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back.gif偽ディオニューシオス・アレイオパギーテース『天上位階論』(解説)


偽ディオニューシオス・アレイオパギーテース

天上位階論(本文)
(De caelesti hierarchia)






(7)
司祭ディオニューシオスより同僚の司祭ティモテオス[001]へ『 天上の位階について』

<Ⅰ.>

神の照明はすべて善であるがゆえに、摂理されるべきものへ多様な仕方で発出するが、それは純一に止留しているだけでなく、照明されるものを統一もするということ。

Archangels
<1>

 「良い贈り物、完全な賜物は皆、上から、もろもろの光の父から降りて来るのである[002]」〔ヤコ1:17〕。しかし、父が原動力となつて光を照射する発出はすべて、善を分与するものとしてわれわれのところにやつて来つつ、統一する力としてわれわれを再び元の上の方に戻し、統合者たる父の一性と神化的[003]純一性に還帰させるのである[004]
 実際、聖なる言葉[005]が述べたように、「すべてのものは、神から出て、神に向かっている[006]」〔ロマ11:36〕のだからである。

<2>

 それゆえ、われわれは、父の光であり、実在する光であり、「世に来るすべての人を照らすまことの光であるイエスの加護を祈って、「この方によって[007]」光の源である父に近づいたのである。われわれはいとも聖なる聖書[008]の〔うちに表れている〕父から与えられた照明に可能な限り目を向け、その照明の下で象徴的かつ神秘的にわれわれに開示される天上の (8) 知性[009]の位階を、できる限り観想しよう[010]。形象で表された象徴によって天使の至福なる位階をわれわれに開示する神性の根源たる父からの根源的な、しかもあらゆる根源を超えた光の贈り物を、知性の非物質的な揺るぎないまなざしをもってわれわれは受け入れて、それによって逆にその光の贈り物からその純一なる輝き[011]へ向かって上昇しよう。
 というのも、この輝きそのものは自分自身の単ーなる内面性をけっして失うことがないからであり、摂理によって導いたものたちを引き上げて一つに統合するために[012]、善にふさわしく多化し発出[013]しながらも不動の同一性に 永遠に固定しつつ、それ自身の内に確固としてとどまっているのだからである。それは自分に向かって力の限り昇ってくる者たちをそれらの本性に応じて自分のところに引き寄せ、自分自身の純ー化するー性によってーつにまとめるのである。というのも、神性の根源の光線がわれわれを照らすということ[014]は、その光線が神秘のうちに多種多様な聖なる帳(とばり)に隠れて、父としてわれわれを摂理しつつその帳によって〔われわれの〕本性に合わせて適切に表れる、ということと別のことではありえないのだからである[015]

<3>

 それゆえ、聖化の根源は、われわれのいとも聖なる位階[016]を設立するのに、天上の位階をこの世を超えた仕方で模倣するのがよいと考え、今述べたこの非物質的な〔天上の〕位階をもろもろの物質的な姿や形を組み合わせて多彩に飾り立て、われわれの位階を作り与えたのである。それ〔聖化の根源〕がそうしたのは、われわれが自分自身の能力に応じてそのいとも聖なる形象によって純一なる非形象的な神秘的意味と類似へと高められるためである。というのも、われわれの知性は自分に適した物質的な導きを享けるのでなければ、天上の位階のあの非物質的な模倣と観想に昇っていくということができないからである。われわれの知性は〔現実に〕現れている美しさを (9) 隠れている整然たる美しさの写しと捉え、また感覚で捉えることのできる芳香[017]を知性で捉えることのできる発散の象徴と捉え、また物質的な光を非物質的な光の賜物の似姿と捉え、また聖なる悟性的思考の訓練を知性による観想の充満と捉え、またこの世のもろもろの配列の秩序[018]を神に属する事柄にふさわしい調和のある整えられた状態と捉え、またいとも聖なる聖体に与ることをイエスに与ることと捉えたりするのであるが、その他のすべてのことも、一方では天上の諸存在[019]にこの世を超える仕方で与えられ、他方ではわれわれに象徴という仕方で与えられたのである[020]
 このようにして、われわれにふさわしいこの神化のために、聖化の根源は人間に対する愛のゆえに天上の位階をわれわれに開示するとともに、われわれの力の及ぶ限り、われわれの〔教会の〕位階を天上の位階の神のごとき聖職制と類似のものにすることによって天上の位階と連帯して聖務に務めるものとして作り上げ、感覚で捉えることのできる形象をもって天上にいる知性を聖書の聖なる叙述の仕方で記録したのであるが、それはわれわれを、感覚で捉えることのできるものを通して知性で捉えることのできるものにまで、聖なるものを表す象徴を元にして天上の位階の純一なる頂まで引き上げるためである。


<Ⅱ.>

神に属する事柄と天上の事柄は似つかわしくない象徴によっても適切に示されるということ。

<1>

 それゆえ私の思うに、まずわれわれが位階全体の目的をどのようなものと考えているのか、そしてそれぞれの位階はそれを構成しているものにどのような利益を与えるのかということを説明しなければならない。
 次に、天上の位階に関する聖書における啓示に従ってその位階を讚美しなければならない。
 その次には、聖書の聖なる記述はどのような聖なる形象によってその天上の階級を表現しているのか、また、その造形されたものによってどのような純ー性へ引き上げられなければならないのかということを述べなければならない[021]。それは、多くの人々が行っているような次のような冒涜的な思いを (10) われわれが抱かないようにするためなのである。すなわち、天上にいる神のごとき知性が、たくさんの足やたくさんの顔のようなものをもっているとか、牛という家畜の姿や獅子という野獣の姿をしていて傲慢なものであるとか、鷲の曲がった嘴をもった姿や鳥の毛の生えた翼をつけた姿をしているとか、また、空を走る燃える車輪のようなものであるとか、神性の源が横臥するのに適した、物質でできた王座であるとか、いろいろな色の馬であるとか、槍を携えた将軍であると思ってはならず、その他、聖書が多種多様なわかりやすい象徴で聖なる作り物としてわれわれに与えたどんなものも、それが天上にいる神のごとき知性であると思ってはならないのである。
 というのは、言われているように、神のことば[022]はわれわれの知性〔の能力〕を十分考慮し、われわれの知性に固有の本性的な上昇〔能力〕をあらかじめ配慮して、われわれの知性のために神秘的な意味について聖なる記述を作り上げることによって、〔天使という〕無形の知性に対して詩的で聖なる形象表現を適用しただけなのだから である。

<2>

 ところで、純一なる存在はそれ自体としてはわれわれに知られず見られないという理由で、もしその聖なる〔形象や象徴による〕叙述の仕方を受け入れることができると思う人がいるとしても、 (12) しかしその人は聖書における聖なる知性たちの描写を不適切であり、天使の名前の表現も同じくすべてがいわば粗雑であると思うであろう。
 そしてこうも言うであろう。神のことばの記述者たち[023]は、身体をまったくもっていないものを身体で表現しようとするためには、それにふさわしい、できるだけそれと類縁のものによって名前を作り出すべきであり、また、われわれの下で最も崇高で、ある程度非物質的で、しかも優れた存在からとった姿形で表すべきであって、天上の神のごとき純一性に対して地上にある最低の多様な形を与えるべきではない。
 確かに天使のあるものは、あまりに神秘なる意味さえもわれわれのものとなるようにし、この世を超えて開示されたものを不適切なる不類似なものに貶めることはなかったけれども、しかしあるものは、神の力に対してさえも不法に刃向かって、われわれの知性も同じように欺いて神聖ならざる錯綜した形象のうちに引き止めることもある。聖書で表現されている確かにいかなる点でも似つかわしくない類似物が、奇妙で偽りで激情的なものへと転落するようなものを描き出している限りでは、きっとわれわれの知性は、天は獅子や馬の群れのようなものや、モーと鳴く讃美歌や、率いられた鳥の群れや、その他の動物や、もっと軽蔑に値する物質などで満ちているのだ、と思うであろう。
 しかし、私の思うには、真理を探究すれば聖書のいとも聖なる知恵が明らかになるのである。その知恵は、神の力に対しても、言われていることだが、思い上がることがないように、またさらにわれわれが形象の下劣さと卑しさの中に激情によって埋没しないようにという両方のことを天上の知性の形象表現によって配慮して摂理しているのである。
 というのも、確かに当然のことだが、形のないものに対して形があてがわれ、姿のないものに対して姿があてがわれたのには、言われているように、われわれの限界のために知性によって捉えることのできるその観想には直接的に上昇することができず、形をもたず本性を超えているその観想対象の形象表現をわれわれに理解できるものとして提示してくれる上昇がわれわれ自身に本性的に具わっていないという、ただ一つの理由があるだけではない。それにはまた、この世を超えた知性に関する聖なる隠れた真理は、 (13) 言い表すことのできない聖なる謎によって隠されるということと、それは多くの人々に近づきがたいものであると考えることは、神秘なる聖書に最もふさわしいという理由があるからでもある[024]。なぜなら、すべての人が聖なる人であるわけはなく、また聖書が述べているように「知識が誰にでもあるわけではない」〔1コリ8:7〕のであるから。
 しかし、もし誰かが、神のごときいとも聖なる階級にかくも醜い姿をあてがうことは恥ずべきことだと言って、不適切な表現を非難するならば、その人には聖なる啓示の仕方は二通りあるのだと言うだけで十分である。

<3>

 一方は、当然のことだが、聖なる事柄を表現するのにふさわしい形象によって進んでいくやり方であるのに対して、他方は、似てもいない形象表現でまったくありそうもない不適切なものを作り上げるやり方である。確かに、啓示する聖書の神秘なる伝承は、ときには超存在的な神性の根源の崇敬すべき至福を言葉、知性、存在として讚美しているし、また、神にふさわしい言葉の働きと、神性の根源の知恵と、真に存在する存在と、存在するものの存在の真の原因とを明示しているし、また神性の根源を光と表現し、生命と呼んでいる。まさにそのような聖なる形象表現は、ある意味では比較的崇高な存在であり、物質的形象表現よりは優れているように思われるが、しかしそれも神性の真の類似にはとても及ばない(というのも、神性の根源はすべての存在と生命を超えていて、いかなる光もそれを指し示すものではなく、言葉も知性もそれの類似そのものからは比較を絶して遠いからである)。
 他方、またあるときには、神性の根源はその同じ聖書によって似つかわしくない表現でこの世を超えた仕方で讚美されているし、またそれは、目に見えないもの、無限のもの、捉えることのできないもの、その他、何であるかではなく何でないかがそこから知られるものなどと呼ばれている。実際、神性の根源に対してはこの〔表現方法の〕ほうがより適当であると私は思う。なぜなら、一方では、聖職者の密かなる伝承が教えているように、それは何か存在するもののように存在するのではないということが真実だと、われわれは考えるからであるが、他方では、超存在的で、考えることができず、言い表すことができないそれの無限性をわれわれは知らないからである。
 したがって、もしも神に関する事柄については否定することが真であり、言い表すことのできない事柄の神秘には肯定することがふさわしくないのであれば、目に見えない事柄に関しては似つかわしくない形象による表現のほうがかえっていっそうふさわしい。それゆえ、聖書の聖なる記述は天の諸階級を似つかわしくない形象表現によって表すからといっても、それは彼らを讃えているのであって、全面的に辱めているわけではなく、よたそれは、それらの形象表現によって彼らがあらゆる物質的なものをこの世を超えた仕方で超越していることを示しているのである。そしてまた、ふさわしからぬもののほうが似つかわしいものよりもよくわれわれの知性を引き上げるのだということは、良識のある人ならば誰も異論はないと思う。
 というのも、天上の諸存在は何か黄金のようなものであるとか、光を放ち、電光のように閃き輝く衣を美しくまとい、害をもたらすことのない火を発する人のようなものであると思って、より尊い聖なる形象表現に迷い込んでいくことはありうることだし、その他、実にたくさんの類似の美しい形象で神のことば〔聖書〕は天上の知性を表現したのである[025]。それゆえ、神について教えている聖なる人々[026]の〔われわれをその崇高なものに〕引き上げようとする知恵は、ふさわしくなく似つかわしくないものに聖なる仕方で降りていくけれども、外見の美しさよりも崇高なものを何も知らない人々が害をこうむることのないようにと、われわれの物質に属する部分がもろもろの卑しい形象にとどまって安住することを許さず、われわれの魂の上昇する部分を鼓舞し、醜悪なしるしで刺激するのである。そうするのは、天を超えている神聖なる観想の対象がそのまったく物質に属する部分に、つまりそのように非常に恥ずべきものにほんとうに似ていると考えることは、許されることでもなく真実のことでもないからである。
 とりわけ聖書の真理が「すべてのものはきわめて美しかった[027]」〔創1:31〕と述べているのであるから、美しさの分有をまったく与えられていないものは万物のうちには一つもないということを心にとどめておくべきである。

