『「箴言」註解』(1/4)


[底本]
TLG 4110 030
Scholia in Proverbia (fragmenta e catenis), ed. P. Géhin,
Évagre le Pontique. Scholies aux Proverbes [Sources
chrétiennes 340. Paris: Cerf, 1987]: 90-474.
5
(Cod: 17,281: Caten., Exeget.)





"t".1
『箴言』註解

1."11"
 1.1 「ダウイドの息子ソロモーンの箴言
1."21"
イスラエールに王支配したところの〔ソロモーン〕」
1.1
 箴言(paroimia)とは、感覚的事象によって理性的事象を表すところの言葉(logos)のことである。

2.1
 イスラエールの王国とは、霊的覚知(gnosis) — 神や諸々の無身体的や身体や裁きや配剤(pronoia)に関する言葉を内容とするところの、あるいは、倫理的・自然的・神学的〔知恵?〕に関する観想を啓示するところの〔覚知〕のことである。

3."11"
 1, 2.1 「知恵と教育を覚知するべく」
3.1
 このために、つまり、「教育と知恵を覚知するために、イスラエールに王支配した」と謂うのである。そして、知恵とは、諸々の身体や無身体や、これらによって観想される裁きや配剤の覚知のことである。教育とは、諸々の情念の節度(metriopatheia) — 魂の情念的あるいは無理性的(alogon)部分について観想する〔情念の節度〕のことである。

4."11"
 1, 3.3 「正法(krima)をまっすぐにするべく」
4.1
 正法をまっすぐにするとは、まっすぐで歪んでいないことを、法廷(kriterion)が明らかにするということである。わたしたちの中に、法廷は3つある。感覚(aisthesis)、言葉(logos)、理性(nous)である。そうして、感覚は感覚的なものらの〔法廷〕、言葉は名と辞と言われることどもの〔法廷〕、理性理性的なものらの〔法廷〕である。

5."11"
 1, 7.3 「神に対する敬虔(eusebeia)は、感覚の初め」
5.1
 諸々の感覚を通して、理性は感覚されるものらに手をつけるように理性的なものらを目撃するのは、諸々の徳を通してである。

6."11"
1, 7.4 「しかるに、知恵と教育を、不敬者たちはあなどるであろう」
6.1
 悪を所有する者たちは、知恵と教育をあなどるであろう。しかし、わたしの思うに、言葉によって知恵と教育をあなどる者は誰もいない。

7."11"
 1, 9 「なぜなら、〔知恵と教育を〕恩寵の花冠としてあなたの頭頂にもつであろう、
7."21"
また、黄金の襟飾りとして、あなたの首に〔もつであろう〕から」
7.1
 頭頂と首とが、ここでは、明らかに理性のことであるように、花冠と襟飾りも、ここでは、覚知を表す。なぜなら、神とその天使たち、理性、徳、覚知、悪、無知、そうして悪魔そのものとその天使たちを、数多の名前で名づけるということこそ、聖なる霊の習慣にほかならないからである。だから、名前をつけるということは、一部の人たちが思っているほど単純なことではない。というのは、種々異なった馴染みの活動(energeia)があるからである。神はわたしたちの内なる天使たちを通して活動し、わたしたちは彼〔=神〕の内に〔活動し〕、ダイモーンたちもわたしたちに対して〔活動し〕、わたしたちも彼ら〔=ダイモーンたち〕に対して〔活動する〕からである。

8."11"
 1, 13 「彼の高価な所有物をわがものにしよう。
8."21"
そして、おれたちの家々を分捕り品で満たそう」
8.1
 義人の所有物とは、知恵、分別(synesis)、賢慮(phronesis)である。「なぜなら」と謂う、「知恵を所有し、洞察を所有せよ」、そうすれば、「賢慮を所有する者は、自分自身を愛する」〔Prov. 19:8〕と。しかるに不敬者たちは、この所有物をとりおさえるのに、義人を説得して、神に禁じられていることを何かさせようとする。理性が、その罪によって傲り高ぶり、これら聖なる所有物から脱落するようにとである。

9.1
 こういう者たちに、ダイモーンたちは勝利して、これを分捕り品とする。彼らから神の完全武装、すなわち、兜、胴当て、霊の戦刀 — それはすなわち神の辞(rhema) — を取りあげて。

10."11"
 1, 14.1_2 「おまえの籤を、おれたちの前に投げよ。
10."21"
おれたちみんなで、共通の金袋を所有しよう」
10.1
 敵対者たちの跡継ぎ仲間とは、自分たちと同じ悪を分かち持った連中のことである。共通とは、一人の神に属さないところのもののことである。

11."11"
 1, 17 「翼あるものらには、網が不正に広げられることはないからである」
11.1
 網とは、永遠の懲罰(kolasis) — 不浄なる魂たちに、それら〔魂たち〕から悪く生え出た羽根を滅ぼすために、義しい裁き人から適用されるところの〔懲罰〕のことである。

12."11"
 1, 20 「知恵は脱出路で讃美の歌をうたう。
12."21"
広場では率直に語る。
12."31"
 1, 21  城壁の尖端で呼ばわる。
12."41"
権力者たちの塔の上に腰掛ける」
12.1
 脱出路とは、ここでは、悪と無知から出て行く魂のことを名づけている。イスラエールの息子たちの脱出もこのようなものであり、神の裁きと教えによる誕生後に生じるものである。この同じ魂を、また広場とも言っている。「なぜなら、広くせよ」と〔聖書は〕謂う、「おまえの口を。そうすれば、それを満たそう」〔Ps. 80:11〕。そうして、「どうか、あなたがたの方でも、広くされてあれ」と、パウロスはコリントス人たちに宛てた〔書簡〕の中で〔言っている〕〔2Cor. 6:13〕。こういうふうにして出ていった魂のもとでは、知恵は讃美の歌をうたう。諸々の徳によって広くされた〔魂〕にあっては、率直に語る。これ〔=魂〕の城壁の尖端とは、尖端の無心(apatheia)のことを言っている。「律法を愛する者たちは、自分自身の周りに城壁を囲いめぐらす」〔Prov. 28:4〕、この城壁のためにダウイドもこう言って祈るからである。「ヒエルゥサレームの城壁を建ててください」〔Ps. 50:20〕、すなわち、このような魂からの転落がどのようなものかは、ウゥリアスの預言から、明々白々である。権力者たちの門とは、知者たちの諸々の徳のことを言っている。「わたしのために開けてください」と謂う、「義の門を」〔Ps. 117:19〕、そして、「権力者たちは気性の旺盛な者たちです。葡萄酒を飲ませないでください。飲んで、知恵を忘れ、弱き者らをまっすぐに裁くことができなくなるというようなことがないように」〔Prov. 31:4〕。

