、風をつかまえる努力は、心の努力だということである。

13."11"
 2, 25「いったい、彼〔神〕なくして、誰か喰う者がいるか、誰か飲む者がいるか」。
13.1
 いったい誰が、クリストスを離れて、その肉を喰い、あるいは、その血を飲むことができようか。諸徳と覚知の象徴であるところのこれらを。

14."11"
 2, 26.4-7「しかし、罪を犯した者には営み(perispasmos)をお与えになった。
14."21"
〔富を〕積み、かつ、集めるという〔営みを〕。
14."31"
神の顔前で善き人〔と判断される人〕に与えるために。
14."41"
しかし、これもまた空であり、風をつかまえる努力にすぎない」。
14.1
 これは〔次のように〕言っている諺に等しい。「その富を、利子と余剰によって増やす人は、物乞いたちを憐れむ人のためにそれを集める」とか、「邪眼の持ち主は、富むことに急であるが、憐れむ人はそれを制御するということを知らない」とか。それゆえ、ここに含意されている註釈でわたしたちは満足しておこう。ただし、次のことは知っておくべきである。つまり、彼が表明しているのは、罪を集める空しさであって、自分が神から善き教師を得ることではない、ということである。

15."11"
 3, 10「わたしは見た。神がお与えになった営みを。
15."21"
人の子らに、それ〔営み〕を営むようにと〔お与えになった営みを〕。
15."31"
 3, 11 お作りになったすべては、そのときにかなって美しく、
15."41"
しかも、それらの心(kardia)に永遠(aion)をお与えになった。
15."51"
人間が見つけられないようにと。
15."61"
神がお作りになった業(poiema)の初めから終わりまでを〔人間が見つけられないようにと〕。
15."71"
 3, 12 わたしは知った、彼らに善いことはないということを。
15."81"
その生涯のあいだに、好機嫌であり、善きものを作りだすこと以外には。
15."91"
 3, 13 また、すべての人が喰いかつ飲み、
15."101"
そのあらゆる労苦に善を見てとる、
15."111"
これこそが神の賜物である、ということを」。
15.1
 わたしは見た、と〔伝道者は〕謂う、感覚的事象は人間の精神を労する。これこそ、刈り込み(katharsis)の前に神が人間どもにお与えになったところのものである。それ〔感覚的事象〕を営むようにと。しかし、その美しさを、かりそめのもの、永遠ならざるものと〔伝道者は〕言う。なぜなら、刈り込み(katharsis)の後には、清浄な人は、感覚的事象をば、もはや自分の理性を労するものとしてのみ看取するのではなく、それ〔理性〕を霊的観想へと押しやるものとして〔看取する〕からである。すなわち、理性が、諸々の感覚に、諸々の感覚を通して、感覚的に手をかけて刻印する場合と、観想を通して、諸々の感覚に諸々の言葉がたくわえられるよう処する場合とは、別々なのである。とはいえ、覚知そのものは、清浄な人びとにのみ帰結するのであるが、感覚を通しての事象の知覚(katanoesis)は、清浄な人たちにも不浄な人たちにもそなわる。それゆえ、これ〔知覚〕が神から授けられても、これをかりそめの営みとも〔伝道者は〕云ったのである。なぜなら、神は情念にそまった魂のことを心にかけ、これ〔魂〕に諸感覚と感覚的事象とをお与えになった。それは、〔魂が〕これらを営み、表象して、敵対者たちからこれ〔魂〕に投げこまれるであろう諸々の想念を逃れるためなのである。そこで、と〔伝道者は〕謂う、彼ら〔人の子ら〕に永遠をも、すなわち、永遠の言葉〔複数〕をお与えになったのだ、と。これこそ、わたしたちが外部に有すると主が云ったところの、諸天の王国のことであって、これは諸々の情念によって隠されているので、人間どもには見いだされないところのものである。だから、わたしは知った、と〔伝道者は〕謂うのである、善いのは事象ではなく、事象の言葉〔複数〕であり、これによって、ロゴス的自然は、好機嫌であるようにも、善を制作するようにも自然に生まれついているのである。なぜなら、徳や神の覚知のように、理性を養い水を飲ませるものは、何もないのだから。

16.1
 善を行おう。神によってわたしたちに与えられたものらの時宜にかなった有用性によって。なぜなら、そういうふうにすれば、万事がまたその時を得て美しいであろうから。そして、「見よ、すべてがはなはだ美しい」〔Gen. 1:31〕。

17."11"
 3, 14「わたしは知った。神のなさったことはすべて、
17."21"
永遠〔の世界〕に属するのだと。
17."31"
それに付け加えるものもないし、
17."31"
そこから取り除くものもない。
17."51"
神が〔そう〕したのは、〔人々が〕その〔神の〕前に畏れをもつようになるためである」。
17.1
 もしも、「神のなさったことはすべて、永遠〔の世界〕に属する」のなら、しかし神は悪をなさることがないのだから、悪は永遠にないであろう。

18.1
 多種多様な知恵からは取り除くことはできず、これには付け加えることもできない。そこで、〔聖書は〕謂う、神がそれ〔知恵〕をおつくりになったのは、人間どもが覚知を志して、悪をやめるためである。「なぜなら、主に対する畏れから、あらゆるものが悪から逸れるのだから」〔Prov. 15:27a〕。

19."11"
 3, 15「今あるのは、すでに〔それ以前に〕起こったことである。
19."21"
いずれ起こることも、すでに起こったことである。
19."31"
神は、追いやられたものを、尋ね求められるであろう」。
19.1
 もしも、「浄福なるかな、義のために迫害されてきた人たちは。諸天の王国は、彼らのものなればなり」〔Matt. 5:10〕ならば、諸天の王国とは、過去と未来の永遠の言葉にほかならないから、追いやられてきたものらは浄福である。あったものらの観想をみずから知るであろうから。なぜなら、神は、覚知によって照らす相手を尋ね求め、覚知によって照らす相手を尋ね求められない、と言われているからである。「わたしは迷っています」とダウイドは謂う、「滅びようとするヒツジのように。尋ね求めてください、あなたの奴隷を。まことに、あなたのいましめをわたしは忘れなかったのですから」〔Ps. 118:176〕。というのも、彼自身が追いやられた者だったのだから。彼は謂う、「わたしを追う者や、わたしにあだする者は多い。あなたの証しから、わたしは外れませんでした」〔Ps. 118:157〕。

