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原始キリスト教世界

ケベースの絵馬
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[出典]

『神谷美恵子著作集2/人間をみつめて:付 ケベースの絵馬』(みすず書房、1980.12.22.)

[はじめに] 訳者(神谷美恵子)

 ストア哲学の「白鳥の歌」とツェラーがギリシャ哲学史の中で呼んでいるものがこの小品である。原語はギリシャ語であるが、十二の写本のどれも終わりの部分を欠いている。十七世紀にこの終末部分と思われるものがアラビア語からラテン語へと訳されているものの、不正確で信用がおけない。要するに尻切れとんぼの小さなたとえ話(アレゴリー)にすぎないのだが、その人生哲学には意外にきめ細かい観察や諷刺がこめられているので、ミルトンやパンヤンなど多くの人に賞讃され、欧米ではいまだに教科書などに使われている。
 著者のケベースとはだれか、について多くの論争が行われてきたが、結局ソークラテースの弟子であった人という見かたに落着いてきているようである。このケベースはソークラテースの死に立会っており、またプラトーンによれば、テーパイで教えていたが、のちにタレンツムへ行った、とされている。彼が医師であり、文章家でもあったことはたしかで、この小さな哲学的作品以外に医学的なものも書いたことが、ブリティッシュ・ミュージアムにあるパピルスを通してうかがわれる。
 「ケベースの絵馬」にみられる思想は主として善に関するストア理論であるが、犬儒学派、ピタゴラス学派の要素も混在している。ケベースの弟子と言われる人たちの中にピタゴラス学派に属する人がいたところをみると、これも不思議ではない。ただ、このたとえ話のかたちがソークラテースの「産婆術」に似た対話形式で述べられていることや、ここに語られている宗教的道徳的思想にプラトーンの影響がうかがわれることもたしかである。
 昭和二十四年に筆者がマルクス・アウレリウスの『自省録』を訳出したとき、この小品をも同じストアの系列に属するものとして訳し、ともに一冊の本として旧創元社から出版したが、その後同社が一時、姿を消したため、『自省録』だけが昭和三十一年に岩波文庫に収録され、ケベースのほうは聞に葬られていた。
 筆者が思想的にいちばん影響をうけたのはギリシャ思想であったことを思うにつけ、日本ではあまり知られていないこの小さな本の訳がふたたび『みすず』誌上で日の目を見ることができるのはありがたい。原本はかつて親しくギリシャ語作文を教えていただいた故アナ・ブリントン夫人から餞別として贈られたもので、ボストンのジン社版〔註1〕のものである。このこと以外にも同夫人には数々の恩を受けたが、それとあわせてここに深く感謝したい。なお「ギリシャへの恩返し」の文もこれから折々記してゆくつもりである。

文献
Cebetis Tabula, ed. Wolf 1560 Basle.
id. ed. Caselius 1594.
id. ed. Elichmann 1640 Leyden.
id. ed. Gronovius 1689 Amsterdam.
id. ed. J. Schweighaüser 1798 Leipzig.
id. ed. K. Praechter 1983 Leipzig (Teubner).
id. ed. van Wageningen 1903 Groningae.
id. ed. A. Coraes 1816 Paris.
id. ed. F. Gübner 1840 Paris.
id. ed. Jerram 1904 Oxford.
id. ed. R. Parsons 1904 Boston.
〔註1〕 ΚΕΒΗΤΟΣ ΠΙΝΑΞ Cebes' Tablet, ed. by Parsons, R., Ginn & Co., Boston, 1904.



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ケベースの絵馬(ピナックス)


 たまたま私どもがクロノスの神殿を散歩していた時のことでした。この神殿〔註2〕の中に種々さまざまの奉納物(ささげもの)〔註3〕がおびただしくあるのを眺めていたところ、お宮の前方に一枚、風変わりなやりかたで不思議なたとえ話が描かれている絵馬がありました。私どもにはその意味がわからず、いったい何の話なのかさえ見当もつかない始末でした。描写されているものは都市のようでもなければ兵営のようでもなく、一種の囲いであって、その中にはさらに二つの囲いが大きいのと小さいのと入っておりました。最初の囲いには門があり、それにむかって大ぜいの人の群が押しよせている様子で、囲いの内部には多数の女人の姿が見うけられました。この最初の囲いの門の入口には一人の老人が立っていて、中へ入って行く群衆にむかって何やら指図をしているようなしぐさをしておりました。

