『覚知者(Gnosticus)』

[底本]
TLG 4110 002
Gnosticus (fragmenta Graeca), ed. A. Guillaumont and C. Guillaumont,
プagre le Pontique. Le gnostique ou a celui qui est devenu
digne de la science [Sources chr師iennes 356. Paris: Cerf,
5
1989]: 88-96, 100, 106, 112, 122, 126, 132-134, 142, 146-150, 154, 158-160,
166, 170-174, 178, 182-186, 192.
Cap. 1-6, 8-9, 13, 15, 21-22, 24, 27-33, 36-38, 41-42, 44-48, 50.
(Cod: 963: Eccl.)





"t".
覚知者
ないし
覚知の有資格者に寄せて

1.
修行者たち(praktikoi)は修行の言葉を思考するだろうが、覚知者たちは覚知される事柄(gnotika)を見るであろう。

2.
魂の情動的部分のみを無心として所有する者は、修行者(prktikos)である。

3.
覚知者は、不浄な事柄には塩の言葉を、清浄な事柄には光の〔言葉を〕、堅持する者である。

4.
外部からわたしたちに結果する覚知は、言葉によって質料を示唆しようとする。しかし、神の恩寵によって内生する〔覚知〕は、ひとりでに、事象(これを理性が凝視する)を精神に現前させ、その〔事象の〕言葉を提示する。そして、第一の〔覚知〕に敵対するのが迷妄(plane)、第二の〔覚知〕に〔反対するのが〕怒りと気性である。<また、これらに付き従うものらもある>。

5.
覚知者にとっては、すべての徳が道を開いて進む。しかしそれら〔の諸徳〕を凌駕するのが、怒りを知らないこと(aorgesia)である。なぜなら、覚知に触れながら、怒りへとやすやすと動く人は、自分の両眼を鉄の留め針で刺し貫く人に似ているから。

6.
覚知者は、へりくだることによって安全たるべし、へりくだりが状態(hexis)となれば、われを失うことは決してない、そして、あらゆる徳を等しく常にまっすぐにするよう努めよ。〔諸徳が〕相互に、またそれ自身においても、内包し合うために。理性はより劣った〔徳〕によって裏切られるよう生まれついているがゆえに。???

7. 欠番

8.
覚知者にとって、不正される者に対してであれ、不正する者に対してであれ、裁判を求めることは恥ずべきことである。不正される者に対しては、堪えがたいゆえに、不正する者に対しては、不正したのだから。???

9.
覚知は、心に秘めておけば、それに与る者に、いかにすれば守護されるか、また、より大きく前進できるかを、教える。

10.-12. 欠番

13.
修道者たちや在俗の者たちにとって、正しい〔神の国の〕市民生活について対話すること、また、自然的あるいは神学的(theologike)〔生活〕の教説がいかほどあるのかを詳しく明瞭にすること、は義しい。これら〔の教説〕なくして、誰ひとり「主」を見ることはできない〔のだから〕。

14. 欠番

15.
時宜と生活と行動の言葉と律法を覚知せよ、各人にとって有益な事柄をやすやすと言うことができるために。

16.-20. 欠番

21.
けなされるべき面々の言葉を、比喩的に語ってはならず、そこに何か霊的なものを求めてもいけない、ただし、計画を通して「神」が活動しておられない場合は別である。例えば、バラム注5)やカヤパ注6)においてのように。それは、前者は創世に関して、後者はわたしたちの「救主」の死に関して予言するためである。

22.
覚知者は陰気な顔をしてはならぬし、近寄りがたい者であってもならない。一方は、出来事の言葉を知らぬ者のすることであるから。他方は、あらゆる人間は救われ、真理の開悟にいたることを望む者のすることではないから。

23. 欠番

24.
あなた自身に心を傾けなさい、 — 利得のためとか歓喜心(eupathein)のために、あるいはやがて来る栄誉ゆえに、何らかの禁句を云って、神域の囲いから投げ出されることの決してないように。それはあたかも、神殿の中にいるハトの子を自分で売り渡すようなもの。

25.-26. 欠番

27.
神について不用意に語ってはならない、断じて神性を限定してもならない。 なぜなら、生じたものらや構成物には、限界がないのだから。

28.
……〔欠損〕……
……というのは、悪を歩む者は悪を憎み、放棄の試みが内生すると……

29.
教授者たちをして、あなたに常に次のことを言わしめよ。「愛する者よ、上にのぼりなさい。なぜなら、あなたがのぼっているのに、聞く者たちによって再び引きずり降ろされることは、恥ずべきことだから」。

30.
愛銭家(philargyros)とは、金銭を持っているひとではなくて、それに執着するひとのことである。なぜなら、家令(oikonomos)は思量的財布(balantion logikos)と言われるのだから。

31.
老人たちは気性を、若者たちは胃を、支配するよう呼びかけなさい。なぜなら、前者には霊魂的な〔ダイモーン?〕たちが、後者には、たいてい、身体的なダイモーンたちが、挑戦するからである。

