title.gifBarbaroi!
back.gifアントーニオス伝

原始キリスト教世界

アントーニオス伝(1/2)

アレクサンドレイアのアタナシオス


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Visit of St Anthony to St Paul and Temptation of St Anthony
c. 1515
Third view of the Isenheim Alterpiece
Matthias GRÜNEWALD

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アレクサンドレイアの司教アタナシオスの
異邦にある隠修士たちに宛てた書簡
浄福なる、偉大なアントーニオスの生涯について

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序文

 1.貴兄らは、エジプトにある隠修士たちに対して、彼らに匹敵するか、あるいは、徳における貴兄らの修行の点で優越して、彼らを凌駕せんと、善き競争心をいだいておられる。というのも、貴兄らのところにもすでに修道院があり、隠修士たちの名が市民権を得ている。それゆえ、この志(provqesiV)をば、ひとは義しく称讃し、貴兄らの祈りによって、神が成就なさるであろう。2.ところが、貴兄らは、浄福なる〔=故〕アントーニオスの生活態度について、いかにして修行を始め、その〔修行の〕前は何者であり、いかなる生の終わりを持ったか、また、彼について言われている事どもは真実かどうかを聞き知り、依って以てあの人の景仰へと自分たち自身を導かんとして、私からも聞き知ることを強請なさっているので、貴兄らからの申しつけをわたしはおおいなる熱意をもって引き受けることにします。3.というのは、アントーニオスを思い出すだけでも、わたしにも利益の大きな得があるからです。わたしは心得ております、貴兄らも聞いて、あの人物に驚嘆するとともに、あの人の志(provqesiV)を景仰する気にもなるであろう、ということを。なぜなら、アントーニオスの生涯は、隠修士たちの修行にとって充分な手本だからです。ですから、貴兄らが彼について報告者たちから聞いた事柄に不信をいだいてはならず、むしろ、彼らから聞いたことはわずかであったと考えなさい。なぜなら、その人たちも、これほどの事柄を話すのは、まったくやっとのことであり、4.わたしも、貴兄らに促されて、この書簡を通して知らせるかぎりの事柄は、あの人のことのわずかを思い出して書き送るにすぎないのですから。ですから、貴兄らは、こちらに渡航してきた人たちに問いただすことをやめてはなりません。なぜなら、各人が自分の知っていることを言うことで、あの人に関する話は、多分、やっと言及にあたいするものとなるのでしょう。実際、貴兄らの書簡を受け取ったとき、何人かの隠修士たち — 彼のもとを頻繁に訪れる習慣のあった者たちを呼び寄せることを望んだのでした。おそらく、わたしが何かもっと多くのことを聞き知れば、貴兄らにもっと充分に書き送ることができたであろう。5.しかるに、航海に適した好機も差し迫り、手紙を届けてくれる者も急いでいたので、それ故、わたし自身が知っていること(というのは、わたしはしばしば彼と面会したから)と、少なからざる期間、彼に付き随い、彼の手に水を注いだ人からわたしが聞き知ることのできた事柄とを、貴兄らの畏敬(eujlabevia)のために急ぎ書き記すことにしました。その際、あらゆる点で真実であることに配慮しましたが、その所以は、ひとが聞いてあまり不信感をいだくこともないよう、逆に、聞き知ることが必要以上に少ないため、あの方を軽んじることもないようにするためです。


[1]
1.アントーニオスは、種族としてはエジプト人であったが、生まれのよい、充分な裕福さを所有している両親の〔子〕であった。そして、キリスト教徒であった彼ら〔両親〕によって、彼もキリスト教的に導き上げられた。2.そうして幼少のおりは、両親のもとで育てられ、彼ら〔両親〕と家より他の事は何も知らなかった。さらにまた成長して少年となり、年齢がすすんでからも、文字〔読み書き〕を学ぶことを潔しとせず、少年たちとの交際とも無縁であることを望んだ。3.対して、あらゆる熱意を持ったのは、〔聖〕書にあるとおり〔Gen 25:27〕、穏やかな者(a[plastoV)として、自分の家の中に住むことであった。しかしながら、両親とともに主の〔家〕に参会するを常とした。ただし、子どものように無頓着になることもなく、年齢がすすんだ者のように軽視することもなく、両親に服従もし、朗読に傾注もして、そこからの益を自分自身の内に積んでいた。4.さらにまた、程よい裕福さの環境にある子どものようには、多彩で高価な食べ物のために両親を困らせることもなく、これ〔食べ物〕に由来する快楽を求めることもなかった。で、見出したものらだけで満足し、それ以上のものは何も求めなかった。

[2]
 1.しかし、両親の死後、彼ひとりが、年端もゆかぬひとりの妹とともに残された。それで、18歳か20歳近くであったのだが、自分が家と妹との面倒を見た。2.だが、両親の死からまだ6ヶ月が過ぎぬ時、いつもどおり主の〔建物〕に行く道すがら、自分の精神を集中して、いろいろなことを思量した — いかにして使徒たちはすべてを捨てて救主についていったのか、『使徒行伝』中の人たちは、必要とする者たちに分け与えるために、自分のものを《売り払い、〔その代金を〕持って来て、使徒たちの足許に置いた》〔Act 4:34-35〕、この人たちのために天に備えられた希望はいかなるものであり、どれほどのものであろうか、と。3.まさにこれらのことに思いを致しながら、教会に入って行くと、ちょうどそのとき福音の朗読が起こり、主が富者に言っているのを聞いた。《もし完全な者になりたければ、行って、汝の持ち物をすべて売り払い、物乞いたちに与え、それからわたしに従え、そうすれば諸天に宝を持つことになろう》〔Mat 19:21〕。4.そこでアントーニオスは、聖者たちの記憶を神から得たごとく、また、朗読は自分のためになされたかのごとく、主の〔建物〕からすぐに出て行き、先祖から持っていた所有物(肥沃でごく美しい土地300アルーラがあった)、これらを村の人たちに施し、自分と妹に何の煩わしさもないようにした。5.その他、自分たちにの所有する動産は、すべて売り払うと、充分な銀子が集まったので、妹のためにわずかを除けて、物乞いたちに与えてしまった。

[3]
 1.しかし、再び主の〔建物〕に入って行き、福音の中で主が、《明日のことを思い煩うな》〔Mat 6:34〕とおっしゃるのを聞いたとき、もはやとどまることを甘受せず、出て行って、節度ある人たちにあれらをも分け与えてしまった。ただし妹は、知己の、信心深い処女たちに預け、処女らしく養育されるよう与え、自分は、以後、戸外での修行で過ごした。自分自身に〔心を〕傾注し、たゆまず自身を導いて。2.というのは、エジプトでは隠修所がまだそれほど確立しておらず、隠修士は人里はなれた荒野をまったく知らなかった。そこで自分自身に〔心を〕傾注することを望む者たちの各人は、自分の村から遠からぬところで独りで修行するのが常であった。3.ところで、当時、近くの村に、若年のころから隠修生活を修行している老人がいた。この人を見て、アントーニオスは美しさを景仰した。4.そうして、先ず初めに、自分も村の前の場所に住持することを始めた。そうしてそこから、もしどこかに誰か真剣な人がいると聞けば、出向いていって、知恵あるミツバチのようにこの人を訪問した。そうして、その人と会見し、あたかも徳に至る道の糧のようにその人から受け取った者とならないかぎりは、自分の場所に帰らなかった。5.そういう次第で、初めはそこで過ごし、精神を測定し、両親の財産はもちろん、親族の思い出にも顧慮しないようにし、渇望のすべてと真剣さのすべてを、修行の努力に振り向けた。6.とにかく彼が両手で働いていたのは、こう聞いたからである。《仕事をしない者は、喰らうべからず》〔2Tes 3:10〕。そうして、その一部はパンに充て、一部は必要とする者たちに費やした。他方、間断なく祈ったのは、自分ひとりで絶えず祈らなければならないと学んだからであった。7.というのも、朗読に傾注するあまり、書かれていることの何ひとつ自分から地面に落ちるがなく、すべてを暗記し、ついには彼にとって記憶が書物の代わりを果たすほどであった。

[4]
 1.さて、自分自身を導くことかくのごとくであったので、アントーニオスは万人から歓愛された。しかし彼自身は、初穂を捧げた相手である真剣な人たちに相応に服従し、各人の真剣さと修行の利点を自分独りで会得した。すなわち、ある人からは恵みを、ある人からは祈りに対する懸命さを観察した。また他の人からは怒りのなさを、他の人からは人間愛を看取した。また、眠らずに文学を愛する人に心を傾注した。また、ある人には、堅忍の点で、ある人には断食と地面に寝る点で驚嘆した。また、ある人はその温和さを、ある人はその気長さを見守った。総じて、クリストスに対するみなの敬虔と、お互いに対する歓愛を心に銘記したのであった。2.じつにそういうふうに満たされて、修行所の自分の場所に引き返した。以降は、自分が各人から得たものを自分自身に集め、すべてを自分の中で示すことに真剣になった。3.というのも、年齢的に等しい者たちと愛勝するよりは、むしろ独りで最善なものらにおいてあの人たちの次席にならないためであった。そうしてこれを実践した結果、誰ひとり苦しめることなく、あの人たちも彼を歓迎した。もちろん、村から出た者たちや、彼が馴染みを得た愛美者たちはみな、こういうふうに彼を見て、神の愛する人と呼んだ。そうして、ある者たちは息子として、ある者たちは兄弟として歓迎した。

