『「箴言」註解』(3/4)


201."11"
 19, 20「聞け、息子よ、おまえの父の教育を。
201."21"
おまえの最後のときに、知恵或る者となるために」
201.1
 正しい行住坐臥(politeia)の後に、覚知がある。なぜなら、ここで、最後のときということが表しているのは、時間のことではなく、修行的徳の後の清浄さのことだからである。

202."11"
 19, 23「主に対する畏怖は、ひとにとって、生命にいたる。
202."21"
しかし、畏怖なき — 覚知の訪れることのない — 者は、諸々の場所に宿るであろう」
202.1
 もしも、「主に対する畏怖は、ひとにとって、生命にいたる」なら、そして、「主に対する畏怖が教育と知恵」〔Prov. 15:33〕なら、人の生命とは、教育と知恵のことである。いや、クリストスが言っている。「わたしは生命である」〔John. 11:25〕。すなわち、クリストスは教育と知恵である。だから、「教育と知恵を知る」ということは、クリストスを知るということである。だから、畏怖なきひとは悪と無知の中にある。そこにはクリストスはいない。

203."11"
 19, 24「自分のふところの中に両手を不正に隠す者は、
203."21"
口にさえその〔手〕を当てることは決してない」
203.1
 自分の魂の中に正しくない生、すなわち、両手を不正に隠す者とは、自分の大地を耕すことを望まず、パンに満足することもない者のことである。なぜなら、諸々の修行的徳は、両手の言葉を堅持する。〔徳は〕わたしたちの口にパンを差し出すからである。諸天から下りきた、この世に生命を与えるパンを。

204."11"
 19, 26「父を侮辱し、自分の母を却ける者は、
204."21"
恥と汚辱にまみれた者となろう」
204.1
 律法に違背することで神を侮辱し、母を却ける。この〔母〕とは教育のことである。「義しい人は生命にいたる」〔Matt. 25:46〕からには。義は、あらゆる徳から構成されている。

205."11"
 19, 27「息子は、父の教育を守ることを見棄てると、
205."21"
悪しき言辞を心にかけるようになる」
205.1
 諸々の不浄なる想念が、悪しき言辞である。これ〔悪しき言辞〕は、天上の父のいましめを守らない者の魂の内に生じる。

206."11"
 20, 1.1「酒は放縦であり、酩酊は暴慢である」
206.1
 もしも、「大蛇たちの気性は、彼らの酒」〔申命32:33〕であり、酒が放縦なものであるなら、気性は放縦なものであり、人間どもを放縦なものとなし、怒りは暴慢なものである。なぜなら、酩酊こそは、生者の気性から生ずるよう生まれついているからである。もしも、ナザレ人たちが律法にしたがって酒を控えるなら、ナザレ人たちは気性の外にいるよう立法されたのである。

207."11"
 20, 2「王の威嚇はライオンの気性と異ならない。
207."21"
彼をいきり立たせる者は、自分の魂に対して罪を犯す」
207.1
 ここでは、クリストスと王とを反対のものとして述べている。なぜなら、諸々の罪によってこれをいきり立たせる者は、自分自身の魂に対して罪を犯すからである。

208."11"
 20, 4「罵られても、怠け者は恥じることがない。
208."21"
穀物を借りる者も、穫りいれのときに、同様である」
208.1
 もしも、穫りいれのときに穀物を借りることができるなら、来るべき世にも理性的穀物を借りることができる。自分自身の土地を6年間耕し、第7年目に寡婦たちや孤児たちを養う人たちから。

209."11"
 20, 7「義において非の打ち所なき者(amomos)として暮らす人は、
209."21"
自分の子どもたちを、浄福な者として後に残すであろう」
209.1
 明らかに、徳にしたがって生まれた者たちを。

210."11"
 20, 9a「父あるいは母を悪言する人の灯火は消えるであろう。
210."21"
また、彼の眼の瞳は、闇を見るであろう」
210.1
 同じクリストスが、考えようによっては、父でもあり母でもあることができる。〔すなわち〕養子縁組をもっている霊たちにとっては父、父や堅くない食べ物を必要とする者たちにとっては母である。というのも、パウロスの〔書簡の〕中で語るクリストスは、エペソス人たちにとっては父である。彼らに知恵の秘儀を啓示しているのだから。しかし、コリントス人たちにとっては母である。彼らに乳を飲ませるのだから。

211."11"
 20, 9b「はじめに分け前が焦り求められると、
211."21"
最後に祝福されることはないだろう」
211.1
 蜜は、「しばらくは、おまえの喉をなめらかにする。しかしながら、その後で、胆汁よりも苦いのをおまえは見出すだろう」〔Prov. 5:3〕。

212."11"
 20, 9c「云ってはならぬ、『敵に仕返しをしてやろう』と。
212."21"
むしろ、主を待ち望め。おまえを助けてくださるように」
212.1
 傲りに動かされて云ってはならぬ。わたしだけが敵どもと戦おう、と。むしろ、主を待ち望め。おまえを助けてくださるように。ダウイドも謂っている。「わが弓に希望を託さず、わが戦刀はわたしを助けない」〔Ps. 43:7〕。さらにまた。「馬は、救済に対して偽り」〔Ps. 32:17〕、そして、「主が家を建て、都市をお守りになるのでないかぎりは」〔Ps. 126:1〕と。