32.
そしる者たちの口からあなたの耳を塞げなさい。そうして、大多数の人たちに誹謗されても、驚いてはいけない。なぜなら、この誘惑者こそダイモーンたちに由来するのだから。覚知者は憎しみや遺恨から自由であるばかりでなく、望んでもならないのだから。

33.
「主」をとおして人間どもを癒しているひとは、自分自身を治療していることに、おそらく、気づいていないだろう。なぜなら、覚知者が手当てする薬は、富裕者はできるかぎり、自分自身は必然的に、〔これを覚知者は〕癒すからである。

34.-35. 欠番

36.
裁きに関するより高い言葉は、やすやすと軽蔑を生むからして、在俗者たちや若者たちに気づかれてはならない。なぜなら、無知の有罪判決を受けるであろう思量的魂の心痛(odyne)を知らないからである。

37.
聖パウロスは、身体をいじめぬいてこれを奴隷とした。だから、あなたの生活における生き方をゆるがせにしてはならず、ふとった身体で不動心(apatheia)を低くして、それ〔不動心〕を侮辱してはならない。

38.
食べ物や着物のことを思いわずらうな、むしろ、レビ人アベネールのことを記憶しなさい。彼は「主」の櫃を受け取り、貧乏人から富裕者、不名誉な者から有名な者となった。

39.-40. 欠番

41.
あらゆる前提(protasis)ないし類(genos)は、述語となるものとか、種差とか、種とか、固有性とか、付帯性とか、あるいはそれらから構成されたものを有する。しかし、聖なる「三位一体」においては、上述のものらを何ひとつとることができない。不可説なることは、沈黙に跪拝せしめよ。

42.
覚知者の誘惑者は、理性に関する虚偽なる把握(hypolepsis pseudes)である。現有するものを現有しないもののごとく、現有しないものを現有するもののごとく、現有するものが過去にあったようには現有しないと〔把握するところの〕。

43. 欠番

44.
観想そのものにも、四つの徳があると、義人グレーゴリオスからわたしたちは学んだ。それはすなわち知慮(phronesis)、勇気(andreia)、慎み(sophrosyne)、そして正義(dikaiosyune)である。彼が言うには、知慮の働きは、叡智的・聖的諸力を、言葉なしに観想することであるという。というのは、これら〔の言葉〕は、知恵によってのみ明らかにされると彼は伝授していたから。また、勇気の〔働き〕は、闘っているときも諸々の真実を持ちこたえ、非有(ta me onta)に陥らないことである。第1の農夫から種を受け取って、後から種蒔く者を追い出すことは、慎みの固有の〔働き〕であると彼は答えた。また、正義とは、今度は、各人に言葉をふさわしい仕方で引き渡す。すなわち、あることどもは暗く〔めくらめっぽうに〕述べ伝え、あることどもは謎をかけて暗示し、さらにいくつかのことは、より純真な人たちの益になるよう表明して。

45.
真理の柱は、カッパドキアのバシレイオスである。彼の主張では、人間に由来する覚知は、近似の専念(melete)や鍛錬(gymnasia)が強化する。しかし「神」の恩寵によって内生する〔覚知〕は、正義、怒りのないこと(aorgesia)、憐れみが〔強化する〕。また、前者〔の覚知〕は、情動的な人たちもこれを受けることが可能である。しかし第二の〔覚知〕を受けられるのは、無心の人たちのみである。この人たちは、祈りのときにも、自分たちを照らす光輝 — 理性のみずからの光輝を観想する。

46.
アイギュプトス人たちの聖なる光り輝くもの(phoster)はアタナシオス〔330頃-379〕である。彼の主張では、モーウセースは卓を〔幕屋の〕北側の方に置くよう下知したという〔出エジプト26_35〕。覚知者たちは、自分たちに逆らって吹くものが誰かを覚知せよ、そして、あらゆる誘惑者に対して、気高く持ちこたえよ、そして、願望をいだいて近づいてくる者たちを養え。

47.
トムイス人たちの教会の御使いサラピオーンが言った、 — 理性は霊的覚知を飲むと、最終的に浄化され、愛は、気性の炎症を起こした患部を治療する。しかし、もろもろの邪悪な欲望を乗り切ってしっかり立つのは、節制(enkrateia)である。

48.
先慮(pronoia)や、あなた自身に対する裁きに関する言葉を常に鍛錬せよと、偉大な覚知した教師ディデュモスは主張する、それらの〔言葉の〕資料を記憶に保持するよう努めよと。なぜなら、ほとんどすべての人たちが、それに躓くから。また、裁きに関する言葉は、身体や飾りの違いの中にあなたは見出すであろう。先慮に関する〔言葉〕は、悪や無知に起因する性格の中に〔あなたはこれを見出すが、この言葉が〕徳へ、あるいは、覚知へと、あなたがたを導く。

49. 欠番

50.
原型(archetypon)を見つめて、諸々の似像(eikon)を書くようわたしはいつも努めた。成就したことの何ひとつも漏らさず、失った〔似像〕を獲得するために。

2005.01.20. 訳了。


forward.gif修道者に寄せる命題集(Sententiae ad monachos )