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原始キリスト教世界

ギリシア人への勧告(1/ 2)



[略伝]
アレクサンドレイアのクレーメーンス
 本名:ティトス・プラーウーイオス・クレーメース(羅 Titus Flavius Clemens)後150頃-215頃)。
 アテーナイ出身と思われるアレクサンドレイア教父。哲学ほかのギリシア古典教育を受けた後、キリスト教に転向し(170頃)、各地を遍歴。アレクサンドレイアのパンタイノス Pantainos(?-194以後。シケリアー出身。アレクサンドレイア教理学校の創始者)に学び、師を継いで同地の教理学校の長となる(190頃)。セプティミウス・セウェールス帝の迫害時(202)、エジプトを逃れアンティオケイアやカッパドキアーに避難した。ギリシア古典に精通し、グノーシス派の影響も受けつつ、哲学とキリスト教を結びつけた独特の神学を樹立しようと試みた。当代を代表するキリスト教著述家で、オーリゲネースの師。
主著:『ギリシア人への勧告(Protreptikos)』(190頃)
   『教導者(Paidagôgos)』3巻(190-195頃)
   『雑録(Strômateis)』8巻(200-202頃)
などが伝存する。
     (松原國師『西洋古典学事典』)

 わたしがクレーメンスに注目したのは、キリスト教に対する関心からではない。
 ギリシア神話のセイレーンは本來、鳥の形をしていたのだが、何時しか人魚に変わっていった。ちょうどその変わり目に、どうやら、ギリシア語教父たちがいるらしいのである。とくにクレーメーンスは、セイレーンの変容に関して重要な役割を果たしたらしいのである(第12章に注目!)。

 邦訳は、
秋山学「アレクサンドリアのクレメンス『プロトレプティコス』(『ギリシア人への勧告』)--全訳」(筑波大学文藝・言語学系 『文藝言語研究. 文藝篇』巻57、2010.03.31)
があるが、こんな邦訳では秋山学の名が泣こう。

[底本]
TLG 0555
CLEMENS ALEXANDRINUS
Protrepticus
Phil., Theol.
001
C. Mondésert, Clément d'Alexandrie. Le protreptique, 2nd edn. [Sources chrétiennes 2. Paris: Éditions du Cerf, 1949]: 52-193.



t1

(1.) クレーメーントの雑録のうち
ヘッラス人たちへの勧告

[Ⅰ.異教の神秘を刷新する新しい歌]

1.1.
(1.) テーバイ人アムピオーンとメーテュムナ人アリオーンは「二人とも歌人であり、どちらも神話〔上の〕人物で」(その歌は今もヘッラス人たちの合唱舞踏隊によって歌われている)、音楽の術知により、前者は魚を誘惑し、後者はテーバイを市壁で囲んだという。さらに他にトラーキアの知恵者〔オルペウス〕は(これは他のヘッラスの神話であるが)歌だけで獣をてなづけ、さらには木々やオーク樹までも、音楽で移植したという。
(2.) 他にもこれらと兄弟の神話や歌を、あなたに話すことができる、ロクロス人エウノモスとピュティア祭の蝉たちをである。〔つまり〕死んだドラコーンのためにヘッラスの全祭がピュートーで挙行され、この爬虫類の挽歌をエウノモスが歌ったときのことである。その歌が蛇の讃歌であったか悲歌であったか、わたしは言いかねる。とにかく競演があり、暑熱の刻にエウノモスが弾琴した、時あたかも蝉たちが太陽に熱せられながら山上の葉陰で歌っていた。もちろん彼らは、死んだドラコーンつまりピュートーの〔ドラコーン〕のためではなく、全知の神のために好き勝手な、エウノモスの調べよりもすぐれた歌を歌っていたのである。そのロクロス人の弦が切れた。蝉が事柱の上に飛来した。枝の上でのようにその楽器の上で合奏した。そうしてこの歌人は、蝉の歌に調子を合わせて、足りない弦を充足させたのである。
(3.) だから、当の竪琴によって、エウノモスと、このロクロス人の共演者との銅像を建てたのは、神話が望んでいるのとは異なり、エウノモスの歌に蝉が合わせたのではない。つまり、〔蝉は〕勝手に飛来し、勝手に歌ったのだ。しかしヘッラス人たちには、〔蝉が〕音楽の主役になったように思われたのである。

1.2.
(1.) ところが、あなたがたは生き物が音楽に歓喜するなどと解して、虚しい神話を信じてきたのは、いったいどうしてなのか? あなたがたにとっては、真理の顔とは、どうやら、輝かしい虚構にすぎないと思われ、不信の眼にさらされてきたらしい。キタイローンやヘリコーンや、オドリュサイの山々やトラケーの〔山々〕こそが崇拝されている。
(2.) わたしとしては、たとえ神話であろうと、悲劇に採り入れられるこれほどの災悪に心を傷める。しかるにあなたがたにとっては、諸悪の記録さえ演劇となり、演劇の役者たちは歓喜の見物(みもの)になるのである。もちろん、演劇の作詩家やレーナイア祭を祝う作詩者たちは、すでに入信して泥酔しているのであるが、バッコス入神式という場所柄もわきまえぬ連中を、当のサテュロスたちや気違いじみたティアソスに、他のダイモーンたちの合唱舞踏隊ともども、これをきっと蔦で戴冠するのであるが、年老いたヘリコーンとキタイローンには扉を閉ざし、上方の天から真理を、神の聖なる山と預言者の聖なる合唱舞踏隊に引き下ろそう。
(3.) この〔真理〕をして、できるかぎり遠く耀く光を磨き、闇の中にのたうち迷妄の中にある人間どもをどこでも照らさしめ、至高の右手を広げて、意識を救いへと解放せしめよ。この者たちは、ヘリコーンを拒んで者たちは、キタイローンをも後にするが、シオーンに住む。「立法はシオーンから出、主の言葉はヒエルゥサレームから出るからである」〔Isa. ii. 3〕、この言葉は天上のものであり、全宇宙の劇場において真正な闘技者として花冠を戴く。
(4.) げに、わがエウノモスが歌うのは、テルパンドロスの旋律ではなく、ケーピオーンのそれでもなく、ましてプリュギア調とかリュディア調とかドーリス調でもなく、新しい調べの永遠の旋律、神の名をになうもの、新しい歌、レヴィ〔記〕の〔歌〕「悲しみを消し怒りを消し、あらゆる苦悩を忘れさせる」〔Odyss. iv. 221〕、説得のとても甘く真なる妙薬がこの歌に混合されている。

1.3.
(1.) さて、わたしに思われるところでは、あの卜ラーキア人、テーバイ人でもありメーテュムナー人でもあるオルペウスは、ひとにあらざるひとのようなもの、詐欺師であり、音楽の装いによって生を損ない、一種熟練した魔術でダイモーンに憑かれて破滅した、〔つまり〕高慢を狂宴で崇め、悲痛を神格化し、人間どもを偶像へと手引きした最初の人々であり、とりわけ石や樹木によって、すなわち、立像や肖像によって、習慣の愚昧をうち立てた〔最初の人々であり〕、天が下に行住坐臥する者たちの真に美しいあの自由を、歌と呪文によって隷属のきわみと同じ軛に繋いだ者たちである 。
(2.) しかるに、わが歌人はそういう者ではなく、僭主支配するダイモーンたちの苦き隷従を解き放つべく遠からず到来し、軛を敬神の柔和で人間愛にみちたものに変えて、地に投げ棄てられていたわれわれを再び諸天へと救い上げるのである。

1.4.
(1.) とにかく、彼〔わが歌人〕のみは、かつて在ったものらの中で最も扱いにくい獣つまり人間どもを飼い馴らした、つまり、軽いものらは鳥類として、騙すものらは爬虫類として、気性的なものらはライオンとして、快楽的なものらは豚として、略奪的なものらは狼として。さらに、無思慮な者たちは石や樹木である。かてて加えて、石よりも無感覚な人間は、無知の洗礼を受けた。
(2.) われわれのために預言者の声をして提示せしめよ。〔これこそ〕真理の反響、無知と蒙昧に打ちひしがれた者たちを嘆く〔声〕。『神はこれらの石からでも、 アブラアームのために子を生ぜしめることがおできになるのだ』〔Matt. iii. 9〕。彼は、数多の無学と、真理に対して石化した者たちの頑なな心とを憐れんで、石に信を置く族民たちの敬神を、徳を感知する種子として、当の石から目覚めさせた方である。
(3.) 逆に、一種有毒で信頼できない者たちを、正義を探る偽善者として、たしか『蝮の子ら』〔Matt., iii. 7〕と呼んだ。しかし、たとえそういった蛇族の一員であっても、自発的に悔い改めれば、御言葉に従えば、「神の人」〔1Tim. vi. 11〕となる。逆に、他の羊の毛皮をまとった連中の方が「狼」〔Matt., vii. 15〕に譬えられる、人間の姿をした略奪的な連中を暗示するためである。そういうわけで、これら野蛮このうえない獣たちや、こういう石たちを、おとなしい人間どもへと変容させたものこそ、この天上的な歌だったのである。
(4.) 例えば、『われわれ自身もまたかつては無分別で、不従順であり、惑わされており、さまざまな欲望と快楽の奴隷であり、悪と妬みをもってすごし、嫌われ者で、互いに憎みあっていた』〔ティトス3:3〕と、使徒の書は謂っている。『しかしそのとき、われわれの救済者たる神の有用性と人間愛とが現れた、われわれが為した義における行為からではなく、その慈悲に応じて、われわれを救いたもうたのである』〔Tit., iii. 4-5〕。見よ、新しき歌が、どれほどの力を有するかを。それは人間どもを石から、人間どもを獣から創造した。しかるに彼ら〔人間ども〕は無為に死人として、真なる生命に与ることなき者として、この歌の単なる聴き手となって、生きながらえたのであった。

1.5.
(1.) もちろん、〔新しい歌は〕この全体をも調和的に飾り、諸要素の不協和を協和の秩序に調弦した、それは、宇宙全体がそれにとって調和となるためである。つまり、海には漲るがままにさせたが、しかし大地にはそれが溢れ出ることを妨げ、その代わり大地には、浮動する〔海〕を固定し、これ〔陸〕を海の境界とさせた。とりわけ、火の衝動をも大気で和らげた、あたかも、ドーリア調をリュディア調に混合するように。また、大気の粗野な冷たさにを、火を織交ぜによって培った、これら総体の高音の響きを、調和的に混成して。
(2.) この混じりけのない歌こそは、総体の支柱にして調和であり、中央から果てまでと、天頂から中央までとに伸びており、この全体を調和させている、トラーキア音楽、ほとんど近いユバル〔音楽〕によってではなく、ダビドが渇望した神の父祖伝来の意思によって。
(3.) しかるにダヴィドに由来し、彼以前からも在る神の言葉は、リュラやキタラといった無魂の楽器を軽蔑し、この宇宙、とりわけ小宇宙である人間、つまりその霊魂と身体を、聖霊に調和させ、多声の楽器でもって神のために爪弾き、楽器という人間に唱和する。『あなたはキタラ、アウロス、わが神殿』だからである。キタラは調和により、アウロスは息〔=霊〕により、神殿はロゴスによって、ひとつ〔キタラ〕は弾じ、2つ〔アウロス〕は息を吹きこみ、3つ〔神殿〕は主を受け容れる。
(4.) しかり、王ダヴィドこそがキタラ弾きであり、われわれが少し前に言及したところであるが、真理へと駆りたて、偶像を排斥し、真の音楽によって自分の傍から追い払われたダイモーンたちを自分が讃美するなどとんでもないことで、サウゥルが〔ダイモーンに〕そそのかされたとき、件の者〔ダヴィド〕が歌うことによっ てのみ、彼を救うことができたごとくである。主は、美しい楽器に息を吹き入れて、おのれの似像に倣って人間を仕上げられた。もちろん御自身も、神の、すべてに調和する、調和的で聖なる楽器であり、超宇宙的な知恵であり、天上的なロゴスなのである。

1.6.
(1.) では、この楽器、神の御言葉、主、新しき歌とは、いったい何を意味しているのか。それは盲人の眼を披き、聾唖者の耳を開き、脚を引きずる者たちや正義に惑っている者たちを手引きし、愚かな人間どもに神を示し、破滅を止めさせ、死に打ち勝ち、聴従しない息子たちを父と和解させること〔を意味する〕。
(2.) 人間愛こそが神の楽器である。主は憐れみ、教育し、勧告し、立法し、救い、守り、われわれにとっての学びの報酬のおびただしさのなかから諸天の王国を、つまり、われわれが救われることだけを、享受するわれわれのものであることを告知された。というのは、なぜなら悪は人間どもの破滅を養うが、真理は、蜜蜂のごとく、有るものらを何ひとつ害することなく、人間どもの救いのみを喜ぶからである。
(3.) だから、あなたが有するのは告知、あなたが有するのは人間愛である。この恩寵に与るがよい。しかし、わたしの救いの歌を、あたかも用具のように、あるいは、あたかも家のように、新しいものと考えないでいただきたい。なぜなら、『明けの明星よりも先に』〔Ps. cix. 3〕あったのであり、『初めにロゴスがあった、ロゴスは神とともにあった、ロゴスは神であった』〔John i. 1〕からである。
(4.) 誤謬が現れたのは古く、真理〔が現れたの〕は新しい。だから、古のプリュギア人たちを教えたのが、神話上の山羊たちであれ〔ヘーロドトス2:2〕、また、詩人たちがアルカディア人たちを「月よりも古い人たち」と記録したにしろ、はたまたエ ジプト人たちを〔そうして〕、この土地こそ最初に現れ、神々と人間どもがそこに生まれたのだと夢想するにしろ。しかしながら、これらの〔族民の〕どれひとつとして、少なくともこの世界よりも前にあったものはないが、この世界の初め(katabolhv)よりも先にあったのはわれわれ、その〔世界の〕内にあらねばならない神によって先に生み出され、われわれが古いとみなす神のロゴス—『初めにロゴスがあった』— というロゴスによる被造物(ta; logika; plavsmata)たるわれわれ、である。
(5.) 少なくとも、このロゴスは上より来たるものであり、万物の神的な初源でかつてあり、今もあること、そして、昔捧げられた、力にあたいする名を今採っていること、つまり、クリストスこそが、新しき歌とわたしに呼ばれているのである。

