『修道者の修業の基礎(Rerum monachalium rationes)』


[底本]
TLG 4110 010
Rerum monachalium rationes, MPG 40: 1252-1264.
(Cod: 2,529: Eccl.)





40.1252."45t"
修道者エウアグリオスの
40.1252."46t"
修道者たちの修業(pragmata)の基礎(aitia)と、これと寂静(hesychia)との関連(parathesis)

40.1252.49
1.
 『ヒエレミア記』の中に、こう述べられている。「あなたはこの所で妻をめとってはならない。この所で生まれる息子たちや娘たちについて、「主」はこう言われるからである。彼らは死という病にかかって死ぬ、と」〔Jer. 16:1-4〕。この言葉が示しているのは次のことである。つまり、「使徒」によれば、「結婚した人間は、いかにして妻の気に入られようかと、この世の事を思い煩い、こころを引き裂かれる。結婚した女も、いかにして夫の気に入られようかと、この世の事を思い煩う」〔1Cor. 7:33-4〕。明々白々なのは、この預言者によって、「死という病にかかって死ぬ」と述べられているのは、結婚生活にともなってできる息子たちや娘たちのことのみならず、彼らの心に生まれる息子たちや娘たち、つまり、諸々の肉的想念や諸欲望についても、この世の病的で虚弱で自堕落な念慮(phronema)によってこの者たちも死に、天上的で永遠の生命を得ることはないということである。「これに反して未婚者は」と〔聖書は〕謂う、「いかにすれば「主」の気に入られるか、「主」の事を思い煩う」〔1Cor. 7:32〕、そして、天上の生命の、永遠に若々しい不死の実りを手に入れるのである。

40.1253.18
2.
 これこそが修道者である。そして、修道者はこのように、女から遠ざかり、上述の所で、息子や娘を作らずにあるべきなのである。いや、それどころか、クリストスの兵士でさえあるべきなのである。質料なく、思い煩いなく、あらゆる俗事的な思考や行いから離れて、「使徒」も謂っているとおりに〔あるべきなのである〕。「兵役に服して、〔日常〕生活の俗事に煩わされることなく、兵隊徴募の司令官に気に入られるようにする」〔2Tim. 2:24〕。修道者はこのような立場に立ちなさい。とりわけ、この世のあらゆる質料を棄てて、寂静の麗しくも美しい勝利牌めざして疾走して。なぜなら、寂静のための修行(askesis)は、何と麗しく美しいことか、本当に、何と麗しく美しいことか! その軛は有用で、その荷は軽い〔Matt. 11:30〕。その生は快く、その行いは喜ばしい。

3.
 そういう次第であるから、愛する者よ、そういうものとして独りの(moneros)生活を採用し、寂静の勝利牌へと疾走することを望むのではないか。〔ならば〕ここに放置せよ、この世の気遣い(phrontis)を、これら〔気遣い〕に対する諸々の支配と権威を。すなわち、無質料的な者、無心の者となれ、あらゆる欲望を離れて。そうすれば、これらのものに依存する環境とは他人となり、美しく寂静を修めることができよう。なぜなら、これらものからわが身を引き離さないかぎり、この行住坐臥(politeia)そのものを修めること(katorthosai)はできないからである。

