建前と本音とは



不倫騒動でメディアを賑わしている斉藤由貴が

来年の大河ドラマ「西郷どん」の出演を辞退するという。

篤姫の女中頭・幾島役だったとのこと。

そう言えば昨日、たまたま映画館で観た「三度目の殺人」に斉藤由貴が出ていた。

これから芸能活動はしばらく自粛するのだろう。

なんで芸能人に一般人以上のモラルを求めるのか理解できない。

斉藤由貴に品行方正など誰が求めているのだろうか?

芸能人が不倫をすればゴシップ記事として面白がるのはよくわかる。

それは今も昔も同じ。

違うのは芸能人にモラルを求めるようになってきたこと。

芸能人とは、そもそも一般人ではないから芸能人なのではないか。

女遊びは芸の肥やしなんて言っていたのは「今は昔」。

芸人にも品行方正を求めるようになってきた。

巷では不倫などいくらでも横行している。

一般人はゴシップ記者に追いかけられないから表に出ないだけ。

人間には建前と本音があって、そのバランスで世の中は成り立っている。

本音だけでは秩序が保たれないので、建前がしっかりと存在する。

建前だけでは堅苦しいし、本音ばかりでは乱れた社会となる。

不倫は倫理に反するのでいけないことだけど、本音はまた別にある。

日本は建前ばかりの無機質な世の中となってきた。

“遊び”の部分がなくなってきている。何でも自主規制。

世の中は、白でもない黒でもない、グレーな部分があるから面白い。

それを白と黒だけの無機質な世の中にしようとしているのだ。

この文明は進歩しているように見えて、現実は破滅に向かっているのではないか。

文明や文化には無駄なことや、グレーな部分があってこそ持続する。

音楽や絵画などの芸術は、生物学的には無駄である。

食べ物がなくなったり、病気になったりしたら人は死ぬが、

芸術がなくても人は死なない。

しかし、人間は死ななかったらそれでいいのか。

物理的に生命が続いていればそれでいいのか。

生きるというのは、そういうことではない。

物理的に生命が続いていればいいというのは、

物理的に生命が終わるのをただ待っているだけだ。

ただ死ぬのを待っているだけの人生は、生きているとは言わない。

「北斗の拳」のケンシロウに言わせれば「お前はもう死んでいる」だ。

生物学的に生きるだけではなく、精神が生きなければ意味がない。

グレーな部分が存在するというのは、

一方で寛容性のある世の中ということもできるのだ。

以前にミッシェル・ウェルベックの『服従』について述べたように、

すでにヨーロッパではこの壁にぶつかりつつある。

無機質な世の中では生きていけないと。

日本も一週遅れでそのことに気づくときが必ずやってくる。

そのときに、がらくたの山の下敷になっている

本当の「日本」を見つけ出すことができるか。そこで正念場を迎えることになるだろう。









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