[解題]
野次馬2号 Kyniska さんが、鹿野武一の妻キエさんの故郷=松代と、武一終焉の地=高田を訪れての報告書。




松代/高田行(2003年9月10日-13日)

                        Kyniska

 2002年9月19日、滋賀県の或る養護老人ホームで、ひとりの老女性がひっそりと亡くなった。名を鹿野登美という。彼女の、残された少ない遺品の中に、時代をいちずに生き抜いた彼女の兄、鹿野武一の書簡と、武一の妹である彼女自身の書き溜めたいくつかの文章、日記などが発見された。

 脳梗塞のために、亡くなる前の数年間を病床に過ごした彼女は、その最晩年、意識はほとんどなかったといわれる。それ以前から、彼女の手もとには何冊かのノートのあることが知られていたが、彼女の最期が近いことを悟った北白川教会の佐伯牧師は、彼女の息のあるうちにと、ノートの印刷にふみきる。ノートは『遺された手紙』と題する小冊子となって、彼女の病床に届けられた。しかし、彼女の思いが返ってくることはなかったという。

 程なくして彼女は旅立っていった。登美は、晩年、北白川教会に所属していたが、彼女の遺品を整理した佐伯牧師は、それらの中に、彼女の古いノートとともに、多くの書簡を発見することになる。遺された書簡とノートに目を通した牧師は、鹿野武一と、彼を取り巻く人々の「精神の記録」に、時代を映す資料的価値のあることを見いだし、従兄弟の方々と話し合った結果、改めて、遺された「記録」を上梓することになった。

 佐伯牧師の旧知で、ノートの印刷を彼女の間に合わせ、その後、「記録」を上梓する過程で、編集と校正に携わったTは、当時より、越後松代(まつだい)と高田を訪ねてみたい、と口にするようになっていた。これはTの松代・高田行に同行しての手記である。


 越後松代は、登美の兄である鹿野武一の妻、旧姓関谷キエの郷里であり、昭和28年12月、シベリア抑留から帰国しはしたものの、生きる自信を失っていた武一が、短い期間ではあったが、キエとその家族の人々に心癒されつつ過ごした地である。

 この『遺された手紙』は、当然のことながら、武一から登美への書簡と、登美が兄武一の死後、書き綴った文章が記されたノートからなっており、妻キエに関する資料はない。武一の書簡を介してキエを知るのみである。

 キエの面彰を求めると同時に、武一の越後での足あとと心の軌跡をたどるべく、9月10日、私たちは越後松代に向けて旅立った。1か月半遅れでやってきた夏の盛りであった。

 越後松代は、直江津からのびる北越急行ほくほく線で越後湯沢に向かう途次にある。直江津近郊を離れるとトンネルの連続となり、列車は山間の集落を縫うように走った。列車の車体に描かれた星座の絵模様が、この地の夜空の美しさをアピールしていたが、数少ない昼間の、二両連結の列車には、ほんのわずかの乗客が乗っているばかりであった。しかし、それぞれの駅舎そのものは、小さいながらコンクリート造りの新しいもので、ほくほく線が第三セクターとして再出発したことを物語っていた。

 降り立った松代駅は「道の駅」が併設され、案内所に人が常駐し、数々のみやげ物がならぶスペースや腰をおろして休憩できるスペースが整えられていた。駅舎を出ると、すぐ傍を国道253号線が通り、大型車両が頻繁に走っていた。駅前のこの道は、江戸時代から続く旧街道のバイパスで、ここに立つと、線路をはさむ小高い山の上に松代城が見えた。松代はこの地域の中心地であったものと思われる。

 ふと見ると、道の脇に雪竿の立っているのが目についた。この地方は、昔は8mの積雪も珍しくなかったといい、踏み固めた雪の下にトンネルを掘って人々は行き来したと聞く。だが、近年は柏崎原発の影響か、雪も少なくなり、3,4mくらいしか積もらなくなったと地元の人は言う。豪雪地帯である。注意して見ると、雪竿はそこここにあった。

 観光案内所で、いきなり「まことにつかぬことをお伺いいたしますが、関谷政義という方をご存じありませんか」と尋ねた私に、気の良さそうなその人は「ああ、消防署にいる関谷まさよしという人なら知っていますが」という。この一言が突破口となり、その後、思いがけない出会いに導かれることを、その時の私たちはまだ知らなかった。私たちの捜し求める人物は鹿野武一の妻キエの弟の政義氏で、彼の名を手がかりに関谷家の所在知ることから始めようとしていたのである。捜し求める人物が一代前の人であることを告げると、商店街の方に行って尋ねてみるよう勧められ、私たちは松代城とは反対のなだらかな坂道をのぼって、松代の中心とされる商店街へと向かった。

 商店街と聞いたとき、都市の商店街をイメージすることはなかったが、そこそこに商店があるものと漠然と考えていた。しかし、そこには、かつては商店であったであろう「しもた屋」が、道幅の広い通りを挟んで、向かい合わせに立ち並んでいるばかりであった。ふと、雁木の見当たらないことを不思議に恩ったが、現在商店街といわれるこの通りは、もとは高田と十日町を結ぶ街道で、その街道沿いに商店が軒を並べたというのが始まりであった。そもそもの成り立ちが、商店街から発したものではなかったのである。雁木の見当たらないことも道幅の広いことも頷けた。旅籠屋風の旅館が通りに面して複数あることにも合点がいった。ただ、往時は旅人で賑ったであろうこの通りも、今は人影もなく、「しもた屋」ばかりが目についた。