20."11"
 3, 18「わたしはわたしの心の中で、云った、
20."21"
人の子らの話について、
20."31"
神は彼らをためして、
20."41"
自分たちは動物にすぎないこと、このことを受け容れさせる」と。
20.1
 ここで、人間の話とは、その生活を名づけたのである。いわば、あらゆる粗野な言葉に関して、裁きの日―この日に、清浄な人たちも不浄な人たちも明らかになる―に、わたしたちは執務審査を受けるであろう。

21."11"
 3, 19「たしかに、彼らにとって、人の子らの運命(synantema)と
21."21"
家畜の運命とは、
21."31"
彼らにとって〔同じ〕一つの運命である。
21."41"
後者が死ぬのと同様に、前者も死ぬ。
21."51"
あるのはすべて同じ一つの霊。
21."61"
いったい、人が家畜にまさることが何かあろうか。
21."71"
〔まさるものは〕何もない。いっさいは空なのだから。
21."81"
 3, 20 そのすべてが一つの場所に赴く。
21."91"
すべては塵から成り、
21."101"
すべては塵に帰る。
21."111"
 3, 21 いったい誰が知ろう、人の子らの霊、
21."121"
これは上に昇るもの。
21."131"
家畜の霊、
21."141"
これは下に、地に下るものなどと。
21."151"
 3, 22 こうしてわたしは見きわめた。善いことはないのだということを。
21."161"
人がその業(poiema)に好機嫌となる以外には。
21."171"
それが彼の〔労苦の〕配当(meris)なのだから。
21."181"
誰が彼を導いて、彼の〔死〕後に何が起こるかを見きわめさせてくれようか」。
21.1
 運命(synantema)とは、義人であれ不義の人であれ、この世にあるあらゆる人間どもの身に共通に起こること、例えば、生、死、病、健康、富、貧しさ、肢体の、女たちの、子供らの、資力の、喪失である。これらによっては、裁きの前に、義人か不敬者かを判別することはできない。また、彼らにとっての共通なもの(koinon)と言うのは、塵から成ること、再び塵に帰ること、そして、彼らが、数においてではなく、自然本性おいて、ひとつの魂を有する、ということである。「なぜなら」と〔伝道者は〕謂う、「すべて同じ一つの霊である」。また、ここで云った家畜とは、人間のことである — 名誉のうちに生まれながら、自覚せず、言葉なき快楽によって、非叡智的家畜同然に譬えられて、これと同等視されているところの〔人間のことである〕。しかしながら、義人たちや不義の人たちが活動するその活動内容によっても、裁きの前に、はっきりそれと知られることはない。数多くの不義なる者たちが、義へと移住し、高くされ、数多くの義人たちが、徳から転落して、低くされるからである。だから、彼らのうちにいかなる余得(perisson)をわたしは見いだしたのか。今は、何もない、と〔伝道者は〕謂う。なぜなら、いっさいが空だから。霊的好機嫌(euphrosyne)を除いては。この〔好機嫌〕は、自然本性的に、人間の諸々の空や諸々の徳に加えて生じる。なぜなら、この好機嫌から脱落する者は、これの所有を実現することをなしても、二度とここにもどってくることはないからである。

22.1
 非ロゴス的魂でも、霊と言われるということ。

23."11"
 4, 1「わたしは、ふりかえって、見た。
23.""21"
ありとあらゆる虐げを。
23."31"
日の下で行われるところの〔ありとあらゆる虐げを〕。
23."41"
見よ、虐げられる者たちの涙を。
23."51"
しかし、彼らには、慰めてくれる者がいない。
23."61"
しかし、彼らを虐げる者たちの手には力(ischys)がある。
23."71"
しかし、彼らには、慰めてくれる者がいない」。
23.1
 虐げとは、わたしたちの対立者のことを言う。「あなたの奴隷に」と彼は謂う、「善きものを保障してください。傲れる者らがわたしを虐げないように」〔Ps. 118:122〕。さらにまた、救主クリストスについても彼は謂う、「虐げる者を低くして、日の下にながらえますように」〔Ps. 71:5〕。しかし、クリストス以前に虐げられた者たちは、慰めてくれる人を持たなかった人間どもである。次のように言う人のようなものである。「主にある囚人でるわたしは、あなたがたを慰める。あなたがたが召される、その召しにふさわしく歩むようにと。まったきへりくだりと柔和さをもち、気長さをもち、愛をもって互いに忍びあいながら」〔Ephe. 4:1-2〕。

24."11"
 4, 2「それで、わたしは讃えよう。死人たちと、
24."21"
すでに死んだ人々を。生者たちよりも。
24."31"
今なお生きているかぎりの〔生者たちよりも〕。
24."41"
しかし、これら両者よりも善いのは、
24."51"
今まで存在しなかった者たちだと〔讃えよう〕。
24."61"
彼は、邪悪な業を知らぬばかりか、
24."71"
日の下に行われてきたことも知らないのだから」。
24.1
 じっさい、わたしはたたえた。クリストスとともに死んで、彼らを虐げる者たちから救われた人たちを、悪の内に生き、今に至るもそこにとどまっている人たちよりも。善きかな、悪から自分を引き離すために、そのような死をさらに必要とすることもなく、悪の内にあることもない人は。彼は、日の下にある人たちを虐げる連中に対する邪悪な〔辛い〕骨折りを知らないのだから。

25."11"
 4, 4「また、わたしは見た、すべての労苦と、
25."21"
行いのすべての男らしさを。
25."31"
それは、自分の仲間に対する、男の妬みだということを。
25."41"
しかし、これもまた空であり、風をつかまえる努力にすぎない」。
25.1
 わたしは見た、と〔伝道者は〕謂う、すべての悪と、その〔悪〕において男らしくふるまう邪悪者とを。というのも、彼が言う男らしい男とは、不敬にも物乞いたちを虐げる者や、あるいはまた、神の「天使たちによってもてあそばれるように作られている」〔Job. 40:19〕ような行いのことだからである。わたしは自分のすべての妬みをも見た。この〔妬み〕とは、人間どもに所有され、空にして、自分の心を満たすところのものである。というのは、神はすべてのものの中において完全にすべてとなり、クリストスのいわゆる祈りが成就されなければならないからである。「彼らに与えよ。彼ら自身も、わたしとあなたが一つであるように、わたしたちの内にあって一つとなるために、父よ」〔Cf. John. 17:21〕。

26."11"
 4, 5「愚者は、おのが手をつかねて、
26."21"
おのが肉をむさぼり喰う」。
26.1
 両手が実践的な働きの象徴であるなら、義の働きをしない人はすべて、おのが手をつかねることになる。それゆえ、こういう人は、と〔伝道者は〕謂う、おのが肉を食うのだ。肉から生まれる諸悪を満喫するのだから。

