『「箴言」註解』(4/4)


301."11"
 25, 6「王の面前で威張ってはならない。
301."21"
権勢者たちの場所でも出しゃばってはならない。
301."31"
 25, 7.1_2 なぜなら、『わたしのもとに登って来い』とおまえに向かって云われることの方が
301."41"
権勢者の面前で、おまえを低くなさるよりも、まさっているからである」
301.1
 云ってはならない。「星々の上にわが王座を据えよう。至高者と等しい者となろう」〔Isa. 14:13〕と。なぜなら、おまえについて、「それゆえに神も彼を引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った」〔Phil. 2:9〕と云われることの方がまさっているのだから。

302."11"
 25, 8.1_2「性急に喧嘩におちいるな。
302."21"
最後に後悔しないために」
302.1
 喧嘩によって悪のことを暗示しているのである。

303."11"
 25, 8.3「友がおまえを罵るとき、
303."21"
後ろに下がれ。蔑ろにしてはならない」
303.1
 救主も『福音書』の中で町々を罵っておられる、「これらの〔町々〕で、自分の数々の力能が行われたにもかかわらず、悔い改めなかったゆえに、わざわいなるかな、おまえ、コラジン〔ガリラヤの町〕よ、わざわいなるかな、おまえ、ベートサイダ〔同じくガリラヤの町ベッサイダのこと〕よ」〔Matt. 11:20-21〕と言って。

304."11"
 25, 10.1_2「恩恵(charis)と友愛は自由にする。
304."21"
おまえはこれらを自分で護れ。罵られる者とならないために」
304.1
 ソロモーンは、愛友(philos)と友愛(philia)に再三再四言及する。それゆえ、今、友愛によって彼が表そうと望んだことは何か、この名称に心を傾注するのは美しい。「というのは」と〔ソロモーンは〕謂う、「恩恵と友愛は自由にする」〔Prov. 25, 10〕。たしかに、救主は、『福音書』の中で、彼を信じたイウゥダイオイ人たちに向かって謂っている。「もし、あなたがたがわたしの言葉の内にとどまっているなら、あなたがたは真実にわたしの弟子であり、真理はあなたがたを自由にするであろう」〔John. 8:31〕。さらにパウロスも書く。「クリストスはわたしたちを、律法の呪い(katara)から自由にしてくださった」〔Gala. 5:1〕。だから、もしも、友愛が自由にし、真理が自由にし、救主が自由にするのなら、真理と友愛はクリストスである。ここからしてまた、クリストスの覚知を有する者たちもみな、おたがいの愛友である。こういうふうに、救主は弟子たちをも愛友と云った、イオーアンネース、モーセース、すべての聖徒たちも、花婿の友であった。そうして、この友愛のうえにのみ、同じ人の愛友たちは、お互いにとっても友なのである。

305."11"
 25, 10a.3「いや、おまえの道を正直に護れ」
305.1
 諸々の徳について教えられ、これら〔の諸徳〕において活動するひとは、自分の道を正直に護るであろう。

306."11"
 25, 11「紅玉随の首飾りの中の黄金のリンゴ。
306."21"
そのように、これ〔紅玉随〕に合うものらに向かって云う言葉」
306.1
 黄金のリンゴが紅玉随に合うように、神の覚知は清浄な魂に〔合う〕。

307."11"
 25, 12「黄金の耳飾りのために、高価な紅玉随が与えられた。
307."21"
よく聞く耳には、知恵ある言葉が〔与えられる〕」
307.1
 高価な紅玉随を、黄金の耳飾りに嵌めよ、主の知恵は無心の理性に〔嵌めよ〕。

308."11"
 25, 13.1_2「刈り入れ時の雪の支出(exodos)が炎暑に益するように、
308."21"
真実な天使は、自分を遣わした者たちに〔益する〕」
308.1
 雪が暑さを冷やすように、聖徒たちの覚知は、魂の辛労(kopos)を解消する。

309."11"
 25, 15「気長さ(makrothymia)によって繁栄(euodia)が王支配する。
309."21"
しかし、浄福な舌は骨を打ち砕く」
309.1
 ここでは、気性的な魂のことを、浄福なと名づけた。これは、言うよう生まれついている骨を打ち砕く。「主よ、誰があなたに似ていましょうか」〔Exod. 15:11, Ps. 34:10, Odae 1:11〕。

310."11"
 25, 17「おまえの足を、おまえ自身の友のところに踏みいれることを、稀にせよ。
310."21"
おまえに飽き飽きして、おまえを憎むことの決してないように」
310.1
 神学的な問題に接することは稀に、これを為すことは頻繁に、しなければならない。わたしたちは、何か神のために言われているのでないようなことは決して云わず、不敬者として、霊的覚知から転落しないようにしよう。理性は、親(みずか)らの弱さから、こういった観想を持続的に見つめることはできないのだから。

