私のプロレス論
テレビ番組「アメトーク」の読書芸人で紹介されていたのを見て以来、
ずっと気になっていたのが『教養としてのプロレス』(プチ鹿島著・双葉社)。
相当面白いのではないか、自分の思考にかなり刺激を与えるのではないか、
と期待して読んだのだが、ハードルを上げすぎてしまったせいか、
期待していたほどの刺激は得られなかった。
私はプロレスファンではないが、
著者が述べる半信半疑の境地には、とっくに到達していたからだろうか。
もっと「プロレスとは何か?」というその深層に切り込む内容を期待していたのだ。
では、プロレスとは何なのか。
プロレスは筋書きどおりの八百長だと言ったり、
程度が低いと見下したりするのは底が浅い議論だと思う。
筋書きどおりだと弱い人間が勝ってもいい。
弱くてもハンサムで二枚目のヒーローレスラーを作り出して勝たせればいい。
しかし、実際のプロレスはそうではなく、
勝ち上がってヒーローになるレスラーは、間違いなくその中でトップクラスに強い。
筋書きどおりという、そんな単純なものではないと思う。
プロレスは、総合格闘技のようにとにかく相手を倒すことが強いとするのではなく、
ある程度の約束事、暗黙の了解の中で、
お互い相手の攻撃を受け合いながら一番強い人間を決めていく。
例えば、総合格闘技が今の試合に勝つことを最重視するプロ野球だとすると、
プロレスはピッチャーにあえてど真ん中に直球を投げさせて、
どちらがたくさん得点するのかを競うようなものと言うとわかりやすいだろうか。
ど真ん中に直球を投げ込むのは筋書き、お約束かもしれないが、
その条件下で鍛え上げた力を見せ合うのは真剣勝負である。
プロレスで相手をロープにふってこちらに戻ってくるのは
おかしいと思うかもしれないが、あえて戻って相手の攻撃を受ける。
その上で相手を倒す。
鍛え上げられた肉体のぶつかり合いなのだ。
下手な人間がプロレスをやると単なる八百長になるが、
鍛え抜かれた一流の選手たちが闘えば、
一番強いレスラーを決めることができるのだと思う。
その当事者間の暗黙の了解が曖昧な部分であり、
半信半疑であるとプチ鹿島氏は述べている。
半信半疑であるからこそプロレスは面白いと。
世の中はだいたいそういうものではないか。
曖昧な部分が多い。
八百長なんて言い出したら、ボクシングだってそういうところがある。
ボクシングはチャンピオンが挑戦者を選ぶという特殊な制度で行われている。
公平なスポーツであれば、毎年、トーナメント戦でも行い、
最強のボクサーを決めればいいのだが、
実際はチャンピオンが勝てそうな格下の挑戦者を選び、
防衛していく仕組みとなっている。
年に一度、ランキング1位の選手との試合を義務づけることで、
チャンピオンの強さを担保する。
興行権が主な収入になるからそうなるのだろうか。
わざと自分より弱い相手を選んで倒そうとするのだから、
ある意味八百長である。
野球やサッカーでも、金持ちクラブが良い選手を集めて優勝するのも、
ある意味、不公平であり、八百長的側面はある。
資本主義とは八百長とも言えるのだ。
しかし、現実世界ではみんなが切磋琢磨して真剣に仕事をしている。
私はサッカーが好きだが、
サッカーにもプロレス的要素が強いと思われる出来事があった。
サッカーというと、野球やラグビーなどと比べて
点が入らないスポーツだというイメージが強い。
それは1980年代後半にゾーンプレスという戦術がイタリアで発明されたからだ。
それまで個人技の見せ場が多かったサッカーだが、
ゾーンプレスの導入により、プレーできるスペースをつぶし、
相手選手がボールをもってもプレーできないようにしてしまう。
ミスをしなければ試合は0−0で終わる仕組みとなった。
サッカーは基本的に0−0で終わるスポーツだが、
戦術を駆使して相手のミスを誘い1−0で勝利する。
戦術レベルは格段に上がった。
だから点が入らないというイメージが強い。
しかし、戦術的なレベルは上がったが、試合がつまらなくなった。
深く戦術まで観る玄人目には面白くなっただろうか、
庶民には面白くなくなった。
サッカーはプロスポーツである。
プロなら全力で勝ちにこだわるべきなのだが、
一方でプロスポーツである以上、興業としての成功も求められる。
つまらない内容になればお客さんがスタジアムに足を運ばなくなる。
私も実際にもうサッカーを観るのをやめようかと思った時期もあった。
そのサッカーのつまらなさを覆したのがスペインの強豪、FCバルセロナである。
監督に就任したヨハン・クライフ氏のテーマは「美しく勝利せよ」だ。
攻め込まれるリスクを背負っても構わないから、攻撃に人数をかけて得点を狙う。
リスクを少なくするためにはボールポゼッション(支配率)を上げなくてはならない。
ワンタッチでどんどんボールを動かすことで
ボールポゼッションを7割程度まで上げ、
人数をかけて一気に攻めかかる。
相手にボールを奪われたら危険極まりない。
スペクタルでハラハラドキドキするサッカーだ。
1−0で勝つより、4−3で勝利することに価値を置く。
当時でいえば常識外れのサッカーだったので、
相手チームを困惑させて圧倒し、バルセロナのサッカーはヨーロッパを席巻した。
そして多くのファンが豪快で美しいサッカーに魅了されることとなった。
ワールドカップの南アフリカ大会で
スペインが初優勝を飾ったときの中心メンバーは、
このときのバルセロナのサッカーを観て育った子供たちだった。
相手の攻撃を受けつつ、相手を倒す。
まさしくバルセロナの魅せるサッカーはプロレスだったのではないか。
ブルース・リーは決められた筋書き通りに演技しているだけだが
(映画なのだから当然)、
だからと言ってブルース・リーは実際に強くないのかというとそうではない。
映画として観る人を楽しませる演出をしながら、強さを見せることで、
観客はブルース・リーに魅せられた。
映画を観たファンは誰も実際のブルース・リーが強くないなどと思っていない。
スポーツには筋書きを入れるわけにはいかないが、
しかし、スポーツも興業である以上、
お金を支払って観戦チケットを得た観客を楽しませなくては成り立たない。
その点では、プロレスはスポーツ、格闘技、映画、など
すべての要素を混ぜ込んだエンターテインメントであると言えるのではないか。
プロレスとは何か、ということを明確に語れない曖昧さ、
ハンドルの遊びのような部分が含まれていることが、
プロレスが奥深く、ファンを魅了する部分ではないだろうか。
現実社会も端的には語れない部分が多い。
白黒はっきりできない部分も多いし、
アンダーグラウンドの部分も世の中を構成している。
そういう意味で、プロレスの楽しみ方を体得すると、
世の中の見方がずいぶんと違ってくるのかもしれない。
私はなぜか、プロレス以外からそういうものの見方を体得したが、
まだ自分の中心軸が確立されていない人にとっては、
プロレスというのは最高の教養となるかもしれない。
まさしく『教養としてのプロレス』なのだ。
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