1.7.
(1.) 実際、このロゴスつまりクリストスこそが、古来われわれが在ったことの(なぜなら〔ロゴスは〕神の内に在ったのだから)、しかも善く在ることの(まさしく今は人間どもに現れた)原因 — このロゴスそのものが、これ〔ロゴス〕のみが両者つまり神にして人であり、われわれにとってあらゆる善きものらの原因者である。これのもとで善く生きることを教えこまれて、われわれは永遠の生へと付き添われる。
(2.) というのは、主のあの神々しき使徒によれば、「神の救済的な恩寵は、すべての人間どもに顕され、われわれを教育し、不信心と世俗的な欲望を否定して、慎み深く義しく敬虔に今の代を生きられるように、また浄福なる希望と、大いなる神と、われらの救済者イエースゥス・クリストスの栄光の顕現を受け入れられるようにしてくれるのである」〔Tit., ii. 11-13〕。
(3.) これこそが新しき歌、今われわれの内に耀き出た顕現、初めに在り先在するロゴスの〔顕現〕なのである。たった今顕現したのは先在する救済者、在りて在る者が顕現した、「ロゴスは神とともにあり」、ロゴスは、それによって万物が創造されるところの教師として顕現したからである。そうして、創造者として塑造するとともに生きることを提示しつつ、顕現しての後には善く生きることを教師として教えたのは、やがて永遠に生きることを神として供給するためであった。
(4.) これは、少なくとも今初めてわれわれの迷妄を憐れんだのではなく、初めから上から、今はもう破滅している者たちを、顕現して、救済するものであった。というのは、邪悪な、爬虫類の、魅惑する獣が、今もなお人間どもを、隷従させ、いたぶっているのである、わたしに思われるところでは野蛮人のように(彼らは捕虜たちを死人の身体と、それがすっかり腐敗するまで、結びつけるといわれている)罰して。
(5.) とにかく、この邪悪な僭主にしてドラコーンは、誕生の時から我がものとすることのできた者たちを、石や木や聖像や何かそういった偶像に、迷信の惨めな縛によって緊縛して、それこそ文字どおり、生きている当人たちを安置して、ともに朽ち果てるまでともに埋葬したのである。
(6.) そうであるからこそ(なぜなら、欺瞞者は上では一人、〔騙した相手は〕エゥアであったが、今ではもうその他の人間どもをも死へと下落させているから)、この方も主として一人、われわれにとっての援助者、助け主として、上では預言的に予告されていたが、今ではすでに実にはっきりと救いへと呼びかけているのである。

1.8.
(1.) されば、使徒の告知に聴従して、「宙空の権力の、すなわち不服従の子らにおいて今でも働いている霊の、支配者」〔Eph. ii. 2〕から逃れよう、そして主たる救い主のもとに馳せ参じよう、アイギュプトスにおいては怪奇や徴を過し、砂漠にあっては柴を通し、人間愛という恩寵によって女僕のようにヘブライ人に仕える雲を通して、今もいつも救いへと勧告した方のもとに。
(2.) まさにこの畏れによってこそ、心頑なな者どもに勧告された。さらに、全知のモーセスや、真理を愛するヘーサイアースならびにすべての預言者たちの群れを通しても、耳を持つ者たちにをば、より思量的なロゴスへと向かわせたのである。悪罵することあり、脅迫さえすることあり。人間どものある者たちに対しては嘆き悲しみ、別の者たちには歌いかけ、あたかも、善き医者が病める人々の身体の、一部は漆喰で固め、一部はすりつぶし、一部には注ぎかけ、一部は手術刀で切りはなし、別の部分は焼灼し、鋸で切ることさえある。部分や部位がどうあろうと、その人が健康でありうるためである。
(3.) げに救い主は人間の救いに関して多声であり多様である。 脅迫しつつ立法し、罵倒しつつ回心させ、嘆きつつ憐れみ、弾じつつ呼びかけ、柴を通して語りかけたり(あの者たちは徴と怪異を必要としたのだ)、火によって人間どもを威嚇したり、柱に火を点けたが、〔これらは〕恩寵とともに恐れの徴である。聴従するなら光、聞き従わぬなら火である。しかし、柱よりも柴よりも、肉のほうが高貴であるので、その後預言者たちは発声する、ヘーサイアースのうちに主御自身が語り、エーリヤに御自身が、預言者たちの口に御自身が〔おられた〕のである。
(4.) しかしながら、もしあなたが預言者を信じず、人間どもも火も神話だと解するならば、主ご自身が語っておられる。「彼は、神の形をしていたが、神と等しくあることを獲得物とはみなさなかった。自らを虚しくなさった」〔Phil., ii. 6-7〕。神は慈悲を愛し、する方が人間を救うことに執着なさる方である。そして、このロゴスそのものがすでにはっきりとあなたに語りかけ、恥じ入らせる、しかり、わたしは謂う、ロゴスが神の人となったのは、いったいいかにして火とが神となるのかを、あなたもまた人間から学び知るためにほかならないのである。

1.9.
(1.) あるいは、奇妙なことではないか、おお、友どちよ、神がわれわれを徳へと常に仕向けるのに、われわれときたらその益を避け、救いを後回しにするというのは? それとも、いったい、イオーアンネースも救いへと仕向け、全体が勧告的な声となっているのではないか? されば彼に聴従しよう。「あなたは一体どういう方で、どこからお出でか?」〔Odyss. xix. 105〕。〔その方は〕エーリアースだとは告げないが、クリストスであることは否認されるだろう。だが、荒野に叫ぶ声であることは同意されるであろう。それでは、イオーアンネースとは何者か? 予型を用いて解釈すれば、荒野に叫ぶ声とは、ロゴスの勧告的な〔声〕だと言明できしめよ。あなたは何を叫ぶのか、おお、声よ? 「わたしたちにも云ってください」〔Odyss. i. 10〕。「主の道をまっすぐにせよ」〔Isa. xl. 3〕。
(2.) 〔これこそが〕先駆者イオーアンネースと、そのロゴスの先駆的な声、勧告の声、救いへと先駈けて用意し、諸天の世継ぎへと仕向ける声である。この〔声〕によって、石女と荒野はもはや子なきものではない。この懐妊をわたしに予告したのが、天使の声である。これもまた主の先駈けとなり、イオーアンネースが荒野そうしたように、不妊の女への福音となったのである。
(3.) されば、ロゴスのこの声によって、石女が子宝にめぐまれ、荒野が実りをもたらした。主の先駈けをなす2つの声、天使のそれとイオーアンネースのそれとは、わたしにとって内に備えられた救いを暗示する、この言葉が顕現したとき、われわれは子宝という果実、つまり、永遠の生命をもたらされるのである。
(4.) とにかく、この声の両方が、同じところに導くことは、〔聖〕書がすべてはっきしさせている。「子を産まなかった女をして聞かしめよ。陣痛を経験しなかった女をして、声を放たしめよ、独り身の女の子どもは、夫を持った女よりも、多い、と」〔Isa. liv. 1〕。われわれに福音を伝えられたのは天使、われわれを仕向けたのはイオーアンネース、農夫を想い、夫を求めるように、と。
(5.) というのは、一人の同じ人物だったのである、この、石女から産まれた男、荒野の農夫〔イオーアンネース〕、神的な力で石女をも荒野をも満たした人物は。
 というのは、生まれの良い女の子どもは数が多く、本來であるヘブライの女が子なしになったのは、不従順のせいであっのに、その石女が男を得、荒野が農夫を〔得た〕。そのうえ、後者は果実を得、前者は信仰を得て、両者ともにロゴスによって母となった。今に至るもなお、不信心な者たちには、不妊も荒野も存続しているのである。

1.10.
(1.) 片やイオーアンネースは、ロゴスの布令役は、何かそのような仕方で〔ひとびとが〕備えある者たちとなるよう、神たるクリストの臨在へと呼びかけたが、これこそザカリアスの沈黙が暗示していることであって、クリストスの先駈けたる果実を待ち望んでいたのである、真理の光つまりロゴスが、福音となるために、預言者の謎から神秘的な沈黙を解放するようにと。
(2.) 片やあなたの方は、真に神を見たいと渇望するのであれば、神に相応しい — 月桂樹の葉や、羊毛や紫に綾取られたリボンのようなものではなく — の浄めに与るがよい、正義を結び、節制の葉を身にまとって、クリストスを詮索するがよい。「なぜなら、わたしは門であるから」〔John x. 9〕とたしか謂っている。神を想うことを望む者たちは、この〔門〕を学び尽くすべきである、諸天の門をまとめて開扉してくださるためである。
(3.) なぜなら、ロゴスの門は思量的であり、信仰の鍵によって開かれるからである。「何びとも神を認識する者はいない、御子と、御子が啓示しようとした相手以外には」〔Matt. xi. 27〕。だが、わたしは知っている、門とは、これを開けた人者が、後に内陣を開示し、それまで知ることもできなかったことを、クリストスを遜って歩む者たちにに対して以外は、閉ざされてきた、ということを。神は〔クリストス〕ひとりを通してのみ観照されるのである。


[Ⅱ.異教の神秘と神話における愚劣と不敬]

2.11.
(1.) されば、神なき至聖所はもとより、驚異に満ちたバラトロンの口とか、テスプロートイの大釜とか、キッライの鼎とか、ドードーネーの銅鐸を詮索してはならない。さらに、砂漠で崇敬されている古樹木や、そこにある樹木そのものと枯死した神託は、老いぼれ神話に取っておくがよい。とにかく、カスタリアの泉や 別のコロポーンのもうひとつの泉は、すでに沈黙し、他にも占いの流れは死に果て、さらにまた慢心の虚しいことは、最近になってではあるが、やはり議論されてきて、固有の神話とともに消え失せた。
(2.) その他の占い術の、いやむしろ魔術の、神託無を有用なりとわれわれに説くがよい — クラオスの、ピュティアの、ディデュマの、アムピアレオースの、アポッローンの、アムピロコスの、お望みとあらば、怪異の見者たちや、鳥占い師たちや、夢判断師たちをこれらに加えて採りあげ、同時にピュティアの占い師のそばには、小麦粉占い師たちや、大麦占い師たちや、なおそのうえに多くの人々から崇拝されている臓物占い師たちを連れて来て立たせるがよい。もちろん、アイギュプトス人たちの至聖所や、テュッレーニア人たちのテュレニアの降霊術をして闇に委ねしめよ。
(3.) これらの魔術は、真に不信心な人間どもの詭弁の学校であり、紛れもない迷妄の 賭博場である。この魔法の道連れの山羊たちは、占いのために訓練されたものであり、鴉たちは、人間に託宣するよう人間どもによって教育されているものである。

2.12.
(1.) では、あなたに秘儀を列挙すれば如何? アルキビアデースが例に挙げられるのだが、侮辱するのではなく、真理のロゴスと比較して、それらに隠されている魔術と、秘儀的な成就を有するあなたがたのいわゆる神々そのものをもわたしはすっかり暴露することになろう、あたかも、人世という舞台の上で、真理の観客に取り囲まれるように。
(2.) バッコス信女たちは、生肉喰らいによって宗教的狂乱を執り行いつつ、狂乱のディオニューソスを狂宴で祀り、蛇どもで戴冠して、人殺しどもの肉分かちの儀を挙行し、あの「エウアイ、エウアイ」とおらぶるが、こ〔のおらび〕によって迷妄が付き従った。バッコス信女たちの狂宴の徴こそ、執行され終わった蛇である。実際、へブライ人たちの正確な発音では、エウィアという、帯気音で発音される名詞は、おそらく雌の蛇と訳される。またデーオーとコレーはすでに神秘的劇となったが、迷妄と略奪と悲嘆を、エレウシスは両女神のために〔松明を運んで〕挙行する。

2.13.
(1.) そしてわたしには、この狂宴と秘儀とを、後者はゼウスのものとなったデーオーの狂乱に、前者はディオニューソスをめぐって結果した穢れ(muvsoV)に由来する〔祭事〕と語源解釈する必要があるように思われる。だが、アッティカ人ミュオーンなる者(この人物は狩のさなかに御陀仏になったと、アポッロドーロスが言っている)に由来するとしても、物惜しみするところではない。あなたがたの秘儀は、墓への崇敬によって栄化されてきたのである。
(2.) しかし別の仕方で、伝承(muqhvria) という文字に対応させて、秘儀(musthvria)になったと考えることもあなたにできよう。というのは、他にも狩りをする者たちはいるのであって、例えば、トラキア人たちの中で最も野蛮な者たち、ブリュギア人の中で最も愚かな者たち、ヘッラス人たちの中で迷信に取り付かれた者たちの神話がそれである。
(3.) されば、人間どもにとってまさにこの迷妄の端緒となった者は破滅した、神々の母神の秘儀を明示したダルダノスであれ、サモトラケー人たちの狂宴や儀礼を盗み見たエーエテイオンであれ、オドリュソスから学び、それから配下の者たちに人為的な迷妄を植えつけたプリュギア王ミダースであれ。
(4.) というのは、キュプロス人、断食者キニュラスがわたしを言いくるめることはなかったろう、彼がアプロディーテーの淫らな〔秘儀〕を、夜から日中に敢えて移行させ、女市民の淫婦を見物することを栄誉としたからとて。
(5.) また、アミュタオーンの子メラムプゥスはといえば、他の人々が謂うには、アイギュプトスからヘッラスにデーオーの祭礼を、嘆きを讃えるために移入したという。わたしとしては、これらの者たちを、神なき神話の悪の根源、破滅の迷信の父、悪の種子、人生に秘儀を植え付ける破滅だと主張したい。

2.14.
(1.) 今はもう(というのも、好機だからだが)、あなたがたの狂宴そのものが、迷妄と怪異に満ちたものであることを吟味しよう。あなたがたがすでに秘儀伝授を受けているにせよ、あなたがたに崇敬されているこれら神話をあなたがたは嘲笑することであろう。そこで、秘匿されている事柄をなおさら明け透けに公言しよう、あなたがたが破廉恥に跪拝している事柄を言うことを恥じ畏れることなく。
(2.) そこで先ず、「泡から生まれた」「キュプロス生まれの」、キニュラスに愛された〔女神〕、(わたしが言っているのはアブロディーテーのことだが、彼女を「ピロメーデアfilomhdeva〔と呼ぶのは〕、睾丸(mhvdea)から出現したゆえ」〔Hes. Theo. 200〕[001]、実はこれはウーラノスの切除されたあのmhvdea、つまり好色(langna)のことで、この切除が波を惹き起こした)、価値ある果実[としてアプロディーテー]が産まれたあなたがたの部位の何と放埒であることか! 海のこの快楽の祭儀においては、誕生の証拠として塩の塊と男根像[002]が、姦通術を秘伝された者たちに授けられる。そして秘伝された者たちは、愛者たちが娼婦にそうするように、彼女〔アプロディーテー〕に貨幣を貢ぐのである。

2.15.
(1.) 次には、デーオーの秘儀、つまり、母デーメーテールとのゼウスの性愛の絡みあいと、(さて母のと謂おうか、妻のと謂おうかわたしにはわからない)デーオーの怒り — このゆえにこそ彼女はブリモーと命名されたと言い伝えられる —、ゼウスの諸々の嘆願や胆嚢の呑みこみや心臓の取り出しや言語道断の諸々の所行……。この同じことを、プリュギア人たちがアッティスやキュベレーやコリュバースたちのために執り行っているのである。
(2.) 言い古されてきたところだが、そういうわけでゼウスは雄羊の宰丸を切り取り、真ん中に持ってきて、デーオーの胎に投げこんだが、この暴力的な絡みあいの恋情的な交合の偽りの罰を受け、自ら去勢したという。
(3.) この入信式の徴表は、目の前に提示されれば、笑いを惹起するにすぎないが、反駁によってあなたがたを笑わせるつもりのないことをわたしは知っている。「わたしは太鼓から食べた。わたしはシンバルから飲んだ。わたしはkernoforivaを踊った。わたしは婚礼の部屋にもぐりこんだ」、これらの教義は傲慢ではないか? 秘儀は冗談ではないのか?

