[解題]

 霜山徳爾「死と少女」〔『人間へのまなざし』(中公叢書、昭和52年2月)所収〕。
 石原吉郎は、昭和52年〔1977〕5月13日付鹿野登美宛の手紙で、『人間へのまなざし』に言及。鹿野登美は、8月になってこの読後感を石原吉郎宛に送ったが、その返事はついにもらえなかったようである。石原吉郎が急死したのは、同年11月14日であった。
 石原さんの告別式の後、私は詩人の島崎光正さん、芝崎聡さんからお聞きしたことであるが、石原さんは、「霜山先生にお会いしたいなあ、でもお会いしたら患者にされちゃうからな」と笑われたそうである。
 (鹿野登美「石原吉郎と鹿野武一:遺された手紙)、『詩学』1978年5月号所収、p.80)


霜山徳爾(しもやま・とくじ)プロフィール
 1919年、東京に生まれる。東京大学文学部心理学科卒。ボン大学留学、Ph.D.現象学的人間学的な流派に属する心理療法家。
 フランクルの『夜と霧』の訳者。




死と少女



1 人間学的心理療法

 人間学的心理療法というものをいかなるものと了解したらよいのか。それは森田療法とか精神分析療法とか最初から一義的に心理療法を志向するものと同列に論じてよいのか、これらの疑問がまず生じる。そもそもそのようなものは存在しないという人もいるであろう。それもーつの見解である。しかし常識的には、人間学的心理療法とは「現存在分析による心理療法」ということであろう。この現存在分析は元来は精神医学の方法論であり、基礎論でもあって、それ自身は心理療法ではない。しかしそれでは何故にビンスワンガーが、おのれの学を呼んで「ラポールの心理学」としたのか。それは人間性に対する存在論的構想と現象学的接近によって、轍鮒の急にある患者の存在様式の変様を知り、またそれを患者にも深く洞察させて、虚生の憂いから解き、人格の成熟を期待したからである。

 現存在分析は、患者との最初の面接からして誠実な極度の配慮を必要とする。治療者の平生の縦迹も重要である。患者より人間的信頼を受けるためにはこちらから信頼を先に贈らなくてはならない。こちら側からの患者の選択は許されるべきである。何故ならば何人にも適応である心理療法もなければ、万能の心理療法家もいないからである。「華は愛惜に散り、草は棄嫌にあふるのみなり」(道元、「現成公案」)という面は心理療法においても存する。共感性や人格的な信頼関係、更には客観的診断と称するものにもすべて有縁の選択性がかかわっているからである。無縁にするのも不愍であるといっても、こちらの限界も承知しているべきであろう。また患者については本人や周囲からきわめて多くの情報が期待できなくてはならない。発病前、発病時、発病後、それぞれについての客観的状況、およびそれについての患者の表現(主として言葉によるもの、その他、身振り、日記、手記、書簡、詩歌、絵画、造型作品)が詳細にそろっており、また患者自身が価値観をまじえて自己や家族について回顧的に述べることができることが望ましい。心理療法はある意味で患者に「生きられる時間」の「質」を教えるものであるが、これは一種の「面授相承」によらねばならない。

