『「箴言」註解』(2/4)


101."11"
 8, 10.1_2「教育を受けよ、銀子ではなく。
101."21"
そして、黄金よりも合格審査されたる覚知を……
101."31"
 8, 11.1 なぜなら、知恵は諸々の宝石にまさるから」
101.1
 ここでは、知恵は、教育と覚知の1類と理解せよ。なぜなら、教育と覚知を前提にして、「なぜなら、知恵は諸々の宝石にまさるから」を導いているからである。教育と覚知は知恵の中に包摂され、これは聖なる霊の最初の賜物である。「霊によって知恵の言葉が与えられている」〔1Cor. 12:8〕。これこそが、養子縁組の霊とも言われているものである。

102."11"
 8, 13.1_2「主に対する畏れは憎む。不義を、
102."21"
高慢と傲りを、そして邪悪な者たちの諸々の道を」
102.1
 留意すべきは、不義、高慢、傲りというのは、不義者、高慢者、傲る者のことを言っているということである。持ち主の状態(hexis)にちなんで彼〔状態の持ち主〕を名づけて。

103."11"
 9, 2.1_2「〔彼女は〕自分の供儀を血祭りにささげ、
103."21"
自分の葡萄酒を混酒器で混ぜ合わせた」
103.1
 同じ食べ物が、肉ともパンとも乳とも野菜とも葡萄酒とも名づけられている。ただし、愚かな者たちは、彼女のパンを摂るように、混ぜ合わされた酒をも摂ると言われている。もしもそうなら、「天使たちのパンを人間は喰った」〔Ps. 77:25〕ということが、どうしてわたしたちに考えられよう。

104.1
 混酒器とは、霊的覚知 — 非身体や身体、裁き、配剤についての言葉を身につける — のことである。

105."11"
 9, 3.1「彼女自身の奴隷たちを遣わした」
105.1
 使徒パウロスがクリストスの奴隷であり、クリストスが知恵であるならば、使徒パウロスは知恵の奴隷である。同様に、残りの使徒たちや預言者たちについても、彼らが知恵の奴隷であることを示して、わたしたちは言葉を結べるであろう。

106."11"
 9, 3.2「高き所の告知をもって呼び集め、混ぜ合わせるために言う」
106.1
 この告知のみが高い所である。神の覚知の場所を告知するゆえに。

107."11"
 9, 5「さあ、わたしのパンから取って喰え。
107."21"
そして、おまえたちのために混ぜ合わせた葡萄酒を飲め」
107.1
 わたしの肉から〔取って喰え〕とは云わなかった。「堅い食物は成人の摂るべきものであるから」〔Hebr. 5:14〕。

108."11"
 9, 8.1「悪人たちを訓戒するな、おまえを憎まないように」
108.1
 罪を犯した悪人たちは訓戒すべきではなく、むしろ神に対する畏れについて彼らと対話すべきである。彼らを悪から離れるよう説得しようとするひとは。

109."11"
 9, 10a「律法を知るということは、善き精神のすることである」
109.1
 もしも、「律法を知ることは、善き精神のすることである」なら、いましめを実行することも善き精神のすることである。もっとも、律法を知るといういましめを実行することが先であるが。覚知は、清浄さをもって付け加わるよう生まれついているからである。

110."11"
 9, 12a「虚偽へと突進する者は、風を牧するひとである」
110."21"
同じ人が、翼のある鳥を追いかけるであろう」
110.1
 教えの風をみな身につけて、信仰について難船するひとのことである。

111."11"
 9, 12b「すなわち、自分の葡萄園の道を放置した。
111."21"
自分の畑に通じる〔道〕を踏み迷った」
111.1
 すなわち、次のように云っている葡萄を放置したのである。「わたしは葡萄の樹である、あなたがたはその枝である」〔John. 15:5〕、また、「わたしの父は農夫である」〔John. 15:1〕。

112."11"
 9, 12c.3「手に不稔(akarpia)を集める」
112.1
 不稔(akarpia)とは、悪と無知のことである。

113."11"
 9, 13「愚かで向こう見ずの女は、一口の食物に欠ける。
113."21"
彼女は恥を識らない」
113.1
 恥は教えられうるから、「恥を識らない」と述べられている。ダウイドも神に対する畏れは教えられうると言っている。「さあ、こちらへ」と謂う、「わが子よ、わたしのいうことを聞け。おまえたちに主に対する畏れを教えよう」〔Ps. 33:12〕。もしも、畏怖と恥とが魂の自然な情念であるなら、いかにして教えられうるのか? おそらくは、主に対する畏れというのは、主に対する畏れについての教え — 、悪からいかにして逸れるべきかをわたしたちに教える〔教え〕 — といっているのであろう。いわば、「主に対する畏れから、みなが悪から逸れる」〔Prov. 15:27a〕。さらにまた、恥と名づけたのは、悔い改め(metanoia)と恥に関する言葉 — みずからの罪の意識へとわたしたちを導く〔言葉〕のことである。ダウイドもこのように謂っている。「わたしは見るであろう、諸々の天を、あなたの指の業を、あなたがお据えになった月を星々を」〔Ps. 8:4〕、すなわち、諸天、罪、星々の言葉をわたしは見るであろう、と。

