まえがき
第1章 嘉永六年〜安政七年・万延元年
嘉永六年、ペリー(Matthew Calbraith Perry)の持ち来たったアメリカ大統領の親書を、幕府が「日本の法律に背きて」これを受け取ったとき、日本の歴史は大きく転回し、流動し始める。そうした流れの中で、安政7年3月、大老井伊掃部頭直弼が江戸城桜田門外において要撃殺害される。
ここでは、ペリー来航から大老井伊掃部頭直弼が暗殺された安政七年、すなわち万延元年までの時代の流れを概観しつつ、その間に日本人が外国人に加えた敵対行為及び要撃・殺害事件を見ていきたい。
第1節 ペリーの来航とその後の対応
アメリカの国書受領と、翌嘉永七年の日米和親条約の締結、それに続くタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)の来日、また、「殺到する」諸外国との交渉は、日本を新たな歴史のステージへと導いていく。しかし、そこで、外国人要撃の序章というべき事件は起こる。
嘉永六年(1853年2月8日〜1854年1月28日)
嘉永六年6月3日、ペリーがアメリカの使節として、大統領フィルモア(Mileard Fillmore)の国書を携え、旗艦サスケハナ号2450tをはじめとするアメリカ東インド艦隊の軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航、国書の受理を求めた。幕府はそれを拒絶するが、ペリーはあくまで国書の受理を要求して譲らなかった。しかし、当時、幕府は、ペリーを武力で撃退するに足る軍備を持たなかったことなどから、当面の措置として国書を受領し、翌年に回答を約して、ペリーを退帆させる。
ペリーが浦賀を去った後、幕府は、ペリーの来航について朝廷に奏聞する。
大政委任の枠組みのもとで、幕府が朝廷に「大政」を奏聞する必要はないかに思われるが、文化三年(1806年)9月、ロシア軍船が樺太に侵攻、翌四年(1807年)5月に利尻島を攻撃するなど、ロシア人の南下に伴う軍事的緊張が高まった際に、幕府はそれら対外情勢を朝廷に奏聞している。このときの奏聞を先例とし、朝廷は、弘化三年(1846年)、「幕府に対して海岸防備の強化を命じ、対外情勢の報告を求め」たといわれるが、幕府に、対外情勢を朝廷に報告する義務が生じ、また、外交政策について勅許が必要だとする諒解ができあがったのは、この文化四年(1807年)の奏聞がきっかけであったとされる(辻達也編「日本の近世」第2巻351p.〜352p.)。
さて、さらに、幕府は、7月に入ると、諸大名や有司にアメリカの国書の訳文を示して諮問する。この諮問は、老中阿部伊勢守正弘が国論の統一をはかるためにとった措置であったといわれるが、幕府にとっては、この諮問が権威失墜の始まりとなる。
ペリーの来航から一月余り後、対日ロシア特使プチャーチン(Evfimii Vasil'evich Putiatin)が長崎に来航する。幕府は、彼にも、ペリー同様、明確な返答を与えず、一旦、退去させることに成功する。
相次ぐ外国艦船の来航に、幕府は、9月、大船建造の禁令を解除し、オランダに軍艦や鉄砲、兵法書などを注文する。
この間、12代将軍家慶が死亡(6月22日)し、10月には13代将軍家定が継嗣として立つなど内政も落ち着かなかった。
この年、アヘン戦争で疲弊した清国では太平天国軍が南京を占領。
トルコ、ロシアの両国間においてはクリミア戦争が勃発する。ロシア特使プチャーチンが早々に日本を退去したのはこうした事情によるといわれる。
嘉永七年(1854年1月29日〜1855年1月14日)
安政元年(1855年1月15日〜1855年2月16日)
※11月27日安政改元
ペリー横浜上陸の図「ペリー日本遠征記」第1巻。
嘉永7年二月10日(1854年3月8日)、ペリーは総勢500名の隊列で横浜に上陸し、約30名の部下とともに日米会談の応接所に入った。横浜開港資料館蔵。
明けて1月、前年の約束どおり、ペリーが軍艦7隻を率いて来航し、国書への回答を迫った。そこで、2月10日より正式交渉が開始され、3月3日、神奈川において、日米和親条約が調印される。当初、アメリカの国書は、薪水および石炭や食料の供与、遭難船員の救助、および交易を要求していたが、交渉時、ペリーが交易を強要しなかったことから、比較的順調に調印の運びとなった。この条約では、下田・箱館の二港を開港、下田に領事を置くとともに、片務的最恵国待遇条款が約定された。
このアメリカとの和親条約の締結に続き、幕府は、8月にはイギリスと日英和親条約を結ぶ。また、再来したロシア特使プチャーチンとの交渉も、下田において再開され、12月、幕府は、このプチャーチンとの間で日露和親条約を締結する。
安政二年(1855年2月17日〜1856年2月5日)
前年の日露間の交渉で、日本とロシアはアイヌ民族他を無視し、領土問題について話し合ったといわれるが、幕府は、この年2月になって、全蝦夷地(北海道)を再直轄する。文化四年(1807年)のロシアとの軍事的紛争に伴い、全蝦夷地を直轄とした幕府であったが、危機が去った文政四年(1821年)、松前氏を復封していたのである。
3月、モーラベルがフランスのインドシナ艦隊を率いて来航したため、幕府は自ら和親条約の締結を提案し、その交渉に入る。
このころになると、和親条約は、日本にとって消極的なものから、ある積極的意味、すなわち、日本が列強間戦争に巻き込まれることを防ぐという意味を持ち始めていた。当時、イギリス・フランス連合とロシアの対立は、世界的規模で起こっており、クリミア戦争が起きた一年後、日本北方海域はイギリス、フランス、ロシアの「戦争水域」になっていた。そのため、いずれの国とも和親条約を結び、日本の中立を担保する外交政策が幕府当局者に意識され始めていたといわれる(『近代日本の軌跡1明治維新』田中彰編 吉川弘文館 1994 51p.〜52p.)
一方、オランダ国王から将軍に、軍船(スンビン号)が贈られたのを機に、幕府は洋式の海軍伝習施設をつくる方針を決め、7月には、長崎に海軍伝習所を開設する。教官はペルス=ライケン(Pels Rycken)大尉以下20名のオランダ人であった。
10月、幕府はフランスと和親条約を結び、さらに、12月にオランダとも日蘭和親条約を結ぶ。
この年、10月2日、江戸を大地震(安政大地震)が襲う。死者は7000人を超え、倒壊家屋は1万数千戸に達し、「夷敵来襲」に備えて建造された品川砲台などにも著しい被害があったといわれる。
『方丈記』に描かれた元暦二年・文治元年(1185年)7月の都の大地震は、平氏滅亡の三月余り後に起こっているが、時に日本の大地震は、時代の転換期に激しく地を震わせ、世の変化・変革を暗示するもののようである。
安政三年(1856年2月6日〜1857年1月25日)
2月、幕府は、外国との応接、交渉に備え、また、通訳者を養成するために蕃書調所を江戸九段下に設ける。阿部正弘は、この機関への人材登用に際し、藩や身分などの制約を取り払い、才能ある人物を広く集めようとしたといわれる。
7月になって、アメリカは日米和親条約の規定に基づき、使節としてタウンゼント・ハリスを日本に派遣してくる。ハリスは、8月、下田柿崎村の玉泉寺を総領事館とし、駐日総領事としての任に就く。 この年、1856年、12月23日(安政三年11月26日)火曜日付けの日記(『ハリス 日本滞在記』(中)坂田精一訳 岩波書店 1997)にハリスは、
「今日ヒュースケン君が獨りで、武器をもたずに散歩に出かけた。その道で、袖に衣紋をつけた一名の日本人に出合った。その男はヒュースケン君を見るや、自分のもっている長い杖を威嚇的な態度で振り廻し、それから刀を抜いて、それをも振りまわした。ヒュースケン君は最初ためらったが、武器を持っていなかったので、そのまま引き返した。私は彼に、二度と武器をもたずに、外出するなと言いつけた」と記している。ハリスが下田に着任して後の、彼の日記に記された、外国人に対する最初の「暴力事件」である。
ヒュースケン(Henricus Coenradus Joannes Heusken)とは、通訳としてハリスと共に来日したオランダ人で、ハリス着任後、アメリカ総領事館の通訳兼書記官となった人物である。ただし、ヒュースケンは、1855年から1861年に至る、自身の日記『ヒュースケン日本日記』(青木枝朗訳 岩波書店 1987)の中では、暴行を受けたり、侮辱行為を受けたことについて、全く触れていない。
後日、ハリスは、下田の副奉行に対し、ヒュースケンに威嚇的な態度で迫った日本人の逮捕と処罰を求めるが、犯人は不明とされ、その後、この件に触れられることはなかった。
ブレイディースタジオで撮影されたハリス。
1863年、ニューヨーク市立大学蔵。
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ハリスが日本に着任したこの年、クリミア戦争がイギリス、フランス、サルディニア、トルコの連合軍の勝利に終わり、ロシアは黒海での権益を失っている。