[5]
 1.ところが、美を憎み嫉妬深い悪魔は、若輩者の内にそのような志を見て 我慢ならず、実行をもくろんでいるようなことをこの者に対しても為すことに着手した。2.そこで先ず、彼を修行から引きずり降ろそうと試みて扇動したのは、所有物の記憶、妹の世話、種族の親密さ、愛銭、愛名、食べ物の多彩な快楽、そして人生のその他の安息と、最後に、修行の過酷さ、つまり、その労苦がいかに多いか、ということであった。また身体の弱さと、時間の長さを教唆した。3.総じて、彼の精神に思量の数多くの塵を目覚めさせ、彼を正しい選択から引き離そうとした。だが敵は、アントーニオスの志に比して自分が弱く、むしろ、あの人の堅固さによって自分が投げ倒され、侵攻によって撃退され、アントーニオスのたえざる祈りによって陥落させられるのを見るや、まさしくこの時に、自分自身の腹の臍の上にある武器によって〔Cf. Jo 40:11〕勇み立ち、これを誇り(これこそ若輩たちに対する彼の企みであるからだが)、若輩に対して進撃し、夜間は彼を騒がせ、日中は悩ませたあまりに、目にする人たちでさえ、両者の間に生じた格闘を感知できるほどであった。4.というのは、一方が不潔な思量を投げこめば、他方は祈りによってそれらを撤退させた。また、一方がくすぐると、他方は、赤面したと思われるかのように、信仰と断食の城壁で身体を囲った。5.また悪魔が、惨めにも、夜、女のように身をやつし、あらゆる仕方で模倣もして、ただアントーニオスを欺くためだけに待ち伏せした。これに対し他方は、クリストスに思いを致し、彼〔クリストス〕のおかげの魂の生まれのよさと思念を思量して、あのもの〔悪魔〕の誘惑の炭火を消した。6.またもや敵は今度は快楽の平坦さを投げこんだ。対して彼は、怒るひとや苦悩するひとに似たかのように、火の脅迫と蛆の労苦に思いを致した。そうしてそれらを対置して、それらから無傷で切り抜けた。そしてこれらすべてが、敵の恥に繋がっていた。7.というのは、神に等しいと思いなしていた者が、今、若造によって弄ばれていたからである。そうして、肉と血に向かって勝ち誇っていた者が、肉をまとった人間によって撃退された。というのは、われわれために肉をまとい、悪魔に対する勝利を身体に与えたもうた主が彼と協働なさったので、かく競い合った者たちは言うからである。《〔努力したのは〕私ではなく、私と共に在る神の恵みである》〔1Col 15:10〕と。

[6]
 1.とにかくついに、この仕方で大蛇はアントーニオスを打倒することもできず、自分自身が彼の心から押し出されさえするのを目にして、書かれたものにあるとおり歯を軋らせ〔Cf. Marc 9:18〕、あたかも度を失った者のように、心(nou:V)の情態そのままに、後には幻視にも黒い小童として彼に現れた。そうして、あたかもへりくだった者のように、もはや思量に登場することはなく(というのは、奸智に長けた者としては追い出されていたので)、以降は人間の声を使って、言った。「おれは多衆を欺き、たいていの連中を打倒してきた。ところが今や、他の連中に対してと同様、おまえとおまえの労苦に対しても弱くなってしまった」。2.そこでアントーニオスが、「わしのところでそんなお喋りをするおまえは何者だ」と訊ねると、「おれは淫行の愛友。おれは、淫行に至る企みとそのくすぐりを若輩連中に提示し、淫行の霊と呼ばれている。慎み深くあろうとする連中をどれほど数多く欺いてきたことか。へりくだった連中をくすぐってどれほど数多く変心させてきたことか。3.おれは、陥落した連中を預言者も非難して、《汝らは淫行の霊に惑わされた》〔Hos 4:12〕と言う所以の者だ。というのは、おれのせいであの連中は足を掬われた。おれは、何度もおまえを悩ませたが、その都度おまえから撃退された者だ。4.そこで、アントーニオスは主に感謝したうえで、勇を鼓して、彼に向かって謂う。「されば、おまえはまったく見下げはてたやつだ。というのも、腹黒く、小童のように弱虫だ。今後、おまえについてわしには何の心配もない。というのは、《主は私の救い、わたしもわたしの敵どもを監視しよう》〔Ps 118:7〕」。5.これを聞いて黒いやつは、その声に仰天してすぐに逃げた、もはやこの人に近づくことさえ恐れたからである。

[7]
 1.これが、悪魔に対するアントーニオスの最初の褒賞であった。いやむしろ、これも救主の、《肉における罪を断罪し、肉によってではなく、霊によって歩んでいるわれわれにおいて、律法の義の規定が充足されるようになさった》〔Rom 8:3-4〕方の、アントーニオスにおける成就であった。2.しかしながらアントーニオスは、ダイモーンが降参したからといって、以降、等閑にしたり自分自身を軽視したりすることもなく、敵も、負かされたからといって、つけねらうのをやめることもなかった。というのは、またもやライオンのように、彼に対する何らかの口実を求めはじめたのである〔Cf. 1Pet 5:8〕。3.しかしアントーニオスは、敵の奸計〔Cf. Ephe 6:11〕は数多くあることを書から学んでいたので、張り切って修行に従事したのであった。たとえ心を身体の快楽に欺く力がなかったにせよ、別の詐欺によってあらゆる仕方で待ち伏せを試みるだろう、ダイモーンは罪を愛するやつだから、と思量したからである。4.そこでますます激しく身体を酷使し隷従させ、まさか、他の点では勝利したが、他の点では転んだということのないようにした。されば、より過酷な生き方で自分自身を慣らすことを心がけた。5.そうして、多衆は驚嘆したが、彼自身は労苦を易々と耐えた。というのは、魂の熱意が久しい間持続して、彼の内に善き情態を作りだした結果、別の人たちからきっかけを少しでも得れば、多大な真剣さを発揮したのである。6.例えば、どれほど眠らずにいたかというと、しばしばまる一晩ずっと眠らないままであった。それも、一度ならず、何度もそうすることで驚嘆された。また、食事は1日に1度、日没後であったが、二日に1回、4日に1回摂ることもしばしばであった。また、彼の食べ物はパンと塩であり、飲み物は水のみであった。7.実際、肉と酒については言うのも余計なことであり、他の真剣な人たちの所でもないかぎりは、そういったものらのあるものは見出せなかったのである。眠るには茣蓙で満足したが、たいていはただの大地の上でも横になった。8.オリーブ油を塗布することは断って言うには、若輩たちがよりふさわしいのは、熱意から修行を持し、身体をぐらつかせるものらを求めず、むしろこれ〔身体〕を諸々の労苦に慣れさせることである、《弱いときにこそ、わたしは力があるのだ》〔2Col 12:10〕という使徒の言辞を〔若輩が〕思量しつつ。9.たしかに、身体の諸々の快楽が弱いときにこそ、魂の理性は強いのだと彼は言っていた。10.実際、彼のこの思量こそ本当に意想外なものであった。というのは、彼が要請したのは、徳の道を測るに時間によってではなく、それ〔道〕の隔たりでもなく、渇望(povqoV)と選択(proairevsiV)によってであった。11.だから、彼自身、過ぎ去った時間を追憶することがなかった。むしろ、日々、修行の初めを持ったかのように、進歩めざしてより大きな労苦を持った、パウロスの言辞を絶えず自分自身に言いきかせて、《後ろにあるものらを忘れ、前にあるものらに身を伸ばして》〔Phil 3:13〕と。12.また、預言者エーリアースの声がこう云うのを想起して。《主は生きておられる、今日、その面前でわたしはおそばに立っている》〔3Kings 17:1〕。というのは、彼は気づいたのである。今日と言うのは、過ぎゆく時間を計ったのではなく、常に初めを設定するように、日々、自分自身が、神に見られねばならない者のような者、心において清浄にして、その〔神の〕意思に聴従し、他には何ものにも聴従しない用意のある者として、神の傍に立つことに真剣になることだ、と。13.そこで彼は自分自身に言っていた。修行者は偉大なエーリアースの生き方から、鏡に映すようにおのれの生を常に学ばなければならない、と。

[8]
 8.さて、まさにこういうふうに自分自身を引き締めて、アントーニオスは、村から遠い記念碑へと出かけて行った。そうして、知己たちの一人に、多日を経て自分にパンを運んでくれるよう伝え、自分は記念碑の一つに入って行き、彼のためにあの人〔知己〕が扉を閉めると、その中に独りとどまった。ここにおいて敵は我慢ならず、さらには、修行によって沙漠をも少しずつ都市化するのではないかと恐れ、一夜、ダイモーンの多勢を率いて襲撃し、打撃によって彼を倒したあまり、彼はその責め苦に声もなく地面に倒れたほどであった。3.というのは、彼が確言したところでは、人間どもからの打撃がかつてこのような責め苦を引き起こしたということができないほど、それほど激しい労苦であった、という。しかし神の摂理によって(というのは、主は自分に希望をいだく者たちを見過ごすことはないのだから)翌日、例の知己が彼にパンを運んでやって来た。そして扉を開け、この人が死人のように地面に横たわっているのを見て、背負って村の主の〔家〕に運び、地上に安置した。4.そして親族の多数と、村からの人たちが、死人の傍のようにアントーニオスのまわりに坐っていた。しかし真夜中頃、アントーニオスは我に返って目覚め、全員が眠っているが、例の知己がひとり目を覚ましているのを見たので、自分のところに来るよう彼に合図し、再び自分を背負って、誰も目覚めさせず、記念碑に連れもどるよう要請した。