13."11"
 1, 26 「だからこそ、わたしも、おまえたちの破滅を笑いものにしてやろう。
13."21"
歓喜雀躍してやろう、おまえたちに滅亡が見舞ったときに」
13.1
 それなら、いったいどうして、ほかの箇所でソロモーンはこう謂うのか、「破滅する者を喜ぶ者は、罰をまぬがれることはあるまい」〔Prov. 17:5〕。あるいは、おそらく、知恵は、収税吏マッタイオスの破滅を喜び、クリストスを信じた盗賊の破滅を〔喜んだ〕ように喜ぶのであろう。なぜなら、知恵は、後者からは盗賊を、前者からは収税吏を滅ぼした〔にすぎない〕のだからである。

14."11"
 1, 27.1_3 「わたしたちに、突如、騒ぎ(thorybos)がやってくると同じように、
14."21"
破局(katastrophe)がつむじ風のようにやってくる。
14."31"
わたしたちに患難と攻囲とが起こるときに」
14.1
 攻囲とは、倫理的な教え — 建てられ方の悪い魂に破局をもたらすところの〔教え〕のことである。

15."11"
 1, 30.1 「彼らはわたしの忠告に心を傾注することさえ拒んだ」
15.1
 もしも、知恵の忠告に心を傾注するも、傾注することを拒むも、わたしたちの意のままであるなら、わたしたちは自由意思の持ち主(autexousios)である。次のことばもこれと等しい。「もしも、あなたがわたしのいうことに快く聞き従うなら、地の善きことどもを喰らうことができよう。だが、拒み、わたしのいうことに聞き従いもしないなら、戦刀があなたがたをむさぼり尽くすであろう。これこそ、主の口が話されたことである」〔Isa. 1:19-20〕。

16."11"
 1, 32.1 「彼らは幼児に不義をはたらいたのだから、殺害されるであろう」
16.1
 幼児は、義人たちと不義の者たちとの間にあるように、人間はみな、天使たちとダイモーンたちとの間にある。永遠〔=世〕の終わりまで、ダイモーンであるとも、天使であるとも託宣されていないからである。

17."11"
 1, 33 「しかし、わたしに聞く者は、希望と寂静の内に住まうであろう。
17."21"
あらゆる悪に起因することを怖れることなく」
17.1
 無心の者は、あらゆる悪しき想念に起因することを怖れることなく、寂静である。

18."11"
 2, 1 「息子よ、わたしのいましめ(entole)の辞(rhesis)を受け入れ、そなた自身のもとにかくまうなら、
18."21"
2, 2.1  そなたの耳は知恵のいうことに傾けられよう」
18.1
 神のいましめを隠すのは、これを実行する人である。ダイモーンたちは、これを実行するのを容赦せず、わたしたちを掠うと言われているからである。

19."11"
 2, 3.1_2 「あなたが知恵に呼びかけるなら、
19."21"
そして、分別(synesis)にあなたの声をかけるなら」
19.1
 ここで、声とは、魂の無心のことを名づけている。というのは、これは神の覚知に呼びかけるよう生まれついているからである。ダウイドもこういうふうに言っている。「わたしの声によって主に呼びかけつづけた」〔Ps. 3:5, 76:2, 141:2〕。さらにまたこうも。「わたしの哀願(deesis)の声に傾注してください」〔Ps. 5:3, 85:6, 140:1〕。

20."11"
 2, 5 「そのとき、主に対する畏怖をあなたはさとり、
20."21"
神の悟り(epignosis)を見いだすであろう」
20.1
 そのとき、主に対する畏怖が知恵の初めであるのはどうしてか、また、神の覚知の保護役(proxenos)がいかにして生ずるのかを、あなたはさとるであろう。しかし、主に対する畏怖を理解できることに加えて、知恵と分別(synesis)とをあらかじめ備えねばならない。知恵と分別をあなどる連中にも、神を畏れることを、気軽いことのように、そこに逃れようと望む連中にも、同じことを提起しよう。

21."11"
 2, 9 「そのとき、義と正法(krima)とをあなたはわきまえ、
21."21"
すべての善き行路を真っ直ぐにするであろう」
21.1
 行路とは、神のいましめのことを言う — 神と覚知へとわたしたちを導くところの〔いましめ〕を。ダウイドも謂う。「それゆえに、あなたのいましめをすべてわたしは真っ直ぐ行った」〔Ps. 118:128〕。

22."11"
 2, 12 「悪しき道から救われるために、
22."21"
そしてまた、何ら信実なき話をする男からも〔救われるために〕」
22.1
 聖なる天使たちは、すべて信実な話をする。ところが人間どもは、一部は信実な話を、一部は不信実な話をする。しかし悪魔は、信実な話は何ひとつしないのであって、信実にあたいしないことを〔話すの〕ではない。ここで、男とは、悪魔のことを言っている。いわば、邪悪な人間は毒麦を蒔き散らすのである。

23."11"
 2, 17 「息子よ、悪しき企み(boule)をしてお前をとらえさせるな。
23."21"
〔企みは〕若年の教えを見棄て、
23."31"
神的な契約を忘れているところのものである」
23.1
 もしも、企みが動き(kinesis)の一種であるなら、それがどうして若年の教えを見棄てるのか? また、神的な契約を忘れるのは、どうしてなのか? ロゴス的生物の悪しき企みについてわたしたちと対話しているからである。あるいは、今は、悪しき企みのことを悪魔と言っている。なぜなら、この〔悪魔というもの〕は、「わが王座を星々の上に据えよう。至高者に等しい者となろう」〔Isa. 14:13〕ということを云って、悪く企んだ。そうして、神的覚知を忘れたのである。彼〔=悪魔〕の最初の境涯 — 楽園の森の中には嫉妬深いものまでいた — を明らかにする若年が、いかなるものか、若年の教えを放置して。

24."11"
 2, 19 「彼女のもとへ往く者はすべて、もどってこず、
24."21"
道路を真っ直ぐにとることもないだろう。
24."31"
なぜなら、年々の生命にとらえられることがないからである」
24.1
 「義を追いかける者らを〔神は〕愛する」〔Prov. 15:9〕、だから、「あなたがたはそういうふうにして走れ。賞を得るために」〔1Cor. 9:24〕。