213."11"
 20, 10「おもりは、大きいのと小さいのと〔2つ〕、はかりも2つ。
213."21"
どちらも主の眼前では不浄」
213.1
 ある人たちのもとにある空威張り〔大胆-臆病(thrasydeilos)〕には、大・小〔2つ〕のおもりと言われるものがあるとわたしは考える。また、一般的に、あらゆる過(hyperbole)・不足(elleipsis)にも、大・小〔2つ〕のおもりがあるとわたしは考える。どちらも悪だからである。

214.1
 他者から善くしてもらいたいと望みながら、自分は同じように他の人たちを休息させることを選ぼうとしない者は、次のように言っているいましめに従わず、二重の秤を有するのである。「何事でも、人々があなたがたにしてくれることを望むことは、あなたがたもこれを同じように彼らになせ」〔Matt. 7:12〕。

215."11"
 20, 12「耳は聞き、眼は見る。
215."21"
主の業(erga)は、両方である」
215.1
 主の業(ergon)は悪く見る眼ではなく、見る〔眼〕である。また、主の業(ergon)は悪く聞く耳ではなく、聞く〔耳〕である。身体の他の部分についても同様に言われるべきである。この言辞を適用すべきは、わたしたちのこの身体を悪く言う人たちや、創造主を侮辱する人たちに対してである。

216."11"
 20, 13「譏ることを愛してならぬ、あなたが取り除かれないために。
216."21"
あなたの両眼を開け。そしてパンに満足せよ」
216.1
 諸徳によって、魂の眼を開けよう。しかし、知恵によっては、理性的パンに満足しよう。

217."11"
 20, 23「二重のおもりは、主の嫌悪するところ。
217."21"
ごまかしの秤は、その面前に美しくない」
217.1
 ごまかしの秤とは、理性のことを言っている。諸々の行為を義しく裁くよう生まれつき、自由意志(autexousios)の重み(rhope)で傾くからである。

218."11"
 20, 24「ひとにとっての歩みは、主によって真っ直ぐに案内される。
218."21"
死すべきものは、いかにしてその道を思考しうるのか?」
218.1
 まだ死すべきものにして、クリストスとともに死んでいないものは、主の道を思考することができない。

219."11"
 20, 25「自分のものの何かを聖別することは、おそらく、ひとにとっての罠となろう。
219."21"
だから、誓願の後に、悔い改めることになる」
219.1
 善きことどもへの悔い改めがおこるのは、義人たちにとってではなく、不義なる者たちにとってである。不義なる者たちは、何ら熟慮することもなく、神と約束を交わす。「だから、誓願の後に、悔い改めることになるから」〔Prov. 20:25〕。

"220A"."11"
 20, 26「知者の王は、不敬者たちを選り分ける。
"220A"."11"
そして、彼らの上で車輪をひきまわす」
"220A".1
 籾殻を穀物から分けるために。"220B".1
 「彼らを車輪のようにしてください」〔Ps. 82:14〕。

221."11"
 20, 27「人間どもの息は主の光。
221."21"
灯火は胃の部屋を調べあげる」
221.1
 もしも、主の光が、主の覚知のことであり、主の光が、人間どもの息であるなら、主の覚知は人間どもの息である。しかし、無知の中に宿る悪魔のことを、光っているように思われる灯火と名づけたのは、理性から善きことどもを流出させ、自分の姿を光の天使に変えるからである。

222."11"
 21, 3「義を行い、真理を行うことは、
222."21"
供儀の血よりも、神に気に入られる」
222.1
 この言辞は、非ロゴス的な生き物による供儀を追い出す。「なぜなら、神への供儀は、心を打ちくだかれた霊である」〔Ps. 50:19〕。

223."11"
 21, 8「ひねくれた者たちに対しては、神はひねくれた道を送る。
223."21"
彼の業(erga)は、聖く正しいからである」
223.1
 もしも、神の業が聖く正しいのなら、そして理性も彼の業のひとつであるなら、理性は正しく聖いものとして主によって創造されたのである。

224."11"
 21, 9「囲い地の片隅に住む方がましである。
224."21"
不義によって白く塗られたものらや、世俗の家に〔住む〕よりも」
224.1
 白く塗られた世俗の家に、囲い地の片隅を対置した。もしも、白く塗られた世俗の家が悪のことであるとするなら、囲い地の片隅は徳のことである。だから、囲い地の片隅は、観想の行(praxis) — 義の太陽によって結びつけられ、照らされるところの〔行〕 — である。美しくも、パウロスもイウゥダイオイ人たちの大祭司のことを、白く塗られ、神によって打ち倒された壁と云った。また救主も、『福音書』の中で、パリサイ人たちのことを、白く塗られた墓と云った〔Matt. 23:27〕。ここで、家造りらによって不合格審査されながら、隅の頭石となった石が、片隅にあると云っているのもよい〔Matt.21:42〕。世俗とは、ひとつの神に属さぬひとのことを云った。

225."11"
 21, 14「ひそかな贈与(dosis)は、諸々の怒りを逸らす。
225."21"
贈り物を惜しむ者は、強烈な気性を目覚めさせる」
225.1
 贈与(dosis)はひそかなものである。右手が為すところを、左手が知らないために。

226."11"
 21, 16「義の道から迷い出る者は、
226."21"
悪鬼たちの集いに憩うだろう」
226.1
 悪鬼たちの集いとは、悪と無知のことである。