311."11"
 25, 19「悪しき道や違法の足によって、悪しき日に滅ぼされよう」
311.1
 すなわち、悪や違法は、裁きの日に破滅する〔ということ〕。

312."11"
 25, 20「傷口に酢い葡萄酒は役に立たないように、
312."21"
身体に跪拝する情念は、心を悲します」
312.1
 心に跪拝する諸々の情念は悪である。これの喪失によって、無心の人(apathes)と名づけられる。

313."11"
 25, 20a「衣魚が外衣に、ウジが樹木に〔つく〕ように、
313."21"
人の悲しみ(lype)は心を害する」
313.1
 悲しみとは、腐敗した快楽の非難さるべき喪失のことである。しかし、悲しみとは、諸々の徳や神の覚知の称讃さるべき喪失のことでもある。

314."11"
 25, 21「もし、おまえの敵が飢えているなら、これに食させよ。
314."21"
もし渇くなら、これに飲ませよ。
314."31"
 25, 22.1 これを為すことで、彼の頭上に炭火を積むことになろうから」
314.1
 この親切と善行によって、彼の主導的部分を浄化するために。

315."11"
 25, 23「北風は群雲を目覚めさせる。
315."21"
無恥な顔は、舌を激昂させる」
315.1
 悪魔のことを、魂を激昂させる無恥な顔と云った。また、ソロモーンは、至る箇所で、理性のことを舌と言っている。裁きのときにこの顔を敬うのは、美しくない。

316."11"
 25, 25「渇いた魂にとって心地よい冷たい水のように、
316."21"
遠隔の地からの善き報せ(angelia)」
316.1
 そのように、柔和な人たちの地からの神の覚知。

317."11"〔この項は、全体として文意不明〕
 25, 26「もしも、ひとが泉をふさぐなら、水の出口をも損なうように、
317."21"
義人が不敬者の面前に倒れ伏してしまった(peptokenai)というのは、無茶苦茶(akosmon)である」
317.1
 理性の諸々の表象のうち、あるものらはその〔理性の〕死骸(ptomata)と言われ、あるものらは復活(egerseis)、あるものらは座席(kathedra)、あるものらは存続(stasis)〔と言われる〕。他にも、遊歩、またいくつかはその〔理性の〕蹉跌(prokommata)と名づけられる。他にも、硬いものら、軟らかいものら、香のよいものら、甘いものら、苦いものら、滑らかなものら、真っ直ぐなものら、曲がったものら〔と名づけられる〕。さらにまた、その〔理性の〕あるものらは茨やアザミと呼ばれ、あるものらは光、闇、生命、死、あるものらは病気と健康と〔呼ばれる〕。さらに、他にも、虚偽と真理と名づけられる。また、ほかにも、魂とその諸表象とについて、〔聖〕書は数多くの名を付けている。それ〔魂〕に対して付けているのは、多数の中から少しを言うことができるとすれば、以下のものらである。理性、魂、心、人間、男、女、奴隷、家僕、父、息子、霊、眼、口、唇、舌、喉(larynx)、胃、胸、腕、指、材木、鼻、ヒツジ、ヤギ、羊飼。他にも、魂の名はもっと数多くあるが、多弁を認めないのが註解の本質ゆえ、ここで説明することはできない。ところで、ここで、義しい理性がサタンの面前で倒れ伏すのは、不浄な想念、ないし、偽りの教義を迎え入れるからである。ダウイドも謂う。「地に下った者たちはみな、彼の面前にひれ伏した(propiptesthai)」〔Ps. 21:30〕。しかしながら、この平伏(ptoma)は、真実な覚知と諸々の清浄な想念とを含んでいる。

318."11"
 25, 28「城壁が倒壊し、城壁なしとなった都市のごとし。
318."21"
企み(boule)をもって何事かを実践しないひとは」
318.1
 企み(boule)とは、ここでは、よりまさったものへの心の傾き(rhope)のことを云った。

319."11"
 26, 3「馬に鞭、驢馬に突き棒(kentron)。
319."21"
そのように、違法の族民には王笏(rhabdos)」
319.1
 ここで、王笏とは、懲らしめ(kolasis)の象徴である。

320."11"
 26, 6「自分自身の道によって非難を招く。
320."21"
愚か者という使いに託して言葉を遣わすものは」
320.1
 イヌどもに聖なるものらを与えてはならない、真珠をブタたちの前に投げてはいけない。

321."11"
 26, 7「脚から歩みを取り除け。
321."21"
愚か者たちの口からは違法を〔取り除け〕」
321.1
 愚か者の悪しき道を除去し、偽りの覚知を彼から遠ざけておけ。