〔註2〕 クロノスは、時の神サトゥルヌスと同一視されていた。ある特定の神殿に祀られていたわけではない。人生のたとえ話をするにあたり、作者は厳密に「時」の限界を守り、それを越えて永遠の世界まで覗き込もうとはしない。そういう意味でかかる背景を選んだのであろう。
〔註3〕 解放とか勝利とか、なにか感謝すべきことのある場合、そのしるしに神殿に捧げた供物。

2
 このたとえ話の意味は何だろうと、私どもがだいぶ長い間お互いに議論しておりましたところ、そばに居合わせた老人がこう口をはさみました。
 「お見受け申すところ皆さんは外国(よそ)からおいでのお方のようだが、この絵について首をひねっておられるのも無理もないことです。この国の人でさえこのたとえ話の意味を知らぬ者が多いのですからな。この奉納物はこの都市の人のものではなく、以前ここへ来たことのある或る外国人からのものでしてね、その御仁はものの道理をわきまえた知恵の深い人で、言うことなすことピタゴラスやパルメニデース〔註4〕の精神にかなった一生を送ろうとする熱心な人でした。この神殿とこの絵馬とをクロノスの神様にささげたのはこういう人だったのですよ。」
 「ではあなたはその人と一面識おありになるんですか」と私はたずねました。
 「さよう、しかもずっとあの人に私淑していましてね、わしも若い頃のことだった。あの人はいろいろ重大な問題について論じていたが、このたとえ話のことを説明しているのも度々聞いたものです。」

〔註4〕 ピタゴラスは紀元前580年頃、パルメニデースは紀元前510年頃のギリシャの哲学者。ソークラテースは彼らの見解を自己の思想で補正し、敷衍して紹介した。プラトーンの『パルメニデース』にはパルメニデースとソークラテースとの間の議論が記されている。


 「おやそうですか」と私は申しました。「もし何か大事な用事でもおありでないなら、その説明とやらを私どもにお話しくださいませんか。私どもはこのたとえ話のわけをうかがいたくてうずうずしているのです。」
 「よろこんでお話しいたしましょう。だが皆さんにまず御承知おき願わなくてはならないことがある。それは、この説明がある危険を伴うということです。」
 「どんな危険ですか」と私は申しました。
 「わしの言うことをよく聞いて身につければあなた方は賢く幸せになる。さもなくばわからず屋で不幸せで気むずかしい無知な人間になり、惨めな一生を送ることになる。つまりこの説明はいわばスフィンクス〔註5〕が人間どもにたずねたという謎に似ているわけです。それが解ければ救われるが、解けない者はスフィンクス 自身の手で滅ぼされてしまう。この説明もちょうど同じようなわけで、『無思慮』は人間にとって一つのスフィンクスなのです。この絵は、人生において善とは何か、悪とは何か、また善でも悪でもないものは何か、ということを暗示している。そこでこれをわきまえない者は、『無思慮』自身の手で滅ぼされてしまう、それも、スフィンクスに食われて一思いに死んでしまうのとはちがい、一生の間じりじりとやられるのです。しかしこれをわきまえれば、反対に『無思慮』の方が滅びてしまい、その人自身は救われて終生祝福され幸せになる。だから、あなた方はよく気をつけて聞きちがえぬようにしなくてほなりません。」

〔註5〕 女の顔と獅子の体を持つ怪物で、テーバイを望む丘の上に座を占めており、そばを通る人々に次のような謎を尋ねた。「朝は四本足で歩き、昼は二本足で歩き、夜は三本足で歩くものほ何か。」その答えは「人間」であって、オイディプス王がそう答えると、スフィンクスは岩から身を投げてしまった。しかし、その結果はオイディプス王にとってもっと恐ろしいもので、それが、ソフォクレースの悲劇『オイディプス王』と『コロノスにおけるオイディプス』の題材となっている。