 また常識的とはいえ第三者、ことに家族から見られた患者観、そして家族歴、ことに遺伝関係、更に患者の乳幼児期からの教育史、生活史、親族や友人、教師から見られた患者像、彼らの知っている特異なアネクドートなどの当然である多くの情報に加えて、各種の医学的、特に神経学的検査所見、また投影法を中心とする多くの心理学的検査の所見などがそろっていることが望ましい。しかしこれらは望ましいのであって必ずしも絶対の条件ではない。現実には時間もなく、かなり不完全な情報の下から出発しなければならぬことが多い。もっとも神経学的知見だけは不可欠である。さしあたりは一つの夢、一つの言葉、一つのまなざし、ロールシャッハの検査の一つとのコンテント(内容)――いやそれどころか一つの沈黙でも充分なことがある。人情は反覆し、やがて患者から信頼がおくられる時、そのかかわりの歩みの中に貴重な治療上のデータが得られる。心理療法には「その時が熟するまで」かなりの忍耐が常に必要である。もともと人間は無弦の琴、無腔の笛と思っていればよい。患者の生活史などを早急にきき出すのは――筆者もよくやる失敗だが――もとよりきわめて望ましくない。一点の素心をもって相手から自然に語り出すのを待つほどの態度が必要で、時にはその前にこちらの生活史を先に語ることが有効なこともある。ただしそれは患者がおのれのことを話しやすくなるきっかけになる限りである。また全く別な症例(しかし生活史において患者と何らかの濃い親近性のあるもの)の状態像、治癒例などを話す。しかし全く別な人であり、あなたと関係のない話だが、と言って遠い過去を省みるような調子で、決して患者の眼を見ないで話すこともある。技法の詳細は述べる紙面はないが、ときには三十分は相互に沈黙したままでいさせることもあり、また瞑目させることもあり、ときにはテープ録音してある一種の口笛、尺八、あるいはバッハの無伴奏フルートソナタの一節などを聞かせることもある。これらは独特の集中統−作用を持っている。制限連想法の場合は紙に書いた漢語の刺激語が有効である。ただしコメントが必要であることはいうまでもない。例えば「浮生(ふせい)」「破車(やぐるま)」「天涯」「無象」「累(かさね)」(これが経験的には極めてよい)「詩思」「命分」「苦諦」「八荒」「寥天」「照翳」「風塵」「炎涼」「乾坤独歩」「草庵白屋」などである。この場合は反応語に対するアンプリフィケーション(増幅化)が大切である。そしてそのイメージを共体験してみることである。またこのような東洋系の言葉ではないギリシ7・ラテン系の箴言に類したものを入れることもある。「和語」はかえってやりにくい。またやはりコメントをつけた読書療法(ビブリオテラピー)を併用することも望ましい。コメントさえ上手なら患者の教養をあまり気にしなくともよい。素材は症例ごとに選ばれるべきだが、『正法眼蔵随聞記』でもよく、芭蕉、西鶴でもよく、ヘルダーリンでもよければ円朝のものでもよい。ただし心理学や精神医学の書は一切避けることはいうまでもない。これらは百害あって一利ない。

 結局、心理療法というのは言葉の魔術である。一つの言葉が患者を救い、一つの言葉が患者を亡ぼす。言葉の質、内容も大切であるが、話し方や言葉の形式も重要である。そして「吾心の氷岩は去り難い」のであるから、患者に対する態度はそれだけにいっそうにこやかで、真剣で、かつできるだけ丁寧な言葉を使うことが原則である。これは患者のいわゆる転移や抵抗に対してどのようにも使える武器なのであるが、実際には案外に無視されている点である。ただしこの丁重さは心よりのものであって人為的であってはならない。それは骨肉の愛を知っている患者にとってすぐ見破られてしまう。心地の上に風涛なく、共感そのものから出た真に丁重な敬いの言葉は、耳を傾け、かつ問う治療者の真剣な形姿とともに、既に充分に治療的である。たしかに人生は無聊であり、人間は所詮、生れながらの遷客であり、定業の中にあるので、心理療法をしてもなるようにしかならないともいえる。たしかにその通りかもしれない。しかし逆にそれ故にこそ心理療法はこの無明の世界にささやかな意味を見出すのである。それには治療者自身の逍遙遊が必要である。治療者の無意識的な治療的功名心は最も禁忌である。


2 北辺の孤影

 以上のような技法的なことには文化というものが反映しないとはいいきれないが、本質的に普遍的なことであり、むしろ技法や多数の症例からの帰納ではなくて、ある特殊な、あるいは稀有の症例から文化的特性の一瞬の光芒を直感的に感じとる操作のほうが適切であるように思われる。浮世は多塗であるが、文化はマスコミなどを通じて等質化され、疾患にも一種の常同化傾向があるのは事実である。しかし芒芒とした世路には時として凄涼な事例がうずくまっていることがある。