322."11"
 26, 8「投石機に石を緊縛するひとは、
322."21"
愚か者に栄光を与えるひとに等しい」
322.1
 愚か者に覚知、黄金の投石機に安物の石は、調和しない。

323."11"
26, 10「愚か者たちの肉はすべて、数々の嵐に悩まされる。
323."21"
彼らの忘我(ekstasis)は打ち砕かれるからである」
323.1
 もしも、愚か者たちの忘我 — これ〔忘我〕によって彼らは神を失った — が打ち砕かれるのなら、彼らは再び清浄となって、神に近づく。「なぜなら、肉はすべて神の救済(soterion)を眼にするであろうから」〔Isa. 40:5〕。ここで心を傾注すべきは、肉によって肥え太った魂たちのことを、愚か者たちの肉と名づけたことである。主も次のように謂う。「わたしの霊が、これらの人間たちの間にとどまることは、決してない」〔Ge. 6:3〕。324."11"
 26, 11「イヌは、おのれの吐いたものに近寄るとき、憎まれるものともなるように、
324."21"
愚か者は、おのれの悪によって、おのれの罪に舞い戻る」
324.1
 自分の悪を投げ捨てながら、再びそれへと引き返すものは、自分の吐いたものを食べるイヌに似ている。

325."11"
 26, 15「臆病者は、手を自分の懐の中に隠すが、
325."21"
その口に当てることができない」
325.1
 もしも、「義の果実から生命の樹が生える」〔Prov. 11:30〕のなら、不義によって義を隠す者はすべて、その樹からとって食することはできない。

326."11"
 26, 17「イヌの尻尾をつかむ者のごとし。
326."21"
ひとの争訟に介入するものは」
326.1
 この詞を適用すべきは、誰それが祭司職とか相続分にあたいするのか計算する者たちに対してである。

327."11"
 26, 20「多数の材木によって、火は燃えさかる。
327."21"
だが、喧嘩っ早い者(dithymos)がいないところでは、喧嘩は静まる」
327.1
 気性旺盛な者(thymodes)を喧嘩っ早い者(dithymos)と云った。

328."11"
 26, 23.2「なめらかな唇は、悲しみにくれる心を覆い隠す」
328.1
 清浄な心を、悲しみは覆い隠すことができない。諸々の堕落した欲望をこれ〔心〕から却けるからである。

329."11"
 26, 25.1「もしも、敵が大きな声でおまえを要求しても、これに聴従してはならない」
329.1
 サタン(satanas)注6)がわたしたちを要求する際、時には、諸々の不浄なる想念によってわたしたちをむずむずさせ、快楽のなめらかさで引き寄せ、時には、声まで本当に歯切れよく、敗北したもののように身を投げ出す。この〔サタン〕は、わたしたちに対して条約なき〔情け容赦ない〕戦闘を仕掛けるものであるから、聴従してはならない。

330."11"
 26, 25.2「なぜなら、7つの邪悪がその心の中にあるからである」
330.1
 7つの霊に敵対するのが、これらの邪悪である。

331."11"
 27, 7「魂は、満腹のとき、ミツバチの巣を嘲弄する。
331."21"
しかし、満ち足りぬ魂にとっては、苦いものでも甘いように見える」
331.1
 清浄な魂は覚知を喜ぶ。しかし不浄な魂は、偽りの名を持った覚知をも、真実の覚知と信じる。

332."11"
 27, 8「鳥が自分の巣から飛び出したときのように、
332."21"
ひとは奴隷となる。自分の場所から出離するときに」
332.1
 心の場所とは、徳と覚知のことである。これから出離したとき、ひとは悪と無知に陥り、奴隷となる。「罪を犯す者はすべて罪の奴隷である」〔John. 8:34〕からである。

333."11"
 27, 9「香油と葡萄酒と薫香を心は喜ぶ。
333."21"
しかし、転落によって魂は粉砕される」
333.1
 無心の理性は多種多様な知恵を喜ぶ。しかし、情念に染まった理性は無知に陥るだろう。

334."11"
 27, 10.1「おまえの友や父祖の友を見捨ててはならない」
334.1
 「〔民は〕生者の水の源であるわたしを捨てて、自分たちのために水溜を掘った」〔Jerem. 2:13〕。

335."11"
 27, 10.2「不遇なときに、おまえの兄弟の家に入ってはならない」
335.1
 これは、婚宴に、結婚の衣裳を持たずに入ってゆくような者のことである。

336."11"
 27, 10.2「近くの友は、遠く離れた家人の兄弟にまさる」
336.1
 真実の覚知によって、わたしと関係する者の方が、自然によってだけでわたしと関係する者よりもまさっている。