他方、清国広東では、イギリス国旗を掲げたイギリス船籍のアロー号において、中国人乗組員が塩密売の嫌疑で、清朝の官憲に逮捕されるという事件(アロー号事件)が起こる。イギリスとフランスは、これらの事件を口実に連合出兵し、やがて広東を占領する。
安政四年(1857年1月26日〜1858年2月13日)
下田において執務を始めたハリスは、5月には、下田奉行との間に、日米和親条約の追加条約として、開港場使用細則などを定めた下田条約を結び、10月には江戸城に登城して将軍に謁見、大統領の親書を上呈する。
その5日後、ハリスは、阿部正弘の死(6月17日 享年39)後、老中首座となり、外交事務を担当していた堀田備中守正睦を訪問し、産業革命による進歩や、それに伴う国際情勢の変化、清に例をとったイギリス・フランスの脅威、及び、アメリカとの通商が急務であること等を力説し、アメリカは日本に対し「あらゆる点で友好的」である、と述べる。幕府は、ハリスの陳述を公式記録「対話書」に書きとどめ、幕閣および海防掛が参集して、その対応策を評議した。
12月11日、日米通商条約の草案について第一回目の折衝が行われた後、ハリスは、下田奉行井上信濃守から、内密の話として、幕府は「アメリカ全権大使に対する一つの陰謀」を目下摘発中であり、「今朝、その陰謀者の中の三名の首謀者を逮捕し、これを投獄した」と告げられる。
「陰謀」とは、水戸藩郷士堀江芳之助、蓮田東藏、信田仁十郎らが、タウンゼント・ハリスを要撃するため水戸を出たが、目的を果たせず、11月27日、自訴し、処罰を受けたといわれる事件のことである。
ハリスは、1858年1月25日(安政四年12月11日)の日記に、この「陰謀」を知らされたときの思いを、次のように書き留めている。「私が江戸へきてから、まる五十五日間、全く静穏をたもっていたこれらの浪人が、日本における外国公使の居住の問題が論議されようとする丁度その時になって騒ぎだし、会議の開かれる第一日目の朝彼らが逮捕されたとは、極めて疑わしい事柄であると、私は考えた。そこで私は、その事件の全部が実際の「作り事」ではないにしろ、大いにそれに似たものであると断定した」と。
幕府は、ハリス要撃未遂事件を利用して、外国公使の江戸居住を阻止しようとしたが、失敗する。この要撃未遂事件は、やがて頻発する外国人要撃の序章となる事件であった。
このハリス要撃未遂事件に関して、ヒュースケンも、同じ1958年1月25日(安政四年12月11日)付けの日記に、「日本政府の任命した委員たち」(下田奉行井上信濃守、長崎奉行岩瀬肥後守)から聞いた話として、「日本ではそれぞれの家の家長が家族を扶養する。長男は父の地位を継ぐ。次男以下のものは武術を習うけれども地位はもたない。しかし、そういう人々の多くは、役人の子息や親戚の者たちであるが、行状が悪く、そのため父親や親戚たちが、彼らに生活の資を与えようとしない。かくして家族から見放された人々はローニン[浪人](浪の上を漂う人)と呼ばれる」と記し、浪人というのは「フランス語でやくざとかごろつきなどと呼ばれる類の者である。最近そういう者が三人逮捕された。彼らは合衆国の大使に危害を加えようと企んだのである。ハリス氏が、彼らは自分を殺そうとしたのか、それとも単に傷つけようとしただけなのかと尋ねたのに対して」、奉行たちは、「被疑者がまだ審問されていないのでわからない」と答え、三名の者たちの名前をあげたことを記している。そしてさらに、日本の政府が「大使の身辺に非常な不安を感じていること、この住居は夜じゅう警護の者が囲んでいること、家人は襲撃を恐れてほとんど眠られないありさまであることなどを語った。したがって、もしアメリカ人に国内を旅行する権利が与えられたりすれば、、命にかかわる危険に身をさらし、ひいては両国の友誼を瓦解させることにもなるということを、大使は容易に理解できるはずである」と付加したのに対し、ハリスは「自分はすこしも恐れてはいない。日本人がりっぱな国民であることは承知している。しかしどこにでも悪い人間はいるもので、自分の身の安全を気づかってくれることについては末永く感謝しよう」と答えたと記している。
来日して日が浅く、日本の実情を掌握していないにしても、下田奉行や長崎奉行の「説明」そのままに、「合衆国の大使」(ハリスの当時の肩書きは「日本駐剳(総)領事」である)を要撃しようとした者たちを「やくざ」「ごろつき」の類とする態度は、ことを甘く見過ぎていよう。だが、一般に、報道を通してもつ、我々の、中東に関する認識や「テロリスト」に関する認識も、このときのヒュースケン同様、「アメリカ人」の認識になってはいないだろうか。
さらに、彼、ヒュースケンは、1857年5月21日(安政四年4月28日)付けの日記に、「日本にきて、まず下男を雇った。こんどは馬持ちだ! この調子だと、自分の馬車を持って皇帝の一人娘に結婚を申し込むことことにもなりかねない。そうなると俺は植民地総督だ!」と記す。馬が購入でき、有頂天になったあまりの記述ではあろうが、「植民地」日本というのは、この時の、ヒュースケンの、日本についての認識であったことにまちがいはないであろう。
インドでは、この年、イギリス東インド会社の傭兵(セポイ sepoy)が、反乱を起こす。インド独立運動の原点となった反乱である。
安政五年(1858年2月14日〜1859年2月2日)
日米通商条約に関する草案がほぼまとまった、前年12月末、老中堀田備中守正睦は、諸大名に「貿易開始やむなし」との説明をして、意見を集約した後、年が改まった1月下旬、京都に向かい、条約案を提示して、勅許を請うが、朝廷は承認を拒否する。
勅許奏請に失敗した堀田正睦が江戸に帰着して間もない4月23日、幕府は彦根藩主井伊掃部頭直弼を大老に任命する。
この頃、幕府では、十三代将軍家定に世子がなかったことから、将軍継嗣問題が懸案となっており、前水戸藩主徳川斉昭の第七子、一橋慶喜を擁立しようとする一橋派と、家定と血縁の近い紀州藩主徳川義茂(慶福のちの家茂)を擁立しようとする南紀派が争っていた。一橋派は、幕閣の独裁を抑え、幕政の改革をはかろうとする雄藩大名が中心の一派であり、南紀派は、伝統的な幕府の権力を守ろうとする譜代大名からなる一派であったが、大奥の後ろ盾により井伊直弼が大老に就任したことによって南紀派が勝利する。
堀田正睦は、江戸に戻った後、ハリスに条約調印延期を懇請し、条約調印遅延の理由を記した将軍家定のアメリカ大統領宛親書を交付するなどするが、アメリカの汽船ミシシッピー号が清国における英仏艦隊の動静をもたらしたのを機に、ハリスが条約の締結を迫ったことから、幕府は、6月19日、日米修好通商条約14か条、および、貿易章程7則(「安政条約」)に調印する。
この修好通商条約は、神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市、領事の駐在などが骨子となっていた。だが、領事裁判権、片務的最恵国条款を規定していること、また、自由貿易を原則としてはいるが、関税率は貿易章程で協定することとされ、関税自主権が否定されるなど、不平等条項が定められていたのである。
幕府は、この通商条約調印に至る「やむなき」理由を、6月22日、在府の諸大名に説明し、条約勅許の奏請不首尾を理由に、老中堀田備中守正睦を罷免、同25日に、徳川慶福が将軍継嗣に決定したことを発表する。
さらに、7月5日、徳川斉昭、越前藩主松平慶永らを、幕府の外交政策に反対し、強訴というべき不時登城をした罪により隠居、謹慎に処すと、幕府は、同10日にオランダ、11日にロシア、18日にはイギリスと、短時日のうちに、アメリカと同様の修好通商条約を締結する。
しかし、これらの条約の締結は、天皇の承認を得ない、「違勅」調印であったことから、幕閣、幕政批判の根拠としての尊皇論を生み出す一方、孝明天皇が攘夷を熱望し、修好通商条約の調印に反対していたことから、攘夷思想を醸成することとなる。特に、8月8日、朝廷は幕府と水戸藩に勅諚(戌午の密勅)を下すのであるが、水戸藩に直接勅諚が下されたことは、幕府の体面を大きく傷つけると同時に、水戸藩内部に対立を呼び起こし、後に大きな波紋を及ぼすことになる。
その後、幕府は、9月になって、修好通商条約締結五カ国目となるフランスと、条約を締結する一方、同月、尊皇攘夷をスローガンとした反幕運動や将軍継嗣問題で一橋派に属した者たちへの弾圧を開始する。安政の大獄である。
弾圧開始の翌月10月、かねて継嗣に決定していた徳川慶福が、将軍家定の死去(7月6日)に伴い、将軍職に就く。
この年5月21日、アメリカ船ミシシッピー号の長崎入港で、長崎に上陸したコレラが、6月初頭に長崎周辺に、そして、6月下旬には西日本から東海道に広がり、7月下旬、江戸に達している(山本俊一『日本コレラ史』東京大学出版会 1982)。このとき、日本全土で猖獗を極めたコレラによって、全滅した村もあったという。
開国へと向かう政治状況の激変に加え、安政の大地震に代表される大地震や大津波・大風雨などの天変地異、大火、更にはコレラの大流行と、相次ぐ災厄に、人々は時代の終末を確信し、世直しへの思いを強くしていく。だが、人々が「ええじゃないか」に狂奔するのは、もう少し先のことである。