25.1
 「年々の生命にとらえられる」かぎりのこの者らは、真っ直ぐな道をつかむであろう。そうして、「あなたの憐れみは」と謂う、「わたしを追いかける、わたしの〔生きてある〕生命のすべての間に」〔Ps. 22:6〕。

26."11"
 2, 21.1_2 「有用な者たちが、大地の居住者となろう。
26."21"
無邪気な者たちが、そこに残るであろう」。
26.1
 無邪気で或る者たちは、と謂う、とどまって、大地に、すなわち、覚知の内に残るであろう。しかし、悪のせいで転落する者たちは、有用さゆえに、再び帰ってくるであろう。

27."11"
 3, 1 「息子よ、わたしの諭し(nomima)を忘れるな。
27."21"
わたしの辞を、おまえの心をして護らしめよ」
27.1
 もしも、法を忘れているのが、適法に生活しない者のことなら、法を覚えているというのは、それにしたがって生きる者のことである。そうして、神の辞を守っているというのが、それを実行する者のことであるなら、それを破滅させるというのは、それを実行することを望まない者のことである。「なぜなら、律法を聞く者たちが」と謂う、「神の前に義なるものではなく、律法を行う者たちが、義とされるであろうから」〔Rom. 2:13〕。

28."11"
 3, 5 「心を尽くして、神を信頼してあれ。
28."21"
あなたの知恵を自慢するなかれ」
28.1
 自慢するな、と〔ソロモーンは〕言う、神の知恵を所有しているからといって。ここでは、神の知恵と言っているのであって、人間の知恵を〔言っているので〕ないということを示しているのは、次のように申し立てることによってである。「というのは」と〔聖書は〕謂う、「あなたのすべての道で、それ〔知恵〕を覚知せよ、あなたの道を〔知恵が〕真っ直ぐにするために」〔Prov. 3:6〕。

29."11"
 3, 8 「そのとき、あなたの身体に治癒(iasis)があろう。
29."21"
そうして、あなたの骨たちには世話(epimeleia)が」
29.1
 魂の諸々の能力が世話(epimeleia)を得たとき、そのときこそ述べるであろう。「主よ、誰があなたに等しいものたりえましょう。なぜなら」と〔聖書は〕謂う、「わたしの骨はみな述べるでしょうから。『主よ、主よ、誰があなたに等しいものたりえましょうや』と」〔Ps. 34:10〕。なぜなら、世話(epimeleia)を得れば、魂の記憶的能力は、完全に述べるであろう、「わたしは神を思い起こし、好機嫌となった」〔Ps. 76:4〕。同じく、視覚的〔能力〕も言うであろう、「あなたの仕事(erga)を思惟し、理解した」〔Ode 4:2〕。同様に、欲望的〔能力〕も。「主よ、あなたの前にわたしの欲望すべてがあります」〔Ps. 37:10〕。さらに、想念的〔能力〕も述べるであろう、「いにしえの日々を、次々想念に浮かべてみた」〔Ps. 76:6〕。その他の諸々の能力についても同じようなことになるであろう。

30."11"
 3, 15.1_2 「〔知恵は〕諸々の宝石よりも高価である。
30."21"
彼女〔=知恵〕に比べれば、劣らざるものなし」
30.1
 知恵に対してだけは、ダイモーンたちも、諸々の想念を狡知者(sesophismenos)の心に投げこむことは不可能である。同意しないからである。というのは、知恵の観想によって理性を形成する人は、諸々の不浄な想念の影響を受けない者となるからである。

31."11"
 3, 15.3 「彼女〔知恵〕に接近する人たちすべてにとって周知のことである」
31.1
 清浄な理性は知恵に近い。しかし不浄な〔理性〕は、彼女から遠く離れている。

32."11"
 3, 18.1 「〔知恵は〕彼女にしがみつく人たちにとっては生命の樹」
32.1
 この樹からは、背反後、アダムは〔実を〕とることを禁じられた。「生命の樹が生えるのは、義の果実から」〔Prov. 11:30〕だから。もしも、生命の樹が神の知恵であるなら、この樹に触れるのを禁じられたのは義しい。「なぜなら」と〔聖書は〕謂う、「悪だくみする魂の中には、知恵は入ってゆかないからである」〔Sopia Solomonis 1:4〕。

33."11"
 3, 19 「神は、知恵をもって、大地の土台に置く。
33."21"
しかし諸天は、賢慮(phronesis)によってこれを調える。
33."31"
 3, 20  感覚によって深淵は張り裂けた。
33."41"
雲は露を滴らせる」
33.1
 ここで云った大地のことを、聖パウロスは広さと名づけ、ここで言われている諸天を、『エペソス人たちへの〔手紙〕』の中であの人は高さと呼び、比喩的に言われた深淵を深さと名づけ、露に満ちた雲を長さと呼ぶ〔Ephe. 3:18〕。これらはみな、ロゴス的自然の象徴である — 境涯との比例にしたがって世界と身体とに分割されるところの〔自然の〕。

34."11"
 3, 22 「おまえの魂が生きるために、
34."21"
そして、おまえの首のまわりに優雅さがあるために」
34.1
 首とは、主の軛をになう魂のことを云ったのである。

35."11"
 3, 23 「おまえのあらゆる道を、平安を信頼して進み、
35."21"
おまえの足がけっして躓かないために」
35.1
 躓き(proskomma)とは、ロゴス的自然の不浄なる想念、あるいは、偽りの覚知のことである。

36."11"
 3, 24 「座していれば、怖れることはない。
36."21"
寝れば、快く眠れよう。
36."31"
そして、襲いくる恐怖(ptoesis)を怖れることなく、
36."41"
不敬者たちの突撃の襲来をも〔怖れることはない〕」
36.1
 ここで、わたしたちは知るであろう。憐憫(eleemosyne)は、夜、わたしたちの身に起こる恐怖すべき幻を取り除くということを。柔和さ(prautes)も、怒りのないこと(aorgesia)も、気長さ(makrothymia)も、気性が混乱させられるのを抑えるよう生まれついているかぎりのものらも、同じことをする。気性の混乱からは、恐怖すべき幻影が生じるのが常だからである。