227."11"
 21, 19「沙漠の地に住む方がまさっている。
227."21"
争い好きで冗舌で怒りっぽい女といっしょに〔住む〕よりは」
227.1
 ダウイドも謂う。「沙漠で未踏で水なき地に、かく、聖所でわたしはあなたを見ました」〔Ps. 62:2〕。だから、沙漠の地とは、徳のことである。〔この徳は〕欺瞞の欲望のせいで壊滅した者たちとして住んでいる古い人間どもを有さない。それゆえ、悪魔もここには休息を見出しえず、いわば、「休息を求めて、水のないところを歩きまわるが、見つけられない」〔Matt. 12:43, Luke 11:24〕。「なぜなら、彼は水の中にあるものらすべての王であるから」〔Job 41:26〕。さらにまた知恵についても。「庇である」と〔ソロモーンは〕謂う、「彼女〔=知恵〕の家々の営み(diatribai)は」〔Prov. 31:27〕。しかし、もしもそうなら、争い好きで冗舌で怒りっぽい女も悪であり、この女は、争い好きで冗舌で怒りっぽい男を自分の伴侶とするにちがいない。

228."11"
 21, 20「欲望の対象たる財宝は、知者の口の上に休息する。
228."21"
ところが愚か者たちは、これを飲み尽くす」
228.1
 主の知恵は、知者の心の中で休息するであろう。しかし愚か者たちは、これ〔知恵〕を壊滅させるであろう。

229."11"
 21, 22「知者は要塞堅固な諸都市に攻めのぼり、
229."21"
不敬者たちが頼みとする要塞を攻め落とす」
229.1
 知恵とは、要塞堅固な都市のことである。この都市に知者は住む。「諸々の想念と、神の覚知に逆らって立てられたすべての高くそびゆるものを攻め落として」〔iiCor. 10:5〕。

230."11"
 21, 23「自分の口と舌を守る者は、
230."21"
自分の魂を患難から守るであろう」
230.1
 口と舌とは、魂と理性のこと。魂とは、気性と欲望のことを謂っている。これを一部の人々は、魂の情念的部分と名づけている。

231."11"
 21, 26「不敬者は、1日中、悪しき欲望を欲望する。
231."21"
だが、義人は、惜しみなく憐憫し同情する」
231.1
 悪しき欲望を欲望することが決してないのが、天使たちのすること。悪しき欲望を、時には欲望し、時には欲望しないのが、人間どものすること。悪しき欲望をいつも欲望するのが、ダイモーンたちのすることである。なぜなら、1日中というのは、明らかに、1生涯ということである。同じく、「1日中、主に対する畏怖の内にあれ」〔Prov. 23:17〕というのも、1生涯の代用である。

232."11"
 21, 31「馬は戦争の日のために備えられる。
232."21"
しかし、救済(boetheia)〔勝利〕は主のもとにある」
232.1
 馬とは、理性のことを言っている。「なぜなら」と〔聖書は〕謂う、「あなたの馬に乗れば、あなたの騎乗は救済〔勝利〕」〔Odae 4:8〕。パウロスにも主は、「わたしの名を伝えるために」〔Act. 9:5〕と謂う。

233."11"
 22, 1「美しき名は、多数の富よりも選ばれるべきもの。
233."21"
しかし、善き恵み(charis)は、銀や金にまさる」
233.1
 親〔みずか〕らの名によって表される徳のことを、美しき名と云った。なぜなら、この名は、表された善を有しているので、美しいからである。そのように、義と呼ばれる女としてわたしたちが賞賛するのは、不義な女ではなくて、義を有する女である。たとえ不義と名づけられていても。

234."11"
 22, 2「富者と物乞いとはお互いに出会う。
234."21"
どちらも主のつくられたもの」
234.1
 富者は、諸々の憐れみによって気性を攻め落とす。愛を所有しているからである。物乞いは、貧しさゆえに、低くすることを教えられている。

235."11"
 22, 4「主に対する畏怖は、知恵の子孫、〔つまり〕
235."21"
富、栄光、生命」
235.1
 「これらはノーエの系譜」〔Gen. 6:9〕、これらはアブラアムの系譜。

236."11"
 22, 5「曲がった道には、諸々の薊と諸々の罠がある。
236."21"
しかし、自分の魂を守る者は、それらから離れていよう」
236.1
 主もアダムに謂う。大地、すなわち魂は、「茨と薊をおまえのために芽生えさせる」〔Gen. 3:18〕。茨と薊とは、罪のことを言う。これによってクリストスの花冠も編まれている。というのは、彼はこの世から罪を取り除いたからである。

237."11"
 22, 7「富んだ者たちは、物乞いたちを支配する。
237."21"
家僕たちは、自分の主人たちに借金する」
237.1
 来るべき代に、すべてにおいて、つまり、あらゆる覚知とあらゆる知恵とにおいて富んでいる者たちは、不浄で、この富を奪われている者たちを支配するであろう。しかし、家僕とは誰々であり、主人とは誰々であるか、今は、公表する必要はない。彼らについての言葉は神秘的で意味深重だからである。

238."11"
 22, 8a「上機嫌で与えるひとを、神は祝福する。
238."21"
そして、彼の業(erga)の空しさを終わらせるであろう」
238.1
 業の空しさと、覚知のそれも、主は徳によって終わらせるであろう。