インドではムガール帝国が滅亡し、この年、イギリスのインド直轄統治が始まっている。
第2節 三港の開港と外国人要撃
安政五年に調印された日米修好通商条約を皮切りに、その後、相ついで締結された4カ国との修好通商条約に従って、幕府は神奈川、長崎、箱舘の三港を開港する。だが、その頃より外国人に対する敵対行為が頻発するようになり、さらには、横浜において、最初の流血事件が発生する。
安政六年(1959年2月3日〜1860年1月22日)
修好通商条約に則り、イギリス政府は、1859年2月23日(安政六年1月21日)、広東総領事ラザフォード・オールコック(John Rutherford Alcock)を駐日総領事兼外交代表に任命し、安政六年5月26日、日本に派遣する。
幕府もまた、修好通商条約第三条に則り、6月2日、神奈川・長崎・箱舘の三港を開き、ロシア・フランス・イギリス・オランダ・アメリカ、五カ国に貿易を許可する。
6月7日、オールコックは東禅寺に、この年1月に公使に昇格していたハリスは翌8日、麻布善福寺に仮公使館を設置する。
このイギリス、アメリカ両公使館が江戸に設置されたころ、オールコックは、日本の民衆の「はなはだしい敵対感情が、折さえあればいつでも表面に表れるばかりになっている」とその著に記し、イギリス代表部が受けた種々の暴行や投石などの侮辱行為に関して、7月11日、日本政府に「もし日本政府が民衆のこのような敵対行為を許しておくならば、政府の責任になりかねない」と抗議したことを記している。その抗議文中に以下のような記述がある。「大英帝国とアメリカ合衆国のいずれの代表部員も、官舎から外出すれば、かならず乱暴・無礼──とくにさいきんは、もっとも無法にして断固たる性質の暴行──の危険をおかさなければならないのである。つつましくおだやかに、だれにも侮辱や挑発を与えることなく大通りを通行する紳士にたいして、石が投げられ、打撃が加えられ、刀が抜かれるのである。数日前、アメリカ公使館書記官ヒュースケン氏が道路で馬を並足でゆっくりと歩ませていたとき、故意に襲撃をうけ、猛烈な一撃を加えられたとのことである。しかもこれは、認められたかぎりでは、たんなる人足や泥酔者の仕業ではなく、『刀をもった役人』のひとりによってであった。なおまた耳にしているところでは、その後一両日して、ヒュースケン氏および同行のオランダ領事は、白昼町のまん中で投石されたが、それはあどけない子供たちによってではなく、ひとりどころか何百人もの大の男から、しかも短時間ではなくてかなり長いあいだ、執拗に襲撃されたのである。そして、二名の官吏が居合わせたにもかかわらず、そのような迫害をとめようとして手を動かすこともなかったのであった。イギリス代表部員も、散歩中に経験した傲慢と乱暴について苦情をのべている。しかもそれは、かならずしも民衆からではなく、役人からこうむっているのである。われわれの側からの挑発も無礼も見られず、その口実がまったくないのに、ときとして石が投げかけられる。われわれの挑発どころか、かれらの襲撃が行なわれるのは、背後からなのである」と(『大君の都』(上)349p.〜350p.)。
オールコックの抗議に対し、幕府の閣老たちは、罪を犯した者たちについて関知しない、また民衆の示威行動についてもそれを防止する権力はない、と回答したというが、抗議の一週間後、彼が同じ地域およびその周辺を馬で通ったとき、同種の敵対行為を受けることはなく、抗議には一定の効果があったとオールコックは判断している。
オールコック。ベアト撮影。東京都写真美術館蔵。
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ところが、英米両公使館が江戸に設置されて六週間がたったころ、事件は起こる。シベリア総督であり、満州総督でもあったムラヴィヨーフ・アムールスキー(Nikolai Nikolaevich Muraviev Amurskii)は、樺太の占有問題について交渉するため、10隻のロシア艦隊を率いて日本にやってきていた。ムラヴィヨーフは300名の武装・装備した護衛を伴って上陸し、大中寺に駐留していたが、彼の士官のうちのある者が江戸市中を歩いていたとき、日本人から侮辱行為を受ける。その侮辱行為に対し、ロシア士官が抗議したため、日本の役人が一名あるいはそれ以上、免職されたといわれるが、そのことと関連してか、7月27日夜、開港後最初の、外国人に対する流血事件が横浜で発生する。
「ロシア軍艦の一士官[筆者注:海軍少尉ロマン・モフェト(Roman Mophet)]がひとりの水兵[筆者注:イワン・ソコロフ(Ivan Sokoloff)]とひとりのまかない係をつれて、前の晩[1859年8月25日、安政6年7月27日]の8時ごろ、食料品を買うために上陸し、そしてたくさんの店がまだ開いていた大通り近くのボートに帰る途中、一行は突然数名の武装した日本人に襲われ、ひじょうにひどい傷を負わされて切り倒された。まかない係は致命的な傷をうけたと思われたが、最初の一撃のあとで一軒の店にとびこんだので、まだ生きのこっていた。他の二人は、血の池にとりのこされ、肉が大きなかたまりとなってかれらの身体や手足からぶらさがっていた。水兵は頭蓋から鼻孔まで切り裂かれ、頭皮の半ばがはがれ、一方の腕は関節のところで肩からほとんど離れていた。士官も同様にずたずたに切られ、からだを胴切りにした刀の傷からは肺がはみ出し、股や脚もひどい傷を負っていた。悪漢たちはただ殺すだけでは満足しなかったようで、かれらを切りさいなむことを楽しんだにちがいない。運悪く三人とも武装していなかったが、多くの人びとがすぐ見えるところ、ないしその近所にいた」とオールコックはいう(オールコック前掲書(上)356p.)。
まかない係と士官の絶命前の証言では、襲撃者は二本の刀を帯びていたといい、現場に残された片方の草履から襲撃者は人足以上の階級に属する者であると考えられた。また、まかない係がもっていた金箱が、一度は奪い去られたが、神奈川への路上に放置されていたことから、物盗りが目的でないことが判明している。
このときのロシア人被害者たちが、めった切りにされたうえ、手足もほとんど切り離されんばかりの状況であったことから、そこには、日本人の、残酷で執念深い、個人的あるいは政治的な感情があったものと、オールコックは見ている(オールコック前掲書(上)358p.)。
この時の攘夷行動の実行者は、慶應元年(1865年)になって、敦賀に幽閉中であった水戸天狗党のひとり、小林幸八であったことが、本人の供述によって判明。その年5月、小林は横浜に移送され、磔刑に処されている。
ロシア人の襲撃から数日たったある日、酔ったひとりの役人が、刀を振りまわしながら、ロシア人の首を切るといってわめいていたところを、鉤のついた棒で引き倒され、武器をとりあげられるという事件が起こる。だが、このとき、この酔ってわめいていた役人は、任務に戻るよう指示されただけであったという。
オールコックは、この日本の刀について、「一種のサーベル」と表現し、「梃子のような強力な柄と、剃刀のような刃がついていて、だれの手にあっても人を殺すに足る武器である」と説明している(オールコック前掲書(上)360p.)。
こうした外国人への暴行あるいは暴行未遂について、オールコック他、全権使節たちは幕府に抗議するが、幕府の外国掛閣老は、江戸の住民たちの性格は危険であるから、外交官の江戸居住を二三年先に先送りするのが得策であると言い、以前、自分が警告したのは正しかったであろう、と述べたといわれる。
その後も、ロシア人を殺害した者についての情報は、日本側から全権大使たちに対し、何も示されなかったため、オールコックは、闘争が本気ではじめられた、と感じると同時に、「日本の外交は、国家主義的狂信といっさいの革新への敵意によってはげまされ、暗殺者の刃および東洋的な背信と残忍な冷酷さという武器のすべてによって後援」されていると書く(オールコック前掲書(上)362p.)。
流血事件の動揺が続く中、8月10日、フランス総領事兼外交代表デュシェスヌ=ド=ベルクール(Gustave Duchesne de Bellecoure)が来日し、麻布の済海寺に入る。修好通商条約締結国五カ国の駐在外交官が揃いつつあった。
ところが、ロシア艦船乗組員殺傷事件から二ヶ月半後の10月11日、今度は、フランス副領事ルーレイロ(Jose Loureiro)の使っていた清国人の従僕が横浜の外国人居留地で殺害される。従僕は清国人であったが、服装から欧米人と間違えられたのだといわれる。
「かれは、白昼に、外国人居留地にある主人の家のすぐそばで、抜き身の刀をひっさげたひとりの男に襲われ、すこし追跡されて、ある住宅の入口にはいる寸前に、恐ろしくも深傷を負わされたのである。かれは、数日間生きながらえたのちに、死んだ。腰と腹部は、数カ所の傷のために、うつろになっていた。犯人も、その動機も判明しなかった。」(オールコック前掲書(上)405p.)
