[はじめに]

 『四次元』5号(昭和52年(1977)5月)「特集・石原吉郎」所収の一色真理の評論。
 石原吉郎は、鹿野登美宛て手紙(昭和52(1977)年4月)のなかで、「鹿野君の行動について、大へん行きとどいた分析があります」と評している。

一色真理(いっしき・まこと)プロフィール
  1946年名古屋市生まれ。早稲田大学第一文学部露文専修卒業。詩集「戦果の無い戦争と水仙色のトーチカ」(新世代工房)、*「貧しい血筋」(冬至書房)、*「純粋病」(詩学社・第30回H氏賞受賞)、*「夢の燃えがら」(花神社)、*「真夜中の太陽」(花神社)、「DOUBLES」(沖積舎)、「元型」(土曜美術社出版販売)。自伝小説「歌を忘れたカナリヤは、うしろの山に捨てましょか」(NOVA出版)。日本現代詩人会会員。日本文芸家協会会員。「黄金時代」同人。ニフティ・サーブで夢の記録を中心とするパティオ「夢の解放区」を主宰。(「一色真理の世界」 による)




もし、あなたが人間であるなら……
     ――鹿野武一について



 詩人にはたいてい、ある一人の人物について考えることが、そのまま<詩>について考えることにほかならないような、どうしても念頭を去らない人物があるものだ。石原吉郎にとって、鹿野武一はまさにそのような、彼の詩の<原型>であった。

私がなお生きのこる機会と偶然へ漢然と期待をのこしていたのにたいし、鹿野は前途への希望をはっきり拒否していたことである。タイシエットにいるあいだ、およそ希望に類する言葉を鹿野は一切語らなかった。  (ペシミストの勇気について)

 石原にとっての鹿野武一の原像はこのようなものである。これを次の最も新しい自己の詩作についての石原の発言と対照してみる時、彼が思い描いている詩とは、ほとんど鹿野武一についての記憶によって意味づけられたものと言っていいことに思いあたる。

僕はものを書く時の出発点が少しおかしいのですね。伝達されないという前提をぴしゃりと置いてしまった。壁にむかってものを言うように書いていた。
(『星座』第一号インタビュー)

 ここで、壁に向かって、一切の希望を認めることを拒んでいるものとして、鹿野武一の原像を思い浮べることは、それほど唐突ではないであろう。

 <ペシミスト>とは何か? --- と問うことは、直ちに<詩>とは何か? --- という問いに耳をすますことでもある。

 一九五七年のノートに、石原吉郎は次のように書きつけた。

私たちはあてもない未来に向って、なお危機と戦うことをやめることはできず、従って成長をやめることはできない。明日をまったく奪われた死刑囚でさえ、なおその毎日には、いやおうのない成長があるだろう。あてのない経験と教養を確実に積んで行って、なお一分でも一秒でも、私たちは生きのびる。

 私達の生涯は、死刑囚のそれと比べて、それほどわりのいいものではない。未来は秒読みで私達の前から消滅していく。にもかかわらず、私達は一分でも一秒でも生きのび、成長しなければならない。

 私達はそれでも生きるのか?

 書く言葉が十中八九伝達されるはずもないのに、それでも詩を書くのか?

 後の問いに、それでも詩を書くべきだと石原が結論を出した時、また、彼はそれでも生きのびるべきであると、前の問いにも答を与えていたのである。何故?

 私もまた、石原にならって鹿野武一という一人の男について、思いをひそめてみようと思う。


 石原が鹿野と知り合うのは昭和十五年、彼が二十五才の時だ。北方情報要員第一期生として彼等が教育隊にあった時、ひとつの運命の糸が二人を結び合わせる。その際、どのような経緯があったかは明らかにされていない。ただ、『初めて東京の兵舎で顔をあわせたときから、帰国直後の彼の死に到るまで』(ペシミストの勇気について)鹿野武一の姿勢は『つねに一貫していた』(同)と石原は回想する。『彼の姿勢を一言でいえば、*明確なペシミスト*であったということである。』(同)

