休暇村 奥武蔵
[休暇村 指宿]
春は九州。九州の山は春がいい。
*1988年3月:霧島連山へ
えびの高原→硫黄山→韓国岳(1700)→獅子戸岳→新燃岳(1421)→中岳→高千穂河
原→高千穂峰(1574)→高千穂河原
※下山後、隼人塚に立ち寄る。
*1989年3月:九重山へ
牧ノ戸峠→沓掛山(1505)→久住分かれ→久住山(1787)→池ノ小屋(〈中岳往
復〉)→白口岳→鉾立峠→法華院温泉→段原(〈大船山(1787)往復〉)→段原北東端
→大戸越→平治岳(1643)→坊がツル→雨ガ池越→長者原(九重山登山口)
*1990年3月:祖母・傾山へ
神原→ 一ノ滝 →五合目小屋→七合目→国見峠→祖母山(1757)→障子岳(1703)→
土呂久分岐→古祖母山(1633)→旧尾平越→1334peak→三国岩→本谷山(1643)→
笠松山(1522)登り口→遭難碑→九折越(〈傾山(1602)往復〉)→カンカケ谷→九折
(鉱山跡)→上畑
※下山後、臼杵石仏群に立ち寄る。
*1991年3月:大崩山へ
上祝子→登山口→二枚ダキ→大崩山(1643)→1444peak→鹿納山(1567)→鹿納の
野(1548)→お姫山→五葉岳(1570)→見立→九折越→傾山(1602)→三ツ坊主→三ツ
尾→上畑
[※当初は上記ルートを行く予定だったが、強い雨の中、登山口を見落とし "大崩
山荘跡" まで行ってしまったため、後戻りはせずに予定を変更。徒渉して下小積
谷から坊主岩、坊主尾根、1571peakへと進み、石塚へ。大崩山(1643)を往復し
た後は1444peakを経て鹿納山(1567)へ。鹿納山を過ぎた "鹿納の野" のあたり
で小さなコブを巻くところ、コブに向かって直登したことから思いがけず道を失
い、山仕事の踏み分け道を辿って日之影川沿いの道に下る。そこで幕営。
その夜、連れ合いの足親指に異変 (?疽) が生じたため、傾山再訪は断念する]
*2011年4月:雲仙普賢岳に( cf. 休暇村あっちこっち "雲仙" )。
「日本最南端の休暇村」"指宿" を訪ねたのも、2009年3月下旬。 "南阿蘇" と二つの休暇村を訪ねる旅だった。
当時、九州新幹線はまだ全線開通していなかったため、まず山陽新幹線で博多へ。博多からは "リレーつばめ" で新八代へ。新八代で鹿児島本線[現鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道]に乗り換えて鹿児島中央に。さらに指宿枕崎線に乗り換え、指宿へ。指宿駅からは送迎バス [要予約 / 所要時間:約10分] のお世話になった。
降り立った "休暇村 指宿" は、薩摩半島の先端部、錦江湾に突き出た田良岬にあって、 "魚見岳" [1] の濃い緑を背に建っていた。園地には一面にルピナスの花が咲いて、ところどころで葉を広げる木々の下生えを黄色く彩っている。目を上げると、彼方の空には白い雲が浮かんでいた。
黄花ルピナス (Lupinus lupin) が風に揺れ、指宿の春はたけなわ。 和名はキバナノハウチワマメ。"DIOSCORIDES" [薬物誌]にもその名が見える。
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フロントの寡黙な中年男性スタッフは、"薩摩男" ってこういう人を言うのだろうか、と思わせた。真顔を崩さない彼の前で、手続きの間中、私はなぜか緊張していた。彼の説明や態度に不親切な感があったわけではないが、とにかくうけ応えが簡撲なのだ。序でにと、知林島[2]について尋ねた際にも「潮の加減で今日明日は渡れないです」の一言。私はことばを継ごうとして継げないでいた。当時の場面を思い浮かべると、"あれはなんだったんだろう" と、今も可笑しくなる。
最初に受けた男性スタッフの印象が強烈だったせいか、その後の場面において、女性スタッフの存在が私の記憶からすっぽり抜け落ちてしまっている。連れ合いは「そんなことないやろ」と訝るが、ほんとうに全くもって女性スタッフの存在は思い浮かばないのだ。
手続きを済ませ、部屋に荷を解いて、まず "砂蒸し風呂" [3]に向かう。
「知林の湯」と名付けられた大浴場の脱衣所で浴衣に着替えた後、「砂風呂」の入り口で連れ合いと合流。申し込んであった "休暇村 指宿 オリジナル"「びわの葉入り砂むし温泉」を体験。
まず温かい砂の上に作られたスペースに数枚のビワ葉がパラパラと置かれる。次に、利用者である私たちが頭部にあたる箇所に手ぬぐいを敷き、浴衣の裾を整えて体を横たえると、スタッフが黙々と作業を開始。体に砂がかけられていく。
*砂むし風呂の効能 : 関節痛・冷え性 など。
砂蒸し風呂の男性スタッフも寡黙だった。手順等を説明するほかは " 無駄口" "愛想" のひとつもない。いっそサバサバしていて小気味いいくらい。
ただ、自然療法の「砂浴」は、長時間 "砂" 、時に "土" に埋まって "健康を回復させる" 方法[4]として知られるが、指宿の砂むし温泉は、積極的に健康を回復させるというより、砂に埋もれてちょっと "変わった" 体験をしてみるという観光的要素が強いように思う。
ビワ葉[5]もまた、自然療法の分野では高い効用の謳われる植物で、健康的イメージがさらに加わるが、茶褐色に変色し始めた葉や 、ビワ葉に直接肌が触れることない浴衣を着ての「砂浴」は効用の点で疑問が残る。だが、観光と言えば、それも許容できるのだろう。
ところが、ここで思いがけないことが出来。砂に埋まる私の心臓が早鐘のように打ち始めたのだ。砂をはね除けて立ち上がりたい衝動に駆られる。深く息を吸い動悸を抑えようとするが収まる気配がない。横を見ると、連れ合いは目をつむって砂に "蒸され"ている。声をかけるのは憚られた。一度は是非にと楽しみにしていた "指宿の砂蒸し風呂" だったが、ひたすら我慢。終了時間が待たれてならなかった。何分くらい経ったものか、「終わりです」の声に心底ほっとする。
それまで、自身全く気づかなかったが、私には閉所恐怖症に近い感覚があるのではないかと思っている。
身体を起こして立ち上がり、入念に砂を落として大浴場へ。
大浴場の扉の前のスペースでも砂を払い、さらに水桶の水で砂を流す。
明るく広々とした天然掛け流し温泉「知林の湯」大浴場でもしっかりかけ湯をし、落としきれなかった細かな砂粒を洗い流した後、明るい陽ざしの中、浴槽に体を滑り込ませた。入浴者はほかに誰もいなかった。
表面の腐食したカランが、温泉成分の濃厚であることを物語っていた。