114."11"
 9, 7「隠されたパンに接するのは快い。
114."21"
盗んだ水は甘い」
114.1
 「彼らにとって偽りのパンは快く、その後で、彼らの口は小石に満たされよう」〔出典不明〕

115."11"
 9, 18a「いや、飛び退け、その場所にぐずぐずするな。
115."21"
おまえの眼を彼女にとめるな」
115.1
 つまらぬ表象に理性をぐずつかせてはならない。「なぜなら、火をふところにつなぎとめ、長衣を燃えあがらせる者は誰もいないのだから」〔Prov. 6:27〕。

116."11"
 9, 18c「他人の水に手を出すな。
116."21"
他人の泉から飲むな」
116.1
 生命の泉は神のところにあるように、死の泉は悪魔のところにある。もしも、神の泉が徳と覚知の泉であるなら、悪魔の泉は、明らかに、悪と無知の泉である。河川や井戸や水や雨についても同様に考えるべきである。

117."11"
 10, 2「無法の宝物は役に立たない。
117."21"
義は死から救うであろう」
117.1
 「無法の宝物は役に立たない」、これを彼らは地上に蓄えた。「虫と錆が腐食させるところ、盗人らが壁破りをして、盗み出すようなところに」〔Matt. 6:19〕。

118."11"
 10, 3「主は義しい魂を飢えさせることはない。
118."21"
不敬者たちの生命は追い払われよう」
118.1
 もしも、不敬者たちの生命が悪であり、これを主が追い払われるのなら、明らかに、不敬者たちが、将来、不敬者となることはなかろう。なぜなら、この追放の後、主は神と父にこの王国を引き渡されるであろうから。神が「すべての者にあってすべて」注2)となられるために。

119."11"
 10, 17「教育は生命の道を守る。
119."21"
訓戒を棄てた教育は道に迷う」
119.1
 訓戒を棄てた教育とは、魂の悪しき生活(politeia)のことを名づけている。この〔市民生活〕は、彼女〔魂〕にとって迷いの保護役(proxenos)となる。

120"11"
 10, 18「義しい唇は敵意を包み隠す。
120."21"
悪罵をさらけ出す者たちは、最高の愚者である」
120.1
 敵意とは、悪のことを言っている。なぜなら、これによってわたしたちは神の敵となるからである。「なぜなら、わたしたちが敵であったときでさえ」とパウロスは謂っている、「その息子の死によって神との和解を受けたとすれば」〔Rom. 5:10〕。また、もしも敵意が悪であるなら、友愛(philia)とは徳であり神の覚知である。これによってわたしたちは神と聖なる有力者たちの友となる。なぜなら、彼の友であり、お互いに友であるのは、この友愛によってなのだから。

121."11"
 10, 24.2「義人の欲望は受け容れられる」
121.1
 「主よ、わたしの欲望はことごとくあなたの前にあります」〔Ps. 37:10〕とダウイドは謂っている。

122."11"
 10, 27「主に対する畏怖は、日々を増し加える。
122."21"
不敬者たちの歳月は短縮されるであろう」
122.1
 もしも、「主に対する畏怖は、日々を増し加え」、「主に対する畏怖は知恵の初め」〔Prov. 20:1〕であるなら、これらの日々は、知恵の部分であり、義の太陽によって生じる。これについてはダウイドもこう言って祈っている。「わが日々の半ばでわたしを取り上げないでください」〔Ps.101:25〕。アブラアムもこれらの日々を満たして死んだ。これについては述べられている。「アブラアムは年老いて日数も満ちると死んだ」〔Gen. 25:8〕と。

123."11"
 10, 30「義人は永遠に揺るがない。
123."21"
不敬者たちは地に住むことができない」
123.1
 永遠というのは、生涯を通じてということの代用。パウロスも、「わたしは喰わない」と謂う、「永遠に肉を。わたしの兄弟を躓かせないために」〔1Cor. 8:13〕。永遠とは、その生命の成分によって長引かされた間の時間を名づけている。

124."11"
 10, 32「義人たちの唇は、喜びを滴らせる。
124."21"
不敬者たちの口は、ねじれている」
124.1
 ここで口とは、理性のことを述べている。

125."11"
 11, 14「舵取りのいない者たちは、木の葉のように落ちる。
125."21"
救いは、数多の企てのうちに存する」
125.1
 義の風をすべて身にまとった者たち、信仰について難船した者たちのことである。

126."11"
 11, 15「邪悪な者は悪を為す。義人と交わったときに。
126."21"
彼は安全さの音を憎む」
126.1
 安全さの音とは、救いについての言葉を名づけたものである。

127."11"
 11, 17「憐れみ深い者は、おのれの魂にとって善きことを為す。
127."21"
無慈悲な者は、おのれの身体を損なう」
127.1
 ここで、魂と身体は反対だということを予告したのである。クリストスも『福音書』の中で、「眼は身体の灯りである」〔Matt. 6:22, Luk. 11:34〕と言って、身体を魂と名づけ、灯りを理性と云って — それ〔理性〕が覚知を受け容れるものだからである — 、身体を魂の気性的・欲性的部分と〔云っている〕。この〔気性的・欲性的部分〕こそ、ある人たちが非ロゴス的〔部分と呼び〕、ある人たちが情念的部分と呼ぶところのものである。

