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同じ人の
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27の摘要
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さまざまな悪しき想念について
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摘要1
修行〔生活〕に敵対するダイモーンたちのうち、戦闘において第一戦列に並び立つのは、貪食の快楽ないしは衝動に信を置いているものらや、わたしたちに愛銭をそそのかすものら、人間どもの栄誉へとわたしたちをおびき寄せるものらである。これ以外のものらはみな、これらに後続し、これらによって傷つけられた者たちを引き受ける。例えば、貪食に降参しなければ、邪淫の霊の手中に落ちることはない。また、食物や金銭、あるいは、言葉なき〔=道理なき〕欲望の栄誉をめぐって争うことがなければ、気性を乱すことはない。また、それらすべてを奪われたり、手に入れることができないと、悲しみのダイモーンをまぬがれることもない。悪魔の第1子たる傲りを人は避けることもできない あらゆる諸悪の根たる〔第1テモテ6:10〕愛銭を放逐しなければ、たとえ貧しさが人を低くしようとも〔箴言10:4〕。〔これは〕知者ソロモーン〔のいうとおりである〕。〔ソロモーンは〕要約すれば〔こう〕云っている。あの第1戦列に立つものらに傷つけられないうちは、人間はダイモーンの手に落ちることはない。だからこそ、これら3つの想念を、悪魔はかつて「救主」に提示した注14)のだ。先ず第一に、石をパンにするよう頼み、次いで、ひれ伏して礼拝するなら、この世のすべてを〔やると〕公言し、そして第三には、これほど〔高いところから〕落下しても、何の被害もないから、〔自分のいうことを〕聞いたら、ほめたたえられようと言って〔ルカ4:1-13〕。〔しかし〕われわれの「主」は誰よりもまさっていること明らかだから、ふりかえって、さがれと悪魔に下知なさった。これを通して、わたしたちに教えておられるのだ。これら3つの想念を軽蔑することがなければ、悪魔を退けることはできないと。
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摘要2
ダイモーン的想念はすべて、感覚的事象の表象(noemata)を魂の中に持ちこみ、理性はこれ〔諸々の表象〕にその事象の形を刻印され、自分のうちに〔その形を〕抱懐する。そうして、それ以後は、ダイモーンの接近を、事象そのものから悟る。例えば、わたしを害するものや、わたしを侮辱するものの顔がわたしの精神(dianoia)の中にあると、害心(mnesikakia)の想念があらわとなる証左となる。さらに、金銭の、あるいは栄誉の想起が生ずれば、この事象によって、明らかに、わたしたちを悩ますものが悟られることになろう。その他の想念についても同様で、その事象から、対立者や、諸々の幻をそそのかすダイモーンをあなたは見つけ出すであろう。こういった事象の記憶のすべてが、ダイモーンたちによって生起するとわたしは言っているのではない。というのは、理性そのものが人間によって動かされても、生じたものらの幻が出現するよううまれついているからである。いや〔わたしが言っているのは〕、記憶のうち、気性とか欲性とかを、自然に反して引き連れる〔記憶〕だけである。というのは、これら2つの力の撹乱によって、理性は精神(dianoia)において姦淫し、争う。立法者の幻を自分が受け容れることができないからである。いやしくも、あの輝きが、祈りの最中に、主導的部分に現れ出るのは、事象におけるあらゆる表象の喪失によって起こるのだとするならば。
人間は、欲性や気性に気配りをしなければ、情念的記憶を遠ざけることはできない。前者〔欲望〕をば、断食や、徹宵や、地面に寝ることによって消尽し、後者〔気性〕をば、忍耐や害心や、憐れみによって鎮めて。というのは、これら2つの情念から、ほとんどすべてのダイモーン的想念 理性を滅びと破壊〔の淵〕〔第1テモテ6:9〕に投げこむ が成り立っているからである。
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摘要3
しかし、ひとがこれらの情念を凌駕することは不可能である、 食物や金銭や栄誉を完全に無視し、あまつさえ、自分の身体をも、これをしばしば殴ることを企てる〔諸々の想念〕のおかげで、〔無視〕しなければ。だから、海で危難に遭い、風や沸き立つ波浪のせいで、〔船を軽くするために〕船具さえも投げ捨てる人たちを真似るのは、まったく必然なのである〔ヨハネ1:4-5, 行伝27:17-19〕。とはいえ、ここでしかと留意すべきは、船具の投げ捨てをしても、人々に見られるためにそれをしてはならぬということである。わたしたちの報いを〔先に〕受けてしまい、〔そうなると〕以前のもの 虚栄という、わたしたちに逆風を送るダイモーン とは別の、もっと困難な難船がわたしたちを引き取るからである。それゆえ、わたしたちの「主」も「福音書」のなかで、舵取りとして理性を教育して、「注意しなさい」と謂っていられる、「わたしたちの憐れみを、人々の前で、彼らに見られるために行わないよう。さもなければ、諸天にましますわたしたちの「父」から、報いを受けることがないであろう」〔マタイ6_1注15)〕。さらにまた、「祈る時には」と謂っておられる、「偽善者たちのようにしてはならない。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの辻に立って祈ることを好むのだから。よくよくあなたがたに言っておく。彼らは自分たちの報いを受けてしまっているのだ」〔マタイ6_5〕。さらにまた言っておられる。「断食をする時には、偽善者たちがするように、暗い顔つきをするな。彼らは断食をしていることが人々に見えるように、自分たちの顔を見苦しくするのである。よくよくあなたがたに言っておく。彼らは自分たちの報いを受けてしまっているのだ」〔マタイ6_16〕。ともあれ、ここで、魂の医者に注目すべきである。〔魂の医者は〕いかにして、憐れみによって気性を癒し、祈りによって理性を浄め、さらにはまた、断食によって欲望をやつれさせるのか。これらによって新しき人、おのれの創造者の影像〔コロサイ3:10〕に基づいて新しくされた人が成り立つ。この人においては、聖なる無心によって男性・女性〔の区別〕なく、ひとつの信仰と愛によって、ヘッラス人とイウゥダイオス人、割礼者と無割礼者、異邦人、スキュティア人、奴隷と自由人〔の区別〕もなく、クリストスがすべてであり、すべてのものの内いますのである〔コロサイ3_11, ガラテヤ3:28〕。
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摘要4
そこで、ダイモーンたちが、睡眠中の幻によって、わたしたちの主導的部分(hegemonikon)に刻印し、これを形づくるのはいかにしてかを探求すべきである。さて、こういったことが理性に生起するのは、どうやら、〔理性が〕あるいは眼を通して見、あるいは耳を通して聞き、あるいはまた何らかの感覚を通して〔感覚し〕、あるいは、身体を通して得たものを動かせるのなければ、身体を通さずに、記憶に基づいて、この記憶が主導的部分に刻印する。そこで、わたしの推測では、ダイモーンたちは、この記憶を動かせて、主導的部分に刻印するらしい。というのは、この器官は睡眠下では無効の状態にあるからである。そこで、今度は、〔ダイモーンたちが〕この記憶を動かせるのはいかにしてか、を探求すべきである。あるいは、もしかすると諸々の情念を通してなのか。これこそ、清浄な人たちや無心の持ち主たちは、何かそのような情態をもはやこうむらないということから、明らかである。しかし、わたしたちによって生じる、あるいは、聖なる諸力によって〔生じる〕一種の単純な動きもある。この〔動き〕によって、わたしたちは睡眠中に聖なる者たちに出会い、話を交わし、いっしょに食事をするのである。ただし、注意すべきは、魂は身体とともに諸々の影像を受け容れるが、これを記憶は身体なしに動かすということである。睡眠中、身体が平静にしているときでも、わたしたちがこれをこうむることからして、このこともはっきりしている。例えば、渇きをおぼえても、渇きをおぼえなくても、水を記憶することができるがごとくである。同様に、強欲(pleonexia)があっても、強欲がなくても、黄金を記憶することができるように。その他の事柄についても同様である。理性が、かくかく、しかじか、種々様々な幻を見出すということが、あのものら〔ダイモーンたち〕の悪計の証左である。と同時に、次のことも見るべきである。つまり、ダイモーンたちは、より多くの場合に波の音響を〔利用する〕ように、幻のために外部の事象をも利用するということである。