[9]
 1.かくて、その人物に連れもどってもらい、いつもどおり扉が閉められ、その内で再び独りになった。2.しかし、ダイモーンたちの打撃のせいで立っている力がなかったけれど、横になって祈った。そうして、祈りつつ叫んで言った。わたしアントーニオスはここにいる。おまえたちの打撃を逃げはしない。たとえもっと多くのことをおまえたちがしようとも、何もわたしを《クリストスの歓愛から引き離しはしないだろう》〔Rom 8:35〕、と。3.次いでさらに詠唱した。《わたしを攻めて陣営が布陣されようとも、わが心は恐れはしないだろう》〔Ps 27:3〕。4.かくて、一方、修行者は思慮し、そう言った。他方、美を憎む敵は、打撃をもってしても相手が勇んで向かってくることに驚嘆し、自分の犬どもを呼び集めて、ずたずたに引き裂きつつ、「見ろ」と謂った、「われわれはこいつを淫行の霊によって止められず、打撃によって止められず、われわれに対して依然として挑戦的だってことを。こいつには他の方法で近づこう」。悪魔にとっては、悪行への変身は簡単なことである。5.そこでまさにあるとき、夜中に、その場所全体が揺れると思われるようなそのような大音響を立てた。で、小家の四方の壁を破ったかのようにダイモーンたちは、そこを通って攻めこんできたように思われた。獣らや爬虫類の幻に変身して。6.すると、その場所はすぐに、ライオン、クマ、ヒョウ、牡牛、蛇やマムシやサソリやオオカミどもの幻でいっぱいになった。そうしてそいつらの各々が、固有の恰好をして動きまわった。7.ライオンは襲いかかろうとして咆え、牡牛は角で突くかと思われ、蛇は這うより早く、オオカミも跳びかかろうとしていた。そして、すべて目に見えるものらの怒りと声音は総じて恐ろしいものであった。8.片やアントーニオスは、それらから鞭打たれ突き刺されながら、より恐ろしい身体的労苦〔苦痛〕を感じた。しかし、戦慄することなく、むしろ魂において目覚めて堪えていた。そして、身体の労苦〔苦痛〕から呻きはしたものの、精神は素面で、からかうように言った。9.もしおまえたちに何らかの力能があるなら、おまえたちの中から一匹来るだけで充分だったろう。ところが、主がおまえたちから腱を切り取られたので、だから大勢で何とか恐れさせようと試みた。おまえたちの弱さの証拠とは、言葉なきものらの姿形をおまえたちが模倣していることだ、と。それから勇んでもう一度言った。おまえたちが出来、わたしを自由にできるなら、ぐずぐずせずに、かかってこい。もしできないのなら、どうして徒に混乱させるのだ。というのは、私たちにとって、私たちの主に対する信仰が、安全への印と防壁なのだから、と。11.されば、数々手がけたうえで、彼に対して歯がみしたのは、あの人をではなく、むしろ自分たち自身を自嘲したからである。

[10]
 1.ところで、主は、その際にアントーニオスの修行を看過なさっていたのではなく、彼のために助けとなっていたのである。実際、彼は振り仰いで、屋根が開いたかのようにして、光線のようなものが自分の方に降りてくるのを見た。2.するとダイモーンたちは、煙のように見えなくなり、身体の労苦はすぐに止み、住まいは再びもとどおりになった。そこでアントーニオスは、助けを感知し、大きく息をつき、労苦も軽くなったので、目に見える顕現を願って、こう言った。あなたはどこにいらっしゃるのですか。わたしの苦痛を止めるため、どうして初めから姿をあらわしてくださらないのですか、と。3.すると彼に向かって声があった。アントーニオスよ、わたしはここにいた。しかしながら、そなたの競いぶりを見るべく待ち設けていたのだ。ところがそなたは持ちこたえ、敗北することがなかったので、いつもおまえの助けとなろう、そしてそなたをしていずこにおいても名ある者とならしめよう、と。4.これを聞くと、起きあがって祈った。すると、自分が持っていた力能よりもはるかにより多くの力能を身体の内に持っていると自分で関知するほど、それほど強くなった。それは、少なくとも、35歳のときであった。

[11]
 1.で、翌日、出かけて行き、敬神(qeosevbeia)の熱意にますますとらわれて、先ほどのあの老人のもとを訪れて、自分といっしょに沙漠に住むことを要請した。2.しかし相手は、ひとつは年齢を理由に、ひとつはいまだかつてそのような習慣がないことを理由に、断ったので、すぐにひとりで山に出発した。ところが、またもや敵は、彼の真剣さを目にし、これを邪魔せんとして、道中に大きな銀の皿の幻視を引き起こした。3.しかしアントーニオスは、美を憎むものの術知を洞察して、立ち止まり、その皿の中にいる悪魔を凝視し、吟味してこう言った。「皿はどこから来て沙漠にあるのか。この道は踏み減らされたものでなし、誰かここを道行く者たちの足跡はない。落としたとしても、最大のものだから、気づかれぬということはあり得ない。4.いや、なくした者がいたとしても、引き返して探せば、この場所は人気のないところだから、見つけ出すことができたろう。これは悪魔の技だ。悪魔よ、こんなことでわたしの熱意を邪魔することはできまい。それこそ、《汝とともに滅びさるがよい》〔Act 8:20〕、と。5.そうして、アントーニオスがこれを言うと、そいつは火の面前から煙が〔消える〕ように消え失せた。

[12]
 1.次いで、今度は幻ではなく、真に黄金製のそれが道中に投げ出されているのを、彼は立ち去りつつ見出した。しかし、敵が示したのであれ、何か力能の点ですぐれた者が、この競技者を鍛錬し、金銭なんぞを真に気にすることもないことを悪魔に示そうとしたのであれ、目に見えたのが黄金であったということ以外、彼自身は報告してもおらず、われわれも知らない。2.とにかくアントーニオスは大いに驚きはしたが、火を跳び越えるように、そのそばを通り過ぎ、引き返すどころか、それほど走路に真剣だったので、その場所はわからぬまま忘れられた。3.かくてますます決意(provqesiV)を強化して、山〔ピスピル山。ナイル川中流東岸〕へと突き進んだ。そうして、河の対岸に、人気がなく、長い間爬虫類に満たされていた陣地を見つけ、そちらへ身を移し、そこに住みついた。4.すると爬虫類の方は、誰かが追い払ったかのように、引っこんでしまった。彼の方は、入口を塞ぎ、パンを6ヶ月分蓄え(これはテーバイ人たちのやり方である、しばしばまる1年間も傷まないままであった)、内には水があり、あたかも内陣に〔入りこむ〕かのように 隠修所にもぐり込んで、独り内にとどまり、自分が出かけることなく、来訪した者の誰かに会うこともなかった。5.さて、彼自身はそういうふうにして長い期間修行に従事し、1年に2度、住まいの上からパンを受け取るだけであった。

[13]
 1.知己のうち、彼のもとを訪れる者たちは、彼らが入ることを彼が許さなかったので、しばしば幾日幾晩も外で過ごしていて、群衆のように内で騒ぎ立て、衝突し、惨めな声を発し、〔次のように〕叫ぶのを耳にした。「おれたちのところから出て行け。おまえと沙漠にとって何になるというのだ。おれたちの攻撃を持ちこたえられまい」。3.そこで、初めは、彼と争っている人間どもがいて、連中は梯子を使って彼のところに入りこんだのだと、外にいる者たちは考えていた。だが、ある隙間を通して覗きこんでも、誰も見えないので、そのとき初めてダイモーンたちだと思量して、彼らは恐れて、アントーニオスを呼んだ。4.すると彼は、あの連中を気にするよりももっと彼らの声を聞いた。そうして扉に近寄って、人々に立ち去るよう、そうして恐れないよう頼んだ。なぜなら、ダイモーンたちはより怯懦な者たちに対してこういうふうに幻を作るのだからと彼は言った。5.「だから、あなたがたは自分自身に十字を印して、勇んで立ち去りなさい。そうして、連中をして勝手にふざけるに任せなさい」。そこで彼らの方は、十字架の印を城壁として囲まれた者として立ち去った。彼の方はとどまったが、連中からは何ひとつ害されることはなかった。それどころか、競い合いに疲れることもなかった。6.というのは、自分の理性に生じる幻(qewvrhma)の助けと、敵どもの弱さとが、諸々の労苦の多大な休息を彼にもたらし、より多くの熱意を備えさせたからである。7.というのも、知己たちは、彼が死人となっているのを見出すと考えて、絶えず近づいては、耳にしたのは、彼が詠唱している〔声〕であったからだ。《神をして立たしめよ、そして彼の敵どもをして散らさしめ、彼を憎むものどもをして彼の面前から逃げさしめよ。あたかも、煙が消えるように、消えさしめよ」あたかも、蝋が火の面前から溶け去るように、罪人たちは神の面前に滅びる》〔Ps 68:2-3〕。さらにまた、《諸々の族民がみなわたしを取り囲み、主の御名によりわたしは彼らを防いだ》〔Ps 118:10〕。