 当時の理想主義的な傾向を多分に持つ感受性の強い青年達にとって、未来は文字通り秒読みで消滅していくものにほかならなかった。彼等の前には逃れられぬ軍務と戦闘があり、さらに確実な死があった。彼等が若くしてペシミストであったことは、むしろ当然ななりゆきと言える。確かなのは、この時、石原にとって、自己の<影>として鹿野武一という一人の男が見えるようになったということ。それまで石原にとってまだ意識化されないレベルにとどまっていたあるものが、不意に一個の人格をまとって外在したことは、石原の内面にひとつの転機をもたらしたであろう。鹿野を見出した時、また石原自身の姿も見え始めたのである。

 ひとりの男との出会いとは、自分自身との出会いである。これ以後、鹿野を見失わない限り、石原は自分を見失うことはない。

 青年期の石原を語る上で、もうひとつ必ずおさえておかねばならないこと。それはこの出会いより前、徴兵検査に合格して、いよいよ秒読みで未来が崩壊しだした時、石原が洗礼を受けていることだ。これが石原の二十三才の時。そして、二十四才で石原は召集を受ける。自編年譜には『ヘッセル氏(石原はヘッセル氏から洗礼を受けた)から召集拒否をすすめられたが応召(中略)……幹部候補生を 志願せず。』とある。大学卒業者である以上、石原は幹候を志望する充分な権利を持ちながら、それを捨てている。この小さな事件は昭和十六年の同年譜で、彼等が関東軍司令部へ転属になった際、鹿野が成績上位であったため残留を命じられながら(おそらく、参謀本部入りを意味したのであろう)、それを拒み、石原らとともにハルピンに赴いた事件と軌を一にしている。彼等相互にとって、これらの事件は自らの態度を確認する格好の目安となったはずである。彼等はもし、ペシミストとして行動したのが自分ひとりであったなら、自らをペシミストとして意識するまでに至らなかったに違いない。

 ハルピンの特務横関(関東軍情報部)の三四五部隊に起居していた石原と五班にあった鹿野とは、週に一回程度顔を合わせることができた。おそらく、彼等の間が最も平和で親密だった短かい時期なのではないだろうか。(確証はない。私の推測である。)三四五部隊とは露語教育隊の暗号名。五班とは白系露人工作班である。そして十二月八日、開戦の日を迎える。

 翌昭和十七年四月、召集解除となった鹿野を石原はハルピン駅に見送っている。京都薬専出身の鹿野は、ほとんどが無医村であった開拓団部落へ開拓医として入植を望んでおり、東安省防疫所へこの時赴任したのである。そして、鹿野結婚。だが、昭和十八年になり開拓医志願の初志をあえて捨てて、一介の開拓民として鹿野は突然入植してしまう。年譜に石原は『鹿野のその後の行動を表向きに決定したのはこの出来事だったといえる。』と書いている。なにげない記述だが、当時の石原にとって鹿野のこの選択がいかに大きな驚きであったか。東北の貧農出身者がしゃにむに根をおろした開拓部落で、戦争終緒までの三年間を過した鹿野は明らかに異端者であり疎外され孤立するほかはなかった。『物資は北満でもすでに不足しており、月に一度ほどハルピンヘ来る鹿野の服装は目にみえて悪くなって行った。ハルピンヘ来るたびに、彼は風呂敷に一杯の書物を購入して帰った。(中略)ただこれらの過程とその後の過程を通じて、彼の生き方につきまとったニュアンスは、自己を「試みる」という姿勢であって、それは彼の古い東洋哲学的な素養と、医科学的な素養の双方にかかわるものであろう。こうした彼の姿勢は多分に生体実験的なニュアンスを帯びてくる。』(自編年譜)

 これらの鹿野の行動は明らかに、私達がふつう現実的と呼んでいる価値の基準から外れている。参謀本部入りを志願せず、ハルピン機関入りをあえて選択するところまでは、当時の育年達になお底流していた満州建国についての夢想から、現実的に解釈しきれないことはない。だが、自己の学歴と技能をふり捨てて、一開拓農民として部落入りしてしまった時、鹿野はもはや現実原則を大きく踏み外 している。石原が先にこの行動が鹿野のその後を*表向き*に決定したというのは、そのためである。