2.16.
(1.) では、〔物語の〕残りの部分を付け加えたらどうなるか? デーメーテールは懐妊し、コレーが生育し、このように子を儲けたゼウスが、今度はペレオアッタつまり自分の娘と交わった、母親デーオーの後で、かつての穢れを忘れて、父親にして乙女の誘惑者ゼウスが、そしてドラコーンとなって交わった、その彼はこう吟味されている。
(2.) とにかく、サバージオスの秘儀の入信者たちにとっての徴表は、胸を通り抜ける神(oJ dia; kovlpou qeovV)である。それこそがドラコーンであり、成道者たちの胸を引っ張られ、ゼウスの放縦さの確証である。
(3.) ペレパッタも牡牛の姿をした子どもを懐妊する。いずれにしろ、空想たくましいある詩人が謂っている、

……ドラコーンの
父が牡牛、牡牛の父がドラコーン、
山の中の秘密、それは、牛飼いよ、突き棒。
   〔Firmicus Maternus, 『誤謬について』xxvi. 1〕

牛飼いの突き棒とは、わたしが思うに、オオウイキョウ(navrqhx)のことであろう、これこそバッコス信者たちが冠に戴くものである。

2.17.
kalathos.jpg (1.) お望みなら、ペレパッタの花摘みをもあなたに語ろうか、また、花籠(kavlaqoV 右図)、アイドーネウスによる拐かし、大地の裂け目、両女神に呑みこまれたエウブゥレウスの豚ども(これが原因で、テスモポリア祭では、メガラ方言でcoi:roV〔仔豚〕を投げ込む)を。この神話を、女たちは都市によってさまざまに、テスモポリア祭、スキロポリア祭、アッレートポリア祭として祝祭を執り行い、ペレパッタの拐かしをさまざまな仕方で悲劇化してみせるのである[003]
(2.) ディオニューソスの秘儀にいたっては、完全に非人間的である。まだ子どもであった彼を、クゥレーテス人たちが武装した舞踏で取り囲んでいたとき、ティーターンたちが罠にかけて、子どもじみた玩具でだました、このティーターンたちこそが、まだ幼い彼を八つ裂きにしたのであるが、それはこの秘祭の詩人、トラキア人のオルペウスが謂っているとおりである。

松毬(kw:noV)、唸り独楽(rJovmboV)、操り人形(paivgnia kampesivguia)、
声澄める黄昏の娘たちのもとなる黄金の林檎。
   〔Orph. Fr. 196〕

2.18.
(1.) あなたがたの祭式のこの無用な徴表も、批判に供するのは無用ではない。骰子(ajstravgaloV)、鞠(sfai:ra)、輪(strovbloV)、林檎(mh:la)、唸り独楽(rJovmboV)、鏡(e[sptron)、羊毛(povkoV)〔がそれである〕。一方、アテーナーはディオニューソスの心臓を取り出し、心臓が鼓動する(pavllein)というところから、パッラスと命名された。他方、ティーターンたちの方は、彼を八つ裂きにし、一種の鼎を据えて、ディオニューソスの四肢を投げこみ、先ずは煮つめ、次いで焼き串に刺して「ヘーパイストス〔火〕の上にかざした」〔Iliad,ii. 426〕。
(2.) その後、ゼウスが顕現し(神であるなら、たぶん焼肉の香りをかいだのであろう、まさしくあなたがたの神々が「褒賞に与る」と告白しているように)、ティーターンたちを雷霆で罰し、ディオニューソスの四肢を埋葬するようわが子アポッローンに托した。そこで彼は、ゼウスに背くことなく、パルナッソス山に運んで、引き裂かれた亡骸を安置したのである。

2.19.
(1.) もしあなたが、コリュバースたちの狂宴をも観入したいと望むのであれば、この者たちは三番目の兄弟を殺害し、亡骸の頭部を真紅の衣で包み、戴冠して埋葬した、青銅の楯に乗せて運び、オリュムポス山の裾野に。
(2.) (ざっくり謂えば、殺人と埋葬、これこそが秘儀なのである)。 しかるにこの〔祭儀の〕神官たちは、呼びならわしている人たちによれば、=Anaktotelevstaiと呼ばれるのだが、この災厄に奇異さを付与し、根こそぎのセロリ(sevlinon)[004]を食卓に置くことを禁じた、というのは、コリュバースの流れる血からセロリが生えてきたと彼らは思うからである。
(3.) あたかも、例えば、テスモポーリア祭を執り行う者たちも、ザクロの核を食べることを断つ[005]がごとくである。というのは、ディオニューソスの血の滴りから地面に落ちたものが、ザクロを芽生えさせたと考えているからである。
(4.) また、コリュバースたちのことをカベイロスたちと呼ぶので、儀礼をカベイリア祭と宣明している。というのは、まさに兄弟殺しのこの二人は、ディオニューソスの恥部が納められた籠(kivsth)を持ち去って、テュッレーニアへ上陸し、有名な荷の貿易商人となったからである。そうしてここですごし、亡命者ではあったが、敬神のすこぶる尊い教えとして恥部と籠とをテュッレーニア人たちに信奉するよう提示した。これが基となって、一部の人々が、ディオニューソスは恥部を盗まれたゆえ、アッティス(!AttiV)呼ばれるとしたがるのも、不適切ではない。

2.20.
(1.) とすると、非ヘッラス人であるテュッレーノイ人たちが、かくも恥ずべき情動に手引きされていたとて、何の驚くことがあろうか、アテーナイや自余のヘッラスにも、言うも恥ずかしいことだが、デーオーをめぐる神話は、恥に満ち満ちているのだ。というのは、デーオーが娘コレーを探して、エレウシス(この地域はアッティカにある)をさすらっていたとき、疲れはて、悲しみにくれながら井戸のほとりに座りこんでいた。これを語ることは、今に至るも入信者たちに禁じられている、成道者たちが、悲嘆にくれる彼女を模倣していると思われないためである 。
(2.) ところで、このエレウシスに住んでいたのは、土地生え抜きの者たちだった。彼らの名は、バウボー、デュサウレース、トリプトレモス、さらにはエウモルポスとエウブゥレウスである。トリプトレモスは牛飼い、エウモルポスは羊飼い、エウブゥレウスは豚飼いであった。ここから、エウモルピダイおよびケーリュコイという神官団が、アテーナイの氏族としてそれこそ花咲いたのである。
(3.) いやそれどころか(というのは、言うを遠慮しないからなのだが)、バウボーがデーオーを客遇して、彼女にキュケオーン(kukewvn)[006]を差し出した。しかし相手は受け取ることを拒み、飲もうとしなかったので(悲嘆にくれていたからである)、バウボーは大いに、まるで軽蔑されたかのように苦しんで、恥部を露わにし、女神に見せびらかせた。すると、デーオーはその光景を気に入り、このときやっと飲み物を受け取った、その見物に歓んだからである。

2.21.
baubo_iachos.jpeg (1.) 以上が、アテーナイ人たちの隠された秘儀である。以上のことは、もちろんオルペウスも記している。そこでわたしはあなたにオルペウスの詩句そのものを引用しよう、無恥の証人として秘儀唱導者を持てるように。

彼女はこう云うや、衣の裾をたくしあげ、身体のあらゆる部位を示した、
ふさわしからざる場所をも。そこには子どものイアッコスがいて、
笑いながら、バウボーの胸に手をのばした。
すると女神は微笑み、元気になって微笑し、
きらめく器を受け取った、キュケオーンが入ってるのを。
   〔Orph. Fr. 215〕

(2.) また、エレウシスの秘儀には決まり文句(suvnqhma)がある。「わたしは断食した、キュケオーンを飲んだ、籠(kivsth)から取り出した、執り行ったうえで、籠(kavlaqoV)に、籠(kavlaqoV)から籠(kivsth)に納めた」。少なくともこの見物は美しく、女神にふさわしい。

2.22.
(1.) というよりは、この祭儀の価値は夜に、火に、「気象大いなる者」に、いやむしろエレクテイダイの区民、かてて加えて、その他のヘッラス人たちのうち、「命終してのち望みさえほとんど残らない」〔Heracl. Fr. 122〕頭の弱い者たちにある。
(2.) エペソスの人へーラクレイトスは、いったい誰々にたいして占っているのか?「夜中に群れ騒ぐ信徒たち、魔術師たち、バッコスの信徒たち、踊り狂う女信徒たち、密儀を執り行う者たちに対して」である。この者たちにとって死後の事は気にならず、この者たちには火が預言する。「なぜなら、人間どもにとって秘儀とみなされているのは、不敬なものらによって伝授されているから」〔Heracl. Fr. B14〕。
(3.) されば、法習や虚しい評判やドラコーンの秘儀は、本当の入信式ならざる入信式や、狂宴を伴わない密儀を、庶子の敬神によって崇敬する連中によって崇拝される一種の欺瞞である。
(4.) では、密儀の籠とはいかなるものか? ここで、彼らの聖物を暴露し、口外すべからざることを表明しなければならない。それらは胡麻菓子(shsamh:)、puramivV、塩とドラコーン(ディオニューソス・バッサロスの狂宴である)の瘤のいっぱいある平菓子(toluvph)、popavnonではないのか?  かてて加えて、ザクロ、オオウイキョウ〔Dsc.III-91〕とセイヨウキヅタ〔Dsc.II-210〕の若枝、さらにはfqovi&Vやケシ(mhvkwn)〔Dsc.IV-65〕ではないのか? 以上が、彼らのいう聖物である。
(5.) さらにまた、テミスの口外すべからざる徴表 — マヨナラ(ojrivganon)〔Dsc.III-32〕、松明、剣(civfoV)、女性の櫛(kteivV)(これは、婉曲的にも密儀的にも、女性の部位を言い表せる)が加わる。
(6.) 何とあからさまな無恥さよ! 昔は、慎み深い人間どもにとって快楽の覆い物は沈黙の夜であった。しかるに今や、入信秘儀を受ける者たちにとっての試金石は、放縦について喋り散らされる夜であり、松明の火が情動を吟味するのである。
(7.) 火を消すがよい、おお、大祭司よ。灯火を恥じるがよい、松明をかざす者よ。光をして汝のイアッコスを吟味せしめよ。密儀の隠蔽は夜に、神秘は夜に任せるがよい。狂宴をして闇に委ねよ。火は装うことをせず、吟味し処罰することを命ぜられている。

2.23.
(1.) 以上が、神なき者たちの秘儀である。ところで、彼らを正当にも神なき者と呼ぶのは、彼らが有りて有る神を知らず、ティターンたちによって八つ裂きにされた嬰児や、嘆く手弱女や、恥じゆえに真に口にすべからざる部位を、破廉恥にも崇敬しているからであり、その無神性には二重の意味がある、第一は、神を知らず、本当に在る神を認知しないという意味において、もうひとつの第二は、この迷妄によって、在らぬものらを在るものとみなし、本当には在らぬものらを、いやむしろ、在るはずもなく、単に名称に与っているにすぎぬものらを、神々と名づけている意味においてである。
(2.) だからこそ、使徒もわれわれを反駁するのである。いわく、「あなたがたは約束の諸契約に対しては余所者であり、希望を持たず、此の世において神なしであった」〔Eph. ii. 12〕。

2.24.
(1.) スキュティア人たちの王(はたして、それ[アナカルシス][007]が誰であったにしろ)には多くの善きことどもがそなわっていた。この人物は、おのれの市民をば、キュジコス人たちのところで神々のの秘儀を、スキュティア人たちのもとで模倣して、タンバリンを叩き、シンバルを響かせ、一種の托鉢を頸からぶら下げているのを、射殺した、彼がヘッラス人たちのいう卑怯未練な男になり、スキュティア人たちの他の者たちに、女病の教師になるとしてである。
(2.) だからこそ(というのは、全然隠す必要がないからだが)、わたしには驚きの念が起こるのだ、アクラガース〔正しくはメッセーネー〕人エウエーメロス、キュプロス人ニーカーノール、メーロス人のディアゴラースとヒッポーン、これらに加えて、キューレーネーのあの人(その名はテオドーロス)や、その他おびただしい人たち、賢明に生き、これらの神々をめぐる迷妄を、自余の人間どもよりも確かにより鋭く探究し、それ〔迷妄〕を真理とは考えず、少なくとも迷妄と猜疑し(これは真理への知慮の小さからざる火種として芽生えたが)、どうして神なき者たちと呼ばれてきたのか、と。
(3.) 彼らのある者は、アイギュプトス人たちに接近する、「あなたがたが神々とみなすなら、これを嘆いてはならないし、胸を打ってもいけない。しかしそれらを嘆くなら、もはやそれらを神々であると考えてはならない」〔Xenoph. Fr. 13〕。
(4.) 片や、木でこしらえられたヘーラクレースを取って(どうやら、たまたま家で何かを煮ていたらしい)。「さあ、おお、ヘーラクレース」と云った、「今こそおまえさんの好機、エウリュステウスに仕えたように、今こそこの十三番目の功業でわれわれにも仕え、ディアゴラスにこの煮物を準備せよ」、「そうして彼を薪のように火中にくべた」〔Cf. Diagoras Fr. 739〕。

2.25.
(1.) 無神と迷信こそが無学の極致であり、これと無縁でいられるよう努めなければならない。あなたは目にするのではないか、真理の大祭司モーセースが、睾丸のつぶれた者、陰茎を切断された者、かてて加えて淫婦から生まれた者も、主の会衆に加わってはならないと命じた〔Deu. xxiii. 1-2〕のを。
(2.) 彼が示唆しているのは、最初の〔2つ〕によっては、神的にして〔男の〕出産の能力を奪われている神なき仕方であり、残りの仕方によっては、唯一在る神の代わりに、数多くの偽名の神々を僭称した仕方である。あたかも、淫婦から生まれた者が、真理に対する父親の無知をよいことに、数多くの父親たちを僭称するように。
(3.) ところで、天上には、人間どもに生まれつきの一種の原初の共同性があり、無知によって闇にくらまされているが、きっと、突如として闇から踊り出て耀き出す、或る人によって言われてきたあの〔詩句のように〕、

汝は見るや、高みにあるあの無限の大気を、
大地がその湿った腕に掻き抱いているのを。
次のも
おお、大地を支え、大地の上に座を占めるお方、
御身が何者であれ、推し量りがたい方。    〔Euripi., Tr. 884-5〕
さらに、詩人たちの子どもたちが歌っている他のこれに類した限りもである。
(4.) しかるに、誤った、正道から外れた諸々の思いつきが、「生まれつき天的な」人間を、天的な暮らしから逸脱させて、地上にはびこらせ、地上的な被造物らに頼るよう口説いて、真に破滅的なものとなったのである。