[14]
 1.かくて20年近く、そういうふうに独りでずっと修行しつづけ、出かけることもなく、誰かに見られることも滅多になかった。2.しかしその後、大勢の人たちが彼の修行を渇望し、景仰し、他の知己たちも来訪し、ちからづくで扉を倒し、押し出そうとするので、アントーニオスは、あたかも秘所からのように、秘儀を受け、神に憑かれた者として登場した。この時こそ初めて、彼のもとを訪れる人たちの前に砦から現れたのであった。3.だからあの人たちは、見て、驚嘆した。彼の身体が同じ情態を保ち、鍛錬なき者のようにだれてもおらず、断食やダイモーンたちとの戦いの結果のように痩せ細ってもおらず、隠棲する以前からも彼を知っているとおりであった。しかし魂の性格は今も清浄であった。4.というのは、悲しみに打ち沈んでいるふうもなく、快楽に溢れてもおらず、笑いや憂鬱にとらわれてもいなかった。というのは、群衆を見ても惑わされることなく、これほどの人々抱擁されても、大喜びするでもなく、まったく普段と変わらず、ロゴス(lovgoV)に操舵され、自然な〔情態〕にあった。5.とにかく、居合わせた人たちのうち、身体的に受苦している多数を、主は彼を通して癒され、他の人たちをもダイモーンたちから浄めた。6.また、喋ることにおける恩寵をアントーニオスに与えられた。それで、かくも多くの苦しんでいる人たちを励まし、他の諸々の争いを友愛へと和解させ、この世にある何ものをも、クリストスへの歓愛より優先させてはならないと万人に語りかけた。7.また、来たるべき諸々の善と、われわれの内に実現された神 —《ご自身の御子さえ惜しまず、われわれ皆のためにこれを〔死へと〕引き渡したもうた方》〔Rom 8:32〕の人間愛について対話し、思い起こさせ、孤独のうちに生きることを選ぶよう多くの人たちを説得した。じつにそういうふうにして、山々にも隠修士の住まいが出来、沙漠も隠修士たち、つまり、自分のものを捨てて出家し、諸天での生活を登録してもらう者たちによって都市化された。

[15]
 1.ところで、彼がアルセノイテー〔ナイル川中流西岸。メリス湖の近くの都市〕の運河を渡る必要が生じたとき(兄弟たちのために訪問が必要だったのだが)、運河はワニでいっぱいであった。しかし祈っただけで、彼自身と彼に同道した者たち全員とは足を踏み入れたが、害されることなく渡りきった。2.しかし隠修所に戻ると、同じ厳粛な、若者たちの労苦を堅持した。3.そして絶えず対話し、すでに隠修士となっていた者たちの熱意を増大させ、その他の者たちの大多数をば、修行の恋へと衝きうごかせた。かくて、ロゴスが引き寄せたおかげで、たいていはすみやかに隠修所となり、彼ら全員の父として嚮導したのであった。

[16]
 1.だから、一日、登場して、隠修士たち全員が、彼からの言葉を聞くことを要請して彼のもとにやって来ると、エジプト語〔=コプト語〕でこう彼らに言った。「教えのためには〔聖〕書で充分で、われわれは、信仰のうちに互いに励まし合い、言葉を塗油するのが美しい。2.されば、あなたがたも、子どものごとくふるまって、何か知っていることがあれば父に言え。さすればわたしも、年齢的にあなたがたより年長者として、わたしが何を知り、何に試みられたかを分かち与えよう。3.始めたからには弛めず、労苦に意気阻喪もせず、『修行に長い時間を過ごした』と言うこともせず、いやむしろ、日々、初心者のごとく、熱意を増大せる、この熱心さ(spoudhv)こそ万人にとってなかんずく共通たらしめよ。4.というのは、人間どもの全生涯はあまりに短く、来たるべき永遠に比べれば、われわれの時間全体でさえ、永遠の生に比して無である。5.そうしてこの世においてあらゆる物は値段によって売られ、等しい物は等しい物と交換されるが、永遠の生の約束(ejpaggeliva)は、ほんのわずかな値で買える。6.こう書かれているからである、《われわれの生の日々は、彼らのなかで70年、たとえ大能の業のなかでも、80年、そしてその多くは難儀と労苦》〔Ps 90:10〕。7.されば、80年全部、あるいはまた100年全部をわれわれが修行のうちに住持するなら、100年に等しい年月王支配するのではなく、100年の代わりに永遠の永遠に王支配することになろう。8.ただし、地上で闘技するわれわれは、地で相続するのではなく、諸天で約束を得ることになろう。さらにまた、朽ちるものとして身体を脱ぎ捨て、朽ちないものとしてこれを返してもらうのである〔Cf. 1Col 15:42〕。

[17]
 1.したがって、わが子たちよ、われわれは意気阻喪してはならず、時を過ごしたとか何か大きなことを為したなどと考えてもいけない。《なぜなら、今の時の苦難は、いずれわれわれに対して顕されることになっている栄光と比べれば、価値はないからである》〔Rom 8:18〕。2.この世に注目して、何か大きなことを放棄したなどと思ってはならない。というのも、この全地といえども、全天に比べればあまりに小さい。3.されば、われわれがたまたま全地の主人であり、その全地を放棄したとしても、諸天の王国に比べればやはり何の価値もない。というのは、人あって、金貨100ドラクマを儲けるために、銅貨1ドラクマを軽視するように、全地の主であって、これを捨てる者は、わずかなものを手放して、100倍ものものを手に入れるのである。4.だが、全地でさえ諸天に値しないなら、実際、わずかな田畑を放棄したからとて、何ものをも残さず、充分な家屋や黄金を捨てたかのように、自慢したり懈怠したりすべきではない。5.むしろ、こう思量すべきである、徳のために放棄しなくても、死後に、望まぬ連中にまでこれを残すことになるのは、伝道者が言及しているとおりである。6.ところが、王国を相続せんとして、われわれが徳のために残さないのは何故か。それゆえ、われわれのうち何びとであれ、所有の熱意さえ持たせてはならない。われわれが自分たちとともに携えてはならぬものらが所有するのはいかなる利得か。7.あるいは、むしろ、自分たちとともに携えることのできるあのものら、例えば、思慮(frovnhsiV)、慎み(swfrosuvnh)、正義(dikaiosuvnh)、勇気(ajndreiva)、悟り(suvnesiV)、歓愛(ajgavph)、物乞いへの愛(filoptwciva)、クリストスに対する信仰(pivstoV)、怒らないこと(ajorghsiva)、客遇(filoxeniva)といったようなものらを何故所有しないのか。これらを所有していれば、あの、温和な者たちの地で、自分たちの前に、それらがわれわれを客遇するのを見出すことができよう。

[18]
 1.したがって、以上のことからも、人をしておのれを軽視せざるよう説得せしめよ。いわんや、おのれは主の僕であり、主人に隷従する義務を負うと思量するばあいにおいておや。2.そもそも、奴隷というものは、『昨日働いたから、今日は働かない』と敢言することはなく、まして来たるべき時を測って、続く日々を休息するということもなく、福音書に書かれているとおり〔Luk 17:7-10〕、日々、自分の主の気に入るよう、危険なきよう、同じ熱意を示すように、そのようにわれわれも、日々、修行を固執するのだ、一日おろそかにすれば、過去の時間ゆえにわれわれを容赦なさることはなく、無頓着ゆえにわれわれに対してお怒りになるということを知ってるので。3.われわれはイエゼキエールのなかでもそのように聞いた。イウゥダースもそのように、一夜のせいで過去の時の辛労を破滅させたのである。

[19]
 1.だから、わが子たちよ、われわれは修行に従事して、懈怠してはならない。なぜなら、ここにおいて主をも共働者としてえることは、書かれているとおりである。善を選んだ者すべてに《神は善への共働者となりたもう》〔Rom 8:28〕と。2.そしてわれわれが軽視しないためには、使徒の言辞、《わたしは日々、死んでいる》〔1Col 15:31〕を練習するのが美しい。なぜならわれわれも、日々死んでいる者のように生きているなら、罪を犯すことはあるまいから。3.で、言われていることはこういうことである、つまり、日々目覚めるときに、夕方までとどまらないと思いなし、さらにまた眠ろうとするときに、目覚めるとは思いなさない、それは、われわれの生も自然本性的に不明であり、日々、摂理によって測られるものだからである。4.こういう情態であり、日々こういうふうに生きるなら、われわれは罪を犯すこともなく、何かに対する熱意を持つこともなく、誰かに怒ることもなく、地上に蓄財することもなく〔Cf. mat 6:19〕、日々死ぬことを期待する者として、無所有者であり、万人にすべてを許すであろう。5.だが、女とか、他の汚らわしい快楽に対する欲望は、全然いだくことはなく、通り過ぎるものとして背を向けるであろう、いつも闘技し、裁きの日に注目しているので。というのは、大いなる恐怖や、責め苦の戦いは、快楽の多さを解消し、傾いた魂を立ち直らせるからである。

[20]
 1.したがって、初心者であり、すでに徳の道にのぼっているわれわれは、ますます先駈けるために改めて死のう。そうして、ロートの妻のように、何びとをしても後ろを振り向かしむるな。主がこう述べておられるからなおのことである。《何びとも、手を鋤にかけてから後ろを振り向く者は、諸天の王国にふさわしくない》〔Luc 9:62〕。2.振り向くとは、後悔し、再び世俗のものを配慮すること以外の何ものでもない。しかし、徳について聞いても恐れてはならない、ましてその名称をいぶかってもならない。3.なぜなら、われわれから遠く離れてあるのでないのはもちろん、われわれの外に構成されるのでもなく、その業はわれわれの内にあり、われわれがその気になりさえすれば、実行は簡単であるからだ。4.例えばギリシア人たちは、文字を学ぶために出郷し、海をも渡るが、われわれは、諸天の王国のために出郷の必要もなく、徳のために海を渡る必要もない。実際、主は先取りして云われた、《諸天の王国はあなたがたの内にある》〔Luc 17:12〕。5.したがって、徳は、われわれの内にあり、われわれによって成立するからには、われわれがその気になる必要があるだけである。なぜなら、魂は可考的部分を自然本性的に有するときに、徳が成立するからである。6.だが、自然本性的に有するとは、生まれたままにとどまる場合であるが、生まれたのは、美しく、あまりに直いものとしてであった。それゆえ、ナウエーの子イエースゥス〔ヌンの子ヨシュア〕は民に厳命して言ったのである、《あなたがたの心を、イスラエールの神、主に対して真っ直ぐにせよ》〔Jo 24:23〕。またイオーアンネースは、あなたがたの《道筋を直くせよ》〔Mat 3:3〕。なぜなら、魂が直くあること、それこそが、創造されたとおりのその〔魂の〕自然本性的可考的部分だからである。対して今度は、〔魂が〕傾き、自然本性的なそれからの逸脱情態になったとき、そのときが魂の悪と言われるのである。8.だから事は難しいことではない。なぜなら、われわれが生まれたままにとどまるなら、われわれは徳の内にある。が、つまらぬことを思量するなら、悪人として裁かれるのだ。9.なるほど、物事を外部から備えなければならないとしたら、本当に難しいことであったろう。だが、われわれの内にあるのなら、汚れた想念から自分たち自身を守り、預かり物として受けとって、主のために魂を見張ろう。そうすれば、〔主〕ご自身が自分の作品だと認めてくださるだろう、魂が、これ〔魂〕を作りおいたとおりのものであると。

