[解題]

 『白亜紀詩集 1973』(昭和48年(1973)5月)所収の、佐藤節子の評論。
 石原吉郎は、鹿野登美宛て手紙(昭和48(1973)年7月)のなかで次のように述べている。
 私自身について割合い納得のできる文章がありました。おとどけします。自分についての文章というものは、気のひけるものですが、私を通して著者が受けとめた鹿野君のイメージは、私にはよく納得できました。
 著者は水戸在住のふるい詩人です。




石原吉郎論
     ――死の中の詩



 天沢退二郎や吉増剛造たちの詩語の、めまぐるしい拡散、疾走、回転のあいまに閃光のように示される求心的な、あるいは遠心的な死の深淵、ないしはことばの烈しい噴出やからみあいそのものの中に感得される現代の空虚や喧騒は、それはそれでまことに面白いしことばに賭ける一つの試みとしても意義のあるものだと思われる。だが、私はこうした傾向とは別な、どこまでも沈潜し、沈黙していく詩、あるいは深く重い沈黙に支えられていることばについて考えてみようと思う。

花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
あり得ぬ日々をこえて
花でしかついにあり得ぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ
  (石原吉郎『サンチョ・パンサの帰郷』「花であること」)

 この詩は石原氏の作品「位置」と等質のものと考えられる。まず、花というものは環境や外力に対して無抵抗な脆弱な存在であり、与えられる事実をそのまま受け容れ、その条件下で他力的に生き、または死んで行く存在である。そして花は、自然や人間によっていやおうなしに陶汰されながら、抗弁も告発もしない。この<花>は作品「位置」においては<一人の男>その<毅然たる肩>である。この男には作者がシベリヤの強制収容所内で会った鹿野武一という峻烈なべシミストのイメージが重なり合っているようだ。

 自分の命をスプーン一匙分だけ生きのびさせる為には、同じ虜囚の誰かの命をスプーン一匙分だけ奪わねばならない。そのようなシベリヤ・バイカル湖西岸のバム強制収容所において人間は<生きて><在る>そのことのために、次第に一本の植物的存在になっていく。<屍臭と体臭との同在>(「ノート」から)するストルイピンカ(拘禁車)によって昭和二十四年の終りに近くこのバムの地に護送されて以来(「葬式列車」参照)囚人たちは非人間的処遇の中で陶汰につぐ陶汰をされ、人間としての記憶や喜怒哀楽や恐怖やことばをすら失っていく。この植物化して行く人々の明け暮れは、

 まことにその朝には継承というものがなかった。一代かぎりであったといってよい。なぜなら朝につづく午後も 午後につらなるその夕暮れもついになかったからだ。朝はそこではなんのきっかけもなく単独に朝であった。われらはいっせいに目をさまし そしてなにもすることはなかった。よりしずかな海とさらにしずかな岸のあいだ 逃亡する勇気をもつものはすべて逃亡したのちのあざやかな静寂のなかで われらはただ無雑作に挨拶をかわした。そのときの挨拶は たとえば二枚の貝が閉じるさまといかなるちがいがあったか……
   (小詩集「神話」ユリイカ所載)

 この中にも静かな、むしろ淡々とした調子でうたわれている。このような死の水際すれすれの生活の中で囚人たちの生活はすべて被害と加害の関係に立つ。しかもソ連管理者対囚人達の加害、被害の関係よりも、囚人同志のそれの方がより切実な問題として人々を支配するような日常にあって、虜囚たちは生きるために、暗く陰惨な憎悪と孤独の果に本能的に連帯を、つまり<共生>をするようになる。彼、鹿野武一はこの加害、被害のすべて、憎悪のすべてに背を向け、彼が先取りしている死に向かって一人決然と歩み去ろうとするのである。一人の人間として彼は<花>のように弱く脆い存在である。しかも彼は絶対的な敵に対して告発し弁明し、要求することが全くの徒労であることも知悉している。この彼が告発も弁明もない沈黙の中で<人間であること>の位置を死を賭して守ろうとするのである。<もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない>と強制収容所の取調官の前でのべたという鹿野のこのことばの中には、絶望的な対峙の中で、最後の自由、人間が人間であろうと*意志する*自由の宣言がある。彼はこの位置に足を据えて、<海とさらにしずかな岸のあいだ>に厳然と立つのである。それは「花」の詩では<花へおしかぶさる重みを/花のかたちのまま/おしかえす/そのとき花であることは/もはや ひとつの宣言である>のである。そして<ひとつの花でしか/あり得ぬ日々をこえて/花でしかついにあり得ぬために>つまり「位置」においては<人間でしかあり得なかった>日日から<ほかならぬ人間それ自体であるために>沈黙を逆手にとって強烈に立つのである。その時<花の周辺は適確に><花であること>にめざめ、<花であろうとする>命がけの意志によって鋼鉄のように鎧われている。

