文明の罠



最近、ジャンルを問わず、

自分の思考に刺激を与える書籍を読むように心がけているが、

なかなかそのような書籍に出会わない。

面白いか、面白くないか、ではなく、

刺激を与えるか、与えないか、が基準。


その点では、最近読んだミシェル ウエルベック著『服従』(河出書房新社)は

刺激になった。

面白いか、面白くないか、で言えばまったく面白くない。

小説に娯楽性を求める一般読者は読まないほうがいい。


特に前半部分では幾度となく途中で読むのを断念しようかと迷ったほどだ。

2,592円という本にしては高価な値段が読むことを続けさせたが、

680円だったら読破を諦めていたかもしれない。

(ちなみに現在は文庫本が安価で出ている)


私にとってこの本の醍醐味は、

後半に訪れるイスラム教徒のルディジェと主人公フランソワとの対話に尽きる。

(ちなみに、ここでは物語のネタバレはしないので、購読予定の人はご安心を)


そのやり取りの中で、歴史家アーノルド・トインビーの

「文明は他者に殺されるのではなく、自殺するのだ」という言葉を用いて、

現状からヨーロッパがイスラム化していく過程を説明したくだりは私の心に刺さった。


私なりの解釈はこういうことだ。

トインビーは「歴史は繰り返す」と述べる。

文明は生まれては滅びていく過程を繰り返すが、

その滅びゆく原因は外的要因ではなく、

すべて内部から崩壊していくのだと。


現代の世界を席巻しているのは西洋キリスト教文明である。

現代文明イコール西洋キリスト教文明であると言っていいだろう。

自由、平等、博愛、人権。

そして、それに基づく個人主義。

その延長線上で、無神論という人間中心主義、唯物論を生み出した。

その最たるものが共産主義である。

共産主義は滅びたが、依然として人間中心主義は世界を席巻している。

公的な場所から宗教的な要素を徹底的に排除しているフランスは

その先端を走っており、この作品の舞台として嵌まりすぎたのかもしれない。

だからこそ、この小説はヨーロッパに衝撃を与えたのだろう。


自由・平等・博愛・人権を「普遍的価値」として徹底していけば、

面白味のない無機質な社会となっていく。

例えば、北欧などは高福祉社会で

死ぬまで手厚い社会保障を受けることができるが、

物理的に生命だけが無事長らえることに何の意味があるのだろうか。

極端な話をすれば、最高の医療と福祉が整った監獄の中で

100歳まで生きても意味があると考えるのか。

その環境の中で1年でも長く生きることに価値を見出すことはできるのか。


人間味のある社会というのは無駄なものも含めて構成される。

例えば人間の生命を存続させるために芸術は絶対に必要というわけではない。

芸術が消えても人が死ぬわけではない。

しかし、人は物理的な生命として死ななかったらそれでいいのか。

著者によると社会の無機質化は文明の死を意味する。


大事なところは人権などを「普遍的価値」として徹底するということ。

自由・平等・博愛・人権を守ることは人類にとって非常に重要なことであるのだが、

それを普遍的価値として根底に置いて、

そこから社会を構成していけば、

世の中は無機質でおかしな方向に向かっていくのだ。


日本も例外ではない。

現在は西洋文明にどっぷりつかっている。

明治時代になって近代化に取り組み、

古来の慣習を残しつつ、西洋文明を取り入れようとしたが、

戦後はそのバランスも崩れ、

無機質な人間中心主義に向かおうとしていると考えることもできる。


しかし、人間は無機質という世界で生きられるか。

マルクスがいずれ社会の自然な流れとして資本主義社会は崩壊し、

共産主義社会に向かうだろうと予言したが、

この作品はその先に踏み込んでおり、

人間中心主義の唯物論は崩壊し、

人々の関心はアイデンティティ運動に向かうだろうと述べる。

そのアイデンティティ運動にはキリスト教社会への回帰も含まれる。

しかし、現代文明の中で自由、平等、博愛、人権、個人主義という

普遍的価値を内側から否定することはできない。

結果、アイデンティティ運動は限界を迎え、現代文明は自然な流れで自殺する。

だからこそ、無機質ではない普遍的価値を示すイスラム教が注目されるのだと。

世界で今、イスラム教が広がりを見せているのは、

そういうことが根底にあるのかもしれない。


左派のメディアや言論人が昨今の日本は右傾化していると

警鐘を鳴らしているが、この作品の流れでいえば、

行き過ぎた戦後民主主義という無機質な社会から脱するための、

ある意味自然な流れでのアイデンティティ運動であると言えるのかもしれない。

安倍政権はその流れの中で動いているだけ。


しかし、この豊かな物質文明にどっぷりつかった

我々のアイデンティティ運動は、

かけ声だけで結果として限界を迎える可能性は大きい。

いくら古き良き日本を掲げても、

貧しくて不便だったあの時代に戻ることはできない。

古き日本の大家族制を美徳として掲げても、

自分はそんなことはやりたくないのだ。

現代人はこの合理主義社会から抜けられない。

アイデンティティ運動は

孫悟空がお釈迦様の手のひらから脱することができないのと同じということだ。

では、日本もいずれイスラム化するのか、と言えば、

必ずしもそうではない。

日本は日本の道を歩んでいくことができるだろう。

無機質でもない、復古主義でもない、日本独自の道を。

なぜなら日本には古来、

一神教ではない価値がずっと根付いているからだ。


トインビーが「歴史は繰り返す」と述べたように、

世界では文明が勃興しては滅びていくことを繰り返した。

権力もまた同じ。

屈強な帝国が誕生しては滅びていった。

日本では、蘇我氏、藤原氏、平氏、源氏、北条氏、

足利氏、豊臣氏、徳川氏、と屈強な政権が

次々に誕生しては滅びていったが、

その上に君臨する天皇は変わらなかった。

「歴史は繰り返す」ようで、

日本文明の根本は繰り返していない特殊な国である。

その日本が迎える次なる時代はどういったものか、

悲観せずに私は楽しみにしているのだ。






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