239."11"
 22, 9a「贈り物を与えるひとは、勝利と名誉を手に入れる。
239."21"
しかしながら、所有者たちから、その魂を奪いさる」
239.1
 人間の贈り物とは、諸々の徳のことを名づけている。これら〔諸徳〕によって、悪魔に勝利し、自分自身を名誉あるものとして神に差しだし、自分自身の魂を、これを所有しているダイモーンたちから奪い返すのである。

240."11"
 22, 10「疫病(loimos)を議場(synedrion)から追い出せ。そうすれば、これといっしょに諍い(neikos)も出て行くだろう。
240."21"
なぜなら、議場に席を占めているとき、万人を侮辱するのだから」
240.1
 最低の境涯のことを議場と云った。知者ソロモーンは、霊的教授によって、ここから人間を追い出すことを望んでいる。諍いとは、論争すること(philoneikia)を表している。疫病とは、魂から追い出さねばならない悪魔のことだとも言うことができる。なぜなら、その〔魂の〕中に居座っていたら、その不浄さによって、正しい想念をすべて侮辱するからである。議場のことを、使徒も魂のことだと示している。〔議場の成員たちを〕通して〔悪魔は〕告発したり弁明したりする想念を引きこむ。「なぜなら」と〔聖書は〕謂う、「諸々の想念が、互いの間で、告発しあったり弁明し合ったりするからである」〔Rom. 2:15〕。告発と弁明のあるところ、そこにはまた会議場もある。

241."11"
 22, 11.3「王は唇によって牧する。
241."21"
 22, 12 しかし主の眼は、感覚を見張る。
241."31"
しかし違法者は、言葉を軽んじる」
241.1
 諸々の魂を見張るものとは、わたしたちの主ご自身であり、霊的覚知を通してわたしたちを牧するのである。彼の律法に違背するものは、この覚知を軽んじる。しかし留意すべきは、クリストスは王であるから、謙遜(synkatabasis)によってわたしたちを牧するということである。「なぜなら、わたしは」と〔聖書は〕謂う、「美しい羊飼いである」〔John. 10:11, 10:14〕。もしも、王が王支配するものであり、羊飼いがヒツジたちを〔王支配する〕ものなら、ヒツジたちが王国の地位に変われば、あるのは王のみであろう。

242."11"
 22, 13「臆病者は、口実を見つけて言う。
242."21"
『街路にはライオンがいる、広場には人殺しがいる』と」
242.1
 わたしたちの敵である悪魔は、ライオンのように、誰を飲みこんでやろうかと、探しつつうろつきまわっている。臆病者はこれを怖れて、諸々の徳の制作(ergasia)から尻込みする。

243."11"
 22, 14「違法者の口は、深い落とし穴。
243."21"
主に憎まれる者は、その中にはまりこむ」
243.1
 イオーブは主に憎まれなかったが、審査のために、その中にはまりこんだのであった。

244."11"
 22, 15「若者の心は、無理性(anoia)と結びついている。
244."21"
笏杖(rhabdos)と教育は、彼から遠い」
244.1
 愚か者の心から遠いのは、イエッサイという根からできた笏杖である。

245."11"
 22, 16「貧しい者を誣告する者は、自分自身の悪事を増大させる。
245."21"
しかし、富者には少ししか与えない」
245.1
 悪魔は、わたしたちを誣告する。わたしたちに与えたものでない諸徳をわたしたちから取り上げて。そのように、わたしたちも彼〔悪魔〕を誣告する。わたしたちが彼に与えたものでない諸悪を彼から取り上げて。つまり、わたしたちが彼〔悪魔〕から諸悪を取り上げる程度たるや、諸徳に貧しい者から受け取る程度である。他方、わたしたちの諸徳をわたしたちより少なく彼に与える程度たるや、悪に富める者に与える程度である。だが、ある老人が言った、 — 誣告者とはわたしたちのことである。クリストスはわたしたちのせいで物乞いとなり、わたしたちに何の負い目もないのに、これをわたしたちは誣告し、わたしたちの魂の卑しさ(tapeinosis)ゆえに、彼から多くの者を取り上げ、サタンに与えたのだから、と。

246."11"
 22, 17「知者たちの言葉におまえの耳を傾けよ、そうして、わたしの言葉を聞け。
246."21"
おまえの心を識れ。〔それらの言葉は〕美しいと知るために」
246.1
 神の言葉を聞くのは、それら〔言葉〕によって下知された事柄を実行するひとである。「なぜなら、律法を聞く者たちが神の前に義なる者ではなく、律法を行う者たちが、義とされるからである」〔Rom. 2:13〕。

247."11"
 22, 20「おまえも、おまえ自身のために、これらを三重に書き上げよ。
247."21"
勧告(boule)と覚知のために、おまえの心の広い表面に」
247.1
 清浄さによって自分の心を広げるひとは、神の言葉 — 修行的、自然的、神学的〔な言葉〕 — を思考する。なぜなら、〔聖〕書にしたがっての仕事(pragmateia)はすべて、倫理的・自然的・神学的という3つに分けられるからである。 そうして、第1〔の倫理的仕事〕に付随するのが『箴言』、第2〔の自然的仕事〕に〔付随するの〕が『伝道の書』、第3〔の神学的仕事〕に〔付随するの〕が、『歌人たちの歌集』である。