*泉質 : ナトリウム ─ 塩化物温泉
*効能 : 疲労回復・筋肉痛・神経痛 など。
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そもそも"休暇村 指宿" は、現 "岩手網張温泉" や 現 "乳頭温泉郷" 、現 "妙高" 、現 "瀬戸内東予" とともに、1965年に発足が予定された "国民休暇村" であった。
当初、「国民休暇村 指宿」の宿泊定員は200名。併設の施設として、レクリエーション・センターや屋外娯楽施設(詳細は不明)、園地などが建設中であると、『国民休暇村(調査報告書) 昭和39年度』(早稲田大学観光学会刊 昭和40年6月30日)に記されている。
1965年に発足した当施設は、1989年に改築され、
鉄筋3階建て、
*客室数:65室(和室:57室 / 洋室:8室)
*宿泊定員:265名
となる。
そのころ、屋外には、テニスコートAW8面、ゲートボール場、ソフトボール場、多目的芝生広場、グラウンドゴルフ場、プール、サッカー場 等の施設があったらしい。当初の「レクリエーション・センターや屋外娯楽施設」とは、これらの施設だったのかもしれない。
私たちが訪ねた2009年、客室数に変化はなかったが、宿泊定員が208名になっていた。
また、屋外施設のゲートボール場、ソフトボール場、グラウンドゴルフ場、プール、サッカー場は見当たらず、テニスコートのみ残されていたように記憶する。
一方でオートキャンプ場「指宿エコキャンプ場」が開設されており、男女別のシャワー室や炊事棟(2棟)、水洗トイレなどが完備。売店やレンタルコーナーも整備され、洗濯機や乾燥機なども備えられていた。使用料は電源使用の可否で異なるようだった。オートキャンプが珍しくなくなってきたころだ。
再び大々的改築がなされたのは、先の改築から20年余を経た 2013(平成25)年
8月。
2009年当時、周囲にテント(?!)が繞らされて閉塞的な印象だった休暇村専用 "砂むし風呂" は開放的なデザインにリニューアルされ、「癒砂(ゆさ)」と名付けられて、オリジナルの「びわの葉入り砂むし」も行われているという。
大浴場「知林の湯」も改装。畳が敷き詰められて「柔らかくて滑りにくく足腰に優しいつくりに」なっているらしい。
同時に、貸切半露天風呂「癒湯(ゆゆ)」を新設。
[注: この露天風呂、2015(平成27)年6月、再び "アジアンテイスト" にリニューアル ]
この2013(平成25)年には、客室にも大幅な手が加えられ、当節流行りの和洋室が15室新設されたとのこと。
実は、2013(平成25)年8月の改築、 "外圧" により「新築・移転」の計画を変更せざるを得なくなった結果のようである。
"旬刊 旅行新聞" (編集部 2010年3月11日付記事) に見ると、
「指宿温泉旅館組合 休暇村新築・移転で「白紙から話し合いを」」
「指宿温泉旅館事業協同組合(野田譲二代表理事)は鹿児島県指宿市で2月23日、休暇村指宿本館の新築・移転について、休暇村協会側代表者と話し合いの場を設けた。
同旅館組合は「今、新築の国民休暇村を指宿に建設するのは、完全に官による民営圧迫」(野田代表理事)と白紙の状態からの話し合いを求めていく考えだ。
指宿休暇村の新築・移転は、現在営業していない既存の別館を解体後、その跡地にRC造り5階建て、客室数50室、定員約200人の宿泊施設を建設するもの。4月から着工し、来年4月のオープンを計画している。事業費は17ー18億円。45年前から、指宿市から格安のコストで土地を借りて運営している現在の土地を返還し、移転地では環境省の土地を賃貸借する予定。
野田代表理事は「この50年で指宿には宿泊施設が多く建設され、来客数が減少傾向にあるなか、むしろ供給過多の状況。さまざまな面で優遇処置のある、なかば公的機関の国民休暇村協会が新築の宿泊施設を作るのは小さくなったパイをより有利な条件で民間から奪うもの」と話す。
これまでの経緯は、1月12日に、休暇村指宿の西村俊之支配人から現地宿泊施設関係者に工事計画を説明。その後、指宿の宿泊業界関係者で、「休暇村指宿の新築に反対する要望書」を作成し、民主党鹿児島県連の川内博史支部長宛に提出するなど、対応した。民主党の打越あかし議員にも要望書を提出。予算案が通る月末に、指宿市長の元で、休暇村協会側と指宿の宿泊業界関係者との話し合いの場を設けると約束を取りつけた。
23日の話し合いの場には休暇村協会側から中島都志明常務理事らが出席。工事計画の事前説明がなかったことについて陳謝し、「これからは、旅館組合に入るなど、地域に貢献していきたい」と回答を受けたが、指宿の宿泊業界関係者は、あくまで白紙状態からの話し合いを求めていく考え。
野田代表理事は「リニューアルであるならば問題ないが、新築工事は公益制度法人改革で一般財団法人に移行する前の駆け込み策にも受け取れる。本当に指宿の観光振興を考えるならば、休暇村跡地をマリンスポーツが楽しめるヨットハーバーなどを整備するなど、代替案はある」と話す」とあった。
休暇村の "出自" と "性格" が垣間見える事案である。
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投宿二日目は開聞岳[6]へ。
家を出る前、いつのことだか、開聞岳山頂付近から噴気が上がったという報道があったのを思い出したので、一応 "噴火警戒レベル" を確認する。
開聞岳登山には、JR指宿枕崎線で開聞駅まで行き、駅から歩くのが一般的とされる [注:登山道は、ほかに川尻歩道がある] が、列車は便が少なく不便に過ぎた。休暇村のパンフレットを見ると「公共交通機関でお越しのお客様に大変お得な登山口までの往復タクシーの手配を承っております」との案内があったので、予約時にタクシーの手配を依頼。
その日、空は明るく晴れていた。
簡易のザックに雨具、水、お湯とコーヒーとクロワッサン、それに飴を入れる。
開聞岳は全体に常緑広葉樹が密生。
さすが本州最南端の山、
密生した樹々の "吐息" があつい!。
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麓から "むしっ" とした空気に纏わりつかれるようで、上りにかかる間もなく汗が噴き出した。登山道は五合目を過ぎたあたりから、山腹をぐるりと巻くように取り付けられてあり、思いの外高度が上がらない。汗を拭き拭き、 "直登できれば......." と思いながら登る。