337."11"
 27, 13「彼から上衣を取り上げよ。なぜなら、
337."21"
他人の事を損なおうとする暴慢者としてやって来たからだ」
337.1
 これは『福音書』の中で言われていることである、「持っていない者からは、持っていると思われるものまでも、彼から取り上げられるであろう」〔Luke 8:18〕。これが明らにしているのは、わたしの思うに、諸々の徳や神の覚知のうち、精神に残されているものは、これらを悪しく用いる人間どもから取り上げられたものだということである。

338."11"
 27, 18「イチジクを植える者は、その実を喰う。
338."21"
しかし、自分自身の主を守る者は、尊敬されるであろう」
338.1
 わたしたちの主はイチジクである。その実は癩病を治すからである。

339."11"
 27, 22「会衆の真ん中で愚か者を鞭で辱めても、
339."21"
その愚かさを取り除くことは決してできない」
339.1
 愚か者を辱めても、これから愚かさを取り去ることはできず、これにどんな不名誉を教えても、愚かさが保護役(proxenos)となる。

340."11"
 27, 23「おまえの家畜の群の魂たちをよくよく〔=覚知的に(gnostos)〕悟れ。
340."21"
おまえの心をおまえの群に傾けよ。
340."31"
 27, 24 ひとの威力と強力は永遠ではなく、
340."41"
子孫から子孫へと伝わりもしないからである」
340.1
 あなた自身に心を傾注し、あなたの諸徳を真っ直ぐにせよ。人間どもは、それら〔諸徳〕においていつも平等に力があるわけではなく、徳から徳へ、あるいは覚知から覚知へと、健全に移り変わるわけでもないからである。人間的な境涯は、それを容易には受け容れられないからである。そこで、諸徳や覚知 — これらによって聖徒が誕生する — のことを、諸々の子孫と言っているのは、次のように書いていることを示しているのである。「主に対する畏怖は、知恵の子孫、〔つまり〕富、栄光、生命」〔Prov. 22:4〕。

341."11"
 27, 25「平野の青草を気遣え、若草を刈り取り、山のまぐさを集めよ」
341.1
 平野とは、理性のことを言っている。青草とは、その〔理性の〕力のもとにある諸々の徳のこと。これらの〔徳〕を気遣う者は若草を刈り取る。〔若草とは〕神の覚知の象徴である。この若草のことをまた、山のまぐさとも名づけている。なぜなら、山のまぐさとは、聖なる諸々の力能の覚知 — 魂たちよりも非ロゴス的な境涯に調和する〔覚知〕 — のことである。〔聖〕書では、聖徒たちを山と呼ぶのがならわしである。ダウイドも次のように自分の魂を採りあげている。自分の「助け(boetheia)は、どこから山々へと来るのでしょうか」〔Ps. 120:1〕。さらにまた、「山々は雄ヒツジのように、丘々は子ヒツジのように跳ねる」〔Ps. 113:4〕、イスラエールの救いを〔喜んで〕。というのは、もしも、ひとりの悔い改めたひとを天使たちがよろこぶとしたら、これほど多くが悪から徳へと進んだことを、どれほど〔よろこぶことか〕。それゆえ、聖なる天使たちの覚知だけでも、わたしたちの内なる諸々の徳を養い、この諸徳から生じる慈悲(oiktirmos)の情(splanchnon)、親切(chrestotes)、気長さ(makrothymia)、へりくだり(tapeinophrosyne)、信実(pistis)、自制(enkrateia)、愛(agape)、そしてまたこれ〔愛〕から生じる諸々の善を、魂は着るのである。ダウイドも、ロゴス的魂のことを平野と言っているということは、ここから学知することができる。「なぜなら、おまえの平野も」と彼は謂う、「肥沃さに満ちみちるであろう」〔Ps. 64:12〕。さらにまた、少し後で、「諸々の谷底も穀物に満ちる。彼らは歓呼し、讃歌をうたうだろう」〔Ps. 64:14〕。讃歌と歓呼は、ロゴス的自然にのみ起こるよう生まれついている。

342."11"
 28, 3「不敬行為に勇ましい男は、物乞いたちを誣告する。
342."21"
あたかも、猛烈で無益な雨のごとく」
342.1
 もしも、不敬行為に勇ましい男がいるなら、徳行にも勇ましい男である。もしも、不敬行為に勇ましい男が物乞いたちを誣告するなら、徳行に勇ましい男は物乞いたちを慰める。かくして、物乞いたちを慰める者は、敬神(eusebeia)に勇ましい男である。

343."11"
 28, 4「こうして、理性を見捨てる者たちは、不敬をほめたたえる。
343."21"
だが、律法を愛する者たちは、自分たちの周りに城壁をめぐらせる」
343.1
 律法を愛する者はすべて、律法を行う。しかし、律法を行う者はすべて、無心と神の覚知とを所有する。そこで、もし、「律法を愛する者たちは、自分たちの周りに城壁をめぐらせる」なら、ここで城壁とは、無心と神の覚知とを表す。これらのみが、ロゴス的自然を守るよう生まれついているのである。

