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back.gif休暇村 日光湯元

休暇村あっちこっち

休暇村 嬬恋鹿沢






[休暇村 嬬恋鹿沢へ]

 何年前のことだったろうか..........。一般に学校が夏休みに入る前なら、宿泊施設にも余裕があるだろうと、当時 "鹿沢高原" といった、現 "休暇村 嬬恋鹿沢" に電話をした。
 "体育系のクラブマネジャー" のような、元気そうだが、ちょっと "ため口" 口調の "女子" が受話器を取って「満室です」と言う。「夏休み前なので大丈夫だと思ったのですが」と言う私に、「学生の団体が入っていて、夏の間はだめですね」との応え。「いつならいいのですか」と言うと、「冬ですね。冬来るといいです。冬来てください」とのこと。団体を中心に据えた施設だという印象に、すっかり気持ちが萎え、その後、私の中では"鹿沢高原" 訪問を故意に遠ざけていた感があった。
 だが全村を巡るなら、いずれ行かねばならない。

 2018年が明け、"日光湯元" に行くと決めたとき、この機を逸しては "休暇村 鹿沢高原" 訪問がさらに億劫になるにちがいない、と思い、日光からの帰途、宇都宮に出た後、東北新幹線 "やまびこ" で "大宮" へ。大宮からは北陸新幹線で "上田" に向かうことにした。
 "春は近いが、2月ならまだ冬のうち、文句あるまい" と、"休暇村 鹿沢高原" 改め、現 "休暇村 嬬恋鹿沢" に電話を入れる。なるほど予約は取れた。



 JR上田駅を経由することになり、思い出すことがあった。
 1982年3月下旬のことである。私たちは、新年度に向け、すべての仕事を片付けて "修那羅峠" に向かった。
 23時1分 京都発 "ちくま5号" に乗車、翌朝6時38分篠ノ井駅に到着した。当時はまだ国鉄の上田駅(古い駅舎が懐かしく思い出される.....)に移動し、上田駅から "青木" まではバスに乗る。だが、"青木" から "修那羅" への乗り継ぎバスは2時間先にしかなく、それなら、と歩くことにした。
 彼の肩には8mmカメラと三脚。私は嵩高いフィルムと重いバッテリーの入ったザックを背負って、修那羅峠まで約3時間の道矩を歩いた。

 連れ合いは「アンドロギュノスの山旅」において、当時の "修那羅行" に触れ、 「深く心に残っているのは、長野県東筑摩郡と小県郡とを結ぶ古い峠、修那羅峠の石神仏である。バスの接続が悪く三時間ばかりも歩かされた。しかし、峠の鄙びた神社(修那羅山安宮神社)にたどり着いてみると、神社のまわりから裏山一体にかけて、七百基とも八百基ともいわれる石造物が立ち並んでいた。しかも石像は神仏のイメージとはおよそかけ離れた異形のものが多く、それがまた抱きしめたいようなあどけなさをたたえて、ひっそりと鎮座まします」と記す。そして、夢中になってシャッターを押す自身をふり返っている。

 

 当時、それほど人に知られていなかった修那羅峠安宮神社境内は建物も荒れ、通路の路肩も崩れがち。人の気配もなく静まりかえっていて、通り抜ける風や揺らぐ木々の影にも思わずふり返るほど。
 撮影を終え、その日は "麻績(おみ)口" に下りて上田に出、別所温泉にまわって一泊。
 翌日、雨の中、野倉の道祖神などを撮影して帰京したのだが、白銀の山々を望む早春の山里や雨に煙る村里の光景は長く心に残った。


 浅間山行を果たしたのは、2007年7月下旬。
 新幹線で一旦東京に出た後、平成九(1997)年10月に開通していた長野新幹線で "佐久平" に。新幹線 "佐久平駅" は東京方面から行くと、"上田" の一つ手前。開通から10年を経ていたが、駅も駅前のロータリーも周辺の景色からは浮き上がって見えたものだ。佐久平駅からは千曲バスで高峰高原に入る。
 歩いたのは、
  高峰高原ホテル前 → トーミノ頭 → 湯ノ平高原 → 賽の河原 → 立ち入り禁止  告知板 → 前掛山(2524m) → 告知板 → 賽の河原 → 鋸山(2254m) → 白ゾレ岳  → 蛇骨岳 → 裏コース → 中コース分岐 → 高峰高原ホテル前
の間。
 下山してくると、高峰高原ホテル前の駐車場には観光バスが並び、浅間山麓ハイキングのツアー客でごった返していた。だが、ひと度バスが去ってしまうと、あたりは嘘のように静かになって、高原の涼やかな風が吹き抜けていったことを思い出す。



