石原莞爾フォーラム
No.121
Date:99.11.29 4:30 PM
SubjectRE:歴史的背景を知りたい
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発言: 自らは飽食暖衣の生活をしながら、さも判ったような顔をして苦難の昭和史を論ずる学者、評論家がいることは悲しいことです。この意味で「当時の歴史的背景を無視しての判断は無謀です」とのご主張に全面的に賛成です。『文芸春秋』12月号に秦郁彦氏などが日本の戦争について論じていますが、残念ながらこの傾向は否めません。
 「石原莞爾は満州事変の張本人である。満州事変から15年戦争が始まった」というのが現代の通説になっていますので、今日はまず満州事変の歴史的背景について私なりの見解を述べさせて頂きます。
 満州事変についての論述の中で最も欠落しているのは「当時は帝国主義全盛の時代であった」という深刻な認識です。
 第一次世界大戦という高価な犠牲を払ったにもかかわらず、当時は、強国による弱国支配、欧米諸国によるアジア、アフリカの植民地支配という本質は大戦前とは全く変わっていませんでした。アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、日本などの列強などのせめぎあい、弱肉強食、国盗り合戦の時代でした。お互いに虎視耽々(コシタンタン)少しでも弱いところがあれば侵入し、これを自己の勢力圏内に入れることに何のためらいも感じなかった時代でした。正に「力は正義なり」という言葉どうりの歴史的背景が存在していました。私たちはこの厳しい歴史的背景の中に自らを置いて当事を判断しなければなりません。
 イギリスは、現在のインド、ミャンマー、パキスタン、バングラデシュ、スリラン カ、シンガポール、マレーシア、香港を植民地とし、フランスはラオス、カンボジア、ベトナムを支配し、オランダはインドネシアを領有していました。またアメリカはフィリピンを,ソ連は外蒙古を支配していました。
                 アジアでの独立国といえば僅かに日本、タイ、中国の三カ国だけでした。その中国は当時、国内が統一されておらず独立国の形態をなしていませんでした。辛亥革命以後、一応は蒋介石が孫文の後継者として中国の代表者という形にはなっていましたが、実状は中国国民党と中国共産党が厳しく対立し、その他張学良、閻錫山(エンシャクザン)、憑玉祥(ヒョウギョクショウ)、李宗仁などの地方軍閥が離合集散を繰り返し、三つ巴、四つ巴になって競り合っていました。従ってアジアの独立国の中で、欧米の帝国主義勢力に対抗し得る国は日本しかありませんでした。
 さる11月28日、フィリピンのマニラでASEAN首脳会議が開かれましたが、満州事変当時はこれらの国々には星条旗やユニオンジャックや三色旗がはためいていました。今とは全く時代相が違っていたのです。東京裁判でアメリカをはじめとする戦勝国は「日本は満州事変を出発点として侵略戦争を起こした悪い国である」と断定していますが、アジアを侵略したのは一体何処の国だったのでしょうか。東京裁判の判決を鵜呑みにして、一方的に「満州事変は侵略戦争の第一歩である」とする一部の学者、評論家、教育者は歴史的背景を全く無視しているとしか思えません。
 欧米帝国主義諸国のなかで最も恐ろしい国はソ連(ロシア)でした。ロシアはロマノフ王朝成立以来、常に東方に勢力を延ばしてきました。太平洋岸に不凍港を獲得することはスラブ民族の夢だったのです。この方針は1922年ソビエト革命が成立しても不変でした。ソ連は1928年、第一次五ヶ年計画を立て、着着と軍備を充実し満州を狙っていたのです。
 以上が満州事変前夜の歴史的背景です。このような背景の中で、日本にどのような選択肢があったのか。ご一緒に考えてみたいと存じます。


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