[解題]

 松浦寿輝『クロニクル』(東京大学出版会、2007年4月)所収の評論。初出は、『UP』(2006年10月号)。
 かえりみるほどの内容ではないが、鹿野武一の「沈黙」に注目した点は評価してよかろう。

 松浦 寿輝(まつうら・ひさき)プロフィール
 1954年、東京都出身のフランス文学者、詩人、映画批評家、小説家。現在、群像新人文学賞、文学界新人賞選考委員。




鹿野武一の沈黙



 鹿野武一はつねに列の外に立っていた。もっと正確に言うなら、彼はみずから進んでいつも、いちばん外側の列に身を置いていた。

 囚人たちが作業現場の行き帰りに組まされる隊列は五列。行進中にもし一歩でも隊伍を離れる者がいれば、逃亡と見なしその場で射殺してよい規則になっている。囚人たちがしばしば射殺されたのは、逃亡を試みたからではなく、その大部分は、氷のように固く凍てついた雪の上を行進していて蹟くか足を滑らせて列外へよろめいたからにすぎない。ことに、実戦の経験の少ないことに劣等感を持っている少年兵が警備に当たっている場合、彼らは「きっかけさえあれば、ほとんど犬を射つ程度の衝動で発砲」した。

 犠牲者は当然のことながら、左と右の一列から出た。したがって整列のさい、囚人は争って中間の三列へ割りこみ、身近にいる者を外側の列へ押し出そうとする。私たちはそうすることによって、すこしでも弱い者を死に近い位置へ押しやるのである。ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる。(石原吉郎「ペシミストの勇気について」『思想の科学』一九七〇年四月号掲載、『望郷と海』一九七二年所収)

 この一節中の「位置」という一語に注目しておきたい。石原はこう続ける — 「実際に見た者の話によると、鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである」。鹿野が率先して選んだのは、加害と被害の葛藤それ自体の外側という「位置」にほかならなかった。そこに立ちつづけた鹿野の姿勢を、石原はひとことで 「明確なべシミスト」と呼んだ。

 石原吉郎(一九一五-七七年)と鹿野武一(一九一八-五五年)は同じ部隊で教育を受け満州へ動員されて後、戦後のハルビンで抑留され、四九年、ロシア共和国刑法五十八条(反ソ行為)六項(諜報)により重労働二十五年の判決を受け、シベリアの強制収容所で森林伐採や鉄道工事などに従事、五三年三月のスターリン死去とともに特赦により日本へ帰還するというところまで、離合を繰り返しながらもほぼ同じ経路を辿った。「ペシミストの勇気について」は抑留期の鹿野武一の肖像を、鹿野の死後十五年経って描いたものである。よく知られたエッセイなので、改めて言うのも屋上屋を架すようで気が引けるが、これは恐ろしい文章だ。美しいだの感動的だのといった、共感や狎れ合いに汚染された安易な形容を弾き返し、読む者をただもう粛然とさせその口を噤ませてしまう文章というもの がごく稀にあるが、その筆頭に挙げられるべきものがこれである。その理由の一つは、ここで石原が描いているものが或る絶対的な沈黙それ自体だからでもあろう。

 シベリアに抑留された鹿野武一は分厚い沈黙の殻に閉じ龍もり、決して心を開こうとしない。四年ぶりに再会した鹿野は、収容所のバラックの奥の暗がりから出てくるなり、石原の顔を見ずに「きみには会いたくなかった」とだけ言って、呆然とする石原を尻目にくるりと背を向けてしまう。一週間後に自分からやって来た鹿野は、「このあいだはすまなかった」と言って躊躇した後、「もしきみが日本へ帰ることがあったら、鹿野武一は昭和二十四年八月×日[この会話があった当日の日付]に死んだとだけ伝えてくれ」と言って帰っていったという。

 鹿野の行動の具体的な詳細に関する石原の証言はさして多くない。その一つはたとえば、毎朝作業現場に着くと、指名も待たずに、いちばん条件の悪い苦痛な持ち場にそのままついてしまい、「まるで地面にからだをたたきつけているような」「ただ凄愴というほかな」い姿で働いていたというものだ。

 さらにもう一つの証言は、鹿野の絶食に関わるものである。或る日彼は「とつぜん失語状態に陥ったように沈黙し、その数日後に絶食を始めた。絶食は誰にも知られないまま行なわれたので、周囲の者がそれに気づいたときには、すでに二日ほど経過していた」。受刑者仲間の誰かれが代わる代わる説得を試みるが、「すでに他界へ足を踏み入れているような彼の沈黙にたいしては、すべて無力であった」。

 絶食四日目、石原は起床直後に彼のバラックへ行き、今日から俺も絶食するとだけ言ってそのまま作業に出る。その夜鹿野が来る。「めずらしくあたたかな声で一緒に食事をしてくれというのである」。だが石原がようやく鹿野の絶食の理由を知るのは、そのさらに二日後である。メーデー前日の四月三十日、鹿野ら日本人受刑者たちが「文化と休息の公園」の清掃と補修作業をしているところへ、たまたまハバロフスク市長の娘が通りかかる。彼女は心をうたれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡したという。鹿野もその一人だった。それに続く石原の記述は、不思議と言えば不思議なものだ。

そのとき鹿野にとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。

 「すこやかなあたたかさ」という名詞と「おそろしい」という形容詞の衝突が一種異様な印象を醸成しているが、さらに石原は「人間のやさしさが、これほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった」と畳みかけてくる。しかも、この事件はここで終らない。レジスタンスと見なされたこの絶食騒ぎをめぐって執拗な訊問が行なわれる。押し黙る鹿野に業を煮やした取調官が、「人間的に話そう」と最後に切り出した。「人間的に」というロシア語の「囚人しか知らない特殊なニュアンス」とは、「これ以上追及しないから、そのかわりわれわれに協力してくれ」ということであり、「協力」とは受刑者の動静に関する情報提供である。

