[解題]
2003年10月19日、北白川教会での講演レジュメ。




荒野にたたずむ影

 詩人・石原吉郎の詩は、わたしににとって難解である。鹿野武一の妹・登美においても、事情は同じであったようである。本人がそう記している。

 だが、彼女は、石原吉郎の中に兄の面影を追いつづけるうち、いつしか「詩心」が乗り移ってしまったようである。鹿野登美は、すぐれた感性の持ち主であったと、少なくともわたしはそう思っている。遺された詩はわずかに3篇にすぎないにしても、である。

 3篇の詩のうちの2編は、おそらくは登美がみずからの手で公刊したであろう『遺された手紙』のなかに出てくる。いずれも兄・武一のことを詠んだ詩である。

  問い(石原さんへの)

きわみまで掘りさげた
地底の深みから
あなたは星を見ていた
一つ 二つ 三つ
星たちは生まれかわって
詩になった
「私の兄が詩の中に今も生きづくのは
 星だったからですか」
         五十三年三月二日 兄の命日に

 昭和53年3月というのは、石原吉郎が急死したわずか4か月後である。この4か月の間に、登美は石原からの書簡と、これを去る二十余年前、シベリア抑留から帰還した兄が、急死するまでの1年3か月の間に、登美に宛てた三十五、六通の書簡の中から選んだものと、兄の思い出を記したエッセーとの3部構成の書『遺された手紙』をまとめた。登美は、石原吉郎の急死によって、最も敬愛する「兄」を、いわば2度喪ったと言ってよい。

  灯を

兄さま
いましばらく灯をください
この先は一本道で
さして遠くはないでしょう
しかし 花が咲いても
木の葉がちっても
浮き沈みする
はしたない私
兄さま
いましばらく灯を消さないで

 この2編の詩が載せられた『遺された手紙』の中で、登美は、自分は「《兄という磁場》で生きてきた」と述べている。たしかにこの兄妹は仲がよい。その仲のよさは、魂の深みにおいて共振するといった様子であった。

 この妹は、兄の行くところなら、どこへでもついて行った。当時、進歩的・求道的な青年たち――平和を愛し、高い文化・教養を求める若者たちの理想のシンボルは、国際主義と絶対的平和主義をモットーとしたエスペラントを学ぶことであった。語学が得意だった武一は、これに熱中した。登美もついていって、エスペラントを口まねして、みなを笑わせた。

 百年以上続いた薬種商の4代目として、薬専〔現、京都薬科大学〕に通っていた武一は、生薬に興味を持ち、植物採集に東山に出かけた。そのときの荷物運びに、登美は駄菓子ひとつで喜んでついていった。

 また、薬専の聖書研究会に参加していた武一に連れられて、賀川豊彦、岩橋武夫等の講演会にもいった。そして、それがきっかけとなって、昭和15年(1940)3月、登美は受洗する。登美、18歳のときである。

 登美が遺した詩の第3編めは、『埋葬』の末尾にある。『埋葬』というこの作品は、登美と兄嫁・キエが、満州から引き揚げるとき、飢えと寒さで、1歳にもみたぬ武彦を死なせるが、そのときのことを描いた短いエッセーである。登美が残した作品の中で、作品の充実度という点で、わたしは最も高く評価している。

 この中にある詩は、「窓」と題し、甥の三十三回忌(1978)の折――石原吉郎の死んだ翌年である――、義姉の立場になって書いたとの説明が付け加えられている。

  

木枯しが体を吹きぬける夜は
カーテンをあけたまま眠る
夜半 月が傾き
窓いちめん銀のうろこが凍りつき
冷たい光が
網膜をとおり、胸のあたりをたたく頃
敗戦の年の秋
飢え死にした稚な児が
窓をあけて入ってくる
とおい北満の荒野に
ボロ布にくるんで埋めてきたのに
あかい頬とまるい瞳でじっと見るのだ
抱きよせようと腕をのばすと
月がかげって
暗い窓から子供はひっそり去って行く
あの時 火の玉になって翔んだから魂はないのね
ふとんをかぶり夜明けを待つ
朝やけの窓をあけると
隣家の子供の声が流れ
あわてて閉めてカーテンをひき
荒野となった寝床へもどる