 民芸品店が一軒開いていたので声をかけたが、人の気配はなかった。「松代町」と書かれた軽自動車が止まったので、人が出てくるのを待って訊ねたが、この町の者ではないので知らないとの返事。辺りを見回して、犬に散歩させている熟年女性を見つけ、駆け寄って訊ねたが、この人も知らないという。尋ねる人の住所も知らず、町に関する予備知識のひとつも持たずにやって来たのだから、仕方ないかとは思ったが、はるばるやって来たのにという思いが募った。残るは案内所で聞いた「消防署の関谷氏」を訪ねる以外になかった。

 火災のない消防署は、人けがなく静かで、どこに声をかけてよいか分からない。とにかく「消防署」の看板のかかった階段を上ってみることにした。人の声がするので、そちらの方に声をかけ、来意を告げると、「さあ、松代は関谷が多いからね」と言いながら、関谷さんと思われる人に代わってくださった。当の関谷さんも「分からんなあ」と言いながら、階段を降り、「あの煙突のある家が関谷で、あの辺に関谷がかたまっているから、あそこに行って聞いてみるといいですよ」と、指さして教えてくださった。

 初めての土地は不案内で、小さな道がどこに通じるのか分からなかったが、とにかく行ってみなければ道は開けない。煙突のある家を目指した。途中に庚申塚があり、その傍に、遠い昔訪ねたことのある修那羅峠の石神仏に酷似した石像がたっていた。通り過ぎようとしてTは「やっぱり撮っとこ」とカメラを向けた。

 「では、私は偵察に」と、一足先に目的の家に向かったが、表札が見当たらない。キョロキョロしていると、傍の電気店の中から声がする。まずは、ここで訊いてみようと、声をかけ、「一代前の方かと思うのですが、関谷政義さんとおっしゃる、獣医さんをなさっておられた方のお宅をご存知ではないでしょうか」と訊ねると、政義氏のご子息が医者になられ、上越市のほうへ引っ越していかれたということであった。ちょっとがっかりしながら、それがほんとうに、私たちの捜し求める関谷氏かと思い、「その方のお姉さんで、満州で看護婦さんをしておられた……」と言いかけると、「ああ、鹿野キエさんね」ということばが飛び出した。さらっと、こともなげにその人の口から出てきた名だが、まさかここで聞こうとは。劇的だった。心が震えた。「えっ、ご存知ですか? ほんとうに?」とたたみかける私に、「空き家ですが、キエさんの家は今もありますよ」とおっしゃる。出てこられた奥さんらしい人も、懐かしげに頷いておられたのが印象に残った。

kie.jpg 早速、通りに出て道を伺い、はやる心で教えられた方向へと向かう。旧街道が折れ曲がるその角を入り、教えられた辺りを見回していると、鳥居と急な石段が目に入った。武一が義父や義弟の嫁たちと田へ向かう途中、上ったという「お宮の石段」はこれに違いないと、写真におさめるTの傍らで、確証のなさに不安を抱いた私は、近くの家へ駆けていき、「鹿野キエさんのお宅はどこでしょうか」と訊ねた。知らずに通り過ぎていたのだったが、親切なその家の方が、わざわざ外に出て、案内してくださり、10年ほど前まで、キエさんがひとりで住んでおられたこと、先ごろから関谷さんが戻ってきておられることなどを教えてくださった。

 「キエさんの家」は、お宮にほど近い、初秋の花が咲く広い前庭の向こうにたっていた。こじんまりとした二階家であった。武一亡き後、キエはこの二階家にひとり暮らしたといわれる。キエと武一が共に過ごした関屋家の別棟も、関屋家の建物も今はもうない。武一は松代を不在にすることが多く、日数少ない日々ではあったが、武一はキエとその家族の人々と共にこの地に暮らし、孤独感を癒され、生への恐れを乗り越えて、キエとの生をハイリッヒなものに高めようとの一途な思いで、生きることへと向き直っていった。武一とキエの心を思うと胸が熱くなった。

omiya.jpg
「この辺りの地勢で 家の田も 
お宮様の石段を六十 昇ってから 
まだ坂を登って行ったあたりにある」
(1954.10.24付け登美宛て手紙)

 神社は松代神杜といい、ここがかの「お宮」であることが確かなものとなった。「お宮の石段」を上り、山の上の関谷家の耕地への道を確かめて下りてきたTと共にコンクリートの「飛び石」をつたって、玄関の扉の前へと進んだ。その時はまだ、声をかけようとは思ってもおらず、武一とキエの暮らした家を、より近くから写真におさめることのみを考えていた。だが、仮とも思える小さな表札を見て、目を疑った。思いがけなくも、そこには、関谷政義氏の名前があった。武一とキエを知る人がそこにおられる……、それもキエの弟の政義氏である。この機会を逃せば、武一とキエを知る人にはもうお目にかかれる機会はないであろう、心ははやった。

 ベルをそっと押してみた。突然の来訪者に、訝しげな、警戒するような女性の声が、扉越しに聞こえてきた。来意を告げると、半信半疑の面持ちで、初老の女性が戸を開けてくださったが、警戒の表情はまだ解けてはいなかった。

 持参した手元に残るただ1冊の小冊子『遺された手紙』を示し、昨年9月、鹿野登美さんの亡くなられたことや、小冊子が作られたいきさつなどを話す。さらに、その中の、武一が妹登美にあてた手紙の中に、松代や高田のこと、キエさんやそのご家族のことが記されていること、とりわけ「キエと手をとって村道を歩きながら……」という1節が心に残り、この地を訪ねてみたくなったことを話した。そして、捜し捜ししてここまでやって来たこと、表札を拝見すると政義氏の名前があって驚いたことなど、ここに至るまでの経緯を説明した。