37."11"
 3, 30 「いたずらに人間と敵対すべからず。
37."21"
〔その人間が〕あなたに対して何か悪さをするのでないならば」
37.1
 富裕者に対するこの敵意は、人を悪人に仕上げる。

38."11"
 3, 33 「神の呪いは、不敬者たちの家々の中にある。
38."21"
しかし義人たちの屋敷は祝福される」
38.1
 主に対する無知(agnoia)は、不敬者たちの魂のうちにある。しかし神の覚知は、義人たちの魂のうちにある。

39."11"
 3, 34 「主は傲る者らに対抗布陣なさる。
39."21"
しかし、おのれを低くする者らには、恩寵を与える」
39.1
 不義な者らに対しては、主は義(dikaiosyne)として対抗布陣し、虚言者らに対しては、真理(aletheia)として〔対抗布陣する〕ように、傲る者らに対しても、へりくだり(tapeinophrosyne)として対抗布陣なさるであろう。

40."11"
 3, 35 「栄光を知者たちは嗣業とする。
40."21"
しかし、不敬者たちは不名誉を高く掲げる」
40.1
 覚知を知者たちは嗣業とする。しかし不敬者たちは無知を尊ぶ。

41."11"
 4, 2.1 「善き賜物をあなたがたに与えよう」
41.1
 ここで注意すべきは、善き賜物として、律法のことを名づけているのは、ふところの中に不正に賜物をとる者は、繁栄することがないからである。というのは、不正な賜物とは、邪悪者の下知のことを言っているのであり、これこそ、理性が受け入れても、その道に繁栄のないところのものである。

42."11"
 4, 2.2 「わたしの律法を棄て去るな」
42.1
 律法を棄て去るのは、それを踏み外す者のことである。

43."11"
 4, 8.1 「彼女を防御柵で囲え。そうすれば、あなたを高くするであろう」
43.1
 もしも、知恵を防御策で囲うことがわたしたちの意のままで、諸々の徳もわたしたちの意のままなら、ここでは、もちろん防御柵とは徳のことを明らかにしている。これら〔徳〕は、神の覚知を高くするであろう。

44."11"
 4, 9「あなたの頭に優美な者たちの花冠を与えるために。
44."21"
頭頂の花冠によってあなたを防御するために」
44.1
 優美な者たちの花冠と、頭頂の花冠とは、神の覚知のことである。この〔覚知〕は、わたしたちの情念的なあらゆる想念を防御し、偽りの覚知をはねつける。

45."11"
 4, 10「聞け、息子よ、そして、わたしの言葉を受け取れ。
45."21"
そうすれば、おまえの生命の歳はおまえにとって増やされるであろう。
45."31"
生の数多くの道がおまえのものになるようにと」
45.1
 これらの数多くの道は、次のように云う一つの道へと導く。「わたしは道である」〔John. 14:6〕。そして、数多くの道とは、クリストスの覚知へと通じる諸徳のことを述べたのである。

46."11"
 4, 15「彼らが出征する場所、おまえはそこに赴いてはならぬ。
46."21"
彼らを避け、回避せよ」
46.1
 この軍隊の〔出征する〕場所とは、悪と、偽名をおびた覚知のことである。

47."11"
 4, 16「彼らは眠ることはあるまい、悪行をなさないかぎりは。
47."21"
眠りは彼らから奪い去られ、寝入ることはなかろう」
47.1
 もしも、主が、その愛する者たちに眠りを与え、しかし不敬者たちはその愛する者ではないのなら、主が不敬者たちに眠りを与えることはない。ここからして、ダイモーンたちは眠るようにさえ生まれついていないということは、納得して受け取ることができる。

48."11"
 4, 17「まことに彼らが食べるのは、不敬の食べ物。
48."21"
彼らの酩酊するのは、違法の葡萄酒」
48.1
 ここから、敵対する力の軍隊が何によって養われるかをわたしたちは知ることができる。すなわち、彼の食べ物は、彼の謂うには、不敬(asebeia)、〔彼の飲む〕葡萄酒は、違法(paranomia)である。

49."11"
 4, 18「これに反して、義人たちの道は、光に等しく輝き、
49."21"
先に立って進み、照らし、ついには、日が確立する」
49.1
 わたしたちの諸々の徳は先に立って進み、わたしたちを照らし、ついには、義の太陽が、おのれの日をわたしたちのために輝かす。

50."11"
 4, 19「これに反し、不敬者たちの道は影暗く、
50."21"
いかにして躓くかを知らない」
50.1
 不敬者たちは、いかにして罪を犯すのかという仕方を識らず、何ゆえ躓くのかという理由も知らず、違法を犯しているというそのことさえもわかっていない。これこそ無知(anoia)の最たるものの証拠(gnorisma)である。

51."11"
 4, 21「おまえの泉がおまえを見棄てないよう、
51."21"
おまえの心の中にそれら〔泉〕を守れ」
51.1
 泉とは、ここから水、すなわち、クリストスの覚知にほかならないところの生命、が生じるところの諸徳のことを言っている。ダウイドも。「水の源があらわれ」と謂っている、「人の住まいする〔地〕の土台があらわとなった」〔Ps. 17:16〕。もちろん、わたしたちの救主クリストスの帰郷によって。

52."11"
 4, 25「おまえの眼は真っ直ぐに見つめる。
52."21"
おまえの睫毛は、義しきことどもを肯う」
52.1
 諸々の無心の想念と真実の教義を有するかぎり、彼らは真っ直ぐに見る。

53."11"
 4, 27「右側にも左側にも傾くな。
53."21"
おまえの足を、悪しき道から引き返させよ」
53.1
 なぜなら、徳とは中庸(mesotes)だからである。ゆえに、勇気(andreia)は、大胆(thrasytes)と怯懦(deilia)との中間であると謂われるのだ。ここで右側と名づけるのは、自然の右側のことではなく、快楽によって一部の人たちにそうと見える右側のことである。「なぜなら」と〔ソロモーンは〕謂う、「北風は厳しい風。名を右利きと呼ばれる」〔Prov. 27:16〕。北風とは、邪悪者のことを象徴的に言っている。これからすべての悪が大地に燃え広がる。

54."11"
 4, 27b「彼はおまえの轍を真っ直ぐにしてくださるであろう。
54."21"
そして、おまえの進路を平安のうちに先導してくださるであろう」
54.1
 これらに唱和するのは、「もし主が家を建てなければ」、そして、「都市を守らなければ」云々〔Ps. 126:1〕注1)ということばである。