わたしたちの気性は、自然に反して動くと、ダイモーンたちの狙いにすっぽりはまり、彼ら〔ダイモーンたち〕の悪巧みに最も都合よきものとなる。ここから、夜間も昼間も、この〔気性〕を掻き乱すことを拒むものは彼らの中に一人もなく、これ〔気性〕が平静さに縛られているのを見るときには、〔ダイモーンたちは〕義しい口実にかこつけて、すぐにこれを分離させ、そうやって、〔気性が〕より直情的となり、彼らの諸々の野獣的想念に役立つようにする。それゆえ、必要なのは、義しい事柄にも不正な事柄のためにも、これを刺激せず、煽動者たちに悪しき剣を与えないことである。〔ところが〕まさしくそういうことを、多くの人たちがしばしば、それも必要以上に、些細な口実に火をつけられて、しているのを、わたしは知っている。
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摘要5
わたしに云ってください、食物や栄誉や金銭を軽蔑していながら、あなたがいそいそと戦いに赴くのは〔箴言25:8〕、いったい何のためなのか。どうして、何の意味もないと公言しながら、犬を養っているのか。そしてこの〔犬〕が吠え、人間どもに襲いかかったら、明らかに、あなたは内に何らかのものを所有しており、それを守ることを望んでいるのだ。しかし、そういうひとは、清浄な祈りからはほど遠いとわたしは信ずる。気性はそういう〔祈り〕の破壊者であることを〔わたしは〕識っているから。かてて加えて、わたしが驚くのは、聖なる人たちでさえ忘却していることです。つまり、ダビデはこう叫んでいる、「怒りをやめよ、気性を棄てよ」〔詩篇36_8〕。また伝道者はこう厳命している、「気性をあなたの心から振り払え、あなたの肉から邪悪を取り除け」〔伝道の書11:10〕。また「使徒」は下知している、「怒りや言い争いを離れ、どんな場所でも、敬虔な手を「主」にさしのべなさい」〔第1テモテ2:8〕。どうして、人間どもの秘教や古い習慣からわたしたちは学ばないのか。〔秘教や古い習慣によれば〕祈りの最中には、犬たちを家々から追い出した、これこそ、祈る者たちには気性が同伴してはならないということを暗示しているのに。さらにまた、「大蛇たちの気性は、彼らの酒」〔申命32:33〕。しかし、ナジル人たちは酒を断った〔民数6:2〕。また、胆嚢と腰筋は神々にとって食べられないと、部外者〔異教徒〕たちの知者のひとりが表明したが、彼は自分が何を言っているのか知らなかった、とわたしは思う。〔その知者が言っているのは〕そのひとつは怒りの、もうひとつはロゴスなき〔=無理性的〕欲望の象徴であると、わたしとしては信じている。
着物や食物のために思いわずらってはならないことについては、書くことは余計なことだとわたしは思う。わたしたちの「救主」ご自身が、「福音書」の中で禁じておられるからだ。「それだから、思いわずらってはならない」と謂っておられる、「あなたがたの魂〔=生命〕のために、何を喰おうか、何を飲もうか、何を着ようかなどと」〔マタイ6:25, 31〕。なぜなら、それは異邦人たちの逆、「主」の配剤(pronoia)を却ける不信心者たち、「造物主」を否認する者たちの〔逆〕だからである。クリスト教徒たちにとっては、そういうことは完全な他人事である。〔クリストス教徒たちは〕1アサリオンで〔売られている〕2羽のスズメでさえ〔マタイ10:29〕、聖なる天使たちの差配のもとにあると信じているからである。ただし、諸々の不浄なる想念とともに、思いわずらいの〔諸想念〕も投げこむというのが、ダイモーンたちの習慣にほかならない。その結果、諸々の表象の群衆が精神の場所にあるので、イエースゥスは立ち去り、言葉は、茨なす思いわずらいによって窒息させられて、実を結ばなくなるのである〔ヨハネ5:13〕。
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摘要6
されば、思いわずらいに由来する諸々の想念をふり捨て、在り合わせのものに満足して〔ヘブライ13:5〕、わたしたちの思いわずらいを「主」にゆだね〔詩篇54:23, 第1ペテロ5:7〕、貧しい生活と衣服を用いて、虚栄の父たちを日々に脱ぎ捨てよう。もしも、貧しい衣服を恥ずかしいと思う人がいたら、寒さと裸にあった聖パウロス〔第2コリント11:27, 第2テモテ4:8〕、義の栄冠を待望した彼を凝視せしめよ。しかしながら、「使徒」はこの世を観劇場とか、競走場と名づけたのだから、わたしたちは見よう、 思いわずらいの諸想念を着こんだまま、上〔天〕へ召されるという褒美をめざして走ったり、諸々の支配や諸々の権威を相手に、また、この代(aion)の闇の主権者を相手に〔第1コリント4:9, 9:24, ピリピ3:14, エペソ6:12〕、格闘したりすることが可能かどうか。わたしはといえば、ほかならぬ感覚的学究によって教育されたけれども、わからない。なぜなら、くだんの競技者は、長衣によって明らかに枷をはめられ、易々と引きずられているのだから。あたかも、理性が思いわずらいの諸想念によって〔引きずられている〕のと同じように。いやしくも、自分の宝物に理性が固執していると〔次のように〕言っている〔言葉〕が真実ならば。「あなたの宝物があるところ」と〔聖書は〕謂っている、「そこに、あなたの心もある」〔マタイ6:21〕。
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摘要7
諸々の想念のうち、あるものらは切るが、あるものらは切られる。切るとは、邪悪な〔諸想念〕が善き〔諸想念〕を〔切る〕のであり、切られるとは、逆に、善き〔諸想念〕によって邪悪な〔諸想念〕が〔切られる〕のである。だから、聖なる「霊」は、第1戦列に位置する想念に留意し、これと対比してわたしたちを裁いたり、是認したりするのだが、わたしの言っているのは、こういうことである。すなわち、わたしは外人厚遇(philoxenia)という一種の想念を持っている それも「主」によって持っているが、しかしこの〔想念〕は、誘惑者が襲いかかって、栄誉のために外人を厚遇するようそそのかすと、切られる。また別の場合は〔こうなる〕。わたしは外人厚遇の想念を、人間たちに見られるために持っているが、しかしこの〔想念〕も、より優勢な想念が襲いかかると、切り離される。〔その優勢な想念とは〕わたしたちの徳を「主」に向けてより真っ直ぐにし、人間のためにそれをなすことのないようわたしたちを強制するものである。このとき、諸々の行動を通して、第二の〔諸想念〕によって誘惑されて、最初の〔諸想念〕にわたしたちがとどまるなら、最初に配置された諸想念だけからは、わたしたちは報酬を得ることはないであろう。その所以は、〔わたしたちは〕人間であり、ダイモーンたちと格闘しても、正しい想念を不滅なるものとして常に堅持できるほどには強くなく、逆に、邪悪なる想念を誘惑されないものとして保持できるほどにも〔強く〕ない。諸徳の種子を所有しているからである。ただし、切った想念のひとつが生きながらえるなら、誘惑されたものの領土に定着し、以後、人間は、その想念にしたがって動かされて活動する。
