[解題]

 霜山徳爾「極限の孤独」〔『人間へのまなざし』(中公叢書、昭和52年2月)所収〕。
 石原吉郎の『望郷と海』に基づくラーゲリ体験者の分析であるが、鹿野武一も石原吉郎と同じ体験をしている以上、両者を強いて区別するには及ばないと判断し、収録する。




極限の孤独



1 暗黒の光陰

 二十世紀に生きる人間にとって、差恥心なしには想起することができず、罪障感なしには記述することができない社会的、政治的な出来事があまりにも多すぎる。啓蒙時代以来の合言葉である人類の進歩とか平和とかいうものがいかに空しいものか、ルソーの思想がいかに偽善的なものかがますます分明になってくるようになった。近代人がひとつの高慢なおごりによって、それ以前の時代の「低さ」をさげすみ、例えば、中世の「晴黒」時代などといっていた、いわゆるドーソンの「進歩の宗教」の時代は現在すっかり興ざめしたものに変ったといえるであろう。人間がその攻撃性を最も抑制しにくい生物であることも自覚されてきた。今まで戦争によってであれ、政治的抑圧によってであれ、これほどジェノサイドが行なわれ、無数の多くの死者の出た時代はなかった。かつてジンギスカンの軍隊が、少しでも反抗したものは非戦闘員までことごとく殺し、すべてを廃墟と化しさったとしても(余談になるが、そのために蒙古は東洋の代名詞であり、恐怖の記憶となり、「蒙古型」(モンゴロイド)白痴というような現在からみれば考えられないような精神医学上の用語がうまれる基盤がつくられた)、それは第二次大戦における無差別爆撃や原子爆弾の投下にくらべれば、まだとるに足らないものであった。またひとつの人種に属すること、ひとつの世界観を有することが、それだけで充分に集団的な虐殺の対象になったこと、しかも、それが空前の規模で「計画的かつ組織的に」なされたことは史上にかつてなかったことである。シュテファン・ツワイクやクラウス・マンなどの知識人をして、歴史の将来に対する絶望の内に自殺させた全体主義の暗黒な巨大な力は、現在でこそ何か不思議な異変のように想われ、学問的な研究の対象とはなったが、これが繰返されない保証はない。今日でも地上では毎日どこかで砲声がきかれ、ソルジェニツィンの『収容所群島』という作品などから判るように、現在でも強制収容所はいたるところに存在している。強制収容所は何もナチスの専売ではない。現在でも主として社会主義諸国にはれっきとして存在していることに問題がある。人間性には少しの進歩もなく、それは政治において最も露わに現象する。もともと政治というものの「本質」は決して「寛容」ではなく、「必ず相手を亡ばさなくてはやまない」ことなのである。従って、ひとつのイデオロギーで民衆を統治しょうとする時、必ず強制は避けられず、人間性を孤独の内に疎外することによって矯正するか、あるいは抹殺するのである。

 ヤスパースのいわゆる「限界状況」はたしかに実存的な危機を思想史的に背景にしているにせよ、何といってもまだ哲学的な思弁のうえに漂っているロマン性を持っているが、実際の、べッテルハイムがおのれ自身の体験による強制収容所の心理学的研究で使った「限界状況」、あるいはむしろ「極限状況」の方は、一片の人間性、感傷性を持たない、人間への露骨な憎悪の、考え抜かれた人工的な果実なのである。しかし、まさにここでこそ個人が抹殺され、非人間化され、あらゆる過去の生活史とその内における人々との連帯性を奪って非情以外の何ものでもない状況に直面させられることによって、まさに人間の孤独そのものが、およそあらゆる文学的化粧を落して露呈することには間違いない。ナチスの強制収容所の研究は、社会学的、心理学的にかなりよく研究され、文献も多い。とくにフランクルの『夜と霧』、コーエンの『強制収容所における人間行動』、それにべッテルハイムのものなど、すぐれたものも少なくない。現在までの居場所と地位とを奪われ、ささやかな幸せな生活、親しい家族との雰囲気を取り去られ、きびしい監視のまなざしの下に、いずこに連れ去られるか判らずに連行され、いかなる罪だか判らず裁かれ、あらゆる迫害をうけるという点では、分裂病の発病初期の精神病理に類比的に似ている。分裂病が人間と人間との間の信を奪う孤独の疾患であるとすれば、強制収容所の極限状況における人間の存在様式も同様な孤独感をもって始まるのである。フランクルも、外国から移送された、言葉も通じないいろいろな収容者のグループをたらい廻しにされた、いわば孤独の上に更に荷重される孤独感について記録している。