 地図上で、浅間山を基点に見ると、"休暇村 嬬恋鹿沢" は10時の方角、標高1746.2mの村上山と鍋蓋山(1828.6m)の間を流れる湯尻川沿いの道を少し村上山側に入ったところにある。

 現 "休暇村" の前身 "国民休暇村" は、1962(昭和37)年7月、"近江八幡" が琵琶湖国定公園内に営業を開始したのに始まるが、同年12月、大山隠岐国立公園内に営業開始した "鏡ヶ成" [現"奥大山"]とともに、 "鹿沢" [現"嬬恋鹿沢"]も上信越高原国立公園内に営業を開始している。
 設立当初の、 "国民休暇村 鹿沢" の主な利用方法には、「スキー、ハイキング、登山、キャンプ、避暑」が挙げられている。
 当時のアクセスは2ウエイ。長野原線長野原駅よりの路線バス(1時間30分)と信越線上田駅からの路線バス(1時間40分)との2つがあった。
 施設は、宿舎 "からまつ荘" (定員200名)と、ロッジ "湯ノ丸ロッジ" (定員70名)。他に、キャンプ場、スキーリフト、テニスコート、園地、休憩所が設けられたようだ。

 その後、1996(平成8)年、鉄筋コンクリート4階建てに改築。
 客室は全室バス・トイレまたはトイレ付き。和室60室、洋室4室。定員288名。
 温泉大浴場や露天風呂、会議室、宴会場、レストラン、ティーラウンジ、コインランドリー、売店、スキー乾燥室などが整備されたらしい。
 一方、この時期に "スキーリフト" は姿を消しているが、テニスコートはそのままに AW が2面。キャンプ場はオートキャンプ場となって、敷地内に野草園も設けられる。
 大浴場および露天風呂のお湯は温泉。泉質はマグネシウム・ナトリウム炭酸水素塩泉で、湧出温度は44.5℃。皮膚疾患や神経痛、筋肉痛に効能があるという。
 交通手段としては、改築当時はまだ、JR吾妻線万座鹿沢口駅から鹿沢温泉行きバスが出ており、乗車30分。下車後、徒歩5分で "休暇村 鹿沢高原" に至る方法があったようだが、2007(平成19)年に廃止されている。
 現在、公共交通機関を使って "休暇村 嬬恋鹿沢" を訪ねる場合、北陸新幹線上田駅で下車し、休暇村送迎バス(要予約)に "頼る" のが最善の策。乗車時間約60分の走行距離から、タクシーでは少々高くつくことになろう。



 さて、2018年2月のその日、午前9時10分の送迎バスで、"休暇村 日光湯元" を後にし、新幹線を乗り継いで JR上田駅に着いたのは 13時41分 。すっかり様変わりしてしまった上田駅構内や駅周辺を、今は昔の面影を虚しく求めつつ時間潰しをし、事前に願い出てあった上田駅温泉口 15:00発の送迎バスで "休暇村 嬬恋鹿沢" に到着したのは午後4時を少しまわっていた。

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  鹿沢高原の春はまだ遠い。
(カメラ絶不調につき、この写真は他所から拝借)

上田駅周辺に雪はなかったが、施設のある標高1400mの高原には奥日光同様まだ雪景色が広がっていた。

 フロントは全体に薄暗い印象。手続きを取って鍵を受け取り、部屋に。
 部屋は当世流行りの和洋室。洋室のツインは、申し込みの時点で満室の由。この度、どうしても訪問を済ませてしまっておきたかったので、少し割高だったが、紹介のあった和洋室を予約する。
 実はこの時、和洋室が新設されていることを知らなかった。予約確認のために送られてきた "書類" に同封の、従来のパンフレットにもまだ和洋室は記載されていなかった。どうやら、2017(平成29)年12月、露天風呂などの改装とともに、幾つかの和室を和洋室へと改装する工事が行われたらしい。
 したがって、現在、部屋数は64室と変わらないものの、
  本 館 : 和洋室4 / 洋室4 / 和室34
  白樺棟 : 和室22
と、なっている。