55."11"
 5, 3「つまらぬ女に心を注ぐな。
55."21"
邪淫の女の唇からは、密が滴っているのだから。
55."31"
しばらくは、おまえの喉に油を塗ってくれる。
55."41"
 5, 4 だが、その後で、胆汁よりも苦いのをおまえは見出すだろう。
55."51"
そして、諸刃の戦刀よりも研ぎすまされているのを〔見出すだろう〕」
55.1
 油とは、快楽を表す。この〔快楽〕から産まれるのが不浄。この〔不浄〕から生まれる子が、悪と無知。この〔悪と無知〕とり苦いものを、生まれたものらの中に何ひとつ見いだすことはできない。

56."11"
 5, 5.1_2「まことに愚かさ(aphrosyne)の両脚は、
56."21"
これ〔愚かさ〕を用いる者たちを、死後、冥府へとくだす」
56.1
 先の箇所で云った邪淫のことを、今は、愚かさと名づけたのである。

57.1
 死後、冥府に下る者たちのために、ダウイドはこう言って祈る。「冥府の〔館〕に生きながら下れ」〔Ps. 54:16〕。

58."11"
 5, 6「生命の道を行くことがない。
58."21"
彼女の行路はよろめき、わかりよくない」
58.1
 もしも、行路がわかりよくないなら、「いかにして躓くかを知らない」〔Prov. 4:19〕ということは、美しく述べられていることになる。

59."11"
 5, 8「おまえの道を、彼女から遠ざけておけ。
59."21"
彼女の家々の扉に近づくな」
59.1
 ここで道と云ったのは、徳へと道案内する理性(nous)のことである。おそらくは、悪からわたしたちを離しておくよう、徳に下知するであろう。

60."11"
 5, 9「おまえの生命を他の者たちに委ねないよう、
60."21"
おまえの生を無慈悲な者たちに〔委ねないよう〕」
60.1
 ここで、わたしたちの知るべきは、気性的部分はダイモーンたちによって統治するということである。「なぜなら、気性(thymos)は無慈悲」と〔ソロモーンは〕謂う、「怒り(orge)は残酷」〔Prov. 27:4〕。

61."11"
 5, 11.2「おまえの身体の肉を摩滅させたとき」
61.1
 悪行を通して、邪悪者たちはクリストスの肉を摩滅させ、その血を消尽する。それを共通物と考えて。「なぜなら」と〔聖書は〕謂う、「わたしの肉をむさぼり、わたしの血を飲む者は、永遠の生命を得る。そしてわたしは彼を最後の日に甦らせよう」〔Joh. 6:54〕。

62."11"
 5, 14「もう少しのところで、わたしはまったき悪に陥るところだった。
62."21"
集会(ekklesia)と会衆(synagoge)の真ん中で」
62.1
 悪がなかったときがかつてあり、ないであろうときがこれからあろう。徳がなかったときがかつてあったが、ないであろうときはこれからもないであろう。なぜなら、徳の種子は不滅だからである。わたしに聞き従いなさい。そうすれば、悪ゆえに裁かれて冥府にある富裕者にして、兄弟たちを嘆いている人も、まったき悪に陥ってしまうことはわずかであり、皆無である。憐れむということは、徳の最美の種子を得ることである。

63."11"
 5, 15「おまえの容れ物から水を飲め。
63."21"
おまえの井戸の泉から」
63.1
 覚知とは、井戸でもあり、また泉でもある。なぜなら、諸々の徳に接近する者たちにとっては、深い井戸であるように思われ、無心にして清浄な者たちにとっては、泉〔であるように思われ〕るからである。そのように救主も、「泉のそばに坐られた。第6時〔正午〕ころであった」〔John. 4:6〕。しかし、サマリアの女はそれ〔泉〕を井戸と名づける。「というのは」と〔聖書は〕謂う、「主よ、あなたは汲むものも持っておられず、井戸は深いのです」〔John. 4:11〕。

64."11"
 5, 18「おまえの水の泉をして、おまえ自身のものとせよ。
64."21"
おまえの青春のとき以来の女とともに、好機嫌であれ」
64.1
 もしも、ここで、女が神の覚知を表し、これ〔覚知〕が青春のとき以来、わたしたちに与えられているものなら、神の覚知は初めからわたしたちに与えられているのである。これは、ソロモーンが先の箇所で青春の教えと言っているものである。「というのは、息子よ」と〔ソロモーンは〕謂う、「悪しき企みがおまえを捉えないように」〔prov. 2:17〕 — 悪魔のことを悪く企むものと言ったうえで、「青春の教えを放置し、神的契約を忘れているところの〔悪しき企み〕が」〔Prov. 2:17〕。忘却(lethe)と放置(apoleipsis)は、覚知と所有との第2番目のものである、あたかも、極端な病気が健康の、死が生命の第2番目のものであるように。同時にまた次のことも考察すべきである。つまり、同じ覚知が母とも言われ、女とも姉妹とも〔言われている〕ことを。母というのは、わたしを教える者が、彼女を通してわたしを生んだからである。パウロスが福音を通してガラテア人を〔生んだように〕。女というのは、わたしと交わって、諸々の徳と真っ直ぐな教義を産むからである。いわば、「知恵は男に賢慮(phronesis)を産む」〔Prov. 10:23〕。姉妹というのは、わたしと彼女はひとつの神と父から生まれたということである。「まことにわたしは言った」と〔ソロモーンは〕謂う、「知恵に向かって、あなたの姉妹である、と」〔Prov. 7:4〕。

65."11"
 5, 19「愛らしい鹿と、おまえの優美の仔馬とをして、おまえと交わらせよ。
65."21"
自分の〔女〕をしておまえを導かせ、いつ何時もおまえとともに過ごさせよ。
65."31"
この友愛のうちにともに過ごすことで、おまえは非凡な者となるであろう」
65.1
 もしも、「恩寵と友愛とが自由」〔Prov. 25:10a〕であり、徳と覚知もロゴス的魂を自由にするのなら、恩寵と友愛は徳と覚知である。もしも、鹿が友愛から、仔馬が恩寵から生まれるなら、鹿は観想の象徴、仔馬は無心の〔象徴〕である。なぜなら、前者は諸徳から、後者は覚知から生まれるのが自然だからである。

