[解題]
2003年10月19日、北白川教会での講演レジュメ。




屹立する言葉

 詩人・石原吉郎の言葉は、わたしの心を突き刺し、魂を引き裂かないではおかない。それは例えば、次のような言葉である。――

適応とは「生きのこる」ことである。それはまさに相対的な行為であって、他者を凌いで生きる、他者の死を凌いで生きるということにほかならない。*1

 「凌ぐ」という言葉を、このように使った者は、おそらく石原を措いてほかにはいないであろう。

 「凌ぐ」には、正反対といっていい2つの意味がある。ひとつは、「押しふせる、押しのける、乗り越えて進む」という意味である。ここでは、生きるとは、他者に死んでもらうということになる。他者に死んでもらうことによってしか、ひとは生きながらえ、生き残ることができないというのである。「凌ぐ」のもうひとつの意味は、「雨露を凌ぐ、飢えを凌ぐ……」。つまりは、他者を耐え忍んで、他者の存在を我慢して、生きるという意味になる。

 この2つの意味を充全に包摂しているのが、石原の上の言葉である。

 飢えた2人の人間がいるとする。彼らには、その飢えを満たすにはあまりに不充分なパンしかそれぞれに与えられていない。そういう場面で、その一人がもう一人に、自分のパンを与えるという善行は、自分の死を意志せずしては行いえない。そこでは、善行への意志は、死への意志と同義である。石原吉郎は、シベリアのラーゲリで見た鹿野武一という男の中に、善への意志すなわち死への意志と、なりふりかまわぬ生の本能とのすさまじいせめぎあいを、見ていたように思う。

 しかし、その「場面」とは、じつはそれほど単純なものではない。石原はそのことを明確に書いているのだが、われわれ読者は見落としてしまっている。それは、彼らラーゲリの「囚人」たちには、ノルマが課せられていたという事実である。1人がパンを拒否すれば、もう1人は2人分のパンを食べることができる。だが、それと同時に、2人分のパンを食べた者は、2人分のノルマをも引き受けなければならない。そしてそれは、ほとんど確実に死を意味する。

 そこでは、死を賭けた善行も善行にはならず、善行を施された者にとっても死を招くわざわいとなる。そういう中で生き残ること――それこそが「他者の死を凌ぐ」ということの意であろう。

 死者にとっての無念とは何か?と石原は問う。死者にとっての唯一の無念とは、生き残った者が、今もまだ生きているという事実である。

死者がもし、あの世から告発すべきものがあるとすれば、それは私たちが、いまも生きているという事実である。死者の無念は、その一事をおいてない。*2

 ラーゲリを生きのびた石原吉郎の言葉は、そのひとつひとつがわたしの心に突き刺さり、魂を引き裂く。そうであるにもかかわらず、いや、そうであればこそ、わたしにとって、石原吉郎の言葉は、慰めとなり、支えとなる。それは、例えば次のような言葉である。――

それは闘争というような救いのある過程ではない。自分自身の腐食と溶解の過程を、どれだけ先へ引きのばせるかという、さいごにひとつだけ残された努力なのである。*3

 「それは」という指示語の内容は何でもよい。大切なのは、闘争にはまだしも救いがあるということ。ただし、生きるということは、闘争というような救いのある過程ではないということである。そこには敗死しかない。だから、「背負えるだけのものを背負って、そこにうずくまれ」とも石原は言う。

 これらの言葉は、わたしにとっては心の支えであった。あったというのは、もはやわたしは現実的な闘争の場面にはいないということでもあるが……。

 その当時、わたしは、「腐食と溶解の過程を」先に延ばすということばかり考えていた。しかし最近は、"腐食し、溶解しきればどうなるのか"という疑問の方がしきりに心にかかる。腐食し、溶解しきれば、俗悪ではあっても何の煩いもなく、日常を生きられるのか?

