野次馬小屋・目次
煙草のけむり
井上俊夫
後ろ手に縛り上げられ
首を刎ねられる直前
抗日パルチザンの精悍な男は
煙草を吸わせろと言った。
抜き身の日本刀をひっさげて
男の背後にまわっていた陸軍歩兵少尉は
そばの兵士に命じて
火のついた煙草を男の口にくわえさせた。
勇者の高い鼻梁から
真っ直ぐに
吐き出される
二筋のけむり。
おお、陽光煌めく江西省の一角
数十本の揚柳が一斉に芽を吹き
反りのきつい典雅な石橋が架かる
クリークのほとりへ
音もなく這って行く
煙草のけむり。
わたしは、*事実そのもの*をとらえることは、ほとんど不可能に近い。たとえ、*事実そのもの*をとらえることができたとしても、それはほとんど意味を成さないであろう、と考えています。体験的事実を直接表象する場合でさえ、それは*事実そのもの*ではなくて、「再構成された事実」にすぎないのです。
まして、体験的事実を(自分で思い返す場合のみならず)他人に語り伝えようとする場合には、何を採り何を捨てるか、どのような視点から、どのように言い表すかということが問題になってきます。つまり、事実ありのまま述べているという――その事実が、すでに再構成されたものであるかぎりは、すでにそこで虚と実とのあわいが問題となってくるということです。
ここに、事実とは別に真実が要請されてくる所以があると思います。事実ありのままではないが、しかし、真実だ、というふうに。そして、作家は、真実を描くと称するのです。
「事実をして語らしめる」という言い回しがあります。これは、もちろん、事実を無節操に語るということではなく、語り手・書き手の強烈な自己抑制がそこに伏在していて、初めて可能なことです。こんなことを「浪速の詩人工房」主人様に申し上げるのは、それこそ釈迦に説法の愚と思いますが、しかし「老兵たち」の中には、斬首や人肉嗜食やの衝撃性が、あたかも反戦平和思想に直結するかのごとき心得違いをしている者が多いように思います。そして、「浪速の詩人工房」主人様にも、(もちろん、無意識の裡にでしょうが)、*事実*にもたれかかっている安易さがあるのではないか、と危惧するのです。
「煙草のけむり」における事実とは何でしょうか。
大戦中、江西省の一角の河べりで、春、陸軍歩兵少尉が、みなの見ている前で、中国人の男(作者の言によれば、抗日ゲリラの男)を斬首した。斬首される前、男は煙草の一服を要求した……。
これだけ(!)のことでしょう。そして、これだけのことなら、「浪速の詩人工房」主人様が書こうが、戦争を知らないわたしが書こうが、大差ないのではありませんか。
これを「浪速の詩人工房」主人様が描くことに意味があるのは、「浪速の詩人工房」主人様が、まさしくその場に居合わせたという、この一点にあります。しかるに、その唯一の意味を、この詩の作者は、みずから注意深く殺ぎ落としてしまいました。おそらくは、「作品化」という名のもとに。
そればかりか、作者は、無自覚に潤色さえしました。「抗日パルチザン」――これが本当かどうかは、作者の言を信じるしかありませんが、「精悍な」「勇者」……、これらはみな、作者の主観的な潤色にすぎません。
この詩を、わたし(たち)「若々しい男」が読んで、どんな感想を持つと思われますか?