山頂に出ると、360° 眺望が開けた。この日、岩の積み重なった狭い頂上には私たちだけ。
遮るものない開聞山頂に立って、深呼吸!。
春の陽ざしと春風がやさしく私たちをつつむ。
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岩の上に立って、ぐるりと見回すと三方は海。海上は靄っていて、遙かに見えるという屋久島や硫黄島等は望めなかった。陸側 "足もと" にはカルデラ湖の池田湖[7]が見えた。ただ、陸地も遠方は春霞に覆われて、桜島、霧島連山等は見えない。
かねてから連れ合いは、「九州の南には巨大な火山があり、それが噴火すれば九州の南半分が吹き飛んでしまうくらいスケールの大きなものになるんだ」と話し、「君は信じないだろうけど」と付け加えるのが常だった。私はいつも「信じない! 信じない!」と応えていたが、自分たちの立つこの峰がカルデラの一部だと思って見渡すと、彼の言がにわかに真実味を帯びて迫ってきた。
それにしても、私の記憶に残る "噴気" はどのあたりから出たのだろうと、痕跡を探して重なる岩々の間を覗いていると、連れ合いが「それって、いつの話?!」と言って笑う。
陽光のふりそそぐ中、二人で岩に腰を下ろし、コーヒーを淹れて、クロワッサンで小腹を養う。遙かな日、この山に翼を振って南方洋上へと飛び去っていった人たちのあったことを話していると、ふりそそぐ春の陽ざしさえ翳ってくるようだった。
しばらく山頂に時を過ごし、下山にかかる。
約束の時間より早い下山だったので、往路にタクシーの辿った一本道をぶらぶら歩き、岐路で迎えのタクシーを待った。
一旦休暇村に戻り、ロビーに設けられた喫茶コーナーで一息ついてから、敷地に続く浜辺に出た。
"休暇村 指宿" の建つあたり一帯を "田良浜" といい、浜は "くちばし" のように陸繋砂嘴となって知林島に向けて延びている。
知林島には渡れないまでも行けるところまで行ってみようと、砂嘴に向けて歩く。
遠目にも島に続く "砂の道" がはっきりと見てとれる。海の中にあるようではあったが、その深さは足首くらいか。だが、浜に散策する人の誰もが汀のきわから先に進む様子がない。
対岸は "知林島"。海の中に砂嘴が見える。
手前の田良浜、美しい浜辺だとはちょっと言えない。
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視線を移すと、幟が立ち、机がひとつ。そばに男性らしい人の姿があった。一瞬 "石を売る人" [注:つげ義春の作品『石を売る』に登場する人物] かと思って心騒ぐ。「まさか」と言いながら近づいてみると、知林島に渡ろうとする人に潮の満ち干を知らせて注意を促すNPO法人か何かの人だった。
この日も一見対岸に渡れそうに見えたが、潮の状況から危険だとのこと。過去には事故も起きているのだと聞いた。また、渡ったものの、時間を誤って戻れなくなった例もあるようだ。さらには満潮時に泳いで渡ろうとして潮に流された人もあったらしい。
あたりの浜をあちこち歩いてみると、砂浜には雑草が生え、コンクリートの工作物かと思われる残骸が横たわっていたり、さらには "ごろくた石" なども転がって、何事かを物語っていた。
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そもそも田良浦と呼ばれ田良浜といわれる魚見岳山麓海沿いの浜にはおよそ800年の間、人々が集住、半農半漁または農業で生計をたてていたことが記録に残されている。
明治初期に成った『薩隅日地理纂考』十四之巻九 鹿児島県私立教育会編 1898(cf.国立国会図書館デジタルコレクション) に見ると、
・田良浦:「豪富ノ艚戸多シ」
・田良觜:「同所海上ニ差出タルコト六七町ニシテ知林島ト僅ニ隔レリ」
とある。
田良浦は、江戸時代、密貿易の拠点として繁栄していたようで、富豪の船持ち(船主)が多く存在したらしい( cf.「いぶすき」(指宿市の "今"を発信する広報誌──Ibusuki City Public Relations 8) 2015 Aug. vol.116 )。
砂嘴、田良觜(タラハナ)は "海上に差し出ていること 6、7町(654.5m〜763.6m) で 、知林島とわずかに隔たっている" とあり、現在、観光案内などに「砂州は約800m」と見えるので、浜が若干後退した可能性はあるが、明治初期の地形とそう変化はないようだ。
田良浜が大きく変貌するのは、太平洋戦争の勃発に伴い、昭和17(1942)年、大日本帝国海軍省がこの浜に指宿海軍航空基地建設を計画して後のことである。
基地建設によって、当時この地区に居住していた137戸の住民は、昭和17年3月から約4ヶ月の間に強制移転となった ( cf.上掲「いぶすき」)。
そして、翌年(昭和18(1943)年)「5月には、水上機の発着がはじま」る(cf.「指宿・頴娃ジオガイド」)。
基地施設の配置がよくわかる。
今、この辺りは"休暇村"とキャンプ場が占める 。
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基地跡の案内板に、この「基地の由来」(※ [ ] は筆者注) を見ると 、
「指宿海軍航空基地は水上機の基地として昭和19年1月1日に開隊し第453海軍航空隊 (旧宿毛空 [宿毛海軍航空隊]を改編) の基地となり同年12月15日、第951海軍航空隊に統合され同隊指宿派遣隊となった。配備されていた零式水偵 [零式水上偵察機] (三座) 、九四式水偵 (三座) 、零式観測機 (二座) にて索敵訓練及び対潜哨戒、船団護衛等の任務に従事していた。尚佐伯空 [佐伯海軍航空隊。豊後水道防衛に備え、爆撃機中心に編成] の派遣隊が二式練艇 [二式練習用飛行艇] にて大型機操縦の訓練と九州南方海域の対潜哨戒を実施していた。沖縄戦が始まると南西諸島方面索敵の要衝の基地となり水偵増援のための佐世保空 [佐世保海軍航空隊] 、串本空 [串本海軍航空隊] 、大湊空 [大湊海軍航空隊] 、偵察302飛行隊 (瑞雲) 等の派遣隊が飛来した。此の頃より未帰還機が出る様になった。昭和20年4月1日沖縄本島に米軍が上陸、4月下旬に至り制海権、制空権共に米軍の手に落ち、沖縄戦に於いてはやがて特攻機の不足から水上偵察機も特別攻撃隊として使用された。参加した水偵機は、零式水偵と九四式水偵 (北浦空[北浦海軍航空隊]魁隊、詫間空[詫間海軍航空隊]琴平水心隊)、零式観測機 (天草空[天草海軍航空隊]第12航戦[第十二航空戦隊 〈第五航空艦隊〉、福山空[福山海軍航空隊]琴平水偵隊) の三機種であった。尚当基地は3月18日、米艦載機の攻撃に始まり5月5日のB-29に依る爆撃で壊滅的被害を受けた」と記されてあった。