 否であろう。石原吉郎が「腐食」「溶解」というとき、それは、生き残ること、生きながらえることを意味してはいない。人間は、生きているかぎり、生き残った存在にすぎないのだから。

生きのこるということは、「死にそこなう」ことである。死にそこなうことによって、それは生きそこなう。*4

 そして、腐食と溶解の過程を最後まで行きつけば、それは自死しかあるまい。

 1977年11月14日、石原吉郎は、浴槽ですでに死亡しているところを発見された。入浴中に心不全で死亡したとされる。享年62歳であった。

 石原吉郎死すと聞いたとき、わたしは自殺だと思った。今も、少なくとも自死だと信じている。そしてそれは、腐食と溶解の過程を最後までたどった姿であろうと。

 興味深いことに、鹿野武一の妹・登美も、石原吉郎の死を、さりげなく「自死」と書いている*5。しかし、登美がどういう意味で「自死」という言葉を使ったのかは、手掛かりとなるものはない。

 石原吉郎の死から、さかのぼること22年、1955年3月2日早朝、鹿野武一は、新潟県高田の県立中央病院に薬剤師として勤めていたが、そこの宿直室で急死している。享年37歳、心臓麻痺であった。

 張りつめた弓の弦は切れるという。しかし、わたしは、張りつめた弓の弦は切れるのではないと思う。ただ緩むだけだと。その緩んだ弦を再び張りつめて、緩めばまた張りつめ、そうして張りつめ張りつめしていって、ついに弦が切れる――自死とはそういうものにちがいない。

 石原吉郎のエッセー集は、4つないし5つ出版されているが、世に知られるようになったのは、第1エッセー集『望郷と海』(1972年刊)によってである。以降のエッセー集は、この第1エッセー集を超えるものではない。

 この第1エッセー集の中における鹿野武一という男についての証言「ペシミストの勇気について」が、石原吉郎のエッセー集の核になっているといってよいだろう。

 しかし、「体刑と自己否定」の中で、石原は、「彼〔=鹿野武一〕について正確な証言を行うことは困難、というよりは不可能に近い」と言い、「わからない」を繰り返している。にもかかわらず、石原の描いた鹿野武一像は、独り歩きをはじめた。詩人・石原吉郎の潤色によって、武一像はより鮮明に実像を伝えられることになったのか、それとも実像を歪曲しているのか……。

 「ペシミストの勇気について」の中で、読む者に衝撃を与えないではおかないのは、メーデー前日の出来事である。すなわち、メーデーの準備のため、日本人の「囚人」たちは「文化と休息の公園」の清掃と補修作業に駆り出される。そこを「たまたま通りあわせたハバロフスク市長の令嬢がこれを見てひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡した」。この慈善を受けた「囚人」たちの中に鹿野武一もいたのであるが、彼は生きる意欲を喪失し、絶食をはじめる。飢餓すれすれすれの囚人たちにとって、絶食はそのまま死を意味する行為であった。「人間のやさしさが……人間を死に追いつめることもできる」と石原は言う。

 鹿野武一が絶食を始めて4日目の朝、石原は、鹿野に絶食をやめさせるため、「いやいやながら一つの決心をした」。つまり、鹿野に向かって、今日からおれも絶食すると通告し、絶食をはじめたという。「いやいやながら」であったのは、それが見え透いた方便だったからである。鹿野武一という男は、「そういうことに耐えられないと見こしてやった事」(p.103)だったからである。その日の夕方、鹿野が来て、いっしょに食事をしてくれと頼む。

 これのどこに、どのような潤色があるのか?

 武一が急死したとき、石原吉郎は、武一の妻・キエに宛てて、洋罫紙16枚におよぶ手紙を出している。だが、この手紙は、石原吉郎著作集のどこにも収録されてはいない。石原はこの手紙で、鹿野武一との出会いからその別れまで、できるかぎり忠実に事実を報告しようとしている。

 石原吉郎は、メーデーの前日の出来事について、キエ宛の手紙に次のように書いている。――

 その翌年、二十六年(1951)の五月だったと思います。私のところへ、今まで一度も口をきいたことのない志田君がやって来て「鹿野君が急に飯を食わなくなったがどうしたらいいだろうか」と言うのです。話を聞いて見ると、その日、(たしか五月の二日か三日ごろです)作業場で、昼食時になって、急に鹿野君が、「俺は今日から飯を食わん」と志田君に言って、それを実行しはじめたらしいのです。私はすぐ鹿野君の寝台へ行って見ましたが、鹿野君は石のように黙って、全然返事をしないので、仕方なしに戻って来ました。