66.1
 徳と、神の覚知とは、ロゴス的自然に固有のものである。

67.1
 非凡な者であるとは、観想すべきものを数多もっているということである。数多とは、益されるものらに属する。

68."11"
 5, 20「よその女に深く関わるな。
68."21"
自分のものでない腕にしがみつくな」
68.1
 「よその女に深く関わるな」というのを、ある人たちは、外的な知恵について言われていると考える。この〔外的な知恵〕には、欺瞞が隠されているので、これのもとで時を過ごしてはならないというのである。またある人たちは、悪を想定し、これに深く関わるなというのを、次のように解釈している。つまり、人間は、諸々の邪悪な想念から完全には離れていることのできない存在ではあるが、とにかくそれらの中で時を過ごさないことは可能であるということ、そして、よその腕とは、諸々の邪悪な想念 — 魂にしがみついて、心を知っている方(kardiognostes)である神を忘れている〔想念〕 — のことを名づけているというのである。

69."11"
 6, 1「息子よ、おまえの友の保証人となるなら、
69."21"
おまえはおまえの手を敵に委ねることになろう」
69.1
 使徒たちの友クリストスを、義であり真理であると保証する人はみな、救主に対する友愛ゆえに、人間どもと戦争するのが常である敵たちに、自分の魂を引き渡しているのである。なぜなら、友愛とは、神の霊的覚知のことであり、神の聖なる友人たちも、これにしたがって託宣するのだからである。そのように、洗礼者イオーアンネースも花婿の友であった、モーセースも使徒たちも。「なぜならもはや」と〔ソロモーンは〕謂う、「あなたがたを奴隷とではなく、友と呼ぼう」〔Prov. 6:3〕。「しかし、憤激せよ」と謂う、祈りと誓願によって、「そうすれば、あなたの友の保証人となろう」と言い。「わたしを守ってください、主よ、罪人の手から」〔Ps. 139:5〕、そして、「不正な者からわたしを救ってください」〔Ps. 139:2〕、また、「わたしの敵どものゆえに、わたしを苦しめる者たちの手にわたしを引き渡さないでください」〔Ps. 26:11〕、「あなたゆえに、終日わたしたちは殺され、血祭のヒツジのように想念されるのですから」〔Ps. 43:23〕。

70."11"
 6, 4「おまえの眼に眠りを与えるな。
70."21"
おまえの瞼にまどろみを与えるな」
70.1
 魂の眠りとは、活動(energeia)における罪のことである。まどろみとは、魂の内に不浄な表象(noema)を構成する最初のものである。それゆえ、まどろみの前にも言葉は眠りを妨げるのである。「なぜなら」と謂う、「古人たちによって述べられている。『殺すなかれ』と。しかしわたしは言おう。『怒るなかれ』と」〔出典不明〕。というのは、ここでも眠りを妨げているのは律法、まどろみを〔妨げているのは〕クリストスの福音であるようにわたしに見える。いわば、前者は、活動における罪を切除し、後者は、精神において最初に構成される悪を〔切除する〕。

71."11"
 6, 6「アリのところへ行け、おお怠け者よ、
71."21"
そうして、その道を見て景仰せよ。
71."31"
そうして、そのものよりも知者となれ。
71."41"
 6, 7 というのは、畑は彼のものではないのに、
71."51"
強制する者も持たず、
71."61"
主人にいわれなくても、
71."71"
 6, 8.1 夏の間に食糧を備える」
71.1
 ここで留意すべきは、アリの自然的・調和的動き(kinesis)を知恵と呼んでいることである。というのも、知者以上の知者が〔そのもの〕よりも知者と言われているからである。しかし、万物は神の奴隷であるのに、主人の支配下にないとは、いったいどういうことか? 神は、造物主(demiourgos)である点で、また、覚知者(ginoskomenos)である点で、この二重の意味で主人と言われることは決してない。それゆえパウロスも書いている。「しかし今や、罪から自由となって、神に隷従し」〔Rom. 6:22〕、明らかに、徳と覚知にしたがって、「聖(hagiasmos)に至るあなたがたの実を結んで、その終局には、永遠の生命を得よ」〔Rom. 6:22〕。

72."11"
 6, 8a.1「あるいは、ミツバチのところへ行け……
72."21"
 6, 8b.1 その〔ミツバチの〕諸々の労苦(ponos)を、王たちや私人たちは、健康のために捧げる」
72.1
 アリによって、どうやら、ソロモーンは、修行的道をわたしたちのために手本に示し、ミツバチによって、生じたものらや、これをつくった方その人の観想を表しているらしい。この〔観想〕を、清浄な人たちも不浄な人たちも、知者たちも無考えな者たちも、魂の健康のために捧げるのであるが。また、彼らの行いの〔結果である〕巣は言葉を堅持しており、そこに貯められた蜜は、それらの観想の象徴であるようにわたしには見える。そうして、巣はなくなるであろう。「なぜなら、天も地も」と〔聖書は〕謂う、「なくなるであろう」〔Matt. 24:35〕。しかし、蜜はなくならないであろう。なぜなら、わたしたちの救主クリストスの言葉もなくなることはないからである。その〔言葉〕についてソロモーンは言っている。「美しい言葉はしたたる蜂蜜、その甘さは魂の癒し」〔Prov. 16:24〕。またダウイドも。「何と甘いことか」と〔聖書は〕謂う、「あなたの語録はわたしの喉に。わたしの口に蜜よりも」〔Ps. 118:103〕。

73.1
 労苦(ponos)の完成のことを労苦(ponos)と名づけている。

74."11"
 6, 09「いつまで、怠け者よ、おまえは寝ているのか?
74."21"
いつ、眠りから覚めるのか?」
74.1
 この眠りは、自然本性的に、ロゴス的魂にのみ起こるものである。すなわち、ここでは、悪と無知とを表している。徹宵(agrypnia)は人を「屋根の上の雀のように独りであれ」〔Ps. 101:8〕とする。

75."11"
 6, 11「貧しさ(penia)が、旅する悪人のようにおまえのところにやってこようと、
75."21"
欠乏(endeia)が善き走者のように〔やってこようと〕」
75.1
 貧しさ(penia)とは、覚知の喪失(steresis)のことである。欠乏は諸徳の不足(spanis)のことである。

76."11"
 6, 13「同じ者が眼で合図し、足で表し、
76."21"
指の合図で教える」
76.1
 ここで心を傾注すべきは、わたしたちの内に養われる自身の諸々の想念を、敵対者たちが知るのは、身体のこういった諸々の動き(kinema)によっては決してないということである。心を知る者(kardiognostes)は神のみであることをわたしたちは信じているからである。