27."11"
 4, 6「片手を安らぎで満たす方が、
27."21"
両手を労苦で満たす、つまり、
27."31"
風をつかまえる努力、よりも善い」。
27.1
 風をつかまえる努力は、魂的な思い(therema)のように、情念的であるようにわたしには思われる。ここからまた、徳の善き栄光も、両手の悪、無知、風をつかまえる努力よりも尊重されるのである。次の聖句もそうである、「義人のもつわずかな物は、罪人たちの多くの富にまさる」〔Ps. 36:16〕。また、「正義によって得たわずかなものは、不義によって得た多くの産物にまさる」〔Prov. 16:8〕。次のもこれらと同じである、「わたしは選んだ。わたしの神の敷居に寝る方が、罪人たちの幕屋にわたしが泊まるよりもよいと」〔Ps. 83:11〕。次のも、「諍い好きな女といっしょの家にいるよりは、屋根の隅にいる方がまさっている」〔Prov. 21:9〕。これらの言葉に従え。そうすれば、「野菜を食べて互いに愛するのは、子牛を食べて憎むのにまさる」〔Prov. 15:17〕。ちょうどこう言った人がいるように。霊的観想をひとつ学ぶ方が、愚妹となる知恵の観想を多数〔学ぶ〕よりもまさっている、と。

28."11"
 4, 8「ひとりの男がいる。第二(の自分)〔=友〕がなく、
28."21"
彼には子もなく、兄弟もなかった。
28."31"
彼のあらゆる労苦は際限もなく、
28."41"
彼の眼も、富に満ち足りることもなかった。
28."51"
〔そして彼は言う、〕
わたしが誰かのために労苦して、
28."61"
わが魂から、善福(agathosune)を失ってなるものか、と。
28."71"
しかし、これもまた空であって、
28."81"
つらい(poneros)営み(perispasmos)である」。
28.1
 誰か兄弟を持たぬ者がいたら、そのひとは霊の養子縁組をつかまなかったのだ。誰か父でない者がいたら、そのひとは邪悪者(poneros)である。「なぜなら」と謂う、「邪悪な者らに、子孫の生まれることは決してない」〔出典不明〕。だから、当然ながら、こういう者は、自分の魂から神の覚知を盗み取るのだから、悪に満足することもないのである。ここでわたしが父と言っているのは、この書の考えに従えば、兄弟のことでもある。なぜなら、感覚的兄弟のうえに父親まで付け加えるのはよろしくないという、文の定型をわたしが知らないわけではないから。そこで、もし、これらの詞の考えとして魂をも取り出す人がいたら、子なき富裕者連中や、多量の財産を自分自身に供給する連中 — とりわけ、友たちに近寄りがたい連中であればなおのこと — 、こういった連中を、もちろん、有罪と判定するであろう。なぜなら、人間どもの対して言われているこれらの詞がは、まったく真実であるのだから。

29."11"
 4, 11「加えて、二人で寝れば、彼らは暖かい。
29."21"
一人では、いったいどうして暖まれよう」。
29.1
 主なくして、ひとは、霊によって生きる者たりえまい。なぜなら、「主は霊である」〔ii Cor. 3:17〕から。

30."11"
 4, 12「たとえ一人が攻め撃たれても、
30."21"
二人ならこの反対者に対抗できる。
30."31"
三重の綱は、すぐに切れることはない」。
30.1
 攻め撃たれる一人とは、邪悪者(poneros)のことだとわたしは考える。この反対者に対抗できるのは、人間と、神の天使との、二人である。人間は悪魔に勝利すると、神の覚知にあたいする者とされ、三重の綱は、すぐに切れることはなくなる。このことは父祖イアコーブからもはっきり学びとることができる。彼は、イオーセープの子どもらを祝福して謂う。「わが天使、あらゆる悪からわたしを救ってくださる方よ、これらの子どもらを祝福してください」〔Gen. 48:16〕。ダウイドに述べられていることも、これと等しい。「主の天使は、宿営する、彼を畏れる者らのまわりに。そして彼らを救うであろう」〔Ps. 33:8〕。

31.1
 三重の綱とは、霊的覚知に満たされた無心の理性、ないし、神の天使を同伴者として有する賢い理性のことである。彼〔伝道者〕が謂っているのが、「切れることはない」ではなく、「すぐに切れることはない」であるのもよい。なぜなら、ロゴス的自然は変わりうるからである。

32."11"
 4, 13「貧しくても賢い子どもの方が、
32."21"
老いた愚かな王より善い。
32."31"
注意すべきことにまだ無知なところの〔王よりも〕」。
32.1
 子どもとは、若いころから教えを守っている者のこと、老いた〔王〕とは、若いころからの教えをなおざりにし、神的な契約を忘れて、悪にそまって年老いた者のことである。そして、第1の者はクリストスに属し、第2の者は邪悪者(poneros)に属する。

33."11"
 4, 14「〔その子どもは〕獄屋から解放されて、王位に就くであろう、
33."21"
その〔愚王の〕王国に貧しく生まれたけれども」。
33.1
 獄屋とは、感覚的なこの世のことである。ここにおいて、「自分の罪の鉄鎖に各人はとらえられる」〔Prov. 5:22〕。

34."11"
 4, 17「あなたの足を守れ、―神の家に赴き、
34."21"
聞くために近づくときは。
34."31"
愚者たちの供物よりも、あなたの供儀の方がまさっている。
34."41"
彼らは悪を行っていることを知らないのだから」。
34.1
 「彼らはどうして躓くのか知らない」〔Prov. 4:19〕、不法を行っているということ、そのことさえ知っていないのだから。