128."11"
 11, 21「不正に手に手を注3)取る者は、罰をまぬがれることがない。
128."21"
義の種を蒔くひとは、信仰の報酬を得るであろう」
128.1
 不正に手に手を取るというのは、悪しき諸行や教義の教授者となる人ということである。また、義の種を蒔く人というのは、諸徳や神の覚知に関する言葉を口に出す人ということである。

129."11"
 11, 24「自分のものを撒き散らすことで、より多くする人たちがいる。
129."21"
集めることで、より少なくする人たちがいる」
129.1
 自分のものを撒き散らしてより多くする人たちに反対なのが、集めてより少なくする人たちである。もしも、自分のものを撒き散らす人たちが、霊のために撒き散らして生命を収穫する人たちのことだとするなら、集める人たちは、肉のために撒き散らして壊滅を自分たちに集める人たちのことである。

130."11"
 11, 26「穀物をかかえこむ者は、族民たちにこれを出し惜しむ。
130."21"
施しをする者の頭には祝福がある」
130.1
 この人には、『福音書』の中で、わたしたちの救主によってこう言われていることが似つかわしい。「誰も、灯りを点して、これを枡の下に置く者はいない。むしろ燭台の上に〔置き〕、家にいる人たちみなに見えるようにする」〔Luk. 11:33〕。

131."11"
 11, 27「善きことどもを組み立てる者は、善き恩寵を求める。
131."21"
しかし、悪しきことどもを探し求める者は、これを〔神は〕お見棄てになろう」
131.1
 もしも、組み立て〔=大工〕術が善きことどもの制作(ergasia)、修行が諸徳の制作(ergasia)であるとするなら、修行は組み立て術である。

132."11"
 11, 30「義の果実から生命の樹が生える。
132."21"
違法者たちの未熟な魂は奪い去られる」
132.1
 この生命の樹は、楽園の中央に生えているものであるが、罪を犯した後のアダムは、これに触れることを禁じられている。義の種子を振り落とすからである。これら〔の種子〕から生命の樹は生え出る。

133."11"
 12, 2「すぐれているのは、主のもとに恩寵を見出す人である。
133."21"
違法の者は、黙殺されよう」
133.1
 「わたしを黙殺しないでください」とダウイドは謂う、「さもないと、わたしは坑に下る者ら注4)と同じになります」〔Ps. 27:1〕。

134."11"
 13, 22「善き人は、息子たちの息子たちを跡継ぎとして得るだろう。
134."21"
不敬者たちの富は、義人たちのために蓄えられる」
134.1
 不敬者たちの富とは悪である。義人たちがこれを浪費することは明々白々である。善き教えによって、今にせよ、あるいはまた永遠の将来にせよ、15都市を支配する者となって。パウロスも謂っている。「あなたの頑なな、悔い改めない心のゆえに、神の義しい裁きの現れる怒りの日のために、あなたは怒りを自分の身に蓄えているのである」〔Rom. 2:5〕。

135."11"
 14, 7「愚かな人にとってはすべてが反対である。
135."21"
知恵ある唇は感覚の武器」
135.1
 なぜなら、「いかなら邪悪も」、知恵には「抗しえない」〔Prov. 3:15〕、それゆえ、〔知恵は〕不敗の武器なのである。というのは、ダイモーンたちが無力であるのは、それ〔知恵〕に対してのみなのだから。

136."11"
 14, 9「愚か者たちの家人は、浄めの過ちを犯す。
136."21"
義人たちの家人は、受け容れられる」
136.1
 清浄な者となるのは、神を見るためである。これこそが、あらゆるロゴス的〔魂〕に生まれついたものとして護られてきた浄福な目的である。

137."11"
 14, 14「大胆不敵な者は、自分の道に満足する。
137."21"
しかし、善き人は自分の考えに〔満足する〕」
137.1
 ここで考えと云ったのは、諸々の徳の状態(hexis)のことである。これが、大胆不敵な者の道に対置されるところのものである。

138."11"
 14, 18「愚か者たちは悪を分かち合う。
138."21"
利口者は感覚を統御する」
138.1
 悪を感覚に対置している。もしも、悪が徳に敵対するものならば、ここでは、感覚は徳を表している。

139."11"
 15, 16「大いなる強さは、増加する義に存する。
139."21"
しかし不敬者たちは、根こそぎ地上から滅びる」
139.1
 「もしも、あなたがたの義が、律法学者たちやパリサイ人の〔義〕にまさっていなければ、けっして諸天の王国に入ることはできない」〔Matt. 5:20〕。

140."11"
 15, 10「無邪気な者の教育は、居合わせる人たちに知られる。
140."21"
訓戒を憎む者たちは、ぶざまな命終の仕方をする」
140.1
 ここで、訓戒とは、いましめのことを云ったのである。なぜなら、これらいましめは、罪を犯したわたしたちを訓戒するから。

141."11"
 15, 15「常時、悪人たちの眼は悪事を歓迎する。
141."21"
善き人たちは、いつも、寂静である」
141.1
 寂静とは、悪を絶つことである。

