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「もし『悔い改め』に出会えばどういうことになるんですか。」
「『悔い改め』はその人を災難から救い出し、前にいったのとはまた別の『意見』と『あこがれ』にひきあわせる。この『あこがれ』は、『真の教養』へ導いて行くが、同時にまた『偽の教養』と呼ばれるものへ導くこともある。」
「それからどうなるんでしょう。」
「もし『真の教養』に導く『意見』を受け入れれば、それにょって清められ救われ、人生において祝福され幸せになる。さもなくば、また『偽の教養』に欺かれてしまう。」
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「おやおや、これはまたたいへんな危険ですね。その『偽の教養』とは何ですか。」
「もう一つあの囲いが見えませんか。」
「見えます。」
「その囲いの外の入口のそばに、身なりのひどく小ざっばりとした、きちんとした女が立っているのが見えますか。」
「ええ、見えます。」
「思慮の足りない多くの人間はあの女を『教養』と呼んでいるが、しかしそうではない。あれは『偽の教養』なのです。救われた人たちが『真の教養』へ行こうとすると、まずあそこへ行ってしまうんですよ。」
「とすると、『真の教養』へ通じる別の道がないんでしょうか。」
「そう、ないのです。」
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「囲いの中で右往左往している人たちは誰でしょう。」
「あれは『偽の教養』の情人たちで、勘違いして、『真の教養』と関係しているつもりになっている。」
「あの人たちの名前は何というのですか。」
「ある者は『詩人』、ある者は『修辞学者(レートレス)』、『論証法学者(ディアレクティコイ)』、『音楽家』、『数学者』、『幾何学者』、『天文学者』、〔『快楽主義者(ヘードニコイ)』、『逍遙学派哲学者(ペリパテーテイコイ)』、『批評家(クリティコイ)』〕、および、これに類した者全部。」
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「それから、どうやら走りまわっているらしく見えるあの女たち 『無節制』もその仲間だとおっしゃる前の女たちに似ていますね といっしょにいる他の女たちは誰でしょう。」
「同じ仲間ですよ。」
「あの女たちもやっばりあそこへ入って行くのですか。」
「ええ、やはりあそこにね。しかし*たま*にですよ。しかも最初の囲いに入ったのとはわけがちがいます。」
「『意見』たちも入りますか」と私は尋ねました。
「さよう、この連中は『あざむき』のところで飲んだ酒の効目(ききめ)がまだ残っていて、依然無知であり無思慮なんです。『偽の教養』に*みきり*をつけて真の道へ入り、潔めのカのある飲物を飲まぬかぎり、彼らの了見やその他の惑いことから解放されない。しかし、ひとたび潔められ、身に持っているあらゆる悪や、意見や無知やその他の悪いことをことごとく投げ棄てれば、その時に初めてこのように救われる。これに反し、ここで『偽の教養』のもとに頑張っているかぎり、けっして解放されることはできず、これらの学問ゆえにいっさいの悪が身を離れないでしょう。」
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「『真の教養』へ行く道はどれでしょう。」
「あそこの上の方の、誰も住まないさびれた様子のところが見えますか。」
「見えます。」
「それからまた、小さな戸があって、その戸の前にあまり踏まれもしない道のあるのが見えますか。道も通わぬ荒野で、ごつごつした岩だらけのところのように見えるので、この道を行く人はきわめて少ないんですよ。」
「なるほど。」
「それからまた、高そうな丘が見えますかね。その丘にはえらく細い登り道がついており、あちこちに深い崖がある。」
「見えます。」
「あれが『真の教養』へ行く道なんですよ。」
「見るからにたいへんそうですね。」
「また丘の上に大きい高い岩があって、そのぐるりがずっと険しいのが見えますか。」
「ええ、見えます」と私は申しました。
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「そしてその岩の上には二人の女が立っているでしょう。輝くばかりに健康な身体(からだ)で、熱心に手を差し伸べている。」
「そうですね。あの女たちは何という名前ですか。」
「一人は『自制』で、もう一人は『忍耐』。二人は姉妹なのです。」
「どういうわけであのように熱心に手を差し伸べているんですか。」
「あそこにやって来た人たちに、元気を出すよう、ひるまぬよう、励ましてやっているんですよ。もうしばらくの辛抱でよい道に連れて行ってあげる、といってね。」
「しかしあの岩へたどり着いたところで、どうやって登るんでしょう。頂上へ行く道なんて一つも見えないではありませんか。」