 「33回忌」とは何か? それは、ふつう、「弔い上げ」といわれ、これ以後は死者はカミとなり、死者個人として祭られることはない。つまり、33年とは、ほぼ3世代――今ほどの長寿社会など想像もおよばぬ時代にあって、もはや故人を知る者がひとりもない年として定められたのが、この33年である。

 1歳にもみたぬ甥の33回忌。死者がもはや個人として記憶され、個人として思い返されることのない節目。そのとき、そのことに抗うかのように、登美は、死者の「ひとり」として、甥の死を思い返し、心に刻もうとする。

 石原の有名な言葉――ジェノサイド(大量殺戮)の恐ろしさは、「そのなかに、ひとりひとりの死がないことだ」*1。

 このエッセーで、石原はアイヒマンの言葉「百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ」を冒頭にかかげ、「私は広島について、どのような発言をする意志ももたないが、それは、私が広島の目撃者でないというただ一つの理由からである」と書いた。

 石原のこの「告発しない」という姿勢は、シベリアのラーゲリにおいて、鹿野武一の生きざまから学んだものにほかならない。しかし、この「告発しない」は、さまざまな批判・反発を受けた。そのため、石原は第2評論『海を流れる河』において、「三つの集約」というエッセイを書かざるを得なくなった。その中で石原は再言する、「私たちがいましなければならないのはただひとつのこと、それは大量殺戮のなかの*ひとりの死者*を掘りおこすことである」と。

 クリスチャンである登美が、わざわざ33回忌として書いた詩には、見過ごしにできない意味が秘められているように思う。それは、死者を忘れない、死者をあくまで*ひとりの死者*として記憶にとどめる、ということである。

 この詩において注目したいことは、もうひとつ、登美が兄嫁・キエの立場で書いているということである。俗に、鬼千匹にも匹敵すると言われる小姑と兄嫁の関係にある2人は、武一の死をきっかけに、決定的な別れ方をする。にもかかわらず、20年30年たっても、相手の立場を思いやれるところに、登美の美徳があったと言ってよい。

 そのことを全面的に認めたうえで、そして、登美の遺稿にすべて眼を通したうえで、敢えてわたしは言う。登美は自分の内面を、弱点を他人に決して見せない人物である。兄嫁の立場で書くこともまた自分の内面を人々の眼から(あるいは、自分自身の眼からさえも)見えなくするための方便だったのだ、と。

 兄嫁と自分とを一体化した作品に、もうひとつ、『一杯の水』という小説仕立てのエッセーがある。これの主題を一言でいえば、それは、最も深い意味における「裏切り」であろう。裏切りを主題とした作品には、『一杯の水』があり、『苦いかたまり』という作品がある。

 『苦いかたまり』は、中国残留孤児が母親と生き別れになった場所(ハルピンの小学校)を案内するテレビ番組を見たことから、自分が引き揚げる際に経験したことと、35年ぶりにハルピンを訪問したときのこととを、二重写しにするという手法で語っている。

 『一杯の水』の方は、主人公は「とし子」となっているが、それは兄嫁・キエの経歴を借り、そこに自分を重ねて描いていることは、一目瞭然である。

 登美の身に、最も深い意味における裏切りの体験が起こったのは、「昭和二十一年九月十七日」朝とされる。30年、40年たっても、登美のなかで消えることのなかった「苦いかたまり」、そして、おそらくは、長島愛生園に行くきっかけともなったと思える、その出来事とは何だったのか?