35."11"
 5, 1「あなたの口をせかしたり、
35."21"
あなたの心を焦らすな。
35."31"
神の顔前で、言葉を出そうとして。
35."41"
神は天にあり、あなたは地上にあるということ。
35."51"
このゆえに、あなたの言葉は少なくてよい。
35."61"
 5, 2 仕事(peirasmos)が多いと、夢が現れ、
35."71"
言葉が多いと、愚者の声が〔現れる〕から」。
35.1
 「なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないから」〔Rom. 8:26〕。ここで、性急さとは、これを言うことを望むのではなく、無考えに神について言うなと〔伝道者は〕下知しているのである。なぜなら、諸々の感覚の内にあり、それから諸々の表象(noemata)を得る者が、神〔の表象〕、および、あらゆる感覚をまぬがれたものの諸表象、の内に有るものにつて、躓くことなく対話することは不可能だからである。それゆえ〔伝道者は〕謂う。「あなたの言葉は少なくてもよい」。すなわち、真実で用意周到な〔言葉であればよい〕。というのは、少なさとは、何か次のようなことを表しているようにわたしにはみえるのだ。つまり、「義人のもつ少しのものは、罪人たちの多くの富にまさる」〔Ps. 36:16〕とか、「義なる手段による少しの獲得の方がまさっている」〔Prov. 15:29a〕とか。なぜなら、このことを守っている者たちに謂っているのではないからである。「仕事(peirasmos)が多いと、夢が現れ、言葉が多いと、愚者の声が〔現れる〕」 — 夢と言っているのは、魂たちが眠っているときに、数多の仕事(peirasmos)をもって出現するダイモーンや、魂を掻き乱すもののことである。このものについてはイオーブも主に向かって謂っている。「あなたは諸々の夢をもってわたしを恐れさせ、幻をもってわたしを驚倒させるであろう」〔Job 7:14〕。ダウイドもこの敵を避けるため、こう言って主に呼びかける。「わたしの眼を照らしてください。わたしが死の中に夢見ることのありませんように。わが敵に云わせないでください、やつに勝った、と」〔Ps. 12:4〕。『箴言』の中でも。「おまえの眼に眠り(hypnos)を与えるな、おまえの瞼にまどろみを与えるな。羚羊を輪なわから、小鳥を罠から〔救う〕ように救うために」〔Prov. 6:4〕。さらに、これのことを愚者の声とも〔伝道者は〕言っている。偽りの言葉をもって現れ、魂を欺くからである。このこともこうある、「嘲りそしる者の声により」〔Ps. 43:17〕。次のもまた愚者の声にあてはめることができる。「多言により、罪を避けられず」〔Prov. 10:19〕。さらに救主も『福音書』の中で、人間は目覚めていて祈るよう下知しておられる。誘惑に陥らないためである。なぜなら、夢はロゴス的魂の無知であり悪であるから。ここから、パウロスも、そういうふうに眠っている者たちを、こう言って眠りから覚めさせている。「起きなさい、眠っている人よ、そして屍体の中から立ちなさい。そうすれば、クリストスがあなたを照らしてくださるであろう」〔Ephe. 5:14〕。

36."11"
5, 3「神に誓願(euche)するとなれば、
36."21"
それを果たすことを遅疑するな。
36."31"
愚者たち〔の多言〕は喜ばれない。
36."41"
されば、あなたが誓願したかぎりのことは、果たせ。
36."51"
 5, 4 あなたは誓願しない方が善い。
36."61"
あなたが誓願して果たさないことよりも」。
36.1
 諸々の善き賜物のうち、あるものは神によって魂からもたらされ、あるものは身体から、あるものは身体の周りから〔もたらされる〕。わたしたちが彼によって魂からもたらされるのは、まっすぐな信実(pistis)と真実の教え(dogmata)、義(dikaiosyne)と男らしさ(andreia)と慎み(sophrosyne)。身体から〔もたらされるの〕は、自制(enkrateia)と純潔(parthenia)と一夫一婦主義(monogamia)。身体の周りから〔もたらされるの〕は、息子たちと娘たちと奴隷たちと財産と家畜である。そこで、請け合うこと、遅疑することを見ることにしよう。遅疑(chronismos)という語が表すのは、時間の大きな合間ではけっしてなく、請け合いの完全な拒否である。例えば、イアコーブは、数多の歳月の後、神に十分の一税 — これに供えると請け合ったもの〔Gen. 28:22〕 — を果たすため、メソポタミアへと赴き、アンナは〔わが子〕サムゥエールを、数多の時間の後、神にささげた〔サムエル記上1:28〕。身体の周りの捧げ物については、以上のごとくである。次に、魂と身体との捧げ物については、いかに理解すべきか。わたしはこう考える、 — 正しい信念を請け合いながら、被造物は、聖なる三位一体に由来するものらの一つのようなものだと言う人は、遅疑しているのである、また、万物は神によって生じたと告白すると公言しながら、今度は原子論(automatismos)を唱道する人も、遅疑しているのだ、と。その他諸々の教義についても同様である。次に、諸々の徳についてはこうである。義を請け合いながら、不義をなす人は、果たすことを遅疑しているのだし、慎み(sophrosyne)を公言しながら、逆に邪淫をなす人も、遅疑しているのである。次に身体については。節制を請け合いながら、逆に食い物を多種多様に変化させる人は、遅疑しているのであり、純潔とか一夫一婦主義とかを公言しながら、結婚したり再婚したりする人は、果たすことを遅疑しているのである。では、「誓願しない方が、誓願して果たさないことよりも善い」のはどうしてかということは、福音書の言葉を引いて、知らずにしなかった奴隷は、鞭打たれ方が少ないが、知っていてしなかった〔奴隷〕は、鞭打たれ方が多いであろう〔Luke 12:47-8〕ということで、解答としよう。

37."11"
 5, 5「あなたの口をすべらせて、あなたの肉に罪を犯させるな、
37."21"
そして、神の顔前で云ってはならない、それは無知によること(agnoia)でした、と。
37."31"
神があなたの声に怒り、
37."41"
あなたの手の業(poiemata)を台無しなさらないために。
37."51"
 5. 6 夢が多いと、空しさも言葉も多くなる」。
37.1
 邪悪なる「夢が多いと」と〔伝道者は〕謂う、人間は「空しさも言葉も」虚偽なるものとなる。彼の働きが、神の見放し(enkataleipsis) — みずからの不法行為によって自分に結果したところの — によって、台無しになるからである。