344."11"
 28, 7「分別ある息子は律法を守るだろう。
344."21"
しかし、放蕩を牧する〔息子〕は、その父親を侮辱する」
344.1
 牧する者とは、理性のことを言い、ヒツジとは、彼の内なる情念的表象のことを〔言う〕。これこそが、自分自身の内に育って、「律法に違背することで神を侮辱する」〔Rom. 2:23〕ところのものである。というのは、魂の放蕩とは、身体を通して仕上げられる情念的想念のことだからである。これに対して理性の放蕩とは、偽りの教義や観想の印象(hypolepsis)のことである。

345."11"
 28, 8「利子や利潤によって自分の富を増やす者は、
345."21"
物乞いたちを憐れむ者のために、それ〔富〕を集めているのである」
345.1
 もしも、不敬者たちの富が悪であり、知恵或る者たちがそれを滅ぼすなら、明らかに、義人にして知恵或る者たちは、悪を滅ぼす。霊的教えによって、不浄な者たちを徳へと案内することによって。

346."11"
 28, 9「律法に耳を傾けようとしない者からさえ耳をそむける者は、
346."21"
自分の祈りをみずから嫌悪すべきものとする」
346.1
 誰かの祈りを嫌悪すべきものにするのは、律法ではなく、律法を与えた神である。パウロスも謂っている。聖書を与えた方が、という代わりに、将来のことを「聖書があらかじめ知って」〔Galat. 3:8〕と。

347."11"
 28, 13「自分自身の不敬を包み隠す者が、成功することはない。
347."21"
訓戒(elenchos)を告白する者は、愛されるであろう」
347.1
 「わたしは云いました。『わたしの違法を自分で主に告白しよう』と。するとあなたはわたしの心の不敬を取り除いてくれました」〔Ps. 31:5〕。

348."11"
 28, 15「飢えたライオン、渇いたオオカミ、
348."21"
物乞いでありながら、貧しい族民を僭主支配する者」
348.1
 もしも、「義に飢えかつ渇いた者たち」が「浄福である」〔Matt. 5:6〕なら、ライオンたちやオオカミたちは、不義に渇きかつ飢えた者たちである。

349."11"
 28 16「歳入の足らぬ王は、大いなる誣告者。
349."21"
しかし、不義を憎む者は、長寿を生きる」
349.1
 邪悪な王の歳入とは、諸々の悪と偽りの教義のことである。彼によって王支配される者たちは、彼のためにそれを納めるからである。

350."11"
 28, 17「人殺しの咎の或る者の保証人となる者は、
350."21"
亡命者となり、安全でなくなろう」
350.1
 サタン(satanas)の保証人となる者は、不義の保証をする。不義の果実を彼に納めることを約束するのだから。この者については、『福音書』も、人殺しと内乱によって牢獄に投獄された者と言っている。

351."11"
 28, 17a「息子を教育せよ。そうすれば、おまえを愛してくれるだろう。
351."21"
そうして、おまえの魂に世界を与えてくれるだろう。
351."31"
違法の族民に聴従することは決してあるまい」
351.1
 違法の族民とは、ダイモーンたちの部隊のことである。教育された息子が、これに聴従することはない。

352."11"
 28, 19「自分の土地を耕す者は、パンに満たされるであろう。
352."21"
しかし、暇を追い求める者は、貧しさに満たされるであろう」
352.1
 自分を清浄にする者は、覚知に満たされるであろう。しかし、不浄な者は、無知に満たされるであろう。

353."11"
 28, 21「義人たちの眼前で恥じない者は善人でない。
353."21"
こういう者は、パン一口のために、ひとを裏切るであろう」
353.1
 もしも、義人たちの顔が徳であるなら、諸々の徳の前に恥じぬ者は、善人でない。そして、もし、罪人たちの顔が悪徳であるなら、悪徳の前に恥じない者は、善人である。

354."11"
 28, 22「邪眼の持ち主は、富裕になることを急ぎ、
354."21"
そして、憐れむ者が自分をつかんでいることを知らない」
354.1
 ここでいう憐れむ者たちは、来るべき代に、神によって憐れまれ、天使となって、不敬者たちを支配するであろう。彼ら〔憐れむ者たち〕は、イスラエールの12部族を裁く者として、12の王座に座すという、そういう地位を、主はその弟子たちにも約束なさった。王座とは、ここに理性が座を占めるのであるが、敬神から迷う出た者たちを集めるところの、霊的覚知のことである。ここで、裁くというのは、教えるということを表している。あたかも、教えよという代わりに、「神の言葉によっておまえの口を開け、全員を健全に裁け」といっているようなものである。同時にまた、見るべきは次のこと、つまり、憐れむ者は、邪眼の持ち主をつかまえるものの、自分が邪眼の持ち主になることはなく、むしろ、邪眼の持ち主を憐れむ者にするだろうということである。