 ハルピンの難民の情況については、ここではとうてい語りつくせない。戦後の中国東北部の混乱の中にあって、登美の兄・武一は関東軍特務機関に所属していたことが露見してソ連軍に逮捕され、看護婦の経験のあるキエは、中共軍に徴用される。登美は病気で生死の境を彷徨ったあげく、病人部隊に入れられる。

 登美が編入された病人とその付き添いの部隊、2000名は、引き揚げ船に乗船するため、白梅〔小説では白百合〕小学校に集められた。これはその年の最後の引き揚げ船と言われていた。これに乗ることができなければ、再び満州の冬を過ごさなければならない。それはほとんど死を意味することであった。

 登美の収容された部屋は、軍人の家族が多く、したがって、そこにはおのずから序列ができていた。その中で、いちばん明るく元気に、みなのために動きまわっている女性がいた。彼女は、自分だけが働かされているということに疑問も持たないらしい。その女性の名は吉野という。彼女には「就学前後」の息子がいた。この女性は、ほかの女性のうわさ話から、どうやら「満州妻」らしいことがわかる。

 とし子は、日本にいる本妻という人をいろいろ想像してみたが、吉野さん以上に美しく優しい姿を、どうしても描きあげることはできなかった。

 この集団には、ほかに加藤さんという女性と、その息子で4歳になるとし坊という子どもがいた。

 この集団の向こうに、とし坊という四歳の男児をつれた加藤さんがいた。この人は古くからのハルピン在住者であったが、最近発疹チフスを患い、知人・仲間から取り残され、この冬もまたハルピンで過ごすのかと、生きた心地もなかった時、この病弱者部隊に加えてもらえることになって、ほんとによかった、嬉しいと、誰彼かまわず大声で話し、「去年応召した主人からは、何の便りもありませんが、この子を主人の両親に見せるまで、わたしはどんなことがあっても死にません」と、きまってつけ加えるのであった。

 船中での食糧を買いそびれたというので、加藤さんは食糧を買いに出かける。そして、病み上がりの身体に体力をつけようと、スイカを買ってきて、これをとし坊と食べる。主人公のとし子も病み上がりであったことから、「あれなら、熱のある咽喉をするりと通るだろうな」と思って見とれてしまう。加藤さんと目が合ったとし子は加藤さんに「どうです、ちょっと」と、声をかけられるが、とし子は謝絶する。

 ところが、
 加藤さんが、突然、ゲボゲボッと嘔吐した。傍の人が驚いて受けるものを探しに走っている間にも、小やみなく続けさまに吐いた。噴火する溶岩を思わせるくらい凄まじい勢いで繰り返し、全身びしょぬれになった加藤さんの顔は、みるみる干し柿のように萎びて、黒ずんでいった。身をよじって苦しみつつ、伏してはまた吐いた。ひきつる咽喉から必死に、「水、水」と叫び、とし坊を求めて片手を泳がせた。とし坊は泣きわめき、ポカンとした表情になって、母親と私どもを交互に見つめ、また泣きわめいた。

 医者を呼びにひとをやるが、やっと来た医者は、加藤さんから10メートルぐらい離れたところから一瞥しただけで言う。

 みんな絶対、口外したら駄目ですよ。絶対。本部に知れたら、全員足止めになる。今年中もう引き揚げはありませんよ。いいね、ぜったいだ。
 彼〔=医者〕は背を向けて立ち去った。みんな、身動きもできず、黙っていた。一人ひとりの心の中が声になったら、「コレラ、コレラ、近寄るな、近寄るな。移らないうちに早く出たい、早く」と、部屋中にきんきん響いたろう。生きて日本へ着く望みを半ば捨てているはずのとし子も、やはり、そう思った。ぎりぎりの思いを底に秘めた沈黙の中を、時刻は流れ、ほどなく迎えの馬車が来るはずである。

 加藤さんは、みるみるうちに衰弱し、しぼんでいくが、それでも激しく水を求め続けている。とし坊は、そんな母親と、まわりの人々を交互に見つめる。

 そのとき、吉野さんが、みんなのとめるのも聞かず、自分の水筒を持ってすっと立ちあがり、そして、病人に水を飲ませ、とし坊を母親の背にもたれさせて、ねんねするようにいう。