 徐々に、女性の表情から警戒の色が消え、親しみの表情に代わっていくのがわかった。彼女こそ「義弟の嫁」、政義氏の夫人であった。Tが「お宮の石段」の話をすると、当時のことをはっきりと憶えておられ、一緒に山の田に収穫作業に行ったこと、その時、三番目の子どもがお腹にいたことなど、武一の手紙にあった内容と、ぴたりと一致する思い出を語ってくださったのである。

 夫人は、「武一さんは、からの大きい人でしてね……。二人はほんとに仲のいい夫婦でしたよ。ただ、ここの父が、ほんとなら武一さんはキエが結婚できるような人ではないと言っていましたね」と話されながら、奥にいらっしゃる政義氏に何度も声をかけてくださったが、政義氏は出てはこられなかった。

 突然の訪問であまり長居をしてはと、辞去の意を述べ、「この秋、北白川教会が、遣された手紙や文章などのほとんどすべてを収めた「本」を出します。つきましては、それを、ぜひ送らせていただきたいと思いますので、ご住所をお教えください」とTが手帳をさし出してお願いすると、夫人がその手帳を持って、政義氏に取り次いでくださった。しばらくすると、住所を書いた手帳を手に政義氏がゆっくりと出てきてくださったのである。上越市のほうで火災に遭い、若い者とは別に、老夫婦2人が、しばらくの間、ここに仮住まいしている旨、話してくださった。寡黙な方で、ご高齢であるためか、あるいは災難に遭われての失意からか、少し気弱になっておられるように見受けられた。

 私は政義氏の中に「キエ」を捜していた。キエの像はしかとは結べないが、キエがどのような感じの人であったか、何かぼんやりとではあるが、見えるような気がした。

 通りまで見送ってくださった夫人にお礼を述べ、武一とキエが歩いたであろう「村道」を写真におさめて駅へと向かった。


 その夜は、松代町の芝峠温泉「レストビレッジ峰」に投宿。公営または準公営にありがちな粗雑さのない、掃除の行き届いた清潔で気持ちよい宿であった。湯量の豊富な温泉の浴場からは、谷川連峰が望めた。お湯に身体を解き放ち、かつて風雨をついて歩いた峰々や、強い雨風の音とひどい雨漏りに眠れぬ一夜を過ごしたオジカ沢の頭の避難小屋、晴れわたった蓬峠から返り見た武能岳と湧きたつ白い雲などを思い出しながら、広い湯舟に一人きりの贅沢を堪能した。

 Tとジョッキを合わせ、猪肉団子の小鍋立てを中心とした夕食に舌鼓を打った。並べられた料理に、今一つのアクセントがあればとは思ったものの、食器にも意が払われ、快い食卓であった。

 部屋に帰ると、床がのべてあった。何か申し訳ない気がした。シーツと枕カバーさえ洗い立てであれば、私はセルフサービスでもよかったのである。山行の後の公共の温泉施設などでは、時に清潔とは思えないシーツや枕カバーの上に身を横たえなければならないことがある。それを思えばすべてが清潔で、寝具も申し分なくありがたかった。

 ところが、床に就いても、一日のできごとが思い出されて眠れず、キエを思い、武一を思いしていると頭は冴えるばかりであった。時折、峠を越えていく車のライトが窓辺を明るくして通り過ぎて行った。

 武一の「孤独感」とは何だったのだろう……、思いがそこに至る頃には、眠らねばという思いは消え、夜のとばりの中で、取り止めなく考えている自分がいた。


 シベリア抑留から帰還した武一は、妻キエの生家がある松代で、ようやく夫婦揃っての静かな生活に入る。そして十日町病院に通勤するようになるが、二か月ほどで挫折する。この頃、武一は深い孤独感にとらえられ、苦悩している。昭和29年10月24日付けの妹登美への手紙に「家で収穫の農作業が始まってから自分も毎日父や弟の嫁等と一緒に山へ出て、皆の仕事の手伝いが出来ることで孤独感から大いに救はれてゐる」と書く。この「孤独感」とは何なのだろうか。彼の「孤独感」はいったいどこから来たものなのだろうか。私には、彼の「孤独感」は、彼の人生の早い時期に、彼の心の奥深い所に生じ、彼の人生のいろいろな場面で増幅されていったように思えてならない。彼の鋭敏な神経と読書の質が、彼の性向を決定づけると同時に、彼の努力とは別の次元で、彼の人生を「孤独」なものにしていったに違いない。

 小学校高学年のころ、よく勉強して頭のよかった武一は「天神さん」と呼ばれていたという。そんな彼は、やがて京都府立一中に進学する。「一中へ入って新しい制帽をかぶった兄を見る母の顔がどんなに輝いていたか。今思えば母にとって兄は『生き甲斐』そのものであり、将来に一切の夢を託していたのだろう」と登美は回想している。

 少年期の武一は、時に頭のよいことを誇らしく思い、褒められるとうれしく感じることもあっただろう。だが、登美の回想の中の、母親の息子へのまなざしは、思春期を迎えた武一にどのように受け止められただろうか。かつて多田茂治の著書の中で「兄はそんな母を嫌っていました」という登美の証言を読んだことがある。自分を生き甲斐に思う母のまなざしの中に、武一は、鋭く虚栄やある種の欺瞞を見てとったのではなかったか。そして、それは「原体験」ともいうべき衝撃をもって、武一の心に刻みつけられたのではないだろうか。親は、自我を持ちはじめた子どもが自分をどのように見るかを知らない。親は親ゆえにすべてが許されるのではない。盲目的な親の愛に隠された欺瞞を見抜いてしまう子ども、それが武一ではなかったか。