 昭和二〇年八月九日、日本のポツダム宣言受諾に先立つ一週間前突然、ソ連は対日宣戦を布告し、石原と鹿野のある満州地域の占頷をめざして、赤軍を南下させ始めた。この時、鹿野はハルピンに急ぎ帰還し、応召する。応召するといっても、出頭先の部隊は既に戦闘状態に入って、追求不可能のため、ハルピンの駐屯地司令部に出頭したのである。しかし、司令部はもはやその機能を果たすゆとり がなく、鹿野は放置されたまま、終戦をむかえることになった。

 『義務として受容した以上、受容の姿勢を貫くしかないという鹿野の考え方は、関特演以来一貫している』と、石原は自編年譜に記している。ということは、この時、既に逃亡が一般化していたのであろう。鹿野にとってはむしろ、あてもない未来に向かって生きのびるより、すみやかに生を断念することの方がやさしかったのではないだろうか。

 結局、鹿野は兵士として戦場へ赴くことはできなかった。そのかわり、八月下旬、ソ連軍による日本人狩りが始まった時、鹿野も拘束されて一旦、牡丹江方面に東送されることになる。後に、この東送をふりかえって鹿野は、『ひどく自由な気持になった』と石原に語り、石原を唖然とさせる。何故か、この日本人狩りはすぐ中止され、塵野はまたハルピンに戻ってくる。目前にあった〈死〉は再び 遠のけられ、あてもない未来に向かって生きのびることが強いられる。人間はへたに希望があるより、死を前に完全に絶望している方が耐えやすい。我が国で戦後初の女子死刑囚となったある囚人は、死刑が確定している間、見事な死生観をもって模範囚として自己を律することができた。だが、それがために助命の可能性が出てきたと聞かされたとたん、彼女は幻覚に溺れ、発狂する。(結局、そのために彼女は無期徴役に減刑されるが、彼女の精神は回復することができなかった。=「精神医学」誌一九七三年十月号所載の稲村博氏のレボートによる)

 『生きのこるということは「死にそこなう」ことである。死にそこなうことによって、それは生きそこなう。』と、石原吉郎は一九七二年のメモに書く。

 昭和二〇年十二月中旬。石原はソ連軍によって連行され、抑留生活に入った。それと前後して、鹿野もまた抑留生活に入る。『抑留のきっかけが、いずれも白系ロシア人の密告であったことも奇妙な暗合である。』と、「ペシミストの勇気について」には書かれている。何が『奇妙』なのかさだかでないが、鹿野と自己の運命を常に重ねあわせて見る習慣が、石原にとっていかにたいせつなものだっ たかがわかる。

 暫く連絡の途絶えていた塵野に再び石原が出会うのは、昭和二四年の春、カラガングの軍法会議臨時法廷の附属独房においてである。まるで闇の中に一枚の鏡が立てられたかのように、丁度真向いの独房に鹿野武一は収容されていた。

 四月二十九日、石原に重労働二五年の判決が言い渡される。いわゆる五八条組というやつで、石原にとってこの量刑は明らかに予想外のものだったが、反ソ行為を規定するロシア共和国刑法五八条で起訴された者に、これ以下の判決というのはないのだった。当然ながら、鹿野も同じ判決を受ける。

 八月初め、偶然収容された収容所で、石原はそこに鹿野がいることを聴かされた。

私は取るものもとりあえず、鹿野のいるバラックヘかけつけた。すでに寝しずまっていたバラックの入口で、私は鹿野の名を呼んでみたが、答えがなかった。二、三度呼んだあとで、バラックの奥の暗がりから、鹿野が出て来た。そして私の顔を見ずに「きみには会いたくなかった」とだけいって、奥へはいってし まった。私は呆然として自分のバラックヘ帰って来た。
          (ペシミストの勇気について)

 明らかに石原の個人としての内面の歴史のひとつの時代が終ったのである。

 彼が取るものもとりあえず駆けつけたバラックを、石原の内面そのもののように私はこの個所を読んでみる。そこに石原が見たものはこれまで見なれた思い通りの自己の姿ではなかった。彼が自らの選択した態度であり、思想であると思い、安らいでいた<ペシミズム>はこの時まったく思いもかけぬ変貌を遂げようとしていた。