248."11"
 22, 26「おまえ自身を保証にゆだねるな。ひとの前に恥じて。〔???〕
248."21"
 22, 27 弁償できるだけの資本を持たないなら、
248."31"
おまえの脇の下の敷物を取られるであろう」
248.1
 諸々のつまらぬ想念を迎え入れ、それによって邪悪者を尊敬する者たちをして、諸々の善き想念によって、可能なかぎり熱心に、劣悪な連中を裏切らせよ。なぜなら、これをなすだけの強さがなければ、魂の脇の下の敷物、すなわち、徳、を取られるであろう。これ〔徳〕こそが、義によって立つ理性の外衣と言われる。つまらぬ想念によって転落するその他の〔理性〕にとっては、下に敷く物(hypostroma)と呼ばれる。

249."11"
 22, 28「おまえの父祖たちが据えた永遠の境界石を移すな」
249.1
 宗教の境界石を置き換える者は、迷信(deisidaimonia)ないし不敬(asebeia)そのものを示し、勇気の境界石を置き換える者は、大胆さないし怯懦そのものを制作する。その他の諸徳についても、教説についても、信仰そのものについても、同様に考えるべきである。とりわけ、聖なる三位一体については、このことを護るべきである。というのは、聖なる霊の神性を主張しない者は、洗礼を分解する。何か他のものらまで神と名づける者は、多くの神々を導入するからである。

250."11"
 23, 1「おまえが主権者の食卓で食事をするために座するときには、
250."21"
おまえの前に置かれたものを、理性的に思考せよ……
250."31"
 23, 3 たとえ満ち足りなくても、自分の主食を欲望するな。
250."41"
それらは偽りの生命に密接しているからである」
250.1
 なぜなら、〔聖〕書よりも神秘的な精神は、誰でもが受け容れられるわけではないからである。

251.1
 神的な書は、理性的かつ霊的に思考されねばならない。なぜなら、歴史上の感覚的覚知は、真実な〔覚知〕ではないからである。

252."11"
 23, 6「邪眼の持ち主といっしょに食事をしてはならない。
252."21"
彼の食べ物は、これを欲望もしてはならない」
252."31"
 23, 7 ひとが毛髪を呑みこんだときと同じく、
252."41"
そのように食いかつ飲め。
252."51"
 23. 8 彼をおまえのところに連れこみ、彼とともにおまえの一口を食ってもならない。
252."61"
なぜなら、その〔一口〕を吐き出し、おまえの美しい言葉を無駄にすることになろうから」
252.1
 もしも、邪眼の持ち主が不敬な穀物を食い、違法の酒で酩酊し、しかしこの者といっしょに食事をしてはならないのなら、不敬で違法の者となることはないに違いない。なぜなら、これらの悪は、霊的覚知を損傷するからである。

253."11"
 23, 9「愚か者の耳には何事も言ってはならない。
253."21"
おまえの分別ある言葉を、けっして愚弄してはならぬ」
253.1
 分別あること、すなわち、深くて神秘的なことは、何ひとつ言ってはならない。なぜなら、子豚たちの前に真珠を投げてはならないからだ。

254."11"
 23, 10「おまえの父祖たちが置いた永遠の境界石を移してはならぬ。
254."21"
孤児たちの地所に侵入してはならぬ」
254.1
 孤児たちの地所とは、悪である。諸天にまします父を失ったのは、これのせいである。

255."11"
 23, 17「おまえの心をして、罪人に憧れさせるな。
255."21"
むしろ、1日中、主に対する畏怖の内にあらしめよ」
255.1
 もしも、「主に対する畏怖によって、あらゆるものが悪を避ける」〔Prov. 15:27a〕のなら、全生涯を通して、わたしたちがあらゆる悪を避けるよう勧めるのは美しい。

256."11"
 23, 18「おまえがこれを護れば、おまえには子孫ができよう。
256."21"
おまえの希望は遠ざけられることがない」
256.1
 諸々の正しい想念と霊的な観想のことを、理性の子孫といった。それゆえまた、こういう子孫を有さない魂とは、子なき存在である。これらの〔子孫〕こそ、霊的花婿から自然本性的に誕生するところのものである。

257."11"
 23, 21「酔っぱらいと女郎買いとはみな、物乞いとなり、
257."21"
居眠り屋はみな、端布と襤褸をまとうことになる」
257.1
 結婚の着物は、端布で襤褸の外衣ではない。

258."11"
 23, 22「聞け、息子よ、おまえを生んだ父のいうことを。
258."21"
そうして、母は老いているからといって、あなどってはならない」
258.1
 ある老人が、魂、すなわち、理性の母に云っているのをわたしは聞いたことがある。『すなわち』と謂う、『修行的諸徳によって理性を光へと導くのは、彼女にほかならない』と。魂とは、魂の情念的部分のことだと言った。これは気性と欲性に分割されるところのものである。というのは、と彼は謂う、勇気と慎みによって、知恵と神の覚知とをわたしたちは獲得するからである。勇気と慎みとは、気性と欲性の徳である。

259."11"
 23, 30「酒にうつつを抜かす連中のすることではないのか?
259."21"
酒盛りがどこであるか追いかける連中のすることではないのか?」
259.1
 これらの酒は、ソドムの葡萄樹からつくられている。

260."11"
 23, 31.1_2「酒を見つめるな。むしろ、義しい人々と交わり、
260."21"
遊歩場で交われ」
260.1
 理性は、遊歩場で交わりつつ、忘れていた召命(klesis)にふさわしく散歩する。

261."11"
 23, 31.3「杯と水飲みの中に、おまえの眼を与えるなら」???
261.1
 精神における罪は、杯に似ているが、活動(energeia)における〔罪〕は、水飲みに〔似ている〕。