 しかし、極限状況における孤独といっても、もし――全く仮定の問題だが――それが単に純粋な孤独そのものであるならば、すなわち余計な夾雑物が少しもはさまれていなければ、その孤独は人間にとって必ずしも嫌悪したり、戦慄すべきものではない。サン=テクジュペリはサハラ砂漠の三年間の孤独の生活をどんなになつかしく追想していることだろうか、それは豊かな、精神を富ますものであった。また、全く人煙を断った砂漠での孤独の瞑想によって、西欧の宗教精神に大きな影響を与えた聖者シャルル・ド・フーコーの生活は――たとえ彼自身はその後、おそらく砂漠の盗賊に襲われて殺害されているのを発見されたにせよ――たしかに極限的かもしれないが、その孤独はあまりにも純粋で、われわれにノスタルジックなものさえ感じさせてしまう。

 もともと孤独というものは、人間存在の根源的な条件なのであるから、それ自身を認めないで、下手な「隣人愛」や「共人間性」などを説くことは目もあてられない感傷に堕することでもある。しかし、実際には強制収容所における生活の孤独は、それとはいわば異種なもので、孤独の上に恐るべき歪曲と醜悪化が加えられているのが普通である。フランクルも収容所生活の惨状と孤独に対して、『夜と霧』の内で「……しかしどのようにして、私たちがそれに慣れたかは聞かないで欲しい……」と述べている所以である。

 この点を考察するのには、ナチスの強制収容所の記録ばかりを漁る必要はない。わが国に対するソ連の太平洋戦争後の国際法違反による捕虜虐待、抑留、強制労働による悲惨な強制収容所生活、それによる多数の死亡者の問題については、何故かこれを真直ぐに見すえて扱うことを、我が国のマスコミはしていない。あれほどナチスの強制収容所や体制についての研究があり、最近もアーレントの大著(『全体主義の起原』みすず書房)も訳されているぐらいジャーナリズムは熱心であり、旧聞に属するがアイヒマンの裁判には特派員を集結させることは知っていても、シベリア抑留生活の惨状の心理学はない。


2 『望郷と海』より

 しばしば西欧にあって日本にはない精神的な異常、あるいは異常行動として「強制収容所後遺症侯群」というのがあるといわれる。しかし、わが国でも、このソ連抑留生活を七年も八年もした人には、この症候群の人が少なからず存しているのである。ただ「進歩的な」若い精神科医などは全くこれを理解せず、また理解する能力も持っていないし、それほどの社会科学的感覚を有していないというだけである。長谷川四郎氏の『極光の蔭に』、石原吉郎氏の『望郷と海』などのすぐれた記録が殆ど省みられず、本来ならばベストセラーになるべき内実を持っていながらそうならないのは驚くべきことのように思われる。それはマスコミが故意にこれを無視するように操作されたという説があるほどである。右であれ、左であれ、政治の黒い影にはわれわれは戦慄を感ぜざるを得ない。