2.26.
(1.) というのは、或る者たちは、天の光景に欺かれ、視覚のみを信頼して、星辰の動きを眺める者たちは、愚直に驚嘆し神化して、星辰を「走行する(qei:n)」から「神々(qeoiv)」と名づけ、そうして、インドイ人たちのように太陽を、プリュギア人たちのように月を、跪拝した。
(2.) また或る者たちは、大地に芽生えるものらのうち栽培された果実を摘んで、アテーナイ人たちのように穀物デーオー、またテーバイ人たちのように葡萄樹ディオニューソスと命名した。
(3.) 他に、悪の応報を監督する者たちは、災禍にさえ跪拝して、報復(ajntivdosiV)を神格化した。ここから、エリニュスたちやエウメニデースたちといった、血の穢れと血讐の神霊を、舞台廻りの詩人たちが捏造したのである。
(4.) さらに、哲学者たちの何人かは、詩人たちの後で自分たちも、われわれの内なる情動の諸型 — 畏れ恋情歓び希望として偶像化したことは、もちろん、古のエピメニデースが、傲り無恥の祭壇をアテーナイ人たちに建立したのと同様である。
(5.) また或る者たちは、事象そのものから出発して、人間どものために神化し、身体的に捏造した、正義といったものや、クロートーラケシスアトロポス〔モイラたちの一人〕、ヘイマルメネーアウクソー〔アテーナイでは、カリステーを、アウクソー〔大きくする神女〕とヘーゲモネー〔導く神女〕との2神とした〕とタッローといったアッティカの女神たちである。
(6.) 欺瞞の導入方法、つまり、神々製造方法の6番目は、これによって神々を12神としたところの方法である。その〔12神の〕系譜は、ヘーシオドスが自作の『神統記』で歌い、その事跡の限りは、ホメーロスが神話しているところである。
(7.) 残るは最後の方法(この方法は全部で7つあるからだが)は、人間どもにかかずらう神的な善行に淵源するものである。というのは、善行するのが神であることを理解しない者たちは、ディオスクゥロイとか、悪避けヘーラクレースとか、医師アスクレーピオスといった一種の救済者たちを捏造したのである。

2.27.
(1.) 以上が、真理からの狡猾にして有害な逸脱、天上から人間を引き下ろし、深淵へと迂回させるものである。わたしがあなたがたのために望むのは、これらの神々を、それらがいかなるものであり、何者であるのかを披瀝することである、今はもう迷妄を捨て、もういちど天上へと駆け戻ってくれるために。
(2.) 「というのは、われわれもまた、自余の人たちと同様に、確かに怒りの子であったのだ。だが、憐れみに富んでいる神は、われわれを愛してくださったその大きな愛でもって、罪過において死んでいたわれわれを、クリストスとともに生かしてくださったのだ」〔Eph. ii. 3-5〕。「というのは、ロゴスは生きており」〔Heb iv. 12〕、クリストスとともに葬られ、神とともに挙げられたからである。しかるに今なお不信仰な者どもは「怒りの子」と呼ばれ、怒りに養われている。しかしわれわれはもはや怒りの養子ではなく、迷妄から離脱し、真理のために讃美する者である。
(3.) まさにこのようにして、かつて無法の息子であったわれわれは、ロゴスの人間愛によって、今や神の息子となった。あなたがたには、あなたがたの詩人アクラガースのエムペドクレースもほのめかしている。

このゆえに汝らは恐ろしい悪業のために思い悩みながら、
惨めな苦しみから心を解放するときはけっしてこないだろう。
     〔Emp. Fr. 145〕

(4.) あなたがたの神々に関する大部分の事柄は、神話され捏造されてきたものである。しかし、生起したと解されているかぎりにこと、こちらの方は、恥ずべき人間ども、つまり、放埒に生きてきた人間どもについて記録されてきたことである。

虚しさと狂気の道を歩め、真っ直ぐな易しい道を捨て、
茨と糠の生い茂る道を。死すべきものらよ、何ゆえさまようのか? 止まれ、虚しき者らよ、
夜の闇の道を打ち捨て、光に与れ。
     〔Oracula Sibyllina Fr. i. 23-25,27 ff.)
(5.) これは、女預言者にして女流詩人シビュッラがわれわれに告げたものである。さらにまた真理も告知する、神々の群から鬼面ひとをおどろかす衝撃的な仮面を剥ぎ取って、一種の同名によって通念形成を批判して。

2.28.
(1.) とにかく、例えば、ゼウスは3人と記録する人々があり、ひとりはアルカディアのアイテールの子、残りの2人はクロノスの子であり、この中の一人は、クレーテー島のそれ、もう一人は、やはりアルカディアのそれである。
(2.) また、5人のアテーナーを想定する人々があり、一人はヘーパイストスの娘でアテーナイ女、もう一人はネイロスの娘で、アイギュプトス女。3人目はクロノスの娘で、戦争の発明者。4人目はゼウスの娘で、メッセーニア人たちは、その母の名にちなんでコリュパシアと呼んでいる。以上に加えて、パッラースと、オーケアノスの子ティタンの娘の女神〔ティーターニス〕との子で、父親を不敬にも屠殺して、父親の皮膚を羊毛のようにして身を飾った。
(3.) いやそれどころか、アリストテレースはアポッローンを、第一にヘーパイストスとアテーナーとの子とし(ここからして、アテーナーはもはや処女ではないのだが)、第二は、クレーテー島のキュルバースの子、第三は、ゼウスの子、第四はシレーノスの子アルカース〔とした〕。この人物は、アルカディア人たちのもとではノミオスと呼ばれる。これらに加えて、アムモーンの子リピュスを〔アリストテレースは〕挙げている。だが、文法学者のディデュモスは、これらに第六番目としてマグネースの子を加えている。
(4.) はてさて、いったい何人のアポッローンがいることやら、これらは無数の死に服する可死的な一群の人間であり、先述したあの者らと類比的に呼ばれてきた者たちである。

2.29.
(1.) そこで、数多のアスクーレピオスたちや、無数のヘルメースたちや、神話に語られるへーパイストスたちをわたしがあなたに挙げるとたらどうであろうか? あなたがたの聴覚を、これら多くの名前で滋れさせることは、余計だとさえ思われのではないか? とにかく、少なくともその祖国や術知や生涯、かてて加えてその墓が、彼らが人間であったことを立証しているのである。
(2.) 例えばアレースは、詩人たちのもとでも可能なかぎり尊敬されているが、

アレースよ、アレースよ、人間の禍とて血汐にまみれた城壁の毀し手よ、
〔Iliad, v. 5. 31. 455〕

この「両股膏薬」〔Iliad, v. 831. 889〕にして「悪さを企む者」は、エピカルモスが謂うには、スパルテー人であった。だがソポクレースは、彼がトラキア人であることを知っていた。しかし一部の者たちは、アルカディア人だ。
(3.) またホメーロスは、これは13 ヶ月間縛られていたと謂う。

アレースとても辛抱しました、オートスと、力の強いエピアルテースと、
アローエウスの子ども二人が 頑丈な鎖で 彼を繋いだ時には。
それで青銅の大瓶の中に 十三ヶ月も閉じこめられていたということ。
     〔Iliad, v. 385-387〕

(4.) カリア人たちに、数多くの善きものらがありますよう、彼に犬どもを供犠するかれらに。しかしスキュティア人たちは驢馬たちを生け贄にすることをやめていないと、これはアポッロドーロスが謂い、カッリマコスも、

ポイボスは、ヒュペルボレイア人たちに驢馬たちの犠牲を執り行う。
〔Call. Fr. 187〕
同じ人物が別の箇所では
犠牲獣驢馬の脂身はポイボスを歓ばせる
(5.) へーパイストスはといえば、ゼウスがオリュムポスから、「神さびた門口から」〔Iliad,1. 591〕 投げ落とし、レームノス島に落下し、鍛冶師になった、両脚が不具になって、「下にはほっそりした脛をせかせか動かせて」〔Iliad, xviii. 411)。

2.30.
(1.) あなたが持つのは、神界における鍛冶屋のみならず、医師をもである。ただし、この医師は愛銭家であり、その名はアスクレーピオス。そこであなたにあなたの詩人ボイオーティアのピンダロスを引用しよう。

多大な報酬としてその手に握らされた黄金が彼の心をも誘った。
すでに死に捕らわれた男〔ヒッポリュトス〕を彼は
生き返らせてしまった。そこでクロノスの子〔ゼウス〕はすぐ雷を手より投じて二人を貫き、胸から
息吹きを取り去った。
     〔Pi. P. iii. 55-58〕
(2.) エウリーピデースもまた。
それもつまりはわたしの倅アスクレーピオスの胸に雷の火を撃ち込んで
亡き者にされたゼウスのせいであった。 〔Euripi., Alc. 3 ff.〕
だからこの者は、雷霆に撃たれてキュノスゥリスの界隈に永眠している。
(3.) 他方、ピロコロスの謂うには、テーノスではポセイドーンが医師として崇拝されているが、クロノスに主宰されるのはシケリアであり、ここに彼は埋葬されている、という。
(4.) トゥリオイ人パトロクレースと若い方のソポクレースとは、ある悲劇作品の中で、ディオスゥクロイについて記録している。このディオスクゥロイなる連中は、もしホメーロスが信ずるに足るなら、次のように言われている。
その二人はもう、生類を産み出す大地がそのまま
ラケダイモーンに、おのが愛しい父祖の郷へ 埋め込んでしまっていた。
     〔Iliad, iii. 243-4〕

(5.) さらにまた、キュプリス詩をして加えせしめよ。カストールは可死的存在であり、死の宿命は定められていた。対してポリュデウケースは、アレースの若枝であるから、不死なる者」〔『キュプリア』断片5〕。こちらは、詩的に虚言したのである。
(6.) ホメーロスの方は、ディオスクゥロイの両人について、彼よりも信ずるに足ることを表明し、さらにヘーラクレースについては「幻像」〔Odyss. xi. 602〕だとして反駁している。すなわち、「ヘーラクレースは、偉大な所業を心にしめた」「者」〔Odyss. xxi. 26〕にすぎないからである。
(7.) されば、当のホメーロスでさえ、ヘーラクレースは可死的人間だと知っていたのであり、哲学者ヒエローニューモスもまた、その身体の恰好を、小柄で、髪は逆立ち、屈強だと示している〔ヒエローニューモス断片34〕 。他方、ディカイアルコスは、彼は角張った、筋骨たくましい、色黒、鈎鼻、眼光鋭い、長髪であったとする。されば、このヘーラクレースが、50に加える2年間生きた後、オイテー山の薪火によって葬礼を受け、その生涯を終えたのである。

2.31.
(1.) ムゥサたちはといえば、これをアルクマンはゼウスとムネーモシュネーに系譜づけたが、自余の詩人たちや著述家たちが神格化して崇拝し、今ではあらゆる都市が彼女たちのためにムゥセイオンを聖域化し、ミュサたちを女祭司として、これらをマカルの娘メガクロー(Megaklwv)が購入している。
(2.) ところでこのマカルは、レスボス人たちを王支配していたが、いつも妻と諍いをしていたので、メガクローは母のために憤慨した。気にしない理由があろうか。そこで、このミュサたちを、数にしてこれほどを女祭司として購入し、アイ オリス方言でモイサと呼んだ。
(3.) 彼女たちに、古の功業を抒情的に歌い弾奏するを教えた。すると彼女たちはせっせと弾奏し、美しく歌ってマカルをうっとりさせ、その怒りを鎮めた。
(4.) じつにこのために、メガクローは母のために彼女たちに感謝の徴として青銅器を奉納し、あらゆる神事のさいに讃えるよう命じた。そうしてこれがムゥサたちであり、記録はレスボス人ミュルシロス〔の作品〕にある。

2.32.
(1.) さて、それでは、あなたがたのもとにおける神々から聞くがよい、諸々の恋や、放埒さの意想外な神話、彼らの傷害、捕縛と笑いと戦いと隷属と、また酒宴、さらには交合、涙、受難と、淫らな快楽を。
(2.) わたしのために呼んでくれ、ポセイドーンと、彼によって堕落させられた者たちの合唱隊、つまり、アムピトリテ−、アミュモーネ−、アロペ−、メラニッペ−、アルキュオネ−、ヒッポトエ−、キオネ−、その他幾多の女たちを。これらの、これほどの数の女たちをもってしてもなお、あなたがたのポセイドーンの情動が満たされることはなかったのである。
(3.) わたしのためにアポッローンをも呼んでくれ。これはポイボスとして、聖なる預言者にして善き助言者である。しかしながら、ステロペーもアイトゥサも、アルシノエーも、ゼウクシッペーも、プロトエーも、マルペーッサも、ヒュプシピュレーもそうは言わない。なぜなら、この預言者をも堕落をも逃げおおせたのは、ダプネーひとりだったからである。
(4.) また、とりわけ、あなたがたによれば「人々と神々の父」〔Iliad, i. 544〕ゼウス本人をして登場せしめよ。性愛に蕩尽するあまり、あらゆる女を欲望し、あらゆる女にその欲望を満たしてやったほどである。とにかく、トゥムゥイス人たちの牡山羊[008]に劣らぬくらいに女たちを満足させたのである。

2.33.
(1.) そして、あなたの、おお、ホメーロスよ、詩句にもわたしは驚いた。

あなたの詩行にわた こう言って、か黒の眉にクロノスの子が うべないの首を下げれば、
香しい神髪は、それ、不死なる御神の 頭よりさっとばかりに
垂れなびくと見え、オリュンポスの 大峯をおどろと揺すった。 (Iliad, 1. 528-530)

(2.) あなたは、ホメーロスよ、ゼウスを荘厳に作り、神意も崇敬されるものをこれに結びつけている。ところが、あなたが、人間よ、飾り紐を示すだけで、ゼウスも論破され、長髪も辱められるである。
(3.) かのゼウスは、どれほどまで好色だったことか、アルクメーネーとかくも長い夜、情事にふけったとは。というのは、九夜とは、自制なき者にとっては長くはない(一生涯ですら、自制なき者にとっては短いであろう)、 われわれに悪避け神を種蒔くため。
(4.) ヘーラクレースはゼウスの息子である、真にゼウスの子であり、長き夜の末に生まれた子であって、永きにわたって12の功業に苦しみつづけたが、一方で、テスティオスの50人の娘を一夜ごとに堕落させ、かくも多数の処女たちの姦通者にして花婿となった。さから、詩人たちがこの男を「無惨な男」〔Iliad v. 403〕、つまり、「大それた業をなす者」〔Scholia in Homerum Iliad v. 403a〕と呼んだのは、故なきことではない。彼のありとあらゆる姦淫と、子どもたちの破滅を説明すれば、長くなるであろう。
(5.) というのも、あなたがたの神々は子供たちから身を遠ざけることをせず、或る者はヒュラースを、或る者はヒュアキントスを、或る者はペロプスを、或る者はクリュシッポスを、或る者はガニュメーデースを恋したのである。
(6.) あなたがたの妻たちをして、これらの神々を礼拝せしめよ、自分たちの夫がこういう者たち、かくも慎み深い者、つまち、神々と等しいことを渇望し、似た者になりますように、と祈らしめよ。あなたがたの子どもたちをして、これらを崇敬するよう習慣づけられしめよ、姦淫の明確な似像を神々と認める大人になるようにと。
(7.) ところが、神々のなかで性愛について彼らに歌っているのは、おそらく、男神たちのみである。

だがお優しい女神たちは 羞じらいからみなご自分の邸に籠もっておられた。
(Odyss. viii. 324)
とホメーロスは謂う、アプロディーテーが姦淫して緊縛されたのを見ることを恥じたから、と。