「あの女たちが崖からあの人たちのところまで降りて来て、自分たちのところへ引っ張り上げてやるんですよ。それからしばらく休ませ、間もなく『力』と『勇気』を与えてやり、『真の教養』のもとへ連れて行く約束をしてその途を見せてやります。御覧のとおり、その途は美しく、平坦で、歩きやすく、いかなる悪にも汚されぬ潔いものです。それを見せてやるんですね。」
「なるほど。」
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「それから、この林の前に気持よさそうなところがあるのが見えますか。多くの光に照らされた牧場のように見えるところです。」
「ええ。」
「その牧場の真ん中にもう一つ囲いがあって、もう一つ戸があるのに気づきましたか。」
「そのとおりですね。しかし、あそこは何というところなのでしょう。」
「あれは幸福な人々の住居(すまい)なのです。あそこにあらゆる『徳』と『幸福』とが住んでいます。」
「ああそうですか、何といいところなんでしょう」と私は申しました。
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「そこで今度はこういうのが見えますか。戸のそばに一人の女の人がいる。その人は気高く威厳のある顔つきをしており、もう中年の分別盛りで、簡素な粧いをしている。この女の人は丸い石の上には立たず、四角い、しつかりとした、坐りのいい石の上に立っています。そして、そばには、ほかに、どうやらその娘た ちらしい二人の女がいますね。」
「たしかにおおせのとおりです。」 「あの真ん中にいるのが『教養』で、あちらが『真理』、こちらが『説得』なのです。」
「どうしてあの女の人は四角な石の上に立っているのですか。」
「あれは一つの象徴(しるし)なんですよ。つまり、ここへたどり着く人々に対して、あの人のところへ行く遥は安全で堅固なものだということを知らせ、またあの人の与えるものはこれをもらう人々にとって確かな賜だということを示す象徴(しるし)なんです。」
「あの人が与える賜とはどんなものなのでしょう。」
「『勇気』と『大胆』ですよ」と彼は申しました。
「それはどういうものなのですか。」
「つまり、人生においてもうけっして恐ろしい目に会うことはない、という確信です。」
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「いやまったくすばらしい賜ですね。しかし、なぜあの女の人はああいう風に囲いの外に立っているんでしょう。」
「ここへ着く人たちを介抱し、潔めのカのある飲物を飲ませてやるためなんです。そうしてその人たちが潔められると、ああして『徳』たちのところへ連れて行くわけです。」
「どういう風にですか、それは」と私は申しました。「私にはよくわかりませんが。」
「いまにわかりますよ。もしある人がたまたま体の具合がたいへん悪くなったとすると、その人はきっと医者のところへ行って、まず下剤で病気の原因を外へ出してしまうでしょう。それから医者は彼を快復と健康へ連れ戻すでしょう。しかし、もしその人が医者の命じるところに従わないならば、当然見放されて、き っと病気のために滅ぼされてしまうでしょうな。」
「それはわかります」と私は申しました。
「それと同じょうに、ある人が『教養』のところへ着くと、彼女はその人を介抱し、霊験あらたかな彼女の飲物をのませ、そのことによって、その人が来たとき持っていた悪いものをことごとくまず外へ出して潔めてしまうのです。」
「その悪いものとは何ですか。」
「『あざむき』のところで飲んだ無知と誤謬や、また最初の囲いの中でつめこまれた自負、欲望、無節制、怒り、吝嗇、その他一切合財。」
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「潔められたら、あの女の人にどこへやられるんでしょう。」
「内部(なか)ですよ。『知識』やその他の『徳』たちのところです。」
「その『徳』たちとは何ですか。」
「門の中に一群の女のいるのが見えませんか。美しくきちんとしたみなりだが、実に質素で飾り気のない衣をまとうている。またその様子の自然なこと、少しも他の女たちのように顔を塗り立てたりしていません。」
「ええ、見えます。あの人たちは何というのですか。」
「最初のが『知識』といい、他の女たちほその姉妹で、『雄々しさ』、『正義』、『誠実』、『思慮』、『秩序』、『自由』、『克己』、『優しさ』という。」
「おお、なんと大きな希望が私どもには与えられていることでしょう」と私は申しました。
「ただし、あなた方がよく理解して、聞いたことをそのまま身につけ、習慣にしてしまわなくては駄目ですよ。」
「できるかぎり努力するつもりです。」
「それならあなた方は救われるでしょう。」
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