 これに対して鹿野が答えたという言葉は、石原吉郎をめぐるあらゆる論評がこれまで数かぎりなく引用してきたものだ。「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではないもし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」 [傍点原文]。取調べの後、鹿野はこの言葉をロシア語文法の例題でも暗誦するように、石原に「無表情に」繰り返したという。この言葉は反抗でも告発でもない。彼はただ、人間性の概念をめぐる撞着の悲劇の前でこうベを垂れ、彼の目に真理と映じたものを哀しげな顔で呟いたにすぎない。

 私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。強制収容所とは、そのような沈黙を圧倒的に人間に強いる場所である。そして彼は、一切の告発を峻拒したままの姿勢で立ちつづけることによって、さいごに一つ残された〈空席〉を告発したのだと私は考える。告発が告発であることの不毛性から究極的に脱出するのは、ただこの〈空席〉の告発にかかっている。

 見られる通り、要約も言い換えも効かないぎりぎりの散文であり、わたしはそれをただ愚直に書き写すしかない。さらに末尾近くの驚くべき二節もまた、以下に、芸もなくただ長々と引用しておこう。ここに石原が書きつけているすべての言葉は、長い歳月をかけて徹底的に考え抜かれたうえで、必要最小限のもののみ厳密に選び取られており、註釈者の安易なパラフレーズを受けつけようとしないからである。「悲しみはかたい物質だ/そのひびきを呼びさますため/必ず石斧でうて」(「物質」『斧の思想』七〇年所収) — その石斧でうつようにして書かれた、これは文章だからである。

 私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去って行くその〈うしろ姿〉である。問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどりついた勇気の証しである。

 そしてこの勇気が、不特定多数の何を救うか。私は、何も救わないと考える。彼の勇気が救うのは、ただ彼一人の「位置」の明確さであり、この明確さだけが一切の自立への保証であり、およそペシミズムの一切の内容なのである。単独者が、単独者としての自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。

 鹿野武一が「明確なペシミズム」を身にまとうに至った事情を石原は語っていない。何か決定的な回心の体験があったにせよ、鹿野はそれを彼には決して明かさなかった。石原は彼の「うしろ姿」に、加害と被害の陰湿な弁証法に倦み、静かに集団を離脱していちばん外側の列に立つ単独者の倫理を透視したが、もとよりそれもまた石原の私的な解釈にすぎず、鹿野が黙って耐えていたものの内実は実は今なお闇に鎖されている。今日では鹿野が妻や妹へ宛てた書簡がいくばくか公表され、「ペシミストの勇気について」を書いた時点で石原が知りえなかった経緯も或る程度わかるようになってきているが、それでもなおわれわれは、鹿野武一の内面に立ち入ることを頑として拒まれている。

 「ペシミストの勇気について」のすばらしさは、そこに石原吉郎にとっての真実が、蒸留し尽くされたぎりぎりの言葉で直裁かつ明晰に表出されていながら、同時にまた、幾つもの不透明な謎が不透明なままに放置されており、それを前にして石原が謙虚にうなだれ、語りえないものへ向かってはるかな挨拶を送ることだけでただひっそりと耐えているという点にある。鹿野武一の沈黙の核をなす「何か」を、石原は解明しようとも、論評しょうとも、称賛しようともしていない。彼はそれをただ、言葉の石斧でうっているだけだ。

 「ペシミストの勇気について」の「追記」には、カラガンダの収容所で鹿野と一時期一緒だった菅季治による証言が引かれている。そこに描き出された鹿野武一の肖像は、石原の筆によるものとは極端に異なり、学芸を愛する心優しいエスベランティストとしてのそれである。その後同じカラガンダの日本人民間抑留者専用の収容所へ移されて以降、何らかの「重大な挫折」が鹿野を見舞ったのではないかと石原は推測しているが、鹿野の沈黙はむろんいかなる推測をも遮断している。ともあれ、鹿野武一が当時の日本で抜きん出た人文的教養を備えた、一人の知識人にほかならなかったという事実を看過するまいとわたしは思う。

 ナチスの強制収容所で、生への意志を完全に喪失した者たちが「回教徒」という蔑称で呼ばれ、他の被収容者たちから唾棄されていたという事情に関しては、フランクルやベッテルハイムの著書を通じてわれわれも多少の知識を得ている。では、いつでもいちばん外側の列につく「明確なべシミスト」と 「回教徒」との違いは何か。言うまでもなく、或る比類のない「勇気」が、その「勇気」によって救われる「ただ彼一人の『位置』の明確さ」が、鹿野武一を無気力な「回教徒」からはるかに隔てているのだ。

 周知の通り、ドレフェス事件のゾラ以来「告発」は知識人の基本的な身振りであった。サルトルも丸山眞男も、フーコーもサイードも、「告発」の身振りによって知識人としての自己証明を行ってきたのである。しかし、ここに立っているのは、「告発」でなく「沈黙」を選んだ知識人である。不特定多数の何ものをも救わず、「ただ彼一人の『位置』の明確さ」のみを救う「勇気」こそが、彼の倫理と自己証明にほかならなかった。吉本隆明は或る共感を籠めながら、石原吉郎が共同性に対して無防備であったことの悲劇を嘆じているが、そんな批判は「ペシミストの勇気について」一篇中でとうに乗り越えられている、ないし先取りされているようにわたしの目には映る。石原は、言葉少なに、しかしきわめて明瞭に、「すべてを先取りしている人間に、それを追いかけるだけの論理が無力なのは、むしろ当然である」と断じているではないか。

無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

(「位置」『サンチョ・パンサの帰郷』一九六四年所収)


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