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幕末・外国人要撃(1/6)

はじめに






[はじめに]

 2004年4月、イラク中部ファルージャのガソリンスタンドで、女性1人を含む日本人3人が小銃で脅され、拘束されて、近くの民家に連行されたというニュースが日本中を駆けめぐった。その後、3人の救出をめぐって、水面下での交渉がなされた結果、事件発生から8日後、人質となっていた3人は解放される。3人を連行したグループは、地元の若者たちからなる「素人集団」であったと報じられた。
 その半年後の10月、一人の日本人男性が、イラクにおいて拉致、殺害されて、遺体が路上に放置されるという事件が発生した。この邦人男性拉致殺害を実行したとされる、フセイン・ファハミ・バドルという人物が、事件から1年半後の、2006年3月に逮捕され、彼の供述から邦人男性の拉致殺害に関わったのは6人であることが判明する。6人のうち4人はすでに逮捕されているが、残る2人はイラク内部省が行方を追っているという。さらに、この邦人男性殺害には、殺害現場に隣接するモスクの責任者が、殺害行為に、直接、関与していたことが明らかとなり、治安部隊が、事件の全容解明のカギを握る、この責任者の行方を追っているとも伝えられた。
 このイラクにおける邦人の一連の事件が報じられた2004年当時、私は、文久年間の関東地方における農村の状況を調べていたが、それらの事件に触発され、ペリーの来航による開国という、幕末の余儀ない情況の中で、どれくらいの外国人が日本人に要撃・殺害されたのか、調べてみる気になった。
 1800年代半ば以降、日本の歩んだ開国から近代化への道筋は歴史の必然であり、その途上における「混乱」は胎動ととらえるにしても、西欧列強の砲艦外交によって生じた「混乱」は、一国内の覇権争いとは異なる要素を孕んでいたのではないか。その意味において、現イラクの状況と日本の幕末には何らかの類似せる現象が見られるのではないか、というのが、外国人要撃を調べてみようと思った、主な理由である。
 調べるに際しては、当時来日していた外国人の書き残したものの中から、特に、
 *『ハリス日本滞在記』 坂田精一訳 岩波文庫 1997年
 (Mario Emilio Cosenza,The Complete Journal of Townsend Harris,1930 但し、善福寺滞在中の期間を欠く。)
 *『ヒュースケン日本日記ー1855〜1861ー』 青木枝朗訳 岩波文庫 1987年
 (Henry Heusken,Japan Journal 1855-1861,translated and edited by Jeannette C.van der Corput and Robert A.Wilson,Copyright C 1964 by Rutgers, the State University)
 *『大君の都』 山口光朔訳 岩波文庫 1997年
 (Sir Rutherford Alcock,The Capital of the Tycoon : a Narrative of a Three Years' Residence in Japan,2 vols.,New York,1863)
 *『一外交官の見た明治維新』 坂田精一訳 岩波文庫 2004年
 (Sir Ernest Mason Satow,A Diplomat in Japan,1921)
 *『ポルスブルック日本報告ーオランダ領事の見た幕末事情ー』 生熊文訳 雄松堂出版 1995年
 (Ingeleid en geannoteerd door Herman J. Moeshart,Journaal van Jonkheer Dirk de Graeff van Polsbroek 1857-1870 ,Assen,Van Gorcum1987 を基に構成された日本語版)
を中心に、既刊の日本語訳本の中から要撃事件の記録を拾うことにした。要撃を受けた側の記録という点に興味を覚えたからである。

 ペリー来航から明治に至る間の、来日外国人が関わった「事件」は、言うまでもなく時代状況と深く結びついているため、これをまとめるにあたっては年代的序列に従い、各年に起こった主な出来事を概観しつつ、拾えるかぎりのものを網羅した。ただ、それでは、あまりに冗漫に過ぎると思われたので、全体を、便宜的に、三つに分けることにした。すなわち、

 第一章 嘉永6年〜安政7年・万延元年(3月18日 万延に改元)
  外国との関係という点で捉えれば、この時期は、幕府が諸外国(アメリカ、オランダ、イギリス、ロシア、フランス、ポルトガル、プロシャ)と修好通商条約・貿易章程に調印する一方で、攘夷が尊皇と結びつき、時代が抜き差しならぬ方向に向かっていく時期である。
 第二章 万延2年・文久元年(2月19日 文久に改元)〜文久3年
  文字どおり攘夷行動がふき荒れ、イギリス公使館東禅寺はこの間に、二度、襲撃される。生麦事件が発生したのもこの時期で、これに端を発した薩英戦争や長州藩の外国艦船に対する砲撃事件もまた、この時期に起こっている。
 第三章 文久4年・元治元年(2月20日 元治に改元)〜慶應4年・明治元年(9月8日 明治に改元)
  長州藩兵が大挙上京し、幕兵と交戦した「蛤御門の変」に始まり、長州征討から鳥羽伏見の戦いへと時代が大きく揺れ動く中、攘夷から開国和親への転換の間で外国人殺傷事件が多発する。

以上の三章である。

 本文では、年月日の表記は、まず旧暦を示し、適宜、その後に西暦の日付をカッコ内に付すようにした。ただし、外国人の日記等の引用に際しては、そのかぎりではない。
 また、来日主要外国人の人名表記については、初出の際、カタカナ表記をしたうえで原綴りをカッコ内に併記し、それ以後はカタカナのみとした。
forward.gif第1章  嘉永六年〜安政七年・万延元年