(8.) しかし、他方の女神たちは、もっと情動的に姦淫に縛られて放縦であった、エーオースはティトーノスに、セレーネーはエンデュミオーンに、ネーレーイスはアイアコースに、そしてペーレウスには、テティスが、イアシオーンにはデーメーテールが、そしてアドーニスにはペレパッタが。
(9.) さらにアプロディーテーは、アレースとのことで辱められたが、キニュラスとアンキセーと結婚し、パエトーンを誘惑し、アドーニスに恋し、牝牛の眼〔のヘーラー〕と愛勝し、林檎の件では女神たちが脱衣して、自分たちのなかで誰が美しいとおもわれるか、羊飼いに傾注したのである。

2.34.
(1.) それでは、いざ、諸々の競い合いをも巡って、以下の葬礼の全祭をも片づけよう、つまり、イストミア祭、ネメア祭、ピューティア祭、さらに加えてオリュムピア祭をも。さて、ピュートー〔デルポイの古名〕では、大蛇ピュティオスが崇拝され、この蛇の全祭がピューティア祭として宣言される。イストモスでは、海が哀れをさそう亡骸を吐き出し、イストミア祭はメリケルテースを嘆く。ネメア祭では、別の子どもアルケモロスが葬送され、この子の墓碑銘がネメアと命名される。ピーサはといえば、あなたがたにとって、おお、全ヘッラース人たちよ、プリュギア人の馭者の墓であり、オリュムピア祭においては、ペロプスのために献酒を、ペイディアース〔作〕のゼウスがわがものとする。したがって、どうやら、秘儀は死者たちをめぐっての褒賞を懸けられての競い合いであって、神託の言葉と同様、どちらも公的となるらしいのである。
(2.) しかし、アグラー〔イリソス上流にあるアッティカの区〕における秘儀や、アッティカのハリムゥス〔区〕におけるそれは、アテーナイに限定される。しかし、その競い合いと、ディオニューソスに捧げられた陽物こそは、もはや世界的な恥であって、生命をひどく蝕んでしまっているのである。
(3.) というのは、ディオニューソスは、冥府に下ることを熱望したが、道を知らず、その名をプロシュムノスという者が、いうことを彼に約束したが、無報酬ではなかった。その報酬は美しいものではなかったが、ディオニューソスには美しいものであった。つまり、ディオニューソスが要求された報酬とは、性愛の恩恵であった。さて、企てのある神にこの要求が出され、さらに、もどったら彼に約束を果たすと、誓いを立てて、強化した。
(4.) 〔道を〕知って、出かけて行った。再び上ってきた。プロシュムノスをつかまえられなかった(彼は死んでしまったからである)。愛者に禊ぎをするため、ディオニューソスはその墓に急行し、欲情した。そこで、たまさかあった無花果の枝を伐り取って、男の性器の形にこしらえ、その枝に腰を落として、死者との約束を果たしたのであった。
(5.) この情動の秘儀的な記念として、陽根が諸都市でディオニュソスのために勃起させられる。「なぜなら、祭礼行列を行ったり、恥部を讃える歌をうたったりするのが、仮にディオニューソスのためでなかったとしたら、破廉恥きわまる所業だったことだろう」とヘーラクレイトスは謂っている〔断片15〕、「また、ハーデースとディオニューソスとは同一者であって、これに彼らは狂喜乱舞し、祭礼を行っているのである」。身体の酩酊の故ではなく、わたしが思うに、放埒さの不名誉な神事であればあるほど、そうなのである。

2.35.
(1.) それゆえ、あなたがたのこのような神々は、当然、情動の奴隷となる、いやそれどころか、ラケダイモーン人たちのもとにおけるいわゆるヘイロータイ以上に奴隷の軛の下にいる、アポッローンはペライにおいてアドメーテースに、ヘーラクレースはサルディスのオムパレーに、またラオメードーンにはポセイドーンとアポッローンとが日雇労働した、あたかも無用な家僕のように、以前の主人から、結局、自由を得ることができなかった。そのころ、プリュギアにイーリオンの城壁が建てられたのだ。
(2.) ホーメロスも、アテーナーが手に「黄金のランプを持って」〔Odyss. xix. 34〕オデュッセウスの前に現れたと言って恥じない。われわれが読むアプロディーテーも、だらしない召し使いの小女のように、姦通者の真向かいのヘレネーに椅子を持ってきてしつらえた、彼を交接へといざなうように、と。
(3.) 例えばパニュアッシスは、以上に加えて他にも多種多様な神々が、人間どもに仕えたと記録し、ほぼ次のように書いている。

デーメーテールは耐え忍んだ、その名も高い「両脛まがり」〔ヘーパイストス〕は耐え忍んだ、
ポセイドーンは耐え忍んだ、銀弓もったアポッローンは耐え忍んだ、
死すべき人のもとで、1年間、賃働きすることを、
頑なな心のアレースも耐え忍んだ、父の強制によって。
云々
〔Panyasis Fr. 3〕

2.36.
(1.) されば、以上に続くのは、どうやら、あなたがたの恋情的・情動的な以下の神々を、あらゆる点で人間的な感性の持ち主として唱導することである。

というのも、あのものらにそなわるは、可死的皮膚なのだから
(Iliad, xxi. 568)

ホメーロスはきわめて精確に証言しているのである、アブロディテーが傷を受けて鋭く大きな悲鳴をあげるところとか、きわめて好戦的なアレース当人が、ディオメーデースによって腹腔を突き刺されたところを、叙述して。
(2.) また、ポレモーンは、アテーナーもオルニュトスによって寝つけられた、と言っている。しかり、アイドーネウスでさえ、へーラクレースによって弓射されたとホメーロスは言い、ヘーリオスもだとパニュアッシスが記録している。さらには婚姻の女神ヘーラーも、同じヘーラクレースによって、「砂多きピュロスで」〔弓射された〕〔Panyasis Fr. 26〕と、この同じパニュアッシスが記録している。さらにソーシビオスも、へーラクレースがヒッポコーンの息子たちとの争いで、オンティ デス人によって手で撃たれたと言っている。
(3.) 傷があるからには、出血もあろう。というのは、詩にいう神血(ijxwvr)は、血よりも胸くそわるいく、血が腐敗したものが神血だと考えられるからである。
(4.) そういうわけで、欠乏し ている者たちには、治療と食糧を提供するのが必然である。故に、食卓や酩酊や哄笑や交接は、人間的な性愛を用いる者たちのものではなく、子づくりをする者たちのものでも、もちろん眠る者たちのものでもない、もしも彼らが不死で、欠けるところなく、不老であったなら。
(5.) しかるに、アイティオプス人たちのところで人間的な食卓 — つまりアルカディア人リュカーオーンのもとで饗応されたとき、非人間的で神法に悖る食卓に与ったのは、ゼウス本人であった。つまり、彼は、心ならずも、人間の肉を堪能したのであった。というのは、この神は、自分の饗応者アルカディア人リュカーオーンが、自分の子(その名はニュクティモス) を八つ裂きにして、料理としてゼウスに供していることを知らなかったのである。

2.37.
(1.) げにゼウスは美しき預言者、客遇者、嘆願の庇護者、慈悲深き者、神託の告知者、応報者。いや、むしろ、不正者、神神者、無法者、冒涜者、非人間的な者、暴虐者、破壊者、姦通者、恋情者である。しかし、かつてはそういう者、つまり、人間であった時があったが、今はもう、わたしたちにとって神話として老いぼれているようにわたしには思われる。
(2.) もはやゼウスは、ドラコーンにあらず、白鳥にあらず、鷲にあらず、恋情的人間にあらず。神は飛翔せず、少年愛にふけることなく、接吻せず、暴力をふるうことがない、今もなお多くの美しい女たちや、レーダーよりも器量よしで、セレメーよりも若盛りな女たちに、プリュギアの牛飼いよりも若々しくて雅やかな若者たちがいるにもかかわらずである。
(3.) 今や、あの鷲はどこにいるのか? また白鳥はどこに? またゼウスその人はどこに? 翼とともに老いぼれてしまったのだ。というのは、これまでのところ、彼が情事を悔い改めたわけでないのはもちろん、慎慮するよう教育されたわけでもないからだ。そこで次の神話があなたがたに暴露される。レーダーは死んだ、白鳥は死んだ、鷲は死んだ。あなたのゼウスをあなたは探すのか? 〔ならば〕天をではなく、地を詮索するがよい。
(4.) クレーター人ガあなたに説明してくれよう、そこに彼は現に埋葬されているのだから。カッリマコスは讃歌の中で。

というのも、あなたの墓を、おお、主人よ、
クレーターの人たちが獲得したのであるから。
     〔Call. Jov. 8)。

つまり、ゼウスは死んだのだ(憤るなかれ)、レーダーのように、白鳥のように、鷲のように、恋情的な人間のように、ドラコーンのように。

2.38.
(1.) 今はもう、当の迷信に囚われた者たちさえも、心ならずではあるが、神々をめぐる迷妄を悟っているように見える。

なぜなら、あなただとても昔の話の、槲の木や石から生まれはしないでしょう
   (Odyss. xix. 163)

むしろ「人間の生まれではあるが」、少し経ってから、木や岩の出であることが見出されるであろう。
(2.) 実際、スパルタではアガメムノーンなる者をゼウスとして崇敬されていると、スタピュロスが記録している。また、パノクレースはといえば、『恋ないし美』の中で、ヘッラス人たちの王アガメムノーンが、ギリシア人たちの王アガメムノーンが恋人アルギュ ンノスのために、アルギュンノス・アプロディーテーの神殿を建立した、と。
(3.) 一方、アルカディア人たちは、アルテミスをいわゆるアパンコメネーとして崇敬していると、カッリマコスが『縁起譚』の中で謂っている。また、メテュムネーでは、コンデュリティスが別のアルテミスとして崇拝されている。また、ポダグラースも、ラコーニアの別のアルテミスの神殿だと、ソーシビオスが謂っている。
(4.) 一方、ポレモーンは、ケケーノス・アポッローンの聖像を知っており、さらにまたエリスでは別に、オプソパゴス・アポッローンのそれが崇敬されている。ここでは、エーリス人たちはアポミュイオス・ゼウスに供犠している。片やローマ人たちは、アポミュイオス・ヘーラクレースに、またピュレトス・〔ヘーラクレース〕にも、ポボス・〔ヘーラクレース〕にも供犠しているが、これらもヘーラクレース一統とともに算入されている。
(5.) アルゴス人たちや<ラコーン人たち>のことは省略しよう。アルゴス人たち は<ラコーン人たちも>アプロディーテー・テュムボーリュコンテュンを信奉し、ケリュティス・アルテミスはスパルタ人たちが崇拝している。なぜなら彼らは、咳をすることを「xeluvttein」と呼ぶからである。

2.39.
(1.) わたしたちによって引用された以上の加筆が、どこからあなたに持ちこまれたと思うか? どうやら、あなたの著作家たちをさえ知らないらしい、あなたの不信仰のために、神なき錯覚の証人として呼んでいるのに、おお、怯懦な者たちよ、あなたがたの全生涯をまったく生き甲斐なく織りこんでいることに。
(2.) 実際、ゼウス・パラクロス〔禿げ頭のゼウス〕はアルゴスで、別の〔ゼウス・〕ティモーロスがキュプロスで崇拝されてきたのではないか? また、アプロディーテー・ペリバソーにはアルゴス人たちが、〔アプロディーテー・〕ヘタイラにはアテーナイ人たちが、〔アプロディーテー・〕カッリピュゴスにはシュラクゥサイ人たちが供犠するのではないか、これを詩人ニカンドロスは「kalligloutos」と、どこかで呼んだが。
(3.) コイロプサラース・ディオニューソスのことはもう沈黙しよう。シキュオーン人たちはディオニューソスを女の部位に配置して、醜行の唱道者を、暴慢の創始者として、跪拝している。彼らにとって神々はこのようなものであり、神々に戯れる彼ら自身もこのようなものである、むしろ彼らは自分たち自身をあざけり、侮辱しているのである。
(4.) こういう神々に跪拝するヘッラス人たちよりも、村において、また諸都市において、言葉なき生き物たちを崇拝してきたアイギュプトス人たちの方が、どれほど善いものを崇拝してきたことだろう。なぜなら、後者は、たとえ獣であったとしても、好色ではなく、淫らではなく、自然本性に反する快楽は一つとして追い求めるものではないからである。これら〔の神々〕がいかなるものか、いったい、なおもっと言う必要があろうか、それらは充二分に説明し尽くされたのだから。
(5.) とはいえ、しかし、今わたしが言及したアイギュプトス人たちは、彼らの儀礼の点で拡散している。彼らのうち、シュエーネー人たちは魚のタイを崇拝し、マイオーテース(maiwvthV)(これは別種の魚である)は、エレパンティネーの住人たちが、オクシュリュンコス人たちは、自分たちの土地の名を冠した魚を、さらにへーラクレオポリスの人々はイクネウモーンを、サイス人たちとテーバイ人たちは羊を、リュコポリスの人々はオオカミを、キュノポリスの人々は犬を、メンピス人たちはアピス神を、メンデース人たちは山羊を〔崇拝している〕。
(6.) しかるに、あなたがた、あらゆる点でアイギュプトス人たちよりもより善い(より劣っていると云うことをためらってだが)者たち、アイギュプトス人たちを日々嘲笑してやめない者たちは、言葉なき動物に関して、いったいどうであろうか? あなたたちの中で、テッサリア人たちは、ならわしどおりコウノトリを崇敬し、テーバイ人たちは、ヘーラクレース誕生にちなんでイタチを崇拝している。さらにまたテッタリア人たちは、どうか? 彼らはミュルメークスを崇拝していると語られている、ゼウスがアリ(murmhc)に身をやつして、クレートールの娘エウリュメドゥサと交わって、ミュルミドーンを生んだと学んできたからである。
(7.) また、ポレモーンは、トローアスあたりに定住していた在地のネズミ(これはsmivnqoVと呼ばれる)が、敵勢の弓の弦をかじった、と記録している。このネズミにちなんで、スミンティオス・アポッローンと添え名してきたのである。
(8.) また、ヘーラクレイデースが『諸神殿の建立』の中でアカルナニアについて謂っているところでは、そこにはアクティオンという岬があり、アポッローン・アクティオスの神殿があって、ネズミたちに牛を供犠する、という。
(9.) もちろん、サモス人たちのことも看過するまい(エウポリオーンの謂うには、サモス人たちは羊を崇拝する)、また、ポイニキアに定住するシュリア人たちのことも。そのある者たちがハトを、或る者たちが魚を崇拝する過剰さは、エーリス人たちがゼウスを崇拝するほどである。

2.40.
(1.) よろしい。あなたがたが崇敬しているのは神々ではないからして、今度は、ダイモーンたちとして、あなたがたが謂うとおり、第二の配置に登録されているのかどうか、考察するのがよいようにわたしに思われる。ダイモーンたちとして、それらが奇神であるかどうかを確認する必要があろうと思われる。もちろん、ダイモーンたちとすれば、それは好色で汚れたものなのだが。
(2.) 諸都市において公然と崇敬を集めている在地のダイモーンたちは、次のとおりさらに見出すことができる、キュトノス人たちのもとではメネデーモスが、テーネオス人たちのもとではカッリスタゴラースが、デーロス人たちのもとではアニオスが、ラコーン人たちのもとではアストラバコスが〔ヘーロドトスvi, 69〕。またパレーロンでも、船尾の一種の半神が崇敬されている。さらにピュティアも、プラタイア人たちに、アンドロクラテースとデーモクラテースに供犠するよう、また、メーディア戦争の最盛期には、キュクライオスとレウコーンに〔供犠するよう〕指示したのである。