142."11"
 15, 24「生命の道は、分別ある者の思想(dianoema)。
142."21"
これを逸れたとき、冥府から救われるために」
142.1
 生命の道とは、覚知へと通じるところの修行的徳のことを言っている。

143."11"
 15, 28a「義なる人たちの道は主に受け容れられる。
143."21"
彼らのおかげで、敵対者たちも友となる」
143.1
 パウロスが布令ている。「かつて敵であった者たちでさえ、神の息子の死によって、神と和解した」〔Rom. 5:10〕。ただし、敵ならみな義人たちによって友となるのかどうかは、注意しなければならない。クリストスが万人に云うために。「もはや奴隷とではなく、友と呼ぼう」〔Prov. 6:3〕。

144."11"
 16, 10「託宣は王の唇の上にあり。
144."21"
裁きのときに、彼の口が惑うことはない」
144.1
 クリストは心を知る者(kardiognostes)であり、人の住まいする地を義によって裁く。

145."11"
 16, 14「王の気性は、死の天使。
145."21"
しかし知恵ある者は彼を宥める」
145.1
 懲らしめにつての言葉を知る天使が、神の気性と呼ばれている。

146."11"
 16, 16「知恵の巣は、黄金よりも選択されるべきである。
146."21"
しかし賢慮(phronesis)の巣は、銀よりも選択されるべきである」
146.1
 知恵の覚知は黄金にまさる。しかし賢慮の覚知は銀にまさる。

147."11"
 16, 17.3_4「教育を受け容れる者は、善き情態にあるだろう。
147."21"
だが、訓戒を守る者は、知者となるだろう」
147.1
 訓戒とは、神のいましめのことを言う。これらいましめは、罪を犯したわたしたちを訓戒するからである。

148."11"
 〔16, 22〕「見識(ennoia)は、これを所有している者たちにとって、生命の泉。
148."21"
しかし、愚か者たちの教育は、悪」
148.1
 訓戒を受けない教育を、ここでは、愚か者たちの教育と名づけた。もしも、愚か者たちの教育が悪であるなら、訓戒を受けない教育は愚である。

149."11"
 16, 23「知者の心は、自分の口のことを考える。
149."21"
しかし、唇の上に悟りをもたらすだろう」
149.1
 覚知のことを悟りと云った。これ〔覚知〕はあらゆる所行を悟るからである。

150."11"
 16 28「ひねくれた者は悪しきことを遣わされる。
150."21"
そして、欺瞞の灯火は悪人たちを照らし、友たちを離間させる」
150.1
 言っていることは、ダイモーンたちは、悪魔から学んで、聖徒たちに手をつけ、これを覚知 — 天上の霊能によって、これを友愛に結びつけるよう生まれついている — から引き離すことを試みるということである。ソロモーンもこれと同じことを、わたしの思うに、この箴言を通して明らかにしたのであって、ひねくれた者とは、悪魔(satan)のことを言い、照らされる欺瞞とは、教えられる人ではなくて、悪しきダイモーンたち、友たちとは、覚知によってお互いに結びつけられる聖徒たちのことを〔言っている〕。

151."11"
 16, 30「自分の眼を据える者は、曲がったことを想念(logizesthai)し、
151."21"
自分の唇で、あらゆる悪事を決定する。
151."31"
この人は、諸悪の竈である」
151.1
 この竈の炎を振り払うのは、露をふくんだぼうぼう鳴る気息である。

152."11"
 16, 33「不義の者らにとって万事はふところの中で起こる。
152."21"
しかし義しいことはすべて主からくる」
152.1
 留意すべきは、ここで、ふところとは、不義なる者たちの心のことを述べているということである。わたしの思うに、ふところは、どの箇所でも、理性なり覚知なりを表している。ところが、非難さるべきふところがあるとするなら、明らかに無知を明らかにしていよう。

153."11"
 17, 2「理性的な家僕は、愚かな主人を制御するだろう。
153."21"
そして兄弟たちの間で、分け前を分け合うだろう」
153.1
 もしも、「罪を作る者はすべて罪の奴隷である」〔John. 8:34〕なら、悪から遠ざかり、諸々の徳によってダイモーンたちを制御する者はすべて、愚かな主人たちを制御してきた。しかしこのような者はまた、神の秘儀の管理人にもなるだろう。〔彼は〕境涯の比に応じて、兄弟たちのめいめいに霊的覚知を与え、コリントス人には乳を飲ませ〔iCor. 9:7〕、エペソス人にはもっと堅い食べ物で養い〔???〕、高さと長さと広さと深さについて対話し、これらの間に、ロゴス的自然の区別を表し、神の裁きと配剤に関する言説を

154."11"
 17, 4「悪しき者は、違法者たちの舌に耳を傾ける。
154."21"
しかし、義しい人は、偽りの唇に心を注ぐ」
154.1
 違法者たちの舌に耳を傾けるのは、彼ら〔違法者たち〕から諸々の不義なる想念を受け取り、彼らにしたがって活動することに熱心な者のことである。義なる人は彼らに心を注がない、すなわち、それ以上に自分で養うことがない、と言われる。