特別攻撃隊として飛び立った水上偵察機は、昭和20年4月29日から7月3日の間に44機。搭乗員82名が戦死 ( cf.「いぶすきまるごと博物館」vol.170 )。
敵機迎撃等によって死亡した基地隊員は「100有余人」。
指宿海軍航空基地が昭和20(1945)年3月18日から5月5日の間に受けた空襲については、
「指宿の戦跡を訪ねて〜今伝える事〜」 指宿まるごと博物館構想推進実行委員会 制作:いぶすきムービープロジェクト / 時遊間cocoはしむれ(平成25年度文化庁 地域と共働した美術館 歴史博物館創造活動支援事業)に詳しい。
そして、昭和20(1945)年9月、大日本帝国政府は降伏文書に調印する。
敗戦後10年を経た昭和30(1955)年9月1日、指宿地区は、桜島地区、佐多地区とともに錦江湾国定公園に指定され、この錦江湾国定公園は、さらに9年後の昭和39(1964)年3月16日、屋久島地域とともに霧島国立公園 [注:霧島国立公園は、瀬戸内海国立公園、霧島国立公園とともに、昭和9(1934)年3月16日、日本で最初の国立公園に指定] に編入されて、霧島屋久国立公園となる。
かつての住民たちが元の地に戻ることはなかった。
指宿国民休暇村が、指宿海軍航空基地跡に建設され、開業したのは、指宿地区が国立公園に編入された 1年後の昭和40(1965)年春のことである。
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かつて指宿に軍事基地があり、軍事基地跡に休暇村が立地しているのであれば、その周辺に戦争の遺構や残骸が残されてあることは考えられないことではない。私たちが訪れた2009年、休暇村 "周辺" の浜に見た岩塊も戦後処理の "名残" のようだった。
「指宿・頴娃ジオガイド」所収 前園勇吉氏談 "休暇村道路脇に散在する大岩石の群はどうして出来たか" (’ 嗚呼、田良の里 ’ 記念誌発行委員会、1987年10月30日 ) によると、「戦後、占領軍の命令により、宮ヶ浜に貯蔵されていた弾薬を魚見岳の防空壕跡に搬送、爆破処理したことによるもので、戦前の田良地区に大きな岩塊は存在していなかった」という。
私たちが訪ねた午後、魚見岳に整備された "指宿海軍航空基地跡 慰霊碑公園" に人の影はなく、ひとり "哀惜の碑" だけが建っていた。
宿に戻り、夕飯までの間、私たちはことば少なに海を眺めて過ごしていたことを思い出す。
指宿二日目の夕食は──実は何も覚えていないのだが──「「薩摩の味」・日本伝統の素朴な味を堪能して頂ける「さつま料理」と紹介されていた"薩摩づくし"。 "鰹のタタキ" や "薩摩名物「つけあげ」" 、"きびなごの酢の物" 、"薩摩汁" 等々、料理の名が記録には残っている。
翌朝、波の上に "鴎ねぶれる" ような、うらうらとした春の日を指宿に残して、私たちは未訪の "南阿蘇" へと発った。
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[注]
1)魚見岳
魚見岳名称の由来を『薩隅日地理纂考』十四之巻九 / 鹿児島県私立教育会編 1898(国立国会図書館デジタルコレクション) に見ると、
「魚見峰 同巒海ニ臨テ稍高シ山上ハ白田ナリ漁人網ヲ引クニ此山ニ登リテ海中魚ノ多寡ヲ見ル故ニ名ヲ得タリ」(魚見峰[ウヲミタケ] 同小山は海に臨んでいて少し高い。山の上は畠(はたけ)である。漁夫が網を引く際、この山に登って海中の魚の多い少ないを見たことから(この魚見峰という)名を得たのである)とある。
※『薩隅日地理纂考』の稿が成ったのは、一般に、明治4(1871)年とされるが、
年次は説によって数年の違いがあるようだ。
この魚見岳、「灰色の斜方 / 単斜輝石デイサイト溶岩 (魚見岳溶岩:Iup)により成る標高 214.8m の岩体」(cf. 「指宿・頴娃ジオガイド」) で、阿多南部カルデラ縁の一部に相当する(Matumoto,1943) という。
( cf. 日本火山学会 「火山」第59巻(2014) 第4号 [論説] "南九州、池田火山の噴火史" 稲倉寛
仁・成尾英仁・奥野充・小林哲夫 pp.255 - 268 )
※(Matumoto,1943) とあるのは、松本唯一([1892〜1984] 火山学者・地質学者・理学博士) の論文 "The four gigantic caldera volcanoes of Kyusyu.Japan J.Ged.Geogr.,19.Special number,1-9" からの引用だと思われるが、筆者[kyniska] は原文にあたっていない。謝。以下同。
2)知林島
「鹿児島湾の湾口部に位置する、周囲約 3km、面積約 0.35? の無人島である。指宿市の東端、田良岬の東方約800mにあり、大潮の干潮時には砂州でつながる陸繋島」。傍の小島 (知林ヶ小島?) とともに阿多火砕流の堆積物であるとのこと。
『薩隅日地理纂考』(前掲書) には、「周圍凡一里陸地ヲ距ツ事十丁許ナリ島上白田若干アリ」((島の)周囲はおよそ一里[4km]。陸地を距てること10丁[1090m]ほどである。島の上に畠が若干ある)と記されている。畠が「若干アリ」ということから、農作物が出作りされていたものと考えられる。
柳田国男は、「島の人生」"島々の話 その一" において、「薩摩の南端指宿の海岸にある知林島は、山川港に入る船の目標であるが、岩礁で殆と陸と續いて居る。序にいふが此北海岸にそばだつ魚見嶽は樹林が多く、同時に魚附林として保安林になつて居る」と記す ( cf.『定本 柳田国男集』第1巻所収 筑摩書房 昭和53年11月刊 pp.450〜451 )
「指宿・頴娃ジオガイド」によると、知林ヶ島は、1960年代に民間企業によって買収されたが、1964年に錦江湾地域が国立公園に追加指定され霧島錦江湾国立公園の一部となったこともあって開発されることなく放置され、その後、指宿市によって買い戻されたらしい。
※陸繋砂嘴の出現時刻については 「知林ヶ島〜ちりんがしま〜いぶすき観光ネット」掲載の "砂州出現予測" に見ることができる。
3)砂蒸し風呂