355."11"
 28, 28「不敬者たちの場所では、義人たちが溜息をつく。
355."21"
しかし、彼らの破滅のときには、義人たちが増えるであろう」
355.1
 もしも、不敬者たちが、不敬者であるということで、破滅するなら、義人となるであろう。なぜなら、ここで破滅とは、不敬の除去を表すからである。こういうふうにして、収税吏マッタイオスをも滅ぼして、主はこれに義を恵んだのである。

356."11"
 29, 1「諸々の訓戒(elenchos)〔を受ける〕ひとは、頑固なひと(sklerotrachelos)にまさる。
365."21"
なぜなら、彼は突然燃えあがりはするが、彼に癒しはないから」
356.1
 云っているのは、炎が熄んでも、癒しがないというのではなく、燃えあがりはするが、彼には癒しがないということである。あきらかに、材木、干し草、葦をまだ持っているからである。たとえ、燃え木によって火を点けられた者たちにも、生まれつき健康が備わっているにしても。

357."11"
 29, 2「しかし、義人がたたえられるとき、民は好機嫌であろう。
357."21"
だが、不敬者たちが支配するとき、人々は溜息をつく」
357.1
 権職や主権者やこの暗黒の世の主権者の支配下にあるかぎりの者たちは、必ずや溜息をつくであろう。

"358A"."11"
 29, 3「知恵を愛する人に、その父は好機嫌となる。
"358A"."21"
しかし、娼婦を牧する者は、富を滅ぼす」
"358A".1
 諸悪を育てる人は、覚知を滅ぼす。"358B".1
 別言すれば。善き牧者とは、諸々の無心の想念を所有している理性のことであり、悪しき牧者とは、諸々の情念的想念を所有している理性のことである。もし、そうであるなら、牡ヤギとは、情念的想念のこと、ヒツジとは、無心的想念のことである。それゆえ、牡ヤギたちをも、主は左手で、ヒツジの方は右手で立てられるのである。牡ヤギたち、ヒツジたちと言っているのは、所有している牡ヤギとヒツジのこと、すなわち、諸々の情念的な想念と無心の想念とを有している者たちのことである。そういうふうに、毒麦を有している者たちを毒麦、穀物を有している者たちを穀物〔麦〕と命名せよ。最悪・最善の状態(hexis)にちなんでそれらを名づけて。パウロス〔の書簡〕において言われているのも、そういうことである。愛をもっている人という代わりに、「愛は高ぶらない」〔1Cor. 13:4〕といっているのも。

359."11"
 29, 4「義しい王は国土をよみがえらせる。
359."21"
しかし、違法の人は、荒廃させる」
359.1
 クリストスは、ロゴス的自然をよみがえらせる。しかし、アンティクリストスは、荒廃させる。

360."11"
 29, 7「義人は貧しき者たちのために裁くことを識っている。
360."21"
しかし不敬者は、覚知を理解せず、
360."31"
物乞いには、審判者たる理性がそなわっていない」
360.1
 だから、物乞いとは、審判者たる理性を持たない者のことである。

361."11"
 29, 9「知者は族民を裁く。
361."21"
しかし、つまらぬ者は、怒って、嘲笑し、うずくまることをしない」
361.1
 「〔義人たちは〕彼をみて」とダウイドは謂う、「笑い、そうして云うだろう。『見よ、神をおのが救いとせぬあの男を』」〔Ps. 51:8〕。

362."11"
 29, 10「流血の関与者たちは、神法にかなった人を求めるであろう。
362."21"
しかし、実直な者たちは、その魂を尋ね求めるであろう」
362.1
 義人の魂を尋ね求めるのは、その〔魂の〕うちに表象されたものらを表象しようと望む人のことである。

363."11"
 29, 11「愚か者は、おのれの気性をそっくりぶちまける。
363."21"
しかし知者は、部分ごとに貯める」
363.1
 気性を部分ごとに貯めるのは、義しい所行に怒る人のことか、気長さによって気性を部分ごとに消尽する人のことである。そうして、より単純な人たちに対しては、最初のことを言うべきであるが、真面目な人たちに対しては、第2のことを〔言うべきである〕。

364."11"
 29, 18「違法の族民に主導者は決していない。
364."21"
しかし律法を守る者は、至福者である」
364.1
 律法を守る者たちには、主導者がそなわるであろう。しかし、違法者たちには、主導者はそなわらず、懲罰者がそなわるであろう。違法の族民に与えられるのは、言葉ではなく、王笏だからである。