[21]
 1.そこでわれわれにとって闘技をして、われわれの怒りが僭主支配せぬよう、またわれわれの欲望も支配せぬよう、あらしめよ。なぜならこう書かれているからである、《人の怒りは神の義を成就するものではない》〔Jac 1:20〕。欲望は、孕んで、罪を生む。罪は、熟して、死を生み出す〔Jac 1:15〕》。2.こういうふうに生活態度を持すれば、われわれ安全に素面でいられ、書かれているとおり、《あらゆる番所で自分たち自身の心臓を見張ろう》〔Pr 4:23〕。なぜなら、われわれは恐るべき狡猾な敵ども、邪悪なダイモーンたちを有しているからだ。3.連中に対してこそ《われわれにとっての格闘があるとは、使徒が云ったとおりで、それは血と肉に対するものではなく、支配に対する、権威に対する、この永遠の闇の世の主権者に対する、天上にある邪悪の霊に対するものである》〔Eph 6:12〕。4.だから、連中の群衆は、われわれを取り巻く大気中に多く、われわれから遠くにあるのではない。また、連中のうちにみられる相違は数多い。5.また、連中の自然本性と相違についても多くの言葉があるが、しかしこのような話はわれわれに比してより偉大な他の人たちのものである。目下緊急にしてわれわれにとって必然なことは、われわれに対する連中の狡猾さを知ることのみである。

[22]
 1.そこで、先ず、このことをわれわれは知る、つまり、ダイモーンたちは、ダイモーンと呼ばれる所以を持つように生まれたのではないということである。なぜなら、神は何ひとつ悪は創造されなかったからである。2.いや、連中も美しきものとして生まれたのだが、天的な知慮から転落し、それ以降、地上を徘徊して、ギリシア人たちを幻影で欺き、キリスト教徒たるわれわれを嫉妬し、あらゆる物を動かせ、自分たちが転落したところにわれわれが昇ってゆかないよう、われわれの天への上昇を邪魔しようとしているのだ。3.だからこそ、多くの祈りと修行の必要性があるのだ、ひとが、霊を通して諸々の霊の判別の恩寵を得て、連中にかかわる事どもを知ることができるためである、いったい連中の誰々があまり下劣ではなく、誰々があれらよりも下劣か、いかなる為業(ejpithvdeuma)について連中の各々が真剣さを有し、どうすれば連中の各々が覆され、抛り出されるかを。4.というのは、連中の詭計と策謀の動きは数が多いからである。だから、浄福な使徒や、これに倣う人たちがこういうことを知っていたのは、こう言っているからである、《やつ〔サタン〕の思いをわれわれが知らないわけではないのだ》〔2Col 2:11〕。他方、われわれは、連中から試みられた結果、連中を遠ざけてお互いを正さなくてはならない。とにかくわたしは、連中の試みを部分的に持ったので、わが子たちとして〔あなたがたに〕言っているのである。

[23]
 1.たしかにこの連中は、誰であれキリスト教徒を見ると、とりわけ、愛労者にして進歩している隠修士たちを〔見ると〕、道筋に属する餌を置くことに着手し、試みる。連中の餌とは、汚れた想念である。2.だが、われわれが連中のすり替えを恐れる必要はない。なぜなら、祈りや断食や、主への信仰によって、あの連中はすぐに倒れるからである。しかしながら、倒れても休むことなく、再び、今度は抜け目なく狡猾に攻め寄せてくる。3.というのは、快楽によって公然と下劣に心臓を欺くことができなかったときには、今度は別の仕方でのしかかるからである。そしてついに、幻像を造形して威嚇するふりをする、女たち、獣、爬虫類に変身し、身体の巨大さをも将兵の多さをも模倣して。しかしながら、そうであっても、連中の幻影にびくびくする必要はない。4.というのは、何ほどのこともなく、すぐにも消えるからである、とくに信仰と十字の印によって、人が自分自身を警護する場合には。5.だが、〔連中は〕無鉄砲で、あまりに恥知らずである。だから、そういうふうに敗北しても、他の仕方で再びのしかかってくる。そうして、何日か後に起こることを占ったり予言したり、すんでのところで屋根までとどくほど自分を高く、横幅を大きく見せるふりをして、そうやって、想念によって欺くことのできない相手を、このような幻影で掠めようとする。6.だが、そういうふうにしても、信仰と精神の希望とによって安泰な魂を見出すと、ついに自分たちの支配者を引っぱり出す。

[24]
 1.そうして連中は、こういう者たちとしてしばしば現れる」と彼は言った、「例えば、イオーブに主が啓示して言ったように、《その両の眼は一種の明けの明星。その口から燃える松明が噴き出し、火花が飛び散る。その鼻から、炭の燃える炉の火のように煙が噴き出す。その魂は炭火。その口からは炎が噴き出す》〔Jb 41:10-13〕。2.さて、こういう者として現れるダイモーンたちの支配者は、先に云ったように、狡猾な者は大きなことを喋って威嚇するが、これを主が再び譴責したように、イオーブにはこう言われる、《〔サタンが〕鉄をみること藁のごとく、青銅をみること朽ち木のごとし〔Jb 41:19〕。3.海をみること軟膏筺のごとく、深淵の奈落をみること捕囚のごとし。深淵を思量すること、遊歩場のごとし〔Jb 41:23-24〕》。また、預言者を通して、《敵は云った、「追いかけて捕まえよう》〔Ex 15:9〕。また、《全世界をわが手で鳥の巣のように捕まえよう、置き去りにされた卵のように取り上げよう》〔Is 10:14〕。要するに、こういうことを自慢することを手がけ、敬神者たちを何とか欺いてやるとすぐに公言する。4.しかしながら、われわれ信仰者は、今度も、その幻影を恐れることも、その声に意を注ぐこともそんなに必要ではない。というのは、やつは虚言しているのであり、総じて何ら真実を喋っていないからである。もちろん、こういうことやこれほどのことを喋り、威張っても、竜のように救い主から魚鈎で引きずられ、家畜のように端綱でその鼻をおさえ、逃亡奴隷のように紐で鼻の穴を結ばれ、唇を棘で刺し貫かれる。5.さらに、小雀のように主から結ばれて、われわれから笑いものにされる〔Cf. Jb 40:25-29〕。〔サタン〕本人とこれと連れ立つダイモーンたちは、蠍や蛇のように、キリスト者たるわれわれから踏まれるよう定められているのだ〔Cf. Luc 10:19〕。6.その証拠は、現在われわれがひとりで生活するところにこそある。というのは、海を抹消し、世界を掌握すると公言している者が、見よ、今、あなたがたの修行を妨げることができず、やつに対してわたしが喋ることをも妨げられないのだ。7.されば、喋るやつらに心を傾注すまい(虚言しているのだから)、その幻影にびくつくこともすまい、それらは嘘にすぎないのだから。8.というのは、やつらの内に現れる光は真実ではなく、むしろやつらに備えおかれた火の序曲と似像をもたらし、やつらの間で燃えあがるはずのもので、それらによって人間どもを威嚇しようところみているのだ。9.たしかに、現れてはまたすぐに消える、信仰者たちの誰をも害することなく、自分たちが受けるはずの火の表象を自分で表している。だから、連中を恐れることはすこしもふさわしくない。なぜなら、連中の為業はすべて、主の恩寵のおかげで、無に帰するからである。

[25]
 1.しかし連中は狡猾で、あらゆる点で変化し、変身する用意がある。実際、見えないまま、讃歌を歌うふりをすることもしばしば、〔聖〕書からの言い廻しを引用さえする。2.また、われわれが朗読しているときも、朗読されている同じことを、自分たちがすぐに木魂のようにしばしば言うときもあり、さらに眠っているわれわれを祈りのために目覚めさせることもしばしばである。それも間断なく行い、ほとんど眠ることもわれわれに許さないのである。3.また、隠修士たちの恰好に身をやつしさえするときもあり、敬虔な者のように喋るふりをし、そうやって、等しい恰好で惑わせ、ついには連中に欺かれた者たちを連中の望むところへ引きずりこむのである。4.しかしながら、祈りのために目覚めさせようと、全然食さないよう忠告しようと、中傷し悪罵するふりをしようと、連中に意を注ぐ必要はない。なぜなら、これらのことをするのは、畏敬とか真理のためではなく、純粋無垢の者たちを失望へと連れ込み、隠修士の生活はうんざりで重すぎるから、修行を無益と言い放ち、人々を船酔いにさせ、連中に逆らう生き方をする者たちを邪魔するためだからである。