 私たちが宿泊した、10畳の和室を改装したという和洋室には、人を感知して点灯する装置の付いた広いウオーク・イン・クローゼットが付設されていた。
 だが、ベッドルームを一旦出て、回り込んだ場所に設けられた洗面スペースは、広い部屋には不釣り合いなほど、とても狭くて使いにくいものだった。左手臂のすぐ横にはトイレの扉が迫っている。
 トイレそのものにはそこそこの広さはあるものの、全くの奥まった一画に押し込められていて、閉所の苦手な私は連れ合いの近づかない時を見計らい、少しばかり "工夫" して用を足す仕儀に相成った(f^_^;)。

 部屋に荷物を置き、すぐに使ったお湯は「江戸時代から湯治場として親しまれてきた」鹿沢温泉の "雲井の湯" と言い、当地も "日光湯元" 同様、国民保養温泉地[1]に指定されているという。
 だが、不思議なことに、浴場の記憶がほとんど残っていない。なぜ印象が薄いのかその理由さえも思い出せない。パンフレットの写真などを見て何とか思い出そうとするのだが、今も思い出せないでいる。
 思い出すのは、なぜにと思うほど浴室の鏡の前に並べられた幾種類もの洗髪剤のボトルばかり。あれは何だったのだろう........。


 食事については、予約時より期待するものはなかった。
 というのも、基本のバイキング以外に注文できる料理は「グレードアップ!上州牛すき焼き鍋付き "ぐんま地産地消推進店認定バイキング" 」と、同じく「上州牛鉄板焼き付き "ぐんま地産地消推進店認定バイキング"」があるのみだったからである。
 季節が季節なら「嬬恋村は高原野菜の産地として全国的に知られています。とくに夏のキャベツは、甘くて、みずみずしくて、そのおいしさに感激してしまいます。新鮮な野菜の味を生かしたお料理を存分に味わってください」という宣伝文句に期待を寄せてもいたろうが、なにせ季節は冬である。
 それでも、「夕食はオープンキッチンスタイルのバイキング形式です。体にやさしい「薬膳料理」を取り入れたメニューなど、素材自体の栄養はもちろん、それぞれの相性やバランスも十分考えられたお食事になっています」という謳い文句を目にしていたので、季節には関係なく「地元産素材をふんだんに取り入れ」た、工夫ある料理も出ようかと、ほんの微かに思ったものだ。

 ただ、上述のとおり、予約可能な料理は、上州牛といっても、固形燃料が入った小さな卓上コンロでの "すき焼き" や "鉄板焼き" のみ。何の心そそられるものがあろう。 "百歩譲って" 1回の夕食に各一つ、連れ合いの分のみ注文し、後はバイキングで済ませることにした。
 ところが、並べられた料理は種類も少ないうえ、日常食の域を出るものではなく、オープンキッチンも形だけ。私たちは二日とも、主に金時豆の甘煮やおでんの大根を食べていた印象。花豆は嬬恋村特産らしいが金時豆も特産なのだろうか。季節柄、大根こそは嬬恋産であってほしいものだと思っていたが、実際はどうだったか。

 スタッフの "洗練度" という点からも、少々残念な印象が残る。
 料理とも言えない "すき焼き" や "鉄板焼き" にしても、それなりの出し方があろうと思ったほど、若い男子スタッフの "振る舞い" に、気配り、心遣いは感じられなかった。
   また、桶(?!)の氷水に放たれた郷土料理だという麺の食べ方について、冬に冷たい麺もないだろうに......と思いつつ、傍に立っていた若いスタッフ "女子" に食べ方を尋ねてみたところ、「普通に食べるといいです」と言うばかり。チャレンジしてみる気は生じなかった。
 アルバイトの人たちであったとしても、プロとしての接客訓練はしておくべきではないか。少なくとも "リゾート ホテル" を標榜するならば。そうでないなら、合宿所の季節転用ホテルとでも明記しておいてくれれば、そのつもりで利用することもできるのだから。

 広い食事会場も、多人数を一度に収容することのできそうな合宿所の食堂仕様。機能的だが、その分 "雰囲気" はない。
 この年、3月1日〜5月31日の間、〜お箸で食べる春のイタリアン〜が出される旨の案内があったが、この食事会場、上記サービスで、何のイタリアンか......。どうにもイメージは湧いてこなかった。