 吉野さんが、膝の上に置いていた水筒を持って、すっと立ち上がった。とし坊のコップに水を注ぎ、突っ伏している加藤さんの肩を軽く叩き、「お水よ」と言って口許へ持っていった。誰かが、「やめとき、うつる」と言った。とし子も心の中でそう言った。吉野さんが差し出したコップの底に片手を添え、一気に飲みほした加藤さんは、二、三回頭を下げ、そのままがくっと突っ伏した。泣き疲れたのか、発病したのか、とし坊は荷物にもたれて眼をつむり、動かなくなった。吉野さんはとし坊の体を母親に近寄せ、頭を母の背にもたせかけて、「さ、とし坊、こうしておねんねしとき。ねんねん、ねんねえー」と小さく繰り返しながら、とし坊の背をさすった。

 このとき、登美がかかえこんだのは、自分は吉野さんのように、一杯の水さえ、いや、慰めの一言さえ与えることをしなかったという思い、これこそは、キリスト教でいう裏切りという行為であったろう。登美は、不幸な隣人を、その決定的なところで見捨て、裏切ったのである。

 裏切りとは、自分が仲間であることを否むことだとわたしに教えたのは、今は青森の五所川原で牧師をする小笠原亮一氏であった。小笠原氏は、その第2エッセー集『共に在ること』の「差別における人間の問題――フランクルに導かれつつ――」の8の中で、ルカ22_54-62を引いて述べている。イエスは捕らえられて大祭司の邸宅に連行される。ペテロも後を追い、その中庭に座っていると、「お前もイエスといっしょにいたろ」と詰問される。しかし、ペテロはイエスの仲間であることを3度否むのであるが、これこそが裏切りなのだと。――

 ペテロは激しく、「わたしはその人を知らない」「いや、それはちがう」「あなたの言っていることは、わたしにはわからない」と語り、呪いと辱め、死と破滅を負わされたイエスと同一視されることを必死で拒んでいます。そのみじめな、呪われた、恐るべき死の真只中からペテロを見つめる目があった。その目は、そのような死をわが身にひきうけ、かつ、そのような死を負わせた者をゆるす目であった。そしてその目は、今や死をのりこえ、復活の生命に輝きながらペテロに現れた。ペテロは、この目に支えられ導かれて、あれほど拒んだ主イエスの十字架の死をわが身にひきうけることのできる存在へと変えられた。ペテロにとって、主イエスを信ずるということは、あのように死んだイエスを拒むのではなくわがこととして受けいれ、主イエスと同じように死に復活すること以外になかった。ペテロはあれほど拒んだ十字架の死を、自分の喜び、誇りとする人間に変えられたのです。(p.129)

 ルカ伝において、ペテロが「外へ出て、激しく泣いた」(22_62)ように、『一杯の水』の主人公「とし子」も、外に出て、激しく泣く。

 突如、とし子ははげしく涙がこみあげてきた。じっとしておれなくて、乾パンが少し入っているだけのリュックで顔をおおい、外へ出た。誰もいなかった。足洗い場のコンクリートの囲いに腰を下ろして、泣きつづけた。あふれつづける涙を拭いていると、とし子は人間にもどったような気がした。

 しかし、登美は、この部分を何回も書き直したものの、ついにこの先を書き続けることができず、『一杯の水』の原稿は、ここで途切れている。

 1946年10月、登美は半死半生の体で、それも内心には、以後何十年にもわたって「苦いかたまり」として彼女を苦しめることになる痛切な思いをかかえて、京都に帰ってくる。そして、登美が長島愛生園に、ハンセン病未感染児童の保母として行くのが、1952年である。この間、6年の空白がある。