症例 二十三歳、女性、北海道東部の小さな町ともいうべきK市近郊に育ち、幼児期の記憶としてあるのは悪とした霧と氷のそれである。海にそった同地は海流の関係で、最も霧の多いところとして知られ、一年中、今晴れていてもす違い霧がかかるという日が多く、又冬は長い蛮の時間を持たねばならなかった。遺伝歴には特記すべきことなく、体格は細長塑、生後、身体発達は順調で著患はない。父親はもともと高い学歴を持ち本州の故郷で別な職業を持っていたが、結婚後、妻が男子二人を生んだ後覧義をはたらき、本患者を出産した。このことはしばらく夫の知るところではなかったが、ある他者の密告により、またそれにょる血液型の検査から夫に知られ、多くの意があったが「世間体を考えて」離婚には至らなかった。またこの夫婦関係のもつれの問に夫自身の情事も明らかになり、夫にも負い目が生じ、終には故郷にもいたたまれず、つてがあって北海道のK市に移住してきた。文字通りの「よそ者」であり、事実、ただでさえ小さなK市の更に郊外の荒地の一軒家のような所に住んではとんど近所との交際もなく、訪客もなけれは、こちらから訪ねていく所も少なかった。患者の人生の気分を終始いろどっているものは「すべてがかすんで薄れていく」ということである。それは現実があったかと思うとたちまち霧で視界が零になるという天象から転移した人象への不信感とでもいうべき色彩を帯びていた。彼女は二人の年の離れた兄を持っていたが、いずれも家を出て遠く本州に家庭を持っていた。彼女の父は「皮膚が骨にはりついたような」「灰色の顔を持っている」ばかりでなく、患者に対してはおよそ無口で親しみのない「灰色の人格」であった。患者はいつも父から突きはなされるような限でみられた。しかしその父が、他人に接する場合は「人が変ったように」愛想がよくなるのを異様に感じた。母親もこの「罪の子」である患者に、夫に対する憎しみを移しかえて扱った。それはただ厳格なだけで朕けではなかった。両親とも分裂気質であり、相互に冷たく攻撃的であった。母親は故郷では素封家の豊かな生活の家庭出身であったが、因襲的で身勝手であった。父親はその家に出入りしていた職人の家の子で、知能の高さが目立ったために母親の家から学費を受けて高い学歴を得た。そのために見込まれて結婚したが愛情はなく、何かにつけて家柄の差、育ちのよしあしがいわれ、肩身の狭い思いをしながら、妻には冷酷な夫になっていった。終には、既述のように、どちらが先ともつかず妻は夫を裏切り、夫は妻を裏切る結果になり、人々のうわさやまなざしを逃れるために、新天地を求めるというよりは、いわば流亡の生活として北辺の土地が選ばれたのであった。そして三人暮しの光陰の内で、幼い娘は、冷たい敵意のあかしのボールのように夫婦の間にやりとりされるのだった。従って当然のことながら、患者は小さい時から家庭的団欒というものを少しも知らなかったし、またそれが当然なことのようになってそれを怪しみもしなかった。たまに招かれていった友人宅などで、家庭的団欒の雰囲気に接すると、彼女は驚きながら羨望を感ぜず、やはりすぐなんだか「霧が流れてくる」、すなわち消えて行くにちがいないと思うのだった。ふとしたことから父親がちがうことを知り、なんとなくそれを受けとめたものの、小言によく言われる「何しろ血液型がちがうからな」は思春期以後ひどく彼女を苦しめた。少女の時に伝書鳩を友人からもらってきて、母親にひどく反対されながらも育てていた。