この件については、オランダ総領事兼外交事務官であった デ=グラーフ=ファン=ポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek)も、1859年11月8日付、駐日オランダ弁務官ドンケル=クルチウス(Jan Hendrik Donker Curtius)宛報告書の中で、ルーレイロの従僕が横浜の商店に買い物に行った帰りに、追いかけてきた日本人に、左肩に一太刀浴びせられたこと、そして、その太刀が雨合羽や厚手の着物五枚を通って、従僕の肩とあばら骨三本を切り裂いてしまったことを報告している。そして、さらに、彼は「あらゆる手を打ったにもかかわらず、ルーレイロ氏が 300ドルの賞金をかけたにもかかわらず、犯人はまだ見つかりません」と書いて、この殺害事件が外国人居留地のまん中で起こり、しかもそれが盗み目的ではなく、外国人を殺すことが目的であったと記して、自分が居留地に「まともな」役人を配置するよう、幕府に何度も催促したにもかかわらず、何の手も打たれないと述べている(『ポルスブルック日本報告 1857-1870 ─オランダ領事の見た幕末事情─』173p.〜174p. 以下『ポルスブルック日本報告』)。
攘夷行動を禁止する触れ、及び、処罰規定が公式に出されたのは、慶應四年(1868年)1月15日になってからのことである。
総領事の正装をしたポルスブルック。
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この安政六年は、前年の「安政の大獄」によって捕縛された者たちが処罰された年であった。8月には水戸藩関係者が切腹、死罪、獄門に、10月には橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰らが刑死している。
一方、幕府は、10月初旬、日米修好通商条約批准書交換の手はずを整えているが、24日に、新潟開港延期を四カ国に通知している。
12月9日、下田港閉鎖の翌日、オランダ総領事デ=ウィット(Jan Karel de Witt)が着任する。
フランスがサイゴンを占領したのは、この年である。
第3節 安政七年、すなわち万延元年という年
安政七年3月18日、万延元年と改元されたこの年は、年初より攘夷行動がふき荒れた年であった。中下級武士たちの間に、大老井伊直弼暗殺にみられるような志士的行動様式が醸成され始め、「尊皇攘夷」が反幕のスローガンとなっていく。
安政七年(1860年1月23日〜1860年4月7日)
万延元年(1860年4月8日〜1861年2月9日)
※3月18日万延改元
年が明け、まだ松の内の1月7日、イギリス公使オールコック付きの日本人通詞伝吉(小林伝吉)が、江戸のイギリス公使館の門前に立っているところを背後から刺されて殺害される。
伝吉は難破船の生存者で、アメリカや中国を流浪するという経験をしている。彼の帰国は、日本の開国によって可能となった。しかし、伝吉は短気で、高慢で、荒々しい性格を身につけて帰国したため、それが命取りになったのではないかとオールコックは記している。
その日、伝吉は「大通りに近い広場に面している公使館の門を出て、すぐそばの小道の端にある数軒の家の方に向かって、旗竿のすぐ下の入り口か戸口によりかかっていた。まだ白昼のことで、かれの付近には男や女や子供たちがいた。そのときに、一、二名の男が背後の小通からこっそりかれの立っているところへやってきて、立ちすくんでいるかれのからだに短刀をつかのところまで突きさした。かれは、門番のところまで数歩よろめき歩いた。門番がかれの背中から短刀を引き抜いたが、かれはその場で自分の血のなかにぶっ倒れた。それは、まさしく急所を突いていた。尖端はかれの背中をとおって、右胸の上に出た。暗殺者は、短刀をこのように深く突きさしたまま、きたときと同じようにこっそりと姿を消した」(オールコック前掲書(中)65p.)のである。
オールコックが戸板の上に横たえられた伝吉に話しかけると、伝吉は目を動かしたが、意識はほとんどなく、ひとこともしゃべらなかった。オールコックたちが傷を調べるために衣服の一部を脱がせている間に、彼は一二度痙攣し、その痛みで全身をふるわせてから、苦悶することなく息をひきとった。
オールコックたちにとって、伝吉殺害の容疑者はふたりいると考えられた。ひとりは、殺害の数日前、街頭で伝吉を攻撃して逮捕された、ある大名の家来であり、もうひとりは、イギリス公使館を解雇されたオールコックの主任コックであった。主任コックは、解雇される前に、伝吉は誰かに殺されるだろうと言っており、帯に二本の刀をさして台所にいるのが目撃されている。ふたりは捕らえられたが、両者から有力な証拠はなにも出てこなかったようである。
ただ、伝吉が殺害される数日前、ある外国奉行がイギリス公使館日本係書記官ユースデン(Richard Eusden)に会った際、奉行は、伝吉を非難し、即座に解雇した方がよいと執拗に勧めたという。このことから、オールコックは、奉行たちは伝吉が襲撃されることを予め知っていたと確信している。
一説によると、伝吉は「らしゃめん伝吉」といわれ、外国人に、素人の日本人女性を周旋していたことが禍したともいわれている
(森川哲郎『幕末暗殺史――テロリズムと明治維新――』三一書房 1975)。
伝吉殺害の翌1月8日、フランス公使館が焼失する。この公使館には誰も住んでいなかったことから、デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックは「放火であるとしか考えられない」(『ポルスブルック日本報告』113p.)と述べている。
伝吉殺害から、まだ一月と経たない、2月5日夜8時ごろ、オランダ商船の船長、デ=フォス(Wessel de Vos)とデッケル(Nanning Dekker)の二人が横浜の街路上で斬り殺されるという事件が発生する。二人のうち、一人は60歳をこえていたといわれる。
この事件の前日から、公用で江戸にいたオランダ領事デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックは、その江戸で事件の知らせを受け、横浜にかけつけて、日本人医師数人と検死を行い、結果を駐日オランダ弁務官ドンケル=クルチウスに報告している(『ポルスブルック日本報告』175p.〜180p.)。
「デ・フォス氏は背中に一撃を浴び、これが最初の傷だった模様で、更に頸部に一撃、大腿部上部に一撃、膝の上に一か所、腕に数か所刀を浴びました。それに頭を三か所切られたので、頭髪と左右の耳を持って頭部を持ち上げると頭が三つに割れてしまうのでした。さらに手の指数本が切り取られておりました。デッカー氏は太刀を主に顔部に浴びましたのでまったく見分けがつかぬほどになっており、また右手が切り取られておりました。(略)この検視の結果、まずデ・フォス氏が背中を襲われ、犯人の刀をつかんだ際に指二本が切り取られ、それから幾太刀も浴びせられたことが分かりました。デッカー氏は、ステッキに一撃を防いだ跡が見られるので、しばらく応戦してから切られたことが分かりました」と、デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックは述べ、最後に「私は、我が同胞が税関などで大抵の英米人のような粗野な振る舞いをしないように気をつけてきたのに、この日本の殺人鬼はオランダ人だけを狙っていたのだなどと結論づける声が、私の耳にも入ってきます。私自身はそんなことはまだ信じられません」と付け加えている。
オールコックも、この事件に言及し、「かれらは暗やみで襲われ、頭と手足はちょうど肉屋の肉切り庖丁で切ったように、ほとんどからだから離れていた。ひとりは肩をほとんど切り離されており、さらに頭や顔や胸にも切り傷をうけていて、そのことごとくが致命傷であった。もうひとりは、刀を左手でにぎったらしくて、しっかりつかもうとして指が三本切り落とされていた。そのかれは、なおもたたかいつづけて、右手で頭めがけて切りこんできた一撃をうけ流して百歩ほども走ったらしく、死体から百歩ほど離れたところに切り落とされた手が発見された。かれもまた、ずたずたに切られていた」(オールコック前掲書(中)76p.)と述べている。
オールコックは、こうした襲撃に対して、どこに改善策をもとめるべきか、なにをなすべきか、善後策を考える。そして、被害者の遺族たちのために重い賠償金を要求することが、今後の被害を防止する唯一の策だと結論づける。ロシアのムラヴィヨーフ・アムールスキーは、士官と水兵とまかない係の三人が殺傷された際、オールコックの勧めにもかかわらず、日本に賠償請求をせず、「ロシアは自国民の血を金で売らなかった」と言ったというが、オールコックは「他人が犠牲になるがままにしている連中には、なんらかの方法で高価な代償を支払わせるべきだ」と結論づけたのである。
このオランダ人船長二名の殺害事件に関しては、イギリス・オランダ・フランスの三国が共同して、被害者一名につき2万5千ドルの賠償金を日本に要求している。
2月10日、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節護衛艦咸臨丸が浦賀を出航する。続いて、2月13日、遣米使節新見正興らがアメリカの艦船ポーハタン号に搭乗し、サンフランシスコに向けて横浜を出航した。
