反動にご用心
森友学園が話題になっているが、
幼稚園で教育勅語をやっているだけで愛国的な人はコロッと騙されてしまう。
騙された者が悪いのか。
そうではない。
戦後長らく反日的な勢力が世の中を覆ってきたことで、
純粋に国のことを憂う人たちは
立ち位置がわかりにくくなってしまっているのではないか。
もし、この国に反日勢力がほとんどいなかったら、
森友学園の愛国教育はさほど興味を持たれなかったし、
人気も出なかっただろう。
反日的勢力が大きいからこそ森友学園が保守系から評価された。
森友学園を応援していた人は、「反日」に対する反動なのだ。
つまり、本来の正しい状態であればさほど評価されず、
異常な状態、いびつな状態のときに評価されていることが反動ということである。
反日勢力は許しがたいので、それに対する反動は悪いことではない。
ただし、反動を反動として認識していないことは危ないと思う。
考え方として難しいことではない。
世の中から反日勢力が一掃されていなくなったと仮定したとき、
今、目の前にあることが日常としてまともなことなのか、
素朴に考えればいいのだ。
例えば、普段は神社にあまり行かない人が、
8月15日だけ靖國神社に参拝すれば、
それは自虐史観に対する反動である。
公式な行事でもないのに、ちょっとした集まりで君が代を大合唱するのも、
左翼が日の丸君が代を嫌うことに対する反動かもしれない。
日の丸を掲げてデモ行進するのは明らかに反動である。
反日勢力がいなければそんなことする必要はない。
繰り返し述べるが、反動は悪いことではない。
反日勢力とは闘わなくてはならない。
ただ、反動はあくまで反動であると認識する必要があって、
反動が日常になれば、それはもう革新右翼となってしまい、
構造は左翼と同じである。
反動を反動と認識できないことがなぜ危ないのか。
例えば、反動というのは「敵の敵は味方」となる。
だから、信奉していた安倍総理から見放された籠池氏は安倍総理が敵となり、
敵の敵である辻元清美が味方となってしまった。
例えばこんなことも起こりえる。
保守勢力にとっては憲法9条の改正は悲願である。
憲法改正に反対するのは左翼。
改憲勢力は左翼の敵。
敵の敵は味方。
そこで「憲法9条改正に賛成するので、女性宮家創設にも賛成してくれないか」
と言われたら、どうするか。
憲法9条改正に反対するのは敵であるから、
これに賛成するのは敵の敵であり味方となる。
味方から女性宮家への賛成を頼まれたら、前向きに考えてみようとする。
小泉政権以来、我々が奮闘を続けてきたので、
今では女系天皇・女性宮家の問題性を認識している人はかなり多くなってきたが、
小泉政権の前だったらどうだったか。
迷ってしまう人はかなりいたのではないか。
左派勢力が愛国的な勢力に紛れ込んで、
そんなことを囁かれると危なかっただろう。
保守とアンチ反日は違う。
「保守」の反対は「革新」である。
「革新」イコール「反日」ではないので、
必ずしも「反日」の反対は「保守」にはならない。
「反日」に反対することは反動であって、保守とは別であるのだ。
反動の中に紛れ込んだ左翼に騙されないためには、
保守としての基軸が必要となる。
その基軸とは時間の縦軸である。
個々の人間は不完全であるが故に、
個々の人間を超えた、幾世代もの取捨選択に耐え抜いてきた
時間軸を基準にものごとを考えようとするのが、保守の神髄である。
そう考えれば、国が始まって以来、
二千年以上例外なく続いてきた男系による皇位継承と、
憲法9条ごときの重要度は比較にもならないことが容易にわかるだろう。
教育勅語は時間軸をベースにした内容であるが、
時間軸を抜きにして教育勅語そのものをだけ切り抜いて暗唱しても意味がない。
それだったら万葉集や古今和歌集を暗唱しているほう
美しい大和言葉が学べてがいいだろう。
反日憎しは理解できるが、そのフレストレーション(反動)と、
まっとうな保守の感覚というのは必ずしも違うということは
知っておかなくてはならない。
保守とはフラストレーションのない自然な姿であるはずだ。
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