 さて、長野県上田市経由で "休暇村 嬬恋鹿沢" を訪ねる際し、私たちの間では修那羅再訪が話し合われた。だが、休暇村を基点に往復するには時間的余裕が乏しい。連れ合いが足を傷めていることもある。タクシーをフル活用することも考えられなくはなかったが、この度はそこまでの思いは湧かなかった。
 上田城址公園というのが上田駅近くにあるようだったが、そこへ行くのはいよいよ "手詰まり" になった際の最後の手段。
 いろいろ考えたすえ、 "無言館" が射程内に入ってくる。唯一の "足" である休暇村送迎バスの時間を考慮しても、当該館の立地なら往復は可能と判断し、無言館を訪ねることにした。

 "無言館" は「先の日中戦争や太平洋戦争に出征し、戦死した画学生の遺作や遺品を展示している美術館」である。館主は窪島誠一郎。開設は1997年。
 窪島誠一郎の名は、ずいぶん昔、書店で偶然手にした『父への手紙』をきっかけに知った。だが、当該作品が "突き抜けていない" と言うべきか、作品として昇華しきれていないという印象を持ったことから、窪島の他の著作を読むこともなく、美術評論家としての仕事に関心も持たずにいたが、 "無言館" についてはラジオ番組などを通して知っていた。


 朝9時30分の送迎バスで休暇村を出発し、上田に出た後、上田電鉄別所線で無言館最寄りの "塩田町" 駅に向かう。上田・塩田町間の乗車運賃は¥410。
 無人の塩田町駅からは、事前にタクシーの配車依頼 (別途迎車料金¥180 要) をしておくと、所要時間10分程で無言館に到着する旨の案内があったが、連れ合いは「歩く!」と言う。平地だから、跛行していてもゆっくり歩けば大丈夫か.....と同意。

 駅舎の傍の町内(?)地図を見て歩き始める。
 しばらく行くと、角に塩田地域自治センターがあり、そこで道が分かれていた。尋ねる人でもあればと見回したが、人の影がない。連れ合いが「こっち!」と確信的に言うので、広い道を右方向に進んだものの、何かあやしい。「さっきのセンターからまっすぐ行く、ちょっと細くなったあの道じゃなかったのかな」等々と言いながら歩いていると、建物だったか、電信柱だったかの上方に "無言館" の文字が見えた。矢印の方向に進路をとって畑の畦のような道をくねくねと進む。なんだかひどく "損" している気がしてくる。

 空は気持ちよく晴れていたが、さすがに信州の風は身を切るように冷たかった。それなのに、連れ合いは汗びっしょりになっている。歩くほどに足の痛みが増しているようで、私は気が気ではなかった。

 畑中の道から少し広い自動車道に飛び出すと、道沿いに工場があった。ちょうどそこから中型トラックが出てきたので、走り寄って道を尋ねる。運転の中年男性は、突然の出来事に当然ながら当惑の表情ではあったが、それでも車を止めて「あっちの丘の上の方」と、指さして教えてくださった。どうやら、やっぱり大回りしていたようだ。またまた畑中の細道を辿って教えられた方角へと向かう。
 丘陵の上り坂は連れ合いの足にはけっこう堪えるようだったが、如何ともし難く、もうちょっともうちょっと、と思いながら行くと、どうにか "無言館" のあるエリアに辿り着く。
 塩田町駅から徒歩30分のところ、1時間余りかけてやって来たことになる[2]。連れ合いは、汗を拭きながら「信州上田郊外の最近の風景をじっくり見られてよかっただろ」と、負け惜しみを言った。
 畑中に工場の点在する上田近郊の光景は、かつて歩いた遠い日の "信州" ではもはやなく、見知らぬ人とすれ違うように、目の端をただ通り過ぎていくだけだったのだけれど。


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    無言館への道

 無言館への最後の坂を "えっちらおっちら" 登り切り、角を曲がって正面に建物が見えた時、鑑賞を終えて出てきたらしい女性たちの一団が、笑いさざめきながら道いっぱいに広がってこちらに向かってくるのに遭遇。私たちは舗装路を外れて彼女たちをやり過ごしたが、当の彼女たちは私たち二人の姿が見えていないわけはないだろうに、まるで見えないもののように目の前を通り過ぎて行った。そんな人たちの振る舞いを怪しみ訝り、苦々しく思っていると、連れ合いが「 "民主政の世の中では、驢馬でさえ道を譲ろうとしない"[3] ってね」と言って、両手を広げて肩をすぼめた。