天使的想念と、人間的〔想念〕と、ダイモーンたちに由来する〔想念〕とには、次のような相違があることを、数多の観察の結果、わたしたちは悟った。すなわち、先ず第一に、天使的〔想念〕は、事象の自然にもっぱら関心をいだき、その〔事象の〕霊的想念をつきとめる。例えば、黄金は何のために出来たのか、何ゆえ砂粒状で、大地のどこか下の部分に散らばっていて、多大な辛労と労苦によって見出されるのか。また、見つけられると、水で洗われ、火にかけ、そして、そうやって職人たちの手に投げこまれる。〔職人たちが〕作るのは、幕屋の燭台、香炉、吊り香炉、平鉢で〔出エジプト25:29, 31, 27:1-3〕、今は、わたしたちの「救主」の恩寵のおかげで、バビュローンの王がこれで飲むことはもはやないが〔ダニエル5:1-30〕、〔黄金は〕クレオパの心 これらの秘儀によって燃える を運ぶ〔ルカ24:32〕。次に〔第二に〕、ダイモーン的想念は、そういったことを知りもせず、知識も持たない。ただ、感覚的黄金の所有をそそのかし、それ〔=黄金〕によって招来される逸楽と栄光を予言するばかりである。次に〔第三に〕、人間的想念は、所有さえ求めず、黄金が何の割り符なのかに関心もなく、黄金の裸の形 強欲の情念から分離した のみを持ちこむにすぎない。さて、その他の事象についても、同じ言葉〔=道理〕がいえるであろう、〔言葉が〕この規則にしたがって神秘的に鍛錬されるならば。
79.1209."32t"
摘要8
ダイモーンたちのなかには、ペテン師と言われるものがあって、とくに夜明けごろ、兄弟たちのもとに現れる。この〔ダイモーン〕は、隠遁者の理性を、都市から都市へ、家から家へ、村から村へと連れまわり、〔隠遁者の理性は〕先ず第1に、いわゆる諸々の裸の出会いを行い、幾人かの知己に行き会うと、長々と話しこみ、それらの遭遇者たちとの親しい境涯を台無しにし、「神」の覚知や徳から少しずつ遠ざかり、約束(epangelma)の忘却にさえいたる。だから、隠遁者は、この〔ダイモーン〕を、どこから始まり、どこで終わるのか、見張らなければならない。なぜなら、その長い回り道をするのは、漫然とではなく、行き当たりばったりにでもなく、隠遁者の境涯を台無しにすることを望んで、そういうことをなすのであって、その結果、理性がそれらによって燃えあがらせられ、数多くの出会いに酩酊させられて、すぐに、邪淫の〔ダイモーン〕や怒りの〔ダイモーン〕の手に落ち、それら〔ダイモーンたち〕がその〔理性の〕境涯の輝きをとりわけて損なうことになるのである。しかしながら、わたしたちは、彼〔ダイモーン〕の狡猾さをはっきりと知るという目的を持っているからには、いそいそと彼〔ダイモーン〕と会話すべきではなく、何が起こっているのか どのようにして精神にそれらの出会いをつくりだしたのか、また、いかなる仕方で理性を死へと少しずつ追い立てるのか を示すべきでもない。わたしたちから逃げ出すからである。なぜなら、そんなことをするのを見られることは許されない。そうして、わたしたちが学び知ることを熱心に求めることについては、何ひとつ知ることはできないからである。いや、むしろ、別の1日、あるいは2日、彼〔ダイモーン〕にその稲束を完成することを容認しよう。そうすれば、彼の害悪をはっきりと学び知って、それ以後は、言葉によって彼を吟味して、国外追放することができよう。
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摘要9
しかしながら、誘惑者の盛時には、理性が濁らされ、何が起こっているのかをはっきりとは見られなくなっているのだから、ダイモーンの撤退後、それが知られるべきである。ひとり坐って、あなたに結果した事態を想起すべきである。あなたはどこから出発し、どこに進み、いかなる場で邪淫とか、怒りとか、悲しみの霊とかにとらえられ、生起したことすべてはいかにして生起したのかを。そうして、それらをはっきりと学び知って、記憶にとどめよ。そうすれば、それ〔ダイモーン〕が接近した証左を得ることができ、それによって隠された場所を暴き、それ以後は、それについて行かなくてすむであろう。そのとき、もし、狂気にまで陥らせることをあなたが望むなら、彼〔=ダイモーン〕が側に立ったらすぐに吟味し、入りこんできた第1の場所を言明し、第2の〔場所を言明し〕、第3の〔場所を言明せよ〕。なぜなら、〔ダイモーンは〕恥ずかしさに堪えずしてひどく立腹するから。しかし、あなたが彼〔ダイモーン〕と時宜を得た話をしたという証拠は、その想念をあなたから追放しているということである。なぜなら、それ以後、彼〔ダイモーン〕が明白に吟味なされながら、立っていることは不可能だから。さて、ペテン師のこのダイモーンが打ち負かされた後、これを継ぐのは、このうえなく重い眠気、まぶたの大いなる寒さをともなった死滅、数知れぬ欠伸、そして、重くなって痺れる両肩……。これらこそ、ひたすらな祈りによって、聖なる「霊」が解消してくれるところのものである。
79.1212."32t"
摘要10
ダイモーンたちに対する憎しみは、わたしたちにとっての救いにきわめて役に立ち、徳の営み(ergasia)に必須である。しかるに、何か善き所産のごとく、自分たちの中にこれ〔ダイモーンたちに対する憎しみ〕を養い育てるちからをわたしたちは持たぬ。快楽を愛する霊たちがそれ〔ダイモーンたちに対する憎しみ〕を台無しにし、逆に、愛や習慣へと魂を呼びこむからである。しかるに、この愛を、というよりはむしろ治癒しがたき壊疽を、魂たちの医師は放棄(enkatalepsis)によって治療する。というのは、わたしたちがそれらによって夜や昼間、何か恐ろしいことをこうむるのを許す、すると今度は魂が原型的憎しみへと立ち返るのである。ダビデに倣って、「主」に向かってこう言うよう教えられるからである。「わたしは完全に彼らを憎み、彼らはわたしの敵となった」〔詩篇138:22〕。というのは、この完全な憎しみは敵たちを憎み、活動(energeia)においても精神(dianoia)においても、罪を犯さないものだからである。これこそが、第一の、そして最大の無心(apatheia)の証拠である。
79.1212."50t"
摘要11
ダイモーン、つまり、魂を無感覚にするものについては、何を言うべきであろうか。というのは、彼〔ダイモーン〕について、魂はいかにしてみずからの境涯を離脱するのか、書くことさえわたしは恐れているからである。なぜなら、彼〔ダイモーン〕の寄留の盛時に、「神」に対する畏怖をも、敬神をも、〔魂は〕脱ぎ捨て、罪をも罪だとは思量せず、違法をも違法だとは考えず、さらには永遠の懲罰と裁きとを、あたかも裸の〔単なる〕お話として記憶し、火を噴く地震を本当に嘲笑し〔ヨブ41:21〕、たしかに「神」を告白しはするが、〔神が〕何を下知なさったかは識らない。あなたはその胸を叩くが、彼女〔魂〕は罪へと動かされ、彼女自身は感知しない。あなたは「聖書」から話をするが、〔魂〕全体は石化し、耳を傾けない。人間どもの由来する恥をあなたは彼女〔魂〕に帰するけれど、〔魂は〕人間どもの間の羞恥を思量せず、彼女自身がまったく理解しないさまは、眼を閉じて、囲いを壊した豚のごとくである。諸々の想念は、生きながらえている間、虚栄のこのダイモーンをけしかけるのであるが、その〔ダイモーンの〕日々〔時期〕が縮められないなら、いかなる肉も救われないであろう〔マタイ24:22〕。というのも、〔そのダイモーンは〕兄弟たちに稀に現れるものらに属し、原因も明らかだからである。すなわち、他の者たち 病気に押しひしがれている人たちとか、牢で難儀に遭っている人たちとか、不慮の死の手に落ちた人たちとか の災禍が原因で、この〔ダイモーン〕は逃げ出すからである。魂が少しずつ〔呵責に〕刺し通され、同情へと移行し、ダイモーン的頑迷さ(poroma)が解消するからである。これらのもの〔他の者たちの災禍〕は、沙漠、つまり、わたしたちのもとにおける病弱者たちの欠如のせいで、わたしたちの欠いているところのものである。
79.1213."25t"
摘要12
何よりも先ずこのダイモーンを国外追放して、「主」は「福音書」の中で、病者たちを見舞い、獄中に或る者らを訪ねるよう下知なさった。「なぜなら、わたしが病者であっても」と謂われる、「あなたがたはわたしを訪ねなさい。また獄中にあっても、やはりわたしのもとに来たれ」〔マタイ25:43〕。
ただし、次のことは見るべきである。誰か隠遁者のなかに、このダイモーンの手に落ちながら、邪淫的な念をいだかなかったり、あるいは、怯懦からその住居を放棄することのない者がいたら、その人は、天上から降りてきて、正気(sophrosyne)と忍耐(hypomone)を受け、このような無心の価値或る者として浄福の人であるということを。しかし、敬神を公言する人たちの中に、この世のものらとも同衾することを選択するかぎりの人たちは、このダイモーンから身を守られてあれ。というのは、彼〔ダイモーン〕についてこれ以上のことを言ったり書いたりすることを、たとえ人間どもの前であっても、わたしは恥じるからである。
