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原始キリスト教世界

アントーニオス伝

アレクサンドレイアのアタナシオス


[解説]

 アレクサンドレイアの偉大な司教、「キリスト教正統信仰の父」と讃えられるアタナシオス(Athanasios 295頃-373年)の生涯は、アレイオス(Areios 250頃-336年)派との論争で彩られており、その45年間の司教在職期間に5回その司教座を追われ、合わせて17年間を亡命の地で過ごしている。

 アタナシオスが生まれたのは、295年頃、アレクサンドレイアにおいてである。少年時代のことはあまり知られていないが、後に、304-11年の迫害を体験したと自ら述べていることから(Historia Arisnorum 64)、少年時代にキリスト教に改宗したものと思われる。教育を受けたのはアレクサンドレイアにおいてのことであろう。ナジアンゾスのグレゴリオス(Gregorios 325/30-90年頃)は「彼〔アタナシオス〕は研究に多くの時聞を割くというよりも、無知と思われぬために十分なだけの時間を〔勉強に〕割いた」(Orationes 21, 6)と述べているが、基礎教育を受けるとともに、ホメロスやプラトンの著作にも接している。キリスト教著作家のなかでは、アンティオケイアのイグナティオス(Ignatios 110年頃沒)、エイレナイオス(Eirenaios 130/40-200年頃)、オリゲネス(Origenes 185頃-254年頃)の著作に学んだものと思われる。後年、彼はオリゲネスを「博学で勤勉な人」とも呼んでおり(Epistulae ad Serapionem 4, 9)、アレイオス派を論駁するために教理に関する著作を著してはいるが、クレメンス(Clemens 150頃-215年以前)やオリゲネスのように学究の人というよりも「司牧者、教会政治家」であった。このことは、後年(335年)のテュロスの教会会議における彼の言行が如実に示している。この教会会議は俗に盗賊会議とも呼ばれ、ここで彼は断罪され追放(第1回目)に処されているが、ここでアタナシオスは前任の司教時代からのアレクサンドレイア教会の問題であったメレティオス(Meletios 325年以降沒)派(後述)の司教を殺害させたと告訴され(これはまったくの冤罪であったが、メレティオス派に対する彼の厳しい対処には、非難を受ける遠因はあった)、さらに「首都コンスタンティノポリスへのアレクサンドレイアからの穀物供給を阻止する」と発言したことが皇帝コンスタンティヌス1世(Flavius Valerius Constantinus 在位306-37三七年)を立腹させている。

 そもそもアタナシオスがアレクサンドレイア教会で「教会人」としての活動を開始するのは、アレクサンドレイアにおいてアレイオスの教説が問題になり始めた頃のことであるが、このとき、アレクサンドレイアの教会はもう一つの問題、すなわち前述のメレティオス派の問題を抱えていたのである。これは306年の迫害時のアレクサンドレイアの司教ぺトロス(Petros I 在位300-11年)の、棄教者に対する寛容な態度に反対して、厳しい対処を主張したリュコポリスの司教メレティオスに端を発する分派であり、アレイオスは一時期このグループに属していたとも言われる。

 このような状況の中で、318年頃、アタナシオスは助祭に叙階され、アレクサンドレイアの司教アレクサンドロス(Alexandros 250頃-328年、在位313-沒年)の秘書になっている。325年のアレイオスの教説をめぐってニカイアで開催された第1回公会議には、助祭として公の発言権はなかったものの、アレクサンドロスの随行員として参加している。アレクサンドロスは生前から自分の後継者としてアタナシオスの名を公言しており、328年に彼が死ぬと、アタナシオスは後継者に選出されるが、その選出にメレテイオス派は反対している。こうして、アタナシオスは、司教就任当初から、前任者からの懸案であった二つの問題に対処しなければならなかったのである。反アタナシオス勢が皇帝に働きかけて開催にこぎつけたのが、先に述べたテュロスの教会会議であった。ここで追放に処されたアタナシオスは、335年7月11日から37年11月22日までトリーアに滞在している。さらに339年のアンティオケイアでの教会会議でも、ニコメディアのエウセビオス(Eusebios 342年頃沒)らのアレイオスを支持した反アタナシオス勢によって罷免され、アタナシオスはローマに逃れている。これが第2回目の追放であり、同年4月16日から346年の10月21日まで続く。この後も、アレイオス派との闘争において、皇帝の交代によってアタナシオスの立場も影響され、359年2月9日から62年2月21日まで(第3回目の追放、コンスタンティウス帝[二世。Flavius Julius Constantius 在位324-61年]の治下)、362年10月24日から63年9月5日まで(第四回目の追放、ユリアヌス帝[Flavius Claudius Julianus 在位361-63年]の治下)、365年10月5日から66年1月31日まで(第五回目の追放、ウァレンス帝[Valens 在位364-78年]の治下)エジプトの沙漠に逃れ、隠修士たちの許に滞在している。その後は平穏に暮らし、373年5月2日に死去しているが、その生涯はまさに波乱に富んだものであったと言えよう。