262."11"
 23, 31.4「その後では、擂り粉木よりも裸になって散歩するであろう」
262.1
 その後でいくら叩いても、叩く場所を開けることはできない。学徒たちに主は謂う。「叩けよ、そうすれば、あなたがたのために開かれよう」〔Matt. 7:7, Luke 11:9〕。

263."11"
 23, 33「おまえの眼は、よそよそしいものを見るとき、
263."21"
おまえの口は、曲がったことをしゃべるだろう」
263.1
 理性は、よそよそしい表象を受け入れると、諸々の悪しき想念を気遣うようになる。しかし、自分自身を護る者は、生命を嗣ぐであろう。

264."11"
 23, 34「そして、海の心臓〔=中央〕に〔横たわる〕ように横たわる。
264."21"
あまたの大波に〔翻弄される〕舵取りのように」
264.1
 教授のありとあらゆる風に翻弄されながら。

265."11"
 23, 35.3「彼が正しい者となるのは何時のことか? 出かけていって、わたしがいっしょに出かけた相手を探すために」
265.1
 魂の正しさとは、罪の悟り(epignosis)のことである。

266."11"
 24, 6「舵を取ることで、戦いが起こるであろう。
266."21"
しかし、救済〔勝利〕は、助言者的心とともにある」
266.1
 信仰(pistis)に難船する者たちは、舵取りによって、神学に敵対する霊たちと戦う。しかし、あらゆる徳についても、これと同じことを云うことが可能である。というのも、慎みについても、愛についても、愛銭のないこと(aphlargyria)についても、難船があるからである。さらに、清浄で使徒的な教会のそれぞれの教説についても同様に、難船が起こる。だから、もしも、舵取りによって敵対者たちと戦いが起こるのが必定とするなら、地上におけるわたしたちの人生は、海戦に似通っている。

267."11"
 24, 7.1「知恵と善き考え(ennoia)は、知者たちの門にある」
267.1
 知者たちの門とは、諸々の修行的徳のことである。これを通って神の知恵が入ってくる。

268."11"
 24, 9.2「不浄は、疫病にかかった人によって汚される注5)。
268."21"
 24, 10 悪しき日に、また、患難の日に、ついになくなるであろう」
268.1
 もしも、悪が徳を見くびるなら、明らかに、徳は悪をも壊滅させる。これが来たるべき代に起こり、ついに悪はなくなるであろう。なぜなら、壊滅するという代わりに、汚されるであろうとしたからである。不浄は、修行的懲らしめによってであれ、きつい懲らしめによってであれ、壊滅するであろう。

269."11"
 24, 11「死へと導かれている者たちを救え。
269."21"
殺されかかっている者たちを購い出せ。ぐずぐずするな」
269.1
 この言辞を適用すべきは、悪によって死へと導かれている多数の者たちのうち、覚知の価値ありとされた者たちや教授に無関心な者たちに対してである。

270."11"
 24, 13「蜜を喰え、息子よ、巣は善いものだからである。
270."21"
おまえの口蓋が甘くされるためには」
270.1
 神的な書によって益される者は、蜜を食べる。しかし、事象そのものから言葉を追い出す者は、聖なる預言者たちも使徒たちも摂取したところの、巣をむさぼり食う。蜜を喰うことは、誰でも望む者のすることであるが、巣を〔喰う〕のは、清浄な者のみのすることである。

271."11"
 24, 15「不敬者を、義人たちの牧場に連れて行ってはならない。
271."21"
胃袋の満足(chortasia)に欺かれてもならない」
271.1
 快楽のために神を裏切るな。なぜなら、このかたは義人の牧場であり、おまえをお見捨てにならないからである。

272."11"
 24, 17「おまえの敵が倒れるとき、これを祝賀してはならない。
272."21"
彼の転ぶ際に、思い上がってはならない。
272."31"
 24, 18 主がごらんになって、これに満足されず、
272."41"
その気性をこれから転じられるからである」
272.1
 神がその気性を、倒れた者から転じられるのは、これを憐れまれるからである。自分の敵の転倒に思い上がる者に対しては、お怒りになる。なぜなら、破滅した魂を祝賀する者はすべて、あらゆる人間どもが救われ、真理の悟り(epignosis)に至ることを拒む悪魔に等しいからである。留意すべきは、ここで、人間を敵と述べていることである。この〔敵〕のためにもわたしたちが祈るよう、主は『福音書』の中で立法されている。

273."11"
 24, 20「まことに邪悪者たちに子孫が生まれることは決してない。
273."21"
不敬者たちの灯火は消えるであろう」
273.1
 邪悪者たちは、諸々の徳や正しい教義 — これらこそ魂の子どもに他ならないから — を生まないであろう。彼らは主を畏怖しないからである。これに反し、主に対する畏怖のうちに或る者たちは、1日中、子孫を持ち、彼らの希望が失われることはない。

274."11"
 24, 21「主を畏怖せよ、息子よ、そして王をも。
274."21"
彼らのいずれにも不従順であってはならない」
274.1
 「唯一の真実な神であるあなたと、あなたの遣わされたイエースゥス・クリストスとを知るために」〔John. 17:3〕。