それはどこで放しても必ず帰ってくるという伝書鳩の帰巣性が奇妙に彼女をひきつけたからであって、日常のいわば「帰る巣のない」彼女にとってはそのことは了解し得ることである。しかし餌や給水やすべての世話まで母親の意地悪な言葉で妨げられながら、彼女がいこじに育てたその鳩は、いよいよ伝書鳩としての性能を試すべく、わずかに離れた場所につれていって放したのにもかかわらず、いくらたっても帰ってこなかった。夜になるまで立ちつくしていたが、闇と寒気とがやっと彼女を家に入らせた。父親の皮肉と母親の嘲笑に対して綬女はかたくなに沈黙を守った。しかし彼女は失望したというよりは「それはそうなるようになっていたのだ」とでも表現すべき気分だったという。彼女はその他にもペットとして捨てられた仔犬、仔猫などをそっと飼おうとしたが、もとより許されず、彼女が学校に行っている間に遠くに捨てられた。また死んだ仔猫の墓を彼女は念入りにつくったが、学校から帰ってみるとそれは取り去られ、盛土はふみつけられ、なだらかにされてしまった。しかし彼女は数日後、再びそこを掘り返して腐敗し始めたペットを見つけたが、それはふしぎにも当時、「何の感動も与えなかった」そうである。もちろん涙はあふれたが、それは現実から遠い、しかもそうなるようになっていたという感じであったという。仔猫の白濁した眼は患者の回りに立ちこめる穿と同じ色なのだという印象が記憶されている。小学校も中学校もかなり家から離れており、途中までは友人と一緒でも、別れてからは北方特有の大ぶりの雑草の茂る荒地を、しかも雰の中を歩いて帰る時、患者はコンプ漁にやとわれて帰る人々と時おりすれちがう以外、全くひとりであった。それはすべて砂漠の相貌(これは後になって見た映画によって得た知識だが)そっくりだったという。読書家ではあったが、学校の勉強はとりたててせず、また家庭内で指導してくれる人も当然いなかったにもかかわらず、学校の成績は抜群によく、それはその後のいかなる進学をもわずかな準備で容易にした。なお初経は中一の時にあったが、母親にも教わらず、学校の保健では習ったが、興味のないことは何一つ覚えようとしない彼女の性向に従って全く聞いていなかったので、級友の笑いものになった。しかし彼女自身にはただ不気味さだけの無感動を与えただけであったが、元来それ以前から漠然とした形で持っていた自分の身体についての、いや自己の存在それ自身についての嫌悪感がつのったことは事実であった。小遣いの金はわずかしかもらえなかったが、普通の子どものように甘いものや少女雑誌を買うこともせず、また女友達のようにおしゃれの小物を買うこともせず、その使途は全く忘れられている。ただ一度だけとても気に入った一つの人形を見出して、それを買い、あまりかわいいのでそれを広い浜辺の砂の中に「埋葬した」ことを覚えている。何故ならばその地の習慣である、一家総出の浜辺のコンプ乾しにきている級友にそれを見られて、それ以来ますます「ヘンな子」扱いをされたからである。最優秀の生徒であるにもかかわらずホームルームでも彼女はほとんど発言せず、怒りもせず、笑うことも少なかった。しかし校外で争うことがあった場合には、決して男の子にも負けなかった。あやまったこともなく、いかなる暴力をふるわれても、少しもくじけなかった。組みしかれたままいつまでも泣かずに相手をまじまじと見ていたという。同じようなことは隣接のN市に通った高校時代に帰途、ひとりの工員に野外で暴行を受けた時にも言えた。目撃していた人の通報で加害者は直ちに逮揺されたが、彼女は医師の診断を拒み、苦痛を誰にも訴えなかった。事実、両親もこの事件に閲し冷淡であった。