 コンクリート造りの建物の木製の扉は思いの外重く、腕に力を込めて押し開げ、館内に入る。ちょっと戸惑うのは、入口付近に入館料を払う窓口がないこと。入館料は絵画鑑賞後に支払うことになっていた。

 入館に際し、私は、作品が「戦死した画学生の遺作や遺品」であることを、できるだけ "思考" から排除し、まず "絵画" を観ようと心に決めていた。
 人は情況に規定され、時代の制約の中に生きる。作品からアプローチしなければ、戦後という "時代の制約" の中に生きる私は、その "限界" に絡め取られ、本来の意味での "絵画鑑賞" に至り得ないと考えたからだ。だが、この企ては失敗する。
 それでも、1ブロックほどは作品下に付せられた氏名や生年、戦死または戦病死の場所、享年などを見ないで作品鑑賞を進めた。ところが、どうしても目は下方に記された "経歴" に向く。
 私たちの "時間" と、彼らの "時間" は明らかに質を異にし、その密度においても異なっているであろうことや、彼らは彼らの時代の思潮の中に生きていたことを承知してはいても、若い "死" に、それも戦死ということばに、つい私の心は過剰に反応してしまう。

 そんな中、心惹きつけられた絵があった。
 蜂谷清画「祖母なつの像」である。この絵の描き手・清と "祖母なつ" との交感する心と言うべきか、 互いの心が溶け合って "力" を放っているような気がした。顔以外の部分にはほとんど意が払われていないこの絵の、正面に据えられた "なつ" の顔から溢れ出る "気" が私の心を衝いた。

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     蜂谷 清 画 "祖母なつ" 。
"なつ" は明治十五、六年生まれでもあろうか.....。

 蜂谷清は、大正十二(1923)年3月2日、千葉県佐倉市に生まれる。東京中央区築地小学校から中央区京橋高等小学校に転校。同校を卒業後、デザイン会社の銀座松原工房に勤務する。昭和十七(1942)年2月、海軍省主催のポスター展に「輝く海軍記念日」を出品し、特選を受賞。翌十八(1943)年満州(中国東北部)に出征。昭和二十(1945)年7月1日フィリピン・レイテ島において戦死。享年22歳。

                 
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  金子 孝 信画 "あさぼらけ"

 もう1枚は、金子孝信画「あさぼらけ」だ。絵の前に立っていると、静まった描き手の心性が心に染み透ってくるようだった。ただ、中央やや左の "鳥" が、私の心に小さな波を立てる。穿ち過ぎかと思いつつも、鳥を配した描き手の心を思って。
 金子孝信は、大正四(1915)年新潟県に生まれている。昭和17(1942)年5月27日中国湖北省において戦死。享年26歳。


 私たちはことばを交わすことなく、前後しながら館内を巡り終え、出口に設けられた窓口で鑑賞料(¥1500 / 1)を払う。

 

 展示エリアの外に設けられた小さなスペースでは、館主の著書や展示作品の絵はがきが並べられ、販売されていた。
  連れ合いは美術館などに出かけた際、絵はがきを1、2枚購入するのが常だが、この時も1枚の絵はがきを購入している。山之井龍朗・俊朗兄弟の手になる絵だ。筆の運びや色遣いなど、連れ合いらしい選びだな........と思う。

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   山之井龍朗・俊朗兄弟 作
 

描き手である兄弟の兄龍朗の生年は大正九(1920)年。横浜市生まれ。昭和二十(1945)年5月9日フィリピン・ルソン島において戦死。享年24歳。
 弟、俊朗は大正十一(1922)年、兄と同様、横浜市に生まれているが、兄に先立ち、昭和十九(1944)年4月26日、南方への輸送船上において戦死する。21歳だったという。

 

 建物を出たところで、連れ合いは言った。
「劣化の激しい絵画のひとつひとつに付された描き手の略歴を読みながら、その "無駄な死の集積" に言葉を失った。その一方で、たった1枚か数点の遺作を戦後半世紀以上も大事に保存していた肉親の想い.........」と。
 無言館で "見る" べきは、これ以外にないだろうと、私も思う。

 

 デッサン館にも立ち寄ったが、ほとんど印象に残っていない。


 もと来た道を辿って再び遠回りなどしたくないな、と坂道を下りながら思っていると、地元の人とは思えない女学生ふうの人物が、うつむき加減にこちらに向かってやって来るのが見えた。彼女はきっと駅から歩いてきたにちがいない。彼女のやって来た道を辿れば遠回りせず塩田駅に行き着くはず........。正解だった。
 彼の跛行は限界に近づいていた。