 彼は生涯、「本を読む」ことから離れられなかったが、実質の伴わない知識を崇拝する人間や、知識を持つというだけで近づいてくるような人間を嫌い、無意識にも警戒したのは、心に刻みつけられた記憶ゆえではなかったろうか。武一は、「知識」は持たないが、真撃に生きる貧しい人々の中で、自分も共に「一粒」になって生きることを希求したように思う。だが、人々は、「知識」を持った彼を、彼が願うようには遇してくれなかった。彼は「孤独」に生きるよう決定づけられていた。

 武一が中学四年生の秋、母親が亡くなる。中学でも成績抜群で、特に英語が優れていた武一は、四年修了の時点で三高を受験するよう勧められたが、「結局五年卒業をして京都の古い商家の長男としてのしきたりに従い、家業を継ぐため薬専へ行くことになった」。薬専、すなわち京都薬学専門学校には無試験で入学し、在学中は特待生で通している。薬専を卒業するとすぐに、武一は大阪堂島の高橋盛大堂薬局に住み込みで勤めに出ている。家業の薬種業見習いのためであった。だが、武一が家業の薬種商を継ぐことはなかった。武一は、この時、大阪に出て以来、ついに生家に暮らすことはなかった。

 徴兵検査で第一乙種合格になった彼は、昭和14年春、伏見歩兵聯隊に入営。優れた語学の才能があったことから、奈良の陸軍露語教育隊に派遣される。そこでも成績優秀であったため、さらに高等科のある東京教育隊に派遣され、一年半の課程を終えた後、昭和16年の夏、満州へと発つ。ハルピン特務機関の白系露人工作班に配属された武一は、昭和17年4月、現地で召集解除となるが、日本へは帰らず、そのまま満州に残って東安省立防疫所に赴任する。防疫所の技手となった武一は、省立病院の桑局を手伝う一方、医師養成所のロシア語講師も勤めている。彼はその給料の中から、妹登美の学校の寮費を毎月電報為替で送り続けた。当時はまだ、父親は存命であったが、家計はかなり以前から逼迫していたといわれる。その頃、武一は省立病院の看護婦関谷キエと出会い、結婚。結婚の翌月、父親が心臓麻癖で急死する。知らせを受けた彼はキエと共に急ぎ帰郷するが、密葬が済まされてしまっていた。「遺体をそのままで待っていてほしかった」と、武一は怒りをこめて泣いたという。

 武一たちの父親は「少年のような純情さと無気力非現実的なものを持った人」で、妹に婿養子を迎え、家業である薬種商をその人に委ねてしまっていた。彼らの生家には、義叔父・叔母夫婦とその家族も共に住まっていた。もとより武一は、自己の立場や跡取りとしての「権利」を主張し、争うことを考えるような人間ではない。むしろ「長男・跡取り」という桎梏や呪縛から解放されたとの思いを抱いたのではないか。武一には妹が二人あり、すぐ下の妹は他家に嫁いで自らの「居場所」を得ていたが、父親の死によって、武一と登美には、現実として、帰るべき「家」がなくなってしまったのである。このことが、その後、兄妹のそれぞれの人生に、形を変えて影を落とすことになる。帰るべき「家」を持たないことは思いのほか辛い。このとき、二人は、まだそのことに気づいていなかった。ただ、武一にとっての唯一の気がかりは妹登美であったろう。自分と酷似した性格を持ち、幼い時から自分を慕って、自分を手本として生きてきたような妹登美が不憫でならなかったのではないか。妹に対して、生家を守ってやれなかったとの思いが、その後の武一の負い目にならなかったとは言い切れない。

 武一は、妹登美を東安に呼ぶ。登美が東安に行った時、武一はすでに、東安での仕事を捨て、出産間もない妻キエと幼い息子の武彦を官舎に残して、三江省の開拓村、パフリ村に単身入植していた。武一は満州に配属された当初から、開拓団入植の村々のほとんどに医者がいないことに強い関心を抱き、京都薬専出身という学歴から、「開拓医」としての入植を望んでいたといわれるが、実際に入植したときは、一介の開拓民としての入植であった。妹が落ち着いたのを見届けた武一は、開拓村に戻って行く。翌早春、春を待っていたキエと幼い息子武彦が合流し、開拓村での親子三人の生活が始まる。

 武一の「戦い」が生活上に明確な形をとって表れたのが、この開拓村への入植であったように思う。彼の開拓村への入櫃を、多田茂治は、東安防疫所時代に関わりを持たせられた可能性のある「七三一部隊の黒い影からのがれるためとも考えられるが、満州開拓移民の侵略的側面にまでは思考が及ばなかったのだろうか」と書く。七三一部隊の所業を知っていた武一が、その悪魔的所業への荷担を「拒否」し、東安での生活のすべてをなげうって入植したように捉え、それに際して、満州開拓移民の侵略的側面に武一の思いが及ばなかったことを訝しく思っているようだが、はたしてそうなのだろうか。