 とにかく彼女は人生に何か要求することはできないものと思い込み、およそ人間からは暖かい厚意が期待できるとは夢にも想わなかった。それは食物にも及んでいて、後に治療者に奇異の念で気付かれたことであるが、初めて食べる新しい食物、新しい料理には手を出さなかったり、あるいは極めて用心深く味見をした。

 彼女自身が必ずしも期待したわけではないのに東京の一流校の大学受験に成功し、彼女は初めて家を離れて上京した。別離への悲しみも、また故土への郷愁もなかったが、とりたてて解放感もなかったという。休暇にも帰郷せず、東京でアルバイトをし、狭いアパートの一室に独居していた。大学では目立たぬ、優秀な学生で、課外活動はせず、表面的な交際はあっても、友人はほとんどできなかった。そして大都会のテンポの早い生活と、なじめない群衆はわずらわしかった。時には自分のしていることが常に見られるような感じが長く続き、気分が沈むことが多くなったり、一過性であったが、すべてあたりの空気が一変して、何か冷たい敵意のようなものが自分を取りまいている気持が強くなり、また自分は駄目な人間だという深い憂愁でどうにもならなくなることもあった。それは濃い霧がくるような感じであった。大学で彼女は国文学を専攻した。これも外国文学はあまりに遠い世界であり、心理学や教育学などの他の文科系の学問は退屈であったからに過ぎない。「中世文学における怨の思想」というのが彼女の研究テーマであった。これは彼女自身が選んだもので、一年留年してまで取り組んだ論文は優秀かつ独創的であると同時に異様な発想を含んでいた。彼女の指導を担当しているひとりのすぐれた教授が、単なる才能とは違う、そのペシミスティックな鋭さ、彼女のととのった美しい顔立ちの冷たく昏い無表情、時折りの突拍子もない発言、デュバルクの音楽などへの深い慣例(なおデュバルクはわずかのすぐれた作品を残して恐らく神経系の疾患のためにジュラル山脈深く、その霧の中に姿を没した近代フランスの作曲家)などにみられる感性の鋭さ、教室のコンパの際などの飲酒時のただならない攻撃的な荒れ方、全く将来の生活設計を考えないニヒルで非常識な表現が強くなること、また彼女自身が悩む長期の不眠や既述の一過性の不安な症状などから、精神的な異常の可能性を疑って神経科の受診をすすめ、彼女はいくつかの病院を訪れたが、彼女の診断名は結局つけられずじまいであった。分裂病の診断は疑われては取り消された。そして対症的に安定剤や眠剤の投与を受けたのみであった。


 その後、彼女はただ教授に対する「義理」から紹介されて治療者のもとに来た。丁寧で礼儀正しく、几帳面に約束の時間を守ったがコンタクトはつかず、心理療法は困難をきわめた。それでも徐々に内的生活史の諸事実が浮び上ってきた。なにしろ風波の一葉のように彼女は人生からも何も期待しないのであるから、治療者からも何も期待する必要はないのである。治療者にとって彼女の生き方は「影いたずらに我が身に随う」といった印象であった。彼女の世界は変幻する灰色の霧のそれであり、去来する寒冷のそれであった。彼女の抵抗の強さは治療場面でプロデュースされる暖かさを彼女が職業上のまやかしのように思ったからであろう。ただ自殺念慮はきっばりと否定した。「私は小さい時からもういわば亡んでいたのです。どうしてもう一度死ぬ必要があるでしょう。」したがって治療の目的は彼女がもう一度生き、何かを期待すること、ささやかでも有生の楽しみを得ること、そしてそのために人間の暖かさに触れさせることであった。彼女が「怨の思想」というテーマを選んだのは一つの投影であり、彼女自身が霧の中に凍りついたルサンチマンの化身と考えられるからである。キルケゴール的な其の絶望は心理療法ではもはや救えないが、死灰に似た心のルサンチマンこそ心理療法の格好の相手である。しかし治療は易しくはなかった。人間学的定位による面接の回数が重ねられるにつれ、既述のような生活史の詳しいデータが分明になったが、もともと持続したり、増強したりするポジティブな精神医学上の症状がないので、冷たい霧、凍てついた低い暮雲の下の荒地の道程を身につけた、よりつきがたい存在の様式のみ明らかになった。国文学専攻であることを利用していくつかの禅書を読むことをすすめると、喜んで読み、治療的に利用された。治療の初期の彼女の夢の特色は不気味な、海底の黒い限のない魚とか、白濁した胸に穴のあいた霧の内の性別不明の人間の立つ夢、また大きな野獣に追われて力つきる夢などという形のものが多かった。しかしやがて萌え出でる早春の原野で大河に面して坐っている、といった彼女自身もどうしてこんな夢を見るか判らない夢が混在し始めた。これは治療にとって明らかに良いしるしであった。