 「いやまったく、もし本当におおせのとおりだとすると、ますます好奇心をそそられるばかりです。」
 「わしの話に相違はないはずですよ。」
 「じゃ、すぐ話してきかせてください。私どもは聞きちがえたりしないように一所懸命聞いていますから。ことにその報いがそんなに大したものである以上はね。」
 そこで老人は一本の杖を振りかざして絵の方へ差し伸べ、次のように申しました。
 「この囲いが見えますか。」
 「ええ、見えます。」
 「まずあなた方の知らなければならないのは、ここが『人生』と呼ばれるところだということです。門の前に押し寄せている大ぜいの人の群は人生の中に入ろうとしている人々です。その中にぬきんでて立っていて、片手に一枚の紙を持ち、もう一方の手で何か人に見せているように見えるのは、「ダイモーン」〔註6〕という者で、『人生』の中に入るのにはどうしたらいいかを来る人々に言いきかせ、人生において救われたいならどの道を行ったらよいかを示してやっているのです。」

〔註6〕 ダイモーンあるいはダイモニオンは、ある特別の神を指すのではなく、漠然と神的なカを指す。この意味ではホメー口スの時代にすでに用いられた。後になってやや意味が変わって、人間を一生の間導く霊、神々と人間との問の、ある中間的な存在をいうようになった。ソークラテースが彼のうちなる霊を指してダイモニオンと呼んだのは周知のことである。ストア哲学では人間性の中の神的なものを指す。


 「いったいどの道を行けというのですか、そしてどんな風に?」と私は申しました。
 「門のそばに玉座のあるのが見えますかね、ちょうど群衆が入って行くところのむかい側です。その玉座の上には女が腰かけている。わざとらしい様子をして人を説き伏せるのが得意らしい。そして手には盃を持っている。見えますか。」
 「ええ、見えます。誰ですか、あれは」と私はたずねました。
 「『あざむき』と呼ばれ、あらゆる人間を欺く奴です。」
 「それからどうするんですか。」
 「人生に入って行く人々に自分の力を飲ませようとする。」
 「その飲物とは何でしょう。」
 「『誤謬』と『無知』。」
 「それからどうなるんですか。」
 「それを飲んでから人々は人生に入って行くわけなのです。」
 「一人残らずその『誤謬』を飲むんですか、それともそういうわけじゃないのですか。」


 「一人残らず飲むのです、しかしある者はよけい飲み、ある者はびかえめに飲む。そのほかにいろいろな姿をしている大ぜいの女たちが見えませんか。」
 「見えます。」
 「あの女たちは『意見』『欲望』『快楽』と呼ばれ、群衆が入って来るととびかかって抱きつき、連れて行ってしまうのです。」
 「どこへ連れて行くのです。」
 「ある者は救いの道へ、ある者は『あざむき』によって滅ぼされる道へ。」
 「いやはや大したことだ、おおせの飲物はまったくなんと恐ろしい代物(しろもの)でしょう。」
 「女たちはみんな最上のものへ、幸せな有利な人生へ導いてあげると約束するんです。そこである者は『あざむき』のところで飲んだ『無知』と『誤謬』のために人生における本当の道を見いだすことができず、あてどもなくふらつきまわる。先に入った連中があちこちへびきまわされているのが見えるでしょう、ちょ うどそんな具合なのです。」


 「ええ、見えます。それからあの女の人は誰ですか、盲のようで丸い石の上に立っているのは。」
 「あれは『運命』といってね、単に盲であるばかりでなく、気が狂っていて、おまけに聾(つんぼ)なんです。」
 「あの人の仕事は何でしょう。」
 「いたるところを歩きまわって、ある人からその所有物を奪い取って他の人にやってみたり、そうかと思うと、やったものをその人からそっくり取り戻して他の人に軽はずみに気まぐれにくれてやってみたりする。ですから、あの象徴(しるし)はあの女の性質をよく現わしているわけですよ。」
 「象徴とは。」
 「丸い石の上に立っていることですよ。」
 「それが何を意味するんですか。」
 「つまり、あの女からの贈物は安心なものでもなければ堅固なものでもないということです。彼女を信頼すると、とんだびどい失敗をするでしょう。」