2.41.
(1.) 他にも、実におびただしい数のダイモーンたちを、細部を精査できる者には綜観することができる。

すなわち 万物を養う地上には 三万もの
不死なるダイモーンたちが 死すべき人間どもの見張りをつとめる。
(Hes. Op. 252f.)。

(2.) この「見張り」とは何者か、おお、ボイオーティア人よ、言うを惜しむなかれ。明らかに、以上の〔わたしが言及した〕者たちや、それらよりも尊い者たち、つまり、アポッローン、アルテミス、レートー、デーメーテール、コレ−、プルゥトーン、ヘーラヘラクレース、ゼウス本人といった偉大なダイモーンたちであろう。しかし、彼らがわれわれを見張るのは、逃亡しないようにではなく、おお、アスクラー人よ、おそらくは罪を犯さぬように、むろん、罪に試みられたことなどない者たちとして。ここにおいてこそ、次の格言が引用されるにふさわしい。

矯正されようのない父親が子どもを矯正する。
(3.) いやしくもこの連中が見張りなら、われわれへの好意によって見回るのではなく、あなたがたの同郷人の破滅を狙って、追従者たちのように生に接近するのである、煙でそそのかして。ダイモーンたち本人が、たぶん、自分たちの貪欲を白状している。
「灌奠のも脂身の焼ける香りのも。これをわしらは褒賞として享けてきた。
     (Iliad, iv. 49)
と言って。

4.) ネコやイタチのような、アイギュプトス人たちの神々が声を持つとしたら、脂身の焼ける香りや料理の愛好という、ホメーロスや詩人の愛好以外に、いかなる声があろうか? あなたがたのもとでダイモーンたちや神々や、まるで半ロバのように、半神と呼ばれているようなものとは、まさにこのような者たちである。なぜなら、不敬虔の合成するに、あなたがたにとって名辞に欠けるところはないからである。


[Ⅲ.神々への供犠の残酷さ]

3.42.
(1.) それでは、いざ、次のことも付け加えよう、あなたがたの神々がいかに非人間的にして人間を憎むものか、人間どもの乱心を歓ぶだけでなく、あまつさえ人殺しをも享受するのだということを。或る時には競技場における武装した愛勝心が、或る時には戦場における数えきれぬ愛名心が、彼らに快楽の衝動を獲得させた、それは、彼らができるだけ野放図に人間の殺戮を満喫するためである。今はもう、諸都市や諸族民に対して、あたかも疫病が見舞うがごとくに、残忍な聖餐を要求した。
(2.) 例えば、メッセーニア人アリストメネースは、ゼウス・イトーメーテースのために300人を屠殺した、これだけの数のこのような者たちがひっくるめて、百牛生贄祭の吉兆を得ることになると思ったのである。その中にはラケダイモーン人たちの王テオポムポスも入っていて、高貴な生贄となった。
(3.) また、タウロイという族民は、タウリケー・ケッロネーソスの住民だが、自分たちのところにいる異邦人たちの中から選び、それが海で遭難した者たちなら、ただちにアルテミス・タウリケーに供犠した。この犠牲祭は、あなたのエウリピデースが舞台で悲劇上演している。
(4.) また、モニモスは、『驚異譚の著書』の中で、テッタリアのペッラでは、アカイア人をペーレウスとケイローンに供犠された、と記録している。
(5.) つまり、リュクティオイ族(これはクレーテーの族民であるが)は、人間どもをゼウスに生贄とすると、アンティクレイデースが『ノストイ』の中で主張しており、レスボス人たちをディオニューソスに同様の供犠を執り行うと、ドーシダースが言っているからである。
(6.) また、ポーカイア族は(彼らをも看過することをしないからだが)— この連中は、人間をアルテミス・タウロポロスに全燔祭にすると、ピュトクレースが『同心』第3巻の中に記録している。
(7.) また、アッティカ人エレクテウスとローマ人マリオスとの両人は、自分たちの娘たちを供犠した。彼らのうち前者はペレパッタにと、デーマラトスが『悲劇論』第 1 巻の中で、後者はマリオスが厄除け神たちに〔供犠した〕と、ドーロテオスが『イタリア誌』第4巻の中に記録している。
(8.) 以上の事例からして、このダイモーンたちはまぎれもなく人間を愛する存在だと判明する。類比的にいって、迷信深い人々がどうして敬虔でないことがありえようか。前者は救い主として讃えられ、後者は、救いを企む連中から懇願される。とにかく、彼ら自身は、自分たちに吉兆のあることを狙いながら、人間どもを屠殺していることに気づかない。
(9.) 無論、殺人がその場のおかげで犠牲獣になることはなく、ひとが怒りや愛銭のためというよりはアルテミスやゼウスのために、当然聖なる所で、他の似たり寄ったりのダイモーンたちのために、祭壇の上とか道中において人間を屠殺しても、あなたは犠牲獣と縁起をかつぐことはなく、そのような供犠は、殺人であり人殺しである。

3.43.
(1.) それでは、いったいどうしてなのか、おお、自余の動物たちの中で最も賢い人間どもよ、どこかで熊やライオンに遭遇したとき、われわれは狩猛な野獣を避けて、迂回する、

さながらひとがドラコーンを見つけて、跳びすさりわきへ退くよう、
山あいの渓で、しかも足もとへは がたがた震えがとっつき、
すぐ引き返して逃げて行ってしまう。
     (Iliad, III. 33-35)
しかるに破滅的でいまわしいダイモーンたちの方は、策謀的で人間を憎み破壊的であるということを予知し、洞察しながら、あなたがたは迂回することはもちろん、引き返すこともしないのは?
(2.) いったい、悪人どもが何か真理を語ることが ありえようか、あるいは、何か益することがあろうか? とにかく、あなたがたのこれらの神々よりも、ダイモーンたちよりもより善い者として人間を — 預言者アポッローンよりもキュロスやソローンを、あなたに示すことができる。
(3.) あなたがたのポイボスは贈り物を愛する者であるが、人簡を愛する者ではない。彼は友人クロイソスを裏切り、報酬を忘却して(愛名心のあまりに)ハリュス河を渡ってクロイソスを薪火の上まで導いた。このように〔人間どもを〕愛するダイモーンたちは、火へと道案内するのだ。
(4.) しかるに、おお、アポッローンよりも人間を愛し、より真実な人間よ、薪火の上に縛られた者を嘆け、そうして汝、おお、ソローンよ、真理を預言せよ、また汝、おお、キュロスよ、その火を消すよう命じよ。そして最後に慎慮せよ、おお、ク口イソスよ、この受難に学んで。あなたが拝跪していた相手は忘恩の徒であり、報酬を受け取って、黄金の後には今度は嘘をつくのである。「最後を見よ」と言っているのは、ダイモーンではなくて、人間である。両義的なこと〔神託〕を預言しているのはソローンではない。あなたは、おお、異邦人よ、この神託のみが真実であることを見出すであろう。あなたはこ〔の神託〕を薪火の上で吟味することだろう。

3.44.
(1.) ここからわたしは驚かざるを得ない、いったいいかなる幻像に惹かれて、最初に迷走した人たちは、迷信を人間どもに告知したのか、いまわしいダイモーンたちを崇拝するよう立法し、それがポローネウスであれ、メロプスであれ、他の何かであれ、それらのために神殿や祭壇を立て、かてて加えて、供犠さえも捧げるよう最初に神話したのか。
(2.) というのも、おまけに後の時代になって、神々を造型し、これに跪拝したからである。例えば、神々の最年長者の中にいたと言われるエロース、もともとこれを讃える者は一人としていなかった、カルモスがある少年を掠って、欲望が成就したあかつきに、アカデーミアに感謝の捧げ物として祭壇を建立した以前にはなかった。そうして、病の放埒をエロースと呼んだのである、放縦な欲望を神格化して。
(3.) また、アテーナイ人たちはといえば、ピリッピデースが彼らに云うまでは、パーンが何者であるかさえ知らなかった。だから、当然、迷信がはじまりを得たところに、非理性的な悪の源があったのだ。しかるのちに、打ち破られることな く、むしろ増大し、大いに流布し、数多くのダイモーンたちの造物者に仕立てられ、百牛を供犠し、全祭を執り行い、聖像を奉納し、神殿を建立した、
(4.) これらこそは — これらのこともわたしは沈黙する気はない、どころかこれらをも徹底吟味するつもりだ — 縁起をかついで「神殿」と名づけられてはいるが、墓[つまり、神殿と呼ばれる墓]であった。しかるに、あなたがたは、今や迷信を忘れ去って、墓を崇敬することを恥としている。

3.45.
(1.) ラリサのアクロポリスにあるアテーナーの神殿には、アクリシオスの墓があり、アテーナイのアクロポリスにはケクロプスの〔墓〕があると、アンティオコスが『歴史』第9巻の中で謂っている。では、エリクトニオスはどうか? ポリアースの神殿に安置されているのではないか。また、エウモルポスとダエイラとの子イムマラドスは、アクロポリスの下のエレウシノソンの囲域に〔安置されているの〕ではないか。また、ケレオスの娘たちは、エレウシスに埋葬されているではないか。
(2.) ヒュペルボレオイ族の女たちを、あなたに列挙する必要があろうか。両女はヒュペロケーとラーオディケーと呼ばれ、デーロスにあるアルテミシア神殿に安置されたが、デーリオンにあるアポッローン神殿にも安置されている。しかしレアンドリオスは、クレオコスはミーレートスのディデュマイオンに埋葬されている、と謂っている。
(3.) この関係で、ミュンドス人ゼーノーンに従って、レウコプリュネー(マグネーシアーにあるアルテミス神殿に安置されている)の記念墓を省略するのは適切でない、さらに、テルミッサにあるアポッローンの祭壇〔を省略するの〕も〔適切でない〕。この記念墓は、預言者テルミッサのものだと〔伝えられている〕。
(4.) さらに、アゲーサルコスの子プトレマイオスは、『パポス島におけるピロバトールに関して』の第1巻の中で、アプロディーテーの神殿には、キニュラスとキニュラスの子孫が安置されている、と言う。
(5.) しかし、もちろん、あなたがたに拝跪されている墓を巡り歩くことになったら、わたしにとって、

わたしには一生涯をついやしても充分ではないであろう。
(作者不詳断片109a)
しかしあなたがたの方は、敢行されている事柄に何らかの恥が思い浮かばないとしたら、あなたがたは完全な死人になって、死人を本当に信じるものに成りはてる。
何と情けのない方々か、何たるひどい態を見せるのだ、
君らの顔も頭も闇に包まれて
(Odyss. xx. 351-2)。

[Ⅳ.偶像神を崇拝する愚かさと無恥]

4.46.
(1.) さらにこれらに加えて、まさにこれらの聖像を携えて、考察するようあなたがたに提示したならば、近づいて、その習慣が真に馬鹿らしいものであるということを見出すであろう、感覚なき「人間の手の業」〔Psalm 113:12〕を崇敬しているのだ、と。
(2.) さらに、昔のスキュティア人たちは剣を、アラビア人たちは石を、ペルシア人たちは川を跪拝し、他にも人間たちのうち、もっと古い人々は、著名な木を据え、また石から柱を建てた。これらこそ、質料から切り出されたということで、クソアナ( 像〕と命名された。
(3.) 例えば、イカロスにあるアルテミスの神像は、製作された木ではないし、テスピアにあるキタイローンのヘーラー・キタイローニアー像は、切り株が打ち出されたものである。また、ヘーラー・サミアのそれは、アエトリオスの謂うには、もとは板であったが、後に、プロクレースが執政官の時代に、聖像にこしらえられたという。で、クソアナが人間に似せて作成され始めると、ブロトスにちなんで同名「木像 (brete) という名を得るようになった。
(4.) ローマでは、古い槍がアレースの木像であったと、著述家ウゥアッローンが謂っている、術知者たちが、この眉目よい詐術にいまだ突進しない間は。だが、術知が花咲いてから、迷妄が増大した。

4.47.
(1.) そういう次第で、石や木や、簡潔に言えば質料で人の形をした聖像を彼らは作ったのであり、真理を誣告してこれに敬虔のふりをさせたことは、もはやおのずと明らかである。そのためにいかばかりかの立証の場が必要だとしても、それを求める必要はなかろう。
(2.) もちろん、オリュムピアにあるゼウスや、アテーナイにあるポリアース〔都市守護神つまりアテーナー〕は、ペイディアスが黄金と象牙からこしらえたことは、きっと万人に明白であろう。また、サモスにあるヘーラーの木像は、エウクレイデースの子スミリスによって作られたと、オリュムピコスが『サモス誌』の中に記録している。
(3.) されば、猜疑してはならない、アテーナイでセムノイと呼ばれる神々のうち、2体はスコポスがいわゆるリュクノス石から作り、彼が「ランプ石」と呼ばれているもので 2 体のスコタイを作り、それらの間にあるのはカロースが〔作った〕。ポレモーンが『ティマイオス注釈』第4巻に記録しているとわたしはあなたに示すことができる。
(4.) また、リュキアのパタラにあるゼウスとアポッローン聖像は、これと一緒に奉納されているライオンたちと同様、ペイディアスが製作した<かどうか>〔猜疑する必要は〕ない。だが、一部の人たちが謂うように、ブリュクシスの技倆だとしても、わたしに異論はない — あなたはこの聖像作者をも持っているわけだ。彼らのどちらでもお望みの者を作者に帰するがよい。
(5.) さらに、アテーナイ人テレシオスの作品は、ピロコロスの謂うように、テーノスで跪拝されている、ポセイドーンとアムピトリテーとの9肘尺の神像である。というのは、デーメートリオスは『アルゴリス誌』第2巻の中で、へーラーのクソアノンの材料を西洋梨木、作者をアルゴスに帰しているからである。
(6.) 多衆はたぶん、知ったらきっと驚くことだろう、DiopethvV〔「ゼウスから墜ちたもの」の意〕と呼ばれるパッラディオン — 記録では、ディオメーデースとオデュッセウスがイーリオンから持ち出し、デーモポーンに預けた — が、ペロプスの骨からこしらえられたことは、ちょうどオリュムポス像が別のインドの獣の骨からできているごとくである。まさしく著述家としてディオニュシオス『キュクロス』第5巻を典拠とする。
(7.) しかしアペッラースは、『デルポイ誌』の中で、パッラディオンは2つある、どちらも人間どもによって製作された、と謂う。しかし、これらもわたしが無知からして怯んでいるのだと思わないよう、アテーナイにあるディオニューソス・モリュコスの聖像を提示しよう、これはペッラタと呼ばれる石からできているが、製作はエウバラモスの子シコーンであることは、ポレモーンが書簡の中で謂っているとおりである。
(8.) さらに、他にも2つのクレーターの人像作家(スキュッリスとディポイノスと名づけられている)がいたとわたしは思う。彼らはアルゴスにあるディオスクゥロイの神像をこしらえ、ティリュンスにあるヘーラクレースの人像と、シキュオーンにあるアルテミス・ミューニュキアの木像をこしらえた。