77."11"
 6, 17「高慢な者の眼、不義な者の舌、
77."21"
義しい血を注ぐ手」
77.1
 クリストスの肉をむさぼり、その血を飲む者はすべて、義しい血を所有するのである。これを喪えば、ロゴス的魂は死ぬと言われている。「なぜなら」と〔聖書は〕謂う、「罪を犯した魂は必ず死ぬから」〔Ezech. 18:4〕。しかし、もしも義しい血があるなら、明らかに、不義の血もある。この〔血〕を自分たちの中に集めているのが、アイティオピアの民に与えられた食べ物を喰らい尽くし、虚言者のパンによって養われている連中である。そうして、よその神々に供儀する連中は、自分たちの義しい血を消尽する。しかし、唯一の神に自分たちを捧げる者たちは、不義の血を壊滅させる。こうして、不義の血の壊滅には、義しい血の覚知が密接し、義しい血の壊滅には、不義の血の誕生(genesis)が〔密接している〕。しかしながら、今はこういうことになるのが自然本性だが、初めからそうだったのではない。というのは、悪の壊滅のためには義が前提になっているのではなく、それはちょうど、病気の壊滅のために健康が〔前提になっている〕のではないように、幼児たちは初めから健康を持って産まれたのだからである。

78."11"
 6, 19「不義の証人は、虚偽を燃えあがらせ、
78."21"
兄弟たちの真ん中に争訟を送りこむ」
78.1
 養子縁組の恩寵を有する者たち、つまり、同じ父クリストスの配下に或る者たちは、兄弟である。これを不正の証人は引き離そうと企て、彼らの間に混乱と裁判沙汰を投げこむ。わたしの思うに、燃えあがらせるというのが付け加えられたのは、気性を怒りと憎しみへ、欲性を恥ずべき制作(ergasia)へと点火する情念的想念のせいである。こういった諸々の想念を、聖パウロスも邪悪者の火矢と名づけた。魂を傷つけ、死を制作するからである。

79."11"
 6, 20「息子よ、おまえの父の律法を守れ。
79."21"
そうして、おまえの母の諭し(thesmos)を拒むな……
79."31"
 6, 22.1 おまえが歩きまわるとき、彼女を導き、おまえとともにあらしめよ」
79.1
 母 — 神にしたがってわたしたちを生みなした知恵にほかならない — が導かれるよう下知している。たしかに、彼〔神〕のことは父と云うべきである。なぜなら、この〔神〕は、息子といっしょにいるのがよりふさわしいからである。しかしながら、生じたものらの観想より前に、彼〔息子〕は神を覚知することができないから、そのために、母が(父ではなく)導かれるよう下知しているのである。母を通して息子が父を見るために。もしも彼女が彼を生まなければ、光 — これこそ神そのものの覚知にほかならない — を凝視することはないからである。

80."11"
 6, 23「律法のいましめは灯火であり、光である。
80."21"
生命の道は、訓戒(elenchos)と教育」
80.1
 律法のいましめが灯火であり光でもあるということ。おそらく、灯火とは古い契約のことである。「なぜなら、彼〔イオーアンネース〕は、燃えて光る灯火であった」〔John. 5:35〕。光とは新しい契約のことである。「なぜなら、わたしは」と〔聖書は〕謂う、「世の光である」〔John. 8:12〕。

81."11"
 6, 26.1「娼婦の値打ちは、パンひとつ程度の値である」
81.1
 悪の快楽は、パンひとつ程度の値打ちだからである。

82."11"
 6, 27「ひとがふところのなかに火を結びつければ、外衣を焼き尽くさないであろうか?
82."21"
 6, 28 あるいは、ひとが炭火の上を歩いたら、その足を焼き尽くさないであろうか?」
82.1
 ふところのなかに火をしっかり結びつけるというのは、不浄な想念が心の中に生きながらえて、諸々の正しい想念を壊滅させることを容認する人のことである。炭火の上を歩くというのも、活動(energeia)における罪によって、自分の魂を破滅させる人のことである。

83."11"
 6, 29「こういうふうに、夫の下にいる女のところへ入ってゆく者、
83."21"
まして、彼女に接する者はみな、罰をまぬがれることはないであろう」
83.1
 夫の下にいる女とは、悪のことを言っている。彼女の夫とは悪魔、彼女によって違法の息子たちを産む者だからである。救主も、『福音書』の中で、イウゥダイオイ人たちに向かって、「あなたがたは」と謂う、「あなたがたの父、すなわち、悪魔から出てきた者である」〔John. 8:44〕。

84."11"
 6, 30「ひとが盗みをして捕まっても、驚くにはあたらぬ。
84."21"
盗みをしたのは、貧しい魂を満たすためだからである。
84."31"
 6, 31 だが、捕まれば、7倍を償わなければならない。
84."41"
その全財産を与えてでも、自分を救わなければならない」
84.1
 もしも、真実の覚知に捕まれば、あらゆる偽りの覚知を脱ぎ捨てるのが、先の、知恵を盗み取った者である。〔この者は〕覚知の欠如ゆえに愚かであることが、わたしたちの救主によって証明された。

85."11"
 6, 32「姦夫とは、分別(phren)の欠如ゆえに、おのれの魂に破滅をもたらす者である」
85.1
 悪を共有する姦夫はみな、悪魔のなかまである。真っ先に悪を味わい、初めに人殺しとなるところの。

86."11"
 6, 34「なぜなら、彼女の夫の気性は、嫉妬に満たされ、
86."21"
裁きの日に容赦しないであろうから」
86.1
 ここで示しているのは、わたしたちは、わたしたちによって為されてしまった行為の告訴人として、裁きの日に悪魔をもつであろうということである。これこそ、聖パウロスも謂っていることである。「そうすれば、反対者も、わたしたちについて、何らつまらぬことも言えなくなり、恥じいるであろう」〔Tit. 2:8〕。

87."11"
 7, 1a「息子よ、主を尊敬せよ、そうすれば強くなれよう。
87."21"
彼以外には、他のものを畏れるな」
87.1
 もしも、律法の違背によって、ひとが神を辱めるなら、律法を明らかに実行することで、おまえは神を尊敬せよ。