 武一には、中学四年修了時、三高への進学を断念せざるをえなかった経験がある。この経験から彼は自分ひとりの努力や思いではどうすることもできない「壁」のあることを思い知ったのではなかったか。その「壁」が、一人の力では到底打ち破れる種類のものでないことを知った武一は、限界の中で戦うことを選んだ……。それは、自己自身に対する妥協のない「戦い」の始まりであった。だが、この「戦い」は武一自身にも、常に明確に意識されていたわけではないだろう。それは、時に葛藤、時に懊悩と名を変えてたち現れ、時に放棄さえしたくなるような苦い思いを残す「戦い」であったにちがいない。

 大きな力の前で、場合によっては潰されかねない状況の中で、武一の戦いは、まず、初年兵にスリッパビンタを、決して行わないという行為となって表れる。また、専門学校を卒業していた武一には、幹部候補生に志願する資格があったが、彼は決してそうはしなかった。さらに、束京教育隊を修了した際にも、参謀本部要員として内地残留を命じられるが辞退し、外地に赴く仲間たちと行を共にしている。東安での生活を捨て、開拓村へ入植したのも、その延長線上にある彼の戦いではなかったか。侵略戦争の犯罪性に、武一が思いを致さなかった、考えてもみなかったとは私には思えない。それよりもむしろ、武一は、満州への移民政策にのらざるを得なかった貧しい農民たちと共に、その犯罪性をも共有しようと、入植を決意したのだと考えるのは、あまりに穿ちすぎだろうか。

 だが、開拓村の実際の生活において、武一自身「本」から離れられなかったうえ、農業経験のない彼は疎外され、孤立していったといわれる。貧しい人々と労働を共にし、「一粒」になって生きることを切望していた武一の「孤独」は深かったにちがいない。

 昭和20年8月9日、ソ連が参戦し、武一一家と登美の上にも混乱が襲いかかり、過酷な逃避行が始まる。そうしたある日、開拓団難民の保護活動を続けていた武一は、避難先の男性たちが働きに出た帰り道、ソ連軍に連行されたのを、ソ連軍司令部に交渉して全員を助ける。だが、彼自身は特務機関時代に関わりのあった白系ロシア人に誰何され、連行されて、シベリアに送られてしまう。

 シベリアに抑留された人々の、精神にも肉体にも過酷な日々は、平時に暮らす我々の想像をこえるものがあったにちがいない。そのシベリアにおいて武一のとった行動は、抑留生活を共にした人々の記憶に鮮烈に残ったようである。その一つに、次のような話が伝えられている。ラーゲリでは収容施設から作業現場への行き帰り、隊列を組ませられるが、武一は「どんなばあいにも進んで外側の列にならんだ」という。行進中に蹟くなどして列の外に出た場合、逃亡の意志がなくても、隊列の前後左右にいる警備兵が銃弾を浴びせるという状況下にあってもである。虚妄の「知識」を嫌悪し、虚栄や欺瞞を排して、自身の戦いを戦ってきた武一にとって、身を寄せるべきは望まないのに死に赴かざるを得ない人々であったにちがいない。ならばその人々の側に身を置き、最も死に近い場所に自分が立とうというのが、武一の戦いの究極の形であったのだと思う。それは、あくまでも彼自身の戦いであり、誰かのためにする行為ではなく、そうしている時にだけ、彼の「孤独」は影をひそめたものと思われる。この「孤独」は、もはや武一そのもののように、彼を離れないものとなっていた。「孤独」から逃れるために、武一の「戦い」は壮絶たらざるを得なかったのであろう。

 八年という歳月をシベリアのラーゲリに、自身の戦いを戦い抜いた武一は、生きる自信を失いながらも、帰還を果たす。そして、妻キエの故郷松代で、身も心も穏やかな生活を始めたかに見えたが、ほどなく妹登美にさえ手紙の書けない情態に陥る。長い「沈黙」のあと、武一は妹登美に書き送る。

久しぶりに手紙を書きます。自分でも少し元気が出てきたからです。といふのは家で収穫の農作業が始まってから自分も毎日父や弟の嫁等と一緒に山へ出て、(この辺りの地勢で田もお宮の石段を六十段上って更に又坂を登って行った辺りにあるカ)らです。)皆の仕事の手伝いが出来ることで孤独感から大いに救われてゐること、もう一っは近く就職の見込みがあるからです。

 キエとその家族に包まれての穏やかであるべき生活の中で、何ゆえの「孤独」か。政義氏の夫人にお目にかかった際、「ここの父が、ほんとなら武一さんはキエが結婚できるような人ではないと言っていました」とおっしゃるのを聞いた。今とは異なり、看護婦という職業が低位に位置づけられていた時代、しかも自分たちは越後の山間に暮らす田舎者であるという、キエの父親の、当時としては地方に住む人々が一般に持っていたであろう意識が言わしめたことばであると考えられるが、それを言わせてしまう自分に、恐らく武一は傷つき、孤独感に包まれたにちがいない。だが、武一は、それよりも更に大きな衝撃を受けていたのである。

 自分が四月こちらに来て僅かニケ月程で敗退したのは、精神的には自分の能力に対する一種の虚栄心といふべきか、劣等感といふべきか、その様なものに自分が圧倒されたからです。《眼高手低》といふ言葉があります。自分が目指すところは極めて高く遠いが、それに到達するための所有手段は極めて貧しいといふことでせう。これを自覚したとき、自ら発奮努力して遂に立派な手段を自分のものとして目的に到達する人もあるでせう。(略)自分は残念ながらその様な道を辿る中途で失敗したものです。(略)《目標》が観念のお化けになって自分を倒したのでした。お化け的な観念を持つのは、一種の虚栄心の産物でせう。志向努力を放棄するのは劣等感に負かされたからでせう。自分の生来の能力に関する一種の虚栄心、これは或る意味で自分達の年少時代の生活一学校の通知簿の評点が人生の最高唯一の価値であると思はされたあの頃の愚かさよ。