 上田駅に戻り、駅前のベンチに腰掛けて持参のパンで小腹を養い、15 : 00 の送迎バスを待った。


 前日やって来たときとほぼ同じ時間に休暇村嬬恋鹿沢に戻り、お湯を使って、前日とほとんど変わらぬ夕食を摂った後、しばらく部屋に寛いで、ベッドにもぐり込む。

 先頃、大阪の阪急電鉄 "梅田" 駅の駅名が "大阪梅田" となり、"河原町" は "京都河原町" に変更された。京阪電鉄の "四条" は、かなり前から "祇園四条" となり、"五条" 駅は "清水五条" となっている。
 かつて "休暇村 嬬恋鹿沢" は "鹿沢高原" と言った。この改称は、上記駅名の変更と同様、より著名な上位の地名を冠することによってその知名度にあやかり、衆知を図ろうとしたものだと思われる。
 私自身、鹿沢高原と言われてもぴんとくるものはなかったけれど、"鹿沢" に "嬬恋" が冠せられると、それなりに場所の察しはついた。

 それに、嬬恋という地名は、私たちに或る人物を思い起こさせる。
 2000年9月、強い雨風の中、谷川連峰を縦走した際、蓬ヒュッテで出会った男性が嬬恋所縁の人だった。彼は藪山を主にやる人で、ある夏、1日がかりで酷い藪漕ぎをし、夕方暗くなってやっとのことで頂上を制覇したときには男泣きに泣いたというエピソードを、その時聞いた。
 その後しばらく、連れ合いは "藪山も悪くないぞ" と言い募り、私は彼がいつ藪山をやると言い出すかヒヤヒヤしていた。そのため、ことあるごとに "虫がいっぱいいるから藪漕ぎは嫌!" "藪山は見晴らしがきかないのでつまらない!" "藪漕ぎは疲れるだけ!" 等々、ほとんど "いちゃもん" のような理由を付けて、必死に抵抗していたことを思い出す。
 あれから19年、私たちと年齢の近いあの人は、今も藪漕ぎをしておられるだろうか........。

 取り留めなくあれこれ考えているうち、いつしか "嬬恋鹿沢" の夜は更け、連れ合いの静かな寝息が聞こえてきた。私も知らぬ間に眠りに就いたようだった。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 

[注]
[1] 国民保養温泉地とは環境省が「数多くある温泉地の中で温泉利用の効果が十分期待され、かつ健全な温泉地としての条件を備えている地域」を指定したもの。指定は昭和28年から始まり、平成29年には全国で97の地域が指定されているようである。

[2] 2月のその日、私たちは歩いたが、4月〜11月の間には、塩田町駅から「信州の鎌倉シャトルバス」が出ており、乗車7分で無言館入口バス停に至る、と案内にある。季節を外さなければ簡単に行けるようだ。
 ただ、私たちが訪れて間もなく、併設の "夭折画家の館「信濃デッサン館」" が閉館されたと聞くので、アクセスはチェックを要する。
 朝日新聞 DIGITAL版 2018.3.2 によると、
「上田市の美術館「信濃デッサン館」が 15日で閉館する。同館は1979年、館主の窪島誠一郎さん(76)が、村山槐多(かいた、1896〜1919)ら、才能を発揮しながら結核や貧困の中で若くして亡くなった画家たちの作品を集め、開館した。その18年後、窪島さんは近くの丘陵地に戦没学生慰霊美術館「無言館」を開設した。窪島さんは「デッサン館を閉め、無言館の運営を安定させたい」と話している。
 デッサン館は、村山槐多のほか、関根正二(1899〜1919)、野田英夫(1908〜39)など、夭折(ようせつ)した画家たちの作品や関係資料など約千点を収蔵。村山槐多の代表作「尿(ゆばり)する裸僧」も展示されている。開館以降、入館者は年間約4万人あったが、近年は約6千人に減少していた。
 一方、若くして戦争の犠牲になった画学生の遺作などを展示する無言館の運営も楽ではない。入館者は、開館以降、年間約9万人台が続き、戦後60年の2005年には約11万8千人を記録した。しかしその後、減少傾向をたどり、近年は4万人台を推移している」という。

[3] プラトン『国家』VIII 563C

          
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