 アタナシオスの全生涯はアレイオス派との論争に費やされたとも言えるが、彼の著作もそれを反映している。彼は、いわゆる学究の徒ではなかったが、繰り返しアレイオス派を論駁している。その代表的なものが『アレイオス派駁論」(Orationes contra Arianos)、『アレイオス派への弁明』(Apologia contra Arisnos)、『アレイオス派史』(Historia Arianorum)といった著作である。その他にも「詩編」、「コへレトの言葉」、「雅歌」、「創世記」の註解書を著しているが、その多くは散佚し断片のみが伝えられているにすぎない。しかし、アタナシオスの著作のなかでも、最も親しまれ、後代まで読み継がれてきた著作が、ここに訳出した『アントニオス伝』(Vita Antonii)である。キリスト者の信仰生活、霊性、特に以後東西キリスト教界で活発になる修道生活のうえで後代に与えた影響において、古代キリスト教教父たちの著作のなかでもこの書に勝るものはないとも言えよう。

 アタナシオスが『アントニオス伝』を書いた経緯は、彼自身が序文で述べているが、おそらくアントニオス(Antonios 251頃-356)の死後まもなく、357年頃に著されたものと思われる。本書に見られる記述からアタナシオスがアントニオスと親交をもっていたことは確かであるが、若い頃にアントニオスに師事し、荒れ野で隠修士として生活していたか否かは定かではない。また、本書に述べられたアントニオス像が歴史的な資料価値をもつものであるか否かも論議を呼ぶところである(木間瀬精三「アタナシオスの「聖アントニオス伝」の史料価値」『聖心女子大学論叢』第17集〔1951年〕、53-64頁参照)。いずれにせよ、アタナシオスはアントニオスの生涯を通して、隠修士たちの生き方と理想を具体的に表しており、その意味で、「説話形式による修道(隠修)生活の規定」というナジアンゾスのグレゴリオスの評価(Orationes 21, 5)は当を得たものと言えよう。しかしながら、本書は単に隠修士たちのみならず、キリスト者の生き方の模範をも提示しており、その英雄的な姿はキリスト者はもとより異教徒たちにも大きな刺激となった。このことは、西欧の教師とも言われる、最大のラテン教父アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)のキリスト教への入信、受洗を決意する契機の一つに本書をもとにアントニオスの生涯を知ったことが挙げられていること(Confessiones VIII, 6〔『告白』山田晶訳、中央公論社、1966年〕)からも容易に推察できよう。また、中世において托鉢修道会を創設したアッシジのフランチェスコ(Francesco 1181/82-1226年)が、その回心のときに、生き方の指針を求めて福音書を開き、そこに提示された福音の言葉を文字通り実践するところにも、本書に記されているアントニオスの回心の次第の反映を見ることもできよう。

 アタナシオスは本書の著述にあたってギリシア伝記文学、すなわち『ピュタゴラス伝』(BivoV Puqagovrou 現存せず)やフィロストラトス(Philostratos 170頃-244/49年)の『テュアナのアポロニオス伝』(Vita Apollonii)やポルフュリオス(Porphyrios 232/33-305年頃)の『プロティノス伝』(Vita Plotini)やクセノフォン(Xenophon 前428/27頃-354年頃)の『アゲシラオス王伝』(Agesilaus)などを参考にしていることは確かであるにしても、本書の構成の根幹にあるのは福音書の「悪魔の誘惑の物語」(マタ四:1-11、ルカ四:1-13)であることもまた確かである。いずれにせよ、本書をもってキリスト教文学に一つの文学類型が確立され、以後のいわゆる聖人伝に絶大な影響を与えることになる。