 ところがちょうどその頃、彼女はかなり重い自動車事故(彼女の不注意によることでもあるが)に遭い、救急車で病院に収容された。意識は喪失し、出血量が多かったために輸血を必要とした。しかし家族はいず友人も来なかった。全く偶然なことからこの事故を知ってかけつけた治療者は直ちに自分の献血手帳をさし出した。しかしたまたま病院の都合で血液が足りず、とりよせるまで時間がないので、患者と血液型が同じであった治療者は新鮮血の供給を申し出た。規定の量に達した時まだ必要だと思った治療者は「もっと採って下さい、私はどうなってもいいんです」と言った。これは別に悲壮なヒューマニズムからでは一向になくて、治療者は既に老年期に入り、もう充分に人生に倦んでいたからである。しかしこれが仇になった。治療者は単に無花の古樹であったが、患者は傷心の春草であった。ずっと後に事故の負傷がすっかりなおりかけた時、そして治療者の出張中、患者は治療者が口止めしておいたにもかかわらずふと看護婦からこのことを聞いてしまった。患者は顔色を変え、とめどもなく涙をこぼし、それから突然に拒食を始めた。つまり強い希死念慮が生じたのであった。静注栄養も拒否された。身体は衰弱し、やせ始めたが、誰が何と言っても駄目で、いかなる説得も受けつけなかった。


3 伝統文化と死

 その後の経過は省略するが、治療者は、このような生活史の患者にとって、急に人間的な暖かさ(こちらはそんなことは少しも考えなかったが)を体験することが、どんなに危険であるかを思い知らされた。これは少なくとも治療者の習った西欧的な現存在分析的な心理療法にはどこにも書かれていないことであった。またこのような症例報告を読んだこともなかった。

 しかし我が国の限界状況の記録にはこれに対応する事実がある。詩人である石原吾郎氏の『望郷と海』(筑摩書房)は終戦後のソ連における強制収容所の記録としてきわめてすぐれたものである。筆者は別な関心から年来、ナチスの強制収容所のあらゆる体験記録を集めて検討しているが、ソ連の強制収容所の体験も、それが強制収容所である限り、そこでの囚人の行動ははとんど類似して、限界状況における人間性の普遍性を示している。しかし石原氏の記録の内にナチスの強制収容所にはなかった事例がある。石原氏はもとより全く無実の罪で二十五年囚として多くの日本人捕虜とともに酷寒の冬の淘汰に耐えて、無惨にやせ衰えた身体でハバロフスク第六収容所に移ったが、そこにおけるKというやはり二十五年囚のひとりの日本人の行動を描いている。Kが突然、絶食を始める。「……絶食は誰にも知られないまま行われたので周囲のものがそれに気づいた時には既に二日ほど経過していた。絶食がハンストの形で行われたのでなく、絶食中も彼は他の受刑者と共に、市内の建築現場で黙って働いていた為、発見がおくれたのである。…‥」このKは極度の劣悪な労働条件の下では人間が生きるために完全にエゴイストになる中で、なお人間的な品位を失うことなく生きてきたひとりであった。例えば作業現場への行き帰りに囚人は必ず五列に隊伍を組まされ、その前後左右を警備兵が行進する。行進中、足をすべらして一歩でも列外に出れば、それは逃亡とみなされその場で射殺される。「ことに実戦の経験が少ないことにつよい劣等感をもっている十七、八歳の少年兵に後ろにまわられるぐらい囚人にとっていやなものはない。彼は犬を射つように発砲するからである。従って犠牲者は当然、左と右の一列から出た。囚人たちは争って中間の三列に割りこもうとする。」しかしKはすすんで外側の列にならび、また最も苦痛な作業にすすんでついた人間であった。石原氏は彼の絶望的な行動をとめるために、自らも絶食を始める。「……絶食四日目の朝、私はいやいやながら一つの決心をした。私は起床直後、彼のバラックへ行き、今日からおれも絶食するとだけいってそのまま作業に出た。事情を知った作業班長が、軽作業に私をまわしてくれたが、夕方収容所に帰った時にはさすがにがっくりして、そのまま寝台にひっくり返ってしまった。夕食時限に近い頃、もしやと思っていたKがきた。めずらしくあたたかな声で一緒に食事をしてくれというのである。私たちはがらんとした食堂の隅で、ほとんど無言のまま夕食を終えた。その二日後、私ははじめてK自身の口から絶食の理由を聞くことができた。メーデー前日の四月三十日、Kは他の日本人受刑者とともに『文化と休息の公園』の清掃と補修作業にかり出された。たまたま通りかかったハバロフスク市長の令嬢がこれを見てひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡したというのである。Kもその一人であった。そのときKにとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。Kにとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。その時からKは、ほとんど生きる意志を喪失した。これがKの絶食の理由である。人間のやさしさがこれほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった……」