 遠く時を隔てて一九七二年に、石原はまた『私のばあい、表現は思想に先行する。思想であるまえに、まずそれは表現なのだ。』と書く。自己の似像であったはずの鹿野が突如、石原にとって難解きわまりないものに変っていた時、早くも石原における<詩>の原像が姿を見せたのだ。思想としてわりきれる前に、まず表現として先行してくる内部のもの。鹿野。この明快な難解さ。

詩。この明快な難解さ。
     (一九七二年-一九七三年のメモ)

 ある日の夕方、作業から帰ってきた鹿野が思いがけなく石原のいたバラックヘやってきた。彼は「このあいだはすまなかった」と言ったあとで暫く躊躇した後、「もし君が日本へ帰ることがあったら鹿野武一は昭和二十四年八月…日に死んだとだけ伝えてくれ」と言って、帰っていった。彼が自分が死んだ日付とした八月…日とは、石原に彼がこれだけ伝えた当日の日付であった。『私はそのときの彼の、奇妙に平静な、安堵に近い表情をいまだに忘れない。後になって彼の思考の軌跡のその表情に行きあたった。しかしそのときの私には、彼の内部でなにかが変ったらしいことがかろうじて想像できただけであった。この時期を境として、ペシミストとしての彼の輪郭は急速に鮮明になってくる。』(ペシミストの勇気について)

 鹿野の内部で、何が変ったのだったか? おそらく、この時、鹿野がふりすてたものは、同じ頃、日本の傷痍軍人療養所の病棟において、鮎川信夫が『戦中手記』に書きつけた<理想の負担>という言葉に対応するものではなかっただろうか。

我々にとってもが[足偏+宛]けばもが[足偏+宛]くほどどうにもならぬ暗い運命の影が頭上にかぶさってくるのであった。我々は理想の負担を忘れてでも周囲の状況に適応しようとしたが、結局に於て我々はさほど破廉恥にはなれず不可能であった。   (戦中手記)

 八月末、再びシベリヤ鉄道を拘禁車に詰めこまれての護送が始まる。石原と鹿野とは結局、一カ月後にタイシエットの中継収容所で再会する。ふたりは行きどころのない人間のように、暇さえあれば一緒にいたが、ほとんど話すことはなかった。『ただ鹿野と私の絶対の相異は、私がなお生きのこる機会と偶然へ漠然と期待をのこしていたのにたいし、鹿野は前途への希望をはっきり拒否していたことである。タイシェットにいるあいだ、およそ希望に類する言葉を鹿野は一切語らなかった。』(ペシミストの勇気について)

 この時、耐えがたく苦しかったのは、鹿野ではなく石原であっただろう。ひとたび未来へ賭ける希望を、そして自己の人間性についての信頼にかかわる負担をふりすててしまった時、私達は苦悩を感受する能力を失うのである。

 この頃の鹿野の相貌は、ユダヤ人心理学者としてナチスの強制収容所を経験したベッテルハイムが言う<回教徒>に似ていないでもない。

死の不可避を確信するに到ると、これらの人々は自閉的行動へと崩壊して行った。そのような人々を強制収容所では「回教徒」という名で呼んでいて、他の被収容者たちはあたかも伝染病であるかのようにこれを避けようとした。この言葉の含みは監視者が(または、アラーの神)が死ねといえば彼らは死に抵抗しない状況になっているという意味である。他の被収容者からみるとあるいは監視者からみてもそうであったであろうが、この態度は「東洋的な」死の肯定のようにみえた。(中略)
そして最後に残ったのは、生き伸びようとする被収容者と、敢えて死を選ぶ者、すなわち、事態が好転するという希望にさえ死を宣告する人々との間の大きな溝であった。
          (自閉症うつろな砦・黒丸正四郎訳)

 おそらく、この時期の石原をして、なお生きのびることに期待を賭けさせたものは、彼の戦前からの信仰という問題に関係があると思う。あるいはそれは既に信仰と呼ぶに値いしないほどに退行したものであったかもしれないが。同じくユダヤ人心理学者として強制収容所を見たフランクルは、繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐ええたというパラドック スについて自問し、次のように書く。