4.48.
(1.) いったいどうして、こんなことで暇つぶししていられよう、大いなるダイモーンそのものを、それが何であるかをあなたがたに示すことができるのに、—〔その大いなるダイモーン〕これこそは何にもまして格段に崇拝の価値ありと聞いてきたところのもの、これは手でつくられたものではないと人々が敢言しているもの、つまり、アイギュプトスのサラピスを。
(2.) 例えば、或る人たちは、それはシノーペー人たちによってアイギュプトス人たちの王プトレマイオス・ピラデルポスに聖像として送られたと記録し、飢饉に苦しめられる彼らにアイギュプトスから穀物を遣わされて[プトレマイオスが]生き返らせたが、この木像はプルゥトーンの聖像だという。彼はこの聖像を受けとって、現在ラコーティスと呼ばれる岬に安置し、そこにはサラピスの神殿も尊ばれており、土地はこの場所に近い。妾のブリスティケーがカノーボスで命終すると、プトレマイオスはこれを移送して、先に明らかにした區域に埋葬した。
(3.) しかし他の人々が謂うには、サラピスとはポントスの偶像(brevtaV)であり、全祭的敬意とともにアレクサンドレイアに移入されたという。しかしイシドーロスだけは、この聖像はアンティオケイアに近郊のセレウコス家の人々から送られてきたと言い、彼ら自身も食糧危機に陥り、プトレマイオスによって養われたと。
(4.) ところが、サンドーンの子アテーノドーロスはといえば、サラピスを古めかそうと望んで、どこで躓いたのかわからないが、これが作られた神像であるということを吟味した。彼は謂う、アイギュプトス王セソーストリスは、ヘッラスの族民の大多数を征服して、アイギュプトスに帰還する際、充分な数の技術者たちを連れ帰った。
(5.) されば、自分の父祖オシリスが豪華絢爛に粉飾されるよう命じ、匠ブリュアクシスがこれをこしらえたが、彼はアテーナイ人ではなく、あのブリュアクシスと同名の別人である。この者は、造型に際し、混合したさまざまな材料を混ぜ合わせた。というのは、金、銀、青銅、鉄、鉛、さらに加えて錫の鑢屑、アイギュプトスの石は1つとして欠けることなく、サッペイロス、血石、スマラグドス、他にはトパーズの破片。
(6.) されば、全体を粉末にし、混ぜ合わせて、蒼黒く色づけ、そのため、神像の色は黒くなった、さらに、オシリスとアーピスの葬儀で残された薬草によって全体を捏ね、サラピスを造形した。葬儀の共有と埋葬の造形の名称は謎であるが、オシリスとアーピスとから構成されたのがオシラピスである。

4.49.
(1.) さて、アイギュプトスにおいて、ヘッラスにおいてはたいていそうだったのだが、新規な他の神をローマ人たちの皇帝で、ゼウスがガニュメーデースに〔惚れこんだ〕ように、若さの盛りにあって非常に美しい恋人アンティノオスを恭しく神格化した。というのは、欲望は畏れを持たないので、容易には抑えらないからである。そして人々は今、アンティノオスの聖なる夜を跪拝するが、この夜を破廉恥として、ともに徹宵する念者は知悉していた。
(2.) 淫行によって崇敬されている神を、わたしに枚挙してくれることがあろうか。さらにまた、息子として痛むよう命ずる必要があろうか。さらにまた、その美しさを説明してくれることがあろう。傲りにやつれた美は醜い。 人間よ、美の僭主になるなかれ、花咲く若さに傲るな。それが美しいものであるために、清浄なものとして守れ。美の王たれ、〔美の〕僭主ではなく。自由をしてとどまらしめよ。そなたの似像を美しいものとして守るとき、そのときわたしはあなたの美を知ることになるだろう。美しいものらの真の原型となるとき、そのときわたしは美を跪拝しよう。
(3.) 今はもう、恋人の墓が、アンティノオス神殿であり、都市である。わたしが思うに、まるで神殿のように、墓が、ピラミッドが、御陵が、迷宮が、死者たちの他の神殿が驚嘆される、その他のものは神々の墓である。

4.50.
(1.) そこで、教師としてあなたがたのために女預言者シビュッラを引用しよう。

わたしは虚偽を託宣するフォイボスの〔預言者〕ではない。その者を、愚かな人間どもは
神と云い、預言者と詐称したのだ。
いや、わたしは大いなる神の予言者である。人々の手はこのかたを造形したことはかつてない、
物言わぬ石の偶像ではないからだ。
    (iv, 4-7)
(2.) だが、この〔女預言者〕は神殿の崩壊を予言し、エペソスにますアルテミスの〔神殿〕をば、「地の裂け目と地震によって」〔V-294〕沈むとして、次のように予言している。
エペソスはその転落を嘆くだろう、ネイロスの岸辺で泣きながら、
もう住む人のいない神殿を探し求めながら。
     (v, 296-7)

(3.) 他方、アイギュプトスにあるイシスとサラピスの〔神殿〕は、倒壊し焼尽すると彼女は謂う。

イシス、三重に惨めな女神よ。おまえはナイルのほとりに、
ただひとりでとどまるだろう。アケロンの砂浜に〔立つ〕
(v, 485-6)
それに続ける。
また汝、多くの削られていない石を負わせられたサラピスよ、
三重に惨めなエジプトにおけるもっとも激しい災疫が(おまえのために)備えられるだろう。
     (v, 488-9)
(4.) しかし、あなたとしては、女預言者に傾聴しないなら、あなたの哲学者、エペソス人、聖像の無感覚を悪罵しているへーラクレイトスに聴くがよい。「また、彼らがあちこちの聖像に祈りをささげているのも、まるで家屋を相手にしゃべるかけているようなものだ」〔断片5〕。 (5.) というのは、石を崇敬する人たちや、しかのみならず、戸口の前までそれを活動するもののごとく立てる人たちが、そうして奇っ怪でないことがあろうか。彼らはヘルメースを神として跪拝し、アギュイエウスを門番に立てる。というのは、もしそれらを無感覚のものとして侮辱するのなら、どうして神々として拝跪することがあろうか。しかし、それらが感覚に与っていると思うのなら、どうしてそれらを門番として立てることがあろうか。

4.51.
(1.) ローマ人たちはといえば、最大の成功をテュケーに帰し、これを最大の女神とみなして、厠に持ちこんでこれを奉納した、便所をこの女神の神殿にあたいすると認めたからである。
(2.) たしかに、無感覚な石や木や高価な黄金には、薫香も、血も、煙も、依って以てじかに崇敬され燻されて黒くされるものには、少しも気にならない。いやそれどころか、崇敬も侮辱も気にしない。どんな動物よりも不名誉な存在なのが、聖像なのである。
(3.) いや、それどころか、この感覚なきものらが、はたしていかにして神格化されてきたのか、わたしにとっては行き詰まりに陥るし、無知ゆえに迷妄に陥っている人たちを憐れむ気にもなる。というのも、もし、生き物たちの中の或るものら、例えば蛆とか芋虫とか、最初の誕生を通してすぐに不具として現れたかぎりの、ちょうどモグラや、ニカンドロスが「眼が見えぬ恐ろしい」と謂う〔有毒生物誌815〕イタチネズミ〔HA604b19〕とかは、いかなる感覚も持たないものらとしよう。
(4.) しかし、それでも、完全に聾唖であるこれらの木像や神像よりも善いのである。なぜなら、少なくとも1つの感覚のようなものは有している、聴覚とか触覚とか、嗅覚や味覚による推量を謂おう。だが、1つの感覚にさえ与っていないのが、聖像なのである。
(5.) しかし、生き物たちのうち、視覚さえ持たず、聴覚も、もちろん声ももたないかぎりのものらは多数で、例えば貝の類もそうであるが、生きているかぎりは生長もし、かてて加えて、月によって影響されさえする。対して聖像はといえば動きなく、無為、無感覚で、結びつけられ、釘を打ちこまれ、膠着させられ、融解させられ、やすりをかけられ、鋸ひかれ、磨かれ、曲げられる。
(6.) まさしくものいわぬ大地をば傷めつけるのが、聖像作者たちである、その固有の自然本性から逸脱させ、術知に跪拝するよう口説いて。しかるに、神作りたちの方が跪拝しているのは、少なくともわたしの感覚では、神々やダイモーンたちではなく、大地(土)と術知であり、その結果こそが聖像である。というのは、実際、聖像とは術知者の手で造形された死せる素材だからである。しかるに、われわれには感覚的素材の感覚的なものはなく、聖像は可考的なものである。神[聖像]は感覚的なものではなく、可考的なのは、唯一真なる神である。

4.52.
(1.) いや、そればかりか、逆に、いつか危機そのものに際し、迷信家たち、つまり、いしの跪拝者たちは、感覚的な素材を崇敬してはならないと事実によって知りながら、その必要性に負けて、迷信によって破滅させられる。そして神像を軽蔑ているにもかかわらず、それをまったく蔑ろにしているように見られることを望まず、まさに聖像が公称される神々そのものによって批判されるのである。
(2.) 例えば、若き僭主ディオニュシオスは、シケリアにあるゼウスから黄金の衣を剥ぎ取って、これに羊毛製をまとわせるよう命じた、これの方が黄金製よりもはるかに善い、夏には軽く、冬には暖かいと謂ってである。
(3.) また、キュジコス人アンティオコスは、金銭に困窮して、大きさ15肘尺の黄金製のゼウスス聖像を鋳造するよう命じ、その横に、もっと安価な別の素材の、金箔におおわれた聖像を奉納するよう〔命じた〕。
(4.) ところが、ツバメたちや鳥類の大部分がそれらの聖象に飛来しては糞をひっかけ、ゼウス・オリュムピオスだとも、アスクレーピオス・アピダウリオスだとも、ましてアテーナー・ポリアースだとかサラピス・アイギュプティオスだとも気にせずにである。こういった事柄からも、聖像の無感覚をあなたがたは学び知ろうとしない。
(5.) もっとも、悪行者とか敵のような連中が襲来して、汚い金儲け好きのために神殿に火をかけ、奉納物を略奪したり、あるいはまた聖像そのものを融かしたりする。
(6.) そして、もしカンピュセースやダレイオスとか、他の狂った人物がこのような行為を手がけたり、アイギュプトスのアーピスを殺害した者があれば、自分たちの神を殺害したとしてわたしは笑う一方、利得のために過ちをおかしたのなら、憤慨することであろう。

4.53.
(1.) そういう次第で、この悪行のいずれかは故意に忘れることにしよう、貪欲の所行とみなし、しかし聖像の弱点の吟味とはみなさないからである。しかしながら、火や地震はもはや有効ではなく、ダイモンたちも諸々の聖像も畏れさせたり恥じさせたりすることなく、波を打ち寄せる岸の小石ほどの効果もない。
(2.) わたしは、火が迷信の吟味と治癒の効力を持つことを知っている。もしあなたが無知を止めたいと望むのであれば、火があなたを照らし導くだろう。この火こそが、アルゴスにあった神殿を、女神官クリュシスともども焼き払い〔歴史IV, 133〕、またエペソスにあったアルテミスの〔神殿〕を、アマゾン女人族の2度目に、またローマにあったカピトル〔神殿〕もしばしば炎上させてきたのだ。また、アレクサンドレイアの都市にあったサラピス神殿さえ容赦されることはなかった。
(3.) というのは、アテナイでは、ディオニューソス・エレウテレオス神殿を倒壊させ、デルポイにあるアポッローン〔神殿〕を、先ず竜巻が強奪し、次いで慎み深い火が消滅させた。これはあなたに、火が請け合ってくれることの前置きを示してくれている。
(4.) ところが、聖像の製作者たちは、あなたがたのうちの思慮ある人々が、素材を軽蔑することを恥じ入らせるのではないか。片や、アテーナイ人ペイディアスは、ゼウス・オリュムピオスの指に「パンタクレースは美しい(PantavrkhV kalovV)」刻銘した。というのは、彼にとって美しいのはゼウスではなく、恋人だったからである。
(5.) 片やプラクシテレースはといえば、ポシディッポスがクニドスに関する書の中で明らかにしているとおり、アプロディテ−・クニディアの聖像をこしらえた際、恋人クラティネーの像に似せてこれを作ったのは、それは憐れむべき人々が、プラクシテレースの恋人を拝跪できるためであった。
(6.) そして、テスピアスの高級娼婦プリュネーが華盛りの頃、肖像画家たちはこぞってアプロディーテーの似像をプリュネーの美になぞらえた、それはまた、アテーナイの石工たちが、ヘルマース像をアルキピアデースに似せたのと同様である。高級娼婦たちでも拝跪することを望むかどうか、これはあなたの判断の仕事に負わせて残されよう。

4.54.
(1.) ここからして、わたしが思うに、古の王たちは、これらの神話を軽蔑し、人間どもから危険がないゆえ、自分たちを神そのものだと勝手に宣言した、こうして栄光ゆえに彼らもまた不死となったと教えてである。ケーユクスの方は、妻のアルキュオネーによってアイオロスのゼウス、逆にアルキュオネーの方は、夫からヘーラーと命名された。
(2.) また、プトレマイオス4世はディオニューソスと呼ばれた。またポントスの王ミトリダテースは、これもまたディオニューソス。さらにまたアレクサンドロスも、アムモーンの息子と思われるよう、角の生えた者として塑造されるよう聖像作者たちに望んだ、人間の美しい顔を、角で侮辱することを熱望したのである。
(3.) いや、王たちばかりではなく、私人たちも、自分たち自身を神的な名称で荘厳した、例えば、医師メネクラテースは、こいつはゼウスと添え名された。アレクサルコス(こいつは、サラミス人アリストスの記録では、知識において文法学者となり、自分をヘーリオスになぞらえたという)をわたしがあげる必要があろうか?
(4.) どうしてニカゴロスまで想起する必要があろうか。(生まれは〔ポントスの〕ゼレイア人で、アレクサンドロスの時代に存命した。このニカゴロスはへルメースと命名され、ヘルメースの衣裳を身に付けたと、本人が証言している)、
(5.) まさに、あらゆる族民も諸都市もその住民ともども、へつらいを身につけ、神々に関する神話を貶し、人間どもがおのれを神々に等しいものとして装い、栄光に傲り、思いあがった名声をおのれに投票するのである。今や、ペッラ出身のマケドニア人、アミュンタスの子ピリッポス、「鎖骨を折り、手と脚を不具にし」〔デモステネス「冠について」〕、目を抉り出されたやつ、を拝跪することをキュノサルゴスで立法した。これに対してキュノスアルゲ スで崇拝することを議決した。
(6.) さらにまた、デーメートリオス本人をも神と公的に宣言した。そして彼がアテーナイに入城して下馬したところには、デーメートリオス・カタイバトスの神殿があり、祭壇は至るところにある。また結婚も、アテーナーとのそれがアテーナイ人たちによって彼のために整備された。ところが彼はといえば、女神に対しては横柄であった、聖像は結婚できないからである。しかし高級売春婦のラミアーの方は、これを連れてアクロポリスに上り、アテーナーの婚礼の部屋で交わった、古い処女に、新しい女友だちの格好を見せびらかせて〔プルゥタルコス「デーメートリオス」10,23:26〕。

4.55.
(1.) されば、おのれの死を不死化させたヒッポーンには、義憤のあるはずもない。このヒッポーンは、おのれの墓に次のようなエレゲイア詩を刻むように命じた。