365."11"
 29, 19「言葉によっては、頑なな家僕は教育されないであろう。
365."21"
たとえ考えたとしても、聴従できないからである」
365.1
 自然本性的に頑なな者はひとりもいないということは、「たとえ考えたとしても、聴従できないからである」ということが証拠立てている。というのは、自然本性的に頑なな者が、何か正しいことを思考することは決してないのだから。これをわたしが言う所以は、ファラオ — イスラエールに対して頑なで、言葉によってではなく、鞭によって教育された — にもとづく。

366."11"
 29, 21「子どものときから放蕩三昧な者は、家僕となるだろう。
366."21"
最後には自分を嘆くことになろう」
366.1
 もしも、放蕩することが罪をつくることになり、「罪を犯す者はすべて罪の奴隷である」〔John. 8:34〕なら、放蕩者はすべて罪の奴隷である。

367."11"
 29, 23「暴慢は人を低くさせる。
367."21"
しかし、みずからを低くする者たちは、主が栄光で固める」
367.1
 ここでは、悪のことを、ロゴス的魂の暴慢と名づけている。

368."11"
 29, 24.1「盗人の分け前に与る者は、自分の魂を憎む」
368.1
 「盗人は」と〔聖書は〕謂う、「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためでないかぎり、やってくることはない」〔John. 10:10〕。

369."11"
 29, 24.2「〔彼らは〕前もって立てた誓いを聞いても、白状しない。
369."21"
 29, 25.1「人間どもの前に畏れ恥じて、小股をすくわれるだろう」
369.1
 誓いとは、律法のことを云った。なぜなら、誓いは魂の中に神を置くように、律法も魂の中に神を導入するからである。さらにまた、偽誓は魂から神を亡き者にするように、不法もそれ〔魂〕から神を追い出す。だから、もし、と〔ソロモーンは〕謂う、律法が置かれているのにこれに耳を貸さず、自分たちの諸々の罪を告白(exagoreuein)しないなら、「人間どもの前に畏れ恥じて、小股をすくわれるだろう」〔Prov. 29:25〕。ダウイドも次のように謂っている。「わたしは誓い、確言した。あなたの義の正法(krimata)を守ることを」〔Ps. 118:106〕。さらにまたソロモーンも謂う。「自分の不敬を覆い隠す者は、成功しないだろう。しかし、告白(exegoumenos)して訓戒〔を受ける〕者は、愛されるであろう」〔Prov. 28:13〕。ダウイドも、「わたしは云いました」と謂う、「わたしの罪を自分で主に告白しましょう、と。すると、あなたはわたしの心から不敬を取り除かれました」〔Ps. 31:5〕。また、「あなたが先に、あなたの諸々の不法を言ってください」〔Isa. 43:26〕。

370."11"
 29, 26「指導者たちの顔色に仕える者は多い。
370."21"
しかし、ひとにとって義は主からくる」
370.1
 わたしたちは修徳によって天使たちに仕える。なぜなら、わたしたちを最初に受け取ったのが、わたしたちの指導者にほかならないからである。「至高者が諸民族を分けたとき」、そして、「その〔至高者の〕天使たちの数にしたがい、諸民族の境界をもうけた〔ときに〕」〔Deut. 32:8, Od. 2:8〕。しかし、裁きによる義(dikaion)が主からわたしたちにあるのは、義(dikaiosyne)によってひとの住まいする〔地〕を裁かれる、いわば、あらゆる裁きを父が息子に与えた、あの日のことである。

371."11"
 31, 10.1「勇ましい女を誰が見出せようか?」
371.1
 勇ましい女とは、ロゴス的魂の最善の状態(hexis)である。これによって、これに反対する敵たちを統治してきたのである。

372."11"
 '31, 11.2「こういう女は、美しい分捕り品に困ることがない」
372.1
 敵対する力に勝利して、彼女に関する言葉を学んで、わたしたちは彼女を分捕るのである。

373."11"
 '31, 13「羊毛や亜麻を巻きもどして、自分の両手に有用なものどもをつくった」
373.1
 魂が羊毛や亜麻を巻きもどすのは、有魂のものらや無魂のもらに関する言葉を裸にして、あるいは、修行的〔魂〕や自然的〔魂〕に関する言葉を聞き質したうえでのことである。羊毛や亜麻を巻きもどすのは、修行によって、身体的・無身体的なものらに関する観想を、自分の方へと引き寄せる魂であると、誰かが言っていた。