元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼等にとっては、恐ろしい局囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。
          (夜と霧・霜山徳爾訳)

 理想の負担をすてさることによって、この苛酷な環境に生きるべく通応しようとした鹿野武一にとって、最も怖るべきは、再び<理想>を眼前につきつけられることであった。鹿野にとって思いがけない危機は、彼が最悪の強制労働の日々からやや後退し、健康も回復しだした翌年の夏、たまたま出会ったある女性の行動にふれて、突如、彼を襲ったのだった。

 昭和二十七年、メーデーの祝祭を終ったばかりのハバロフスク市第六収容所で鹿野は突如失語状態におちいり、その数日後に絶食を始めた。彼は絶食中も平常作業に出勤していたため、彼の絶食が判明したのは三日後になってからだった。同僚の囚人達の説得にも耳をかさず、彼の沈黙はあたかも『すでに他界へ足を踏み入れているような』不気味さを帯びていた。

 絶食四日目の朝、石原は鹿野に今日から自分も絶食すると告げて仕事に出る。

 その夕方、鹿野は石原に絶食の終了を告げ、食事をしようと言い出した。だが、石原に絶食の理由を告げたのは、それからさらに二日後だった。

 メーデー前日の四月三〇日、メーデー会場となる市の公園へ清掃・補修作業に駆り出されていた囚人達を見たハバロフスク市長の娘が、その姿にひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、ひとりひとりに自らの手でそれを手渡したというのである。囚人達のひとりだった鹿野は、再び<理想>が眼前に蘇るのを見て、不意を打たれたのだった。『鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝 撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。」(ペシミストの勇気について)と石原は書いている。

 もっとも、この事件が鹿野にとって危鐵であったことは確かだとしても、それはむしろ鹿野にとって<回復>の急激なプロセスそのものであったかもしれないと思う。

 フランクルもベッテルハイムもナチによる強制収容所で完全に生きる意志を放棄した<回教徒>達を印象的な筆致で証言しているがたとえばフランクルが伝える次のような記述と、あくまで平常作業への出動を義務と考えて行為した鹿野武一の像とは、決して重なり合わないからだ。

未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。(中略)その当の囚人はある日バラックに寝たままで横たわり、衣類を着替えたり手洗いに行ったり点呼場に行ったりするために動こうとはしなくなるのである。(中略)彼は自己を放棄したのである! 彼自身の糞尿にまみれて彼はそこに横たわり、もはや何ものも彼をわずらわすことはないのである。   (夜と霧・前出)

 著名なエピソードとなった、保安中尉の尋問に対する彼の返答 --- 「もし、あなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし、私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」の中に、<人間>という言葉が四度現われる。これは保安中尉の「人間的に話そう」(罪を追及しないかわり、スパイとして収容所当局に協力するという条件の提示が、この言葉には含まれている)という言葉から反響して口をついた言葉であるが、ここに四度現われる<人間>という言葉に深く充填された意味はきわめて鮮烈である。

 四日間の絶食という回復過程の中で、突如として鹿野の中に蘇った言葉は、この<人間>という言葉であったのだと思う。その中にみちあふれたあまりにも苛烈な意味のためにいっとき、鹿野はすべての言葉を忘れた。

 「私はまたしてもここで、ペシミストの明晰な目に出会う』と、石原は回想する。何故なら、保安中尉に対し、そのような発言をすることは、決して彼の上に良い運命を運んでくるはずがないのだから。

 「もしあなたが人間であるなら……」という鹿野の言葉は十中八九伝達されるはずもない。それでも語るのか?

 その中にみちあふれたあまりにも苛烈な意味のために、いっとき詩人はすべての言葉を忘れる。

 そして、その沈黙の中から、ひとつだけ忘れ残された言葉が、詩人にかわって語り出すだろう。思想に先行した表現として。

 鮎川信夫にとって森川義信、私にとって倉内智男、そして石原にとって鹿野武一。彼等について語ることは、私達にとって<詩>がなにものであるかを語ることに等しいはずだ。

(一九七六・九・十六) 


forward.GIF野次馬小屋/目次