79.1213."40t"
摘要13
ダイモーンたちはすべて、快楽を愛することを魂に教える。しかし、悲しみのダイモーンだけは、これをなすことを容認しないばかりか、侵入してくるものらの諸々の想念を台無しにし、すべての快楽を切除し、悲しみによってこれを枯れさせる。悲しみにくれる人の骨は枯れるから〔箴言17:22〕、程々に戦う場合には、隠遁者を合格審査されたものに仕上げる。というのは、この世のものらの何ひとつにも近づかないよう、そしてあらゆる快楽を回避するよう、彼〔隠遁者〕を説得するからである。しかし、あまりに多くを制覇すると、諸々の想念を生むが、〔これらの想念は〕自分から引き下がるよう魂に忠告したり、その場所から遠く逃げ出すよう強制する。このことは、かつて、聖イオーブも、このダイモーンに悩まされて、思量し、受難したところのものである。「さりながら」と彼は謂う、「わたし自身手を述べることができるのであろうか、それとも、他の人を求めても、それをわたしにしてくれるのであろうか」〔ヨブ30:24〕。このダイモーンの象徴が、マムシという獣であり、この〔マムシの〕自然〔本性〕は、人間愛から与えられていて、その他の獣たちの毒を台無しにするが、無制約に摂られると、生物そのものを台無しにする。このダイモーンに、パウロスはコリントスの違法者を引き渡し〔第1コリント5:5〕、だからまた真剣にこう書いている。「決定しなさい」とコリントス人たちに言う、「彼に愛を示すことを。この人があまりに深い悲しみに呑みこまれることが決してないように」〔第2コリント2:7〕。いや、彼〔パウロス〕は知っていたのだ、この霊が人間の〔諸々の想念〕をすりつぶし、善き悔い改めの基となることを。ここから、聖イオーアンネース・バプティステースも、このダイモーンによって刺された人々、「神」に庇護を求めた人々に向かって、「マムシの子らよ」と謂うのだ、「迫りくる怒りから逃れるようあなたがたに示唆したのは誰か? だから、悔い改めにふさわしい実を結べ。わたしたちは「父」としてアブラアムを持っているなどと、心のうちに言うことを思ってもみるな。あなたがたに言っておく、「神」はこれらの石ころからでもアブラアムの子を起こすことができるのだ」〔マタイ3:7-9。ルカ3:7-9〕。ただし、アブラアムを模倣し、その〔アブラアムの〕地から、またその親族から出た〔創世記12:1〕者はすべて、みずからがこのダイモーンよりも強力になったのであるが。
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摘要14
気性を制覇した人がいたら、その人はダイモーンたちを制覇したのである。しかしこの情念に隷従したら、その人は修道者の生活とは無縁の人、わたしたちの「救主」の諸々の道の外人である。わたしたちの「主」ご自身が、柔和な人たちに自分の諸々の道を教えると言っておられるからである〔詩篇24:9〕。だからまた、隠遁者たちの理性は捕獲しがたいものとなる。柔和さの地平へと逃げこむから。というのは、諸徳のほとんどどれひとつとして、ダイモーンたちは、柔和さのようには、与えたことはないからである。というのは、あのモーウセースもそれ〔柔和さ〕を所有していた。あらゆる人間たちから柔和な者と呼ばれていたのだから〔民数12:3〕。また、聖ダビデも、それ〔柔和さ〕において「神」の記憶にあたいすると発言した。「「主」よ、記憶してください」と言って、「このダビデと、自分のまったき柔和さを」〔詩篇131:1〕。いや、そればかりか、「救主」ご自身でさえ、わたしたちがあの方の柔和さの模倣者となるよう命じておられる。「あなたがたはわたしから学びなさい」と言って、「わたしは柔和な者であり、心のへりくだった者であるということを、そうすれば、あなたがたの魂に休息を見出すであろう」〔マタイ11:29〕。そうして、食物や飲み物は控えるが、気性は、邪悪な想念によって刺激する人がいたら、その人は航海するに際し、ダイモーンを操舵手として持っている船に似ているのだ。だから、可能なかぎり、わたしたちの犬に留意すべきである。そしてこの〔犬〕に教えるべきである、オオカミたちだけを台無しにし、ヒツジたちはむさぼり食ってはならぬということ、〔そして〕あらゆる人間に対しては、まったき柔和さを示す〔こと〕を。
79.1216."51t"
摘要15
諸々の想念のうち、虚栄の〔想念〕だけは、多質料であり、人の住まいする地のほぼ全体を取り囲み、あらゆるダイモーンたちにその扉を開けてやる。あたかも、善き都市の邪悪なる売国奴のごとくである。それが、隠遁者の理性をまったく低くして、数多の言葉と事象でこれを満たし、その祈り これによって彼の魂の傷のすべてを治療することに熱心な を害する所以である。ダイモーンたちのすべてが打ち負かされても、彼らはこの想念を増大させ、これによって再び全員が魂への入り口をつかみ、はじめよりも極端で劣悪なことを本当になす〔マタイ12:45, 第2ペテロ2:20〕。この想念から、あの傲りの〔想念〕、つまり同類の印形も生じ、美の花冠を〔エゼキエル28:12〕天界から地上へと揺すぶり落とすのである。しかしながら、この〔虚栄の想念〕から跳び降りよ、猶予を与えるな、わたしたちの命を他のものらに、わたしたちの生活を無慈悲な連中に〔箴言5:9〕、引き渡さないために。そして、このダイモーンを国外追放するのが、倦まぬ祈りと、呪われた栄誉に終わるものらを何ひとつ自発的にはなさないことである。
隠遁者たちの理性がわずかな無心を得るなら、そのときは虚栄の馬を所有し、ただちに国々を疾駆する。栄誉に由来する混ぜ物のない賞讃に満たされて。この人に、〔神の〕はからいどおり、邪淫の霊が遭遇すると、豚小屋のひとつにこれを閉じこめ、これを教育して、まったき健康の前に寝椅子を後にしないよう、また、無力な者たちの隊伍を離れた連中を模倣しないようにする。この〔無力な者たち〕は、内なる病弱の後遺症にかかっているのに、自分たちを旅や、時節はずれの沐浴にゆだね、ぶり返しの病気の手に落ちる連中である。だからして、わたしたちは住持して、ますます自分自身に注意しよう。そうすれば、一方においては、徳において前進し、悪へと動き難いものとなり、他方では、覚知において更新し、多数の多彩な観想を付け加え、再び祈りにおいて高い者となり、わたしたちの「救主」の、より明るい光を熟視することになろう。
79.1217."35t"
摘要16
ダイモーンたちの悪行のすべてを書くことは、わたしにはできない。また、彼らの諸々の悪巧みを列挙することを、わたしは恥じる。読者となる人たちのうち、より単純な人たちのことを危惧するからである。ただし、邪淫の霊の奸智は、聞きなさい。ひとが、欲性的部分の無心を所有し、そのうえ、諸々の醜い想念がやや冷たくなったら、そのときこそ、お互いにふざけあっている男たちと女たちを導き入れ、隠遁者をして、醜い事象や恰好の見物人たらしめる。しかし、この誘惑者は、生きながらえた〔諸想念〕に属するものではない。というのは、ひたすらな祈りや厳密きわまりない摂生(diaita) 徹宵や霊的観想の鍛錬をともなう が、水なき雲のように〔ユダ12〕、かれ〔誘惑者〕を吹き払うからである。また時には、〔誘惑者が〕肉たちにさえ触れ、ロゴスなき〔=非理性的な〕燃焼へとそれら〔祈りや暮らし〕を追いやり、いやそればかりか、この極悪者〔誘惑者〕は無量の策を凝らすが、それを公表したり、書に著す必要はない。しかし、これら諸々の想念にとっては、気性の沸騰 このダイモーンによって動かされる も、すこぶる役に立つ。まさしくこの気性を〔ダイモーンが〕格別に恐れているのは、〔気性が〕諸々の想念のせいで掻き乱され、自分の諸表象を台無しにするからにほかならない。これこそが、「汝ら怒っても、罪を犯すべからず」〔詩篇4:5, エペソ4:26〕の〔意味する〕ところである。これは、このような諸々の誘惑の際に、魂に適用されると、有用な薬となる。ところが、怒りの〔想念〕もまた、このダイモーンを模倣し、みずからも捏造するのである、 あるいは両親、あるいは友たち、あるいは親類、あるいは家族のうち、何人かの乱暴された者たちや、無価値な連中によって苦しめられた者たちを。そうして、〔怒りの想念は〕隠遁者たちの気性を発奮させ、その結果、精神に現れた〔諸々の想念〕に向かって、ちょっとしたつまらぬことを発言したり、実行したりする。この〔精神に現れた諸想念〕に留意し、そういった影像から速やかに救出する必要はない、 それらの〔想念〕のなかに〔怒りの想念が?〕生きながらえて、祈りの最中に、くすぶる燃え木〔イザヤ7:4〕のようにならないかぎりは。さて、こういった諸々の誘惑の手に落ちるのが、気性的〔想念〕、中でも特に、易々と怒りに火のつくものらである。これら〔の想念〕は、清浄な祈りから、したがってまたわたしたちの「救主」イエースゥス・クリストスからも、はるかに遠い〔存在である〕。