38."11"
 5, 7「貧しい者に対する虐げや、裁き(krima)と正義(dikaisyne)の蹂躙を、この州で、あなたが見ても、
38."21"
そのことで驚くなかれ。
38."31"
なぜなら、高官は高官を守り、
38."41"
彼らの上には〔さらに〕高官がいるのだから。
38."51"
 5, 8 つまるところ、大地の余得(perisseia)は、
38."61"
耕される耕地の王である。
38."71"
銀を愛する者は、銀に満足しない。
38."81"
誰でも財を愛する者は、その収益(genema)に〔満足し〕ない。
38."91"
これもまた空である。
38."101"
 5, 10 善福(agathosyne)が増すと、それを食い物にする者が増す。
38."111"
その持ち主には、いかなる男らしさ(andreia)があろう。
38."121"
その眼によって見はじめる以外に。
38."131"
 5, 11 奴隷の眠りは甘い、
38."141"
少なく食べようが、多く〔食べよう〕が。
38."151"
富めることに満ち足りた者、
38."161"
彼が安らかに眠ることはない」。
38.1
 〔伝道者は〕謂う、人間界において、ある連中は虐げ、ある連中は、裁きのさいに、義しい行いをする他の者たちにさえ、裁判のなかで不正するのをあなたが見ても、生起していることに、〔神の〕はからい(pronoia)にあらずと、驚くことはない。なぜなら、知るがよい、 — 神はクリストスを通してあらゆることを守り、この方が今度は聖なる天使たち(地上にあるものらの覚知を営む者ら)を通して、あらゆることをおはからいになるのだということを。なぜなら、神は、ほかならぬこの世にあまねく生じたものの王であり、強欲(pleonexia)とこの生の空しさを、クリストスの覚知よりも尊重する連中には患難を与え、善福(agathosyne)に生き、男らしさと義とに隷従する者たちには、神の覚知と甘き安らぎとを〔与えたもう〕。たとえ、ここにあるものらのいくつかは数少なく〔知り〕、あるいは、言葉は数多く彼らが知っていても、彼らは部分的に知り、部分的に予言するにすぎないからである。そして、前者はこういう結末が受け容れ、悪に満たされた後者は、その〔悪〕から産まれる蛆虫が一息つくことも許さないであろう。そこで主は、天使たちにこの世を信託したということを、モーセースがこう言って示している。「至高者が諸民族を分けたとき、アダムの息子たちを散らしたとき、神の天使たちの数に従って、諸民族の境界を設けた」〔Deut. 32:8〕。畑のことをこの世と名づけたことは、わたしたちの主ご自身も『福音書』の中で言っておられる。「畑とはこの世のことである」〔Matt. 13:38〕。大地の余得(perisseia)と言うのは、地上にあるものらの覚知のことである。いわば、「浄福なるかな、柔和な者たちは。彼らは地を受け継ぐであろうから」〔Matt. 5:5〕。ロゴス的自然の嗣業として、神の覚知より他に、いったい何があろうか。だから天使たちを高き者たちと云ったのは、彼らが高き主に関与するからである。「なぜなら」と〔聖書は〕謂う、「すべての民族の上に高きは、主である」〔Ps. 112:4〕。

39."11"
 5, 12「日の下にわたしの見た病(arrostia)がある。
39."21"
守られた富が、その持ち主にとって、その人の悪になるのを〔わたしは見た〕」。
39.1
 数多の悪が、今、富によって明らかにされる。悪そのものは、病(arrostia)によって表される。かくして、自分のためにその富を守る人はすべて、神の知恵を知らず、自分の心を自覚へと勧めることもせず、これを自分の神によって訓戒へと勧めることもしない。なぜなら、神のいましめの詞を受け容れもせず、自分の心にそれ〔神のいましめの詞〕をかくまいもしないからである。

40."11"
 5, 13「その富は、邪悪な〔=つらい〕営み(perispasmos)のなかで失われてゆく。
40."21"
彼は息子をもうけたが、その手には何ひとつ残らない」。
40.1
 邪悪な〔=つらい〕営み(perispasmos)とは、懲罰をともなう無知 — 不浄な者を霊的観想から遠ざけるところの — のことである。

41."11"
 5, 14「その母の子宮から裸で出てきたように、
41."21"
逝くために、やって来たようにもどってゆく。
41."31"
その労苦にもかかわらず、何ものも携えることなく。
41."41"
その手に持てゆくものは〔何ものも携えることなく〕。
41."51"
 5, 15.1-2 これもまた邪悪な〔=つらい〕病(arrostia)である。
41."61"
なぜなら、やって来たように、そのようにまた去ってゆくのだから」。
41.1
 イオーブも謂う、「わたしは裸でわが母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」〔Job 1:21〕。ここで前者は、「その母の子宮から裸で出てきたように、逝くために、やって来たようにもどってゆく」〔Ecc. 5:14〕。しかしイオーブはといえば、義人として、悪(kakia)と邪悪(poneria)とから裸で去ってゆく。これに反し前者は、この世にやってくるときともなっていた無知、これを持ったまま、またかしこに去りゆくのである。

42."11"
 5, 17「見よ、わたしが見きわめた善とは、それは美である。
42."21"
喰らうこと、飲むことの〔美〕、
42."31"
そして善福(agathosyne)を見ることの〔美である〕。
42."41"
そのあらゆる労苦の中に、
42."51"
日の下で労苦する、その〔労苦に善福(agathosyne)を見るところの美である〕。
42."61"
その生涯の日々の数、
42."71"
神が自分に与えた〔日々〕の〔数の間に労苦するところの〕。
42."81"
それが彼の配当(meris)だからである。
42."91"
 5, 18 じっさい、人間は、神がこれにお与えになったのである。
42."101"
富を、資力(hyparchonta)を、また彼に権利をあてがわれた —
42."111"
それによって喰い、その分け前を受け取り、
42."121"
その労苦によって好機嫌となる〔権利を〕。
42."131"
これが神の賜物である。
42."141"
 5, 19 たしかに、自分の生涯の日々を数々記憶することはない。
42."151"
神は彼を、その心の好機嫌で満たすよう営まれるのだから」。
42.1
 神の覚知と言われるのは、理性の食(brosis)でもあり、飲(posis)でもあり、(agathosyne)でもあり、配当(meris)でもあり、富(ploutos)でもあり、資力(hyparchonta)でもあり、好機嫌(euphrosyne)でもあり、神の営み(perispasmos)でもあり、光(phos)でもあり、命(zoe)でもあり、賜物(doma)でもある。さらに多くの他の名前を、聖なる霊は覚知につけている。それを、今、列挙することはできない。註釈の決まりが許さないからである。

43.1
 知恵と覚知との富を得るけれども、しかし全然守り通さない人たちの逆が述べられているのが、「また彼に権利をあてがわれた」という箇所である。というのも、裏切り者・イウゥダスは、叡智的富と霊的資力とを受け取ったけれども、それらに対する権利はもたなかったのである。利得のために知恵と神の真理とを裏切ったからである。