 石原吉郎氏の『望郷と海』からまず極限状況における孤独の諸相をとり出してみよう。石原氏は昭和二十年、敗戦の冬、ハルピンで抑留される。もとより無実の密告によってである。そして南カザフスタンのアルマ・アタ収容所に入れられる。ここで三年の「未決期間」をへた後に、昭和二十三年夏、北カザフスタンのカラガンタへ移される。そしてその翌年二月正式に起訴され、カラガンタ市外の中央アジア軍管区軍法会議カラガンタ臨時法廷において、反ソ罪として重労働二十五年という、気の遠くなるような重い判決を受け、もともとありもしない「ソ連国籍」を剥奪され、そしてストルイピンカ(拘禁車のことで、帝政時代の内相の名である)にのせられ、苛烈なプラーン(吹雪)の内を、ソ連の強制収容所体制の内にくみこまれる。そして氷点下四十度をこす酷寒のコロンナ収容所で、森林伐採、採石作業、鉄道工事などをさせられる。石原氏の詩人としての魂は、ここであらゆる屈辱の傷を受けるのである。多くの同囚は死亡するが、氏は辛うじてそれに耐え、八年後の政治的特赦によって、やっと帰国することができた。その強制収容所体験の記録は、詩人の文才も手伝って、フランクルその他の記録よりも或る意味でははるかに感動的である。

 その内で、人間の孤独が極限状況では、どのような恐るべきものに結びつくかということが、きわめて現実的に語られている。たとえば、シベリア、バム地方では五月になると、マシカと呼ばれる毒ぶよが霧のように発生する。「……それは殆ど一夜の内に発生して、或る朝私たちは戸外に出るやいなやマシカの群の内にいた。むき出しになった皮膚へ針で刺すような痛みとともにわっとまつわりついたものを、私たちははじめ理解できなかった。この地域に数年前からいる少数の『経験者』を除けば、私たちは殆どこれについて無知であった。経験者たちはおよそ必要な警告や助言を私たちに与えなかったのである……」

 「……こうして私たちは、予想もしない事態に逢着するごとに、自分ひとりの力でこれを判断し、理解し、対処することを学ばねはならない。たとえば、マシカにとりつかれたら、手ばやくこれをふりおとす。ころしてはならない。刺された後はなるべく水で冷やす。掻いてはいけない。マシカはいったんとりついたら、からだいっぱい血をすってしまうまでは決して飛びたたない。ほとんど逆立ちするような姿勢で皮膚に食い入ってくる胡麻粒ほどのマシカをつぶすのは、蚊をころすよりも容易である。それはただてのひらでおさえるだけでたりる。しかし、おさえた結果はさらに悲惨である。血の匂いにはおどろくはど敏感なマシカはおしつぷされた血の痕へあっというまに集まってくる。無経験な私は、最初の日にこの失敗を犯した。夕方、乾いた血でまっ黒になった手首を水で洗ったとき、皮膚の一部がうそのようにめくれおちるという目に会った。……私たちはこれらの教訓をひとつひとつ、ただ自分の経験を通してまなびとるほかなかった‥…」

 ここでは孤独には何の救済もない。この際の以前からの「経験者」の行動は特徴的である。極限的なおのれの人生における苦痛を通して獲得したものは、いわば生きのびるための智慧であり、なんの苦痛の代償なしに他人に分つことは許せないということなのである。また石原氏は、さらに「ある〈共生〉の経験から」という作品の内で、この問題を別の面からとり扱っている。収容所では一つの食器に二人分の貧しい食事が与えられる。二人の虜囚はそれを折半するために極度に神経質になって一さじのスープの多い少ないを争う。それは烈しい飢がその分け前の公平さに対して極度に敏感にさせるからである。共生しながらも二人は少しでも多く取ろうと敵になる。しかし、土工作業をするために――スコップ、つるはしなどの工具の良否が一日の体力の消耗に直接結びつくために――二人はそろって倉庫に飛びこむ。いちはやく目をつけた工具を確保するのには二人の合力と連帯とが必要だからである。しかし、次の食事の時にはまたもや一粒の豆をも争わねばならない。しかし、また夜には一枚の毛布を背中合せに寝て共有しなければならない。そして石原氏は次のような注目すべき言葉をのべている。

 「私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、ここでは人間はすべて自分の生命に対する真の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが人間を共存させる強い紐帯であることを、私たちはじつに長い期間を経てまなびとったのである……」