<4>

 そういうわけで、それらすベてのものから美しい観想を看て取ることができるのであり、(14)知性によって捉えることのできるものであってしかも知性を有しているものたち[028]に対しても、物質的なものから、上に述べられた似つかわしくない類似物を作ることができるのであって、それは、感覚によって捉えることのできるものに適用されるのとは違う仕方で、知性を有するものに適用されるのである。というのも、怒りは理性をもたないもの〔獣〕においては激情から生じ、彼らの怒りの衝動はあらゆる非理性的なもので満ちているのに対して、知性を具えたものについては怒りというものを別の仕方で理解しなければならないからである。つまり、私の思うには、それは神のごとき不変の基盤に立つ彼らの雄々しい理性の働きと厳しい姿勢を示しているのである。
  (15) それとまったく同様に、欲望は、理性をもたないものにあっては、生まれながらの活動によるにせよ、また〔経験的に獲得された〕習性によるにせよ、物質と結合しようとする無分別なある傾向であり、それは可変的なものに関して激しく生じるもので、あらゆる動物を感覚に好ましいものへと駆り立てる肉体的欲求の反理性的な支配であると、われわれは言っている。しかし、われわれが知性を有するものに対して似つかわしくない類似物を張りつけるようにして、それに対して欲望を具えさせるときにはいつも、その欲望を言葉と知性を超えている非物質的なものに対する神の愛[029]と理解しなければならないのであり、また、存在を超えた、純粋な、情念に動かされることのない観想に対する、それることも屈することもない欲求と理解し、あの清らかな最高の光輝と、目に見えない、美を作り出す、整然たる美しさとの真に永遠で知性的な交わりに対する不動堅固な欲求と理解しなければならないのである。われわれは〔天使の〕不摂生を、神の美に対する純粋で不変なる愛により、また真に望ましいものへの全面的な傾注によって、熱心で、不屈で、いかなるものによっても妨げられえない力あるものについて〔言われたのだ〕と解したい。
 ところで、われわれは、理性がないということ自体や感覚がないということを、理性をもっていない生物あるいは魂をもっていない物質に関しては、本来の意味で理性の欠如、感覚の欠如と呼ぶけれども、しかし非物質的で知性を有する存在に関しては、この世を超えているものとして、われわれの使っているような、移り変わる、肉体に依存している言葉を超越していることであり、また肉体をもたない知性にふさわしくない、物質に関わる、感覚を超越していることであると、聖なるものにふさわしい仕方で認める。
 それゆえ、天上の者たちにある程度ふさわしい形象を物質という最も軽蔑される部分から作り上げることは可能なのである。なぜならば、もろもろの類似性が、言われているように、異なった仕方で理解され、そして知性で捉えることのできるものの特性についても、感覚で捉えることのできるものの特性についても、一様にではなく、それぞれにふさわしく適切に定められるならば、物質といえども、真に美しい者〔神〕から存在を得ているために、その物質的秩序全体を通じて知性的な整然たる美しさのある種の痕跡を有しているので、それによって人は非物質的な元のものへ上昇することができるのだからである。

<5>

 神について教えている、神秘に通じた人々がこれらの〔感覚で捉えることのできる物質的な〕ものを聖なる仕方で張りつけるのは、単に天上の階級を説明するためばかりではなく、ときには神性の根源そのものを明示するためでもあるということにわれわれは気づくであろう。彼らはときには、価値が高いと思われるものにもとづいて神 重性の根源を「正義の太陽[030]」〔マラ3:20〕とか、知性に聖なる仕方で昇る「明けの明星」〔2べト1:19、黙22:16〕とか、曇りなく明らかに、知注に捉えることのできる仕方で輝く光[031]と讚え、またときには、中くらいの価値があると思われるものにもとづいて、害をもたらさずに輝く火[032]とか、命の充実をもたらす水、つまり象徴的に言えば、〔飲まれて〕腹に入つていって、流出する河の流れをとめどもなく噴出させる水[033]と讚え、またときには、最低のものと思われるものにもとづいて、よい香りのする香油[034]とか隅石[035]と讚えている。しかし、彼らは神性の根源に対して動物の形象さえも与えていて、獅子や豹の特徴をまとわせて、それを豹であるとか突進する熊であると言っている。私は、あらゆるもののなかで最も軽蔑されるべきものであり、まったく不適当なものであると思われるものを付け加えよう。というのも、神に関する事柄に精通した彼らが、神注の根源は自分自身を虫けらの姿で表したと伝えたのであるから[036]
 このようにして、神の知恵に満たされた者と隠れた霊感の伝達者はすべて、 (16) 「聖なるもののなかの聖なるもの[037]」を汚されることのないようにと、入信を許されていない人と冒涜的な人から遠ざけて、似つかわしくない聖なる事柄の表現を尊重するのである。それは、神に関する事柄が涜神者に簡単には得ることができないようにそうするのであり、また神の像を見たがる人たちがその姿を真実のものであるとして満足することがないようにそうするのであり、さらにまた神に関する事柄が真なる否定によって敬われるように、またそれ自身の痕跡のうちの最低のものにもとづいた不釣り合いな類似物によって敬われるようにそうするのである。
 それゆえ、以上述べた理由により、彼らがふさわしくなく似つかわしくない類似物で天上の諸存在を表現するとしても、けっしておかしなことではないのである。もしもわれわれの知性がその不釣り合いな形象表現に満足せず、物質的なものへ傾斜していくことを拒否して奮い立ち、現象を通して聖なる仕方でこの世を超えている神秘的な意味へ向かうことに慣れるということによって、われわれが天使を表している形象表現の醜悪さに当惑することがなかったとしたら、困惑したために探究へと向かい、聖なる事柄の綿密な研究によって上昇することへ向かうことは、おそらくけっしてなかったであろう。
 天使に対する物質的でふさわしくない形象による聖書の叙述に関して述べるのはこれだけにしよう。次に、われわれは位階そのものがどのようなものであると考えているのかを明確にし、また、位階を分与されているもの〔構成員〕がその位階そのものからどのような利益を得ていると考えているのかを明確にしなければならない。もしもこう言うことが許されるならば、この話の先導者は位階に関する全啓示の霊感たるわがキリストであってほしい。汝、わが子[038]よ、われわれのあいだに行われている、位附に関する伝承の聖なる定めにしたがって、聖なるものを畏れ敬って、聖なる仕方で語られていることに耳を傾けよ。そのとき汝自身が秘儀を教示されることによって神の霊感を吹き込まれた者の最たる者となるのだ。そして、汝は知性にふさわしい隠れ家[039]に神聖なる事柄を覆い隠し、それを一なるものに似たものとして[040]涜神の群衆[041]から守るがよい。(17)というのも、聖書が言つているように、知性によって捉えることのできる真珠の有している、純粋で、光り輝く、美を放つ秩序立った美しさを豚に投げてはならないからである〔マタ7:6参照〕。

<Ⅲ>

位階とは何か、その効用は何か。

<1>

 私の考えでは、位階とは、できるだけ神に似たものになるところの、また神から自分に与えられた照明に応じ自分の能力に従って神を模倣すべく上昇するところの聖なる秩序であり、知識であり、活動である[042]。神にふさわしい美しさは、純一なものとして、善きものとして、完成の根源として、いかなる不類似のものともまったく混じることがなく、自分自身の光をそれぞれのものにふさわしく分かち与え、また、その光自身にもとづいて完成されたものの形象はその光に相応してきわめてよく似合っているのであるが、その形象に従っていとも神聖なる儀式において完成するのである。

<2>

 それゆえ、位階の目的はできるだけ神に似ることと合一することである[043](18) その際に位階は、神をあらゆる聖なる知識と活動の指導者としていて、神のいとも聖なる整然たる美しさのほうを目をそらすことなく注視して自らができる限りそれに似たものとなり、位階に属するもの〔天使〕たちを澄みきった汚れなき鏡[044]たる神の似姿に完成し、光の根源であって神性の根源であるものからの光線を受け入れることができ、与えられた光によって聖なる仕方で満たされるのであるが、それと同時に、神性の根源の定めに従ってその同じ光を〔位階の〕次位のものに惜しみなく放射するのである。
 というのは、もしも聖なる事柄を伝授する者も、あるいは聖なる仕方で〔聖なる事柄を伝授されて〕完成された者も、もし神化してくれるその同じ輝きを欲して、聖なるものを畏れ敬ってその輝きを眺め、聖なる知性のそれぞれの能力に応じてそれに似たものになるならば、自分自身の聖なる聖化の根源の命令に反してなんらかの活動をするということも、ほかの仕方で存在するということも、彼らのいずれに対してもけっして許されないのだからである。

<2>

 それゆえ、位階を語る者は、位階の秩序と知識で自分自身の照明の神秘を執り行い、許されている範囲で自分自身の根源に似たものとなることによって、一般にある聖なる秩序を、神性の根源の美しさの似姿を露わにするのである。というのも、位階を分与されているもののそれぞれにとって、完成とは、自分自身の能力に応じて神を模倣すべく上昇することであり、聖書に「神の働きを助ける者[045]」と言われているように、まことにどんなものよりも神のような者となることであり、自分自身において現れ出る神の働きをできる限り明らかにすることだからである。すなわち、位階の秩序は、 (19) 一方では浄化されるが、他方では浄化するのであり、また一方では照明されるが、他方では照明するのであり、また一方では完成されるが、他方では完成するのであるから、神を模倣するということは次のようにそれぞれのものにふさわしい仕方で適合するであろう。すなわち、神の至福は、人間の言葉で言えば、どのような不類似も混じらず、永遠なる光で満ちていて、完全であり、どのような完全性も欠いていない。また、それは浄化し、照明し、完成する。むしろそれは、浄化そのもの、照明そのもの、完成そのものであり[046]、浄化を超え、照明を超え、完成に先立つ完成そのものの根源であり、すべての位階の原因であり、超越することにより聖なるものの一切から超絶している。

<3>

 それゆえ、私の思うに、浄化される者は完全に純粋な者に聖化されるのでなければならず、似つかわしくないあらゆる混合から解放されるのでなければならない。また、照明される者は、知性の完全に純粋な目によって観想の状態と観想の力へと引き上げられることによって、神の光で満たされるのでなければならない。さらにまた、完成される者は、未完成の状態から転換されて、聖なる観想対象を完成する知識を分有するようにならなければならない。他方、浄化する者は、浄化に満ち溢れて、他のものに自分自身の汚れなさを分与しなければならない。また、照明する者は、より透明な知性として光の分有と分与にふさわしく、聖なる輝きに満々と満ち溢れて、それ自身のあらゆるところから溢れ出る光をその光に値する者に注ぎかけるのでなければならない。また、完成する者は、完成する分与の知識を有する者として、観想対象の聖なる知識の完全に聖なる教示によって、完成されるべき者を完成するのでなければならない。それゆえ、位階秩序のそれぞれの階級は自分自身の能力に応じて神との協働へと引き上げられ、恵みと神から与えられる力によってかの業を完成するのであるが、(20)その業は本性的にも超本性的にも神性の根源に属していて、神性の根源によって存在を超えて行われ、神を愛する知性が〔神を〕模倣することができる範囲で位階を通して現れるのである。

<Ⅳ>

「天使」という名称は何を意味しているか。

<1>

 さて、われわれは位階そのものがどのようなものであるかということについては十分規定したと思うので、次に、天使の位階を讚えなければならず、聖書におけるその〔天使の位階の〕聖なる形象をこの世を超えた目をもって観想しなければならない。それは、われわれが神秘的な表現によって彼ら天使のこの上なく神に似た純一性へと引き上げられるためなのであり[047]、またわれわれが、神にふさわしい崇敬の念と神性の根源に対する感謝の念をもって、位階の知識全体の根源を讃えるためなのである。
 しかし、何よりも初めに、超存在的な神性の根源が、存在するものの存在のすべてを善から付与することにより、存在することへ引き出したという、あの真実を語らなければならない。というのも、自分自身との交わりへ存在するものを呼び寄せることは万物の原因に、つまり万物を超えている善に特有のことであって、その結果、存在するそれぞれのものに対してそれぞれの固有なあり方に応じて存在するものが定められたのだからである。それゆえ、存在するもののすべては、超存在的な、万物の原因である神性から溢れ出る摂理を分有するのである。実際、もしも存在するもののすべてが、存在するものの存在であり根源であるものを分有しなかったならば、それらは存在しなかったことであろう。それゆえ、生命のないものはどれも、存在する限りで、それ〔存在するものの存在であり根源であるもの〕を分有しているのであり(というのも、万物の存在は、存在を超えている神性なのだから)、生きているものは、すべての生命を超えて生命を与えるその神性の力を分有しているのであり、理性を有し知性を有するものは、すべての理性と知性を超えている、完成そのものの、完成に先立つその神性の知恵を分有しているのである。しかし、最も多くその神性を分有したのが、存在するもののうちでもその神性の周りにいるあの者たち〔天使たち〕であることは明らかである。

(21)<2>

 したがって'天上の諸存在である聖なる諸階級は、単に存在しているだけのものよりも、また理性をもたずに生きているものよりも、さらにまたわれわれ理性をもっている者よりも神性の根源の分与したものを多く分有しているのである。実際、彼らは神を模倣しようとして自分自身を〔神性の根源に〕似たものに変形し、神性の根源との類似性をこの世を超えた仕方で見て'、自分の知性の姿を形づくろうと努めるのであるが、それは知性の上でのことであるから、当然にも彼らはより豊かに神性との交わりをもち、それに近接していて、神のそれることのない愛が傾注されることにより、許される限り常に高みに昇り、根源からの非物質的で混じりけのない照明を受け、その照明に応じて配列されるのであり、その生命全体が知性なのである。
 したがって、彼らは、第一にしかも多様な仕方で神に属するものを分有するのであり、第一にしかも多様な仕方で神性の根源の秘密を開示するのである。そこで、神性の根源の照明は彼らに対して最初に行われたのであり、われわれを超えている啓示は彼らを通してわれわれに伝えられたのであるから、彼らはどんなものよりも特に「使い」という名称に値するのである。
 かくて、神のことば〔聖書〕が述べているように、律法は天使たちを通してわれわれに与えられたのであり〔ガラ3:19〕、天使たちは、律法〔が与えられる〕以前もそれ以後も、われわれの誉れ高き教父たちを神に属する事柄へと引き上げ、あるいは、彼らになすべきことを教え、彼らを誤りと冒涜の生から正しい真理の道へ向き直らせ、彼らにあるいは聖なる秩序を、あるいはこの世を超えた神秘の密かな直観を、あるいは神の予言を代弁者として開示するのである。