「温泉の湧出する砂浜などで全身を砂中に埋めて蒸し温める」というもので、「鹿児島県指宿では〈天然砂蒸し温泉〉、大分県別府では〈砂湯〉(古くは沙湯) と称する。特に指宿では摺ヶ浜(すりがはま)を中心に汀線近くに泉源があり、南北約1kmにわたる砂浜で砂浴が可能である。温度は最高85℃で、浴衣に着替えて利用するが、砂浴の温度は砂の掘り下げぐあいによって調節でき、1回の砂浴は10〜15分が適当とされる。泉質はアルカリ性食塩泉で胃腸病、神経痛、婦人病、冷え性、リウマチ等に効用がある」という。
4) "砂" あるいは "土" に埋まって健康を回復させる "療法" の例
cf. 映画『異端の鳥』[原題: The Painted Bird ]
チェコ・スロバキア・ウクライナ合作 / 制作:2019 / 169分
原作:イェジー・コシンスキ (Jerzy Kosinski)
監督:バーツラフ・マルホウル (Vaclav Marhoul)
ナチスのホロコーストから逃れるため、田舎に預けられた主人公の少年が、「家」をめざして流離う中、ある村で、呪術によって "医療" を施す女[オルガ]に買われ、彼女の手伝いをするのだが、少年は患者の病に感染してしまう。その際、オルガは少年に "土に埋める" という療法を施す。ただ、あの一連の場面では、朝になって、オルガがやって来る前に、カラスが彼の頭をつつくため、残酷に映るが、『戦場のメリークリスマス』の "生き埋め" とは違う。
この療法によって、 少年は熱病から脱する。
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5)ビワ葉
※ビワ 基原学名:Eriobotrya
japonica Lindley /
漢名:枇杷
バラ目バラ科ビワ属の常緑高木。 中国南西部原産。
"枇杷(ビワ)" という名は、楽器 "琵琶" に葉の形状が似る [注:
『日本国語大辞典』に記載された 語源の出典は、塵袋・和句解・和 語私臆鈔・箋注和名抄所引本草衍義・大言海] 、あるいは、その実の形状が琵琶に似るゆえに名付けられたとされる。
「ビワの葉療法」
・「ビワの葉の厚いゴワゴワしたなるべく古い生葉をあぶって患部におき、手で押
圧しつつすりこむ」
・「ビワの葉をあぶって患部にあて、その上からゆでこんにゃくをタオルで巻いて
適当な温度にしてあたためるか、塩温石であたためる」
・「ビワの葉のなるべく新葉でない古いごわごわした生葉をアルコールか焼酎に細
かくきざんでつけてお」く。「一・二ヶ月すると茶色の液ができ」る。「これを
あたためて痛むところに温湿布してお」く。
・「ビワの生葉の上に八枚に折ったさらしをおき、その上に八枚に折った紙を重
ね、その上から特殊な棒もぐさに火をつけて患部を押圧」する( "枇杷葉温圧療
法" ) 。
等という方法がある。
この療法を紹介する東城百合子(1925(大正十四)年〜2020(令和二)年)は「ビワの葉にはアミグダリンという特殊な成分があり、これが熱によって皮膚の中深くしみ通り、その熱は温圧療法の場合、骨にまでしみこんでゆきますから非常によくあたたまります。そして細胞に活力を与え、血液を浄化する働きを助けます。とに角ビワの葉は家庭療法にはなくてはならないもの、私が経験した家庭療法では一番効果が大きいと思っています」という。( cf. 『家庭でできる自然療法』 東城百合子 あなたと健康社 昭和53年5月刊)
上記東城の前駆には『家庭に於ける実際的看護の秘訣』( 通称「赤本」) 築田多吉(1872(明治5)〜1958(昭和33))著 [注: 大日本帝国海軍看護特務大尉 / 国立国会図書館デジタルコレクション所収] があるようだ。
"ビワ葉" の "特性" "薬効" 等々については、『本草綱目』李時珍(1518〜1593)著 [注:国立国会図書館デジタルコレクション所収] 、『大和本草』貝原益軒(1630(寛永七)〜1714(正徳四))著 1709(宝永七)年刊 [注:国立国会図書館デジタルコレクション所収] 等に当たろうかと思った(これこそが核心だ)が、切りがないので割愛。
ただ、上掲書中に「ビワの葉の薬効は、お釈迦様がビワの葉をあぶって患部にあてる治療法を教えられたという」との記述があり、いささか気になったので、少し "寄り道" を 。
まずは、織田得能『仏教大辞典』、望月信亨『仏教大辞典』、宇井伯壽『仏教辞典』、中村元『仏教語大辞典』、『仏教植物辞典』(和久博隆編著)、『仏教の植物事典』(満久崇麿著) 、京都大学学術情報リポジトリ "仏典の中の樹木" (満久崇麿 / 木材研究資料 (1)〜(4) ) 等々にあたってみるが、"ビワ" についての項目を見いだすことはできなかった。わずかに、上記満久崇麿の書に "ビワ" に関する記述を見るが、その木質及び江戸期の枇杷葉湯についての伝聞が記されるのみであった。
他方、『大般涅槃経 第九巻如来性品』[a] にビワが "薬王樹" として記されているとする情報があった。だが、その『大般涅槃經』が北本なのか南本なのか[b]、出典が不明。引用者の直接引用でないことが疑われた。
が、"乗りかかった舟" 、「ほんとなのか?! 」と、調べてみる。
「巻九」に "如來性品" が見えるのは、北涼天竺三藏曇無讖譯本。所謂北本涅槃經「如來性品第四之六」にそれと思われる箇所はあった。当該箇所を以下に記す。[ ※ ( )内は筆者の補足]
「復次善男子 譬如藥樹名曰藥王 於諸藥中最爲殊勝 若和酪漿若蜜若蘇若水若乳若末若丸
若以塗瘡薫身塗目若見若嗅 能滅衆("衆"の本字 / 以下同)生一切諸病 如是藥樹不作是念 一切衆生若取我根不應取葉 若取葉者不應取根 若取身者不應取皮 若取皮者不應取身 是樹雖復不生是念而能除滅一切病苦 善男子 是大涅槃微妙經典亦復如是 能除一切衆生惡業四波羅夷五無間罪 若内若外所有諸惡諸有未發菩提心者 因是則得發菩提心 何以故 是妙經典諸經中王 如彼藥樹諸藥中王 若有修習是大涅槃及不修者 若聞有是經典名字 聞已敬信所有一切煩惱重病皆悉除滅 唯不能令一闡提輩安止住於阿耨多羅三藐三菩提 如彼妙藥雖能療愈種種重病 而不能治必死之人
復次善男子 ......(以下略) 」
[書き下し]
「復次ニ善男子、譬へバ藥樹名ヲ藥王ト曰フ如ク、諸藥中最モ殊勝爲リ。若シ酪漿、若シ蜜、
