日本古来の“ほどほどの精神”



「自由経済」と「資本主義」の違いをご存知か。

自由経済とは経済の需要と供給を市場に委ねるということ。

資本主義とは、「商売をする人」と「お金を出す人」が別々であること。

まったく意味が違う。

「資本主義自由経済」とは、商売をする人とお金を出す人が別々の仕組みと、

市場に委ねる経済を組み合わせたもの。


これに対してマルクスは異を唱えた。

マルクスの経済論(資本論)は読んでみるとめちゃくちゃ難しいが、

要するにこういうことを言っている。

資本主義はお金を出す人がいる以上、そこに利潤が発生しなくてはならない。

要するにに利息だ。

利息がなければお金を出す意味がない。

利潤が発生する以上、経済は拡大していかなくてはならない。

その仕組みの中で経済が発展していくということは、

金を出している人が膨大な利潤の還元を受け続けるわけで、

構造上、お金を出している人と、商売をしている人、

普通に働いている人の経済格差はどんどん広がっていくことになる。


そこでマルクス・エンゲルスは、全体の中でごく一部の資本家と、

その他大多数の労働者の間に格差が生まれ、

いずれ世の中の大多数を占める労働者は革命を起こすだろうと予言した。


一方で、だからこそお金を出す人、一部の資本家に税金をかけて、

労働者に還元するようにしなくてはならないと言っているのが

最近流行のピケティだ。


ただし、マルクスの予言はいまだに的中したことはない。

共産主義国家になったのは、

ソ連や中国、北朝鮮、ベトナム、キューバなど貧乏な国ばかりで、

豊かな経済先進国で革命が起こったことはない。

これはなぜだろうか。

もちろん、まだ資本主義の過程で、

いずれは共産主義革命が起こるという考えもあるかもしれない。

お金を出す人と、商売をする人を分けた資本主義では、

名目の経済は拡大し続けなければならないというのは事実であり、

マルクスの命題はいまだに解決はされていない。


しかし、ここで一つ考えてもらいたいのは、

資本主義国である戦後の日本は凄まじい経済発展を遂げ、

国の経済規模は何倍にも膨れあがった。

そのときに格差は広がっただろうか。

その頃の日本は1億総中流社会などといわれ、格差が目立たなかった時代で、

むしろ、経済発展をしなくなった現代に格差社会などと言われるようになっている。


「マルクスの命題」の解決のヒントは戦後の日本にあるのではないだろうか。

戦後の日本経済は社会主義などと揶揄されることもあるが、とんでもない。

規制や国の管理が強かった部門は発展せず、

自動車や電化製品をはじめ世界と戦っていた部門は大きく発展した。

日本はまぎれもなく資本主義自由経済の国である。


では日本型資本主義とは何か。

それは何でも「ほどほど」の精神だと思う。

資本家、経営者の儲けはほどほど。

従業員の給料もほどほど。

松下幸之助はビルゲイツにはならず、

本田宗一郎はカルロスゴーンにはならなかった。

資本家や経営者はほどほどに金持ちとなった。

日本で資本主義自由経済が貫かれたら、

誰に指示されることなく何でもほどほどの社会が出来てしまった。


この根本精神には日本古来の和の精神があるだろう。

いま世界の資本主義国家が注目すべきなのは、

ピケティではなく日本のほどほど精神ではないだろうか。






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