(22)<3>

 しかし、もしも誰か、神現は神から〔天使を介さず〕直接に聖なる人々のうちある人々に生じるのであると言う人がいるならば、その人はいとも神聖なる聖書から次のことを明確に知るがよい。すなわち、いったい何であれ神の隠れた事柄そのものであるところの「誰も見た者がいない[048]」ものはけっして見られることはないであろうし、神現は、直観する人々の能力に応じたある聖なる直観によって、神にふさわしい開示の仕方で聖なる人々に生じたのである。だが実際、完全な知恵を有している神のことば〔聖書〕は、それ自身において神の似姿を形象にならない形象によって描写して示した直観をも、それが直観する者たちを神に属する事柄へ引き上げるということから、当然にも神現と呼んでいるのである。なぜなら、その直観を通してこそ、その直観する者たちに神の照明が行われ、神に関する事柄そのもののうちのある程度のものが聖なる仕方で教示されるのだからである。
 しかし、この神の直観をわれわれの誉れ高き教父たちが教示したのは天上の諸力を介してなのである。聖書の伝承が述べているのは、聖なる律法の定めは、それが神の聖なる表現であるということをわれわれに真に教示するために、神からモーセに直接与えられたということではないのだろうか。そして他方では、神の律法の秩序は第一のものを通じて第二のものが神に属する事柄へ引き上げられるように定めているのだから、神のことば〔聖書〕はそれが天使たちを通してわれわれのところへやって来るのだということを明らかに教えているのではないのだろうか[049]。というのも、その律法は万物の超存在的な秩序の根源によって、単に上位の知性と下位の知性についてだけではなく、同じ階級の知性においても、それぞれの位階ごとに第一と、中間と、最後の諸階級、諸力が存在するよう定められたのであり、また、下位の者たちに対して神への接近、神からの照明、神との交わりのためのより神に近い教示者と導き手が存在するようにと定められたのだからである。

<4>

 しかし、私は、ィエスの人間に対する愛という神の神秘を最初に教示されたのは天使たちであり、次いで彼らを通してわれわれのところにその認識の恵みが渡ってきたと理解している[050]。だから、神の最も近くにいる〔階級中の第八階級である大天使のうちのひとりである〕ガブリエルは〔洗礼者ヨハネの父である〕祭司[051]ザカリアに対しては、 (23) 神の恵みによって予期に反して彼から生まれる子〔洗礼者ヨハネ〕が、慈悲深くも救いをもたらそうとこの世に現れる、人間であってしかも神であるものとしてのィエスの業の預言者となるであろうという神秘を教示したのであり[052]、またマリアに対しては、神を生むという言い表すことのできない神性の根源の神秘がどのようにして彼女において行われるのかを教示したのである〔ルカ1:26-39参照〕。他方、他の天使は、神によって祖先のダビ デに約束されたことがどのようにして果たされるのかをヨセフに教えたのである〔マタ1:20-25、サム下7:12-17参照〕。また、他の天使は、民衆から隠れて静穏のうちにいることで浄められていた羊飼いたちに福音を伝え、その天使とともに「天の大軍[053]」が、あのしばしば歌われる栄光唱を地上にいた人々に伝えたのである[054]
 しかし、私は聖書の最高の照明にも目を向けよう。天を超えた存在の超存在的原因であるイエス自身が〔自分自身の本性を〕不変のままでわれわれのところまでやって来て、自らが配置して選び取った人間としてのしかるべき秩序に離反することなく、天使を介して〔伝えられた〕父たる神の命令に従順に従うのを私は見ているし、また、父によって整えられたエジプトへの子の避難とそれに次ぐエジプトからユダヤへの移動が、天使たちの仲介によってヨセフに告げられ[055]、子が天使を介して父の定めに従うのをわれわれは見ている。そうだ、あなたはわれわれの聖職者のもろもろの伝承[056]によって開示されていることを知っているのだから、イエスを励ましたあの天使についてはあなたが語るのに任せよう〔ルカ22:43参照〕。 (24) あるいはまた、イエス自身が、われわれを救うことのできる善き業のゆえに、啓示する者の部類に入つていたために「偉大なる助言の使い[057]」〔イザ9:5〕と呼ばれていることについてもあなたが語るのに任せよう。実際、イエスが使いのように語って、父から聞いたことをすべてわれわれに知らせたのであるから[058]


<Ⅴ>

なぜ天上の諸存在が一般に「天使」と呼ばれるのか。
(25)

 われわれの知る限りでは、聖書において「使い〔天使〕」という名称〔を使っているの〕はこういうわけなのである。しかし、私の思うには、神について教えている人々が、一方では、天上の諸存在をすべていつしょにして「使い」と呼んでいるのに、他方では、天を超えたそれら諸階級の秩序を説明する場合に、神に関わる天上のもろもろの隊の最後を占めている階級を特に「使い〔天使〕」と呼んでいるのはどういうわけなのかということを探究しなければならない。しかし、神について教えている人々は、その〔「天使」という〕階級の前にそれよりも上位のものとして「大天使」、「権勢〔権天使〕」、「能力〔能天使〕」、「力〔力天使〕」の階級、さらにこれらの諸階級を超えるものとして聖書の啓示の伝承が認めている諸存在を配置しているのである。

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セラフィム
 ところで、どの聖なる階級においても、上位の階級が下位の階級の照明と力をもっているのに対して、最低の階級が上位の階級の照明と力を分有することはできないということをわれわれは認める。だからこそ、確かに、神について教えている人々(実際、彼ら自身も神性の根源からの照明を啓示する者なのである)は最高の諸存在のなかの最も聖なる隊をも「天使」と呼んではいるけれども、しかし天上の知性の最後の階級を「権勢〔権天使〕」、「王座〔座天使〕」、「セラフィム〔熾天使〕」という名前で呼ぶことには正当な根拠はないのである。事実、彼らは最高の力を分有してはいないのである。しかしながら、その最後の階級が、霊感を受けたわれらが司教たちを自分に知られる神注の根源の光へ引き上げるのと同様に、その最後の階級より前にいる諸存在というあらゆる点で聖なる諸力は、天使の位階の最後を占めている諸力を神に属する事柄へと引き上げるのである[059]。天上の諸力のすべてが神との類似へ向かうとともに神から光の賜物を受けているということは下位の天使と上位の天使に共通なことなのだから、天使という名称はすべて共通の名称なのだなどと言う者はいないだろう[060]。だが、われわれの話がもっとよくわかるように、聖書に明示されている天上のそれぞれの階級の聖なる特徴を敬虔な気持をもって考察しよう。

<Ⅵ>

天上の諸存在の最初の階級は何か、中間の階級は何か、最後の階級は何か。
(26)<1>

 天を超えた諸存在の階級はいくつあるのか、どのような種類があるのか、またどのようにして彼らの位階は完成されるのかということは、厳密には彼らを神化することのできる聖化の根源だけが知っていると私は思うけれども、そのほかに彼らも自分自身の力と、照明と、彼らの聖なる、この世を超えた、整然とした秩序は知っていると私は思う。なぜならば、彼ら自身のことをよく知っている神性の根源がわれわれに神秘を教示したのは彼らを介してなのだということを、もし誰もまったく言っていないとすれば、われわれが天を超えた知性の神秘と知性のいとも聖なる完成とを知ることはできないからである。だから、われわれは自分から率先して言うつもりはまったくないけれども、しかし、神について教えている聖なる人々が天使の様子から観想した限りで、われわれに教示されたことを可能な範囲で説明することにしよう。

<2>

 神のことば〔聖書〕が天上の存在のすべての特徴を明示する九つの名称で呼んだのである。聖なる事柄に関するわれらが聖なる伝授者〔ヒエロテオス[061]〕は、それらの諸存在をそれぞれが三隊から成る三つの階級に区別している[062]。〔私の師である〕彼の言ぅことには、第一の階級は神の周りに永遠にいる附級であり、直接神に隣接し、ほかの階級よりも前に無媒介に神と合一していると伝承されているのである。

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ケルゥブ(複数:ケルビム)
 実際、いとも神聖なる「王座〔座天使〕」と、へブライ語で「ケルビム〔智天使〕」と「セラフィム〔織天使〕」と呼ばれる、たくさんの目〔エゼ1:18参照〕とたくさんの翼[063]をもっている隊は、すべての隊より上の近いところで神の周りに無媒介に存在している旨、聖書の啓示が伝えていると彼が言っているのである。確かに、われらが誉れ高き師は、三つの隊から成るその階級は一つの、同じ階級を成す、真に第一の位階であると言っていたが、 それ以上神に似ている位階はなく、神性の根源から第一次的に生じる照明にそれ以上無媒介に隣接している位階はないのである。
  (27) 第二の階級は「能力〔能天使〕」と「主権〔主天使〕」と「力〔力天使〕」により構成されており、第三の階級は天上の位階の最後にあって、それは「天使」、「大天使」、「権勢〔権天使〕」という階級である[064]と師は言っている。

<Ⅶ>

セラフィム、ケルビム、王座について、それら第一の位階について。

<1>

 われわれはその聖なるもろもろの位階の秩序を受け入れて、天上の知性の名称のすべてが神に似ているそれぞれの特性を明示していることを認めるのである。すなわち、へブライ語の知識のある人は、「セラフィム〔織天使〕」という聖なる名称が「火を発するもの」あるいは「熱するもの」を表し、「ケルビム〔智天使〕」という名称が「たくさんの知識」あるいは「知恵の注ぎ出し」を表していることを知っている[066]。ところで、天上のもろもろの位階のうち最初のものは、当然のことだが、最高の諸存在によって聖なる働きを行うのである。というのも、その位階は神の周りに媒介なしに存在していて、最も近いその位階に第一次的に生じる神現と完成があまりに根源的な仕方で伝えられるがゆえに、どんなものよりも高い階級を占めているからである。こうして、彼らの神に似ている性質をはっきり表す名前によって、「熱するもの」、「王座」、「知恵の注ぎ出し」と名づけられているのである。
  (28) 実際、「セラフィム〔織天使〕」という名称が明白に教えていることは、彼らが、神に属する事柄の周りを永遠に動いていて終わりがないということであり、〔神に〕隣接した不変でそれることのない永遠なる〔彼らの〕運動の熱、鋭さ、溢れる沸騰[067]であるということであり、また下位のものたちを沸騰させ再び燃え立たせて〔白分と〕同じ熱さにすることで彼らを積極的に弓き上けて〔自分に〕似たものにするということであり、さらにまた燃やして完全に焼き尽くすことによって浄化するということであり、曇りなく明らかで、不滅で、常に同じままに輝いて照明するという特性を有しているということであり、光のない暗い闇を作るものをすべて追い払って消滅させるものであるということである。
 あるいはまた、「ケルビム〔智天使〕」という名称が教えているのは、彼らが神を見ることができ、光の最高の賜物を受け取って、第一次的に与えられた力で神性の根源の整然たる美しさを観想することができる認識能力であり、また知恵を与える分与の働きに満たされて、与えられた知恵を注ぎ出すことにより第二位のものに惜しみなく分け与えることができるということである。
 あるいはまた、いとも崇高で卓越した「王座〔座天使〕」という名称が教えていることは、あらゆる地上的な低劣なものと混じることなくそれから隔絶していること、この世を超えた仕方で高みへ上昇すること、揺るぎなくあらゆる最低の状態から超絶していること、真の最高者の周りに全力で不変堅固に存在していること、あらゆる情念と物質から自由に神性の根源〔からの照明〕の訪れを受け入れることができること、神を乗せて運ぶこと、神から来るものを受け取ることに仕えるよう開かれていることである[068]