79.1220."18t"
摘要17
この代(aion)の諸々の表象(noemata)をば、「主」は、あたかもヒツジたちを善き羊飼いに〔渡す〕ように〔ヨハネ10:1-18〕、人間にお渡しになった。というのも、〔聖書が〕謂うには、永遠(aion)をその〔人間の〕心に授けられたからである〔伝道の書3_11〕。この〔人間〕に、助けとして、気性と欲性とをともに軛につなげ、そうやって、気性によっては、オオカミたちの諸々の表象を追放し、欲性によっては、雨や風にしばしば打たれることがあっても、ヒツジたちを慕うようになさった。さらに、これらに加えて、彼〔人間〕には、ヒツジたちを放牧できるよう放牧地をも、若草の場所をも、休息の水をも、琴をも、竪琴をも、笏をも、杖をも与えられた。このヒツジの群によって養われ、着物を着、山地の青草を集められるためにである〔詩篇22:2, 56:9, 107:3, 22:4, 箴言27:25〕。「いったい」と〔聖書は〕謂う、「ヒツジの群を放牧しながら、誰か群の乳を呑まない者があろうか」〔第1コリント9:7〕。それゆえ、隠遁者は、夜も昼間も、この小さき群を守らねばならない、諸々の表象のどれもが、野獣に食われたものになったり、盗賊たちの手に落ちたりすることのないように〔創世記31:39, ルカ10:30〕。だが、万一何かそのようなことが谷間に起こったら、ただちに、ライオンやクマの口から救出し〔なくてはならない〕〔サムエル17:34-7〕。こうして、兄弟に関する表象が野獣に食われたものになるのは、わたしたちの内なる〔表象〕が憎しみを持って牧草を食う場合、女に関する〔表象〕がそうなるのは、醜い欲望とともにわたしたちのところで転向する場合、銀や金に関する〔表象〕がそうなるのは、強欲(pleonexia)とともに野営する場合である。また、聖なる恩寵の諸表象がそうなるのは、精神において虚栄とともに放牧する場合である。さらに、その他の諸表象においても、諸々の情念に盗まれると、同様の結果になるであろう。
79.1220."46t"
摘要18
そこで、日中、これら〔表象〕を見張るばかりか、夜も徹宵しながら護らなければならない。というのも、醜くにであれ、邪悪にであれ、幻をみるひとは固有のものを失うことになるからである。これこそ、聖イアコーブによって言われている意味である。「野獣につかまったものは、あなたのもとに運び来ず、昼盗まれたものも、夜盗まれたものも、わたしは自分で弁償し、昼の暑さ、夜の寒さに焼かれながら、眠りはわたしの眼から離れました」〔創世記31:39-40〕。万が一、この辛苦のせいで怯懦といったものまでがわたしたちに生じたなら、しばらく覚知の岩の上に逃げこんで、覚知の諸徳によって弾じるために、弦楽器に親しもう。そうして、もう一度シナイ山の麓でヒツジを放牧しよう。わたしたちの父祖たちの「神」が、わたしたちをも茨の藪の奥から呼んでくださるように〔出エジプト3:1-6〕、そうして、諸々の徴や不思議〔出エジプト7:9, 11:9-10〕の言葉をわたしたちにも賜るように。
ロゴス的自然はといえば、悪によって死をこうむるが、クリストスはこれを、あらゆるアイオーンたちの観想によって目覚めさせる。他方、このかた〔クリストス〕の父は、それ〔自然?〕の死んだ魂、つまりクリストスの死を、自身の覚知によって目覚めさせる。これこそが、パウロスによって言われている意味である。「わたしたちがクリストスとともに死んだなら、また彼とともに生きることを、わたしたちは信じる」〔ロマ6:8〕。
理性が古き人を脱ぎ、恩寵による〔人〕を身にまとうとき〔コロサイ3_9-10〕、そのとき、自分の境涯(katastasis)をも、祈りの時に見るであろう、その〔境涯〕は、サファイアないし天の色に似かよっていて、これを「聖書」は「神」の場所とも名づけ、シナイ山上で長老たちによって見られたものである〔出エジプト24_9-11〕。
79.1221."24t"
摘要19
敵たちのひとりが、あなたを傷つけようとして襲いかかり、〔聖書に〕書かれているとおり、あなたがその剣を逆向けたいと望む〔詩篇36:15〕場合、その者の心〔臓〕に向けて、あなたはわたしたちが言っているとおりにするがよい。〔すなわち〕あなた自身において、彼〔敵〕によって害された想念を区別せよ、 はたしてそれは何ものであるのか、いかほどの事象から構成されているのか、理性を最もよくすりつぶすところのそれは、どれであるか。で、わたしが言っているのは、こういうことである。彼〔敵〕によって派遣されたのが、愛銭の想念であるとせよ。この〔想念〕を、これを受け容れる理性そのものとも、金の表象とも、金そのものとも、愛銭の情念とも区別せよ。そうして、そのうえで、それらの中の何が罪なのかと問え。理性はどちらなのか? 〔もしそうだとしたら〕いったい、どうしてなのか? 〔理性は〕「神」の似像である〔から、理性に罪があるはずがない〕。しからば、金の表象はどうか? これもまた、理性を持っている者なら、いったい誰がそう云うことができよう。しからば、金そのものが罪なのか? いったい、〔金は〕何のために生じたのか。そういう次第で、帰結するのは、実体として(kat' ousian)存在している事物はもとより、事物の表象にも、逆にまた理性にも罪はなく、快楽といったものが人間嫌いであり、自由意思によって生みなされ、「神」の被造物を悪く用いるよう理性を強いる。この快楽を、「神」の律法は割礼を施すと信じられていたということである。そうしてこれを、あなたが問いつめれば、想念は、自分の観想へと解消して台無しになり、あなたからダイモーン的なものを追放するであろう。あなたの精神が覚知そのものによっての高みへと引き上げられたときに。
79.1221."50t"
摘要20
さて、くだんの〔敵〕の剣を用いることを望むなら、先ず、あなたの投石具によってその〔敵〕を降参させられることを渇望せよ。あなたも、羊飼いの袋から〔取り出した〕石を投げよ〔サムエル17:48-51〕、そうして、そのものの観想を求めよ。天使たちや、またダイモーンたちは、わたしたちのこの世に訪れるが、わたしたちは彼らの世々を訪れることがないのは、どうしてか。それは、わたしたちは天使たちをより多く「神」に結びつけることもできず、ダイモーンたちをより多く不浄なものとなすことを選ぶこともできないからである。いったいどうして、夜明け前に昇る明けの明星は、地上に突き落とされ〔イザヤ14:12〕、海を軟膏容れのように考え、無底の深淵タルタロスをあたかも捕虜のように〔考える〕のか。無底の深淵をあたかも銅の大鍋のように煮えたぎらせ〔ヨブ41:23-4〕、万物をその悪によって掻き乱し、万物を支配することを望んで。というのは、これらの事象の観想は、まったく、ダイモーンを傷つけ、その陣営全体を敗走させるからである。しかしながら、これらが結果するのは、穏やかに清浄化されたものらや、生起したものらの言葉をいくぶんか眺めるものらからのみである。これに反し、不浄なものらはこれらの観想を知らず、他のものらから学んで繰り返し唱えても、聞きしたがうことができない。多数の粉塵や騒音が、諸々の情念によって戦闘の最中に一度に起こるからである。なぜなら、他民族〔異教徒〕の陣営をしばらく完全におとなしくさせねばならない。ゴリアテひとりがわたしたちのダビデに対面するためである〔サムエル17〕。そこで、不浄なるあらゆる想念についても、分析〔の仕方〕も戦争のこの種類も、わたしたちは同様に扱うことにしよう。
79.1224."23t"
摘要21