若シ蘇、若シ水、若シ乳、若シ末、若シ丸ニ和シ、若シ瘡ニ塗リ、身ニ薫ジ、目ニ塗リ、若シ見、若シ嗅ゲバ、能ク衆生一切ノ諸病ヲ滅ス。是ノ如ク藥樹是ノ念ヲ作サズ。一切衆生若シ我ガ根ヲ取ラバ應ニ葉ヲ取ルベカラズ、若シ葉ヲ取ラバ應ニ根ヲ取ルベカラズ、若シ身ヲ取ラバ應ニ皮ヲ取ルベカラズ、若シ皮ヲ取ラバ應ニ身ヲ取ルベカラズ。是樹是念ヲ生ゼズト雖モ能ク一切ノ病苦ヲ除滅ス。善男子、是大涅槃微妙ノ經典亦是ノ如ク、能ク一切衆生ノ惡業四波羅夷五無間罪ヲ除ク。若シ内ニ若シ外ニ諸惡ヲ有シ未ダ菩提心ヲ發セザル者有ラバ、是ニ因リテ則チ菩提心ヲ發スルヲ得。何故ヲ以テ是ノ妙経典諸經中ノ王ナルカ、彼ノ藥樹諸藥中ノ王ナルガ如シ。若シ是ノ大涅槃修習及ビ不修ノ者有リテ、若シ是ノ經典ノ名字ヲ聞有セバ、聞キ已テ敬信シ所有セル一切ノ煩悩重病皆悉ク除滅ス。唯一闡提ノ輩阿耨多羅三藐三菩提ニ安ク止住セ令ム能ハズ。彼ノ如ク妙薬能ク種種ノ重病ヲ療愈スト雖モ、必死ノ人ヲ治ス能ハズ。
復次ニ善男子........(以下略) 」
[訳]
「また次に善男子(カッサバ)よ、 たとえば藥樹(があり)名を藥王というように、(その薬樹の薬効は) 諸々の薬の中で最も優れている。(この薬樹を)もし牛・山羊などの乳汁を精錬した飲料に、もし蜜に、もし煉乳 [ 注:牛または羊の乳を煮詰めて濃くした漿 ]に、もし水に、もし乳に、もし粉末に、もし丸薬に混ぜ合わせ、もし傷に塗り、身体に薫じ[注:薫香のようにたきこめる]、目に塗り、もし見、もし(においを)嗅げば、よく衆生一切 [注:仏の救済の対象である人間その他一切の生物。すべての生あるもの] の諸病を絶やしなくす(ことができる)。このような薬樹は以下に述べるような考えは起こさない。(すなわち)この世に生きるすべてのものが、もしわが根を取れば、当然葉を取らないはずだ。もし葉を取れば、当然根を取らないはずだ。もし幹を取れば、当然樹皮を取らないはずだ。もし樹皮を取れば、当然幹は取らないはずだ。この(薬)樹はこのような考えを起こさないとはいえども、よく一切の病苦を除滅することができる。善男子よ、この大涅槃微妙 [みみょう / 釈:微とは法体幽玄なるをいい、妙とは思議を絶するが故にいう(維摩経菩薩品) ]の經典はまたこの藥樹のようである。よくすべての生あるものの惡業 [注:道理にそむいた過去の悪い行い。罪業] 、四波羅夷 [注:四重、四棄、四極重感堕罪といい、比丘で四戒を犯す罪。一に婬戒、二に盗戒、三に殺人戒、四に大妄語戒をいう(行事鈔中の一)] 、五無間罪 [注:五逆罪という。無間地獄の苦果をうける五種の悪業なるが故に名づく] を除くことができる。もし内に、もし外に諸惡を有し、まだ菩提心 [注:仏道を求める心。正覚(さとり)を求める心] を発していない者があるならば、これによって則ち菩提心を発するを得る。なに故に、このいいようもなく優れた、善美の極致である経典が諸經の中の王であるか。(それは)かの藥樹が諸藥中の王であるのと同様である。もしこの涅槃經を修習ならびに不修の者があって、この經典の名字を聞有するならば、聞いてほどなく敬い信じ、持っている一切の煩悩、重病が皆悉く除かれ滅する(からである)。ただ一闡提 [いっせんだい / 釈:不信と訳す。仏法を信ぜざる者の義。成仏の可能性なきものをいう(涅槃経五・一九) ]の輩は阿耨多羅三藐三菩提[b]に安く止住せしめることができない。かの藥樹のように妙薬がよく種々の重病を療癒する [注:病気を癒やし、治す] とはいえ、必死の人 [注:もはや死が逃れられなくなった人] を治すことはできないのと同様である。 (以下略) 」
───
[注]
[a]「如来性品」は、ブッダの涅槃とは何か、真の解脱とは何か、解脱の神髄を、縷々説き明かしている"品 [注:仏典の中の、巻の下位区分で章や節] " である。驚くほど数多くの譬喩を用いて、手を替え品を替え "真の解脱とは何か" を繰り返し説く。
[b]*原始仏教経典: "Mahaparinibbana-suttanta"
[ホントがないので不正確な表記。以下同、謝]
パーリ語で書かれており、紀元前の編纂といわれる(ここでは触れない)。
cf.『ブッダ最後の旅──大パリニッバーナ経』
中村 元訳 岩波書店刊 1980.6
*大乗仏教経典(紀元後成立)の『涅槃経』
サンスクリット語の断片あり、サンスクリット語で書かれていたと言われ
るが、原典は現存せず。
・北涼天竺三藏曇無讖譯『大般涅槃經』、『大經』とも。(所謂 "北本" )
・宋慧嚴、慧觀及び謝靈運譯『大般涅槃経』( "南本" )
・東晋法顯譯『大般涅槃經』、『方等泥オン(サンズイ+亘)經』とも。
( "法顯本" )
[b] "阿耨多羅三藐三菩提" [ "anuttara-samyak-sambodhi" の音写]
"あのくたらさんみゃくさんぼだい・あのったらさんみゃくさんぼだい"
釈:無上正ヘン("遍"の本字)知、無上正ヘン("遍"の本字)道と訳す。
一切の真理を知る無上の智慧をいう。
───
上記のように、当該箇所及び前後も含め、読んでみたが、"薬王樹" が "ビワ" だと特定できるような語、表記、記述は見当たらなかった。
ここでは "藥樹の王" という樹を想定し、なに故に善美の極致である「大涅槃微妙の經典」がいいようもなく優れた、諸經の中の王であるか、それを「かの藥樹が諸藥中の王であるのと同様である」と述べるばかりである。
ちなみに『日本国語大辞典』(小學館刊) に「薬王樹」を見ると、
「天竺の大霊山に生ずるという樹。葉は鼓に似て、その音を聞く者は、不老不死になると伝えられる」とあり、"捺女祇域因縁経" の以下の箇所が引かれてある。
「本草経説有薬王樹、従外照内見人腹臓、此児樵中得無有薬王耶」と。
また、『仏教植物辞典』(上掲書)、「薬王樹」の項には、織田 (上掲書) からの引用として、 上記箇所を含む "捺女耆域因縁経" の一節が記されてあった。
「逢一小児担樵、耆域望視悉見此児五臓腸ヰ(月+胃)、縷悉分明、耆域心念、本草経説、有薬王樹、従外照内見人腹臓、此児樵中得無有薬王耶」と。
(一小児樵ヲ担フニ逢フ。耆域望視シ悉ク此ノ児ノ五臓腸ヰ(月+胃)ヲ見、縷ニ悉
ク分明ス。耆域心ニ本草経ノ説ヲ念フ。薬王樹有リ、外従リ内ヲ照ラセバ人ノ腹
臓ヲ見ント。此ノ児ノ樵中ニ薬王ノ有ルヤ無シヤヲ得ン)
[一人の子どもが粗朶を背負っているのに出会う。耆域は(その児を)望み見、悉く
この児の五臓 [肺臓・心臓・脾臓・肝臓・腎臓] 腸・胃を見、(それらが)つぶさに
何もかも明らかになった。耆域は心に本草経の説を思い浮かべた。薬王樹(とい
う樹が)有り、外から内を照らすと人の腹や五臓を見るだろうと。この児の(背負
う) 粗朶の中に薬王の有るか無いかを知ることができたのである]
蛇足だが、
・捺女(人名) : 菴婆羅婆利 amrapali [表記不正確]、譯して "捺女" "奈女"。