 自分が抑留生活の間、或る程度、真面目な働き者、そして勉強家(本を読むこと、活字カ)らの知識が多いこと)と一部の人々から思はれたのもその様なポーズを自分にとらせた一因はこの虚栄心でした。つまり自分はもう幼少年や学生ではなく、既に妻子ある大人であり、しかもあの厳しい生活條件――人間をすっかり裸にしてしまうと思はれる捕虜生活の中でも自分は虚栄の皮をかぶったポーズをもった人間だったといふことです。だからあの生活で自分が敬意を払ったのは、すっかりむき出しの人間性を発揮した人々でありながら、その人達には真に近付く勇気がなく、多くを語り合ふ機会を持ったのは、ポーズを持った人々であったと云へませう。純真な人々の中には自分のボーズに欺むかれて近寄って来た人も二、三ありましたが。劣等感といふのは、自分の場合、生理的状態にかなり影響される様です。(略)自分の能力、業務の成果に身の程を越えた望みを持たなかったら、日本で一番劣等な薬剤師たることに甘んじる勇気といふか、悟り一一これが劣等感と虚栄心にとらはれてゐる時には、この世で最もいやしむぺきものと考へられるのですが――があれば自分は職を失はずにすんだし、そしてその間には徐々に立ち直って実際にこの世で一番劣等な薬剤師であることもなくなったでせう。と今考へるのです。

 この頃、武一は十日町診療所に勤め始めていたが、二か月程で敗退する。自分の中にある自己欺瞞、虚栄心に気づき、圧倒されたのである。それを、妹登美への書簡の中で語っているのがこの文面である。四か月あまりの沈黙の間の心を整理するように、武一は妹登美に内面を吐露する。それまで他者の中にある欺瞞や虚栄心を鋭く見抜き、嫌悪し、拒絶してしてきた武一であったが、紛れもなくそれと同じものが自身の内に巣くっていたのを知ったとき、彼の受けた衝撃は、存在の基底を揺るがす怒涛のごとき圧倒的な強さをもって押し寄せたのではなかったか。言いようもなく打ちのめされた武一は、激しくおのれを恥じる。そして、ラーゲリでの「人間をすっかり裸にしてしまうと思はれる捕虜生活の中」においてさえ、自分は自分を欺き「虚栄の皮」をかぶってポーズをとって生きてきたのだと、容赦のない眼で自己を批判する。それまでの人生のすべてを否定し去る激しいことばである。そこがラーゲリであれば、武一はまちがいなく、明確に「死」を選んでいたであろう。だが、素朴でどこまでも穏やかな環境の中、「毎日父や弟の嫁等と一緒に山へ出て、皆の仕事の手伝いが出来ることで孤独感から大いに救はれて」いくのである。山間の農村の地道な日々の営みの中で、自分もその営みに加わり労働することによって、理屈ではなく武一は救われていく。自分もまた欺瞞や虚栄心に満ちた一人の人間であること、自身のこれまでの生き方が「眼高手低」であったことを認め、それらを自らのものとしてそのままに受け入れようとする武一の心の中で、何かが解け始めていた。生への意志、妻キエとの関係をハイリッヒなものにしようという意志が、武一の心の中に芽生える。だが、それでも自責の念と不安は、簡単には武一の心を去らなかったのだろう。自分は生を許されるのだろうか……、自分は生きるに値する人間なのだろうか……、そうした思いが武一にある種の「権威」を求めさせたのではないか…………

 ようやく睡魔に導かれ、いつしか眠りに入っていた。それが何時になっていたか知らない。


 目が覚めると、7時少し前であった。窓辺に立つと、外は雲の多い空模様であったが、遥かな山の中腹に雲が下り、淡い色の水彩画を見るような景色が広がっていた。

 朝食のテーブルからは黒姫が眺められた。朝の食事はどこでも似たようなものであるが、食材にひと手間加えられているのがうれしい。食事の世話をしてくださる「職員」の方の笑顔も好ましいものとして心に残った。

 宿の車で松代駅まで送っていただく。駅のブラットホームに立つと、今は国道253号線となった大島への旧街道が西へと伸びているのが見える。猛吹雪の中を、雪の谷底へと吹き飛ばされるかと思われるような苦労をして、武一はこの道を高田へと向かった。どのような風にも「呼吸」があり、間合いがある。容赦なく吹きつける風の間合いをよみながら、体を起こされないよう身をかがめ、一歩一歩前へと進む武一の姿がそこにあるような気がした。それは武一の心がたどった人生の道のりのように思われた。大島からバスに乗ると、高田はそう遠くはない。高田は武一再生の地である。

 直江津に向かうほくほく線の列車は、前日よりも更に乗客が少なく、心細くさえあった。高田へはいったん直江津に出なければならない。直江津から高田への列車は接続が悪く、二時間近くの待ち時間がある。バスを捜すことにして駅の構内を出た。どことなくガランとした駅前の通りに立ったが、バス停は見当たらない。観光案内所に駆け込み、案内を請い、駅から少し離れたバス停へと急いだ。バス停は寂れた商店街の入り口近くにあった。バスの車窓から見る拡幅された道沿いの風景は、もはや地方の特色を留めず、何の興味も湧かなかった。