不浄なダイモーンたちのうち、あるものらは人間を、人間として試み、あるものらは人間を、言葉なき動物として掻き乱す。そして第一のものらが訪れると、虚栄や傲りや物惜しみや中傷の表象をわたしたちに投げこむ。〔これらの表象は〕言葉なきものらのうち、どれひとつにも接することがない。他方、第二のものらは、接近すると、気性とか欲性とかを、自然に反して、動かせる。というのは、これらの情念はわれわれにも、言葉なき動物たちにも共通で、ロゴス的自然によって覆い隠されているからである。それゆえ、聖なる「霊」も、一方、人間的な諸々の想念に遭遇した者たちに向かってはこう言う。「わたしは言った。『あなたがたは「神」であれ、また「至高者」の息子であれ。しかし、あなたがたは人間のように死に、支配者たちのひとりとして倒れよ』と」〔詩篇81:6-7〕。しかし、他方、言葉なく動かされる者たちに向かっては、何と謂うか。「あなたがたはウマのごとく、半ロバのごとくあってはならない。これらには分別(synesis)なく、くつわとはみによってその顎を曳かれ、あなたのもとに近づくことはないから」〔詩篇31:9〕。しかるに魂は、罪を犯すと、それ自体が死ぬ〔エゼキエル18:4, 20〕。明らかなことは、人間どもは人間として死に、人間どもによって埋葬されるが〔マタイ8:22〕、他のものは言葉なきものとして死に、倒れると、ハゲワシたちによってかカラスたちによってむさぼり食われ、そのヒナたちは、あるものらは「主」に呼びかけるが〔詩篇146:9〕、あるものらは血にまみれる〔ヨブ39:30〕。聞く耳あるものは、聞くがよい〔マタイ11:15, 13:9, 43, etc.〕。
79.1224."47t"
摘要22
諸々の不浄なる想念のいくつかが、すみやかに追い払われる場合、その原因をわたしたちは探求すべきである、 それがどこから起こったのか、事象の欠如によって、質料が得がたいゆえなのか、それとも、わたしたちにそなわる無心によって、敵たちがわたしたちに対して無力であるゆえなのか。例えば、隠遁者たちのひとりが、ダイモーンのせいで、第一の都市〔コンスタンティノープル〕の霊的な舵取りとして信任されたと思い至ったとしたら、その〔隠遁者〕は明らかに、その想念を幻視したまま生きながらえることはなく、その原因も、〔先に〕言われたこと事柄からして、彼は悟ることであろう。しかし、都市、それも任意の〔都市〕の〔霊的な舵取りと〕なり、同様に思量〔想念〕するひとがいたら、その人は無心の浄福者であろう。同様に、精査されれば、他の想念についても、そういう仕方が見出されるであろう。このことを、わたしたちの熱意や能力に対して知ることは必要である。
わたしたちはイオルダネース〔=ヨルダン〕河を渡って、ナツメヤシのある都市の近くにいるのか、それとも、いまだ沙漠の中にすごしていて、他部族〔異教徒〕たちに打たれているのか、どちらなのかをわたしたちが知るために。
というのは、わたしにみられるところでは、愛銭のダイモーンは、きわめて多彩にして、しかも欺瞞にかけて巧妙であって、この〔ダイモーン〕は、しばしば、極端な断念によって窮地に追いこまれるや、すぐさま管理人(oikonomos)や貧しい人を愛する者の扮装して、まだやってきていない外人たちをも親切に歓迎し、他の困窮している人々に扶助を遣わし、都市の牢獄を訪問し、いわゆる売られた人々を買いもどしてやり、富裕な女たちにおもねるとともに、羽振りのよい人びとにも有益な示唆を与え、さらには、ずっしりした財布を所有している他の人たちにも、〔財布を〕放棄するよういましめる。そして、こういうふうにして、少しずつ魂を欺いて、愛銭の諸々の想念でそれ〔=魂〕をそそのかして、虚栄のダイモーンに引き渡すのである。
79.1225."25t"
摘要23
〔虚栄のダイモーンは〕このような差配を根拠に、「主」の栄光をたたえる者たちの大衆を連れこみ、祭司職について話し合う者たちの幾人かを少しずつ前面に押し出し、それからは、在職の祭司の死を早々と予言し、よろずのことをした上で逃れることはなかろうと付け加える。そういうふうにして、みじめな理性はこれらの想念に呪縛されて、人々のうち、〔自分が祭司職に就くことを〕迎え入れようとしない者たちとは激闘し、これを迎え入れる者たちには、気前よく贈り物を恵み、この者たちの良識を受け容れる。これに反し、一部の逆らい通す者たちは、これを裁判官たちに引き渡し、都市から放逐するよう指図する。それからは、彼らが内にあって、諸々の想念が転向するときには、ただちに傲りのダイモーンも立ち現れ、僧坊の大気の中に、稲妻を次々と刻印し、有翼の大蛇までも遣わし、完全な悪、つまり、正気の喪失をつくりだす。しかしながら、わたしたちとしては、これらの想念に破滅を祈り、感謝の祈り(eucharistia)をもって、清貧とともに生きよう、「なぜなら、わたしたちは何ひとつこの世にもたらさず、明らかに、持って出ることもできないのだから。しかし、食べ物と被服を持っているので、これらに満足しよう」〔第1テモテ6:7-8〕。パウロも、愛銭はあらゆる悪の根と云っている〔第1ティモテ6:10〕ことを思い出して。
不浄な想念はみな、諸々の情念のおかげで、われわれの内に生きながらえ、理性を滅びと破壊へと〔第1テモテ6:9〕沈ませる。例えば、パンの表象は、飢えた者のうちに、飢えのせいで生きながらえ、また、水の表象は、渇いた者のうちに、渇きのせいで〔生きながらえる〕ように、そのようにまた所有物や金銭の表象も、強欲(pleonexia)のせいで生きながらえ、食物の表象も、食べ物から生まれた醜い諸想念も、諸々の情念のおかげで生きながらえる。いや、そればかりか、虚栄の諸想念についても、その他の諸想念についても、似たような仕方で明らかにされるであろう。しかしながら、こういったものら〔諸々の表象〕によって窒息させられた理性が、「神」の前に立ち、義の花冠を〔第2テモテ4:8〕戴くことはできない。なぜなら、これらの想念によって、「福音書」にあるあの3倍みじめな理性も引きずり降ろされ、クリストスの覚知の食事を断ったのだから〔マタイ22:2-7〕。あるいはまた、両手両足を縛られ、外なる闇の中に投げこまれた者は、これらの想念によって織り込まれた着物を持っていたが、こういった婚礼の価値なき者であると、招待者が言明したのである〔マタイ22:11-13〕。そういう次第で、婚礼の着物とは、ロゴス的魂 この世の欲望を〔テトス2:12〕否認するところの 無心のことである。しかし、感覚的事象の表象が、生きながらえて、覚知を台無しにするのはなぜか、その理由は、『祈りに関する諸章』のなかに見出されよう。
79.1228."20t"
摘要24
修行〔生活〕に敵対するダイモーンたちのうち、先頭に立って支配するのは3人で、これに他部族のあらゆる陣営が追随する。彼らは戦闘の第1戦列に立ち、諸々の不浄の想念によって魂たちを悪へと呼びこむ。〔彼らは〕貪食の欲求を信じているものら、愛銭をわたしたちにそそのかすものら、そして、人間どもの栄誉へとわたしたちを呼びこむものら〔である〕。だから、清浄な祈りを欲し、気性を見張りとおし、賢慮(sophrosyne)を愛し、胃袋を抑制するには、パンをあなたの胃に与えてはならない。水でそれを搾り出せ。祈りのあいだ眠らすな。害心をあなたから遠ざけよ。聖なる「霊」の言葉が、あなたを見棄てないようにさせよ。そうして、諸徳の手で扉を叩け。そのとき、あなたにとって心の無心が〔地平線から〕昇り、星状の理性を、祈りのうちに、あなたは眼にするであろう。 諸々の表象のうち、あるものらは、わたしたちの主導的部分に刻印し、形づくるが、あるものらは、覚知 理性に刻印せず、形づくることもない のみを提供する。例えば、「初めに「言」があった、「言」は「神」とともにあった」〔ヨハネ1:1〕というのは、一種の表象を心にたくわえはするが、これ〔心〕をけっして形づくることなく、刻印もしない。「パンをとって」〔マタイ26:26〕というのは、理性を形づくるが、「割くため」〔行伝20_7〕というのは、今度は理性に刻印しない。しかし、「「主」が高く上げられた王座に座しておられるのをわたしは見た」〔イザヤ6:1〕というのは、「わたしは「主」を見た」というのとは違って、理性に刻印する。そしてこれ〔「わたしは「主」を見た」〕は、理性に刻印するように思われはするものの、意味(semainon)は刻印しない。なぜなら、〔イザヤが〕預言者の眼をもって見たのは、ロゴス的自然 修行的〔生活〕によって高く上げられ、「神」の覚知を自分のうちに受けた だからである。