275."11"
 24, 22「まことに、突然、不敬者たちに報いられるであろう。
275."21"
両者〔神と王〕からの罰を誰が知り得ようか?」
275.1
 ところで、救主は『福音書』の中でどう謂っているか。「主は誰をも裁かず、裁きはすべて息子にゆだねられた」〔John. 5:22〕。あるいは、罰と裁きとは別々のものである。そうして、罰とは、身体的快楽による、無心と神の覚知との喪失である。裁きとは、永遠の覚知である。ロゴス的なもののおのおのに、比例に応じて、身体を分割するところの〔覚知〕である。

276."11"
24, 22c「王の舌は剣、肉で出来てはいない。
276."21"
裏切り者は打ち砕かれよう」
276.1
 「また、霊の剣、それはすなわち神の言辞」〔Ephes. 6:17〕。肉で出来ていないとは、感覚的でないということの代用。

277."11"
 24, 22d「彼の気性が鋭くなれば、
277."21"
若者たちともども、人間どもを消尽する」
277.1
 あらゆる欲望によって壊滅した古い人間どもを、神の剣は消尽する。古い人間を殺し、神に従って創造された新しい人間を着るために。

278."11"
 24, 22e.1_2「人間どもの骨をも噛み砕き、
278."21"
炎のように燃えあがらせる」
278.1
 「わたしは、火を地上に投じるために来たのだ」〔Luke 12:49〕。

279."11"
 24, 22e.3「こうして、ワシの雛たちには食えぬものとなった」
279.1
 ダイモーンたちに食えぬものというのは、主によって浄化され、あらゆる悪から遠ざかっている者のことである。

280."11"
 30, 2「まことにわたしはどんな人間どもよりも愚か者である。
280."21"
人間どもの賢慮は、わたしの内にはない」
280.1
 自分自身を最高の愚か者と云ったのは、人間的賢慮の喪失に照らしてである。

281."11"
 30, 4.1「誰が天に昇り、降りてきたのか?」
281.1
 「誰も上方の天に昇った者はいない。天から下ってきた人の子を除いては」〔John. 3:13〕。

"282A"."11"
 30, 4.2_4「誰が、ふところの中に風を集めたか?
"282A"."21"
誰が、外衣で水を包みこんだか?
"282A"."31"
誰が、地のすべての果てを治めたか?」
"282A".1
 「日の出の方、日没の方、北風の方、海の方に」或る者らを信じ、あるいは、神の覚知の中に完全に集め、霊的観想が諸々の徳によって積まれるよう、彼らに与えたのは誰か?"282B".1
 別言すれば。真実の覚知によって、偽りの覚知を隠したのは誰か?

283.1
 真実の覚知を、諸々の徳によって積んだのは誰か?

284.1
 「日の出の方、日没の方、北風の方、海の方」から、あらゆる族民を集めたのは誰か。これら〔族民〕を諸々の徳によって厚くし、天上の水、すなわち、生命の泉の流れを積んだのは〔だれか〕。

285."11"
 30, 6「彼の言葉に付け足してはならない。
285."21"
彼がおまえを訓戒し、おまえが嘘つきとされることのないように」
285.1
 なぜなら、主の律法には、「付け足すことはできず、これから引くこともできないからである」〔Eccl. 3:14〕。

286."11"
 30, 8.1「むなしい偽りの言葉は、わたしから遠ざけてください」
286.1
 偽りの名を帯びた覚知を、わたしから遠ざけてください。

"287A"."11"
 30, 9「わたしが虚偽に満たされた者となって、『わたしを見る者は誰か?』〔Ecclesiasticus 23:18〕と云わないために、
"287A"."21"
あるいは、貧しくなって盗みをはたらき、神の名を呪詛しないために」
"287A".1
 〔ソロモーンが〕謂っているのは、わたしが聞者として覚知に満たされて、傲り高ぶる者となり、『わたしの知恵を悟る者は誰もいない』と云わないために、ということである。"287B".1
 血と肉に結合されている人々が、知ることのできないような、そういうことを言って、わたしが近寄りがたい虚偽の覚知に満たされた者のように人々に見えないために。また、続いて附言されていること — 「貧しくなって盗みをはたらき、神の名を呪詛しないために」というのも美しい。なぜなら、よそよそしい観想(theorema)をひとが隠すのは、貧しくなった理性を隠すためだからである。いや、これは救主の帰郷(epidemia)の前に起こることである。しかし今は、パウロスが謂っている。「盗みをはたらいた者は、今後は、盗んではならない」〔Ephe. 4:28〕。むしろ義を制作せよ。覚知を所有して、必要のある人にも分け与えるために。というのも、クリストスを信じてきたわたしたちが隠さねばならないような、わたしたちのものでないものが、何かあるか? なぜなら、すべてはわたしたちのものであり、しかしわたしたちはクリストスのものであり、このかたによって万物は生じた。しかし、クリストスは神のものである。

288.1
 覚知を隠すのは、先取者の〔覚知〕を受け取るひとではなく、偽りの名を帯びた傲り高ぶるひとの〔覚知〕から〔受け取る〕ひとである。というのも、クリストスを信じてきた者たちはすべて、聖なる預言者たちや使徒たちから観想(theorema)を受け取るのだからして、他人の観想の盗人と言われるのではなく、むしろ、父祖の財産の跡継ぎと〔言われる〕のである。

289."11"
 30, 10「家僕を主人の手に引き渡すな。
289."21"
おまえをけっして呪うことなく、おまえが抹殺されない〔ために〕」
289.1
 悪を燃やす理性を、再び悪に手渡してはならない。「罪を作る者はすべて、罪の奴隷である」〔John. 8:34〕から。罪とは、ここで、罪の活動をする悪魔のことである。