 「北白川教会五十年史」によれば、愛生園に旅立つ登美のために、1952年9月12日、北白川教会で送別会が持たれた。このときのことを登美は次のように記している。

 送別の祈祷会や、壮行会をして頂いた時、正直に申して私は困りました。私が、長島へ行くのは、長年の祈りの結果、主のみ声を聞いたのでもなければ、キリスト者としての純粋な良心から出たものでもありませんでしたし、またすでに両親は死に、兄はシベリヤに抑留され、日本に生還出来るかどうかも分からないような家族構成の私にとって、長島へ行くと云う事は、ごく気軽い事だったのですから。

 「ごく気軽い事で」*あの*長島に行けるはずがない、とわたしたちは思う。しかし、それは、そう思うわたしたち自身の、ハンセン病に対する差別意識をあぶり出すものにほかならない。だから、登美の「ごく気軽い事で」は、その言葉のままに受け取って、登美が胸の内に呑みこんだものの重さに思いを馳せるべきだと思う。

===
 ところで、登美のこの文章には、一種のトリックがあることを指摘しておかねばならない。この文の構成は、「私が、長島へ行くのは」と、いかにもその理由を述べるように見えるが、じつは理由は何も述べていない。
 すなわち、「私が、長島へ行くのは」と言い、「長年の祈りの結果、主のみ声を聞いたのでもなければ、キリスト者としての純粋な良心から出たものでもありませんでしたし」と、いかにも理由を述べるように見えるが、途中で主語を変えて、「私にとって、長島へ行くと云うことは、ごく気軽い事だった」と言う。つまり、「ごく気軽い事だった」というのは、「私にとって、長島へ行くと云うこと」と対応しているだけであって、長島へ行く理由と対応しているのではないのである。
 挿入句の「すでに両親は死に、兄はシベリヤに抑留され、日本に生還出来るかどうかも分からないような家族構成」は、「ごく気軽い事」の理由説明にはなっても、「私が、長島へ行くのは」の理由説明にはなっていない。しかるにわたしたちは、「ごく気軽い事」を、「私が、長島へ行くのは」の理由説明と受け取って、それを、登美の謙遜と解し、そんなはずはないと思ってしまう。登美は、長島に行く理由について、一言も云ってはいないのにである。
 じつに巧妙な語り口である。しかし、これはこの1文に限ったことではない。登美が自分の心の内を明かすことはない。
 だが、彼女が言葉を口にするときは、斬って棄てるような言い方になる。父親などは、「あかんたれ」の一語である。登美はずいぶん損な性格を持ちあわせたものである。
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 京都は古い土地柄である。まして百年以上続いた老舗の娘である。長島に行くことが気軽なことであったはずがない。にもかかわらず、登美にとっては「ごく気軽い事で」あったかも知れないと思われる点を2点挙げたい。それは、ひとつには、登美には「居場所」がなかったことである。

 3代目の父親の武助は、家業を継ぐべく、薬学校〔後の薬専、現、京都薬科大学〕に入るが、語学とくにドイツ語は抜群であったにもかかわらず、科学がまったくだめで、薬剤師にはなれなかった(p.35)。そのせいであろう、自分の妹に婿養子をとり、これに店の経営を一任するという「あかんたれ」であった。

 この「あかんたれ」という表現は、多田茂治の本に出てくるのだが、おそらくは登美にインタビューした際、多田が登美本人から聞いた言葉であろう。母親は勝ち気なひとで、「はがゆい」〔これも登美の言葉〕夫に代わって、息子の武一に希望の一切を託したといわれる。「でも、兄はそんな母を嫌ってました」と登美は言う(多田、p.47)。

 では、登美本人はどうであったか? 彼女は何も語らない。登美が小学校6年の時、母が腸チフスの治療の手遅れで急死するが、登美は、このとき中学校4年の兄・武一が、浜田広介編世界童話全集を買ってくれたことを記すのみで(p.15)、母については何も語っていない。あたかも、登美にとって、肉親に対する情愛は、すべて兄・武一との間にしかないかのごとくである。