 幸い、この絶食は二日位いで終ったといって、志田君が大嬉び[ママ]で私に報告に来ました。その晩、はじめて、鹿野君は志田君に、絶食の理由を話したそうですが、丁度メーデーの祭日の前日に、ハバロフスクの文化公園の飾りつけに鹿野君たちが動員されたのだそうです。その時、若い娘さんが、この外国人の囚人を見て、可哀そうに思って、一人一人にパンを配ってやったそうですが、感じやすい鹿野君には、これがひどくこたえたらしく、一途に生きるのがいやになったというのでした。

 石原と鹿野は、魂の共振するがごとき友情を交わしながらも、何度か絶交をしている。他者の内面にあまりに深く立ち入った者は、時に乖離しなければならないのだ。このときも、石原と鹿野は一種の絶交状態にあった。当時、石原に代わって、鹿野といつもいっしょにいるようになったのが、上にある「志田君」である。『シベリア抑留を問う』(勁草書房)の著者・志田行男のことであろう。しかし、志田のこの書には、鹿野武一のことは一言も触れられていない。文化公園の出来事は、石原が鹿野から直接聞いたわけではないことだけ、指摘しておこう。

 「ペシミストの勇気について」の記述で、3つの点を指摘したい。

1)パンを配ったのは、市長令嬢ではなく、単に「若い娘さん」である。
 これは、どうでもよいことではない。有り余るものを持った市長令嬢が、その有り余るものの中からパンを分け与えるのと、ごく普通の若い娘が、乏しい中からパンを分け与えるのと、人間の「やさしさ」はどちらが深いか? もしも、石原の言うとおり、「人間のやさしさが……人間を死に追いつめる」とすれば、「若い娘さん」の方をこそ採るべきではなかったのか? これは、武一の絶食にどのような意味があったのかという解釈にかかわる問題である。

 石原の表現意図は、明らかに、市長令嬢と日本人俘囚たちとを対比するところにあったといってよい。かたや、身も心もぼろぼろになって、今や生きるためだけに生きているような、あさましい、いやしい囚人の群がいる。かたや、気高く、美しく、しかもやさしさをたたえた市長令嬢がいる。この対比こそ、石原のねらったものであろう。

 そして、生の本能の次元にまで墜ちた、なりふりかまわぬ、いやしく、あさましい生き方に、否を突きつけたのが鹿野武一だった、と石原は解釈したいようである。

 善を行うことによって、肉体は滅びるかもしれないが、その代わりに永遠の生命を得る、などという教説は、彼らのシベリアにおける体験がこれを拒否した。善を意志することが死を意志することになるという情況下で、敢然として善を行うということは、死をも自分の意志の制御のもとに置くことにほかならない。それは、あたかも、自分の息を止めて死んだあるストア派の哲人のごとくである。生と死、すなわち、善への意志と生の本能というすさまじい葛藤の中に、武一という人間像を見ようとしているのが、石原吉郎ではなかったか。そして、毅然として生を拒否する武一の姿に、彼は精神性の高さをみたのであろう。

2)生も死も自分の意志の制御下に置く武一――このことは、やはり同じエッセーの冒頭部において顕著に見られる。「ペシミストの勇気について」の書き出しはこうである。――

 昭和二十七年五月、例年のようにメーデーの祝祭を終ったハバロフスク市の第六収容所で、二十五年囚鹿野武一は、とつぜん失語状態に陥ったように沈黙し、その数日後に絶食を始めた。絶食は誰にも知られないまま行なわれたので、周囲の者がそれに気づいたときには、すでに二日ほど経過していた。絶食はハンストのかたちで行なわれたのでなく、絶食中も彼は他の受刑者とともに、市内の建築現場で黙って働いていたため、発見がおくれたのである。

 誰にも知られず絶食し、皆と同じように労働に従事する鹿野武一――ここには、死をも完全に自分の意志のコントロール下に置いた武一像が強調されているといえる。

 しかし、石原の手紙によるかぎり、武一が「誰にも知られないまま」絶食を行ったことはない。第1回目の絶食(メーデー)の時は、「俺は今日から飯を食わん」と志田に言っているし、1952年冬の絶食の時は、「収容所長に請願書を出して、自分は今后、労働をしないが、その代り食事もしないという意志を伝え」たことになっている(p.103)。