というのは、「神」は、座しておられると言われているところ、そこにおいて認識されるからである。それゆえ、清浄な理性は、「神」の王座とも言われるのである。さらに、女 義を憎む魂の意である は不名誉の王座〔箴言11:16〕とも言われ、悪や無知は魂の不名誉〔と言われる〕。そういう次第で、「神」の表象は、理性に刻印する〔諸表象〕の中にはなく、理性に刻印しない諸表象の中に〔ある〕。だから、祈る人は、いかなる場合も、理性に刻印する〔諸表象〕から離れていなければならない所以である。いったい、あなたは探求するであろう、 諸々の身体やその表象についてかくのごとくであるように、無身体のものらやその言葉〔複数〕についても同様であり、理性が理性を見て刻印される仕方と、その〔理性の〕ことばを見て処理される仕方とが別々であるとするなら。ここからして、わたしたちは悟るのである、 いかにして霊的な覚知がそれ〔=理性〕に刻印する諸表象から理性を分離し、刻印されざるものとしてこれ〔=理性〕を「神」の前に立たせるか。「神」の表象は刻印するものらの中にはないからである。なぜなら、「神」は身体ではなく、刻印しないものらの中にこそあるからである。さらに、理性に刻印しない諸々の観想のうち、あるものらは無身体のものらの実体(ousia)を表し(semainein)、あるものらはその〔無身体のものら〕の言葉〔複数〕を〔表す〕。そうして、諸々の身体に関して結果したように、無身体に関しても結果するというわけではない。なぜなら、身体に関しては、あるものは理性に刻印し、あるものらは刻印しなかった。しかしながらここ〔=無身体のものらに関して〕では、どちらの表象も理性に刻印しないからである。
79.1229."22t"
摘要25
貪食のダイモーンは、多くの事柄においてしばしば競い合うものの、刻印された節制を台無しにするほどの力がない場合、極端な苦行の欲求へと理性を投げこむ。その結果、ダニエールに関して起こったこと あの貧しい生活と種子〔ダニエル1:12, 16〕 までを真ん中に持ち出し、一部の他の隠遁者たち いつもあのように生活した人たち、あるいは〔生活〕し始めた人たち を想起させ、その人たちの模倣者となるよう強要する。その結果、程を超えた節制を追求し、身体がみずからの弱さゆえに助けにならないから、程よい〔節制〕までも得損ない、本当に、口では祝福し、心では呪詛する〔詩篇61:5〕ことになるようになる。これらの〔隠遁者〕たちが彼に聴従するのは義しくないとわたしは信じるし、パンやオリーブや水を断つのも〔義しく〕ないと〔わたしは信じる〕。なぜなら、この摂生が最美至極であるとして、それも、飽食が目的ではなく、日に一度だけ、兄弟たちが試みてきたものだからである。というのは、わたしは驚くことだろう、もしも、パンと水に飽食しながら、無心の花冠を戴くことができる人がいるとしたら。しかし、わたしが言う無心とは、活動における罪の解消(これこそが節制と言われているけれども)ではなく、精神における情念的想念を打倒するところの〔無心〕である。この〔無心〕こそ、隠れたイウゥダイオス人の霊的割礼と聖パウロスが名づけた〔ロマ2:29〕ものである。しかし、もしも、言われたことに落胆する人がいたら、選びの容器〔行伝9:15〕、つまり、飢えと渇きの中〔第2テモテ4:7〕、走路を走りつくした〔第2コリント11:27〕「使徒」を想起するがよい。ところが、真理の対戦相手、つまり怯懦のダイモーンも、このダイモーンを模倣し、極端な隠遁を抑制する人にそそのかし、イオーアンネース・バプティストスや、隠遁者たちの初穂であるアントーニオスの渇仰へと駆り立てる。その結果、永い時間と非人間的な隠遁とにもちこたえられなくて、恥をいだいて逃げだして、その場所を後にし、そのとき彼〔=ダイモーン〕の方は、自慢して云うことになるように、「あいつに勝った」〔詩篇12:5〕と。
79.1232."1t"
摘要26〔摘要68とほぼ同文〕
諸々の不浄な想念はといえば、増大するために諸々の質料を取りこみ、数多の事象といっしょに拡大する。というのも、精神において、諸々の大海を渡り、長途の旅をも、情念の大いなる熱によって、拒まないからである。他方、いかほどであれ浄化された〔諸想念〕は、それら〔不浄の想念〕よりもはるかに狭いものとなり、事象によっても、情念の弱さによって、拡大されることができない。ここからまた、自然に反してこそよりいっそう動き、知者ソロモーンのいうとおり、「しばらく外をさまよい」〔箴言7:12〕、違法の焼成煉瓦を作るために麦藁を集める〔出エジプト5:7-12〕。そうやって、羚羊が輪なわから〔救われる〕がごとく、また、小鳥が罠から〔救われる〕がごとく〔箴言6:5〕、救われるために。なぜなら、不浄な魂が浄化されることの方が、清浄であった後に今度は傷つけられた〔魂〕が、もう一度健全にと召されるよりは、容易だからである。悲しみのダイモーンが容認せず、祈りのときに、罪の影像をいつも瞳に差し出すからである。
79.1232."19t"
摘要27
ダイモーンたちは、一部の人たちが信じているのとは異なり、わたしたちの心を識らない。というのも、人間どもの理性を識っている方〔ヨブ7:20〕、その〔人間どもの〕心のみを造る方は〔詩篇32:15〕、ひとり人の心をご存知の神(kardiognostes)〔行伝1:24, 15:8〕のみだからである。そこで、〔ダイモーンは〕発話された言葉や、身体のしかじかの動きから、心のうちにある動きの多くを悟るのである。最近、わたしがはっきり明言したいと望んだことがあったが、聖なる祭司〔師父、アレクサンドレイアのマカリオス〕がわたしに差し止めた。そういったことを公表し、俗習の耳に入れる価値はない、と〔師父は〕謂うのである。いやしくも、〔聖書が〕謂うように、生理中のものと交わる者も、律法によれば、咎人になる〔レビ15:19-24〕からである。ただし、こういった割り符から、心のうちに隠されたものらを〔ダイモーンたちは〕察知し、それをわれわれに対する出撃基地とする、ということは別である。じっさい、悪言する者たちをわたしたちが非難することしばしばであった。彼らに対する愛情を持たないからである。だから、害心のダイモーンの手にも落ち、たちまちにして、彼らに対する邪悪なる想念をいだいたのである。それ以前にわたしたちが察知していたのとは違ってわたしたちに現れたからである。だからこそ、聖なる「霊」もわたしたちに美しく訴えているのである。「座して、あなたの兄弟に向かってそしり、あなたの母の息子に向かって汚名を着せる」〔詩篇50_20〕。そうして、害心の想念の扉を開き、祈りの最中に、あなたの敵がいつも顔を幻視させるので、理性を掻き乱し、これ〔=敵〕を神となす。というのは、理性が祈りながら完全に見つめているもの、それこそ「神」と告白する価値があるからである。しかし、わたしたちは逃げだそう、愛する人たちよ、誹謗という病気から。何びとをも悪く記憶することはけっしてすまい。隣人の記憶に眼を振り向けることもすまい。なぜなら、邪悪なるダイモーンたちはありとあらゆる恰好を詮索し、わたしたちに逆らうものを何ひとつ検査しないまま放置することはない。臥すことを〔放置〕せず、座することを〔放置〕せず、起つことを〔放置〕せず、語ることを〔放置〕せず、往くことを〔放置〕せず、見つめることを〔放置〕せず、あらゆることを詮索し、あらゆることを動かし、まる1日中、わたしたちに対して罠を仕掛ける。祈りの最中に、低い理性を誣告し、その〔理性の〕浄福な光を消すためである。聖なるパウロスもティトスに何と謂っているか、あなたはごらんになっていよう。「教えるにあたっては、腐敗しない、健全で、非の打ち所のない言葉を〔用いなさい〕。そうすれば、反対者は恥じ入り、わたしたちについて何らつまらぬことを言うことができない」〔テトス2:7-8〕。また浄福のダビデもこう言って祈っている。「人間どもの誣告からわたしを助けたまえ」〔詩篇118:134〕。人間どもをダイモーンとさえ名づけたのは、自然のロゴス性のゆえである。いや、そればかりか、「救主」も「福音書」の中で、わたしたちに悪の毒麦を蒔く敵を人間と云った〔マタイ13:25〕。この〔人間〕から、わたしたちのクリストスと「神」の恩寵によって、救われよう。永遠にわたる名誉と栄光は、このかたにふさわしい。アメーン。
40.1240.23
摘要60+?