2月も半ばを過ぎたころ、オールコックは、50名の者たちが全外国人を殺害するため横浜に向かおうとして逮捕された、という報告をハリスから受けとる。だが、この種の噂は、当時、たびたび流されており、外国人の間では重要視されなくなっていた。
しかし、ちょうどそのころ、フランス公使館付きのジラール神父(Prudence Sepraphin Barthelemy Girard)が「神奈川から江戸へかえる途中である一軒の茶屋に腰をおろして馬にかいばをくわせていると、ひとりの両刀を帯びた男がやってきて、かれが日本語を話せることを知り、『お前は、お前たちがみな殺されることを知っているだろうな』といわれた。神父はそれを冗談だと思って、『いや、本当に知らない──ではいったいそれはいつなんだ』と答えると、『いつだって? すぐだ──一晩のうちにな』といわれた」(オールコック前掲書(中)75p.)という。だが、当時、このような話の真偽や出所を、外国人が確かめる方途はなかったようである。
安政七年3月3日、「上巳節供」の総登城のこの日、大老井伊掃部頭直弼が登城の途中、江戸城内廓門の一つ桜田門の外で、家来が大勢随行する中、水戸・薩摩の浪士18名に襲われ殺害される。
このときの状況を、オールコックはその場に居合わせたかのように記録している。外国公使たちが、詳細な情報の入手に努めていたことがわかる記述ではある。
それは、朝10時ごろのことであった。その日は雨とみぞれのいりまじる嵐が吹きすさんでいた。「それでも、大老の邸宅の門からは行列が現れてきた。その行列の外観を見てみると、日本の風習や習慣をよく知っている人には、摂政じしんがそのまん中におり、日々の義務をはたすために宮殿におもむく途中であることが明らかであった。人員はあまり多くなく、従者はみな油紙の雨外套を着用し、頭には大きな円型の籠か漆塗りの帽子をゆわえつけていたが、二名の先導者が尖端高く大名であることをしめす黒い羽毛のふさをつけた槍をささげもっていて、大名がとおることをたえず明示していた。........(中略)........[行列が]お濠端にさしかかった。大君の兄弟である紀州侯(徳川茂承)のもっとも大きい行列はすでに橋をこえて、その向こうの門を通過しつつあった。一方、同じく兄弟のひとりである尾張侯(徳川茂徳)の従者が、土手道から数歩のところにやってきていた。大老は、橋にいたる広い通りが集まってできている広場のところにいたから、二つの行列の中間にいたわけだ。近くにいたのは、油紙の外套をまとった若干のまばらな群れだけであった」。そのとき、突如としてひとりの男が行列のなかに割り込み、大老の乗物のすぐ前につきすすんだ。さらに、そこに、たちまちのうちに鎖かたびらをまとった武装した男たちが現れ、「白刃のひらめきと怒号のうちに、四方八方に攻撃が加えられ、かんたんに乗物かきを追っ払い、ふみとどまる者を切り倒した。戦闘は短かったが、悲惨なものであった。不幸な役人や従者は、不意打ちであったがゆえに、自分の雨具にじゃまされて、その多くは自分じしんないし主君をまもるために刀を抜こうとして抜きえないうちに倒された。.........(略)..........敵味方とも、多数の者が打ち合いで倒れた。重傷を負った二名の攻撃者は、逃げることは不可能だと知って戦うことをやめ、追跡者にこれ見よがしにゆうゆうと切腹したとのことだ。......(略)......その同士たちは、友情をしめす最後の行為として、負傷者たちが捕らわれて拷問にかけられ、知っていることを白状させられることのないように負傷者たちをすばやく殺してしまったとのことだ。すべてが終わったとき、攻撃者のうちの八名が行くえ不明になっていた。また随行者の方の多くは、傷ついて大地にのびており、凶悪な猛襲をしかけてきた人びとのそばで死にかけていた。その死闘から生きのこった摂政の家来ののこりの者は、短いあいだに自分たちの主人がどうなったかをたしかめるために乗物へとってかえしたが、そこに見いだしたのは首なしの胴体だけであった」(オールコック前掲書(中)86p.〜89p.)と書き記し、この事件によって、江戸市中の各地区の門は閉ざされ、密偵や警吏など、政府の全機関が動員されたこと、そして、ひところは、内乱の始まりか、それとも党派争いの勃発かと危惧されたが、全面的な衝突の危険性は、その後の月日の経過のうちにしだいに薄れていったことなどを記している。
大老井伊直弼を要撃、殺害したのは、水戸藩に関わる17名と薩摩藩士1名からなる18名の者たちであった。
水戸藩では、安政五年7月5日、前藩主斉昭と藩主慶篤の父子が不時登城の罪によって処分された直後より、急進派の結集が始まっていたといわれるが、安政五年8月8日、孝明天皇が水戸藩に直接下した勅諚(「戊午の密勅」)によって藩は大きく二つに分かれ対立していた。
孝明天皇自身、攘夷の意志に変わりはなかったが、安政五年12月、幕府の外交政策了承を宣達し、翌安政六年2月、幕府に対し、水戸藩に下した勅諚を取り戻すよう命じる。この勅諚の返納に関して、水戸藩に激しい対立がまき起こる。 安政六年12月、水戸藩では、藩議の結果、勅諚を幕府にではなく直接朝廷に返納することに決定する。しかし、返納を阻止しようとする急進派の動きが予断を許さぬ事態となったため、この年2月15日、斉昭は急進派の解散を命じる。だが、再び藩論が動揺し、水戸藩は勅諚の返納延期願いを出す。このような中で、水戸を離れた急進派の関鉄之助ほか17名に、薩摩藩を脱藩した有村次左衛門が加わり、大老井伊直弼の暗殺は決行されたのである。
有村次左衛門は、薩摩藩において、中下級武士たちが結束し、江戸で大老井伊直弼を、京都では関白九条尚忠と所司代酒井忠義を襲撃しようという動きが生まれた際、それを察知した藩主島津忠義の実父久光によって慰撫され、自重を求められた者たちのうちの一人であった。彼らは脱藩を中止し、その後、薩摩藩の尊王攘夷派誠忠組をかたちづくっていくが、江戸にいた有村次左衛門は水戸藩との連携を強めており、脱藩を強行、大老井伊直弼の要撃に加わる。
このような中下級武士たちの尊皇攘夷の動きは水戸・薩摩だけでなく、長州藩やその他の藩にもあったが、特に水戸藩における上記のような情況が、志士的行動様式を醸成し、中下級武士や草莽の士に影響を与えていった。
大老井伊直弼を要撃した者たちは、必ずしも反幕運動として行動したわけではなかったといわれるが、幕府の実権を握る大老の暗殺は、幕府の権威を失墜させ、その後の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えることになる。そして、この事件をさかいに暗殺事件は急増していく。
3月18日(1860年4月8日)、元号が改まり万延となる。
井伊の死後、幕府では、老中首座に就いた磐城平藩藩主安藤信正と、再選された一橋派の関宿藩主久世広周による安藤・久世体制を敷き、幕政の安定化を図る。彼らは、かつて井伊直弼が計画していた皇女の降嫁を、公武一和のため、正式に朝廷に申し入れる。朝廷は、アメリカなど五カ国と締結した条約を破棄し攘夷することを条件として、7、8年か10年後の和宮の降嫁を承認する。だが、破約攘夷が天皇の意思であることが明確になったことから、尊皇攘夷思想は権威化され、中下級武士や草莽の士のよってたつ所となり、時代の政治思潮となっていった。
万延元年4月3日、アメリカ、ワシントンの日付では、1860年5月22日、遣米使節が米国務長官カッスと日米修好通商条約批准書を交換。
6月17日、幕府はポルトガルと修好通商条約を締結する。
9月17日の夕刻、オールコックが夕食をとろうとしていたとき、フランス公使館付きのジラール神父が、血まみれのイタリア人ナタール(Natar)を、イギリス公使館に運んできた。ナタールはフランス公使デュシェスヌ=ド=ベルクールの従僕である。
「ナタールは夕暮れ迫るころに、公使館の階段のところに立たずんでいた。そのすぐ近くには、公使館付きの役人も数名いた。そのとき、二人の人相の悪い肩をいからせた武士が羽織り袴でとおりがかり、そのひとりが階段をのぼって、やにわにナタールのそばにいた犬をひどいいきおいで道路までけとばして、けんかを売りつけた。ナタールが抗議するや否や、この武士は小刀を抜き、ナタールの頭めがけてはげしくふりおろした。ナタールがとびのきながら、腕をあげてこれをどうやらふせぎ、連発ピストルをとりだして相手めがけて発射すると、この武士は逃げだし、抜き身の血刀をひっさげたまま、群衆のなかへ姿を消してしまった」(オールコック前掲書(中)240p.) という。
血まみれのナタールを公使館の中に運び入れて調べてみると、「右腕の上部を刀で切られていることがわかった。これは、頭をめがけて切りつけられたのを防ごうとしてうけた傷であった。幸い、傷は骨には達していなかったが、幅が数インチもあり、相当の深さであった。腕の外側でもあり、大きな血管も走ってはいないところだったから、比較的安全な傷ではあったが、傷口が大きくぱっくりと開いており、そのあまりのむごたらしさに、おとなしいジラール師は気分を悪くして別室へしりぞかざるをえなかった。すぐに傷口は、数針ぬわれ、ちいさな血管からの出血はとめられて、、手もとにあるかぎりの材料で包帯された」。