 請願書を出した! これがいかに重大なことであったかは、初めに述べた。彼らには厳しいノルマが課せられていた。一人が食わなければ、他の一人はそれだけ得をする、しかし、ノルマが課せられているから、一人が抜ければ、他の者は二人分働かなければならない。そこに、他者の死を願いながら、他者と連帯していかなければならないという、ラーゲリの在りようがあった。「他者の死を凌いで生きる」とは、そういう意味にほかならない。だからこそ、武一の行為はハンストととられて、厳しい取り調べを受け、ついに、「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」という言葉をはくことになる。

 とにかく、誰にも知られず絶食したというのは、石原の明らかな潤色である。彼はなぜこのような潤色をしたのか? あるいは、マタイ6_16が彼の脳裡をよぎったのかも知れない。

 なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく悲しき面容(おももち)すな。

3)シベリアのラーゲリで、その極限的な状況で、鹿野武一が行った絶食という行為は、1度ではなかった。石原がおこなった最大の変容は、鹿野武一の2度の絶食を1度にまとめたことである。すなわち、2回目の絶食の理由を、石原は知らない。そこで、理由のある第1回目を中心に据え、これを直接に聞いた志田を抹消、石原が絶食につき合い、武一を死の淵から助け出すという、感動的な話につくりあげた。

 しかし、それによって矛盾も生じよう。もしも、石原のいうとおり、武一の絶食が「人間のやさしさが……人間を死に追いつめる」結果なら、自分のために死を賭して絶食につきあってくれた友・石原の好意を受けたときにこそ、かれは死に追いつめられねばならなかったのではないか? 

 1953年12月1日、シベリアのラーゲリを8年間生き抜いた鹿野武一は、石原吉郎ともども、舞鶴港に降り立つ。そして、援護局の宿舎で、武一は妻・キエ宛に、長い手記を書く。この手記は、ありあわせの用紙9枚の裏表に細かく鉛筆で書かれ、「キエよ、私が言……」で切れているという*6。

 この中で、武一は「死への慾望につかれた」と書いているが、初めからそうだったわけではなく、石原が8年の抑留生活の中で最悪の1年という、バム地帯でのラーゲリを経験した後ぐらいからだと言っている。そして、はっきりと、自殺未遂は、今年(1953年)1月24日のことだと言う。

 これは石原が手紙の中で言う、昭和27年冬のことであろう。つまり、その前のメーデー前日のハバロフスク公園での出来事とその後の絶食〔昭和26年5月〕は、武一の意識の中では、自殺とは位置づけられていないということである。

 また、石原の、おれも絶食するという一言は、絶食をやめる大きなきっかけにはなっているが、そればかりが自殺を思いとどまった理由でないことも、武一のこの手記からわかる。武一はこう書いている――

 しかし自分の企ては遂行されなかった。幾多の人が私の所に来て種々の言い方で自分を思い返そう[ママ]とした。或る人が自分の所に来て、唯一言「お前がどうしても死ぬというなら俺も一緒に死ぬ」といって去って行った。……或るロシア人が、しかもゲ・ぺ・ウ(注・国家政治保安部)の将校がこの問題で私に話したことは、真実に人間的な暖かい言葉であった(このことは別に話すことにする)。

 ゲ・ぺ・ウの将校が武一にどういう話をしたのか、今となっては知り得ない。とにかく、武一はこういう人々の思いを受けて、死の淵から生還したが、死への欲望は、それでおさまったわけではなかった。帰還船のデッキで、夜の海を見つめながら、「自分自身のこの世での存在を一挙に精算する可能な手段を実行する勇気を、自分の身に集める」努力をしている。しかし、それも果たさず、石のように「凝縮」*7した顔をして、舞鶴港に降り立った。

 武一の、「つかれた」ような「死への欲望」――これは、ラーゲリという過酷な環境にあって、なおかつ人間的であろうとした者にとって、共通の心情であったようである。武一しかり、石原吉郎しかり。菅季治も、帰還直後の日記にこう書いている。――

 ひじょうにしばしばわたしは自殺の考えにとりつかれる。自殺からわたしをひきとめているものは何であろうか?……ただ、この世でのわたしの存在だけで安心し喜んでいる人々(老いたる父母)がいる。たとえ「生ける屍」であっても彼らのためにわたしはもう少しこの世に存在しなければならない*8。