 既述のように、このKのような事例はナチスの強制収容所の多くの記録の中には見出されない。それは筆者の扱った前記の患者と強い親和性をもった行動である。そしてこれも既に述べたように、この患者のような症例は筆者が今まで目を通した多くの欧米の症例報告で読んだことはない。それはどのように理解したらよいであろうか。たしかに症例あるいは事例として二例とも稀有のものであろう。しかし、それが欧米の症例に絶対ないという保証はない。むしろ問題なのはこのような症例に対して人々が示す反応の文化的な差である。経験によれば一般的に――このような一般化の危険は充分承知しているが――それが我々に充分、心情的に共感できることであり、欧米人には、合理的力動的な解釈は巧みにするであろうが正直のところ了解に苦しむものである、という差が見られる。これは何故であろうか。しかもこれは必ずしもそれぞれ文化の高度の伝承者、声聞の処士に限っていないのである。それは我々の場合、最近のどうにもならない文化上のネオフィリーでなければ、人々が共有している、ひとりの遷客としての人間の生きざまに対する有情である。従ってこの現象の本質を分明にすることは厖大な文化比較を必要とするであろうし、そうすれば問題の複雑性の故に二義的なものが出てくることは期待できない。しかしもともと特性というものは「他に見られない性質」という意味での排他的な概念ではない。実際には多くの他のものと共有するが、そこにおいて特に目立つという意味での性質である。そのように考えてみると、説明や実証が不可能に近いおよそ大胆な解釈学上の仮説的な疑問を提出してよいかもしれない。それは「この問題はわが国の文化の長い歴史における希死の思想の系譜を心理学的にたどることによって明らかにされるものではないか」ということである。既に十一世紀の初頭、まだ地上のどこにも存しなかった「死」の世界文学『源氏物語』五十四帖を生み出したものは尋常なものではない。それは決して偶然的なことではなく、古代からの特殊な他界観に集合的無意識的につながるひとつの通奏低音が存するのではないだろうか。そのサナトス志向性は長く今日においても深層的に存するのではないだろうか。そして時おりそのひとつの思帰として、その投影の微光が我々に感じられるのではないだろうか。それは西欧的文化のもっている死生観とは異なる、死の三人称化による希死の思想――能「隅田川」において死は「事終って侯」と静かに日常性の水準でうたわれるように、我々の場合、Er ist gestorben(彼は死んでしまった)ではなくてEs ist gegangen(それは行ってしまった)なのである――がこの場合も働いていないだろうか。これらの問いには始めから応答は不可能である。たとえ綵筆で気象を犯すことはできても、この人象に対してはこちらは「白頭、低垂に苦しむ」のみである。


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