 母の死〔昭和9年(1934)1月3日〕は、この兄妹の運命を、大きく変えることになる。おそらく、女手がなくなったからであろう、店の経営を一手に引き受けていた叔母の家族が同居することになる。当時はまだ祖父の妹すなわち大叔母が大阪に健在で、この人物が店の経営に大きく係わっていたと、登美は証言している(p.30)。「あかんたれ」とはいえ、父を合わせると、鹿野家には3つの権威が混在していたことになる。

 そういう中で、末娘の登美だけが好悪をはっきり態度に表したようである。自分の父親には実権がない。叔母とその婿養子が実権を握っている。しかし義理の叔父がもつ婿養子という立場からくる卑屈さが登美には不快でならなかった。この、どうしようもなく気詰まりな人間関係について不平を言う妹を、武一は厳しく叱ったことが、登美の日記に記されている(p.61, 68)。

 武一の進学問題は、母親が亡くなったことで、大きく狂う。大阪の大叔母と、義理の叔父の反対で、三高あるいは外国語学校への進学を諦め、武一は家業を継ぐべく薬専に進むことを決意する。

 1943年(昭和18年)暮れ、召集された武一は大陸に渡る。その後、現地で召集解除となった武一は、そこでキエと結婚する(11月3日)。その報告に帰る間もなく、父親が脳溢血で急死する(12月22日)。

 「父は少年のような純情さと、無気力非現実的なものを持った人だったので、生前から商売の実質は義叔父の手で運ばれていたから、〔父が死んでも〕実生活上の変化は別になかった」と登美は書く(p.17)。

 いかに実権がないとはいえ、3代目の父が死に、4代目の兄は大陸に渡ったまま帰ってこない。家には義理の叔父一家が生活を営んでいる。「〔父が死んでも〕実生活上の変化は別になかった」と登美は言うが、父のこの死を契機に、彼女は、敗戦直前の満州に行くことになる。1944年(昭和19年)暮れであった。

 登美は兄を頼って満州に渡るが、翌1945年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻、登美たちの避難民としての南下が始まる。

 1946年、登美は、苦難の末、鹿野家に舞い戻る。

 さしあたっての彼女の仕事は、兄*たち*の居場所を捜すことであった。兄*たち*というのは、兄と従兄弟たちのことで、義理の叔父の2人の息子も、行方知れずになっていた。じつは、このとき、3人はシベリアに抑留されていたのである。当時、消息のわからない身内の情報を求めて、人々は帰還者たちを舞鶴港に待ちかまえていた。また一方、帰還者を乗せた列車は必ず京都駅を通過することから、京都駅でも慰問かたがた、身内の消息を尋ねる人々が待ちかまえていた。そういう人々の中に、登美の姿もあったことが、書簡から窺える。

 従兄弟たちは戦争捕虜であったため、比較的早く帰還を果たす。従兄弟の帰還で、義理の叔父一家は安泰となった。しかし、4代目の当主となるはずの武一は、その生死さえわからなかった。

 登美が長島愛生園に行くことが、彼女自身にとって「ごく気軽い事で」あったと思われる2つ目の点は、以下のとおりである。

 1948年、シベリアの兄から、俘虜郵便第1信が登美のもとに届き、兄の生存が初めて確認される。多田茂治によれば、この第1信の「俘虜用郵便葉書」の住所はカラガンダ第11分所で、管季治もこのときいっしょだったと考えられる。第2信はキエ宛て、第3信は再び登美宛て。しかし住所は第20分所に変わっていた(多田、p.112)。この葉書の全文を引く。