 この希死念慮をわずかにひきとめている肉親の情愛をも失ったと感じたとき、もはやひきとめるものは何もない。武一の告白によれば、キエのためにのみ生きてきたが、そのキエを自分は愛せないのではないかと思ったとき、自殺を図ったと告白している。もちろん、理由はそれだけではないだろうが、自分がどうして死への欲望にとりつかれるのか「わからない」と言いながらも、武一が自分で分析し得たのは、そういうことだったのである。

 これに対して、メーデー前日の事件を契機とする絶食は、異質なように思う。その異質さを、石原はよく知っていたはずである。

 昭和25年(1950)秋10月なかば、石原たち「囚人」は、「ハバロフスク郊外のコルホーズの収穫にかり出された」。それは、ウクライナから強制移住された者たちのコルホーズで、そこには女と子どもしかいなかった。男たちは、「ドイツ軍の占領地域に残ったという理由で」、みな強制収容所送りになり、強制労働につかされていたのである。

 やがて昼休みになり、「囚人たち」は軽作業であったことから、帰営後昼食が支給されることになっていたので、待機していた。コルホーズの女たちは車座になって、食事の支度をし、それが終わると、手を挙げて「囚人たち」に声をかけた。「おいで、ヤポンスキイ。おひるだよ」。

 「囚人」は一般市民との接触を禁止されていたので、警備兵の様子をうかがうと、わざとそっぽを向いている。「いきたければいけ」という意味であった。

 私たちは半信半疑で一人ずつ立ちあがって、それぞれのグループに小さくなって割りこんだ。われがちにいくつかのバンの塊が私の手に押しつけられた。一杯にスープを盛ったアルミの椀が手わたされた。わずかの肉と脂で、馬鈴薯とにんじんを煮こんだだけのスープだったが、私には気が遠くなるほどの食事であった。またたくまに空になった椀に、さらにスープが注がれた。息もつがずにスープを飲む私を見て、女たちは急にだまりこんでしまった。私は思わず顔をあげた。女たちのなかには、食事をやめてうつむく者もいた。私はかたわらの老婆の顔を見た。老婆は私がスープを飲むさまをずっと見まもっていたらしく、涙でいっばいの目で、何度もうなずいてみせた。そのときの奇妙な違和感を、いまでも私は忘れることができない。
 そのとき私は、まちがいなく幸福の絶頂にいたのであり、およそいたましい目つきで見られるわけがなかったからである。女たちの沈黙と涙を理解するためには、なお私には時間が必要であった。*9

 石原は、あさましく食事をむさぼり食う自分を見る眼差しに、後で気がついている。気づいても、「奇妙な違和感」としか感じていない。しかし、鹿野武一という男は、そういうあさましい自分をみるまなざしに初めから気づいていたのではなかったか。二人の違いは、この差にあった。

 石原は、武一の「奇妙な」行動を、自虐、自罰、自己処刑……、おどろおどろしい言葉を並べて形容する。しかし武一にとっては、あわれみに満ちたまなざしの前で、ただ恥ずかしく、眼の前のパンにも手が出せなかっただけのことではなかったのか。たとえ、それが自分の死を意味しようとも。

 武一にとっては絶食――少なくともメーデー前日の事件を契機とする絶食は、本当のところは、自己浄化のための「断食」だったのではなかったのか。これが、「人間のやさしさが……人間を死に追いつめる」と石原が言った言葉の真意だったのではないか……。

 このとき、武一は、2日で、絶食を自分から取りやめている。

 詩人・石原吉郎をして、今ある自分に決定的影響を与えたという男――鹿野武一は、石原の思想がわたしたちにとって重要であればあるほど、ますますその実像の探究へとわたしを駆りたてないではおかない。


[註]
*1 「強制された日常から」
*2 「三つの集約」アイヒマンの告発
*3 「三つの要約」日常からの脱出
*4 『海を流れる河』メモ
*5 『遺された手紙』p.4
*6 澤地『昭和・遠い日近いひと』p.272
*7 この「凝縮」という言葉は、石原の「1963年以後のノートから」に出てくる。「いずれにしても、集団をにくむものは、集団の指導者を単独に殺害するか、集団のなかで自殺するか、あるいはみずから疎外して、凝縮するしかない」。
*8 『語られざる真実』1950年2月16日の日記
*9 「強制された日常から」

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