 高田の駅前は、初めて踏んだ地であったにもかかわらず、かつてはこのような場所ではなかったはずだと、強く思わせるものがあった。人の暮らしが抜け落ちてしまっていた。駅の前面も、雁木によって雪国のたたずまいを演出したという新しいものだったが、壁の白さと木材の茶色のコントラストがことごとしく、どうにも落ち着かなかった。お手洗いが汚れているのもかなしかった。

 北国の夏の終わりはどこか寂しい。その寂しさが旅情をそそる。だが、平板で一様になってしまった町の顔に旅情を感じさせるものは何もない。人の暮らしが変わり、人の心が変わってしまった今、「旅の思い」を求めること自体、時代遅れの感傷というものかもしれない。

 この日は、武一の下宿先である緑屋旅館と勤め先であった県立高田中央病院、そしてその傍の高田教会、また、登美が武一の死後、兄の面影をもとめて高田を訪れた際に立ち寄ったという高田公園を訪ねるつもりであった。だが、求める建物や場所は残っているのだろうか、不安がつきまとう。まずは市街の地図を手に入れなければならない。駅の観光案内所に行く。案内所では、県立高田中央病院はすでに移転し、その跡地には郵便局が建っていることを教えられる。だが、緑屋旅館と高田教会はわからないとのことであった。案内所を出た私たちは、外のベンチに腰掛けて電話帳を繰り始めた。高田教会は移転さえしていなければ、もとの中央病院の「向かい」にあることがわかっているので、郵便局のあたりに行けば見つけられるだろう。だが、縁屋旅館は、今はもうないかもしれない、と思っていると、先に応対してくださった案内所の若い女性が、旅館組合に電話をかけて調べてくださっていた。緑屋旅館は、今も本町一丁目の石田眼科の近くにあるとのことであった。高田教会についても、どこかに電話をかけ、移転していないことを確かめて地図上に印を入れてくださったのである。あとは目的地に向かって行くだけである。親切な案内所の女性に、心からのお礼を述べて案内所をあとにした。

 高田は、この地を流れる関川左岸に築城された高田城の城下町である。城下町の常として、城に近い地区は防衛上の配慮から狭い道が迷路のように入り組んでいるものであるが、高田駅に近いあたりは、さいわい、町屋地区であったようで、道がほぼ碁盤状に通っており、初めての訪問者にもわかりやすかった。地図を片手に、まず、駅に最も近い緑屋旅館に向かうことにした。駅正面から南に伸びる広い通りを西に折れると、アーケードふうの落雁木が家並みに沿って続いており、「雪国の街」の面影を残していた。だが、この古い街並みには酒房が散見され、昼間の通りは人影もまばらで、うら寂しさが漂っていた。そのうえ、家々の前の雪解け水を流す側溝が、遅れてやって来た今年の夏の暑さで臭気を放ち、一層わびしさを募らせた。

 それにしても落雁木の通りがこんなにしっかり残っているのに、なぜこれが生かされないのだろう。各家によって異なる雁木の下の道の高さを均し、歩きやすくすることでこの道は残せないのか。本町一丁目への道すがら、汗を拭き拭き考えていた。だが、テーマパークではないのだから、この街に住む人々の生活の不便を考えるなら、勝手なことをいうものではない。自分を戒めつつ、流れる汗をぬぐった。

midori.jpg 本町一丁目は市街の西の端にあり、駅前というには意外に遠い道のりであった。本町三丁目あたりからは、ところどころに新しい建物はあるものの、古い家並みがそのまま残っていて、遠い日の北国の街の思い出が懐かしくよみがえった。一丁目に入って、ふと目を上げると、石田眼科の看板が目にとまった。首を左に向けると斜め向かいの小暗い雁木の下に緑屋旅館の文字が見える。思わず「あった! あった!」と叫んでいた。道を渡って緑屋旅館の前に立つ。急速に変わっていく街の中で、武一が下宿した昭和29年当時と変わらず、建物がそのまま残っていることが奇跡のように感じられた。緑屋旅館が姿を消す前に高田を訪れ得たことを僥倖とさえ思ったのである。建物はそう大きくはないが、頑丈そうな造りであった。入り口の大きなガラスの引き戸に顔を近づけて中を覗いてみると、正面に階段がある。武一の部屋はこの階段を上った二階にあったという。廊下の奥の方から差す自然光が廊下全体を満たして明るかった。豪雪地帯の厳しい冬にあっても、隙間風もなさそうな、温かそうな建物の内部である。短い期間ではあったが、武一はここから県立中央病院に通っている。中央病院へはゆっくり歩いても15分ほどの距離であった。

 緑屋旅館から病院への道は幾とおりかある。武一もいろいろな道を行ってみたことだろう。私たちは二つ目の角を右に折れ、師団長官舎の前の丁字路を左に曲がって、次の角を高田城班の方へと進んだ。こんもりとした榊神杜のお宮の森が見え始めたころ、左前方に大きな郵便局の建物が目に入った。観光案内所の女性が地図に書き入れてくださった高田教会の位置は、郵便局を背に右斜め向かいである。私たちの現在地点からすれば、道路右側の手前にあるはずだがと思って見ると、まるい屋根が特徴的な新しい建物が見える。それが高田教会であった。武一が通っていたころの高田教会とは著しく異なっていそうなモダンな造りの教会の入り口には、小さな紙に「教会におこしの方はここでお声をおかけください」と書いて張ってある。何もかもが新しい教会は武一とは無縁のような気がして中には入らず、教会の外観を写真におさめるにとどめた。