 生者の側から死を追求し、ことばに定着しようとしてもことばは死そのものから浮上し、空転し、霧散し、観念としての死の形骸だけが常識の残骸をさらすことになる。

 死の水際まで行き、生の極限を見て来た石原氏のこの詩は、死や虚無について何もうたっていない。だが私たちは、この十四行の詩の背後に、言語に絶した深く重たい沈黙を感じる。いや、さらにその沈黙が静かに重く語っている声――死者の声、死者の視線、死者が通過した絶望や虚無や孤独や、植物的な日々の苦痛、そしてそこから帰って来た作者のどうしようもなさなどを微かながら聞く思いがする。<私たちはおそらく、対峙が始まるや否や、その一方が自動的に人間でなくなるような、そしてその選別が全くの偶然であるような、そのような関係が不断に拡大再生産される一種の日常性というべきものの中に今も生きている。>(「四つのあとがき」から)このことばが、あたか も予言的なひびきをもって味わわれる今日、この詩の大きな沈黙に耳を傾けると、生の中の虚無や孤独がリアルなものとして浮かび上がり、毎日の生が生としてくっきりと現われてくるように感じられるのである。

いまは死者がとむらうときだ
わるびれず死者におれたちが
とむらわれるときだ
とむらったつもりの
他界の水ぎわで
拝みうちにとむらわれる
それがおれたちの時代だ
だがなげくな
その逆縁の完璧さにおいて
目をあけたまま
つっ立ったまま
生きのびたおれたちの
それが礼節ではないか
 (小詩集「礼節」ユリイカ所載から)

 死者をとむらうとはなんだろう。生者たちが死者を悼み、その生前を回想し、落涙し、時には不遜にも位階を授け、弔辞を捧げ、そして恭々しくその遺影に額づく。だが、こうした死者不在のセレモニーが、死者に対してよりも生者自身に対する自己満足や鎮魂に終ってしまうことが多いのではないだろうか。

 <時に僕の内部で一切の波紋が姿を消し、世界がしんとしずまりかえることがある。そのとき僕の内部でひとつの目が大きく開く。その目が何かを読む。何ごとかを読む。僕自身の背後にある、僕の理解しがたい暗黒の中で、なにごとかが理解される>(「ノート」から)。石原氏のいうこの<目> は死者の視線である。石原氏の中によみがえる死者の視線といってもよいだろう。人間としてのあらゆる極限を越えて<よりしずかな海>(「神話」)に入った死者たちが、彼らを葬ったはずの生者たちを静かに、だが厳しく、悼み、評価し、時として哀れみ、そして生者たちに<生きて><在る>ことの意味を再吟味させようとするまなざしなのである。

 毅然とした虚無や孤独に立ってみることも、そこから人間として厳しい<やさしさ>に生きようと試ることもせず、<目をあけたまま><つっ立ったまま>死なずに生きているわたしたちである。このわたしたちが、死者の目を通し、死者の理解を通して自分を見、理解するとき、私の生はほんとうに私の生となる。こうして死や虚無や孤独の返照としての生を生き得る者たちこそ、死者を葬うことができるのではないだろうか。

 かつて石原氏は<死者は死者に葬らせよ>(「肉親への手耗」から)といったことがある。これは聖書のことばであるが、彼にとっては、人間の生まれながらの深い孤独や虚無や絶望の認識こそが人間の連帯を生むのであり、その連帯は死者とのそれでなく、生きている者との前向きの連帯であるべきだということの裏返しのことばであった。この深い連帯を生むために生者たちはためらわず葬ったはずの死者たちの深々としたまなざしに葬われねばならないのである。

 かつて、戦争中、私たち若い女たちは、次々にもたらされる若者たちの大量の死、その厖大な量としての死に茫然とし、やがてその中の具体的な、かけがえのない若者の一つの死を手渡され、耐え切れない悲しさに暗涙を流し続けた。あれから二十年、私達は雑然と齢を重ね、死者たちはあの頃のまま私たちの中で若くて美しい。そして年齢を重ねるにつれて私たちはこの若人に対し、母性的な気持で子守唄めいた鎮魂歌をうたい続けてきた。

 だが、石原氏の作品に接してみると、この子守唄がいかに貧弱な自己満足にすぎないものであったかを痛感させられる。そして、海や山で死んでいった若い戦死者たちの、底なしの沈黙の前に佇立したまま、逆に鎮魂され、目守られている自分を見出すのである。

 生の返照としての死を理解しょうとするのでなく、死の返照としての生を生き続けている石原氏の詩の中に、私は一つの生の原点を見る思いがするのである。


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