 「……これがいわば孤独というものの真の姿である。孤独とは、決して単独な状態ではない。孤独はのがれがたく連帯の内にはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気を持たぬ限り、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない……」

 この最後の言葉はわれわれに痛烈な印象を与える。それは文学的思弁の果実ではない。暗黙の内に憎悪を承認し合い、お互いがお互いの生命の直接の侵犯者を確認し合った上での連帯、許せないものを許し、苦い悔恨の上に成立する連帯 − これこそ孤独のやりきれなさなのである。一匹狼や独行者が孤独なのではない。また天涯孤独というものの方がずっと容易なのである。問題は極限状況においては孤独になれない孤独があり、それ故にこそ真実の孤独という逆説的な状況である。その上にさらに既述のマシカという毒ぶよの例のような、恐ろしいエゴイズムが接合しているのである。


3 エゴイズムとアパシー

 このことはナチスの強制収容所の記録においても、殆ど同じような記述を見出すことができる。有名なアウシュヴィッツやブーヘンワルトの収容所では、おそかれ早かれ、死ぬということが当然なことなのである。それを生き抜いたということは、さまざまな因子によるものとはいえ、同じ痛みの内に置かれているものが少なくない。それは一言でいえば前述のようなエゴイズムと、孤独の癒着ということである。ナチスの強制収容所を「生きのびる」ということは、どういうことかという点については、高橋三郎氏の『強制収容所における「生」』(二月社)という、すぐれた研究書がある。そこにはある囚人の証言の要約が引用されている。「ひとり狼は早死する、ともかくだれかと関係をわかちもたなければ収容所で生きていくことはできなかった。」そして高橋氏はいろいろな抵抗組織が収容所にあったことを文献から指摘しているが、そのようなものはたしかにあったであろう。しかし、フランクルその他の直接の収容所体験者から聞いた限りでは――強制収容所はその初期と末期とではきわめて条件がことなってはいても――それはわずかの例外であったようである。フランクルは、強制収容所に連行される貨物車――それは殆ど信ぜられないほどの人数を一ムロにつめこむのを通常とし、寝ることはおろか坐ることもできず、ただ立ったままの状態なのだが――の内で既に石原氏の指摘したのと同じ孤独とエゴイズムの結合を体験したことを報告している。

 そしてナチスの強制収容所では、なんとか「プロミネント」になることが、「ムーゼルマン」(回教徒、斃死直前の囚人を指す)に陥ることを防ぐ唯一の方法であった。プロミネントというのは、カポーと呼ばれる古参の囚人頭とか、その他、何かの特権を与えられる人々で、同じユダヤ人に対して場合によってはナチスのエスエスよりも残忍に他の同囚を扱うことのできる囚人になることであった。プロミネントになると、少なくともエスエスのごきげんを損ねない限り、食事もよくなり、収容所内を自由に往来し、集団的な処罰も免除され、個室や良い寝具さえ与えられた。したがって、誰でもプロミネントになれるものならなりたいと願うのは当然であった。そのためには仲間を売り、仲間をおしのけてそこへ行かねばならなかった。戦後の戦犯の裁判に、囚人自身がかけられたケースはすべて彼らの残忍なプロミネントぶりによってであった。しかし、自分が生きるためにはどうしても自分だけはそのエゴイズムを貫かねばならないのである。孤独とエゴイズムは文学的な形をのぞいては、通常は親和性が低いが、ここでは異常に高くなるのである。

 刑務所とことなって、強制収容所には刑期というものがなかった。また、刑務所とことなってここに抑留された人々は、一般的、常識的な面から見れば刑法的に全く無実であり、無害な人々であった。また刑務所には拷問はないが、ここではそれが日常茶飯事であった。それだけに抑留者たちは全く納得のいかないままに、いっそうみじめな剥奪感や喪失感を味わわざるを得なかった。現代流行の軽薄な心理学用語を使うならばアイデンティティの喪失に苦しまざるを得なかったのである。古い時代に同じような状況にさらされた東洋のある詩人は「天、必すべきか」(天は何故にこのような運命を私に与えねはならないのか、の意)と訴えている。従って、おのれの良心を放棄すれは生きられるが、それを守りながら生き抜くことはごく少数の聖者の如き意志の人にのみ、しかも偶然的に与えられたものというべきである。