 つましくお粗末な食べ物に固執しなさい。数多の、気を散らす〔食べ物〕に〔固執しては〕ならない。たとえ、客遇(philoxenia)のためとして、高価な〔食べ物〕に関する想念が起こっても、これはそこに放置せよ。断じてこれ〔想念〕に耽ってはならない。なぜなら、逆らう者はそれによってあなたを待ち伏せし、寂静を失うために待ち伏せするのだからである。こういったことにいかにも熱心だった魂・マルタを非難し、こう言われた「主」イエースゥスをあなたは〔例として〕持っている。なぜ、「多くのことに」あなたはたずさわり、「気を遣うのか。必要なのはひとつのこと」〔Luke 10:41〕と謂う、〔そのひとつは〕神的な言葉を聞くことである。そうすれば、その後で、すべてが難なく見いだされる。それゆえ、すぐに付け加えてこう言われるのである。すなわち、「マリアは、善い部分を選び取った。それは彼女から取り去られてはならないものである」〔Luke 10:42〕。さらにまた、サレプタの寡婦の事例をもあなたは持っている。彼女が何をもってあの預言者〔エリヤ〕をもてなしたかを〔列王上17〕。たとえ、あなたがパンと、そして水しか持っていなくても、それらによって客遇の報酬を受けることができる。たとえそれらさえ持たなくても、善き志(prothesis)をもって客人を迎え入れ、これに有用な言葉を与えるだけで、あなたは同様に客遇の報酬を獲得することができる。なぜなら、善き言葉は賜物にまさる〔Ecclus. 18:17〕と述べられているからである。

40.1256.8
4.
 こういったことが、憐れみ(eleemosyne)についてあなたの気遣う(phronein)べきことである。しかし、だからといって、貧しい者たちに分配するために、富を持とうと欲してはならない。なぜなら、それもまた邪悪者の欺瞞(apate)にほかならないからである。〔この欺瞞は〕しばしば虚栄(kenodoxia)へと接近し、多忙の原因へと理性を投げこむ。『福音書』の中に、「主」イエースゥスによって証言されている寡婦をあなたは〔例として〕持っている。彼女は、たった2レプトンで、意志(proairesis)と力能(dynamis)とにおいて、富裕者たちを凌駕した。「なぜなら、あの者たちは」と謂う、有り余る中から賽銭箱に投げ入れたが、彼女のみは、自分自身の全財産(hyparxis)を〔投げ入れたのである〕」〔Mark 12:44〕。

 衣服については、有り余る衣服を持ちたいと欲してはならない。身体の必要に足りる〔衣服〕を心がけよ。むしろ、あなたの思い煩いを、「主」の上に投げかけるがよい。そうすれば、彼〔「主」〕があなたを心にかけてくださるであろう〔Ps. 54:23〕。なぜなら彼は、と〔聖書は〕謂う、わたしたちのことを気にかけてくださるのだから〔1Pet. 5:7〕。食べ物や衣服が必要になったら、別の人たちによってあなたに供されるものを受け取ることを恥じることはない。それは一種の傲り(hyperephania)だからである。しかしまた、自分がそれらのものを余分に持っているなら、欠乏している人に与えなさい。そういうふうに、「神」は、自分の子どもたちが自分たちで処遇しあうことを望んでおられるのだからである。それゆえ「使徒」も、コリントス人たちに宛てて書いたおり、欠乏している者たちについてこう言ったのである。「あなたがたの余裕が、あの人たちの欠乏を〔補い〕、後には、あの人たちの余裕が、あなたがたの欠乏を補い、こうして、等しくなるようにするのである。それは書かれているとおりである。『多くを〔得た〕者も余ることがなく、少ししか〔得〕なかった者も、足りないことはなかった』〔Exod. 16:18〕」〔2Cor. 8:14-15〕。だから、今この時に必要なものがあるなら、やがて来る時(kairos)のことを思い煩うな。例えば、〔その時(kairos)は〕1日なのか、1週間なのか、1年なのか、数ヶ月なのか、などと。なぜなら、明日という時がくれば、必要なものは、時そのものが供給してくれるであろうから。とくにあなたが諸天の王国と、「神」の義を求めているのであれば。というのは、「求めよ」と「主」は謂われる、「「神」の王国とその義を。そうすれば、それらすべてはあなたに添え与えられるであろう」〔Matt. 6:33〕。