これはヒッポーンの墓、衰えたる彼を、
モイラが不死なる神々に等しいものとしたところの。
     〔PLG. ii. 259〕
よくぞ、ヒッポーンよ、人間的な迷妄をわれわれに示してくれた。というのも、そなたが語ろうとも信じなかったにせよ、彼らは死者の弟子となったからだ。それこそがヒッポーンの託宣である。彼を思考しよう。
(2.) あなたがたのもとで拝跪される者たちは、かつては人間であったが、しかしながらその後死んでしまった。だが、神話と時間が、彼らを栄化した。というのは、どういうわけか、現存するものらは、慣れのせいで軽蔑されやすいが、過去のものらは、直接的な吟昧からは離れているので、時間の不明瞭な造形によって栄化され、前者は信じられないが、後者は驚嘆されがちなのである。
(3.) とにかく、こういう次第で、昔の死者たちは、迷妄の長い時間を経て、後世の人々から崇敬されて、神々とみなされる。あなたがたにとってそのことの信は、あなたがたの秘儀そのもの、つまり、全祭、緊縛、傷、そして落涙する神々、である。
やれやれ、何たることか、人間のうちわけても愛しいサルペドーンが、
メノイティオスの子 パトロクロスに 討ち取られるのが定めであるとは。
(Iliad, xvi. 433-4)
(4.) ゼウスの意向は抑えられ、あなたがたのゼウスは打ち負かされたサルペードーンのために哀哭するのである。だから、あなたがた自身が彼らを偶像とかダイモーンとか呼んできたのは当然なのである、ホメーロスは、アテーナーそのものをも、その他の神々をも、わるく崇敬して、ダイモーンたちと命名したのだからである。
さて女神の方はオリュンポスへと
雲楯をたもつゼウスの宮居に 他のダイモーンたちの間へと去ってしまった。
     (Iliad, i. 221-2)
(5.) それでは、どうして、影像やダイモーンたちが、真に忌まわしく不浄なる霊であるのに、なお神々たりうるだろうか、万人から、土的で汚らわしく、下方に沈み、「墓や墳墓のあたりを巡り」 、そこでは「影を帯びた亡霊のごとく」 かすかに現れるというのに。

4.56.
(1.) 以上の偶像が、あなたがたの神々、影像であり、かてて加えてそれらは、ゼウスの娘たちであるよりはむしろテルシテースのリテー〔祈願の女〕たち、「足萎えで、皺がより、両眼とも斜視でおわす」〔Iliad, ix. 503〕ゆえ、わたしにはビオーンがこう謂うのは優美なように思われる、「一体どうして、人間どもが子孫繁栄を義をもってゼウスに祈願できようか、彼自身にももたらすことのできないのに」。
(2.) 悲しいかな、無信仰。あなたがたは力のかぎり、混ぜもののない有性を泥に埋め、あのまぎれなき聖なるものを墓に埋葬した、真に在りてある有性から神性を奪い取って。
(3.) それでは、一体なにゆえ、あなたがたは神の賜物を、神ならざる者たちに帰するのか。何故、天を蔑ろにして、大地を尊重してきたのか。金、銀、金剛石、鉄、青銅、象牙、宝石以外に何があるのか。これらはみな大地であり大地の産物ではないか。あなたが目にしているこのようなものは皆、ーなる母つまり大地の所産ではないか。
(4.) それではいったいどうして、おお、愚かしく虚しい者どもよ、(もう一度繰り返そう)あなたがたは天上的な場を呪って、敬虔さを地面に引きずり下ろし、地上的な連中をあなたがたにとっての神々に仕立て、これら作られたものを創られざる神と取り換えて、より深い闇に陥ってしまったのか。
(5.) パロス島の石は美しい、だがポセイドーンは決してそうではな い。大理石は美しい、だがオリュムピアの神はそうではない。素材はつねに術知を必要とするが、神は何物をも必要とはされない。術知が先行し、形態を素材が覆い、有性の富裕さは利得めざして導きはするが、威厳が生じるのは形態によってのみなのである。
(6.) あなたの聖像は、もしあなたが上なる世界に思いを致すなら、黄金製であり、木製であり、石製であり、土製であり、形は術知者から付け加わったものである。大地をばわたしは歩みはするが、拝跪はしないよう心がけてきた。なぜなら、霊の諸々の希望が、無魂のものら信じるというのは、わたしにとってまったく神法に悖ることだからだ。

4.57.
(1.) されば、聖像には可能なかぎり近づくべきである、その迷妄がいかに自ずからのものであるかが、単なる直視によっても吟味されるからである。というのは、聖像の形が、ダイモーンたちの面影を必ずや留めているはずである。
(2.) 実際、ひとが書物や聖橡を経巡って観察するなら、あなたがたの神々について、その非難されるべき特性をたちどころに覚知するであろう、すなわち、ディオニューソスはその衣裳から、ヘーパイストスはその術知から、デーオーはその災難から、被り物からはイーノーを、三叉鉾からはポセイドーンを、白鳥からはゼウスを。また、ヘーラクレースを示すのは門であり、ひとが描かれた裸体の女性を見れば、「黄金の」アプロディーテーと悟るのである。
(3.) このようにして、キュプロス島のピュグマリオーンは象牙の聖像に恋したのである。それはアプロディーテーの聖像であり、裸体であった。このキュプロスの男は姿に打ち負かされ、聖像と交合したと、これはピロステパノスが記録している。他方、クニドスにある別のアプロディーテーは石造であり、美しく、他の男がこれに恋して、石と交わった。これはポシディッポスが記録しているが、前者はその『キュプロスについて』の中で、後者はその『クニドスについて』の中においてである。術知は、恋する人間どもにとって、処刑抗に導くまでに強力なのである。
(4.) なるほど、造形術は強力であるが、思量を欺くほど、あるいはロゴスに従って生きてきた者たちを欺くほどではない。例えば、陰影画の模倣術によって描かれた絵画上の鳩に、絵画術を通じての類似性によって描かれた家鳩たちにのところに山鳩たちが飛来し、馬は、美しく描かれた馬に向かっていななく。乙女は似像に、美しい若者はクニドスの神像に恋する言われているが、術知に欺かれるのは、見る者たちの視覚である。
(5.) なぜなら、慎慮ある人間であれば、女神と絡みあったり、死人の女とともに葬られたり、ダイモーンや石に恋したりする者は居ないからである。だが術知は、恋情に向けて導くことはなかろうとも、聖像や絵画を崇敬し拝跪するようにと、別の魔術を通してあなた方を欺く。
(6.) 絵画こそ同じである。術知をして称賛されしめよ、だが、真実として人間を欺かせしむるな。馬は静かに立っており、山鳩は鳴かず、その翼は動かないが、ダイダロスの牛は、木でできていながら野生の牡牛を捉え、そしてその術知は野獣を迷わせ、恋した女性にのしかかるよう強制する。

4.58.
(1.) これほどの激情は、術知が悪用されて愚かな者たちに植えこんだものである。しかしながら、猿どこはといえば、その養育者や飼育者が驚嘆したのは、蝋とか泥とかの模造品や少女の装身具のどれひとつとして連中を欺くことがないということである。ところがあなたがたときたら、石や木や黄金や象牙でできた聖像や絵画に献身しているとは、猿にも劣る者となっているのであろう。
(2.) あなたがたにとってのこれほどの破滅的な玩具の制作者たちこそ、石工や肖像作家、画家、彫刻家、詩人たちであり、多くのそのような群れを生み出す。野にはサテュロスたちやパーンたち、森や丘や樹上のニュンペーたち、もちろん、たにも水辺や泉のまわりにはナイアースたち、海辺のネーレーイスたちをである。
(3.) さて、マゴス僧たちは、ダイモーンたちこそ当の自分たちの不敬虔の奉仕者だと豪語し、連中を自分たちにとっての家僕として登録し、呪文に不可欠な奴隷たちとしている。そこでさらに、神々の婚姻や子作り、出産の床などが想起され、姦通が歌われ、祝宴が茶化され、飲酒の場面の哄笑導入されて、たとえわたしが沈黙しようとしても、わたしが声を挙げるように勧告するのである。悲しいかな、無信心さよ。
(4.) あなたがたは天を舞台とし、あなたがによって神性は演劇に作られ、あなたがたは聖牲をダイモーンたちの仮面によって喜劇化した、真なる敬神を迷信でもって茶番にして。

4.59.
(1.)

たちまちポルミクスを掻き鳴らすと、美しく歌い始めた
     (Le. viii. 266)
ホメーロスよ、われらのために美しい声で歌え。
アレースと冠もみごとなアプロディーテーが逢い引きの段を。
すなわち最初に、この両神がこっそりと、ヘーパイストスのお屋敷内で
密通をしたところから、数多の贈り物のこと、ヘーパイストスのみことの
閨や褥を汚した次第を
     (Odyss. viii. 267-270)

(2.) やめよ、ホメーロスよ、その歌を。美しくない、姦通を教えるのは。われわれは耳で姦淫することさえも断る。なぜなら、われわれは、人間というこの生きて運動する神像の内に、神の似像を、共住する似像、忠告者、ともに交わり、ともに食し、同苦し、同情者としてまとっているのだ。われわれはクリストスのために神への捧げものとなったのだ。
(3.) 「われわれは選ばれた種族、王の祭司団、聖なる民族、確保へといたる民であって、かつては「民でない者」であったが、今では神の民」〔1ペトロ 2:9〕。イオーアンネースによれば、「下からの者」ではなく、上から来たりてすべてを学びつくし、神の摂理を知悉し、「生命の新しさのうちに歩む」〔John viii. 23. iii. 31. iv. 25〕ことに心がける者たちなのだ。

4.60.
(1.) だが、以上は多衆の知慮するところではない。彼らは恥や恐れを投げ捨てて、ダイモーンたちの不自然な情欲をおのが家に描く。実際、放逸な欲望に傾注して、空中に掲げられた描画の絵馬のようなもので寝室を飾っているのである、放縦を敬虔とみなして。
(2.) そして寝台の上に寝そべりながら、まだもつれ合いのさなか、絡みあったところを緊縛されたあの裸体のアプロディーテーを見上げ、またレーダーに恋慕する、恋する愛欲の白鳥を思い描き、女性性の表現を受け入れて、包帯で刻印し、ゼウスの放坪に棺応しい封印を用いる。

4.61.
(1.) 以上が、あなたがたの官能の原型であり、これが傲りの神学であり、これがあなたがたとともに姦淫する神々の教えなのである。というのは、アテーナイの弁論家によれば、「自分が望んでいることは、そのとおりにまた実現すると考えるものだ」〔デーモステネース『オリュントス情勢』III, 19〕からである。他方、あなたがたの他の似像は 一体いかなるものかといえば、一種の小パーン、裸体の乙女、酔っ払ったサテュロス、陽根の張りぼて、絵画で裸にされ、その下品さから非難されるものら。
(2.) そればかりか、まったき無節度の画像が公然と描かれているのを目にしても、あなたがたは恥じ入るどころか、なおもっと懸けられるよう守り、あたかもあなたがたの神々の似像であるかのように、その破廉恥な記念碑を家の中で家宝みたいに扱い、フィライニスのポーズ絵をあたかもへーラクレースの功業でもあるかのように捧げ持つのだ。
(3.) これらを用いることのみならず、それらを見たり聞いたりすることすら忘れ去るようにわれわれは宣伝する。耳があなたがたに売春し、眼が姦淫し、絡み合いの前に、視覚があなたがたを新たに姦通してしまう。
(4.) おお、人間に暴力を振るい、被造物に内在する神性を反駁によって叩き出してきた者たちよ、あなたがたは何ものをも信じないが、それはあなたがたが情動に耽るためなのだ。そして影像を信じるのは、その無節度を熱望するためであり、神を信じないのは、慎慮に堪えられないからである。そうしてより勝ったものは憎み、より劣ったものは尊重してきた、徳は傍観し、悪はその競合者となりおおせて。

4.62.
(1.) そういう次第で、いわば、「幸いなる者ども」とは、こぞって、シビュッラによればみなあの者たちのみである。

彼らはいかなる神殿や祭壇を見てもこれを拒否する。
物言わぬ石でできた無価値な像をもまた。
また石像も、木像も、手製の聖像をも。
それらは生命あるものらの血や
四足獣の犠牲に穢れているからである。
     〔Oracula Sibyllina iv. 28-30〕

(2.) というのも、欺瞞の術知を行うことはわれわれにとって明確に禁じられているからにほかならない。「なぜなら」と預言者は謂っている、「あなたがたは、上は天にあるもの、下は地にあるもの、そのすべての似像を作ってはならない」〔Exo. xx. 4)、と。
(3.) はたして、われわれは今でもなおプラクシテレースのデーメーテールやコレーや神秘的なイアッコスを神々と見なしたり、リュシッポスの術知やアペッレースの手腕を、これこそ神の栄光の形姿を素材によってまとったものと、きっと考えているだろう。いや、あなたがたは、いったいどうすれば人像がこのうえなくみずみずしくこしらえられるかに腐心しはするが、どうすれば自分たち自身がどのようにすれば無感覚によって人像たちに同化されずにすむかということに、配慮することはない。
(4.) とにかく、きわめて明瞭かつ簡潔に、預言者の言葉はこの習性を反駁しているのである。「族民たちの神々はみな、ダイモーン的なものらの偶像である。しかし神は諸天と、天にあるものらとを創りたもうた」〔Ps. xcvi. 5〕。

4.63.
(1.) しかしながら、ある者たちは、どうしてなのかわたしにはわからないのだが、そこから迷妄に陥り、神に跪拝するのではなく、神的な術知をば、太陽や月や、星辰のその他の合唱舞踏隊、これらを、時間の計測器にすぎないのに、不合理にも神々と解して、跪拝するのである。「なぜなら、あのかたの言葉によってそれらは確定され、万軍はあの方の口の息によって〔確定された〕からである」〔Ps. xxxiii. 6〕。
(2.) いや、人間の術知は、家や神殿や諸都市や書物を制作したが、神がどれほどのものらを創られるか、どうしてわたしに云えよう。世界全体を見よ、あのかたの業である。天も太陽も天使たちも人間たちも、「あのかたの指の業」〔Ps. viii. 3〕である。
(3.) 神の力や、いかほどであることか。その意思のみで世界が創造される。というのは、神が独り創造したゆえんは、神は真に唯一だからである。単に意思するだけで制作し、彼がその気になるだけで、生成が付き従う。
(4.) ここからして、哲学者たちの群は、人間は天を観賞するために生まれたと全美に同意しながら、天界に見られるものらや、視覚に捉えられるものらに跪拝するという点で逸脱している。なぜなら、天にあるものらが人間の作品ではないにしても、人間どものために制作されているものだからである。
(5.) そこで、あなたがたの中の何びとをしても、太揚を跪拝せしむるな、むしろ、太陽の創造者を渇望せしめよ、宇宙を神格化せしむるな、むしろ、宇宙の制作者を探究せしめよ。すると、どうやら、救いの門に到達せんとする者に唯一の逃れ場として残されているのは、神的な知恵だけであるらしい。ここからして、救済へと急ぐ人間は、ある種聖なる避難所からのように、いかなるダイモーンに取り憑かれる者になることはないのである。

2016.07.14.

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