 シベリアの日本人俘囚の内で、民主グループというプロミネントができて、「人民裁判」をやったように、プロミネントは他囚の抑圧の上に成立した。そしてエスエスに対して、従順、尊敬、贈物、密告その他なんでも仮面の演技によって認められ、「役に立つ奴」として忠犬のように仕えねばならなかった。その代償によって得た特権によって、通常の過重な労働(石切、土工)を免れなければならなかった。それは他の競争者との戦いをも意味し、隣人に対する愛情を全く抹殺しなくてはならない。エゴイズムは適当にぼかされてこそ、自他に耐えられるものになるが、これほど露骨になり得ることは人間性に対する憮然とした想いを禁じ得ないものである。そしてこのプロミネントの姿こそ何とグロテスクで、かつ不気味なものであろうか。しかし考えてみれば、それは人間性の一種の拡大図のようなものである。誰の内にも眠っているごくありふれたものにすぎないだろう。

 強制収容所における文字通りの強制によって人間は個性を失って平均化する。そしてそこでは人間はプロミネントになろうとするエゴイズムの孤独とはまた別なものを体験することにもなる。それはプロミネントになる可能性が全く失われた「平均化」された状況の場合である。石原氏は詩人らしく次のようにそれを表現している。

 「……シベリアのタイガ(密林)は、つんぼのように静寂のかたまりである。それは同時に、耳を聾するばかりの轟音であるともいえる。その静寂の極限で強制されるもの、その静寂によって容赦なく私達へ規制されるものは、おなじく極限の服従、無言のままの服従である。服従を強いられたものは、あすもまた服従をのぞむ。それが私たちの『平和』である。私たちはやがて、どんな形でも私たちの服従が破られることを望まないようになる。そのとき私たちの間には、見た目には明らかに不幸なかたちである種の均衡が回復するのである。」

 すると人間は、どのような心理になるであろうか。

 「ひとつの情念がいまも私をとらえる。それは寂寥である。孤独ではない。やがては思想化されることを避けられない孤独ではなく、実は思想そのもののひとつのやすらぎであるような寂蓼である。私自身の失語状態(筆者註 もとよりいわゆる神経医学的なものではなくて、収容所内の孤独の沈黙を指す)が進行の限界に達したとき、私ははじめてこの荒涼とした寂寥に行きあたった。衰弱と荒廃の果てに、ある種の奇妙な安堵がおとずれることを、私ははじめて経験した。その時の私にはすでに、持続すべきどのような意志もなかった。一日が一日であることのはか、私は何も望まなかった。一時間の労働ののち十分だけ与えられる休憩のあいだ、ほとんど身うごきもせず、河のほとりにうずくまるのが私の習慣となった。そしてそのようなとき私は、あるゆるやかなものの流れのなかに全身を浸しているような自分を感じた。」

 これは極限状況においては、孤独がまたアパシーと共存し、結合し得ることを示している。これはフランクルやコーエンなどの報告にも数多く見られることで、ここではあまりに惨めな孤独に耐えがたい故にこそ精神の死としてのアパシーをもってこれに対抗し、これを覆う無意識的な必要があるのであろう。しかし、このことの機制のミニアチュアは、現代の神経症的人間の内にもあるのではなかろうか。

 どちらにしても極限状況下の孤独とは、それ自身は特殊なものであっても、その許しがたい不幸な政治的実験の内に、人間性の根源的な照翳に関して深い洞察を与えるのである。

 ことに残生を養う孤老にとって、彼が生きてきた人生の虚窓に対する時、恐らくきわめて既述のことに親和性の高い心理になるであろう。「孤村苦霧(くむ)のうち」と良寛は言った。「孤貧これ生涯」とも言った。いささか素を養うのでなければ、凄涼の気が迫るのみである。


forward.GIF野次馬小屋/目次