44.1
 人間が神から霊的覚知を受け取った場合、その生活や、感覚的命を思い起こすことは滅多にない。その心がいつも観想に忙しいからである。

45.1
 神の営み(perispasmos)こそ真実な覚知 — 浄化された魂を、感覚的事象から遠ざけるところの〔覚知〕 — である。

46."11"
 6, 1「日の下にわたしの見た邪悪(poneria)がある。
46."21"
これもまた、人の上に多い。
46."31"
 6, 2 このひとは、神がこれにお与えになる、
46."41"
富と資力と栄誉を。
46."51"
その魂には、
46."61"
欲するもの何ひとつも欠けるところがないのに、
46."71"
神はそれを喰らう権利を彼に許されない、
46."81"
よその人がそれを食い物にするからである。
46."91"
これもまた空であって、邪悪なる病(arrostia)である。
46."101"
 6, 3 ひとが百人の子をもうけ、数多の歳を生き、
46."111"
その歳月の日々がどれほど多かろうとも、
46."121"
その魂は善福(agathosyne)に満ち足りることなく、
46."131"
墓が彼に〔準備されてい〕なかったら、
46."141"
わたしは云った、死産の子の方が彼よりも善い、と。
46."151"
 6, 4 〔死産の子は〕空しくやってきて、闇の中を逝き、
46."161"
闇の中にその名を隠され、
46."171"
しかも、太陽を見ることなく、知ることがないから、
46."181"
あなたは前者よりも後者に安らぎをみるであろう。
46."191"
 6, 6 たとえ、千年を二度生きたとしても、
46."201"
〔前者が〕善福(agathosyne)を見ることはない、
46."211"
すべてのものは、〔死んで〕ひとつ場所に逝くのではないか?

46.1
 この章で言っているのは、無心や覚知にふさわしい人びと、さらには悪魔の妬みによって転落した人たちについてである。第2の章は、不浄・多子にして、神を悟ることのない人の長い人生のことが書かれている。この〔ような人生〕よりも、死産の子の方が尊ばれ、死後はこれ〔死産の子〕と同じ場所を得るのだと結ばれる。

47.1
 富 — あらゆる覚知とあらゆる知恵に富んでいる — を台無しにする人こそ、邪悪者(poneros)である。こういう人を、神の覚知の外人(xenos)とも他人(allotrios)とも言う。喰らうというのは、食物についても台無し(diaphthora)についても言われる。「もしあなたがたが喜び、わたしに聞き従うなら」と〔聖書は〕謂う、「地の善きものを喰らうであろう。しかし、もし喜ばず、わたしに聞き従わないなら、剣があなたがたを食い尽くすあろう」 — 〔食い尽くすは〕台無しにするの代用である。「なぜなら、これは主の口が話されたことであるから」〔Isaia. 1:19-20〕。ところがこの外人(xenos)は、ダウイドのところに出向いて、彼〔=ダウイド〕が貧しい者の子羊を供儀にしたと説いたのであった。というのは、預言者ナタンも、彼を外人(xenos)と名づけたことがあるのだから注19)。

48."11"
 6, 7「人間の労苦はすべて、その口のため。
48."21"
それでも魂は、満ち足りることがない」。
48.1
 人間の悪はすべて、その心の中にとどまる。だから、云ってはならない、「わたしたちすべてのものは、その満ち満ちているものの中から受け取った」〔John 1:16〕と。

49."11"
 6, 8「いったい、知者にとって、愚者よりもいかなる余得(perisseia)があるというのか。
49."21"
貧者が、命に面と向かって進むことを知っている所以である。
49.1
 〔命と〕いうのは、「わたしは命である」〔John 14:6〕と云っている〔命のことである〕。

50."11"
 6, 9「眼の見えることの方が、魂の逝くのよりも、善い。
50."21"
ところが、これもまた空であって、風をつかまえる努力にすぎない」。

50.1
 神の覚知に聞き従う人は、魂の思い(thelema)に聞き従う人よりも善い。あるいは、神の覚知は、台無しになった快楽よりも善い。だから、シュムマコスによると、望み見ようとする人にとっては、手許にあるものらに好機嫌となるよりも、より善い、という。

51.1
 空(mataiotes)、邪悪なる〔=つらい〕営み(perispasmos)、風をつかまえる努力(proairesis tou pneumatos)をあてはまめるのがふさわしいのは、この章〔に登場する〕すべての人々ではなく、非難されるべき人々にあてはめ、称讃さるべき人々にはあてはめないのが〔ふさわしい〕。これをわたしが言う所以は、空(mataiotes)、営み(perispasmos)、風をつかまえる努力(proairesis tou pneumatos) — この中に称讃さるべき事象も含まれる — そのものを、この章全体に共通して述べ立てているわけではないからである。なぜなら、空なのは、命に面と向かって進む貧者ではなく、千年を二度生きても、善福(agathosyne)を観ない人だからである。さらにまた、空なのは、眼のよく見えることではなく、魂の逝く人だからである。

52."11"
 6, 10「何かが生じようと、すでにその名が呼ばれ、
52."21"
人間は何ものであるかも知られた。
52."31"
自分より力あるものと争うことはできない。
52."41"
 6, 11 多言は空しさを増すものである。
52."51"
人間にいかなる余得(perisson)があろうか。
52."61"
 6, 12 生涯のうちに、人間にいかなる善があるかを誰が知ろう。
52."71"
その空しさの生涯の日々の数のあいだに、
52."81"
その〔日々〕を影のうちにすごすのに〔人間にいかなる善があるかを誰が知ろう〕。
52."91"
人間に述べ伝えるのは誰、
52."101"
その死後に、日の下に何が起こると。
52."111"
いかにあるか、誰が彼に述べ伝えるのか」。
52.1
 名前には、身体的自然に属するものと、無身体的自然に属するものとがある。身体的自然に属する名前は、各事象の性質(poiotes)を表し、この〔性質〕は、大きさ、色、恰好から構成される。無身体的なものらの名前は、各ロゴスの境涯 — 称讃さるべき〔境涯〕であるか、非難さるべき〔境涯〕であるか — を明らかにする。しかしながら、第一の名前は、諸々の事象に単純につけられるが、第二の〔名前〕は、単純ではない。選択意志(proairesis)に依存するからである。例えば、選択の自由に属するのは、徳への傾向性、つまり、自分を天使とか天使長とか王座とか主権となす覚知にあたいするものとされることとか、悪への傾向性、つまり、自分をダイモーンとかサタンとか何か他の、この影なるこの世の主権者(kosmokrater)となすところの無知(agnoia)で満たすことである。そこで、もし、と〔伝道者は〕謂う、世界創造の時に、何かが生じたら、その境涯を表す名前を得、人間も、その境涯〔を表すものを〕みずからの名前として得た。そういう次第で、と〔伝道者は〕謂う、人間は言ってはならない、「何のためにこういう身体といっしょの軛につながれているのか」とか、「なぜにわたしは天使として生まれなかったのか、神にえこひいきがなかったのなら、あるいは、わたしたちは選択の自由をもっていなかったのでないとしたら」とか。なぜなら、こういう言葉は、空しさを増すだけだから。いったい、拵えられたものが、拵えたものに質問することがあろうか、「わたしをこういうふうに作ったのはどうしてなのか」などと。それとも、〔拵えられたものは〕神にどう返答してもらえるであろうか。いや、〔拵えられたものは〕こういった諸々の言葉をやめ、徳と覚知を達成できることのみをせよ。影のごときこの代(aion)にあるかぎり、ここにおけるいっさいは空にして、影であると想念して。そうすれば、逝去(exodos)の後、この生に属することは忘却によってのごとくに隠されるであろう。