<2>

 以上がわれわれにできる範囲での彼らの名前の説明である。それに対して、われわれが彼らの位階をどのように考えているのかを述べなければならない。というのも、すべての位階の目的は、神を模倣することによって得られる神との相似性に揺るぎなく結びついていることであり、位階の働きのすべてを純粋な浄化と神の光と完成する知識の聖なる分有と分与とに分けることであるということは、すでに十分述べたと私は思う。だが、いまや私は最高の知注にふさわしい言葉で彼らの位階が聖書によってどのように開示されているか述べたいと思う。
 第一の諸存在は、彼らを存在させている神性の根源の後に位置し、いわばその神性の根源の戸口に配置されて[069]、 目に見えないものも見えるものもすベての被造的力を超えているが、彼らは固有の、あらゆる点で同種類の位階であると考えなければならない。それゆえ、彼らが清浄であるということは[070]、彼らが?神の汚れや不浄から解放されていることとか、また物質と結合した妄想を受け入れないこととして考えるべきでもなく、彼らが、最高の純粋さのゆえに、聖なるものの低い状態と劣ったもののすべてをそれらと混じることなく超えていて、 (29) このうえなく神に似ているどんな力よりも優っていることとして考えるべきであり、また神への愛において不変であるがゆえに、永遠に運動し同一の運動をする自分自身の階級に固く結びつくこととして考えるべきであり、さらにまた、いかなる点でも劣ったものへ減少することをまったく知らず、彼ら独自の神に似た特性という永遠に安定した不動のきわめて純粋な基盤を有していることとして考えるべきである。
 他方また、彼らが観想するということは、感覚で捉えることのできるしるしや知性で捉えることのできるしるしを観想することとして考えるべきでもなく、また聖書のさまざまな観想を行うことによって神に属する事柄へ引き上げられることとして考えるべきでもなく、どんな非物質的な認識をも超えている光に満たされていることとして考えるべきであり、美を生み出し、存在を超えて三重に輝く[071]根源的な美の観想に、〔彼らに〕許される限り、満たされていることとして考えるべきである。
 そしてまた同様に、彼らがイエスとの交わりに値するということは、神の働きの類似性を姿形に表現する聖なるものとして作られた形象によって考えるべきでもなく、イエスの神としての働きである光の認識の最初の分有によって真にイエスに近づくこととして考えるべきであり、それにまた彼らには神に倣うことが最大限に与えられたのであり、彼らにできる限りで、第一次的に与えられる力によって、イエスの神としての働きと人間に対する愛の徳とを共有していることと考えるべきである[072]
 また同様に、彼らが完成されたものであるということは、彼らがさまざまな聖なる事柄の源へ遡っていく知識において照らされる[073]こととして考えるべきではなく、神の働きによるものとしては天使における最高の知識であるがゆえに、第一の卓越した神化で満たされていることと考えるべきである。なぜなら、彼らはほかの聖なる存在を介してではなく、神性の根源そのものによって司令司されるのだからである。彼らはどんなものにも優る力と階級であるがゆえに、神性の根源へ仲介なしに引き上げられるのである。また、彼らは完全な純粋さにもとづいて完全に堅固に存在しており、さらに非物質的で知性によって捉えられる整然たる美しさに従って観想へ許される限り引き寄せられるのであり、また第一のものであり神の周りにいるものとして、聖化の根源そのものによって最高の仕方で司令されることにより神の業についての知識を有している理由を教えられるのである。

<3>

(30)  だから、神について教えている人々が明らかに示していることは、天上の諸存在のうちの下位の階級はk位の階級から神の働きに関する知識を秩序に則って教えられるのに対して、どの階級よりも高い階級は、許される限りで、神性の根源そのものから教えを照明されるということなのである。実際、神について教えている人々の教えているところによれば、一方では、天上の諸存在のなかにはより先なる〔上位の〕者から、「天上の諸力の主」〔詩24:10〕であって「栄光の王」〔同〕であるものが人間の形で天に引き上げられたことを聖なる仕方で教えられた者もいるのであるが、他方では、イエス自身について〔どのように考えてよいのかわからず〕困惑して、イエスが神としてわれわれのために行う業に関する知識を学ぼうとする者もいるので、そのような者たちをイエス自身が直接教えて、人間に対する愛によって善を施す自分の働きを彼らに最初の賜物として啓示するのである。実に、イエスは「正義と救いの裁きを語る私がそれだ[074]」と述べているのである。
 しかしながら、すべてのものをはるかに超えている、天上の諸存在のなかの第一の諸存在でさえも、中位の諸存在と同様に、畏敬の念をもって神注の根源の照明を欲するということに私は驚嘆する。というのも、彼らはただちに「なにゆえあなたの装いは赤いのか」〔イザ63:2[075]〕と尋ねるのではなく、最初は自分自身でどうしてよいかわからなくなるのであるが、〔後に〕彼らが神の働きに関して学んで知りたいと欲していることが明らかになるからである。だが、神の発出によって与えられる照明の前に彼らが飛び出すことはないのである。
 かくて、天上の知性の第一の位階は聖化の根源そのものによってその第一の位階へ直接向かうように司令され、その知性自身の能力に応じて、最高度に神聖な浄化と、無限の光と、完成に先立つ完成とに満たされることにより浄化され、照明され、完成されるのであり、いかなる劣ったところも混じらず、最初の光に満たされて、最初に与えられた認識と知識を分有して、完成されるのである。
 今述べたことを要約して、〔天使の第一の位階にとっては〕浄化、照明、完成は神性の根源によって与えられる知識の分有であると言うことは不適当なことではないであろう。というのも、その分有は、神秘のいっそう完全な開示の認識が階級に応じて与えられることによって〔第一の位階の〕無知を払い浄めるからであり、また、より高度な照明によっていま明らかにされる限りで、以前には観想することのなかったその〔第一の〕位階を浄化するところの神から与えられたこの認識そのものによって、 (31) 〔その第一の位階を〕照明するからであり、さらにその光そのものによって、すなわち神秘の最も明瞭な開示に閨して〔その第一の位階の〕本質的能力となった知識[076]によって〔その第一の位階を〕完成するのだからである[077]

<4>

 そういうわけで、これが私の知る限りでは天上の諸存在の第一の階級であり、それは、神の周りを囲んで神に直接していて、天使におけるものとしては最高の永遠に運動する静止において、純一に、たえまなく神の永遠の知識の周りを回転している[078]。それは、至福をもたらすおびただしい観想を純粋に観る一方で、純一な仲介されることのない閃光に照らされるのである。それは、最初に与えられた注ぎ出しによって神からのたくさんの食物で満たされる一方で、斉一に統一する一性によって神性の根源の唯一の食事で満たされるのである。しかし、それは美しい性質と活動を神にできる限り類似させることによって、神との多くの交わりと協働にふさわしいものになるのである。それは神に属する多くの事柄を卓越した仕方で認識し、許される限りで神性の根源の知識と認識を分有するのである。
 それゆえ、神のことば〔聖書〕はこの第一の階級の〔歌う〕もろもろの讚歌を地上の人々に伝えたのであり、その讚歌にこの第一の階級の最高の照明の卓越性が聖なる仕方で明らかにされているのである。実際、この第一の階級のなかのあるものは、感覚的に理解できる言い方をすれば、「御座から上る主の栄光は讃えられてあれ」〔エゼ3:12[079]〕と「大水のとどろきのごとくに」〔エゼ1:24[080]〕朗唱しているが、またあるものはしばしは歌われて いるいとも尊い神のことばを「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな万軍の主、その栄光は全地に満ちている」〔イザ6:3[081]〕と声高く歌っている。
 われわれは天を超えた知性のあの最高の讃美歌をすでに『神の讃歌[082]』においてできる限り考察した。その書においてわれわれはできる限り讚美歌について述べたから、そこから思い出してもらうこととして、今はさしあたり次のことを言うだけで十分である。 (32) すなわち、その第一の階級は神のことば〔聖書〕〔に表されている〕知識を神性の根源の善性から、許される限り照明されたのであり、その次に、それは〔その照明という善性の分有によって〕善に類似した[083]位階として自分より後の諸階級にその知識を分与したのである。要約すれば、その知識が教えていることは、尊ぶべき、あらゆる称讚を超えていてしかもあらゆる称讚に値する神性の根源そのものが、神を受け取る知性によってできる限り認識され讃美されることは、正しく理に適っているということであり — というのも、聖書が述べているように、彼らは神に似たものとして神性の根源の聖なる安息の場であるのだから[084] —、さらにまた、神性の根源は三位格の単一性であり一性であって[085]、天を超えている諸存在から地上の最低の諸存在に至るまですベての存在に対してそのいとも善なる摂理をいきわたらせるということである。というのも、神性の根源は全存在のあらゆる根源を超えた根源であり原因であり、無制限な統合によって、存在を超えた仕方で万物を捉えるのであるから。

<Ⅷ>

主権、力、能力について、それらの中間の位階について。

<1>

 いまやわれわれは天上の知性の中間の階級についての探究に向かわなければならない。われわれはこの世を超える眼をもってあの「主権〔主天使〕」を、また聖なる「能力〔能天使〕」と「力〔力天使〕」という、真に力強い観想対象をできる限り観想するのである[086]。というのも、われわれを超えているそれらの存在のどの名称も神を模倣し神に似ているという彼らの特性を示しているのだからである。
 実際、聖なる「主権〔主天使〕」という表意的な名称が表しているのは、私の考えでは、何ものにも隸属しないものであり、すべての地上的な低劣さを免れていて、いかなる専制的な不類似[087]にも (33) けっして従属することのない上昇である。それは自由なものにふさわしく、厳しい主権としてあらゆる軽蔑すべき隸属状態を超えている。それはどんな低劣さにも屈せず、どんな不類似性からも隔絶している。それは真の主権と主権の根源をたえず求め、できる限り自らの主権としての類似性に従ってそれ自身とそれよりも後のものを善に似たものとして[088]形づくる。それは善いと思われるものどんなものにもいきあたりばったりには向かわず、主権を有している存在へ全面的に向かい、それに可能な限り、主権の根源の神との永遠なる類似性を分有するのである。
 聖なる「力〔力天使〕」〔という表意的な名称が表しているの〕は、力に応じた神のごときあらゆる活動に向かうあるI雄々しく揺るぎない勇気のようなものである。それは、それに与えられる神性の根源の照明を受け入れるのに弱々しく無力であることがけっしてなく、神に倣うべく力強く上昇する。それは、自分自身の臆病のために神のごとき運動を放棄することはなく、存在を超えていて力を生み出す力を目をそらさずに眺め、できる限りこの力に似た似姿となり、力の根源としてのこの力の方に力強く向かい、その一方で、次の階級に力を与えつつ神のごとくに発出するのである。
 聖なる「能力〔能天使〕」〔という表意的な漁が表しているの〕は、神々しい「主権〔主天使〕」と「力〔力天使〕」と同じ階級であり、神から与えられるものを受け入れるときのよく整った混乱することのない整然とした秩序であり-この世を超えた知性的権能が割り当てられているということであって、下位のものたちに対して「能力」に属している諸力を専制的に濫用する権能が割り当てられているということではなく、支配されることなく整然とした秩序をもって神に属する事柄へ〔自分自身が〕弓き上けられるとともに、自分より後のものを善に似た仕方で弓き上げる能力が割り当てられているということである。そして、それは許される限り能力を生み出す能力の根源の方を眺め、「能力」に属する諸力というそれ自体としてよく秩序立ったその階級において、その能力の根源をできる限り天使たちに照らし出すのである。
 かくて、天上の知性のうちの中間の階級はこのような神のごとき特性を有していて、述べられたように、神性の根源の照明によって浄化され、照明され、完成されるのであり、その神性の根源の照明は第一の位階の階級を介して第二番目に中間の階級に与えられ、 (34) さらにその中間の階級を介して第二次的な開示によって伝えられていくのである。

<2>

 確かに、ある天使によって語られた知らせがほかの天使に伝わっていくということは、{兀成が遠くから伝達されてきて第二の階級まで発出するにつれ弱まつていくことを示唆していると、われわれは考えてよいであろう。実際、われわれの聖なる神秘について精通している人々が、神に関する事柄が直接それ自身を開示する仕方で満たされることは、ほかのものを介して神の直観を分有することよりも完全なのであると言つているように、天使の諸階級のなかで最初に神へ向かう階級を直接分有することは、中間のものによって〔中間のものより後で〕完成されたものよりも明瞭であると私も思う。
 それゆえ、われわれの聖職者の伝承に従えば、下位の知性は最初の知性によって万物の超存在的な根源へ引き上げられ、彼らに許される限りで聖化の根源から与えられる浄化と照明と完成を分有することから、最初の知性は下位の知性を完成し、照明し、浄化する力と呼ばれている。すなわち、最初の階級を介して第二の階級は神性の根源の照明を分有するということが、神である秩序の根源によって神聖なる法として普遍的に定められたのである。神について教えている人々がそのことをさまざまな個所で言明しているのをあなたは見出すであろう。
 実際、神の父としての人間に対する愛が、ィスラエルの民を聖なる救いのために立ち直らせようとして懲らしめ、彼らを摂理しつつあらゆる仕方でより善いものにすることによって正すべく復謦心に燃えた野蛮な民族に引き渡し、そして捕囚から解放し[089]、以前の安楽な生活に引き戻したときに、神について教えている人々のうちの一人であるゼカリヤは、神の周りにいる第一の階級のうちの一天使 — というのは、述べたように、この「天使」という名称は〔天上の知性の〕すべてに共通なのであるから — を見ているのだと私は思う。その天使は、述べたように、「慰めの言葉」〔ゼカ1:13[090]〕を神自身から学んでいるのだが、下位の天使のうちの別の一天使が照明を受けて分有するためにその第一の天使を出迎えに前に出て来て、 (35) 次いで、その下位の天使は司令者としてその〔上位の〕天使によって神の意志を教示され、神について教えているその人〔ゼカリヤ〕に「エルサレムは大勢の人々の溢れ住むところとなるであろう」〔ゼカ2:8〕ということを教示するように委ねられるのである。
 神について教えているもう一人の人エゼキエル[091]は、そのことは、ケルピムの上に立ちあらゆる栄光を超えた神性自身によつて、このうえなく聖なる仕方で法として定められたのであると言っている[092]。というのも、神性は、言われているように、人間に対する父としての愛から懲らしめをもってィスラエルの民をより善いものに変えるために、神にふさわしい正義によって罪のない人々と罪深い人々を区別するのがよいと考えたからである。そのことはケルピムの後の第一の天使 — 彼は腰にサファィアを付け、司令者の象徴として足まで届く亜麻布をまとっていた〔エゼ9:2参照〕— に教示されるのであるが、神なる秩序の根源は、それに関する神の決定がそのより先なる天使によってほかの天使たち — 彼らは斧をもっていた[093] — に教示されるよう命じている。実際、神はそのより先なる天使に対して「エルサレムの中を巡り、罪のない人々の額にしるしを付けよ[094]」と言われたが、ほ かの天使たちには「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。〔……〕しかし、あ のしるしのあるどの者にも近づいてはならない」〔エゼ9:5-6〕と言われたのである。
 〔神について教えているもう|人の人〕ダニエルに「言葉が発せられた」〔ダニ9:23[095]〕と告げた天使〔ガブリエル〕について、あるいはケルピムのあいだから火を受け取った第一の者自身[097]について、あるいは天使の整然たる秩序を いっそうはっきりと示すならば、ケルピムが聖なる衣をまとった者の手の中に火を置くということに関して、人は何と言うべきであろうか。あるいはまた、いとも聖なるガブリエルの名を呼んで、彼に「幻をこの人に説明せよ」〔ダニ8:16〕と言った者については何と言うべきであろうか[098]。あるいはさらに、ほかにも神について教えている聖なる人々によって語られた、天上のもろもろの位階の神のごとくに秩序立った美しさについては何と言うべきであろうか。われわれの位階の整然たる秩序は、その秩序立った美しさに従ってできる限り天使の整然たる美しさに似たものとなって、似姿において存在するようになるであろうし、そのときには天使のその秩序立った美しさを刻印されて、あらゆる位階の超存在的な秩序の根源へ引き上げられるのである。