不浄な〔ダイモーン〕の中には、読書する人たちの前にいつも坐って、その人たちの理性をかどわかそうと企てるものがいくつかある。〔このダイモーンたちは〕しばしば神的な「聖書」そのものさえ口実にして、諸々の邪悪なる想念に登録する。また、いつもとは違った欠伸を強要し、いつもとはまったく違ったきわめて深い眠りに陥らせるときもある。一部の兄弟たちの想像では、いわくいいがたい自然的反動によるという。しかしわたしはしばしばそのように観察した結果、わかった。〔ダイモーンたちは〕目蓋や頭全体に触れ、これ〔=頭〕をみずからの身体で冷やす。というのは、ダイモーンたちの身体はあまりに冷たく、氷に似かよっているからである。ここからまた、頭が、吸い玉によって〔引っぱられる〕ように、金切り声を上げながら引っぱられるのをわたしたちは感じる。〔ダイモーンたちが〕これをなす所以は、頭蓋骨の中に蓄積した熱を、自分たちの方に引き寄せ、しかる後に、湿気と冷たさによって目蓋が垂れ下がり、眼球の瞳に押し寄せるようにするためである。じっさい、さわってみると、氷のように目蓋が硬くなり、顔つき全体が死んだようになり、震えているのがわかることしばしばである。もちろん、自然な眠りは、身体を熱くするのが自然で、健康な人たちの顔つきを花とする。これは経験そのものからもわかるとおりである。ところが、自然に反した伸びた顔つきには、〔ダイモーンたちが〕欠伸をさせ、身体の内側に手を触れるのである。しかしながら、こんな目に遭いながら、今日までわたしはこれに気づかなかった。しかし、聖マカリオスがこれをわたしに話してくれていたのを聞いたことがある。そして、彼が証拠に挙げたのは、欠伸をする人たちが、いわくいいがたい古い伝承にしたがって、口を封じるということであった。ところで、これらすべてのことをわたしたちがこうむる所以は、わたしたちが素面で読書に集中せず、生きている「神」の聖なる語録をわたしたちは読んでいるのだということを思い返しもしないからである。
40.1241.1
摘要67
さて、ダイモーンたちには、後継者たちも生まれるからして、第1戦列の〔ダイモーン〕が戦闘で弱体化し、自分に親愛な情念を動かせることができなくなったときに、わたしたちはそれらの〔後継者たち〕を観察して、次のようであることを発見した。あるひとつの情念〔と結びついた〕諸想念が、久しい間に数少なくなって、わたしたちが不注意から機会を何ひとつ与えていないのに、その〔情念の〕沸騰(zesis)と動き(kinesis)が突然生起した場合、そのときわたしたちは知るのである 最初のダイモーンよりも難儀な〔ダイモーン〕がわたしたちを継承し、逃亡者の場所をこの〔ダイモーン〕が見張り、みずからの邪悪さで満たしなおしているということを。いや、それどころか、この〔ダイモーン〕は、わたしたちの魂を大いに理解し、通例と違って大いに激しく戦い、昨日や一昨日の想念もいっしょに失ってしまう。外からの機会は何ひとつ送りこまれていないのにである。それゆえ、理性がこれらを観たら、「主」のもとに避難させるがよい、救いの兜をかぶり、義の胸当てを身につけ、霊の戦刀を抜いて、長楯をかかげて〔エペソ6:14, 16,-17〕、涙を流しつつ、みずからの天仰ぎ見て言わせるがよい。「主よ」クリストスよ、「わたしの救いの力(dynamis)よ、わたしにあなたの耳を傾け、速やかにわたしを救出してください。わたしの援護者たる「神」になってください、わたしを救う庇護の場所となってください」〔詩篇31_3〕。とりわけ、断食と徹宵によって戦刀を研がせるがよい。なぜなら、まる7日間戦闘に疲弊し、「邪悪者」の火矢に撃たれ〔エペソ6:16〕、第7日後、かの〔ダイモーンは〕、自分が継承した〔ダイモーン〕に少しずつ似てきていることが知られるであろう。そして、その後は、まる1年間とどまって、傷つけるよりもはるかに多くの事柄で傷つけられ、ついには、この〔ダイモーン〕を継承する〔ダイモーン〕が到来する。すなわち、イオーブの話が〔本当なら〕、久しい間に、わたしたちは彼らによって倒され、わたしたちの家々は、不法のものらによって蹂躙される〔ヨブ12:5〕のである。
摘要68〔摘要26とほぼ同文〕
諸々の不浄な想念は、しばしば、増大するために諸々の質料を受け容れ、数多の事象といっしょに拡大する。というのも、精神において、諸々の大海を渡り、長途の旅を拒まないからである。情念の大いなる熱によって。しかし、いかほどであれ浄化された〔諸想念〕は、それら〔不浄の想念〕よりもはるかに狭いものとなり、数多の事象によっても拡大されることができない。情念の弱さによってである。ここからまた、自然に反してこそよりいっそう動き、知者ソロモーンのいうとおり、「しばらく外をさまよい」〔箴言7_12〕、違法の焼成煉瓦を作るために麦藁を集める、もはや籾殻を手に入れられないので〔出エジプト5_7-12〕。だから、油断することなく心を護らなければならない〔箴言4:23〕。羚羊が輪なわから〔救われる〕がごとく、また、小鳥が罠から〔救われる〕がごとく〔箴言6:5〕、救われるために。なぜなら、不浄な魂が浄化されることの方が、清浄であった後に今度は傷つけられた〔魂〕が、もう一度健全にと召されるよりは、容易だからである。悲しみのダイモーンが容認せず、眼の瞳でいつも踏みこんで、祈りのときに、罪の影像を差し出すのだからである。
摘要69〔18後半に同じ〕
ロゴス的自然はといえば、悪によって死をこうむるが、クリストスはこれを、あらゆるアイオーンたちの観想によって目覚めさせる。他方、このかた〔クリストス〕の父は、それ〔自然?〕の死んだ魂、つまりクリストスの死を、自身の覚知によって目覚めさせる。これこそが、パウロスによって言われている意味である。「わたしたちがクリストスとともに死んだなら、また彼とともに生きることを、わたしたちは信じる」〔ロマ6:8〕。
摘要70〔18末尾に同じ〕
理性が古き人を脱ぎ、恩寵による〔人〕を身にまとうとき〔コロサイ3_9-10〕、そのとき、自分の境涯(katastasis)をも、祈りの時に見るであろう、その〔境涯〕は、サファイアないし天の色に似かよっていて、これを「聖書」は「神」の場所とも名づけ、シナイ山上で長老たちによって見られたものである〔出エジプト24:9-11〕。
摘要71
理性は、「神」の場所を自分自身うちに見ることはできないであろう、事象におけるすべての〔表象〕よりも高くならないかぎりは。しかし、より高くなることもないだろう、諸々の表象によって、感覚的事象とこれ〔理性〕とをいっしょに結ぶ諸情念を脱がないかぎりは。そうして、諸々の情念は、これを諸徳によって〔理性は〕脱ぎ捨て、諸々の裸の想念は、これを霊的観想によって〔理性は脱ぎ捨てる〕。さらには、この〔観想〕をも〔脱ぎ捨てる〕のは、祈りのときに、「神」の場所を刻印するあのものの光が、彼〔理性〕に顕現するときである。
2005.02.19. 訳了。