53."11"
 7, 1「善き名は、善き油にまさる。
53."21"
そして、死の日は、その誕生の日にまさる」。
53.1
 名は、固有の自然本性上、善くも悪く(poneros)もない。なぜなら、〔名は〕異なった文字から出来ているが、文字はどれひとつとして、善ないし悪ではないからである。ただ、善き事象につけられた〔名〕が善き〔名〕と言われ、邪悪なる〔事象〕に〔つけられた名〕が邪悪な〔名と言われるにすぎない〕。ここからして、善き名は善き事象を表す。だから、ソロモーンは、生じたものの何ひとつも、徳と神の覚知を〔言うので〕ないかぎりは、善きものとは言わない。さて、今、油は身体的贅沢を表す。これは、贅沢三昧の者たちにとっては善きものに見える。なぜなら、善と言われるのは、徳のごとく、自然本性的に善きものであることもあれば、あるひとたちにとってのそれ〔善〕とは、金や銀のごとくであることもある。こういうふうに、富裕者はその善きものらを、その命ある間に受け取り、「ラザロスも同じように悪しきものらを〔受け取った〕」〔Luke 16:25〕。さて、油とは贅沢に譬えられているということは、ダウイドが人間どもについてこう言って証拠立てている。「穀物と酒と油の実りによって彼ら〔人の子ら〕を満たした」〔Ps. 4:8〕。

54.1
 称讃さるべき死 — これによって義人たちはクリストスとともに死ぬ — が、自然本性的に、魂を悪と無知から解放するよう生まれついているなら、そうであるなら、逆に、このような死の反対である誕生は、魂を悪と無知に結びつけるものである。これこそ、そのような死が、このような誕生よりも尊い所以である。

55."11"
 7, 2「悲嘆の家に行くのは、
55."21"
酒宴の家に行くことよりも善い。
55."31"
これこそがあらゆる人間の終わり〔の姿〕であり、
55."41"
生者は、善きこととして、その心に留めねばならない」。
55.1
 人間の終わりは、浄福である。ただし、主が『福音書』の中で悲嘆を浄福視するかぎりにおいてである。すなわち、「浄福なるかな」と謂う、「悲嘆するものらよ、彼らは慰められるがゆえに」〔Matt. 5:4〕。美しくも、ソロモーンは悲嘆を人間の終わりという、これこそが、そこに生きる者たちを、諸々の霊的な善きものらで満たす、と。

56."11"
 7, 3「気性は笑いよりも善い。
56."21"
顔が悪くても、心は善福となるからである。
56."31"
 7, 4 知者たちの心は、悲嘆の家にあり、
56."41"
愚者たちの心は、好機嫌の家にある。
56."51"
 7, 5 知者の叱責を聞くことは、
56."61"
愚者たちの歌を聞く人よりも、善い。
56."71"
 7, 6 鍋の下で〔燃えてはじける〕茨の声のごとく、
56."81"
愚者たちの笑いは、そのようなものだから。
56."91"
しかし、これもまた空である。
56."101"
 7, 7 虐げは知者を引きずりまわし、
56."111"
その心のひたすらさ(eutonia)を滅ぼすからである」。
56.1
 徳のために競い合い、気性がダイモーンたちと殴り合う場合には、強さ(ischyros)と称讃(epainetos)がある。しかし、台無しになった事象のために人間どもと争う場合には、〔気性は〕非難さるべきもの(psektos)となる。そういうわけで、ここにおいて〔伝道者が〕言っているのは、次のようなことである。つまり、愚者は悪と笑いによって善福となり、これによって好機嫌となる。恥ずべき歌を拒むこともなく、その魂を、茨の中に燃えあがる火のように、台無しにする笑いを〔拒む〕こともない。これに反して義人は、そういった諸々の情念に対して気性を働かせ、憤慨し、悲嘆はそのような好機嫌よりも尊く、知者の叱責はこのような歌よりも〔尊い〕と考える。そして、このような生を空とか虐げと名づけるのである。知者の心を簡単に欺き、その〔心の〕諸徳の内にあるひたすらさ(eutonia)解消する〔虐げを〕。

57."11"
 7, 8.1「言葉の終わり(eschate)は、その初めよりも善い」。
57.1
 〔伝道者は〕謂う、理性の作者は、律法の聞者よりもまさっている。なぜなら、第一の言葉たちは、教えの言葉と言われるが、最後の言葉たちは、仕事の言葉と呼ばれる。いうなれば、この言葉は、美しい仕事ゆえに、美しい言葉であると言われるからである。

58."11"
 7, 9「あなたの霊の中で、気性を働かせることを急ぐな。
58."21"
気性は、愚者たちの胸の中に休らうからである」。
58.1
 ここでは反対に、胸と名づけているのは魂のことだと表すべきである。なぜなら、気性が感覚的な胸の内に休らうと云うひとはいないであろうから。

59."11"
 7, 10「云うなかれ。
59."21"
以前の日々の方が、この日々よりも善かったのは、なぜか、などと。
59."31"
あなたがこれを問うのは、知恵から出るのではないから」。
59.1
 もしも、「主への畏れが日々を増し加える〔=寿命を延ばす〕」〔Prov. 10:27〕のなら、聖なる覚知の日々を、善き日々として、あるいは、もっと善き日々として享受することは、わたしたちの意志のもとにあることになる。だから、時間的に年長者たちに、覚知の一等賞も与えられると考えるのは、知者たちのすることではない。なぜなら、何か初めのものがあれば、それが名誉にあたいするものであるというわけでもない。悪も、完全に古いものなのだからである。そうではなくて、時間〔の長さ〕によって尊重されるにあたいするというわけでもない。というのは、「長命者たち、必ずしも知者ならず、老齢者たち、必ずしも道理(krima)をわきまえず」〔Job 32:9〕だからである。