<Ⅸ>

権勢〔権天使〕大天使、天使について、それら最後の位階について。

(36)<1>
 聖なる観想のためにわれわれに残されているのは、天使の位階の最後を締めくくっている階級、すなわち神のごとき「権勢〔権天使〕」、「大天使」、「天使」によって構成されている階級である[099]。しかし、最初に私は、私にできる限り、これらの聖なる名称の意味を説明する必要があると思う。
 天の「権勢〔権天使〕」という名称が表しているのは、〔その名をもつ天使である〕彼らが、神のように権勢を有するということであり、権勢の力に最もふさわしい聖なる秩序をもって指導する者であることであり、権勢を超えている権勢へ自ら完全に還帰するとともにほかの者たちを権勢をもつて率いていくということであり、あの権勢を造る権勢そのものにできる限り自分自身を似たものにして、その権勢を造る権勢の超存在的な秩序の権勢を権勢の力の秩序立った美しさによって開示するということである。

<2>

 聖なる「大天使」は、一方では、〔それより上位の天使である〕天の「権勢〔權天使〕」と同じ階級に属している。というのもそれは、私が述べたように、それら〔二つの階級〕の天使と〔同じ階級のなかで最下位の天使である〕「天使」はーつの位階と階級を有しているのだからである。しかし他方では、確かに第一の力と中間のカと最後の力を有していないような位階は存在しないのだから、「大天使」という聖なる階級は位階の中間[100]であることによって、それら両端の階級にともに関与するのである。すなわち、それはいとも聖なる「権勢〔権天使〕」とも〔天使全体の なかで最下位の〕聖なる「天使」とも交流するのである。「権勢〔権天使〕」と交流するというのは、それは超存在的な権勢へ権勢をもって還帰[101]し、できる限りその権勢に似たものになり、その権勢の秩序立った、よく整えられた、見ることのできない指揮によって天使たちを統一するからである。他方、「天使」と交流するというのは、それが伝達者たる階級に属していて、神性の根源の照明を位階に従って第一の諸力を介して受け入れて、善に似たものとして「天使」にその照明を伝え、 (37) 「天使」を介してわれわれに神聖なる仕方で照明されるそれぞれの者の聖なる能力の度合いに応じて開示するからである。
 実際、「天使」は、すでにわれわれが述べたように、天上の知性の階級全体〔の構成〕を最終的に締めくくるのであり、天上の諸存在としては最後のものとして使いという特注を有していて、彼らの位階が彼らにとってより明らかに知られるもの[102]にも関わり、ほかのもの以上に世界に関わっているという限りで、より上位の階級に比べいっそうふさわしく「天使」とわれわれに名づけられているのである。
 実際、述べられたように、最高の階級は第一位にあるものとして、隠れているものの近くにいて、隠れた仕方で第二の階級に司令すると考えなければならない。そして、この第二の階級は聖なる「主権〔主天使〕」、「力〔力天使〕」、「能力〔能天使〕」から成っていて、「権勢〔権天使〕」、「犬天使」、「天使」という〔自分より下位の〕位階を指揮するのであるが、それは第一の位階〔が第二の位階を指揮する場合〕よりも明らかな仕方で指揮するのであり、それよりも下位の位階〔が人間を指揮する場合〕に比べ隠れた仕方で指揮するのであると考えなければならない。また、「権勢〔権天使〕」、「大天使」、「天使」という〔神の神秘を人間に〕開示する階級は互いに分担し合って人間の位I階を司るのであるが、それは、神への上昇と還帰、神との交わりと合一が階級に応じて生起するためなのであり、それにまた、善となるように神からすべての位階に与えられ、〔われわれの世界との〕交わりにおいて秩序立った美しさをともなってやってくる、いとも聖なる発出が生起するためなのであると考えなければならない。
 そういうことから、神のことば〔聖書〕は、天使にわれわれの位階を分担させて、ミカエルをユダヤ人の大天使と呼び、ほかの天使をほかの諸民族の大天使と呼んでいるのである[103]。実際、「いと高きものが神の使いの数に従って国々の境を設けられた」〔申32:8[104]〕のであるから。

<3>

 しかし、なぜへブライ人だけが神性の根源の照明へと引き上げられたのかと誰かが問うならば、次のように答えなければならない。すなわち、ほかの民族が存在していない神々の方に迷い込むことを天使の正しい監督〔の怠慢〕のせいにしてはならないのであって、その民族自身が、利己心により、高慢になることにより、神にふさわしいと彼らに思われたものに相応した崇拝を行うことにより、自分たち自身の持ち前の傾向から、神に属するものへの正しい上昇から離反したのである。このことは証言されていることであって、へブライ人自身が体験したことである。 (38) 実際、「お前は」神の「知識を退け」〔ホセ4:6〕、再び自分の思うままに進んだと、彼〔主なる神はホセアに〕述べている[105]。実に、われわれの生は必然性の下にある[106]のでもなく、摂理する照明の神の光が摂理されているもの自身の力[107]で弱められることもないのであって、知性直観が〔知性直観するもののあいだで〕不均等であ Iることが、父たる善からの、充満を超えた、光の賜物をまったく分有でき.ないという状態を惹き起こしたり、また知性直観の抵抗のために分配されないという状態を惹き起こしたり、あるいは単一で純一で永遠に同じまま[108]で泉から溢れ出る光線の分有を、大きいものや小さいもの、不明瞭なものや明瞭なものというように異なったものにするのである[109]
 あるほかの神々がほかの民族 — われわれもほかの民族から、いつでも分与しようとあらゆるものに開かれている、神性の根源の光の無限で豊かな海の方へ目を向けるのである — を司っているのではなく、唯一の根源がすべての民族を支配していて、それぞれの民族を司令する天使が後に従う彼らをその根源へ引き上げるのであるから、メルキゼデク[110]を存在しない神々ではなく真に存在する最高の神を最も敬愛する司令者としての祭司[111]であると考えなければならない。実際、神の知恵に満たされた人々はメルキゼデクをけっして単に神を敬愛する人と呼んだのではなく、祭司〔司八署〕とも呼んだ〔創14:18参照〕のであるが、それはむしろ、単に彼自身が真に存在する神〔出314参照〕へ還帰したということだけでなく、彼が真の唯一の神性の根源へ上昇するのに司令者Iとしてほかの人々を率いたということをも、賢明な人々に明瞭に示すためである。

<4>

 次のことも位階に関するあなたの理解を喚起するであろう。すなわち、あらゆるものを摂理し支配する配慮と権能が、エジプト人を司る天使によってはファラオに〔創41:1-24参照〕、バビロニア人に固有の天使によっては彼らの君主[112]に幻によって伝えられたのであり〔ダニ2:1、4:1-2参照〕、あの〔ユダヤの〕民族にあっては真に存在している神に仕える者が指導者に立てられて、天使によって形に表された幻の顕現が、天使の近くにいる聖なる人ダニエルとヨセフに神から天使を介して開示されたのである[113]。実際、万物の根源と摂理はただ一つなのであって、 (39) ユダヤ人に対しては神性の根源が気まぐれに専念して指導しているのであり、それに対して、ほかの民族に対しては天使あるいはあるほかの神々が、ある特別な仕方で、あるいは〔神性の根源と〕同等の権限をもって、あるいは〔神性の根源に〕敵対して司っているのだなどとけっして考えるべきではない[114]。かの.聖句〔申32:8[115])は聖なる意味において次のように理解されなければならない。すなわち、神がほかの神々あるいは天使たちとわれわれの指導を分かち合い、イスラエル人に対しては民族の支配者や指揮者として気まぐれに専念しているのではないのであって、万物の唯一最高の摂理そのものが全人類を救おぅと引き上げるべく手を取って導くことを〔それぞれの民族に〕固有の天使たちに割り当てているのであるが、ほとんどすべての民族のなかでイスラエル人だけが真の主の光の賜物と認識へ立ち帰ったのである。
 それゆえに、神のことば〔聖書〕が「主に割り当てられたのはその民」〔申三ニ:九〕とつているのは、真に存在する神を祀ることについて自らがイスラエル人を分担することを示すためであるが、他方、神のことば〔聖書〕がミカエルはユダヤ人を指揮すると言った[116]のは、ほかの民族の場合と同様にイスラエル人を聖なる天使たちのうちのあるひとりの天使に分担させていることを明らかにして、その天使を通してあらゆるものの唯一の根源を悟るためなのである。それは、見ることのできる力と見ることのできない力のすべてを超存在的に超えている、一切のものの唯一の摂理が存在しているのであるが、しかし、それぞれの民族を司るすべての天使たちが、自分たちに自発的に従う人々を彼ら自身の根源としてのその摂理へできる限り向けさせるのであるということを、われわれに明らかに教えているのである。

<Ⅹ>

天使の整然たる秩序に関する繰り返しと結論[117]
(40)
<1>

 それゆえ、われわれは次のよぅな結論を得る。すなわち、神の周りにいる知性のなかで最上位の階級は、完成の根源の照明によって司令されて、神性の根源から贈られるあまりに隠れているとともにあまりに明るく輝く光の賜物によって、無媒介にその完成の根源の照明へ向かって昇り、浄化され、照明され、完成されるのである。その光の賜物があまりに隠れているのは、あまりに知性的であり、あまりに純一でありかつ統一的であるがゆえであり、また、それがあまりに明るく輝くのは、最初に与えられ、最初に現れ、あまりに完全で、澄みきったものとしてのそれ自身に、あまりにも豊かに注ぎ出される[118]がゆえである[119]
 次いで、この〔*±位?階級によって箜一の階級が、箜一の階級によって第三の階級が、第三の階級によってわれわれの位階が、それぞれの能力に応じて、整然たる秩序の根源の同じ定めに従って、神的な調和と相互関係において、位階に従って、すべての整然たる秩序の超根源的な根源と完成へ引き上げられるのである。

<2>

 彼ら〔天上の知性〕は皆、自分より上位のものの開示者であり、またその使いである。つまり、最上位の者は〔自分たちを〕動かしている神の〔開示者であり、またその使いであり〕、ほかの者は、その能力に応じて、神によって動かされる者の〔開示者であり、またその使いである[120]〕。実際、もろもろの位階のそれぞれに対して聖なるものにふさわしいもろもろの秩序が定められたので、万物の超存在的な調和は、理性を有するもの〔人間〕と知性を有するもの〔天使〕に対して、それぞれの聖なる整然たる秩序と秩序正しい上昇とをかくもよく摂理したのであり、したがって、われわれはその位階全体が第一の諸力、中間の諸力、最後の諸力に区分されているのを見るのであるが、しかし厳密に言えば、それ〔万物の超存在的な調和〕は、同じ神聖なもろもろの調和によってそれぞれの階級そのものを〔さらに三つに〕分けたのである。それゆえ、神について教えている人々が、いとも聖なるセラフィム自身は「互いに呼び交わす」〔イザ6:3〕と言っているが、彼らはそのことによつて、あたかも神に関する知識を第一の〔階級に属する〕ものが第二の〔階級に属する〕ものに分与するのだということをはっきりと示しているように私には思われる。