 それにしても、武一はなぜ教会を訪ねるようになったのだろうか。シベリア抑留から帰還して日もまだ浅い昭和28年12月14日、武一は登美への手紙に、

私はハバロフスクでの自殺未遂以来、興安丸がナホトカの岸をはなれた時でも、未だ生きる自信がなかった。(略)先づお前が、私をこの世に片足つれ戻した。そして、キエが、それから京都で松代でのこの数日が、だんだん私を強く強くひき戻しつつある。しかし、この力をそのまま信じ頼りにすることが、正しいとは考へない。この力そのものは一つの意慾であり、盲目的であり、不安であり、破壊的でさへある。(略)真実に自分の生きる力となるためには、この力が別の権威によって浄められなければならぬと考へた。

と、書いている。登美が考えるように、自分をこの世に強くひき戻しつつある「力」を浄めるための「権威」を求めてか。「生きる自信がなかった」からか。生の許しを請うてか。魂のやすらぎのためか。あるいは、「本」に代わり得るものとしてか……。どれも陳腐な気がする。しかし、どれもが当たっているような気もする。『遺された手紙』には、武一の自殺未遂の経緯については語られていない。だが、自殺を図ろうとした武一の情況を考えあわせねば、思考は偏ったものとならざるを得ないだろう。詳細な記録が出されるのを待ち、改めて考えることにしよう。

 高田教会を背にして立つと、道を挟んで右斜め向かいに、かつては県立高田中央病院があったはずである。角地の、病院の広い跡地には大きな郵便局が、ゆったりとしたスペースをとって建てられていた。ここにも武一を偲ばせるものは何もない。時間の隔たりばかりが強く胸に迫ってくるだけであった。

 郵便局の前の大きな十字路を渡って少し行くと、そのあたり一帯が高田城の城跡を整備した高田公園である。堀には一面に蓮が生い茂り、遅い夏の日差しを受けて、ところどころで名残の花が咲いていた。かつてこの高田公園のあたりには、終戦後の不法占拠のバラックがたち並んでいたといわれる。昭和29年、小学二年の日々を大阪に過ごしていた私には、その光景をはっきりと思い浮かべることができる。武一もそうした光景を眼にしたにちがいない。当時の生活が人々の記憶から遠ざかり、忘れられて久しいが、戦後の混乱の中で北国の厳しい冬をバラックに過ごした人々がここにいたのである。

 汗を拭き拭き公園の周りを歩いた私たちは、再び汗を拭き拭き高田駅へと歩いて戻った。お昼になっていた。だが、宿に行くには早すぎる時間である。バスターミナルでベンチに腰掛け、外を眺めて時間をつぷした。夏の日差しが路上に照りつけていた。

 この日の宿は、高田駅から小一時間バスに乗り、バスの終点からは宿の迎えの車で急坂を行くという、文字どおり奥深い山の中の「深山荘」という名の公的宿泊施設である。予約に際して、本館か新館かを訊ねられ、違いを聞くと、お手洗いが部屋についているか否かの違いだということであった。お手洗いが外にあっても苦にはならない。本館は新館より1000円安い。少し不安だったが、食事は変わらないということだったので本館を予約した。

 通された部屋は広い部屋で、畳の数を数えると15枚あった。部屋の中央に置かれたテーブルの前に座ったが、落ち着かなかった。新館にすればよかったかなとの思いが頭のすみをよぎる。だからといって不満があるわけではなかった。晴れた日には日本海まで見渡せるという温泉の大浴場へ行ってみたが、このところ毎日来るという驟雨のために眺望はきかなかった。しかし、ここでも大きな湯舟にひとりの贅沢を味わう。食事は魚料理の多い献立であった。

 翌朝、深山荘で働く村の若い「おかあさん」に車でバス停まで送っていただき、高田に戻る。高田駅のプラットホームは昔のままだという。黒い車体を軋ませ、白い蒸気を吐いて止まった汽車のステップから、武一はこのホームに降り立ったものでもあろう。武一の「戦い」はようやく終わりに近づいていた。


takada.jpg 高田駅のプラットホームに立ち、直江津への列車を待つ間、私は松代再訪を心に誓っていた。武一 の、松代でのキエヘのまなざしはやさしい色を湛えている。

ネオンのない自動車の警箇のない、広告のない、アクセサリーのない土地、半月の淡い光りに照らされ、雪に覆われた田舎家、背後の疎林、谷水の音。
 キエと手をとって村道を歩きながら、これが現実とは信じかねました。獄屋の鉄窓をもれて入ってきたあの月光、そして東安の月を思ひ出す今、人生には幅があることが自分にわかりました。《人生の幅》を自分達は「歴史の歯車」の回転によって思ひ知ったのですが、自分達自身がこの歴史の歯車の回転に加はるため(略)とに角、キエの犠牲に於て自分だけ先へ進むことは全然意味のないことです。

 キエはどのような人物であったのか、そして、キエの武一に対する思いは……。武一とキエとの間に交わされた情合い、それがわからなければ真の意味での武一像は結べない。妹登美の目を通して見た武一ではない武一の姿を捉えなければならない。そうして初めて、一人の人間が時代を生き抜くということがどのような意味を持つのか、掴めるような気がするからである。


 帰途の車中では、老年期にさしかかったと思われる旅行者の一団がさんざめき、けだるそうな恰好の若者はしどけなく足をなげだして、列車の揺れに身をまかせていた。人気のない9月の日本海の景色が車窓を流れていく。遅い夏の終わりは見えなかったが、やがて来る冬の季節には、この海も大きく相貌を変えることだろう。私は自分の振り子は、どれほどに振れるのだろうか。気がつくと、私は自分の「人生の幅」について考えていた。


forward.GIF野次馬小屋/目次