5.
 童僕を所有してはならない。あなたに逆らう者が、これ〔童僕〕を介して何か躓きとなるもの(skandalon)を動かせ、あなたの念慮(phronema)を騒がせて、高価きわまりない食べ物に気を遣わせるようなことの決してないように。なぜなら、あなたはもはやあなた自身に気遣うことしかできないのだから。たとえ、身体的安息を求める想念が襲いかかっても、むしろまさったものを思考しなさい。わたしが言っているのは、霊的安息のことにほかならない。霊的安息は、身体的〔安息〕に真実まさっているからである。たとえ、童僕の利益のためというつもりになっても、自分を信じてはならない。なぜなら、それはわたしたちの仕事ではない。共住修道院にいる別の聖なる師父たちのすることだからである。あなたはあなた自身の利益のみを気遣いなさい。そうして、寂静の仕方を保ちなさい。

 物質的で多事多端な人間どもといっしょに住むことを愛してはならない。むしろ独りで住むがよい。あるいは、非物質的で、あなたと想いの同じ兄弟たちといっしょに〔住むがよい〕。なぜなら、物質的で多事多端な人間どもといっしょに住む人は、そういった連中の環境を自分も完全に共有し、隷従するからである。人間的な指図に、無駄話や空しさに、その他のあらゆる恐るべきことども — 怒りに、悲しみに、物質の狂気に、恐怖に、躓きとなるもの(skandalon)に〔隷従するからである〕。

 両親に対する思い煩いとか、親族愛とかによって、〔自分まで〕いっしょに掠し去られてはならない。いや、むしろ、それらの人たちそのものとの度重なる面会さえ拒むがよい。彼らが、あなたから、僧坊における寂静を解き放ち、自分たちの環境に〔あなたを〕引きこむようなことが決してあってはならない。「主」は謂われる、「死者たちをして、その屍体を埋葬することは任せておきなさい。そしてあなたは、ここへ、わたしについてきなさい」〔Matt. 8:22〕。あなたの住持する僧坊でも、あまりにつきまとわれやすいときは、逃げ去れ。それを惜しむな。それへの愛着から気を緩めるな。すべてを行い、すべてを為せ。そうすれば、寂静を修し、専念し、「神」の御心の内に、また、眼に見えないものらとの格闘の中にあることに熱心となることができよう。

6.
 もしも、あなたの地方で寂静を修することができないなら、あなたの志(prothesis)を外国暮らし〔=放浪(xeniteia)〕に向け、あなたの想念をまさしくこれに熱中させるがよい。ある最善の商人〔1Thess. 5:21〕のごとくになれ。万事を寂静をもとに査定し、万事にわたってそのための寂静で有用なことを確保して。ただし、わたしがあなたに言っているのは、外国暮らし〔=放浪(xeniteia)〕を愛せ、ということである。なぜなら、固有の土地の環境からあなたを解き放ち、寂静に益することのみを享受させるからである。都市における暮らしを避けよ、そして、沙漠における〔暮らし〕を堪え忍べ。なぜなら、「見よ」と聖人が謂う、「わたしは遠ざかり、逃げ去り、沙漠で宿営した」〔Ps. 54:8〕。可能ならば、都市に通うことを断じてやめよ。なぜなら、あなたの行住坐臥に、何ひとつ役立つこと、何ひとつ有用なこと、何ひとつ有益なことを、そこに観ることはないのだから。「わたしは見た」と再び聖人が謂う、「都市のうちには不法と諍いとを」〔Ps. 54:10〕。だから、固有の、気を散らされることなき場所を求めよ。そこに含まれるものに怯えるな。たとえ、ダイモーンたちの幻影をそこに観ても、怖じ恐れるな。わたしたちの有益の走路から逃げ去るなどということもするな。恐れることなくもちこたえよ。そうすれば、「神」の大いなる業、援助(antilepsis)、憂慮(kedemonia)、その他すべての、救済への確信(plerophoria)をあなたは視るであろう。というのは、「わたしは待った」と浄福な人が謂っている、「小心(oligopsychia)と大嵐(kataigis)からわたしを救ってくださる方を」〔Ps. 54:9〕。渦巻く欲望をして、あなたの意志(proairesis)に勝利させてはならない。なぜなら、「欲望をともなう渦巻きは、無邪気な理性を歪める」〔Wisd. 4:12〕からである。このゆえに、誘惑が多い。躓きを恐れるな。そうして、あなたの僧坊の内に確乎不抜の者たれ。