<3>

 私が次のことを付け加えることは不当なことではないであろう。すなわち、天上的知性も人間的知性も、 (41) それぞれがそれぞれ自身に固有の最高、中間、最低の階級を有し、またそれぞれの位階に対する照明による上昇は、前述のようにそれぞれの位階に応じて明らかにされる固有なものなのであるが、そのような上昇のための力をも天上的知性と人間的知性のそれぞれが有しており、それぞれが自分に許され自分にできる限り、清浄を超えた浄化を分有し、充満を超えた光を分有し、完成に先立つ完成を分有するのである。実際、真に自分自身において完成していてしかも完成に先立つもの以外には、自分自身で完成しているものは何もないし、あるいは完成をまったく必要としないものは何もないのである。

<Ⅺ>

なぜ天上の諸存在のすべてがI般に「天上の諸力」と呼ばれるのか。

<1>

 ところで、これらの区分をしたのであるから、天使という存在のすべてをひとまとめに「天上の諸力[121]」と呼ぶ習慣があるのはどうしてかということを考えるのはもっともなことであろう。すなわち、「天使」〔という名称〕の場合と同様にして、次のように論じることはできないのである。つまり、聖なる「力〔力天使〕」の階級というのIはすべての階級のなかで最低の階級であり、上位の諸存在の諸階級はその最低の階級の聖なる照明を分有しているのに対して、最後の階級は第一の階級〔の聖なる照明〕をまったく分有していないのであって、それゆえにどの聖なる知性も「天上の諸力」と呼ばれるけれども、最後の階級は最高の普遍的な特性を分有することができないために「セラフィム」、「王座〔座天使〕」、「主権〔主天使〕」とはけっして呼ばれないのであると〔いうように〕論じることはできないのである。
 というのも、神についての教えは、「天使」、「天使」より上の「大天使」、「権勢〔権天使〕」、「能力〔能天使〕」を「力〔力天使〕」よりも後に位置づけているけれども、われわれはしばしばほかの聖なる諸存在といっしよにして一般に「天上の諸力」と呼んでいるからである。

<2>

 しかし、われわれは次のように言いたい。すなわち、〔天上の諸存在の〕すべてについて「天上の諸力」という名称を共通に使うとしても、そのことがそれぞれの階級の特性に対して何か混乱を惹き起こすことはないのであって、聖なる知性のすべてはこの世を超えている根拠によって彼らの下で存在、力、作用の三つに区分されているのであるから[122]、それら知性の全部もしくはどれかをわれわれが特に注意せずに「天上の諸存在」とか「天上の諸力」と呼ぶときはいつも、それら知性のなかの存在もしくは力にそれぞれもとづいて、語られている当の知性そのものをわれわれが遠回しに表していると考えるべきなのであり、そのときはまた実際、天使の諸階級が入り乱れることを許さない秩序の根源を転覆して、われわれがすでに正しく区分した聖なる諸力のうちの上位のものの特性を全面的に下位の諸存在にも認めているのではないと考えるべきなのである。
 なぜなら、われわれがしばしば正しく説明したように、最初に現された照明は最下位の階級には最高の階級を通して彼らの能力に応じて部分的に伝えられるために、上位の階級は下位の階級の聖なる特性を溢れるほど有しているけれども、最後の階級は上位の階級の優れた特性を全部有しているわけではないからである。

<Ⅻ>

なぜ人間の位階が「天使」と呼ばれるのか。

<1>

 知性によって把握することのできる言葉[123]を観想したいと思う人々は、次のこともまた探究しなければならないであろう。すなわち、もしも最下位の階級が上位の階級の〔特性の〕全体を分有することはできないのであるならば、われわれの教会の司令者〔である祭司[124]〕が聖書によって「全能の主の使者」〔マラ2:7〕と呼ばれているのはどういう理由によるのであろうか。

<2>

 だが、この呼び方は前に規定された[126]ことに対立するものではないと私は思う。というのも、最下位の階級は上位の階級の普遍的な優れた力には及ばないと、われわれは言っているのだからである。 (42) すなわち、最下位の階級は、すべてのものを調和のとれた仕方で結合する唯一の交わり[127]にもとづいて、部分的に、自分の能力に応じて、〔そのような力を〕分有しているのである。
 たとえば、聖なるケルピムの階級ははるかに高い知恵と知識を分有しているけれども、その下の諸存在の諸階級自身もケルピムの階級と比べると部分的で劣ったものではあるがやはり(43)知恵と知識を分有しているのである。確かに、全体としては知恵と知識を分有しているということは知性という神のごときもの[128]のすべてに共通しているのであるが、その分有が直接的で第一次的なものか、あるいは第二次的で劣ったものかということになるともはや共通のことではなく、それぞれの階級に固有な位置に応じて定められているのである。すべての聖なる知性についてこのように規定することはけっして誤りではないであろう。実際、第一の階級は下位の階級の聖なる特性を溢れるほど有しており、それと同様に最下位の階級も第一の階級の聖なる特性を有しているのであるが、ただしそれは同じ仕方ではなく劣った仕方でなのである。それゆえ、自分自身の力に応じて天使の伝達するという特性を分有して、人間に許されている限りで天使が開示するということとの類似に到達しようと努めるわれわれの教会の司令者〔である祭司〕をも、神のことば〔聖書〕が「使者」と呼んでいるからには、〔そう呼ぶことは〕けつして不自然なことではないと私は思う。

<3>

 だが、あなたは、われわれの上にいる天の諸存在と、われわれの許でこのうえなく神を愛している聖なる人々とを神のことば〔聖書〕が「神々[129]」と呼んでいることに気づくであろう。だがしかしながら、神性の根源の隠れというものは、存在を超えてあらゆるものから隔絶しあらゆるものを超越しており、それに対しては存在するどんな似たものをもってしても正当にかつ完全に名づけることはできないのである。それにもかかわらず、知性を有するものと理性を有するもの[130]は、その神性の根源との合一に向かってできる限り全面的に還帰し、可能な限りたえずそれの神聖なる照明に到達しようと努めるということから、つまりこう言つてよければ、力の限り神に倣うということによつて神と同じ名前に値すると考えられたのである。

<ⅩⅢ>

なぜ預言者イザヤはセラフィムにょって浄化されたと言われるのか。
<1>

(43)
 さてそこで、なにゆえにひとりのセラフィムが神について教えている人々の一人〔イザヤ〕に遣わされたと言われるのか[132]ということも、(44)われわれはできる限り考察しよう。というのも、その伝達者[133]を浄めるのが下位の天使のうちのひとりではなく、最高位の諸存在に属するひとりの者自身であつたということに誰もが当惑するであろ うからである。

<2>

 そこで、ある人々は次のように言っている。すなわち、すでに今しがた言及したすべての知性の〔あぃだの〕交わりについての定義によれば、その聖句が、神について教えるその人を浄化しに来たものとして名前を挙げているのは、神の周りにいる最上位の知性のひとりのことではなく、預言者の浄化の執行者としてわれわれを監督する天使のあるひとりのことである。その天使がセラフィムと同じ名前で呼ばれたのは、〔イザヤの〕告白した罪 [134]を焼き滅ぼし、そうして浄化された者を神の声に聴き従うよう再び燃え上がらせたからである。また彼らは、その聖句が「セラフィムのひとり」〔イザ62:8〕と言つているのは、けっして神の周りに坐している者のひとりのことではなく、われわれを監督している浄化する諸力のひとりのことであるとも言っている。

<3>

 このように提起された異議に対して、まさに適切なある答えをほかの人が私に与えてくれた。実際、彼は次のように言ったのである。すなわち、〔イザヤを浄化した〕その偉大な者 — それがいったい誰であったにせよ、その天使は神について教える人〔イザヤ〕に神に属する事柄を教示するために〔「イザヤ書」に述べられているあの〕幻視〔イザ六〕を惹き起こしたのである――は、自分自身の行った浄化という聖務の執行を神によるものとし、〔そのように〕神によるものとした後で、第一次的に生じる位階によるものとしたのであると。
 この話は真実を語っているのであろうか。確かに、このことを語った人は次のことを言っていることになる。すなわち、神性の根源の力は発して万物に及び、万物を貫いて際限なく広がるけれども、同時にそれはすべての者に見えないのである[135]。というのは、単にそれが超存在的に万物から隔絶しているからそうなのではなく、隠れた仕方でその摂理の働きで万物を貫き通すからでもある。そのうえ、それは知性を有するすべてのものにそれぞれとの関係に応じて現れ、自分自身の光の賜物を最上位の諸存在に手渡し、それを第一のものである彼らを通して下位のものに、それぞれの階級が神を見ることのできる程度に応じて秩序正しく伝えるのである。
 あるいは、万物から隔絶している神には及ぶべくもないとしても、われわれにとっては非常に明らかな適切な例によって、私はいっそう明瞭に述べるようにしよう。(45)太陽光線の発散は、どんなものよりも光を通しやすい初の質料[136]へ容易に到達し、それを通り抜けてそれ自身の輝きをいっそう明らかに照らし出すが、しかし、あまり光を通さない質料にぶつかると、その光の当てられた質料の性質が光の賜物が通過するのに適していないために、x発散された光の発現はかなりかすかになり、そしてそこから少しずつ〔弱くなって〕最後にはほとんどまったく通過できないほどに弱まる。
 あるいはまた、火の熱は、非常に熱を受けやすく簡単に容易に熱に似たものになるものには非常によく伝わるが、しかし、抵抗するものや反抗するもののために、その燃焼作用の痕跡がまったくなくなったり、ほんのかすかに認められるだけになったりするのである。またさらに、それ以上に〔次の例が明瞭であろう〕、すなわち、火の熱は、最初にたまたま燃えやすいものを燃え上がらせ、そしてその然え上がったものを介して、水やそのほか何か容易には燃えにくいものをそれぞれの能力に応じて熱することによって、火と類縁性のないものにぶつかるのである。
 それゆえ、自然の整然たる秩序のこの同じ理法のように、驚くべきことに、秩序立った美しさ — 目に見える ものも見えないものも — の全体の秩序の根源は、自分自身からの光の贈り物である輝きを、最初の啓示で、満々と満ち溢れる注ぎ出しによって最高の諸存在に開示し、この最高の諸存在を介して、それより下の諸存在は神の光を分有するのである。実際、その同じ最高の諸存在は、神を最初に認識し、神の卓越性を優れた仕方で希求するのであつて、できる限り神に倣う力と活動を最初に与えられるものとなるに値すると思われる。そして彼らは自分たちより下の諸存在を自分と同等なものになるように善に似た仕方でできる限り引き上げ、自分たちに訪れた光を下位の諸存在に惜しみなく分与する。そして次には、〔その分与された〕下位の諸存在が〔さらに自分よりも〕下位のものに分与し、それぞれ順に先のものが与えられた光を後のものに分与し、(46)かくて神の光はそれぞれのものに応じた摂理に従って諸存在全体に広がっていくのである。
 それゆえ、照明の対象となるすべてのものに対して照明を行う根源は、本性的に、かつ光の本質として真に根本的に神であり、存在することと見ること自体の原因であるが、上位の根源が、位置に従って、神を模倣することにより、順番に自分より下のそれぞれの根源に対してというようにして、上位の根源から下位の根源へと神の光を注ぎかけるのである。
 だから、残りのすべての天使という諸存在は、当然のことだが、天上の知性の最高の階級を、すべての聖なる神の認識と神の模倣の、神の下にある根源であると思うのであるが、それは、その天上の知性の最高の階級を通して神性の根源からの照明がすべての〔天使という〕存在とわれわれとに伝えられるからなのである。それゆえ、彼ら〔残りのすべての天使〕は、神を模倣する聖なる活動を、一方では、原因としての神によるものとするのであるが、他方では、神に属する事柄を第一次的に与えられたものであり、それについての教師としての第一の神のごとき知性によるものとするのてある。
 かくて、聖なる天使の第一の階級はどの階級よりも多く、火の特性と、神性の根源の知恵の注ぎ出された分与と、神の照明の最高の知識の認識と、神を受け取るように開かれていることを示す王座の特性とをもっているのである[137]。しかし、下位の諸存在の諸階級は火も、知恵も、認識も、神を受け取る力も分有してはいるけれども、しかし、それは劣った仕方でのことであり、第一の階級の方を見ることによって、第一次的に神を模倣することに値するその第一の階級を通して、神と似たものとなるように引き上げられるのである。したがって、ここに述ベられた聖なる諸特性は、第一の諸存在を介してその下の諸存在が分有したものなので、彼ら〔下位の諸存在〕はその諸特性を神の下にいる司としての同じその第一位の諸存在によるものだとするのである。