このナタールの事件に際しても、公使館付きの役人および周辺にいた人間はだれも凶漢をとめようとはしなかったといい、公使館の門内にいる日本人の役人や護衛、また、外出する際についてくる騎馬の護衛などは、「邪魔になりこそすれ、なんの役にも立たない」とオールコックは憤っている。
しかし、「さいきんのさまざまなごたごたの原因や不安は、日本人側の行為だけにもとづくものとかぎられているわけではない。外国人じしんが、ときとして、一触即発の状態にある燃えやすい材料を増し加えるようなことをして」いるとして、オールコックは、10月15日〔1860年11月27日)、神奈川で起きた事件について記している。
当時、江戸城から10里以内では火器の使用は禁じられており、使用した場合には死罪に処すという法のあることは、すべての外国人にも通達、警告されていた。しかし、実際にはあまり守られていなかった。
「銃を肩にし、従僕をつれたひとりのイギリス人[筆者注:マイケル・モース]が獲物の雁をもって猟からかえってくる途中に、その従僕が警吏の一隊に襲われた。そこで、主人がこれを助けようとすると、警吏はかれをも逮捕しようとしたので、銃をおろし、撃鉄をあげて、近寄ると射つぞとおどかした。だが、互いにもみあっているうちに、銃が発砲され、ひとりの役人が重傷を負った──片方の腕のひじからうえが傷つき、さらに胸部に貫通銃創だか盲貫銃創だかをうけた。このイギリス人は、即座にひき倒され、手足をしばられて、警吏につれさられた。そして、領事がどこに留置されたかをたしかめて、釈放させることができたのは、真夜中になってからのことであった。」(オールコック前掲書(中)255p.)
この事件のため、居留民たちは、しばらくのあいだ、無差別に報復行為をうける脅威にさらされることになった。負傷した役人の近親者が「他の外国人はともかくとして、すくなくとも当のイギリス人だけは殺して仇をとる決心をしている」という噂が流れた。事件を起こしたマイケル・モースは、復讐される可能性があり、身の安全のために、香港に去った。他方、弾丸によって胸に大きな傷を受けた役人は、終生不自由な身体になったという。
この事件について、当時、神奈川オランダ副領事であったデ=グラーフ=ファン=ポルスブルックは、オランダ総領事ドンケル=クルチウスに宛てて次のように報告している(『ポルスブルック日本報告』191p.〜195p.)。
「昨年神奈川奉行が私に、日本の法律では江戸から10マイルの周囲内では狩りが禁じられているのでオランダ人にも狩りを禁止してほしい、と頼みに来ました。私は直ちに、(略)我が同胞には誰彼の区別なく狩りに行くのを禁じました。オランダ人はこれに従いましたが、他の外国人特にアメリカ人やイギリス人はそれぞれの領事による禁止にもかかわらず、毎日銃や猟犬を従えて野原にいるのが見られました。今年の10月に奉行から手紙が来て、狩りに出かけた外国人が日本婦人の足を撃ったのでもう一度ほかの外国領事にも狩りを禁止するよう伝えてほしい、と書いてありました。私は早速その言葉に従い、禁止をもっと有効に通用させるため違反する者には200メキシコドルの罰金を課しました。お陰で我が同胞は狩りをする気がまったくなくなりました。しかし他の外国人は、狩りをやめるようにという奉行の度重なる要請にもかかわらず、フランス領事やイギリス領事の通訳までが相変わらず狩りに出かけたのです。(略)イギリスの保護下にあるドイツ人テルゲ氏は、川崎で狩りをしているのが見つかって捕らえられ、後ろ手に縛られてイギリス領事館へ連行されることになりました。しかし、その途中でイギリス商人ブッシュに出会ったところ、彼はすぐ助けに来て、片手に弾を込めた拳銃を持って警官を防ぎ、もう一方の手でテルゲ氏を縛っている縄を解いたのです。ブッシュ氏がテルゲ氏を連れて行くのを妨げよう(ママ)と近づいた警官に向かって銃が発砲されましたが、弾は当たりませんでした。(略)[その3日後] 神奈川の大通りで、イギリス商人マイケル・モスが狩りから帰ってきたところを日本の役人と警官に引き止められました。モス氏はテルゲ氏のように縛られるのを恐れて、しばらく拳を振り上げて応戦しましたが、多勢にはかなわぬと見てとると、弾を込めた拳銃を役人や警官にむけて二発撃ちました。一発目は役人の左肘上を撃ち抜き、もう一発は日本家屋に命中しましたが誰にも当たりませんでした。そこで警官全員がモス氏に飛びかかって鉄棒で打ち倒すと、縛り上げて神奈川の役所に連れて行きました。(略)翌朝、イギリス領事とフランス総領事が12時頃奉行所へ押しかけてモス氏を解放してきたと、と聞きました。また、モス氏を解放するために、ヨーロッパ商人が30人ほど小銃や拳銃や刀で武装して、夜中の2時頃拘置所へ押しかけて奉行を起こそうとしましたが、モス氏がすでに解放されたことを拘置所の手前で聞いたので帰ってきた、という話も聞きました。(略)モス氏が罰を受けるべきか、またどんな罰を受けるのか、まだまったく不明です。私は、イギリス公使[サー・ラザフォード・オールコック]は幕府を公正に取り扱わないだろうと思います。すべてのイギリス人も公使自身もこの事件が何か侮辱的なことだと思っていて、このイギリス人が日本の法を犯したにも関わらず、彼に対して日本の役人が手を上げたのは不当だと思っているのです。この件については貴殿に後でまたご報告するつもりです。しかし疑いもなく、モス氏が罰を受けないことになればすぐ、もっとたくさん殺しが起こるきっかけになるだろうし、そうなればこの事件にはまったく関係すらなくモス氏のやり方を非難し、職務に忠実だったがために外国人に怪我をさせられた日本の役人に同情している、そういう人が殺しの犠牲者になるかもしれません。血には血をという言葉がずっと日本の掟でしたし、重傷を負った役人は見舞いに来たイギリス公使にこう言ったそうです。自分は生き永らえることはまずないだろうが、モス氏の首を取るまでは自分が休まることはないだろう。そして自分が死ねば、家族が何をすべきか知っているのだ、と。この日本の役人はこの言葉で、命を失うのはどうでもよいが、生き永らえたら自分になされた侮辱を血で復讐する覚悟がある、と言っているのです。もしそうなれば、流された日本の血に復讐するため、先に私が述べたように幾人もの犠牲者が出ることになるでしょう。」と。
デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックは、イギリス公使オールコックについて、あまりよい感触を持っていなかったようである。
この事件で、マイケル・モースは領事裁判所において裁判にかけられ、1000ドルの科料と国外追放という判決をうけたが、オールコックは、モースの「加害意識の明白なことや、日本人に与えた傷からしても、あるいはその結果、居留民全体におよぼした災禍や危険からいっても、判決は不十分である」と考え、三ヶ月の禁固を付け加え、科料1000ドルは、負傷した役人への賠償金にするよう指示している(オールコック前掲書(中) 256p.〜257p.)。
この件に関し、モースは後に、香港において、オールコックに対する損害賠償の訴訟を起こし、オールコックは敗訴、モースに2000ドルを支払っている。
オイレンブルク。
『東アジア1860-1862』
東京大学史料編纂所蔵。
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このころ、プロシアはオイレンブルグ(Friedrich Albrecht Graf zu Eulenburg)を使節として日本に派遣し、通商条約を締結するために、幕府と交渉を続けていた。その交渉は、6ヶ月近く続いていたが、万延元年11月5日(1860年12月16日)、交渉に携わっていた外国奉行の一人、堀織部正正煕が切腹する。
堀織部正正煕の死は、その死の時期から、一般に、プロシアとの条約締結交渉に関して老中筆頭安藤信正より受けた叱責に因があるとされる。
オールコックの知人マクドナルドが、11月のある日、馬で公使館に帰ってくる途中、「両刀を帯びたさる大名の家臣が、酒気を帯びていたことが手伝ってか、馬のまえで道路の中央に立ちふさがり、ことばと身ぶりで、かれの通行をとめようとした」。一行中にオールコックの随員のひとりがおり、「こういうできごとになれていて、いつ何時どうなるかも知れぬということをよくこころえていたので、馬であとにしたがっている護衛の役人の方をふり向いて、なにかことをしでかしそうな顔つきをして乱暴にも通行の邪魔をせんとしているその男を立ちのかせるように告げようとした。ところが、かれらは、まっ青になって、馬上でことの起こるのを待っているばかりであった」という。
オールコックは「もうこれが最期かと、自問すまいと思ってもせざるをえないような目に、何回合わされたことか」と嘆き、さらに、自分たちが、条約履行に際して誠実果敢に取り組み、日本の支配階級の不誠実で反動的な政策に抵抗すると、殺戮の対象になる可能性が高まると嘆く(オールコック前掲書(中)253p.〜254p.)。
