「法の下の平等」とは何か



現行の民法規定では夫婦間の子に対して婚外子の相続分は2分の1である。

これが憲法が保障する“法の下の平等”に反するとして、

最高裁で違憲判決が下された。

それでは“法の下の平等”とは何かについて考えてみたい。


私が今暮らしている家ある。

私にはこの家を所有する権利があるし、そこで暮らす権利がある。

これは財産権だが、財産権は何人も平等でなければならないはずだ。

ところが、平等ではない事態が発生する。


例えば、自分の家が、国による道路計画の予定地となったとしよう。

私は財産権を主張して、道路計画を中止させることができるだろうか。

それはできない。

最終的には土地収用法により取り上げられてしまう。

土地収用法は財産権を侵害する憲法違反には該当しないのか。

土地収用法が合憲となる根拠は、憲法に定められた“公共”の概念にある。

土地収用法の根拠は憲法第29条であるが、

国民の幸福追求権が規定された憲法第13条の規定がわかりやすい。


【憲法第13条】

すべて国民は、個人として尊重される。

生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、

立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。


つまり公共の福祉に反する場合は、国民の権利は制限される。

公共の福祉とは公の秩序を意味する。

公の秩序に反する場合は、個人の権利、財産権は制限されるということだ。


この概念は民法にも存在する。

例えばAさんのカメラをBさんが借りているとする。

ところがBさんがこのカメラを自分の物だといい、Cさんに売却したとしよう。

この場合、Aさんが所有権を主張すれば、

CさんはカメラをAさんに返さなければならないと考えられるが、民法ではそうはならない。

CさんがBさんのカメラだと信じて、そのことに過失がないのであれば、

Cさんは保護され、カメラの所有権はCさんに確定する。

これを民法では“即時取得”という。

つまり、Aさんの所有権は制限されてしまうのだ。

どういう理由でAさんの所有権が制限され、Cさんが保護されるのかというと、

「取引の安全」を重視していることにある。

Cさんは過失なく取引を行ってカメラを取得したのに、

それがひっくり返されるようなことが起こるのであれば、

誰もが安心して取引ができなくなる。

せっかく買ったものが、いつ取り上げられるかわからないような状態では

安心して売買取引ができないということだ。

そうなれば公の損失となり、結果的にそれが個人の損失となる。

そのため個人の権利よりも公の秩序を重視したのが、

善意の第三者を保護する“即時取得”の制度だ。


このように憲法が保障する個人の権利であれ、民法の権利であれ、

現行憲法下でも公の秩序が優先されている。

そこで、わが国の婚姻制度、家族制度は何のためにあるのか。

わが国の公の秩序を形成しているのではないのか。

今回の判決で最高裁判所は、家族制度という公の秩序よりも個人の権利を重視したのだ。

家族制度は意味がないと言っているに等しい。


キリスト教のような個人を重視する強力な宗教の存在しない日本で、

家族を崩壊させれば、現在の秩序を維持することは不可能である。

日本は世界から突出した未知の領域に突入する。

こんなことを最高裁判所が認めてもいいのか。


このような事態に対して安倍総理は、

「家族はわが国の公の秩序を形成するもの」という総理大臣談話を出すべきだ。

そして、今回、違憲判断を下した裁判官について、

判決そのものが憲法違反であるとして、弾劾裁判にかけたらどうか。

わが国の根底から支えている公の秩序を崩壊させようとする最高裁判所など必要あるのか、

国民は一度その存在意義を問う良い機会ではないだろうか。





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