<4>

 したがって、これらのことを述べた人は以下のことを言ったことになる。すなわち、あの幻視は、われわれを司っている聖なる至福の天使のうちのひとりによって、神について教えているその人に教示されたのであり、(47)彼はその天使の照明の導きによってあの聖なる観想へと引き上げられ、その観想において、最高の諸存在が、概念化して言えば、神の下に、神のかたわらに、神の周りに坐しているのを見るのであり、また言い表しがたいということをも超えた仕方ですベてのものからも最高の諸存在からも隔絶し、超越的な諸力の中心にあって〔なおそれらの諸力の〕上に立っている超根源的な卓越性を見たのであると。
 それゆえ、神について教えているその人は、それらの幻視によって、神に属するもの[138]があらゆる超存在的優越性のゆえにすベての目に見える力と見えない力よりも比較を絶して優っていることを知ったのであり、またさらに、それはあらゆるものから隔絶していて、諸存在のうちの第1の諸存在にも全然似ていないことを知ったのであり、またそのうえに、それは万物に存在を与える根源であり原因であり、存在するものが不滅に止留[139]することの不変の基盤であって、それによってこそ上位の諸力も存在することができ、よく存在することができるということを知つたのである。
 その次に、神について教えているその人は、いとも聖なるセラフィム自身の神のごとき諸力を教示されたのである。〔彼にとっては〕彼らの「セラフィム」という名前は「燃やすもの」 — それについては少し後で、われわれに教示されえた限りでわれわれは探究しよう[140] — を意味し、火の燃やす力が神のごときものにまで上昇することを意味しているのであるが、六つの翼をもっているという聖なる形象の表現は、最初と中間と最後の思惟によって[141]あの神に属する事柄へ向かう絶対的な最高の上昇を意味している。神について教えている聖なるその人は彼ら〔セラフィム〕の無数の足と多様な顔を見、翼で足元と顔が見えないようにされているさまを見、真中の翼の永遠の動きを見ることによって[142]、見る対象となるものを可知的に認識すること[143]へと引き上げられたのである。というのも、最高の諸知性のさまざまなやり方やさまざまな観想の仕方をする力と、彼らの聖なる畏敬の念[144] — あまりに高遠であまりに深遠な事柄を、思い上がって向こう見ずにできもしないのに探究することに対するその聖なる畏敬の念を、彼らはこの世を超えた仕方でもっている — と、神に倣う活動の程度に応じて終わることなく高く飛ぶ永遠の飛翔[145]が、彼に開示されたのだからである。
 だが、彼は神性の根源のあの非常に崇敬されている讚美歌[146]によっても神秘に導かれたのであって、そのときその幻視を表した天使は自分自身の聖なる認識を神について教えているその人にできる限り分与したのである。(48)それゆえ、その天使は彼に、いかなる程度であれ清浄なものにとっては、神性の根源の汚れなき清澄さをできる限り分有することが浄化なのであることも教えたのである。そしてその清澄さは、神性の根源自身によって、超絶的な諸原因によりすベての聖なる知性に対して超存在的な隠れ[147]のうちに働いていて、最高のものとしてその神性の根源の司りにいる諸力にはある仕方であまりにも明白であり、非常に明らかに示され、伝えられるのであるが、しかし第ニの階級の知性的諸カ、あるいは最後の階級の知性的諸カ、あるいはわれわれの知性的諸カに対しては、清澄さはそれぞれ神との類似性という点で神性の根源から遠ざかった度合いに応じて、それ自身の隠れている不可知の一なるところに従って神性の根源の輝く照明をもたらすのである。その清澄さは、それぞれ階級ごとに、第一の階級によって第二の階級を照明するのであって、要約すれば、その第一の諸力を通して隠れから現れへ移るのである。
 したがって、神について教えているその人を照明によって導いた天使が彼に教えたことは、浄化と、第一の諸存在を通して輝き出る神性の根源のすべての働きとは、神の業の分有の程度に従ってそれぞれのものに応じて残りのすべての存在に伝えられるということである。それだからこそ、当然にも彼は火によって浄化するという特性を神の後でセラフィムに帰したのである。それゆえ、神について教えているその人を浄化したのはひとりのセラフィムであったと言われるとしても、不適切なことではないのである。神があらゆる浄化の原因であることによってすベての存在を浄化するのと同様に、またしかしずっと身近な例を使えば、むしろそれ以上に、われわれの許にいる司令者〔である司教〕が、自分の〔下にいる〕助祭や司祭を通して浄化したり照明したりする場合、— 司教によって聖別された彼ら聖職者が自分自身の聖なる活動を司教によるものだとしているので — 司教自身が浄化し照明するのだと言われるのとまったく同様に、神について教えているその人の浄化を行う天使は、自分自身の浄化する知識と浄化力を、一方では原因としての神によるものだとし[148]、他方では〔神からその浄化する知識と浄化力を〕第一次的に与えられた司令者としてのセラフィムによるものだとするのである。言われたように、その天使は天使にふさわしい畏敬の念をもって、自分が浄化する相手に次のように教えたのである。
 「第一の諸存在をも存在することへと引き出して、自分の周りに据えることによってまとめ、不変不動に保持し、自分自身の摂理の働きを最初に分有するようにと自ら動く — それはセラフィムの派遣〔イザ6:6参照〕のことを表しているのだと、そのことを私に教えてくれた人〔である私の師〕が言ったのだが — ものが、私があなたに対して行った浄化の超絶的な根源、本質、創造者、原因なのである。(49)それに対して、最高の諸存在から成る階級は神の下の司令者であり、指揮者であって、この階級によって私自身が神のごとくに浄化することを教えられたのである。それゆえ、私を通してこの階級があなたを浄化するのであり、この階級を通して全浄化の原因であり創造者である者がそれ自身の摂理の働きをその隠れからわれわれに導き出したのである」。
 あの〔私の師である〕人が私にこのことを教えてくれたのであるが、私はそれをあなたに伝えるのである。しかし、あなたの知性的な分別ある知識によって、今説明された〔ニつの〕事例のうちの一つによってこの難問が解決されるということもあろうし、一方が真実らしく、もっともで、おそらく真実であろうからというので、それを他方よりも尊重するということもあろうし、あるいは、あなた自身で何かいっそうほんとうに真理に近いものを見出すということもあろうし、あるいは、もちろん神が「言葉を与えて」〔詩68:12〕天使が仲介するのだが、そのことによつてほかの人から学び知るということもあろうし、また天使を愛するわれわれに対して、どのようなものであれ、はるかに明らかなものを、私に対してもはるかに望ましい観想を開示するということがあるかもしれない。

<ⅩⅣ>

伝承されている天使の数とは何を意味しているのか。

(50)
 聖書の伝承が天使〔の数〕に関して「千の数千倍、万の数万倍[149]」であると述べていることも知性的考察に値すると私は思う。その数は、われわれにとって最大の数を繰り返し掛け合わせたものであり、それによって天上の諸存在の諸階級がわれわれには数えきれないということをはっきりと示している。実際、この世界を超えた知性の浄福なる群れ[150]はたくさんあって、〔その数は〕われわれが物を数えるという貧弱で有限な限度を超えていて、ただこの世を超えた天上的な彼らの知性と知識から認識のうえで[151]定められるだけなのである。その彼らの知性と知識は、無限なる認識を有する神性の根源から知恵を付与することによって満々と満ち溢れる仕方で彼らに贈与されるのであり、その知恵を付与することは、すべての存在するものに対して、超存在的な仕方で存在する始原であると同時に存在を与える原因であり、また保持力であり、さらに包括する終極なのである[152]

<ⅩⅤ>

天使のカの次の諸形象とは何か、すなわち、火との類似性、人間との類似性、目、鼻孔、耳、ロ、触覚、臉、眉毛、最盛期、歯、肩、腕と手、心臓、胸、背中'足、翼、裸、衣、輝く衣服、司令者の衣服、帯、箱、搶、斧、測量の測り縄、風、雲'青銅、號拍、隊、ゲルゲル、石の色'獅子の形象、牛、鷲、馬、多彩な毛色の馬、川、戦車、車輪、前述した天使の喜び。

<1>
 さてところで、もしょければ、最後にわれわれは、一性に関わる崇高なる観想へ向かって天使に似つかわしく知性の目を凝らすことはやめて、天使の形象表現のもろもろの多様性という分割された多くの部分から成る次元へ下降し、似姿としてのそれらの形象表現からもう一度引き返して天上的知性の純一性へ戻ろう[153]
 (51)しかし、あなたには、聖なる事柄を表現している似姿の説明が、天上の諸存在のなかの同じ階級があるときには命じるのに、別のあるときには命じられるということ、また最低の階級が命じることもあれば第一の階級が命じられたりもするということ、また述べられたように、同じ階級が第一の諸力も中間の諸力も最後の諸力も有しているということ、それらのことを明らかにしていることをあらかじめ心得ておいてほしいし、ここに提示された論点は次のような説明の仕方をするならけっして不合理なものではないのである。
 すなわち、もしある階級が上位の階級によって命じられるのに、その同じ上位の階級に対して命じるとか、今度はその上位の階級が最後の階級に命じて、しかもその同じ命じられた階級によっても命じられるのであるとわれわれが言ったとすれば、それはまことに不合理なことであり、大きな混乱に陥っているのである。しかし、もし同じ階級が命じ、かつ命じられるのであるとわれわれが言うならば、その同じ階級が自分自身に命じたり、あるいは自分自身によって命じられるのであると言っているのではなく、それぞれの同じ階級が、一方では上位の階級によって命じられ、他方では最後の階級に命じるのであると言っているのである。聖書において神聖な形象に表現されているその同じものを適切にかつ正しく、ときには第一の諸力のものとし、ときには中間の諸力のものとし、ときには最後の諸力のものとすることができるのだと、誰かが言うとしても誤りではないのである。それゆえ、〔神性の根源へ〕還帰することによって高みへ向かうこと、自分自身の諸力を見るのにふさわしいものである[154]それら〔の階級〕自身の周りを揺るぎなく回ること[155]、それら摂理する階級が次位のものと交わって分与する発出によって〔次位のものは〕力を分有すること、それらのことは、しばしば述べたように[156]、一方では優れた仕方で全面的に、他方では部分的で劣った仕方でではあれ、確かにすベての天上の諸存在にあてはまることなのである。

<2>

 そこで、蠢論を開始しなければならないのであるが、もろもろの形象表現についての〔われわれの〕最初の説明においては、神のことば〔聖書〕がほとんどすべての聖なる叙述に優って火に関する聖なる叙述を尊重しているのが見出されるのはなぜなのかということを探究しなければならない[157]。実際、たとえば、あなたは神のことば〔聖書〕が単に燃えさかる車輪[158]だけでなく、(52)燃え上がる動物[159]と火のようにきらきら輝く人々[160]も描写しているのを見出すであろうし、また、天上の諸存在自身の周りに山のような燃える炭火[161]と抗しがたい激しい勢いで流れる燃えさかる川[162]を置いているのを見出すであろう。それにまた、神のことば〔聖書〕は、王座が燃えていると語っており[163]、また最高のセラフィム自身が火を発するものであることをその名称〔の意味[164]〕から示して、火の特性と活動をセラフィムのものであるとしていて[165]、〔天使の位階の〕上位の者に対しても下位の者に対しても全般的に特に火の形象を重んじているのである。
 それゆえ、私は火に関するものごとが天上の知性が有している神との類似性を最もよく表している[166]と思う。すなわち、神について教えている聖なる人々は、存在を超えていて形のない存在を、もしこのような言い方が許さ れるならば、神性の根源の特性の多くの似姿 — 目に見える事物においてのことではあるが — を有しているような火でもってさまざまな仕方で描写しているのである[167]
 実際、感覚で捉えることのできる火は、いわばすベてのものに存在していて[168]、混じり合うことなしにすべてのものを貫いているが、しかしすベてのものから隔絶している。それは明るく輝いているが、それと同時に隠れているかのようであり、それ自身の働きをその中に示すことのできる物質が存在しなければ、それはそれ自体として認識することができず、把握することも見ることもできない。それはすべてのものを自分自身で支配し、それが入っていくことのできるものは自分自身の働きに変えてしまい、どのような仕方であれ自分に近づくすべてのものに対して自分自身を分与する。それは発火させる熱によって甦り、覆い隠されることのない照明によって照らす。それは支配されず、混じり合うことなく、分割し、不変である。それは上昇し、すばやく動き、はるか高くにあり、低い状態へ下落することをけっして許さない。それは永遠に動き、自分自身で動き、ほかのものを動 かす。それは包括するが、包括されることはない。それはほかのものを必要としない。それは密かに自ら成長し、受けとめた質料に応じてそれ自身の偉大さを示す。それは活発で、力強い。それは目に見えない仕方であらゆるものに現存し、よく注意しなければ存在していないように見える。だが、ちようど何かあることを探究している場合に起こるように[169]、それは摩擦によって自然にそれ固有の仕方で突如として[170]閃き出てくるけれども、また飛び去ってしまって捉えることができなくなる。それは満々と満ち溢れて自分自身を分与するどんな場合にも減少することはない。
 (54)感覚によって捉えることのできるものにおいてのことではあるが、神性の根源の働きの似姿としては、誰でもいっそう多くの火の固有な特性を見出すことができるであろう。まさにそのことを神の知恵に満たされた人々は知っているので、天上の諸存在を火〔という形象〕によって叙述して、彼らの神との類似性と模倣性をできる限り明らかにしているのである。