そうした出来事の起こるなか、11月21日(1861年1月1日)、神奈川訪問中のアメリカ公使ハリスより、書記官のヒュースケンを通じて、オールコックに伝言が届く。伝言は、水戸藩主であった故徳川斉昭の、かつての家臣と推測される数百名の浪人たちが、横浜の外国人居留地に放火すると同時に、江戸の各国公使館を襲撃して館員を殺害するという目的で集結している、という情報を老中(閣老会議)がにぎっており、それをアメリカ公使に警告するため、外国奉行のひとりが江戸から派遣されてきた、というものであった。そして、さらに、横浜の方が保護しやすいという理由で、外国領事は全員横浜に移ってもらいたいこと、また、江戸の、ハリス他外国代表は、治安が回復し、国内が平穏に戻るまでの間、公使館を離れ、江戸城内の建物に避難することを承諾してもらいたいという幕府の要望書が添えられてあった。
襲撃に備え、オールコックはイギリス艦隊に出航延期を要請するが、折しも旗艦に天然痘が発生したことから、彼は要請を取り下げ、艦隊は出航する。
その後も、幕府の警報は続いたが、「数百名の多きにのぼる浪人たち」の外国人居留地への放火と江戸の各国公使館襲撃は起こらなかった。
しかし、オールコックたちが、襲撃の不安のうちに日を過ごしていた12月5日(1861年1月15日)夜、以前から、たびたび通行妨害や投石などを受けていた、アメリカ公使館の書記官ヒュースケンがプロシアの仮の公邸、芝は赤羽接遇所での、いつもの夕食会のあと、馬に乗って帰宅するところを、刺客の一団に待ち伏せされ、襲われて、殺害される。
以下は、ヒュースケン自身が、公使館に帰って死亡するまでの一、二時間の間に、はっきりと語ったといわれる事件の全容である。
夕食を済ませての帰途、ヒュースケンは麻布薪河岸を数百ヤード[筆者注:1ヤード=0.9144m]ばかり進む。そのあたりで、「道はアメリカ公使館(善福寺)のある民家の密集した地域を走る数本のせまい道と交差していた。二、三本の道が交差しているところへさしかかって間もなく、夜のしじまを破って、凶暴な叫び声が起こり、待ち伏せていた六、七名の一団が隠れ場所から、抜き身の刀をひっさげておどりだしてきた。かれらは、二手に別れ、主力はヒュースケン氏をおそい、もう一方は刀のひらで役人ののっている馬をなぐりつけ、ほとんど立ち去れと命令するいとまもなしに追い払った。うしろからついてきた二名の役人も、それと同じようなすばやさで、別の方向へと姿を消した。他方、このように見捨てられたヒュースケン氏は、馬に拍車をあてて、両側から猛然とおそいかかる襲撃者たちのあいだを駆けぬけようと努力した。かれは、狩猟用のむちをもっているだけであった。しかし、かりに刺客の襲撃にたいしてもっと十分な用意をしていたところで、このとつぜんさとか夜の暗さから考えると、はたして連発ピストルをつかえたかどうかは疑わしい。どうやらかれは、そのときには重傷を負わされたことに気づかないで、刺客たちの囲みを破ることができたらしい。そして、数百歩ばかり馬を走らせることができたが、そのときになってひどい手傷を負っていることに気がつき、すこし前方にまだ姿が見えていた馬丁を呼んで、馬からおりようとして地面に落ちたのであった。かれは、腹部を恐ろしく切り裂かれ、傷口からは内臓がでかかっており、その他にも軽い突き傷や切り傷をいくらかうけていた。かれはまったく見捨てられて、血の海のなかでのたうちつつ、正確にはどのくらいの時間かわからぬが、その場に倒れていた。暗殺者たちがあとを追ってこなかったところをみると、かれらは首尾よくことをなしとげたことに満足したらしい。一方、大君の紋章をもっていた勇敢な護衛はどうかというと、ながいことたってから、やっと助太刀をつれてもどってきた」(オールコック前掲書(中)307p.〜308p.)という。
その日の夜、10時ごろ、オールコックは、アメリカ公使ハリスより、負傷したヒュースケンのために医者を送ってほしい旨の手紙を受け取る。そこで、すぐにイギリス公使館付き医師、マイバーグ(Dr. F. G. Myburgh)をおくるが、時を経ずして彼はヒュースケン死亡の知らせをもって戻ってきた。
ヒュースケンはオランダ人であったが、アメリカ合衆国官吏として働く一方、イギリスの遣日使節として来日したエルギン(James Bruce Elgin)やプロシア使節オイレンブルグの通訳としても働いていた。
ヒュースケン殺害のこの日、万延元年12月5日は、日本の官吏とプロシアの使節たちが、プロシアの仮公邸、芝の赤羽接遇所に集まり、通商条約締結に関して、6ヶ月に及ぶ交渉の結果、ようやく双方の意見が一致し、近々調印という運びになった日であった。
この日、神奈川のオランダ副領事デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックも、オイレンブルクから夕食に招待されていたが、所用が生じ、危ういところで難を逃れている。
デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックは、その際の経緯を、以下のように記している(『ポルスブルック日本報告』116p.〜118p.)。
「私はオイレンブルク伯爵から友人のヒュースケンと一緒に夕方7時に夕食に招待された。しかし、ヒュースケンも私も先日幕府の外国奉行より日没後外出しないように言われているので、私はすぐ招待はお受けできないと答えた。ところがヒュースケンは私をなだめて、御存じのとおりアメリカ大使館はドイツ使節団の宿舎から通りをいくつか隔てているだけだから、貴方もアメリカ大使館に泊まったらいい、と言ってくれた。そこで私は着替えに帰宅したのである。オランダ公使館に着いたところ、横浜から速達便が届いているのに気づいた。私の出席が要請されているので、ただちに横浜に戻るべし、と書いてあった。そこですぐドイツ使節団に手紙を送って、自分は小舟で神奈川に向かい、夜8時にそこへ着いた」。翌朝早く、デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックは外国奉行の名前で、ヒュースケンが晩餐会の後、護衛に守られて馬で帰る途中、切られたという知らせを受けとる。「この悲しい知らせを受け取ってすぐ、私は江戸のアメリカ公使館へ急いだ。そして、ヒュースケンが夕食から帰ったときのままの白いスーツで横たわっているのを見た。ただ顔には日本刀で切られた小さい傷があり、日本人医師の手で包帯がしてあった、医師は、最初に受けた一太刀が死の直接の原因となったに違いないと言う。腹のあたりから走る切り傷は、斜めに胴体を切り分けていた.....(略)......私は偶然のお陰で命拾いしたことに密かに感謝した。オイレンブルク伯爵の夕食に行っていたら、私も疑いなくヒュースケンと運命を共にしたはずなのだから」と。デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックにとってヒュースケンは「かつて得た中で一番の友人」であったという。
ヒュースケンは殺害される直前まで、プロシアの使節オイレンブルクのもとで条約締結のため、通訳をしていたが、オイレンブルクもまた家族への書簡の中に、
「1861年1月15日(火曜日)江戸にて
恐ろしい日であつた! 私逹の誠實な伴侶であり友であるヒュースケンが暗殺された。.....(略).....私の所で通譯をしたヒュースケンは馬に乗つて城の周りを廻つて六時頃歸つて來て、何時ものやうに私と一緒に食事をした。全員が私の所に集まつた。食事の後私逹は八時半頃迄雜談をするのが例である。それからヒュースケンは遊び事をしないので、私逹が會を續けてゐる中に辭去して、馬で家へ歸つて行くのが通例である。今日もさうだつた。十時に私はハリスから報知を受取つた。私に急いで醫者を一人送るやうに、ヒュースケンは私の所からアメリカ公使館へ歸る途中で身髓を刺されたといふ。間髪を容れず、ルチウスは馬に跨り、アウグスト、ブラント、ベルグ リヒトホーフェン、ハイネが皆充分武裝してついて行つた。十二時にハイネが歸つて來て、次のやうに語つた。ヒュースケンには三人の役人がついて、一人は前に二人は後につき、その上二人の馬丁が彼の傍について、私の所から馬で出て行つた。私の家から凡そ百歩も進んで或る廣場へ來た時、彼は七人の者に襲はれた。先行の役人は提燈を消されて馬は傷つき、馬丁は地上に引き倒され、ヒュースケンは腹部に長さ數吋の傷を受けて、傷口から内臓が出てしまつた。彼の馬はこの出來事の爲に怖ぢけて、少しの間彼を乗せて前へ馳け出すと、彼は馬から落ちた。役人の一人が擔架を取りに行き、他の二人が彼の側についてゐた。それから彼を家に擔いで行つた。ルチウスは早速傷口を縫ひ合はせ、その他必要な處置をしたが、病人の容體は非常に心配だと説明した。ハイネは斯う語り終つた。一時間の後、凡そ一時頃、私は彼が不歸の人となつた知らせを受取つた。可愛相な若者よ! 彼は二十八歳位で、其の生活を樂しんでゐたし、教養があり、怜悧であつて、世にもよい氣立てを持つてゐた。世間では皆彼を愛し、私は彼をやさしく可愛がつてゐた。今彼は斯うして命を終つたのだ。
.....(略).....私が故郷を出てからまだ八ヶ月過ぎた許りだのに、私はもう凡ゆる經驗をした。何事も神の意志の儘に起るものと私が確く信じてゐなかつたなら、私はひどく打ちのめされてしまひさうだ。憐れな若者よ!