[26]
 1.そこで、主から遣わされた預言者は、こういう連中を憐れんで言う、わざわいなるかな《その隣人に怒りの杯を飲ませる者は》〔Ha 2:15〕。このような為業や転覆的思いは、徳に至る道の転覆である。2.だが、主ご自身がみずから、ダイモーンたちが真実を言っているのに(というのは、《あんたは神の子だ》と連中は真実を言ったのだが〔Luc 4:41〕)それにもかかわらず黙らせられたのである。3.そして喋るのを妨げられたのは、真理とともに自分の悪までも撒き散らすことのけっしてないよう、真実を言っているように思われようとも、われわれまでもがこういった連中に心を傾注することのないよう習慣づけるためである。4.というのも、われわれは〔聖〕書と救い主からもらった自由とを持っていながら、自分の持ち場を守らず、次々と別のものらを知慮する悪魔から教えられることは、ふさわしくないからである。5.それゆえ、こいつが〔聖〕書から引いた言い廻しを喋ろうとも、こう言って妨げられるのである、《罪人には神が云われた、「何のつもりで、おまえはわが掟を数えあげ、わが契約をおまえの口に上すのか》〔Ps 50:16〕。6.というのは、あらゆることを為し(喋り、騒がせ、偽装し、動揺させ)、純粋無垢の者たちの欺瞞を目指す。もちろん、連中は音を立て、拍手し、馬鹿笑いをし、口笛を吹く。しかし自分たちに心を傾注する者がいなければ、ついには敗北者のように泣き、嘆くのだ。

[27]
 1.もちろん、主は、神として、ダイモーンたちを黙らせた。だがわれわれは、聖者たちに学ぶ者として、あの人たちに倣って行動し、その勇気を模倣するのがふさわしい。2.というのも、あの人たちも同じことを凝視してこう言っているからだ。《わが前に罪人のいるかぎり、わたしは聾者となり、身を低くし、善き事どもから沈黙した》〔Ps 39:2-3〕。3.さらにまた、《しかしわたしは聾者のように耳が聞こえず、唖者がその口を開かぬ者のようになった。そうして、口を開かぬ者のようになった》〔Ps 38:14-15〕。4.だから、われわれも、われわれとは余所者であるかのように連中に耳を貸すこともなく、連中に聞き従うこともない、たとえ祈りへと目覚めさせようと、断食について喋ろうとも。しかし、自分たち自身の修行の優先には、ますます心を傾注しよう、そうして、罠を使って何でも実行するあの連中から騙されないようにしよう。5.しかし、やつらを恐れる必要はない、攻めかかってくるように思われようと、死をもって脅そうとも。なぜなら、連中は弱く、脅す以外は何もできないのだから。

[28]
 1.もちろん、以上のことは行き掛かりで述べ来たってしまった。が、今は、同じことをもっと広汎に云うことをためらうべきではない。というのは、あなた方にとって想起が安全なことだからである。主が帰郷なさるや、敵は倒れ、その力能は弱まった。2.それゆえ、実際には、僭主のように、いったん没落すれば何もできないのだが、おとなしくはせず、言葉だけではあるが威嚇する。これをも、あなたがたの各人をして思量せしめよ。そうすれば、ダイモーンたちを軽視できよう。3.もちろん、われわれがそうであるように、こういう身体に縛られているものであるとするなら、こう言うことが連中にはできる、「われわれは隠れている人間どもを見つけ出せないが、見つけ出したら害しよう」と。4.だが、わたしたちも身を隠して、連中に気づかれないでいることができる、自分たちで扉を閉ざすからだ。5.だが、そういうふうでなく、扉が閉ざされていても、入りこんでくることができるし、連中と連中の第一の悪魔は、あらゆる大気中にいるが、悪意あり、害する用意のあるものたちで、救い主が云われたように、最初から人殺しであるのが、悪の父たる悪魔〔Jo 8:44〕であるが、今こそわれわれは生き、むしろやつに対する生き方をしよう、連中は明らかに強くないのだ。というのは、連中が策謀するのを妨げる場所もなく、われわれを容赦するほどに愛友と見ることもなく、正すほどに愛善者でもなく、いやそれどころかむしろ邪悪な連中であって、愛徳者たちや神崇拝する者たちを害することほど連中にとって真剣になれることは何もないのである。6.しかし、何も実行することができないゆえに、このゆえにただ威嚇するより他は何もしない。というのは、もし出来るとしたら、猶予なく、すぐに悪を発動しであろう、そのための選択意思を、とりわけわれわれに対して持っているからである。実際、見よ、今、われわれは集まって連中に対して喋っており、われわれが前進するとき、連中は自分たちが弱いことを知っている。7.されば、連中が権力を持っていたら、われわれキリスト教徒の誰ひとりにも生きることを容認しなかったであろう。《罪人には神を敬う心は厭わしいからである》〔Sira 1:25〕。8.だが、やつらは何も為しえなから、それゆえますますわが身をかきむしるのである、威嚇することの何ひとつもなし得ないからである。それから、連中を恐れないことに加えて、次のことをも思量しなければならない。つまり、連中に専権があったなら、群衆となって支配することなく、幻想を作ることもなく、変身して騙すこともなく、たったひとりでやって来て、出来ることや望む当のことを実行すれば足りたことであろう。いわんや、専権を有するものはみな、幻影を以て亡き者にすることはなく、群衆によって恐れさせることもなく、望みどおりにすぐに専権を行使したことであろう。9.しかるにダイモーンたちは、何も出来ず、幕屋の上でのように戯れているのだ、姿を変え、群衆の幻影と外形で子どもたちを恐れさせて。これらのことからして、なおのこと、弱者として軽蔑されてしかるべきなのだ。10.実際、真のみ使いは、主からアッスリヤ人たちに向けて遣わされ、群衆を必要とせず、外部からの幻想を必要とせず、激突音を必要とせず、打ち合う音を必要とせず、穏やかに専権を行使して、すぐさま18万5000人を亡きものにした〔王下19:35〕。これに対してやつらは、何も出来ないので、ダイモーンらしく、諸々の幻影で以て恐れさせるべく試みるのである。

[29]
 1.しかるに、ひとあってイオーブのことを思量し、こう云うなら、どうか。「しからば、悪魔が出かけて行って、彼に対してあらゆることを実行したのは何故か。つまり、持ち物をば彼から剥ぎ取り、子どもたちを亡き者にし、悪しき腫れ物で彼を打ちのめしたのは」と。こういう者をして再度知らしめよ、悪魔は強者ではなく、神がイオーブを試みるためこれに引き渡されたのだと。2.もちろん、〔悪魔は〕何ごとも実行することが出来ないので、要請し、受け取って、しかる後に実行してきた。3.その結果、このことからしても、ますますもって敵が退けられるべき所以は、たとえその気になっても、ひとりの義人に対してさえ強者ではないからである。というのは、強者であれば、要請はしなかったであろうから。しかるに、一度ならず二度までも要請しているのは、明らかに弱者であり、何も出来ないからだ。また、神が容認しなければ、彼の所有物に対してさえ何も起こらなかったのだから、イオーブに対して強者ではなかったとて驚くことはない。5.いや、豚たちに対してさえ専権を持ってはいない。というのは、福音書の中に書かれているとおり、連中は主に「頼んで」、豚たちの中に去らせることをわれわれに許してくれと言っている」からである〔Mt 8:31, Luc 8:32〕。豚たちに対してさえ専権を持っていないなら、まして、神の似像に倣って造られた人間に対して専権を有さないことは、いうまでもない。

[30]
 1.されば、ただ神のみを恐れ、これらの連中は軽蔑し、これらに断じて加担すべきではない。いや、それどころか、連中が同じことを実行すればするほど、われわれは連中に対して修業に張り切ろう。2.なぜなら、真っ直ぐな生と、神に対する信仰は、連中に対する偉大な楯だからである。実際、連中が恐れるのは、修行者たちの断食、徹夜、祈り、温和'pra:on)、静寂、愛銭せぬこと、虚しい自惚れを持たぬこと(ajkenovdoxon)、自己卑下(tapeinofrosuvnh)、物乞いを愛すること(filovptwcon)、施し(ejlhmosuvnh)、怒らぬこと、そして優先的なクリストスへの敬虔だからである。3.だからこそ、どんなことでも実行し、自分たちを踏みつける者たちを持たぬようにするのである。というのは、連中は知っているからである、自分たちに対して、救い主、つまり、《見よ、わたしはあなたたちに、蛇や蠍の上を、また敵のあらゆる力の上を踏む専権を与えた》〔Luc 10:19〕とおっしゃる方から、信仰者たちに与えられている恩寵を。

[31]
 1.そういう次第で、予言することを演じても、ひとをして加担せしむるな。なぜなら、何日か前に、何日か後に通ってくる兄弟たちのことをしばしば言う。そうして確かにその者たちがやって来る。だが、やつらがこれをするのは、聞く者たちのためを思ってではなく、彼ら〔聞く者たち〕が自分たちを信じ、ついには手下にして破滅させるためなのである。2.ここからして、連中に心を注ぐ必要はなく、言ってきても追い返さなければならないのは、われわれは連中を必要としないからである。いったいどうして驚くことがあろうか、人間どもよりはるかに薄い身体を用いて、道行始めた者たちを見て、駆け足で先回りし、告知するからとて。3.馬に乗る者も、徒歩で道行く者より予言する。したがって、そのことで連中に驚くべきではない。なぜなら、連中は起こらなかったことを何も予知しているのではなく、生成より前に万事を知っておられるのは神のみである。4.これに対し連中は、盗人のように、目にしたことを、先回りして告知する。現に、われわれのことを、つまり、われわれが集まって、連中に着いて語り合っているということを、われわれの中からある人が立ち去って告げる前に合図するだけのことである。5.こんなことなら、ちょっとした子どもでも先回りして実行し、遅い者に先駈けられる。だが、わたしが言っているのは、こういうことだ。ある人がテーバイスから、あるいはどこか他の場所から歩き出したとするなら、歩き出す前には、歩き出すかどうかを知らない。しかし、この者が歩いているのを見た者たちは、先回りして、彼が来る前に、告げる。6.また、その者が何日か後にやって来るとそういうふうに合図する。だが、歩いてくる者たちが遅れたために、連中が嘘つきになることもしばしばである。