290."11"
 24, 25「訓戒をする人たちは、より善いひとに見える。
290."21"
彼らの上には、善き祝福がやってこよう」
290.1
 善き祝福とは、理性的祝福のことである。これは、真実の祝福とは理論的に異なる。

291."11"
 24, 27.1_2「おまえの業(erga)を、出口で整えよ。
291."21"
畑で備えよ」
291.1
 わたしたちの主は、『福音書』の中で、世界のことを畑と名づけた。しかしソロモーンは、ここで、世界の観想(theoria)のことを畑と云っている。しかし、『福音書』に出てくる畑は、魂と身体によって構成されている人間の持ち物である。感覚的なものだからである。しかし、ここで明らかにされている畑とは、理性のみの持ち物である。理性的であり、この世界の言葉から構成されているものだからである。この〔畑〕に入ってゆくのが、清浄な心たちである。

292."11"
 24, 27.3_4「そして、わたしの後ろを進め。
292."21"
そうして、おまえの家を再建せよ」
292.1
 「なぜなら、知恵によって家は建てられるから」〔Prov. 24:3〕。「知恵は悪をはかる魂には入らず」〔Sapientia Salomonis 1:4〕。

293."11"
 24, 31「おまえがそれを手放せば、〔彼は〕荒れ果て、
293."21"
一面に雑草がはえ、見捨てられたものとなる。
293."31"
その石の垣根は、崩れる」
293.1
 垣根とは、ロゴス的魂 — 諸々の修行的徳によって構成されている〔魂〕 — の無心のことである。

294."11"
 30, 17「父を嘲笑し、母の老いを侮辱する眼、
294."21"
この〔眼〕を、カラスたちがその眼窩から抉り出し、
294."31"
これをワシの雛たちがむさぼり喰うだろう」
294.1
 このカラスたちは、義人たちを神秘的に養い、不義なる者たちを、不義の眼をほじくり出して懲らしめる。万物の父つまり神を嘲笑し、これを生んだ最初の覚知を辱めたからである。そうして、不敬者の眼をほじくり出した者たちをカラスと云った。これ〔不敬者〕全体を食い尽くす者たちをワシと名づけた。前者は部分的〔清浄〕、後者は全体的清浄(katharsis)を信じているからである。

295."11"
 30, 31.2「そして、牡ヤギ(tragos)はヤギ飼い(aipolion)の指導者」
295.1
 もしも、ヤギたちが、救主の左手で立てられた不浄な者たちであり、牡ヤギがこれを指導するのなら、ここで、牡ヤギが表しているのは決して悪魔のことではない。

296."11"
 31, 5「飲んで、知恵を忘れ、
296."21"
弱き者たちを正しく裁くことができないというようなことがないように」
296.1
 正しく教えることができない〔ということである〕。

297."11"
 31, 6「悲しみの内に或る者たちに、酩酊を与えよ。
297."21"
 31, 7 苦しみの内に或る者たちには葡萄酒を飲むよう。
297."31"
貧しさを忘れるために。
297."41"
そして、諸々の労苦をもはや思い出さないために」
297.1
 主の家の作成に酩酊した者は、諸々の苦しみを忘れる。

298."11"
 31, 9「おまえの口を開け、義しく裁け。
298."21"
貧者と弱者とを判別せよ」
298.1
 貧者とは、覚知の奪われた者のことを言う、弱者とは、不浄な者のことを〔言う〕。

299."11"
 25, 2「神の栄光は、言葉を隠す。
299."21"
しかし王の栄光は、諸々の下知を尊重する」
299.1
 神の栄光を有する者のことを、神の栄光、天上の王の栄光を有する者のことを、王の栄光と名づけた。なぜなら、これらの者たちは、神の言葉を自分の内に隠すからである。罪を犯さず、諸々の下知を、これを実行することで尊重するために。ところで、これはしばしば指摘してきたところであるが、諸徳や諸悪の持ち主たちは、諸徳や諸悪によって名づけられる。そういうふうに、「義しい主はまた諸々の義しさを愛した」〔Ps. 10:7〕は、「義しいひと」の代用である。また、「主に対する畏怖は、不義、暴慢、傲りを憎む」〔Prov. 8:13〕とは、すなわち、不義なる者、暴慢者、傲り高ぶる者を〔憎む〕ということである。さらにまた、ここでは、神の栄光を有する者とか、王の栄光を有する者のことを、神の栄光、王の栄光と名づけた。あるいは、おそらく、神の栄光とは、神を有する者、王の栄光とは、王を栄化する者のことを言うのであろう。言われていることが同じような内容であるようにと。神を栄化する者は、その言葉を隠し、王を栄化する者は、その下知を尊重する。なぜなら、彼を蔑ろにする者は、律法の違背することによって、彼を蔑ろにするからである。

300."11"
 25, 5「王の面前で、不敬者たちを殺せ。
300."21"
そうすれば、彼の王座は義によって直くなるであろう」
300.1
 古い人間をすなわち、欺瞞の欲望のせいで壊滅した者を、霊的言葉によって殺す者は、義によって自分の理性を直くする。この〔理性〕は、神の王座と言われるところのものである。なぜなら、知恵、覚知、義は、ロゴス的自然の内にないかぎりは、他のどこにも住持することがないよう生まれついているからである。とはいえ、クリストスはそのすべてである。


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