155."11"
 17, 6a「世界はすべて、信実な人の財産のひとつである。
155."21"
しかし、不実な人には、1オボロス〔の財産〕もない」
155.1
 真実な人は、と〔ソロモーンは〕謂う、この世界の言葉を見るであろう。この言葉のことを、比喩的に理性の財産と命名したのである。しかし、不信実な人は、おのが魂の不浄さゆえに、手持ちの事象の言葉を覚知することさえない。魂の富とは、神の覚知であるということは、パウロスがこう書くことで教えている。「あなたがたはすべてのことに、すなわち、すべての覚知とすべての知恵に富んでいる」〔iCor. 1:5〕。もしも、この考え(ennoia)がこの箴言の意味ではないと示すことを望む人がいるなら、「ヒツジの毛皮やヤギの毛皮を着て」歩き回り、「虐げられ、患難に遭い、窮乏する人たち」〔Heb. 11:37〕が、財産に恵まれているというのはどこにおいてか言うがよい。さらにまた、多数の不実な者が — つまり、わたしが言っているのは、この世界の数多の王たちや支配者たちのことにほかならない — が富を身にまとっているのに、1オボロスも持たないというのは、どういうことか〔言うがよい〕。

156."11"
 17, 7「信実な唇は、愚か者には調和しない。
156."21"
まして、偽りの唇が義しい人に〔調和する〕はずもない」
156.1
 「義と不義と、何の係わりがあるか。光と闇と何の交わりがあるか」〔iiCor. 6:14〕。

157."11"
 17, 9「不正事を包み隠す者は、友愛を求める。
157."21"
しかし、包み隠すことを憎む者は、友たちや親しい者たちを仲違いさせる」
157.1
 わたしたちは、義によって不義を包み隠し、慎み(sophrosyne)によって放縦(akolasia)を、また、愛によって憎しみを、へりくだりによって傲りを、柔和さによって大胆さを〔包み隠す〕。それは、霊的友愛を求めるからであって、これこそ聖なる覚知が表すところのものである。さらに、パウロスによれば、聖徒たちの何人かと、ヒエルゥサレームの家人たちが同市民として生まれたと言われている。「彼らは使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものたちである」〔Ephe. 2:20〕。

158."11"
 17, 13「善きものらに対して悪しきものらを返すひとは、
158."21"
悪しきものらがその人の家から動くことはない」
158.1
 もしも、悪しきものらに対して悪しきものらを返すひとが違法者なら、善きものらに対して悪しきものらを返すひとは、どれほどはなはだしい違法者であることか。沙漠において、神の前に、そういうひとになったのが、イスラエールである。こういうひとに対してモーセースは『申命記』の中で謂っている。「曲がった、よこしまな世代よ、おまえたちはこれらのことを主に報いる」〔Deut. 32:5 〕。

159."11"
 17, 14「義の初めは、言葉に自由(exousia)を与える。
159."21"
しかし、党争と喧嘩は、欠乏を先導する」
159.1
 覚知は義に後続する。しかし無知を先導するのは悪である。

160."11"
 17, 15「義人を不義なものと審判し、不義なものを義人と〔審判する〕ものは、
160."21"
不浄なものにして、神に嫌悪される」
160.1
 この人に等しいのが、辛いものを甘い、甘いものを辛いというひと、光を闇と名づけ、闇を光と〔名づける〕者である。

161."11"
 17, 16「愚か者に財産がそなわるのは何ゆえか?
161."21"
心なきもの(akardios)は、知恵を所有することができないからである」
161.1
 愚か者の財産とは、各人が自分の行為について愚かである(aphrosunai)〔複数〕ということである。というのは、この〔愚かさ〕によって、心なきものとなったものは、知恵を所有することができないのである。

162."11"
 17, 16a「自分の家人を高きものとするものは、悔恨(syntribe)を求める。
162."21"
学ぶことを曲げるものは、悪に陥る」
162.1
 「学ぶことを曲げるものは」〔Prov.17:16a〕、「主は傲る者たちをしりぞけなさる」〔Jacob. 4:6, Petri. 5:5〕のであるから、「悪に陥る」〔Prov. 13:17; 17:20〕。

163."11"
 17, 17.1_2「いついかなるときにも、あなたに友があるように。
163."21"
しかし兄弟たちは、どうしても必要なときに有用となる」
163.1
 もしも、クリストスの息子たちがお互いの兄弟であり、天使たちや義人たちがクリストスの息子であるなら、天使たちや聖なる人たちはお互いの兄弟である。養子縁組の霊によって生まれるからである。

164."11"
 17, 17.3「なぜなら〔兄弟は〕このために生まれるからである」
164.1
 「なぜなら〔兄弟は〕このために生まれるからである」、知恵によって。それは、人間どもを道案内するためである。悪から徳へと、無知から神の覚知へと、「かつ、被造物自身が呻き、わたしたちと共に生みの苦しみをつづけ、自分の意志ではなく、虚無に服従した」〔Rom. 8:20-23〕。

