一九六七年版の『石原吉郎詩集』のあとがきは、ずい分と引用された鹿野武一の言葉ではじまっている。
「『もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。』これは、私の友人が強制収容所で取調べを受けたさいの、取調官に対する彼の最後の発言である。その後彼は死に、そ の言葉だけが重苦しく私のなかに残った。この言葉は挑発でも抗議でもない。ありのままの事実の承認である。そして私が詩を書くようになってからも、この言葉は私の中で生きつづけ、やがて『敵』という、不可解な発想を私に生んだ。(後略)」
いまになって思えば、この時期に、私は石原吉郎のことばかり考えていたように思う。『望郷と海』が書かれる前のことだから、その暗部の全景がみとおせないままに、ノートでの思考の断片や、こういうあとがきで整理してかいま見せる、韜晦的な語り口は私を酔わせた。石原吉郎は、表現してあることよりも、表現しないで隠匿していることの重要性をしばしば語ったが、私は、詩よりもむしろこういう短い文のなかで、それを感じた方が多かった。石原吉郎は、病的な私の表現衝動とは真反対の方向からきた人である。暗部を拡大して喩として表現したい私の表現衝動のむこうに、暗部をひたすらつつんで、鮎川信夫流にいうならヒクマティック・パワーともいうべき、明るい催眠的にうたいあげる存在があったわけである。
石原吉郎に自由の問題についての覚醒を強いた鹿野武一の存在は、非表現者のかたちのままで、石原伝説のなかにくみこまれ、あとのエッセイなどで、多少輪郭づけられた。石原吉郎の死後、鹿野武一の令妹鹿野登美とであい、石原吉郎も知ることのなかった彼女への鹿野武一の手紙の一部を知ったが(「詩学」一九七八年五月号に掲載)、石原吉郎と同じような暗部をかかえている鹿野武一の自 分への珂責の言葉は、食糧事情が緩和された時点で、絶食自殺しようとした鹿野武一の存在を照らしている。
「あの厳しい生活条件 人間をすっかり裸にしてしまふと思はれる捕虜生活の中でも自分は虚栄の皮をかぶったポーズをもった人間だったといふことです。だからあの生活で自分が敬意を払ったのは、すっかりむき出しの人間性を発揮した人々でありながら、その人達には真に近付く勇気がなく、多くを語り合ふ機会を持ったのは、ポーズを持った人々であったと言へませう。純真な人々の中には自分のポーズに欺むかれて近寄って来た人も二、三ありましたが。」
この「ポーズ」を石原吉郎の言葉にあてはめれば「姿勢」ということになろう。条件のきびしい時に、鹿野武一をわずかに律したこの「姿勢」は、条件の緩和された時には、彼のなかで戯画化されざるを得なかった、ということはおそろしい。この手紙の文には石原吉郎が、「もし、わずかに脱出しえたにせよ、帰って来たものは、なんらかのかたちですでに、人間としてやぶれ果てた姿だ」と証言する心の廃墟がみえる。鹿野武一も苦しみながら、キリスト教に救いを得ようとしつつ病没したが、石原吉郎の生前の最後の稿「絶望への自由とその断念 『伝道の書』の詩的詠嘆」を読むとき、私は、「絶望への自由」という言葉そのものへも決して近づけないおそれを感じる。鹿野武一や石原吉郎にとっては、自殺するなどということは、もっとも容易なことであって、生きること自体が苦業であった。
「われわれは軽々に救済を呼ぶべきではない。救済の以前に、すでに亡んだ者として、滅亡の確たる承認こそが、逆説としての救済をもたらすという事実をこそ、人は苦痛とともに思い起すべきではないのか。人は亡んでおり、また亡びつつあるからである。『私は信仰により*救われた*』ということばを、仮にも人は、*公然*とロにすべきではない。」