 第1信ハ京都ニ、第2信ハ松代ニ、第3信ノ機会ヲ与エラレテ登美ニ宛テル。登美ヨ健在ナリヤ。「死ニ至ルマデ忠信ナレ、ソノ人ハ生命ノ冠ヲ得ン」〔黙示録2_10〕
 "草ヅタフ朝ノホタルヨ短カカル オノガ命ヲ死ナシムナユメ"〔斎藤茂吉〕
 マタ「本質的ニ批判的デアリ、且ツ革命的ナ」モノニ眼ヲ向ケラレンコトヲ。〔出典不明〕
 キエヨ学ビアリヤ、吾大イニ学ビアリ、相見ン日ヲ互ヒノ成長ヲ比ベンコトヲ最大ノタノシミトス。武彦ハワレラノ十字架デアリ又贖主ナリ、我等武彦ノ霊ニ導カルベシ。
 "ホノボノトマナコホソメテイダカレシ
   子ハ去(い)ニシヨリ幾夜カヲヘタリ"〔斎藤茂吉〕

 多田によれば、この後に般若心経が「究竟涅槃」(全体の三分の二ほど)まで書かれ、紙が尽きて、そこで切れているという(p.113)。

 前述の小笠原氏の文章の中に、「みじめな、呪われた、恐るべき死の真只中からペテロを見つめる目」という言葉があった。武一にとって、それは武彦のまなざしだったといってよいだろう。そして登美にとっては、武彦と重なりながらも、「とし坊」のまなざしがそれであろうと思われる。とし坊は、嘔吐し、水を求めてもだえ苦しむ哀れな母親と、これを遠巻きにしてただ見つめるだけの大人たちとの間にあって、「母親と私どもを交互に見つめ」ていた。

 とし坊は泣きわめき、ポカンとした表情になって、母親と私どもを交互に見つめ、また泣きわめいた。(「一杯の水」)

 鹿野武一・登美の書簡、作品、日記に通底しているのは、幼児のまなざしである。

 俘虜郵便に加え、収容所における武一の様子が、帰還者によってもたらされる。

 1950年、兄より早い帰還者の中に、小花要三という人物がいた。おそらくは京都駅で待ちかまえていたと思われる登美に、彼は、収容所における武一の様子を知らせることは、「苦悩であり苦痛」であると言って、多くを語らなかった。その後、彼は詳しい手紙を寄こす(p.110以下)。

 彼は、「鹿野さんは必ず帰る」と手紙の中で繰り返すが、それは、繰り返せば繰り返すほど、あれでは生き延びられない、と内心思っていることを告白しているようなものであった。

 地獄のラーゲリにあるはずの兄・武一からのメッセージは、「死ニ至ルマデ忠信ナレ」であった。また、収容所内での武一のあまりに潔癖な生き方、おそらくは生きては帰れまいというに等しい報告は、登美の心の奥深くに刻みこまれたにちがいない。

 裏切りという痛切な体験をかかえこんだ登美にとって、この世で最も見捨てられた長島愛生園の幼児たちのもとへの道は、ほとんど必然であった。

 1952年9月、登美は長島へ発つ。

 登美が長島に行ったことを、収容所にある武一は、キエからの便りで知る。

葉書■鹿野武一から鹿野キエ宛(1953年1月)俘虜郵便
登美、キエヨリノ第三信デ知リマシタ。五年前ニ一度受取ッタ便リニ アナタノ記シタ言葉ヲ思ヒ返シテイマス。
ヤガテ来ン春ノ日ニ キエト一緒ニ*アナタノ子供達*ヘノオ土産ヲ沢山用意シテ 瀬戸ノ小島ニアナタヲ訪ネル日ヲ待チマス。アナタトアナタノ仕事ノ上ニ祝福ノユタカニ下リマス様 オ祈リシマス。
北国ノ凍ル夜空ヲ仰グトキ、タケヒコ!ト私ガ呼ビカケル星ガ瞬クノデス。今ハモ一ツ アナタノ星ガ輝イテイルノヲ感ジマス。
武一
〔傍点は引用者〕

 星を仰ぐという表現は、登美の詩「問い(石原さんへの)」にもあった。そこでは、星になっているのは兄だった。ここでは、兄・武一が、死んだ息子・武彦と、そして登美を、星として仰ぎ見ているのである。わたしが魂の共振というのは、このことである。