「菴沒羅園を佛に奉仕せし女なり。(略) 奈("奈"の本字。木+示)女耆婆經に依るに、(略) 衆華ありて彩色鮮明なり。その下に一女兒あり、梵志之を養ひ名づけて奈女といふ。年十五、容姿端正にして、其の名遠國に聞ゆ。七王あり爭うて之を聘せんとす。(梵志)七王に告げて曰はく、.......若し一王に與へんか、六王必ず怒らん。.......希くは諸王平議して得べきものは之を取れと。即("即"の別体)夜、頻婆沙羅王は伏竇の中に入りて樓に登り共に宿す。女に謂つて曰く、若し男を生まば當に我に還すべしと。因つて手にせる金鐶の印を脱ぎ、之を女に附して去る。後奈女果して男子を擧ぐ耆婆是れなり。年甫めて八才にして印鐶を持して王に見ゆ。王以て太子となす。然るに二年の後夫人韋提希、阿闍世を生む。耆婆因つて太子の位を之に譲り、醫術を學び後名醫となれり。奈女其の後佛に歸依し、所衞の園林を以て佛に奉施せりと云ひ、四分律第三十九等には毘舎離城に住し、婬女として名聲頗る高かりしことを記せり。(以下略)」(望月 上掲書)
・耆域(人名):耆婆 jivaka [表記不正確] / 捺女と頻婆沙羅王との子。阿闍世は腹違いの弟。
「...........耆婆は獨り醫術を以て有名なるのみならず、亦自ら深く佛教を信じ、外護者として、其の功少なからず。殊に阿闍世が父を殺し、悔恨の念内に萠せる時に乗じ、之を勸めて歸佛せしめたるは特筆すべき事蹟なり........」(望月 上掲書)
ここにも、ビワが "薬王樹" だと特定できる記述は見いだせない。
"お釈迦様" や "薬王樹" に頼みたい人の心理が見て取れる。ビワのもつ成分が有効ならそれで
いいではないか、ということにはなかなかならないようだ。
6)開聞岳
薩摩半島の南東端に位置する標高 924mのコニーデ型火山。別名薩摩富士、御鼻、開聞(ひらきき)山。"開聞" は鹿児島湾(錦江湾)の門戸の意「海門」の音写とされ、古くはその山容から航海の目印になっていたという。
この山について「三代實録("録"の異体字 / 以下同」( cf. 『新訂増補 國史体系』所収「日本三代實録」黒("黒"の本字)板勝美・國史体系編修會編輯 吉川弘文館 1981年4月 ) に見ると、
*清和天皇(貞観二(860)年三月辛亥)
「廿日庚午。……
薩摩國從五位上開聞神("神"の本字 / 以下同)加從四位下。從五位下志奈毛神。白 羽火雷神。智賀尾神。賀紫久利神。鹿兒嶋神並授從五位上。正六位上伊爾 ("爾"の俗字)色神從五位下。」
(貞観二年三月廿日 (略) 薩摩國、神階從五位上開聞神に從四位下の位階を加
ふ。(以下略))
*清和天皇(貞観八(866)年四月乙亥)
「七日辛巳。授薩摩國從四位下開聞神從四位上。正五位下賀紫久利神正五位上。
正六位上紫美神従五位下。」
(貞観八年四月七日 薩摩國從四位下開聞神に神階從四位上を授ける。(以下略))
*清和天皇(貞観十六(874)年秋七月丁亥)
「二日戊子。……
太宰府言。薩摩國從四位上開聞神山頂。有火自燒。煙薫滿天。灰沙如雨。震動聲
聞百餘里。近社百姓震恐失精。求之蓍龜。神願封戸。及汚("汚"の別体)穢神社。 仍成此祟。勅(來+力)奉封二十戸。」
(貞観十六年七月二日 (略) 大宰帥曰く、薩摩國從四位上開聞神の山頂、火が有
って自然に燃え(出し)、(その)煙が立ちこめて、灰や砂が(まるで)雨のよう(降っ
ている)。(山が)震動する音は百里余りも(彼方にまで)聞こえ、国つ神(である開
聞神)に近い多くの人民はふるえ恐れて心身の力をなくしている。(この状況を)
筮と亀の甲羅を用いた卜いに求めたところ、(開聞の)神は"戸" の支給を願い、か
つ神社を汚し穢しているによってこの祟りをなしている、と(いう)。(そこで)
天皇は命じて封二十戸を (開聞神に) 献上する。)
※この年この月(貞観十六(874)年秋七月丁亥)、廿九日乙卯に
「太宰府言。去三月四日夜。雷霆發響。通宵震動。遲明天氣陰蒙。晝暗如夜。
于時雨沙。色如聚墨。終日不止。積地之厚。或處五寸。或處可一寸餘。比及
昏暮。沙變成雨。禾稼得之皆致枯損。河水和沙。更爲盧独濁。魚鼈死者無數。
人民有得食死魚者。或死或病」
との記述があるが、主語(山名)が明示されておらず、また九州には本島だけでも
開聞岳のほかに、"鶴見岳・伽藍岳" "由布岳" "九重山" "阿蘇山" "温泉岳" "霧島山"
"米丸・住吉池" "若尊" "桜島" "池田・山川" 等の活火山があって、噴火に際し
太宰府は朝廷に言上していることから、この記述を軽々に開聞岳のものとする
ことはできない。ただ、山名が不明であるので、一応ここに掲げておくものと
する。
*陽成天皇(元慶六(882)年冬十月庚子)
「九日戊申。授薩摩國從四位上開聞神正四位下。近江國従五位上小杖神。(以下
略)」
(元慶六年十月九日 薩摩國從四位上開聞神に神階正四位下を授ける。(以下略))
*光孝天皇(仁和元(885)年冬十月壬子)
「九日庚申。先是。太宰府上言……
薩摩國言。同月十二日夜。晦冥。衆星不見。砂石如雨。檢之故實。頴娃郡正四位
下開聞明神發怒之時。有如此事。國宰潔齋奉幣。雨砂乃止。八月十一日震聲如
雷。燒炎甚熾。雨砂滿地。晝而猶夜。十二日自辰至子雷電。砂降・未止。砂石
積地。或處一尺已下。或處五六寸已上。田野埋エイ(やまいだれ+大+人人+
土)。人民騒動。至是。神祇官卜云。粉土之恠。明春彼國當有災("災"の別体)疫。 陰陽寮占云。府邊東南之神。當遷去於隣國。由是。蚕[俗字:天天+虫]麻穀稼 有致損耗。是以下知府司。令彼兩國。奉幣部内衆神。以祈("祈"の本字)冥助 焉。」
(仁和元年十月九日 これより先、大宰帥上言して (略) ……
薩摩國司曰く、同月(七月)十二日夜、空が真っ暗になって、多くの星々も見え
ず、砂や石が(まるで)雨のごとく(降った)。古い事実を調べると、頴娃の郡(薩摩
半島の南岸、南は東シナ海に臨む郡)の正四位下開聞明?が怒りを發する時、
このような事象があると(判明した)。国司が潔齋して幣を奉ると、雨(のように
降っていた)砂はかろうじて止む。(だが)八月十一日(に発生した)震動音は雷の
ようで、燃え上がる炎はたいそう火勢が強く、雨(のように降る)砂が地に満ち
て、昼にしてあたかも夜のようであった。(八月)十二日辰の刻 [午前8時ごろ]
より子の刻 [夜半 12時ごろ] になるまで雷が鳴って稲妻が走る。砂が降って未だ
止まない。砂や石が地に積もり、ある場所は一尺 [37.8cm] 以下、ある場所は
5、6寸 [18.9 〜 22.7cm] 以上。田や野原は埋もれ、人民は乱れ騒ぐ。ここに