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 しかし、彼ら知者たちは天上の諸存在を人間の姿で描いているが[171]、それは、人間が知性を有し、高みを仰ぎ見る視力を有し、真直ぐに直立した姿勢をしていて[172]、本性的に支配し指導する力を有している[173]からであり、また、 Iほかの理性をもたない動物と比較すれば、感覚に関してはその力が最も劣るとしても、優れた知性の力により、理性的知識にもとづく支配力により、また隸属することも支配されることもないという魂の本性にもとづく支配力により、すべてのものを支配することができるからなのである。
 そして私は天上の諸力にふさわしい似姿をわれわれの身体の多くの部分からそれぞれ見つけ出すことができると思う。〔天上の諸カにっいて述べられている〕視カ〔エゼ1:18、10:12、ダニ10:6、黙4:6-8参照〕は、神から来るもろもろの光を一点の曇りもなく仰ぎ見ることができることを表していると同時に、神性の根源から来る柔らかい、素直な、抵抗を感じない、すばやい、清らかな、あからさまな照明を平静に[174]受け取ることができることを表していると、言いうるであろう[175]
 また、香りを嗅ぎ分ける力[176]は、知性を超えている芳香の発散をできる限り感じ取りうること、そしてそれとは違うものを知識によって区別してそれを完全に避けうるということを表していると言いうるであろう。
 また、聴力[177]は、神性の根源の霊感を分有することができ、認識によって受け取ることができることを表しており、また味覚の力[178]は、知性でのみ捉えることのできる食べ物で満たされていることと、神からの栄養の流入を受け取ることができることを表しており、また触覚の力[179]は、ふさわしいものか有害なものかを知識によって区別することができることを表しており、また瞼と眉毛[180]は、神を親相心することのできる知ftの働きを守ることを表しており、また青年期と若い年齢[181]は、常に生命力の最盛期に達していることを表しており、また歯[182]は、贈与された養育の完成を分割することができることを表しており — 実際、それぞれの知性的存在は、神に近い方の存在から自分に与えられた一なるものに似た知性の働きを摂理の力によって分割し、それを下位の諸存在が上昇することのできるそれぞれの度合いに応じて多様化するのである — 肩と腕〔ダニ10:6、サム下24:16参照〕とそれに手[183]は、制作し、活動し、行動する力を表しており、またさらに心臓は、摂理の下にあるものに自分自身の生命力を善にふさわしい仕方で分配する神のごとき生命を象徴していることを表しており、次に胸[184]は、不屈である ということと、その下にある心臟が行っているような命を作り出して配分する動きを保護することを表しており、また背中〔エゼ10:12〕は、生命を生み出す力のすべてをまとめることができることを表しており、また足〔イザ6:2、エゼ1:7、ダニ10:6、黙10:1以下参照〕は、神に属する事柄へ向かって進んで行く永遠の運動を行うことができること、それが敏速で淀みがないことを表していると言いうるであろう。それゆえ、神のことば〔聖書〕は聖なる知性の足に翼を付けたのである[185]。というのも翼は、上昇のすばやさ、〔彼らが〕天に住まうこと、 高みに向かって道を切り開きうること、上昇によって地上的なもののすべてを超絶することを表している。また翼の軽さは、〔彼らが〕けっして地上的なものではなく、まったく〔地上的なものと〕混じり合うことも重さに引きずられることもなく高みへ上昇することを表している。裸であることと裸足であること[186]は、自由で、束縛されず、制限を受けず、外部からの付加物に汚されず、神の純一性と可能な限り類似しうることを表している。

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 さて次に、純一であって、「いろいろの働きをする神の知恵」〔エフェ3:10〕は裸のものに着物を着せ、彼らに道具を持ち回ることを許しているのだから、それではわれわれは天上の知性の聖なる衣服と道具について可能な限り考察することにしよう。輝く衣、炎の衣[187]は、(55)私の思うには、火という形象によって神との類似性を示しており、天 — そこには光があり、知性によって捉えることができる仕方で照明を行うものの全部、あるいはまた知性によって照明を受けるものの全部がある — において〔彼らに〕割り当てられた場所にもとづいて照明しうることを示しており、司令者の衣服[188]は、神に属する神秘なる観想対象に導いて、全生命を神聖にしうることを示している。
 そして帯〔黙15:6〕は、彼らが自分たちの生産力を保持しうることを示しているし、またそれは、一つにまとまるという彼らの性質が彼ら自身においてただ一つに統一されることを示し、さらに秩序立った美しさをもって輪をなして彼ら自身の周りに不変の同一性によって集まるということを示している。

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 さらに笏〔士6:21〕は、彼らが王であり、指導力を有し、すべてのことを真直ぐに達戎することを示している。槍と斧[189]は異なったものを区別する力を示し、識別力の鋭さ、活発さ、効き目を示している。
 幾何学と建築の道具[190]は基礎を作り、建て、完成させる力を示しており、そのほかのものはどれも、次の位にあるのものを引き上げて還帰させる摂理を示している。
 聖なる天使の道具〔黙8:6、14:14-17、20:1参照〕として形象表現されているものは、われわれに関する神の裁きを象徴している場合があり、そのうちのあるものは、いっそう善いものにしようとする教育や、復譬する正義を示し、またあるものは逆境からの自由、あるいは教育の完成、あるいは以前の安寧の回復、あるいはそのほかのものは、大きなものであったり小さなものであったり、あるいは感覚で捉えることのできるものであったり知性で捉えることのできるものであったりはするが、いずれにせよ〔神から〕ほかの贈り物を追加することを示している。目に見えるものと見えないものを適切に調和させる洞察力ある知性が困惑したりすることはけっしてないであろう。

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 彼らは「風」〔詩18:11、104:3、へブ1:7、ダニ7:2参照〕とも名づけられているが、そのことは、彼らの敏捷で、ほとんど無時間のうちにすベてのものに達する飛翔を示しており、それはまた、上から下へ、再び下から高みへと通り抜ける運動、すなわち一方では下位のものをより上の高いところに引き上げ、他方では上位 のものが下位のものに交わって分与しつつそれを摂理する発出を惹き起こすことを示している。空気のような霊に対する「風」という名称は、天上の知性の神との類似性を表していると言うことができるであろう。つまり、その名称は風が本性上動くものであり、生命を生み出すものであり、すばやいものであり、その進行を止めるこ とができないものであるということにもとづいて、また、その動きの始めと終わりがわれわれには知ることも見ることもできず隠れているということにもとづいて、(56)神性の根源の働きを — われわれが『象徴神学』で〔火・水・風・土という〕四元素の説明に際して詳しく論じたように[191] — 形象化し、象徴しているのである。実際、「あなたはそれがどこから来て、どこへ行くかを知らない」〔ョハ三:八〕と〔聖書に〕言われているのである。
 ところで、神のことば〔聖書〕は彼らを「雲」という形象によっても表しているが〔エゼ1:4、10:3、黙10:1参照〕、それが示していることは、聖なる知性は確かにこの世を超えた仕方で、隠れた光に満たされているのであるが、しかし最初に現される照明を密かに受け取って、それを惜しみなく第二次的に表出して次位のものの置かれている位置に応じてそれに伝えるということであり、それにまた、彼らには、生命を生み出し、生かし、成長させ、完成する力が具わっているということなのであるが、このことは、知性によってのみ捉えうる雨を降らすことができる〔ヨブ36:27以下、12:15、、アモ5:8、イザ30:30参照〕ということに、すなわち受容力に富んだ胎を生命を生み出す苦しみへ豊かな雨によって誘導しうるということに、もとづいているのである。

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 そしてまた、もし神のことば〔聖書〕が天上の諸存在に、青銅〔エゼ1:7、40:3、ダニ10:6参照〕や琥珀〔エゼ1:4、1:27、8:2参照〕や多彩な石〔エゼ1:16、黙4:3、4:6参照〕の形象を与えるならば、琥珀は、金のようでもあり同時に銀のようでもあるものとして、金のごとき不朽、不滅、不減、無垢なる輝きを示し、かつ銀のごとくきらきら輝く天上的な光を示している。
 青銅には、すてに述べた理由から、火のようなものや金のようなものを割り当てるべきである。
 石の多彩な形象は、白い色としては光のごときものを、あるいは赤い色としては火のごときものを、あるいは黄色としては金のごときものを、あるいは緑色としては若く最も盛んな生ム叩力にあることを表していると考えるべきである。
 かくて、それぞれの形象において、(57)もろもろの姿形で表された形象の神秘的な意味があなたに明らかになるであろう。
 しかし、以上のことは私にできる限り十分探究したと思うので、〔聖書が〕天上の知性を聖なる仕方で表現しているあの動物の姿の聖なる解説に向かわなければならない。

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 獅子〔エゼ 1:10、10:14,黙4:7、10:3参照〕の姿は、指導力があること、頑強なこと、支配されることのないことを表しており、知性の痕跡を覆い隠すことによって、また神の照明の程度に応じて神性の根源に上昇する歩みを密かに気づかれないように覆い隠すことによって、言い=表しがたい神性の根源の隠れにできる限り 類似することを表していると考えなければならない。
 また、牡牛[193]の姿は、力強いこと、最も盛んな生命力、天上的な、豊かさをもたらす大雨を受け入れるために知 性の畝間を掘り広げることを表し、角〔ダニ7:8,7:21,黙5:6,12:3,13:11,17:3,17:7参照〕は保持する力と支配されることのないことを表していると考えなければならない。
 鷲〔エゼ1:10,10:14,ダニ7:4、黙4:7,出19:4参照〕の姿は、王者の風格、高く飛翔すること、飛翔の速いことを表し、また力を生み出す食べ物に対する鋭敏さ、注意深さ、機転のきくこと、巧みさを表し、さらにまた神性の根源である太陽から放射される溢れるばかりの輝きに満ちた光線を、視力を強く集中して、何ものにも妨げられることなく真直ぐに目をそらさずに観想する力を表していると考えなければならない。
 馬〔王下2:11,6:17、ゼカ1:8-10、6:1-5、黙6:1-8,19:14参照〕の姿は、従順であること、御しやすいこと[194]を表し、しかも白毛の馬の姿は、輝きと神の光に可能な限り類似していることを表し、黒毛の馬の姿は隠れていることを表し、赤毛の馬の姿は火のごとくであることと活発さを表し、葦毛の馬の姿は貫通する力によって両端を結合する力を表し、また還帰させることにより、あるいは摂哩することによって[195]第一位のものを第二位のものに結びつけ、第二位のものを第一位のものに結びつける力を表している[196]と考えなければならない。
 だが、もしわれわれが議論の適切な限度というものを考慮しないとすれば、われわれが不類似の類似性〔という原理[197]〕に従って、前に述べたもろもろの動物の詳細な特性と体のすべての姿形を天上の諸力に適用することは不適当なことではないであろう。つまり、それら動物の激しやすさは、(58)知性的な勇気に帰せられるのであるが、激情というのはその勇気の最もかすかなこだまにすぎない。それにまた、それら動物の欲望は神の愛に帰せられる[198]。簡単に言えば、理性をもたない動物のすべての感覚とさまざまな部分は、天上の諸存在の非物質的な知 性の働きおよび一なるものに似た力に帰せられるのである。
 賢明な人たちにはこれらのことだけで十分であるばかりでなく、非常によく似ているものを同様の仕方で解釈するのであれば、たった一つの似つかわしくない形象を説明するだけでも十分であろう。

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 しかしまた、川と車輪と戦車が天上の諸存在に結びつけられたと言われていることについて考察しなければならない。火の川[199]というのは、神性の根源から出て来る水路を意味しており、それは彼らに豊かで尽きることのない流れを供給し、生命を生み出す豊かな生産力によって〔彼らを〕養い育てているのである。また戦車〔王下2:11,6:17、詩104:3、ゼカ6:1-8参照〕は、同じ階級のものたちを結合する交わりを意味している。また、曲がったりそれたりしないで前に向かって進む翼の付いた車輪[200]は、真直ぐな直立した道に沿って彼らが進んで行く活動の力を意味している。というのも、知性の車はすべて、それることのない真直ぐに切り開かれた同じ道をこの世を超えた仕方で真直ぐに走るのだからである。
 しかし、知性の車輪という形象表現は別の神秘的な意味で解釈されうるであろう。というのも、神について教えている人〔エゼキエル〕が言っているように、彼らは「ゲルゲル」〔エゼ10:13参照〕と呼ばれるのだからである。それはへブライ語で「回転」と「開示」を意味している。すなわち、あの神のごとき火の車輪は、永遠に動く運動によって同じ善の周りを「回転」するのであり、また隠れた事柄を明らかにすることにより、地上のものを弓き上げ高いところにある照明を弓き下ろして下のものに伝えることによって「開示」するのである。
 われわれに残されている仕事は、天上の諸階級の喜びに関する言葉を説明することである。というのも、これらの階級はわれわれのもつ感情的な快楽をまったく感じないけれども、失ったものを見つけ出すことによって、神のごとき平安をもって、(59)神に還帰したものを摂理し救済することに対する善のごとき豊かな喜びをもって、神の照明が聖化しに訪れたときに聖なる人々がしばしば分有したあの言い表しがたい幸福をもって、神と喜びを共にすると言われているからである〔ルカ15:7-10參照〕。
 以上のことが聖なる形象表現に閨して私の述べたことであるが、しかし、それらの表現を詳細に明らかにするxには至っていない。だが、以上述べたことは、形象で表された表象にわれわれが低くとどまることを防いでくれるであろうと私は信じる。
 だが、もしも〔テモテよ、〕あなたが、われわれは聖書に述べられている天使の力や活動や形象のすべてについて順を追って述べなかったと言うならば、われわれは、その通りであると答えよう。すなわち、確かにわれわれはそれらのことに関するこの世を超えた知識をもっていなかったのであり、むしろ、それらのことへ光によって導いてくれるもう一人別の人がわれわれには必要なのであるが[201]、しかし他方では、話の限度をあらかじめ考慮して、またわれわれを超えている秘密に対しては沈黙のうちに敬意を払って、述べたことと同じ意味の事柄については触れなかったのである。

2017.10.11. 入力。

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