[32]
 1.こういうふうに、河の水についても、連中が無駄口をきくことがある。例えば、エチオピア地区に大雨が降るのを見て、それが原因で河の氾濫が起こると知って、水がエジプトに到達する前に、先駈けて言う。2.しかし、そんなことなら、人間どもでも述べたことであろう、あの連中ほどに走ることができたとしたら。3.実際、ダビドの見張りが、高みに登って、下にとどまっている者よりもよく、やって来る者を先に見たのは〔2Sam 18:24〕、先駆する者は、その他の者たちよりも先に言ったのだ。それは起きていないことではなく、すでに歩いている者や生起したことをである、そのように、この連中も、骨折りを選択し、お互いに合図し合うのは、ただ騙すためなのである。4.しかしながら、先慮(pronovia)が、水とか道行についてその最中に企てているとしたら、(それにとっては可能なのだから)ダイモーンたちは嘘つきであり、連中に心を傾注する者たちは騙されているのだ。

[33]
 1.ヘッラス人たちの占いはそのようにして成り立ち、以前はそのようにしてダイモーンたちから惑わされたのだが、それにもかかわらずその迷いはもはややめさせられている。というのは、連中の狡知そのものもろとも、ダイモーンたちをも無効になさった主が来たりたもうたからである。2.というのは、連中が自力で知ることは何もなく、盗人のように、他人のもとに目撃したこと、これを告げ口するのであって、予知能力者というよりはむしろ易者である。故に、たとえそういうことを真実として言っても、そうだとしてもひとをして連中に驚嘆せしむるな。3.というのも、医師たちも、病人たちに対する経験をもっているので、他の人たちの中に同じ病を観察した場合には、慣れから推測して予言することしばしばである。4.さらにまた、操舵手や農夫たちも、大気の状態を見て、慣れから、嵐とか好天気になることを予言する。だからといって、彼らが神的な霊感によって予言しているとはひとは云わず、経験と慣れからだと云うであろう。5.ここから、ダイモーンたちが同じことをたまたま推測して予言しても、だからといってひとをして連中に驚嘆せしめてはならず、連中に心を傾注させてもいけない。出来することを何日か前に連中から知ることが、聞く者たちにもいったいどんな有用性があろうか。あるいは、そういうことを、真に知ったとして、知ることにいかなる緊急性があろうか。というのは、それをすることが徳に属するわけではなく、その知識が善き性格に属するわけもまったくないのだから。6.というのは、われわれの誰ひとり、裁かれる所以を知らず、学び知っているからといって浄福視される者もなく、各人が裁きを受けるのは、信仰を遵守し、掟を真正に守ったかどうかということにおいてなのだから。

{34]
 1.このことから、重視すべきはそのことではなく、そのことを修行し労苦するのも、予知するためではなく、神に美しく気に入られるためなのである。祈るべきことも、予知するためにではなく、修行の報酬としてそれを要請するのでもなく、悪魔に対する勝利に向けて主がわれわれの共働者となってくださるためなのだ。だが、いやしくも予知することがわれわれにとって気になるなら、精神を清浄にしよう。というのは、わたしは信じているからだ、あらゆる点で清浄となり、自然本性に立ち帰った魂は、自分に黙示なさる主をもつゆえに、明視的となって、ダイモーンたちよりもより多くを、より遠くまで望見することができる、と。3.例えば、エリサイオス〔エリシャ〕の〔魂〕が、ギエゼー〔ゲハジ〕の事〔行動〕を凝視し〔王下5:26〕、これ〔エリシャの魂〕の周りに立っている諸々の力能を視た〔王下6:17〕ように。

[35]
 1.そういう次第で、夜間、あなたがたのところに連中がやって来て、将来のことを喋ろうとしたり、「われらは天使なり」と言う場合、耳をかしてはならない、虚言しているからだ。また、あなたがたの修行を称讃し、あなたがたを浄福視しても、聞き入れてもならず、断じて連中を味方につけてもいけない。2.むしろ、自分たち自身と家とに〔十字の〕徴を印し、そして祈れ。そうすれば、連中が消滅するのを目にするであろう。3.なぜなら、連中は臆病であり、主の十字の徴を極度に恐れるからである。それによってこれらの連中から〔力を〕剥ぎ取り、救い主がさらし者になさったので〔Col 2:15〕。それでも、破廉恥にも踊りまわり、諸々の幻影によって多彩化されつづけても、臆してはならず、屈してもならず、美しいものらであるかのように連中に心を傾注してもならない。4.というのも、劣悪なものらと、善きものらとの到来を判別することは、たやすくかつ可能である。神がそういうふうに与えられたので。聖なるものらの顕現(ojptasiva)は、動揺させられることがない。というのは、《この者は争わず、叫びもせず、彼らの声を聞く者もいない》〔Mat 12:19, Is 42:2〕からである。静かにして柔和なことたるや、魂に喜びと歓喜雀躍と元気が生じるほどである。5.なぜなら、彼らとともに主がおられるからである、われわれの喜びであり、父なる神の力能たる主が。また、その〔魂の〕想念は、混乱することなく、揺らぐことなく持続する結果、自分で自分を照らす〔魂〕は、現れ出たものたちを観想する。というのも、神的なものらや将来のことに対する渇望が、それ〔魂〕に侵入し、彼らとともに去る場合には、彼らと完全に結合しようとするからである。6.しかし、人間どもとしては、美しいものらの顕現を恐れる者たちが何人かいるにしても、出現した者たちが、歓愛によってたちまちその恐れを剥ぎ取ってくれる。例えば、ガブリエールがザカリアにしたように〔Luc 1:13〕、神的な墓の中で現れた天使が女たちに〔Mat 28:5〕、福音の中で羊飼いたちに「恐れるな」と言った者〔Luc 2:10〕がしたように。7.というのは、あの者たちの恐れとは、魂の臆病さに比されるものではなく、より勝ったものたちの到来の認識に比される。このようなものこそ、聖なるものらの顕現である。

[36]
 1.これに反し、劣悪なものらの襲来と幻視は、騒音と反響と叫び声をともなって混乱をきわめ、無教養な若者らや盗賊どもの振る舞いのようなものである。2.これらからただちに生じるのが、魂の臆病、思量の狼狽と無秩序、落胆、修行者たちに対する憎悪、懈怠、苦痛、家の思い出と死の恐怖。そしてついには、諸悪の欲望、徳に対する軽視と性格の不安定である。3.そういう次第で、あなたがたが何かを観て恐ろしくなったとき、すぐに恐れが剥ぎ取られ、それ〔恐れ〕に代わってえもいわれぬ喜びと欲求と元気、つまり、思量の回復と不惑と、その他先にわたしの云ったかぎりのものら、すなわち、勇気と神に対する歓愛が生じる場合は、勇み立て、祈れ。4.というのは、魂の喜びと樹立(katavstasiV)は、居合わせるものの聖性を示すからである。そのようにしてアブラアムは主をまのあたりにして歓喜雀躍したのである〔Joh 8:56〕。〔洗礼者〕イオーアンネースも、神の生母マリアから声がかけられたとき、《歓喜雀躍して跳びはねた》〔Luc 1:44〕。5.これに反し、何らかのものらが登場したとき、混乱と外部からの騒音とこの世的な幻視と死の脅迫と先に云ったかぎりのものらが生じるなら、劣悪なものらの登場だと知れ。

[37]
 1.というのも、次のことも、あなたがたにとっての証拠たらしめよ。あることどもに魂が臆してやまぬ場合は、敵どもが現前しているのである。というのは、大天使長がマリアとザカリアに、また墓の中に現れたものが女たちになしたとうには、ダイモーンたちはそのようなものらから臆病を取り除かないからである。いや、むしろ、臆病な者たちを目にした場合には、幻視を増やし、そうやってもっと彼らを畏縮させ、ついにはのしかかって、《ひれ伏して、拝め》〔Mat 4:9〕と言ってからかうのである。3.実際、ギリシア人たちをばそうやってやつらは欺いた。というのは、彼らのもとではそうやって偽りの神々とみなされたのだ。しかしわれわれをば悪魔から欺かれることを主が許さず、そのつど、そのような幻視をつくる相手を叱りつけておっしゃった。《サタンよ退け。こう書かれているからだ、「主なる汝の神を拝み、ただこれのみを礼拝すべし」と》〔Mat 4:10〕。4.だから、狡猾なものは、そうであればあるほどますます、われわれから軽蔑されるがよい。というのは、主がおっしゃったこと、それはわれわれのために、つまり、ダイモーンたちがわれわれからもそのような声々を聞いて、まさしくそのような〔声々〕によってお叱りつけになった主のせいで引き下がるように、なさったことなのだから。