1861年1月16日(水曜日)
私は夜殆ど眠れず、今日は起きると直ぐルチウスから傷の模様を聽いた。彼が云ふには、一目見るなり其の傷は内臟を切られてゐるので助からないことがわかつた。それ故ヒュースケンに取つてこんなに早く痛みを知らずに死んだことは、仕合せといふべきで、一兩日後に必ず起る炎症に罹つたら非常に痛い目に遇つたらうと。
朝食の後でオールコックが來て、日本政府に對して取るべき手段に就いて相談した。それから私は馬で米國公使館へ行き、次に、はじめてヒュースケンの小さい住居へ行つた。家は血だらけで、死者の顔は怖ろしく落着いた様子であつた。ハリス氏は非常に深い悲愁に包まれてゐた。五年間此の二人は一緒に生活し、初めは彼等二人きりだつた。ハリスが云ふには、彼等の間には唯の一度も一寸した氣まずい思ひをしたこともなかつた。そしてヒュースケンの死によつて齎らされた空虚は、充すことが出來ないものだと。可愛相に彼は激しく泣いた。彼は江戸と日本を出來る丈け早く去る爲に總てを賭してしまうだらうと思ふ。
.....(略).....
ハリスの所からオールコックの所へ馬を廻らせ、もう一度彼と相談をした。太陽は慘虐の巷をきらきらと照らし、怨恨を以て世を充してしまひさうだ。三時に私は歸宅して、非常に澤山の書き物や整理をした。私逹の食事の時にも晩にもヒュースケンがゐないとは…。
佛蘭西人は食卓の顔馴染みが死んだ時は、席を詰めて、もうその事は氣に留めない(On serre les chaises et I'on n'en parle plus)と云ふ。然し私逹の場合はさうはしないだらう。私逹は氣の毒な若者を誠のこもった追憶の中に生かすであらう。和蘭には彼の年老いた母親が殘つてゐて、彼はその一人息子であり、力限り母を扶けてゐた。
1861年1月17日(木曜日)
.....(略)..... 暗殺の動機は決して明かにならず、下手人を搜さうともしてゐないと云ふ感じがするので、誰も全く憤懣の遣り場がない。江戸には古くから、夜は外に出ない方がよいといふ原則がある。酒に醉つた二本刀の者は慰みに通りがゝりの人の首を切る危險があるからだ。然しヒュースケンは誰でも知つてゐて、日本人の間でも大層愛されてゐたから、彼自身も私逹皆も怖れる必要はないと信じ、私逹の所から彼の家へは百回も往復して少しも怪しいものがあるなどとは考へもしなかつたのだ。それが今彼は完全に待伏せされてしまつた。これは浪人の陰謀と關聯してゐるのだらうか。それとも此處ではよくある追剥が自分の滿足の爲にさういふことをやつたのか。單に血を見る樂しみから三十回、四十回、五十回と人殺しをやつたことが、罪人が處刑せられて死ぬ前に明かになるといふやうな土地なのだから。或は又、結局は誰でも構はず(n'importe qui?)外國人を殺すといふことに歸着するのであつて、ヒュースケンが夕方馬で行く時が一番捕へ易いので、彼を選んだものだらうか。誰がそれを知り、誰がその理由を示すだらうか! 彼について行つた役人逹は、事件の後で逃げ出して氣の毒な負傷者を、一時間も道に放り出して置き、此の間に負傷者は澤山の血を失つて、出血が彼の死んだ直接の原因となつたものらしい」と、記している(『第一回獨逸遣日使節日本滯在記』213p.〜218p.)。
各国公使は、急遽、会議を開き、江戸からの撤退と、脅迫・殺害に対して強く抗議する旨の決議をする。オールコックが、閣老会議に提示するようにといって外国掛閣老宛に送った抗議文には、日本政府に対する苛立ちが散見される(オールコック前掲書(中)294p.〜295p.)。
「......外国公使にたいして、大虐殺の恐れがある旨の伝達があったのにひきつづいて、ヒュースケン氏が殺害され、さらにその後葬儀の日の朝、五カ国代表が殺害された人の葬儀に列席するために参集したところへ、またもや政府筋から通告があって、あえて墓地へおもむこうとするならば途中で襲撃される恐れがあるとのことであった。このことは、ただちに断固たる行動をとる必要性があるという点で、本官の心のなかの、そしてまた本官の思うに、他の公使たちの心のなかの疑念とためらいの最後のかけらをもとりのぞいてしまうに十分すぎるほどであった。」と言い、そして「.........本官は、しばらくのあいだ、江戸の公使館から撤退することに決意した。そこで本官は、いまここに、この決意を実行に移す旨を通告するしだいである。現在のところ、本官は、神奈川ないし横浜に居をさだめる予定である。同地ならば、必要とあれば自由にイギリス軍艦から保護手段をえられるのみならず、同国人の安全のために必要と思われる措置を講ずることができるからである。本官は、同地において、ここ18カ月間のうちにはじめて、たとえ暗殺の脅威はまぬがれることができぬにしても、そのような脅威がただちに現実化するのではないかというような懸念からは解放されて、大君政府との今後の交渉の結果をば冷静に待つつもりである。もしそのような脅威が現実化するならば、日本は危険にさらされて恥辱をこうむることになるであろう」と言って、このように抗議することは、「日本政府の各機関に有益な影響をあたえることができる、というきわめてつよい確信にもとづいた措置」であることを強調している。
アメリカ公使館書記官ヒュースケンの遺体。
1861年1月15日暗殺さる。
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堀織部正正煕とヒュースケンの死を招いたプロシアとの修好通商条約は、「プロイセン公使を早く江戸から出すため」、12月14日に調印されるが、他方、その翌々日の12月16日、オールコックは、フランス公使デュシェスヌ=ド=ベルクールとともに横浜に退去、オランダもプロシアも江戸を去り、アメリカ公使のハリスだけが江戸にとどまった。
清では、天津条約の批准をめぐって戦争が再燃していたが、この年、英仏連合軍が北京に進撃、北京を占領する。皇帝は熱河に逃れるが、その結果、北京条約の締結となり、清の半植民地化は、さらに深まる。
安政7年、すなわち3月18日に改元された万延元年という年は、尊皇と攘夷の結びついた「尊皇攘夷」が反幕スローガンとなり、文久期へとなだれ込んでいく、幕末政情の転換点となった年であった。 |