 この手紙で注目すべきは、武一は登美が長島に行ったことを、祝福していることである。

 登美が愛生園へ行ったことについて、兄・武一は収容所で知り、石原吉郎と話をしている。そのことを、石原吉郎はキエ宛の書簡のなかで、次のように言っている。

 「内地からの通信で、妹さんが癩院へ行かれたことを知ったことは、鹿野君にとって大きな感動であったようですが、併し、鹿野君は、妹さんのそうした行動が必ずしも人道的な感情から割り出されたものではないという風に感じていたようでした。「妹は、自分を葬りに行ったのだとしか思えない」と私に言ったことがあります。鹿野君は自分と妹さんのそういった類似の中に、何か悲劇的なものを感じていたのではないでしょうか。

 石原吉郎の言葉に惑わされてはならない。「何か悲劇的なもの」――これは、鹿野兄妹に対する石原の一貫した捉え方である。いわく「自虐」、いわく「自罰」、いわく「贖罪」、いわく「自己否定」、いわく「ペシミスト」……。武一が、「妹は、自分を葬りに行ったのだ」というとき、その意味は必ずしも明白ではない。先の、武一の葉書にあった、祝福の言葉を重ね合わせて考えるべきではないだろうか。

 後年、登美は健康を害して、松山〔長島愛生園の未感染児童が大きくなったとき、これの受け入れ先としての信望愛の家に移っていた〕を去るが、そのとき、身体が続かないと兄・武一に相談している。このときの武一の返事は、厳しい。他の保母は続いているのに、おまえだけ続かないとはどういうことか!? 主観的ではなく、客観的に見てどうなのか答えろ!!というものであった。言い訳はいっさい許さない。これでは、登美は何も言えない。

 ここに登美の不幸があったのではないかという気がする。登美が自分の内面を、あるいは弱味を見せられる相手は、兄しかいなかった。その兄が、一切の言い訳を認めないのであるから。

 自分の弱さを完全にさらけだし、絶体絶命になれば、あるいは道は拓けたかも知れないが、登美には、自分の弱味を抑えこむだけの*力*があった。だから抑えこんでしまった。

 1977年11月14日、石原吉郎の急死は、登美にとって兄・武一の死と重なり合うものであったろう。それはもはや兄と慕う2人の死ではなく、ひとりの「兄」の2度の死であったのではないか。彼女の絶望の深さが思われる。

 しかし、これを契機に、そしてまた、日中平和友好条約の締結(1978年8月)、中国残留孤児の一時帰国(1981年3月2日以降)といった時代の流れにも促され、彼女は35年前の自分と、あらためて向き合おうとする。

 詩人・石原吉郎をして、鹿野武一なくして今ある自分はないとまで言わしめた兄についての取材や執筆の依頼がいくつか登美に寄せられる。登美はこの時期、執筆生活をしたいと考えていたかもしれない。小説仕立ての作品、彫琢されたエッセーが、この時期(1978〜982年)に集中していることからも、そのことがうかがえる。

 彼女にもう少しの時間があったなら、彼女は、「苦いかたまり」が35年たってもなぜに苦いかたまりのままだったのか、なぜに『一杯の水』が完結できなかったのか、自分の最もひそやかな内面を吐露しようとするとき、なぜに兄嫁に仮託してしまうのか、なぜに武彦ではなく「とし坊」を自分の星として天に仰ぎ見ることができなかったのか、すべてのことに気づいたかもしれない。しかし、登美にどのような願いがあったにせよ、その願いは、脳梗塞の後遺症によって、利き手の自由を奪われたことで、断ち切られた。1982年以降をうかがわせるものは、断片のひとつも遺していない。

 兄という磁場に生き、兄という磁場にとらわれたため、その「兄」が逝ったとき、彼女は荒野に取り残されるしかなかったのかもしれない。


*1 「確認されない死のなかで:強制収容所における一人の死」


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