できないことをできると錯覚する悲劇



世の中、できないことをできると勘違いすることほど不幸なことはないし、

そのために周囲は大迷惑と犠牲を被る。

20世紀、左翼は共産主義思想を頭の中で設計し、

それを実現しようとして大失敗して、膨大な死者と被害を出した。


これは右派にも当てはまることでもある。

自分たちが理想とする古き良き日本を思い描き、

そのような世の中を実現しようとしても、

それが実現できないことであれば周囲は大迷惑するだけとなる。


そもそも理想とする古き良き日本など存在するのだろうか。

人間は不完全であるがゆえに、

長い時間に耐え抜いた伝統を中心に据えながら世の中を動かしていこうとするのが

保守の思想である。

人間が携わる以上、どんな時代も不完全であり、多くの問題を抱えており、

理想的な世の中など存在しない。

伝統を重んじることと復古主義はちがう。


“民族派右翼”と“保守”は異なる。

結論だけを語っているか、考え方を語っているか、

そこに決定的な差がある。

結論は誰が決めるのか。

結論を決める人間が一番偉くなったときに全体主義に陥り、

理性主義的な国家社会主義へと向かう。

戦前の日本もそうなった。

日本ではそのことが清算されておらず、

戦後も民族派右翼(左翼)と保守が混在している。


世の中はなるようにしかならない。

冒頭に述べた、できないことをできると勘違いするということは、

なるようにしかならない世の中の方向性を

無理に変えようとして大失敗することである。

それは革新的であっても、復古的であっても同じ。

現在ではイスラム原理主義が時代の流れに抗おうとしているが、

結果的には時代から取り残されるだけで最後は何の成果も生まないだろう。

なるようにしかならない世の中の流れを変えることはできない。

その流れの中で何を守るのか、

不完全な人間が、ぎりぎりの判断を迫られ、

常に答えが存在しないなかで悪戦苦闘し続けるのが人間社会というものだ。

古代、中世、近世、近代、現代は、一見まったく違う世の中となっている。

こういった流れの中で、守るべきものが守られてきたのが日本社会である。

時代の流れに抗うことなく、何を守ろうとするのか。

復古主義的な保守で留まるなら、時代と共に消え去る宿命が待ち受けているだろう。

保守派はこれからそこの真価が問われるのである。






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