 また、美術のうえから見ても、本書に描かれたアントニオスの悪魔との戦いは、多くの画家にインスピレーションを与え、マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grünewald 1475/80頃-1528年)、ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch 1450頃-1516年)をはじめとし、現代のサルバドール・ダリ(Salvador y Domenech Dali 1904-89年)に至るまでさまざまな『聖アントニオスの誘惑』が制作されてきている(北嶋廣敏『聖アントニウスの誘惑』雪華社、1984四年、参照)。

 本書が古くからよく読まれていたことを示すものとして中世に筆写された写本の数を挙げることができよう。実に、165のギリシア語写本が現存していることが知られている。これは古代の文書としては異例の数と言えよう。また、古代語への翻訳版が多いのもその特徴であり、これも本書がギリシア語圏にとどまらず、広くキリスト教界全般に流布したことを示すものであろう。コプト語版(versio sahidica)、アラビア語版、エティオピア語版、シリア語版、アルメニア語版、グルジア語版、そしてラテン語版が存在している。ギリシア語版のあいだはもとより、これらの翻訳版のあいだでも、版による異同が多いことも特徴である。これは本書がいわば「生ける書」(testo vivo)であったことを示していよう。しかしながら、これは本文の批判校訂を困難にしており、いまだに1698年のベネディクト会版(ed. J. Lopin, B. de Montfaucon, Paris. PG 26 に所収)に代わる新しい批判校訂版が現れていないのである[註]。

 ラテン語版でよく知られているのは、アンティオケイアのエウアグリオス(Euagrios 320頃-94年頃)の翻訳によるものであるが、近年の研究で、それよりもさらに古いラテン語版(訳者不明)が存在したことが知られ、この版のほうがエウアグリオス版よりもギリシア語原文に近いことが明らかにされた。この古いラテン語版をもってギリシア語原文を再構成することはできないものの、ギリシア語原文との比較検討のうえでも重要な資料とみなされている。本訳は、この古いラテン語版によるものであり、底本としてVita di Antonio. Introduzione di Christine Mohrmann, Testo critico e commento a cura di G. J. M. Bartelink, Traduzione di Pietro Citati e Salvatore Lilla, Milano 1974 を用いた。

 なお、本書の著者をアタナシオスとすることを疑問視する見解もあり、近年も本書の著者はアタナシオスではなく、アントニオスの弟子の一人がコプト語で書いた原本(現存しない)を下敷きにしたものがギリシア語版であると主張する論文も発表されているが(T. D. Barnes, "Angel od Light or Mystic Initiate? The Problem of the Life of Antony", Journal of Theoological Studies, N. S. 37 [1936], pp. 353-368)、その論拠はかならずしも確固としたものではない(A. Louth, "St. Athanasius and the Greek Life of Antony, ibid. 39 [1988], pp. 504-509)。

[註]
付記 本訳の脱稿後、以下のギリシア語版の批判校訂版が刊行された。Athanase d'Alexandrie, Vie d'Antonie. Introduction, texte critique, traduction, notes et index par G. J. M. Bartelink (Sources Chrétiennes 400), Paris 1994.

(『中世思想原典集成1』(平凡社、1995年2月)p.768-773)

[底本]

TLG 2035
ATHANASIUS Hagiogr.
128
Vita Antonii
G.J.M. Bartelink, Athanase d'Alexandrie, Vie d'Antoine [Sources
chrétiennes
400. Paris: Éditions du Cerf, 2004]: 124-376.

 邦訳は、ラテン語訳
Vita di Antonio. Introduzione di Christine Mohrmann, Testo critico e commento a cura di G. J. M. Bartekink, Tradutione di Pietro Citati e Salvatore Lilla, Milano 1974
を底本として、小高 毅訳で、『中世思想原典集成1』(平凡社、1995年2月)所収。


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