石原莞爾フォーラム
No.108
Date:Tue, 17 Aug 1999 00:54:45 +0900
Subject夏の庄内
ハンドルネーム:
Name:林 孝司
E-mail:k.hayashi@ma3.justnet.ne.jp
発言:こんにちは、林と申します。簡単な自己紹介します。

高校生ぐらいのとき共産主義、社会主義に傾倒しました。
学生のころ沖縄にいました。沖縄といえば反戦平和一色ですが 伊江島にちょっとおもしろい方がいます。阿波根昌鴻さんです この方を通じて非暴力思想を学びました。
詳しくは「人間の住んでる島」「米軍と農民」(岩波新書)など見てください。 阿波根昌鴻も反戦平和派ですがちょっとちがいます。
ちょうど石原莞爾将軍が世間からは右に分類されるのですが ちょっと違うと感じと同じと思います。このちょっと違うが大切だと思います。 最終的には石原莞爾将軍が身に寸鉄も帯びずに平和を達成するといっておられるの を考えると道はちがっても賢者は同じ結論を得るのでしょうか。
非暴力や無政府主義を調べているうち、満州事変、2.26事件なども勉強しました。
満州に関しては山口重次氏の「満州建国戦史」などを読みました。同じ大湊書房から出版されているのが「悲劇の将軍 石原莞爾」です。これが「石原莞爾」と名のつく最初に読んだ本です。
自分でも思うのですが思想的には分裂気味です。伊江島の「ヌチドゥタカラの家」 (反戦平和資料館)と西山の将軍のお墓へ同じ年に行くのは変ですね。

さて本題に入ります。
8/13夜行にて出発し、本日(8/16あさ)帰ってきました。
質問を投げたのですがすぐに出発してしまい、 折角のみなさんの情報が後追いになってしまいました。
申し訳ございません。
次回以降の参考にしたいと思います。

今回の訪問の目的は
1.没後50年の資料展を拝見すること
2.将軍をめぐる人々将軍の関わりを調べること
山口重次、片倉衷、辻政信、中山優、甘粕正彦など
3.墓参
でした。

8/14あさ、日本海3号で鶴岡へ着きました。
莊内神社の資料展は9時からだったので鶴岡公園のベンチで時間まで待ちました。 9:00すぎに宝物殿での資料展を拝見しました。
そこで興味深かったのは以下の3点です。

その1 将軍と宮沢賢治との関係

展示資料の中に

国訳妙法蓮華経(宮澤賢治)

宮澤賢治も石原将軍とともに国柱会という共通点があるにもかかわ らず両者を直接に結びつける資料はほとんどなかった。
これは宮澤賢治の遺言により弟の清六氏が昭和9年6月に作成し昭 和13年6月に石原将軍に謹呈したもの。(順第五拾九号)

「国訳妙法蓮華経」と説明がありました。(改行位置原文のまま)
国訳妙法蓮華経の奥書の前のページには縦書きで

順第五拾九号
昭和拾参年六月
謹呈石原完爾閣下

とあります。(号は旧字体)
何年か前にNHKで宮澤賢治の特集か何かで宮澤清六氏がご存命でした。
現在でもご存命であれば直接おたずねできないでしょうか。
この件に関しては私は二等兵ですので(将軍はこのようにおっしゃったそうです) どなたかご存じの方、情報をお願いします。

その2 大川周明との関係
大川周明と将軍は仲が悪かったと思っていましたが戦後直接何回か会っている ようです。将軍と大川周明博士が話している写真がありました。名前をお聞きする のを忘れましたが案内していただいた方が将軍が亡くなる二日前にも博士が 将軍をたずねておられるそうです。
この件に関しても私は二等兵ですので大川博士について詳しい方フォローしてください。 (単にものずごい分量の大川周明全集を読む気力がないだけです)
その3 石原完爾日記

角田順氏の「石原完爾資料 国防論策編」と 玉井礼一郎氏の「石原完爾選集」に収録されています。(どちらも現在入手可能) どちらも昭和16年までとなっています。後者は明治時代のが前者より 多く掲載されていますがそれ以降の日記は出版されていません。
しかし、この資料展でそれ以降の日記が希望者に配布されていました。
武田先生らが活動されている政治経済史学会で「石原完爾日記研究会」で 発行されているものです。

10時過ぎに図書館へ向かいました。
まずはカード式の図書目録を調べました。目録(諸家文書目録V 石原完爾資料 鶴岡郷土料館)にはない注釈がカードには書かれています。将軍は自ら出版した書物に たくさん訂正をいれています。新しい発見でしたが時間がないので(図書館は5時まで) 辻政信、中山優関係を調べました。ここでは古い図書でも請求すれば閲覧可能ですので 辻政信の著作、中山優の著作を見ました。
辻政信氏の著作は将軍が亡くなった後に本人から寄贈されたものらしくほとんどに 辻本人の署名がしてありました。

「亜細亜の共感」 謹供 石原将軍御霊前 辻政信
「シンガポール」 謹供 石原閣下御霊前 辻政信
「ガダルカナル」 捧 石原閣下御霊前 辻政信
「潜行三千里」    石原閣下の御霊前に捧ぐ
昭和二十五年五月二十八日 辻政信 合掌
「潜行三千里 決定版」 石原閣下御霊前 辻政信
「ノモンハン」 捧 石原閣下御霊前 辻政信