40.1257.47
7.
 友たちを持っても、それとの度重なる出会いを避けるがよい。久しい間を隔てて彼らに会えば、あなたは有用な者となるであろうから。しかし、彼らそのものによってあなたに害が生じると気づいたら、近づくことさえ断じてするな。なぜなら、友は、有益な者たちを、つまり、あなたの行住坐臥(politeia)に寄与する者たちをあなたは持つべきだからである。邪悪な連中や喧嘩っ早い連中との出会いを避けよ。そういった連中とは一人たりともいっしょに住んではならない。いや、むしろ、連中のつまらぬ志(prothesis)さえ拒め。なぜなら、彼らは「神」の仲間にならないのはもちろん、側にとどまることもしないのだから。あなたの友とすべきは、平安な人たち、霊的兄弟たち、聖なる「師父たち」である。というのは、これらの人たちのことは、「主」もそう呼んで、こう言っておられるからである。「わたしの母、わたしの兄弟、父である、 — 天にまします、わたしの「父」の御心を行う者たちは」〔Matt. 12:49-50〕。気を散らす連中とはいっしょに集まるな。連中といっしょに酒宴にゆくこともならぬ。彼ら自身の欺瞞のまわりにあなたを引きずりまわり、寂静の知識から引き離すようなことをさせてはならない。なぜなら、それが彼らの情念だからである。あなたの耳を彼らの言葉に傾けてはならない。彼らの心の考えを迎え入れてはならない。なぜなら、彼らは本当に有害な連中だからである。あなたの渇望は地上の真実な者たちへと向け、あなたの心の労苦は、連中の悲嘆の羨望へと〔向けよ〕。なぜなら、「わが眼は地の真実な者たちに〔向けられる〕。彼らがわたしとともに住むために」〔Ps. 100:6〕。もしも、「神」の愛にしたがって進む者たちのひとりが、あなたのところにやってきて、食事に招き、出かけることをあなたが望むなら、出かけるがよい。しかし、すぐにあなたの僧坊に戻って来るがよい。出来うれば、ここ〔僧坊〕よりほかでは決して寝るな。そうすれば、寂静の恩寵はいつもあなたのもとにとどまり、そこでの志(prothesis)への奉仕(latreia)を、あなたは邪魔されぬものとして持つことができるだろう。

8.
 美しき食べ物の欲求者、みだらな仕方で〔欺く〕情慾(apatai)の欲求者となってはならぬ。「なぜなら、みだらな女は、生きながら死んでいるのだから」〔1Tim. 5:6〕とは、「使徒」も謂っているとおりである。よそよそしい食べ物であなたの胃袋を満腹させてはならない。それらに対する渇望(pothos)があなたに生じて、外での食卓に対する渇望をあなたに植えつけないために。なぜなら、こう云われているからである。「胃袋の満腹に欺かれるな」〔Prov. 24:15〕。たとえ、あなたの僧坊の外で、あなた自身が度々招かれるのを観ても、断るがよい。なぜなら、あなたの僧坊の外での度重なる暮らしは、有害だからである。〔そういう暮らしは〕恩寵を奪い取られ、念慮(phronema)に影をさし、渇望を消す。酒の〔入った〕陶器が、その場所で久しく時を過ごしていると、わたしのために見てもらいたい。そうして、揺り動かされることなく置かれていると、その酒をいかに透明な、安定した、かぐわしいものにこしらえるか。しかし、あちらこちらと運びまわられると、掻き乱された、濁った、同時に、澱から生じるありとあらゆる悪の不快さを示すのを〔見てもらいたい〕。そういう次第で、これにあなた自身を比較対照して、有益さを体得するがよい。多衆との諸々の関係を切り捨てよ。あなたの理性が気を散らされ、寂静の生き方を乱さないようにするがよい。