374."11"
 '31, 15.1_2「夜のうちに起き出して、
374."21"
家のために食事を整えた」
374.1
 義の太陽は見出すであろう、夜のうちに起き出した魂が、完全に目覚め、そうして、誘惑に陥らないよう、祈るのを。というのは、彼女〔魂〕も、「わたしは眠らず、屋根の上のひとりぼっちの雀のようになった」〔Ps. 101:8〕ということを云うよう努めるからである。

375."11"
 '31, 18「働くことは美しいということを味わい、彼女の灯火は一晩中消えることがない」
375.1
 灯火とは、清浄な理性のことである。霊的観想に満たされたところの。

376."11"
 '31, 19「自分の両手を、糸取り棒の方にのばす。
376."21"
自分の両腕を紡錘に固定する」
376.1
 紡錘とは、徳に徳を教義に教義を編みあわせた清浄な理性、ないしは、理性から霊的観想を引き出してくる口頭の言葉のことである。

377."11"
 '31, 21「彼女の夫は、どこで過ごしていようと、家内のことを気遣わない。
377."21"
彼女のもとにいる者はみな、着こんでいるからである」
377.1
 理性が先行することはなく、諸々の無身体の観想において、内にあるものらを改めるものとなることもない。なぜなら、家内〔=親(みずか)らの〕ことどもの混乱(tarache)は、〔理性がいったん〕出てきたところのものらへと、これ〔理性〕を立ち返らせるのがならいだからである。無心を所有している者は、観想の内に時を過ごして、家内のことを気遣わない。なぜなら、気性が着こんでいるのは柔和さ(prautes)とへりくだり(tapeinophrosyne)、欲望が〔着こんでいるのは〕慎み(sophrosyne)と節制(enkrateia)だからである。

378."11"
 '31, 22「自分の夫のために、二重の外套をつくった。
378."21"
しかし、自分の着物は、亜麻布と深紅の布で〔つくった〕」
378.1
 大地と大海の言葉は、ロゴス的魂の、亜麻布と深紅の布でできた着物である。しかし、他の人は述べるであろう、生じたものらの観想と、聖なる三位一体の観想とが、亜麻布と深紅の布でできた清浄な理性の着物である、と。

379."11"
 '31, 24「亜麻布つくって、手渡した。
379."21"
しかし、カナーン人たちには帯を」
379.1
 身体の上に見える亜麻布は、ペトロスにとって感覚的世界の象徴であった。なぜなら、それ〔亜麻布〕にまとわれた生き物は、人間どもと異なった性質、つまり、クリストスの十字架によって清浄化されたものであることを明らかにしているからである。だから、もし、1枚の亜麻布がこの世界を表したのなら、より多くの亜麻布が、異なった諸々の世界に関する観想 — 清浄な魂が観想して、他の人たちにも分かち与えるところの〔観想〕 — をもたらすことは決してない。そこで、もしも、カナーン人たちがへりくだった人々と解釈されるなら、美しいのは、精神においてへりくだった人たちに亜麻布〔複数〕を手渡すことではなく、清浄な人たちに亜麻布〔複数〕を、しかしカナーン人たちには帯を〔手渡すこと〕である。この〔帯〕とは、魂の情念的部分を緊縛する、修行的〔魂の?〕象徴にほかならない。

380."11"
 '31, 27.1「彼女の諸々の営み(diatribe)は、家々の庇」
380.1
 もしも、悪魔が「水中にあるものらすべて」の「王」であり〔出典不明〕、「水なき場所に休息を見つけられない」〔Matt. 12:43, Luke 11:24〕のなら、諸々の営みが清浄な魂の庇であると言われるのは美しい。

381."11"
 '31, 27.2「怠惰な穀物を食べなかった」
381.1
 怠惰な穀物とは、悪行のことであるとひとびとは謂う。

382."11"
 '31, 30.2_3「分別のある女は祝福される。
382."21"
しかし、彼女をして、主に対する畏怖を称讃せしめよ」
382.1
 もしも、「知恵の初めが主に対する畏怖である」〔Prov. 20:1〕ならば、知恵を得た魂が、主に対する畏怖を称讃するのは正しい。この〔畏怖〕こそは、彼女にとってこのような覚知の保護役(proxenos)となる。

383."11"
 11, 29「自分の家に親しまない者は、風を嗣業とし、
383."21"
愚か者は賢慮或る者に隷従するであろう」
383.1
 これは愚か者の称讃(enkomion)である。つまらぬ者はみな愚か者、愚か者はみな奴隷である。ゆえに、つまらぬ者は奴隷である。

384."11"
 14, 20「友たちは、物乞いの友たちを憎むであろう。
384."21"
しかし、富者たちの友は多い」
384.1
 なぜなら、聖なる天使たちは、聖徒たちを、その徳ゆえに愛する。しかし罪人たちは、彼らの貧しさゆえに〔聖なる天使たちは彼らを〕憎むからである。

2005.05.12. 訳了。


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