165."11"
 17, 20.2「変わりやすい人は、舌によって悪に陥る」
165.1
 変わりやすいというのは、易々と徳から悪へと変わるひとのことである。

166."11"
 17, 23「不正にふところに賄賂を取る人の行く道に幸せはない。
166."21"
しかし不敬者は、義の道から逸れる」
166.1
 心に不正な表象を持つ者のゆく道に幸せはない。なぜなら、情念的な表象を、ダイモーンたちからわたしたちにもたらされた賄賂と名づけたからである。あるいは、ふところの中に賄賂を不敬者が取るのは、裁きの道から逸れるからである。

167."11"
 17, 21「愚か者の心は、これを所有する者にとって苦痛である。
167."21"
父は無教育な息子に好機嫌とならない。
167."31"
賢慮を有する息子は、その母親に好機嫌となる」
167.1
 賢慮を有する者は母親に好機嫌となる。しかし愚か者は、自分を産んだ女に悩まされる。

168."11"
 17, 24「知恵ある者の顔前には分別(syneton)がある。
168."21"
愚か者の眼は、地の果てに向かう」
168.1
 愚か者の心は極端な悪のうちにある。

169."11"
 17, 25「父にとって愚かな息子は怒り〔のもと〕。
169."21"
その産みの女にとっては苦悩」
169.1
 賢慮を有する息子は、産みの女をも母親をも有する。しかし愚かな息子が〔有する〕のは、産みの女だけである。というのは、母親は産みの女でもあるから。しかるに、産みの女だからといって、必ずしも母親でもあるわけではない。すなわち、産まれた児が、もしも悪と無知のうちに死んだなら、産みの女はいるが、母親はいない。産まれたその児は、養子縁組の霊にさえ与っていないからである。感覚的母親についても、感覚的死についても、同様に考えられよう。すなわち、母親と産みの女をわたしたちは尋ねるであろう。しかし産みの女は、もはや死んだ嬰児の母親ではない。

170."11"
 17, 26「義しい人を罰するのは美しくない。
170."21"
義しい権力者たちに策謀するのも、神法にかなったこと(hosion)ではない」
170.1
 なぜなら〔彼ら=義しい権力者たち?は〕、わたしたちの持ち物を求めているのではなく、わたしたちを〔求めている〕からである。

171."11"
 17, 27「曲がった言辞を口にするのを控えるひとは、悟ったひと(epihnomon)である。
171."21"
しかし、気の長いひとは、賢慮を有するひとである」
171.1
 気性を動かせる想念のことを、曲がった言辞と名づけた。あるいは、自分の隣人の気性を動かせる言葉のことを、曲がった言辞と名づけた。

172."11"
 17, 28「無考えなひとが知恵を問いただせば、このひとには知恵が想念されるであろう。
172."21"
しかし、ひとが自分を考えのあるものにすれば、賢慮を有すると思われるであろう」
172.1
 もしも、知恵について質問するのが、知恵について何かを学知したいと望むひとなら、知恵について沈黙するのは、知恵について何事も知ろうとしないひとである。だから、第1のひとは第2のひとよりも賢慮があると言われる。

173."11"
 18, 1「友たちからみずから分離することを望むものは、諸々の口実を求める。
173."21"
〔そういうひとは〕いついかなるときも非難さるべきひとであろう」
173.1
 諸々の口実とは、罪のことを言っている。「なぜなら」と〔聖書は〕謂っている、「諸々の罪に口実をもうけるために」〔Ps. 140:4〕。友たちとは、徳を通して触れあう聖徒たちすべてのことである。

174."11"
 18, 2「思慮分別(phren)の欠けた者は、知恵の必要性を有さない。
174."21"
愚かさの方を好むからである」
174.1
 なぜなら、光よりも闇を好むのだから。

175."11"
 18, 5「不敬者を依怙贔屓するのは美しくない。
175."21"
裁きのおりに、義人を却けるのも、神法にかなったこと(hosion)ではない」
175.1
 悪魔の持ち前の悪を受け容れ、これにしたがって活動する者、この者は不敬者を依怙贔屓する。

176."11"
 18, 6「愚か者の唇は、これ〔=愚か者〕を悪に導く。
176."21"
彼の口は、大胆さのことを死と別称する」
176.1
 もしも、死が大胆さから生まれ、死が魂を本当の生命から引き離すのなら、大胆さはわたしたちを「わたしは生命である」〔John. 11:25〕と云う方から遠ざける。そして、大胆さから生まれるのが死であるように、柔和さからは生命が〔生まれる〕。なぜなら、柔和さは大胆さに反対であるから。

177."11"
 18, 8.1「畏怖は怠け者たちを投げ倒す」
177.1
 敵に対する畏怖であれ、主に対する畏怖であれ、畏怖が怠け者たちを投げ倒すのは、善き業(erga)によって彼らを怠惰から引き離すからである。

178."11"
 18, 8.2「魂たちは男女〔=両性具有〕に飢えている」
178.1
 男女〔=両性具有〕とは、他の人に教えることもできず、他人から学ぶことも望まない者のことである。

179."11"
 18, 9「自分の業(erga)によって自分を癒さないひとは、
179."21"
自分自身を損なう者の兄弟である」
179.1
 パウロスも謂っている。「もし、ひとが自分自身を浄めるなら、主人に役立つ容れ物となろう」〔iiTim. 2:21〕。