 手仕事を心がけよ。それも、可能なら、夜も昼もそう〔せよ〕。誰かの負担にならないために。むしろ、施しをするためにも。まさしくこれは、聖なる使徒パウロスがそう言って勧めてさえしているところである〔1Thess. 2:9; 2Thess. 3:8〕。それは、これによって、怯懦のダイモーン組み伏せ、その他のあらゆる、敵の欲望を除去するためである。なぜなら、怯懦のダイモーンは、怠慢(argia)の上に寝そべって、欲望に満たされているとは〔Prov. 13:4〕、〔聖書の〕謂うところである。

 支払いの授受の罪をまぬがれることはできない。だから、売る場合にしろ、買う場合にしろ、等しいものから少しだけあなた自身が損をするのがよい。それは、値段に関して細かすぎる仕方や、利得を愛する仕方を非難攻撃され、争い好き、誓約、あなたの言葉の変換によって、魂の罪責の害に陥り、また、それらによってわたしたちの志(prothesis)の価値ある品位を貶め、辱めるというようなことがないようにするためである。そうして、よりまさったことを選び、それがあなたにできるなら、あなたの気遣い(phrontis)は、誰か別の信頼の置ける人に任せるがよい。そういうふうにして、あなたは気のよい人(euthymos)となり、有用で喜ばしい希望を持つことができるように。

9.
 以上が、こういうふうにあなたに勧めることを、寂静の仕方が有用なことと知ったところの事柄である。それでは、いざ、ここから続いて結果する修業の意味(nous)をあなたに提示しよう。そこであなたはわたしに聞き、わたしがあなたのためにいましめることを行いなさい。あなたの僧坊に住持して。あなたの理性を結集しなさい。〔そうして先ず〕死の日々を想いなさい。そのとき、身体の死に様(nekrosis)を見なさい。その大詰め(symphora)を思考しなさい。労苦を受け取りなさい。この世の空しさを責め咎めなさい。公正(epieikeia)と勤勉(spoude)を心がけなさい。寂静の同じ発心にいつもとどまることができるように。そうして、弱々しくなってはいけない。さらにまた、冥府における今の境涯を想いなさい。想念しなさい、 — そこにおいては、魂たちはいったいどのようであるのか、どのような苛烈きわまりない沈黙の内にあるか、あるいは、どのような恐るべき呻吟の内にあるか、どれほど大きな恐怖とか苦悶、あるいは、何らかの期待、の内にあるかを〔想念しなさい〕。間断なき苦しみ、魂の際限なき落涙を〔想念しなさい〕。しかしまた、甦り(anastasis)と、「神」の前に立つこと(parastasis)をも想いなさい。畏怖と、身の毛もよだつあの裁きを幻視しなさい。罪を犯した者たちのために取り分けてあることを真ん中に持ち出しなさい、 — 「神」とその子クリストスの、天使たちの、天使長たちの、権威たちの、あらゆる人間どもの、面前での恥を。また、あらゆる懲罰 — 永遠の火を、死に絶えることなき蛆を、奈落を、暗黒を、これらすべてに加えて歯がみを、恐怖や拷問を。さあ、それでは、義人たちのために取り分けてあることも〔真ん中に持ち出しなさい〕、 — 「父」なる「神」とその子クリストとの、天使たちとの、天使長たちとの、権威たちとの、そしてあらゆる教区民(demos)との親密な交わり(parresia)を、王国とその賜物を、感謝と享受を〔真ん中に持ち出しなさい〕。これら〔両方の〕それぞれの想いを、あなた自身の前に持ち出しなさい。そうして、罪人たちの裁きに呻吟しなさい、落涙しなさい、悲嘆の外貌を身におびなさい。あなた自身もそれらの事態にあるのではないかと恐れながら。しかし義人たちのために取り分けてある善きことどもには、感謝し、欣喜雀躍し、好機嫌となりなさい。そうして、後者を享受すべく、前者が他人事となるよう努めなさい。見よ、このことを決して忘れてはならない、あなたの僧坊の内にあろうと、どこか外にあろうと、あなたの気遣い(phronema)を、これらから起こる想い(mneme)から投げ出してはならない。そうすれば、それによって、諸々の汚れた有害な想念からまぬがれられるであろう。