88."11"
 7, 4「知恵に対して、『あなたの妹だ』とわたしは云った。
88."21"
賢慮(phronesis)に対しては、『あなたの知己だ』というふりをせよ」
88.1
 知恵はわたしたちの妹である。それゆえ、非身体的自然を作られた父は、これ〔知恵〕をも作られたのである。ここにおいて、知恵と言っているのは、神の息子のことではなく、身体と非身体との観想、また、それらにおける裁きと配剤(pronoia)との〔観想〕のことである。賢慮も覚知も教育も分別も、これ〔知恵〕の1種である。

89."11"
 7, 5「他人の邪悪なる妻からおまえを護るためである。
89."21"
優しげな言葉でおまえを投げこむときに」
89.1
 優しげに投げこむ言葉とは、情念的な想念のことである。

90."11"
 7, 6「〔彼女は〕自分の家の窓から広場をのぞきこんで、
90."21"
 7, 7 愚かな子どもたちのうち、分別(phren)に欠けた若者を見た。
90."31"
 7, 8 自分の家々の入り口の角を通り過ぎるのを〔見た〕。
90."41"
 7, 9 影さすたそがれどき、しゃべっているのを〔見た〕。
90."51"
夜番の暗い寂静の時に。
90."61"
 7, 10 娼婦の装いを凝らした女が彼に出会った。
90."71"
若者の心を飛び立たせる女が」
90.1
 人間の肉を、今、窓と名づけている。これ〔窓=肉〕を通して、邪悪者は、平坦で広々とし、破滅へと導く道を行くことを望む人間たちに、諸々の欺瞞を制作する。しかしながら、ここで心を傾注すべきは、ソロモーンは悪について何を謂っているのかということである。彼女は人間を初めに平坦な道へ導くのではなく、自分の家々の入り口へと進むことを、あるいは、影さすたそがれどきにしゃべることを、強制しているのでもなく、誰か諸々の快楽に自分を委ねる者がいたら、すぐに、「娼婦の装いを凝らした女が彼に出会い、若者の心を飛び立たせる」〔Prov. 7:10〕のである。

91.1
 夜番の暗い寂静とは、魂の不浄な境涯を名づけた。この〔境涯〕において〔魂が〕点火されると、身体を通して罪を作り出すのである。

92."11"
 7, 12「というのは、時には外をうろつき、
92."21"
時には広場を〔うろつき〕、あらゆる角に待ち伏せする。
92."31"
 7, 13.1 そうして、彼をつかまえて口づけした」
92.1
 広場で待ち伏せする者たちは、姦淫(moicheia)、邪淫(porneia)、盗みの想念をつかまえる。これ以外のところで待ち伏せする者たちは、自然に反して動く。男たちの寝床を探し求め、他のある無限に増大する事象の幻影をつかむからである。

93.1
 もしも、諸々の想念のうち、あるものは清浄であり、あるものは不浄であるなら、そして、諸々の線分のうち、あるものは直線と呼ばれ、あるものは曲直線と呼ばれ、角は曲直線であるなら、角と理性的にして不浄な想念のことである。だから、悪があらゆる角に待ち伏せするというのは、あらゆる不浄なる想念によってそれ〔悪〕が魂を欺くということを明らかにしている。ダイモーン的な口づけとは、情念的表象のことである。これが魂を恥ずべき所行(ergasia)へと呼び出す。

94."11"
 7, 15「それで、あなたに会うために、わたしは出かけてきました。
94."21"
あなたの顔に焦がれて、あなたを見つけました。
94."31"
 7, 16 わたしの寝椅子を、太紐でしつらえました。
94."41"
アイギュプト産の錦織の亜麻布を広げました。
94."51"
 7, 17 わたしの寝床にサフランを撒き散らしました。
94."61"
わたしの家には肉桂を〔撒き散らしました〕」
94.1
 悪は、わたしたちの魂の顔を求める。寝椅子の太紐、寝椅子、錦織の亜麻布、サフラン、肉桂によって恥をかかせるためである。これらは、悪しき種々様々な情念(諸悪の案出者たちによってもたらされる)を表す。

95."11"
 7, 19「わたしの夫は家におりません。
95."21"
長い道を旅しております。
95."31"
 7, 20 銀子の入った袋をその手にとって。
95."41"
数多の日々を経て、自分の家に帰ってくるでしょう」
95.1
 もしも、「数多の日々を経て、自分の家に帰ってくる」のなら、パウロスはまったく霊的に計画を見つめて、最後の敵・死が無効になると書いている。

96."11"
 7, 22.1「彼はのぼせあがって、彼女の後ろについていった」
96.1
 サギには、灰色のと、白いのと、いわゆる「星の入ったの」の3種類がある。これらのうちで、灰色のサギは巣についたり、交尾したりするのが困難である。すなわち、交尾しながら鳴き立て、眼から血が出るといわれ、また惨めな恰好で苦しみながら産卵するのである。以上は、アリストテレースの『動物誌』〔第9巻1章、609b〕から引用したものである。どうやら、この書は、灰色サギという動物にかこつけて、淫蕩な女に聴従する男 — 放縦のために灰色になり、鳥に類似した — の話を拵えたらしい。

97."11"
 7, 26「多くの者たちを倒し、刺し殺し、
97."21"
殺戮した者は数知れず」
97.1
 わたしたちを傷つけるのは、諸々の想念によってである。殺戮するのは、諸々の罪によってである。

98."11"
 8, 2「なぜなら、高き所の頂に〔彼女は〕いる。
98."21"
道の交差点に立っている」
98.1
 大胆さ(thrasytes)と臆病(deilia)との中間に勇気(andreia)は立っている。

99."11"
 8, 3「権力者たちの門のわきに腰掛けている。
99."21"
入り口のところで、讃歌を歌う」
99.1
 知恵は、あるときは入り口に、あるときは出口で、すなわち、悪から出てくる者たちのところで、また、徳に入って行く者たちのところで、讃歌を歌うと〔ソロモーンは〕謂う。というのは、出口と入り口とは、出て行く者と入ってゆく者のことを名づけたのだからである。わたしたちが彼の習慣(synetheia)をしばしばそう表したのは、最善の状態であれ、最悪の状態であれ、その状態(hexis)を所有している者たちを、その状態によって名づけるからである。

100."11"
 8, 5「無邪気な者たちよ、利口さ(panourgia)を考えよ。
100."21"
無教育な者たちよ、心を植えつけよ」
100.1
 ここで、心とは、心に結果する徳を述べたのである。


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