至り、神祇官 [天つ神と国つ神との祭祀を司り、諸国の官社を総管する官庁。
太政官の上に位する] が卜って言うには、この粉(のように降り積もる)土の異常
な出来事は、明年春 [次の年の正月] かの薩摩國に災害・疫病がある(予兆)だろ
うと。(また) 陰陽寮が占って言うには、町はずれの東南の神が、まさに隣国に
遷座し去るだろう。これによって、蚕や麻、五穀の稔りが結果として損われ減る
ことがある、と。こういうわけで、(当該)官庁の官吏に言いつけ、かの兩國(肥前
國と薩摩國)をして地域内のもろもろの神々に奉幣させ、そして神の助けを祈ら
せる。)
以上のような記述があった。
引き続き開聞岳に関する記述を歴史書に拾ってみようかと思ったが、本筋ではないので、ここで止める。
ただ、上記「三代實録」の "清和天皇(貞観十六(874)年秋七月丁亥) " 及び "光孝天皇(仁和元(885)年冬十月壬子)" の項に記された開聞岳噴火災害について、"産業技術総合研究所 地質調査総合センター" の記事、「川辺禎久・阪口圭一(2005) 詳細火山データ集:開聞岳 日本の火山」が殊の外興味深かったので、以下に引用 [ 注: 最後の段落を除き、ベタで読みにくいため、便宜的に筆者が段落分けを施した ]、紹介し、開聞岳については筆を置きたい。
「開聞岳火山の歴史噴火及びそれに伴う災害記録は、874年(貞観16年)と855年(仁和元年)の2回の記録がある。成尾(1992 b)、成尾ほか(1997)は、指宿市橋牟礼川遺跡におけるこれらのテフラ[注:ギリシャ語 "灰"。火山灰・軽石・スコリア・火砕流堆積物・火砕サージ堆積物の総称。アイスランドの地質学者シグルズール・ソラリンソン(アイスランド語フォントがないため原綴り表示不可) 定義] と遺物の被覆関係を詳細に論じ、過去の火山災害の様相を明らかにした。以下に成尾ほか(1997)の記載に従って、当時の被災状況を述べる。
橋牟礼川遺跡では、7世紀後半の須恵器が "青コラ" (Km11c2) [ 注:"コラ(甲羅)" とは、薩摩のことばで「堅いもの」「塊」を意味する由 ] 降下中に横倒しになった状態で発見されている。さらに "貞観16年テフラ" (Km12a) は、当時の生活面を覆い、農地、道路の埋没、植生の破壊をもたらした。橋牟礼川遺跡では、火山灰の重みで倒壊した家屋跡も発見されている。噴火記録及び堆積物、倒壊家屋の状況から、次のような家屋被災の経過が読み取れる。
すなわち、当初の噴出物は主にスコリア [(scoria) 注:鉄分を含んで黒っぽい色をした軽石。岩滓] で、家屋は立っており降下したスコリアは屋根から落ちて、家屋周辺に堆積し、家屋内には進入しなかった。その後噴火後半に雨が降り始め、泥水が家屋内に侵入した。屋根に積もった堆積物は降雨のために重くなり、ついにはその重みで家屋は東側に倒壊し、埋没した。
最近約1,100年間、噴火は発生しておらず、火山災害は起きていない。しかし、現在でも権現付近、山川町鰻、伏目などで活発な噴気活動がある。また開聞岳火山では、1967年に群発地震が発生したこともあり (気象庁、1996)、完全に噴火の可能性がなくなったわけではない。気象庁 (2003) は、完新世 [(holocene) 注:沖積世に同じ] に噴火した開聞岳を活火山に認定している」
※私の記憶にあった噴火情報は、2000(平成12)年12月の「開聞岳山頂付近数箇
所から白色無臭の噴気」という報道であったようだ ( cf. 日本周辺海域火山 通覧及び海域火山データベース活動記録より。JCG 海上保安庁 海洋情報 部)。
7)池田湖
日本火山学会 学会誌「火山」第59巻(2014) 第4号( pp.255 - 268) 所収 [論説] (前掲) 文中の、pp.255〜256に、 "池田湖" について書かれた箇所があったので、以下に抜粋しておきたい。
「阿多南部カルデラ西半分に相当する薩摩半島南端の指宿地域には、小型の池田カルデラ (直径約4km) が存在する。池田カルデラ形成時に噴出した火砕流は西側の鬼門平(おんかどびら)断層崖と東側の火山地域に挟まれた低地を埋め、平坦な火砕流台地を形成している。現在、池田カルデラの大部分は池田湖 (水深233m) となっており、湖底には形態から溶岩ドームと考えられる小規模な火山体(底径約0.9km、比高約150m) が存在する(Matumoto、1943 など)。」
「指宿地域には、池田カルデラの他にも多様な火山地形が見られる」という。
また、柳田国男は「三國名所圖會 (鹿兒島縣揖宿郡指宿村) 」を引き、
「九州の南の端、薩摩の開聞岳の麓には、池田といふ美しい火山湖があります。ほんの僅かな
陸地によつて海と隔てられ、小高い所に立てば、海と湖水とを一度に眺めることも出來るくらゐですが、大洋とくらべられることを、池田の神は非常にきらひました。さうして湖水の近くに來て、海の話や、舟の話をする者があると、すぐに大風、高浪がたつて、物すごい景色になつたといふことであります」と記す。
( cf.『定本 柳田国男集』第26巻所収「日本の傳説」"山の背くらべ" 筑摩書房
昭和53年11月)
ただ、上記、柳田の記す「三國名所圖會 (鹿兒島縣揖宿郡指宿村) 」の箇所を
"国立国会図書館デジタルコレクション" に探したが、2021年1月時点で見出す
ことはできなかった。
※『三國名勝圖會』、跋に「天保十四年。歳次癸卯。冬。十二月。比行人行知翰院事。五代秀暁。翰院官。橋口兼柄。謹撰」と記されてあり、知翰院事 五代秀暁 および 翰院官 橋口兼柄の撰述であることが分かる。
この書は「『薩藩名勝志』(1806年)、『薩藩勝景百図』・『薩藩勝景百図考』(1815年)と続いた薩摩藩の地誌編纂事業の集大成である。先に編纂された地誌と各地から提出された「再撰帳」をもとに編纂された。江戸時代には出版されなかったが、玉里島津家初代当主の島津久光による校正を経て 1905(明治38)年に和装本60巻20冊として刊行された。それに先立つ草稿本と清書本が鹿児島大学附属図書館玉里文庫に所蔵されている」由。
"国立国会図書館デジタルコレクション" に見ることのできる『三國名所圖會』60巻. 1(巻之1-3) には、出版者 山本盛秀、出版年は明治三十八(1905)年十一月と記され、冒頭に「新刊三國名勝圖會序」として「正二位勲一等伯爵松方正義撰并書」が掲げられている。
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