10.
 断食は、「主」の面前に可能なかぎり、あなたにとってあらしめよ。これ〔断食〕こそは、あなたから不法と罪をはらい浄め、魂を厳かにし、念慮(phronema)を聖化し、ダイモーンたちを追い払い、〔あなたを〕「神」に近しくあるよう備える。しかし、日に1度は喰い、第2食を切望してはならない。あなたが贅沢な者となり、あなたの念慮(phronema)を騒がせることのないために。ここにおいて、あなたは慈善(eupoiia)の働きにゆとりができ、身体そのものの諸情念を死なせることができるのである。しかし、兄弟たちの訪問(apantesis)が生じ、あなたが第2食にしろ第3食にしろ喰う必要が生じたら、ふさぎこむな。うなだれもするな。それどころか、むしろ、必要性に従順となることを喜べ。そうして、第2食でも第3食でも喰って、「神」に感謝せよ。あなたが愛の律法を満たし、「神」そのものを、わたしたちの生命の差配者として持つという、まさしくそのことを。しかし、身体の病がが見舞い、そのために、第2食も第3食も、もっとしばしばも喰わねばならないときがある。そういうふうに、想念をあなたにとって解放されたものとせよ。なぜなら、行住坐臥の身体的労苦といえども、病気の時まで抑制しなければならないことはないからである。むしろ、いくつかのことは少し与えるべきである。すみやかに強壮さを回復して、再び行住坐臥の同じ労苦によって鍛錬されるために。食べ物を控えることについては、喰らうことがないよう神的言葉が差し止めていることはない。むしろ〔神的言葉が〕云っている。「見よ、緑の青草と同じように、わたしはすべてをあなたがたに与えた〔Gen. 9:3〕。いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい〔1Cor. 10:25〕」。また、「口に入るものは、人を汚すことはない」〔Matt. 15:11〕。だから、食べ物を控えると、このことは、わたしたちの選び(proairesis)であり、魂の労苦(ponos)ということになろう。

11.
 地面に寝ること(chameunia)と徹宵(agrypnia)と、その他のあらゆる骨折り(kakopatheia)を喜んで引き受けよ。やがてあらゆる聖徒たちとともに、あなたに啓かれようとする栄光を凝視して。なぜなら、「今この時の苦しみ(pathemata)は」と〔聖書は〕謂う、「やがてわたしたちに啓かれようとする栄光に比べると、いうに足りない〔Rom. 8:18〕からである。もしもあなたが意気阻喪したら、〔聖書に〕書かれているように、祈れ。しかし、怖れることなく、おののいて、骨折って、素面で、目覚めて、祈れ。そういうふうに祈らなければならない。とりわけ、性悪で不精な者たちを介して、わたしたちの眼に見えぬ敵たちが、そこにおいてわたしたちを侮辱しようと望んでいるからである。連中は、わたしたちが祈りに身をささげているのを眼にするや、まさしくそのときにこそ、みずからが猛然とわたしたちに現れ、わたしたちの理性に、祈りの時に思いついたり考えたりしてはいけないあのことを、ほのめかすのである。わたしたちの理性を捕虜として連れ去り、祈りから起こる誓願と嘆願を、無駄で空しくて無益なものとなすためである。なぜなら、祈り、誓願、嘆願が、本当に空しく無益となるのは、すでに述べられたとおり、畏怖をもって、また戦慄をもって、素面で、目覚めて、成就されることがない場合である。誰か人間の王に近づこうとするときは、畏れとおののきとを持ち、素面である。そのようにして誓願を果たす。〔そうであるなら〕あらゆるものの「主人」である「神」、王たちのなかの「王」・クリストス、支配者たちのなかの「支配者」には、はるかにもっと同じようにして側に立ち、同様に誓願と嘆願をしなければならない。「神」の栄光は永遠だからである。アメーン。

2005.03.27. 訳了。


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