辻政信という人物にはいろいろ批判はありますが、私は辻には辻の言い分があると 考えています。めちゃくちゃな面もあったようですが全部を否定する気にはなれません。

著作権の問題があり、辻政信、中山優、山口重次の著作の一部を走り読みし、 一部分をコピーしました。五時になったのでホテルへ向かいました。夜行で朝早かった ためか早くに寝ました。

翌日10:30の酒田行きの列車で酒田まで行きました。吹浦へは1時間後になるので 閉館しているとは知っていたのですが場所の確認と写真を撮るために 光丘文庫、総合文化センター(図書館)、酒田商工会議所へタクシーで回りました。

12:16秋田行きの列車で吹浦へ向かいました。昨年、お参りしたころは大変 寒かったのです。前日の天気予報では庄内地方は雨だったのですが良い天気になり、 暑かったです。7号線バイパスに温度表示板があり33度とのこと。
13:00ごろ将軍のお墓(新しい方)につきました。
焼香しました。(後で消火の確認はしました。)
子供の頃、創価学会員でしたので「妙法蓮華経方便品第二」 は今でも意味はわかりませんが暗唱できます。(ちょっと自慢ですが、創価学会の件では いろいろありましたがこんなところで役に立つとは人生いろいろですね) 将軍の宗旨とは違うかもしれませんが法華経はこれしか知りませんので唱えました。
記帳し、写真を撮り、古い方のお墓に参りました。こちらでも記帳、焼香、読経しました。
保安林の中ですのでお線香の火が消えるまで「永久平和への道」を読みました。 そのときですが古い方のお墓からはバイパスを越えて新しいお墓が見えます。車が一台 止まっているのが見えました。
>志賀明彦さん あなたがこられたのでしょうか(二時半ごろ?)

ちなみに武田先生はこちらにも来られていました。
火が心配でしたので新しい方のお墓に戻り消火を確認しました。
残念ながら、炎天下の中でしたので他の方とは会いませんでした。
汗だくになり吹浦駅に向かい、16:24酒田へ出発、18:00ごろ鶴岡へ到着。
入江先生の本が欲しかったので、阿部久書店へ。ここでは旧家などから集めた古本なども 扱っており、「石原完爾著 教育革新論 言霊書房」(昭和十八年)を入手、 またちょっと変わった文書も入手しました。

昭和十七年二月付けの鶴岡市役所から栄町の本間義直さんへの手紙です。
内容は
1.鶴岡市長からの「徴兵適齢者各位」
2.「政事(思想)集会許可申請書」
3.「政事(思想)集会許可書」
の3通です。

2.の文章は縦書きB4に(一部、常用漢字にした)

政事(思想)集會許可書申請書
1.場所 栄町三井弥一郎
2.目的 町内一般ノ素質向上ノ為メ
3.開催日時 昭和十七年二月十二日 自午後六時 至午後九時
4.弁士氏名 石原完爾閣下
5.集會予定人員 男100名 女50名
右政事(思想)集會致度候条御許可相成度
此段及申請候や

昭和十七年二月 日
右発起人住所氏名
鶴岡市栄町乙廿七
栄町青年班長 本間義直
鶴岡警察署長
地方警視 佐藤 熊雄 殿

3.の文章は縦書きB5に(一部、常用漢字にした)

収特第六十二号
政事(思想)集會許可証
発起人
鶴岡市栄町乙廿七番地
本間義信
昭和十七年二月八日附願出鶴岡市栄町三井弥一郎方ニ於ケル政事(思想)集會開催ノ件許可ス

昭和十七年二月八日
鶴岡警察署長
地方警視 佐藤 熊雄 印

今、石原完爾日記を見ましたが昭和17年はどうもないようです。
角田順氏の「石原完爾資料 国防論策編」は昭和16年2月28日で終わっています。
ためいらぼ「石原完爾選集」も同様です。
資料展でもらった日記も昭和18年からです。
「諸家文書目録V 石原完爾資料 鶴岡郷土料館」にも17年は欠落しています。

2.3.の申請と許可はともに17年2月ですが名前が違うのが気になりますが 本間義直さん本間義信さんは親族でしょうし、また当時鶴岡でこのような集会が 許可されるのは石原完爾将軍ぐらいでしょうからまず3.は2.に対する許可書 と考えていいと思います。
手に入れたときは日記に記述があるだろうと思っていたのですが日記にない ので開催されたかどうか非常に興味のあるところです。

阿部久書店の店主によると本間さんのご子息が鶴岡を引き払うときに 引き取った古書の中にあったそうです。
そのほかに確認のとれそうな文書は「東亜連盟」誌でしょうが
が手元にありませんのでなんともいえません。お持ちの方教えてください。

上記の手紙は私の手元よりは鶴岡の図書館にあるほうがよいと思いますので コピーをとったら寄贈します。

夜、帰阪しました。

追伸:注文して「虹色のトロツキー」読みました。
将軍がお酒のんでました。資料展で展示されていた中国服はジュネーブに行かれた ときのものなのでしょうか。
辻政信、よく似てると思います。特にめちゃくちゃなところ。
中山優先生あんまり似ていません。(武田先生のお話だとお酒が好きな方のようです)
片倉衷、このころは太っていたのでしょうか(昭和12年の協和会の写真と比べて)
甘粕正彦、人相が悪いです。
トロツキー、頬がこけているのでは
尾崎秀美、こんな顔のひとなんですか
以上おまけでした。


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