 「あの女のまわりに立っているたくさんの人の群は何が欲しいんでしょうね。そしてあの人たちの名前は何というんですか。」
 「『向こう見ず』という連中で、あの女の投げ棄てるものを、めいめいわれがちに手に入れようとしているんですよ。」
 「どうしてあの人たちは同じ様子をしていないんでしょう。ある者はよろこんでいるようですし、ある者は手をだらりと下げて意気阻喪しているようですが。」
 「喜んだり笑ったりしているような者はあの女から何かもらった人たちで、そのためにあの女を『好運』と呼ぶ。ところが泣いているようなのは、最初あの女がくれてやったものをあとからまた奪い取られてしまった連中で、そのためにあの女のことを『悪運』と呼んでいるんです。」
 「あの女からもらうとそんなに喜び、取られるとそんなに嘆くとは、いったいあの女はあの人たちに何をやったのでしょう。」
 「それは多くの人間の眼には善いものに見えるものですよ。」
 「何ですか、それは。」
 「いうまでもなく、富とか名誉とか、身分とか子供、統治権、王国、その他これに類したもの全部です。」
 「そういうものがなぜ善いものでないのでしょうか。」〔註7〕
 「このことに関してはいずれまた話すことにして、ここではこのたとえ話について話を続けましょう。」
 「どうぞ。」

〔註7〕 この質問には第三十節以下になって初めて答えられる。


 「この門のそばを通り過ぎると、もっと上の方に、別の囲いがあって、その外にはふつう遊び女どもがするような化粧をした女たちがいるが、見えますか。」
 「おおせのとおりです。」
 「あの女たちは、一人は『無節制』、一人は『放縦』、一人は『食欲』、一人は『へつらい』と呼ばれる。」
 「なぜあそこに突っ立っているんでしょう。」
 「『運命』の女神から何かもらった者はいないかと見張っているのです。」
 「そしてどうするんです。」
 「そういう人間に女たちはとびかかり、抱きつき、お世辞を言い、自分たちといっしょに留まるようにすすめ、そうすれば楽しい、苦労のない生活、少しも難難のない生活を送ることができると言ってきかせる。もし誰かが女たちに説き伏せられて『奢侈』に入ると、その生活はある時までは愉快に思われる、つまりそ れがその人間をいい気持にするかぎりはね。ところがそのうちにそうではなくなる。というのは、我に返ると、ご馳走を食べたのは自分ではなくて、じつは自分の方がその生活の食いものにされたのだと気がつくのです。こういうわけで、運命の女神からもらったものをすべて使い尽くしてしまった暁には、あの女たちに 奴隷として仕えなくてはならない破目に陥り、どんなことをも忍び、恥ずべきことを行ない、女たちのためにあらゆる悪事をしなくてはならなくなる。たとえば盗むとか、神殿のものをかっぱらうとか、偽誓や裏切りや掠奪など、これに類したありとあらゆる行為です。そしてもう何もすることがなくなると、『懲罰』の 手に引き渡されてしまう。」

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 「それはどういう人物です。」
 「女たちの彼の上の方に、小さな戸のようなものと、狭くて暗いところが見えますか。」
 「ええ。」
 「また、みっともない汚ならしい恰好をして、ぼろを着ているような女たちも見えますか。」
 「ええ。」
 「あの中で、鞭を持っているのが『懲罰』、膝の間に頭を突っ込んでいるのが『苦悩』、自分の髪の毛をむしっているのが『悲しみ』というのです。」
 「それから、あのもうびとりの人、女たちのそばに立っているやせて裸の男は誰でしょう。またこの男といっしょに、彼に似て醜くやせた女がいますが、あれは誰でしょう。」
 「男の方は『悲嘆』といい、女の方は『落胆』といって男のきょうだいなんです。例の人たちはこういう連中の手に引き渡され、罰のため彼らとともに暮らさなくてはならない。そのあげく、今度は『不幸』という家にぶちこまれ、そこで、ありとあらゆる不幸せの中で余生を台無しにしてしまうのが関の山。もっとも、『悔い改め』がみずからすすんで会いに来れば話は別ですがね。」

[画像出典]
Quentin Varin "The Tabula of Cebes"
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