[38]
 1.しかし、ダイモーンたちを追い出したことを自慢すべきではなく、諸々の癒しを称讃することもすべきでなく、ダイモーンたちを追い出した人はただ驚嘆するが、追い出さない人を軽蔑することもすべきではない。2.これに反し、人をして各人の修行を会得せしめよ、また、あるいは模倣せしめ、景仰せしめよ、あるいは矯正せしめよ。というのは、徴をなすことはわれわれに属することではなく、救主の仕事だからである。3.実際、弟子たちに言われた。《ダイモーン的なものらがあなたがたに従うことを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名前が諸天に記されることを喜べ》〔Luc 10:20〕。なぜなら、天に名前が記されることこそは、われわれの徳と生の証拠である。が、ダイモーンたちを追い出すことは、与えてくださった救主の恩寵だからである。4.このことから、徳をではなく徴を誇る者たち、つまり、《わたしたちは御身の名前によってダイモーン的なものらを追い出し、御身の名によって数多くの力能をなしたのではありませんか》〔Luc 10:20〕と言う者たちに、お答えになった、《アメーン、あなたがたに言う、あなたがたのことなど知らない》〔Mat 7:22〕と。5.というのは、主は不敬な者たちの道をご存知ないからだ〔Cf. Ps 1:6, Prov 4:19, 15:9〕。要するに、先に云ったように、霊たちの判別の恩寵を得られますようにと祈らねばならない、それは、〔聖書に〕書かれているとおり、《どんな霊でも信じればよいわけではない》〔1Joh 4:1〕からである。

[39]
 1.もはや沈黙し、自分からは何も言わず、以上のことだけで満足したいところだが。しかし、以上のことをわたしが単に言っているだけとみなさないでもらいたい、むしろ経験と真理から以上のことをわたしが説明していると信じてもらいたい、それゆえ、わたしは愚か者であったとしても、聞いておられる主は、関知者の清らかさと、わたし自身のためでなく、あなたがたへの歓愛と激励のために、わたしが知っているダイモーンたちの行事、これを繰り返し言っているのだということをも、知っておられる。2.やつらがわたしを浄福視するたびに、わたしもやつらを主の御名によって呪ってやった。河の〔洪〕水を予言するたびに、わたしも連中に向かって言った、「しかし、おまえたちにそれが何のかかわりがある?」。3.やつらは脅迫しにやって来て、将兵のように完全武装してわたしを取り囲んだ。また他の時には軍馬や野獣や爬虫類で家を充満させた。わたしも詠唱した、《ある者たちは戦車を、ある者たちは軍馬を、しかしわたしたちは、わたしたちの神なる主の御名を崇めよう》〔Ps 20:8〕。そうして祈りによって、やつらは主からひきさがった。4.あるときは、闇の中を、光の幻影を帯びてやって来て、言った、「われらはおまえに現れるためにやって来た」。そこでわたしは、両眼を閉じ、祈った、すると、不敬者たちの光はすぐに消えた。5.また、数ヶ月後、詠唱し、〔聖〕書について喋りながらやって来た。《しかしわたしは、聾者のように耳をかさなかった》〔Ps 38:14〕。そのとき、修道院を揺さぶった。しかしわたしは、心が不動にありつづけるようにと祈った。6.また、その後再びやって来て、拍手し、口笛を吹き、踊りまわった。だが、わたしが祈り、わたし独りで詠唱しつつ伏せていると、力尽きたかのごとく、すぐに歎き泣き始めた。7.そこでわたしは、主を栄化した、引き倒し、やつらの敢行と狂気をさらしものになさった主を。

[40]
 1.あるとき、ダイモーンが非常に背の高い幻影をして現れ、無鉄砲にも云った、「おれは神の力だ」。さらに、「おれは摂理(pronovia)だ。おまえがその気なら、何を恵んでやろうか」。2.しかしわたしは、そのとき、クリストスの名を唱えながら、やつに対して強く息を吹きかけ、やつに殴りかかろうとした。すると殴ったと思われるや、こんな大きなやつがすぐに、自分の手下のあらゆるダイモーンたちもろとも、クリストスの御名によって消滅したのである。3.あるとき、わたしが断食しているときも、奸物が隠修士の風をしてやってきた。そうしてパンの幻影を持って、こう言って忠告した、「喰いなされ、そうして数多くの労苦をやめなされ。あんたは人間にすぎない、弱りかかっている」。4.しかしわたしは、やつの悪だくみをさとって、祈るべく立ち上がった。するとそいつは堪えられなかった。というのは、去って、扉を通って煙のように出て行くのが見えたからである。荒野では、わたしが触れたり眺めたりするだけのために、黄金の幻を示しすことたびたびであった。5.しかしわたしがやつに対して詠唱し、やつも溶けた。こぶしでわたしを殴るたびに、わたしも言った、《何ものもわたしをクリストスの歓愛から引き離せる者はない》〔Rom 8:35〕。すると、その後、やつらは激しく同士討ちを始めた。6.しかし、やつらを止め、絶やしたのはわたしではなく、主、つまり、《サタンが稲妻のように落ちるのを観た》〔Luc 10:18〕と言われた方であった。そこで、わが子たちよ、使徒の言辞を思い出し、《わたし自身へと姿を変えた、あなたがたが学ぶためにである》〔1Col 4:6〕、修行に意気阻喪せず、悪魔やその手下のダイモーンたちの幻を恐れてもならないということを。

[41]
 1.話しているうちにわたしは愚か者のようになってしまったが、次のことも受け取って、恐れないでほしい。そうして信じてもらいたい。わたしは嘘つきではないのだから。あるとき、修道院のわたしの扉を叩いたものがいる。そこで出て見ると、大きくて背の高く見えるものがいた。2.そこで、「おまえは誰だ」とわたしが尋ねると、相手が謂った、「おれはサタンだ」。そこで、「いったいどうしてここにいるのだ」とわたしが言うと、やつが言った、「隠修者たちやその他のキリスト者たちはみな、どうしておれをいたずらに非難するのか。どうしておれをひっきりなしに呪うのか」。3.で、「いったいどうして彼らのせいで悩んでいるのか」とわたしが言うと、彼は謂った、「おれではなく、あいつらが勝手に騒いでいるのだ。なぜなら、おれは弱ってしまった。《敵の投げ槍は尽き果て、諸々の都市も陥落した》〔Ps 9:7〕というのを彼らは読んでいないのか。4.おれはもはや居場所なく、矢弾なく、都市なく。どこもかしこもキリスト教徒になった。ついには荒野も隠修士たちに満ちている。彼らが自分自身を守っていれば、いたずらにおれを呪うこともあるまいに」。5.このとき、わたしは主の恵みを讃嘆し、やつに向かって云った。「おまえはいつも嘘つきで、いまだかつて真実を言ったことがないが、それにもかかわらず今はそれを、その気なしに、真実として述べた。というのは、クリストスがやって来られて、おまえを弱者となし、打ち倒して裸となさったのだから」。6.するとやつは救主の名前を耳にするや、その方の焼却に堪えられず、消え去った。

[42]
 1.そういう次第で、当の悪魔も、無力なことを白状しているとすれば、やつとやつの手下のダイモーンたちとをわれわれは徹底的に軽蔑するべきである。もちろん、敵はおのれの犬どもとともにそのような奸策を企てる。しかしわれわれは、連中の弱さを学んで、連中を軽蔑することができる。2.この仕方で、わたしたちは精神において先に転んではならず、臆病を魂のせいにしてもならず、恐れを自分自身に形成してもいけない、「はたして、ダイモーンは、やって来てわたしを台なしにするのではないか。はたして、持ち上げて投げ落とすのではないか、あるいは、とつぜん襲いかかって混乱させるのではないか」と言って。3.そのようなことには一切思いを致さず、破滅するかのように悲しんでもならない。むしろますます勇んで、救われる者として常に喜ぼう。4.そうして魂に思量しよう、主はわれわれとともにいまし、連中を押し返し、絶やされる。さらにまた、いつも思考し、思いを致そう、主がわれわれとともにいますとき、敵たちはわれわれに何もなせないことを。5.というのは、やって来て、われわれがどのような者であるかを見出すと、われわれに応じて、また、われわれの内に見出した諸々の考えに応じて、自分たちもそのような者として対処し、そうやって自分たちも幻影を似せるのである。6.だから、臆病で混乱した者を見出せば、すぐに自分たちは、盗賊のように、守りの弱い箇所を見つけ、のしかかり、われわれが自分たちから思量すること、そのことを付け足す。すなわち、われわれが恐れ臆しているのを観察すると、その臆病を幻と脅迫によってもっと大きく増大させ、ついにはそれらによって惨めな魂が懲らしめられるのである。7.これに反し、われわれが主において喜び、将来の善きことどもを思量し、万事は主の手中にあり、ダイモーンはキリスト者よりも何ら強くなく、何かに対する専権をまったくもっていないと思量する者たちを見出すと、このような想念において魂が安全なのを目にして、赤面して引き下がる。8.このようにして、イオーブは擁護されているのを見出した敵は、彼から遠ざかった。しかし、イウゥダはそういったものから裸なのを見出して、捕虜にしたのである。したがって、われわれが敵を軽蔑しようとするなら、常に主のことを思量し、魂をして常に希望を喜ばしめよ。そうすれば、ダイモーンたちの戯れをわれわれは煙のように、いやむしろ追いかける者としてよりは逃走するものとして目にすることになろう。というのは、先に云ったように、やつらはあまりに臆病で、自分たちに用意されている火をいつも待ち構えているやつらだからである。

[43]
 1.というのも、つぎのことも、やつらに対する恐れを持たぬために、自分たちのもとに証拠として持つがよい。幻のようなものが生じた場合、人をして怯懦によって先に転ぶことなからしめよ、むしろ、いかなる〔幻〕であれ、勇んで、先ず尋ねせしめよ、「おまえは誰か、どこから来たか」と。2.もしも、聖人たちの現前であるなら、おまえを満足させ、おまえの恐れを喜びに変えるであろう。3.だが、もしも悪魔のようなものであれば、すぐに衰弱するであろう、精神が強盛なのを観察するからである。というのは、「誰ですか、どこから来たのです」と完全に訊くことは、平静さ(ajtaraxiva)の証拠なのである。このようにして、ナウエーのイエースゥスは質問して学び〔Jo 5:13-15〕、敵は審問するダニエールに気づかれずにすまなかったのである〔Su 51-59〕」。

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