180."11"
 18, 10「大能(megalosyne)によって主の名は強固になる。
180."21"
彼のもとに駆けこむ義人たちは、高く上げられる」
180.1
 主の名とは、神の覚知を表す。そして、正しい生によって、義人たちは彼のもとに駆けこむ。〔義人たちは〕観想によって、高く上げられる。

181."11"
 18, 12「滅び(syntribe)の前には、ひとの心は高くされ、
181."21"
栄光の前には、低くされる」
181.1
 傲りに後続するのが滅び(syntribe)、へりくだりに〔後続する〕のは栄光。

182."11"
 18, 13「聞く前に言葉を返す者、
182."21"
彼には愚かさ(aphrosyne)と恥(oneidos)がある」
182.1
 この言辞を用いるべきは、覚知を神から受け取っていないのに、他の人たちを教えようと企てる者たちに対してである。ダウイドも謂っている。「あなたの讃美の声を聞かせるため」、「あなたの不思議な業を」いつか他の人たちにも「述べるため」〔Ps. 25:7〕。また、ソロモーンも謂っている。「あなたの眼が見たものを、言え」〔Prov. 25:7〕。

183."11"
 18, 14「賢慮を有する従者は、ひとの気性を柔和にする。
183."21"
しかし、小心なひとを、誰が我慢できようか?」
183.1
 わたしたちの主は、過ちを犯した者たちに対しては、ひもじい豹となり、聴従しない者たちに対しては躓きの岩となると言われているように、小心な人のことを、邪悪者とも、徳と覚知から転落したあらゆるダイモーンとも言うことができる。

184."11"
 18, 16「人の贈り物(doma)は、彼の場を広げ、
184."21"
力ある方々(dynastai)の前に彼を座らせる」
184.1
 ここで、正しい生のことを、人の贈り物と云った。この〔生〕は、彼の場を広げ、神の〔有し給う神性の〕豊満(pleroma)にあたいするものをもたらす。これこそ聖なる力能(dynamis)の座と名づけるところのものである。なぜなら、理性の座とは、最善の状態(hexis) — 座したものを、動きがたいもの、ないしは、不動のものとして護るところの〔状態〕 — だからである。

185."11"
 18, 18「籤は諸々の抗弁(antilogia)を終熄させる。
185."21"
しかし、力ある方々(dynastai)の中に定めを置く」
185.1
 無知を終熄させるのが覚知。ロゴス的自然の籤とは、これのことである。

186."11"
 18, 21「死と生命は、舌の手の内にある。
186."21"
これ〔舌〕を統制する者たちは、その果実を食する」
186.1
 ここにおいて、魂は、死と生命の容れ物(dektike)である、と言っている。これら〔死と生命〕から、その〔魂の〕自由意志(autexousion)が生じるようわたしたちは用意するのである。

187."11"
 18, 22.1「善き妻を見出した者は、恩寵〔感謝〕を見出したのである……
187."21"
 18, 22a.2 姦婦をつかまえる者とは、愚か者や不敬な者のことである」
187.1
 「善き」知恵を「見出した者は、恩寵〔感謝〕を見出したのである」〔という意味である〕。

188.1
 悪を「つかまえる者とは、愚か者や不敬な者のことである」〔という意味である〕。

189."11"
 19, 4「富は、多数の友たちを増し加える。
189."21"
しかし、物乞いは、今ある友からさえ見棄てられる」
189.1
 覚知と知恵という富は、わたしたちに多数の天使たちを増し加える。しかし、不浄な者は、子どものときから自分に与えられている天使からさえ隔てられている。なぜなら、霊的友愛とは、徳と神の覚知であり、これら〔徳と覚知〕を通して、わたしたちは聖なる力によって友愛と触れあうからである。いわば、悔い改めた人々は、天使たちによって恩恵〔を与えること?〕の理由となる。このように、救主も、奴隷たちを、これを大いなる観想の資格があると見なして、友と呼ぶことがある。そのように、アブラアムも、覚知に富んだがゆえに、あの神秘的な食卓を、正午頃、友たちと自分に見えた人たちのために供する。ところが、サウゥルは、その悪ゆえに、今ある友からさえ隔てられる。というのは、「さて、神の霊は、サウゥルから離れ、主からくる邪悪なる霊が、サウゥルを窒息させた」〔iReg. 16:14〕と書かれているからである。天使のことを主の霊と言って。「つまり」と〔聖書は〕謂う、「自分の天使として霊たちをつくり、自分の従者として燃える火を〔つくる〕かたが」〔Ps. 103:4〕〔書かれているからである〕。天使たちも人間どもを信じるということは、『福音書』の中で主が教えている。「見よ」と言って、「これら小さき者たちのひとりも軽んじてはならない。彼らの天使たちは、諸天にいますわたしの父の顔をいつも仰ぎ見ているからである」〔Matt. 18:10〕。さらにまたイアコーブも。「すべての害悪からわたしを救ってくださる天使よ」〔Ge. 48:16〕。ザカリアスも。「げに、天使がわたしの中で語って云った」〔Zach. 1:9〕