処刑される前、最期の煙草の一服を要求できるのは、いかにも「勇者」でしょう。(作者自身も、そう保証しています)。この勇者の要求に対して、最期の煙草を喫させる陸軍歩兵少尉も、武人の情けを知った勇者でないはずがありません。(作者の言を信ずれば)相手は抗日ゲリラだというではありませんか。処刑は当然まぬがれないでしょう。だとすれば、みごと一刀のもとに首を斬ってやるのが、これもまた武人の情けというものでしょう。
「殺す-殺される」という、この関係(戦争)自体が、煙草の煙のように虚しく、いやなものであることは確かでしょうが、だが、仕方がないときは仕方がない。殺すにしろ、殺されるにしろ、あのように雄々しく、勇者のほまれを得たいものだ。それが可能だとするなら(自分たちの父祖にできたのだから、自分たちにもできないはずはない!)、戦争もまんざらではない。まして、作者も思わず「ああ」と感嘆の声を発するようなのどかな春の日には、死もまた、悲愴ではあっても(悲愴は美です!)、それほど不幸ではない……。
このようにあの詩を読まれることは、おそらく、「浪速の詩人工房」主人様の本意ではあるまいと信じます。しかし、それが確信にまで至らぬ責めは、あの作品に対する作者自身の姿勢にある、とわたしは思います。
事実ありのままを描かれたのなら、まだ救いがありました。わたしたちは、あの戦争について私たちが知り得たかぎりの文脈の中において、その事実を補正して受け取ることができたでしょう。
また、「作品」の素材にするにしても、斬首される中国人の視点からでも、斬首する陸軍歩兵少尉の視点からでも、煙草をめぐんでやるよう命じられた「そばの兵士」の視点からでも、もちろん、事件の目撃者・皇軍兵士=井上俊夫の視点からでも描くことができたでしょう。そのいずれの視点を採ろうとも、その視点に徹するかぎりは、それぞれに(各「個」の限界性の枠内において真実であるという意味で)意味のある作品と成ったと思います。
しかるに、作者は、そのいずれの視点にも立とうとせず、すべてを見透したかのごとき、神のごとき視点から事件を描いたのです。それは、例えば、戦争を知らないわたしが、作品の単なる素材として事件を扱うのと同じ手法で、と言いなおしてもいいでしょう。
これでは、斬首された中国人の青年はうかばれないのではありませんか。あなた(たち)は、あれほどおびただしい死を体験しながら、たった一人の死者を弔うすべさえも学ばれなかったのでしょうか?
たった一人の死者を弔うということが、どういうことなのか、わたし(たち)若い者にはよくわかりませんが、しかし、少なくとも、みずから手を下した者たちが、自分たちが手を下した相手を「勇者」にまつりあげ、賛嘆し、そうすることによって、こっそりと、自分たちがその余得に与ろうとすることではない――ということだけは確かでしょう。
しかるに、あなたは、(他の「老兵たち」がそうでありつづけたように)自分たちのやったことを黙っていることもできたであろうのに、戦争体験をもって、反戦平和の旗手であるかのようにふるまっておられる、――その欺瞞性をわたしは黙過することができないのです。
ここまで述べれば、
あんたがた年寄りがおためごかしに口にする
反戦平和論議なんかちゃんちゃらおかしい
そんなに戦争が嫌いなら
なぜ若い時に命を賭して反対しなかった
なぜ戦争に行ったのだ
なぜ人殺しをやったのだ
そもそもあんたがたに戦争に反対する資格があるのかよ
(「うわ、おう、うわおう、うわ、うららら!」註)
この言葉に、わたしがどれほどのリアリティーを感じているか、ご理解いただけるのではないかと思うのですが、どうでしょうか?
あなたのおっしゃる「若々しい男」(たち)は、おそらくは、また再び戦争に行って、人殺しでも強姦でもすることでしょう。ちょうど、あなたがたがそうであったように。
そういう「若々しい男」(たち)が、「あんたがたに戦争に反対する資格があるのかよ」と詰め寄る所以は、あなたがたが「若い時に命を賭して反対しなかった」からでもなければ、あなたがたが黙々と「戦争に行った」からでもなく、また、あなたがたが「人殺しをやった」からでもなく、まして、「若々しい男」(たち)が、人殺しや強姦が(あなたがたよりも)とりわけて好きだからというわけでもないのです。
そうではなくて、あなたがたが、戦争体験から、次代に語り伝えるべきほどのことを、したがってまた、わたし(たち)が学ぶにあたいするほどのことを、何も学びとらなかったからではないのか――と、そういうふうに自省してみる気にはなれませんか?
あなたは、「若々しい男」(たち)を、まだ臍の緒もとれぬ、母子相姦的な青二才と揶揄なさっているのですが(「オカアチャン、やらせてくれよう、なあ、オカアチャン!」)、「若々しい男」(たち)を揶揄なさる*資格*は、いかにも、あなたにはないのです。
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