60."11"
 7, 11「嗣業(klerodosia)をともなう知恵は善い。
60."21"
日を観る者たち〔=後に生まれ来る者たち〕の余得(perisseia)となる。
60."31"
 7, 12 知恵は、銀の影のように、その影に宿るからである。
60."41"
知恵の覚知の余得(perisseia)は、
60."51"
これを持つ者を生かす」。
60.1
 日を観る者たちが、すでに観た者たち、まだ観ぬ者たちよりも何か余得を持っているように、知恵を得、これを自由にする権利を持った者たち — これこそ、「嗣業(klerodosia)をともなう」ということである — は、それを得ても、みずからの不法ゆえに、それから転落した者たちよりも、より多くのものを所有しているのである。というのは、知恵を所有しながら、これを失った者はみな、先ず第一に、知恵の影、つまり、知恵ならざるものを所有しているのであり、さらにはまた、銀の影をつかまえながら、銀ならざるものを所有している人間に似ているからである。なぜなら、知恵は、つかまえられるものではなく、これを所有している者を、覚知によって生かすことにたずさわるものという自然本性を有しているからである。

61."11"
 7, 15.2-3「おのれの義しさゆえに、滅んだ義人がおり、
61."21"
おのれの悪ゆえに、ながらえた不敬者がいる」。

61.1
 滅び(apoleia)とは、審査(dokime)による〔神の〕お見棄て(enkataleipsis)とも言われる。ちょうど、イオーブにおけるように。すなわち、「わたしは破滅した」と謂う、「わたしは家なき者となった」〔Job 6:18〕。

62.1
 「しかし、わが足はまさに」とダウイドは謂う、「滑らんばかり、わが歩みはあやうく踏み外さんばかりだった。不法者らを妬んだからだ。罪人たちの平和を観るたびに」〔Ps. 72:2〕。

63."11"
 7, 16「義しすぎてはならない。
63."21"
あまりに賢くあってはならない。決して自滅するなかれ。
63."31"
 7, 17 不敬すぎてはならない、酷な人となってはならない。
63."41"
あなたの時(kairos)でないのに、死なないために。
63."51"
 7, 18 善いのは、あなたが前者に固執すること、
63."61"
そしてまた、後者のことであなたの手を汚してはならない。
63."71"
神を畏れる人は、そのすべてを脱するであろうから」。
63.1
 〔伝道者は〕謂う、あなたの心の中に不敬な想念(logismos)を生きながらえさせてはならない。あなたの魂が不敬を犯して、〔聖なるものの〕無知ゆえに死んではならない。自分たちの時機(kairos)でないのに、ソドム人たちもゴモラ人たちも死んだ。その時(chronos)が修徳の時機(kairos)だとしても、この時(chronos)に死んで、「わたしは命である」〔John 14:6〕と云う命を離れた者たちは、時機(kairos)にかなって死ぬのではない。

64.1
 善いのは、義しすぎてはならないということに固執することであり、しかしまたあなたの手を不敬で汚してはならない。神を畏れる人は、あらゆる悪から脱するからである。

65."11"
 8, 2.1「王の口〔=命令〕を守れ」。
65.1
 ここで、口というのは、ロゴス、ないし、いましめ(entole)のことである。

66."11"
 8, 12.3-5「もちろんわたしは知っているからである。
66."21"
神を畏れる者たちにとって善いのは、
66."31"
その顔前で畏れるようにすることだと。
66."41"
 8, 13 不敬者にとって善くなく、
66."51"
影の中で日々を生きながらえられないのは、
66."61"
神の顔前で畏れない人である」。
66.1
 ここで善いと言うのは、神の覚知のことである。

67."11"
 8, 14「地上に行われてきたところの空がある。
67."21"
義人であるということが、
67."31"
不敬者たちの行為(poiema)のごとく、その身に及ぶという〔空〕。
67."41"
また、不敬者であるいうことが、
67."51"
義人たちの行為(poiema)のごとく、その身に及ぶという〔空〕。
67."61"
わたしは云った、これもまた空である、と。
67.1
 〔伝道者は〕謂う、地上に生じる空がある、義人であるということで、不敬者たちのごとく、災禍に遭遇し、また、不敬者であるということで、義人たちのごとく、善きものらを享受する〔という空が〕。というのは、このことについては預言者も主に向かって謂っている。「しかしなお、あなたの前に裁き(krima)のことを論じたい。不敬者たちの道が栄えるのはどうしてなのか」〔Jerem. 12:1〕。ダウイドも、「あやうく」と謂う、「わが歩みをわたしは踏み外さんばかりだった。不法者らを妬んだからだ。罪人たちの平安を見るたびに」〔Ps. 72:2-3〕。

68."11"
 9, 1.1-2「じっさい、わたしはこのことすべてをわが心に留め、
68."21"
わが心はこのことすべてを見きわめた」。
68.1
 人間は、事象の問いに答えることで、その〔事象〕を心に導入し、しかる後に、心は心でその事象を覚知する。これこそ、「わたしは、そしてわが心も、覚知するために回転した」〔Ecc. 7:25〕ということである。なぜなら、回転するのは、事象と、これを調査を通して心に導入する人と、再びこれを覚知する心とであるから。ただし、次のことは観察しなければならない。つまり、人間が回転させることのすべてを、必ずしも心が覚知するわけではないということである。というのは、わたしたちは多くことを問いかけるが、わずかなことしか知らないからである。

69."11"
 9, 10.3-4「業(poiema)も想念(logismos)も覚知(gnosis)も
69."21"
知恵(sophia)も、ないのだから。あなたがそこに赴くところの冥府には」。
69.1
 冥府に想念がないなら、いかにして富裕者は、ラザロスを自分のところに遣わしてくれるよう、アブラアムに頼むのか?〔Lule 16:19 ff.〕

70."11"
 9, 12.1「ところが、人はその時(kairos)を知らない」。
70.1
 時(kairos)とは、修徳(katorthosis)のとき(chronos)であるということを、人間は知らない。なぜなら、時(kairos)とは、好機(eukairia)であることは明らかであるから。

71."11"
 11, 9.3_4「非の打ち所なきひとよ、あなたの心の道に歩み、
あなたの眼の見るところに歩め」。
71.1
実践(praxis)と観想(theoria)とによって。

72."11"
 11, 10.1_2「あなたの心から気性を取り除け。
72."21"
あなたの肉から邪悪(poneria)を除け」。
72.1
 ここから、わたしたちは知るのである。気性的部分は心と同じ軛につながれ、欲性的部分は、肉と〔同じ軛につながれている〕ということを。

73.1
 ここで、邪悪(poneria)とは、邪淫(porneia)と貪食(gastrimargia)とのことを言うのである。

2005.03.21. 訳了。


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