190."11"
 19, 5「偽りの証言者は、罰なしではすまないだろう。
190."21"
しかし、不正に告訴する者は、逃れられないだろう」
190.1
 裁きと配剤に関する言葉に無知で、創造主を中傷する者たち、不正に告訴するというのは、この者たちのことである。また、自分の情念に悩まされ、徳は不浄であると信じる者たち、律法を与えた方を不正に告訴するというのは、この者たちのことである。

191."11"
 19, 7.3_4「善き考え(ennoia)は、これを知る者たちに近づくであろう。
191."21"
賢慮を有する人は、これ〔善き考え(ennoia)〕を見出すであろう」
191.1
 ここでは、神の覚知を考え(ennoia)、これを知る者たちを、心の清浄な者と名づけた。

192."11"
 19, 7.5_6「多くの悪を為す者は、悪を完成する。
192."21"
しかし、言葉を刺激する者は、救われないであろう」
192.1
 情念に満ちた想念は、魂を刺激して悪へと向かわせる。

193."11"
 19, 10.1「逸楽(tryphe)は、愚か者に調和せず」
193.1
 理性的逸楽も感覚的〔逸楽〕も、愚か者には調和しない。なぜなら、快楽を愛する者は子豚だから、それ〔逸楽〕を足で踏みにじる。感覚的逸楽によっては、自分の肉が動かされるであろう。

194."11"
 19, 11「憐れみ深い人は、気が長い。
194."21"
しかし、彼の誇り(kauchema)は、違法者たちに襲いかかる」
194.1
 もしも、正しく誇りを持つ者が主によって誇り、わたしたちの主が知恵であるなら、正しく誇りを持つ者は、主によって誇るのであろう。だから、気の長い憐れみ深い者の誇り、これこそ知恵とその〔主の〕覚知にほかならず、違法者たちに襲いかかり、彼らを悪から解放するものであろう。今はできるかぎり、来るべき代には必然的に。

195."11"
 19, 12「王の威嚇(apeile)は、ライオンの咆哮に等しい。
195."21"
しかし、その上機嫌(to hilaron)は、青草の上に置く露のごとくである」
195.1
 わたしたちの主は、罪を犯す者たちに対しては、焼き尽くす火や怒るライオンとなり、材木を、青草を、葦を焼き尽くし、霊に対して出征する肉を力尽きさせる。これに反して、修徳者たちに対しては、光と露として、彼ら〔修徳者たち〕に生じたものらの言葉を示し、霊の燃えさかる火弾を消火し、修行によって結果する熱風を生き返らせる。

196."11"
 19, 13.2「聖なる誓願(euchai)〔複数〕は、芸妓の賃貸料からはうまれない」
196.1
 不浄な魂のことを芸妓と名づけ、これの賃貸料で境涯(katastasis)のことを述べた。この〔境涯〕からは、清浄な祈りが生まれることはない。

197."11"
 19, 14「家(oikos)と所有物(hyparxis)を、子どもたちに分け与えるのは、父親たちである。
197."21"
しかし、妻が夫に娶されるのは、主によってである」
197.1
 息子たちに、徳と神の覚知について教えるのは、父親たちのすることである。しかし、子どもたちに知恵を与えるのは、主のなさることである。なぜなら、ここで、妻とは、知恵のことを言っているのだから。「なぜなら」と〔ソロモーンは〕謂う、「知恵を恋せよ。そうすれば、〔知恵は〕おまえを護ってくれるだろう。彼女〔知恵〕を尊敬せよ。おまえを抱いてくれるために」〔Prov. 4:8〕

198."11"
 19,016「いましめを守る者は、自分の魂を護る。
198."21"
しかし、自分の道をあなどる者は、見捨てられよう」
198.1
 諸々のいましめは、いましめる神との関係では、いましめと呼ばれる。しかし、これによって道案内する理性との関係では、道と呼ばれる。さらにまた、天上・地上の証人たちに与えられたものであるから、いましめは証言と言われる。それゆえまた、これら〔証言〕を受け入れた理性も、証人と名づけられる。これ〔証人〕がそれ〔証言〕において偽れば、罰なしではすまないであろう。

199."11"
 19, 17「物乞いを憐れむ者は、神に貸しをつくる〔ことになる〕。
199."21"
彼の贈り物に対しては、〔神が〕これに報いられるであろう」
199.1
 贈り物とは、ここで、心の清浄さを名づけたものである。というのは、わたしたちの無心の比に応じて、わたしたちは覚知にあたいするものとなるのだから。

200."11"
 19, 19「悪心の持ち主は、多くの罰を受けるであろう。
200."21"
しかし、もし、伝染病にかかったら、その魂〔=いのち〕をも援けるであろう」
200.1
 わたしの考えるところでは、多くの罰とは、生じたものらの観想の喪失、魂の援け(prostheke)とは、神に関する自然な考え(ennoia)の消失 — 非ロゴス(alogia)に完全に転落する魂の〔消失〕 — を含意する。救主も、『福音書』の中で謂う。「たとえ全世界を利得しても、おのが魂を」滅ぼしたら、つまり「罰を受けたら、ひとは何の益されるところがあろうか」〔Matt. 16:26〕。しかしながら、ここで、破滅(apoleia)とは、諸々の身体と非身体の無知を明示している。罰(zemia)とは、最後の非ロゴスを証拠立てている。


forward.gif『「箴言」註解』(3/4)