政治哲学とは何か



政治哲学とは、簡単に言うと政治における「正義とは何か」を考えることです。

単純なように見えて、実際は考えはじめると答えのない泥沼に入り込みます。

というのも、すべてのものごとに善悪すら存在しないからです。

例えば、殺人は「絶対悪」と考える人は多いと思いますが、

イスラム原理主義者にとっては

自爆テロで多数の欧米人を殺害することは正義であり、

欧米人にとって自爆テロを行うイスラム原理主義者は悪です。

正義と悪は、立場が入れ替われば、簡単に変わってしまうのです。

怪獣にとってはウルトラマンは「邪悪」な存在です(笑)

この世の中に絶対的普遍の正義と悪はどこにも存在しません。

殺人ですら絶対悪と定められないなかで、

日常的な政治の決定について、その正しさを担保するのは何でしょうか。

賛成、反対のいずれの立場にせよ、その主張が正しいとする根拠は何か。


少し前に大激論となった安保法制について、

賛成する人、反対する人それぞれの正しさは

何によって担保されているでしょうか。

反対する人は「憲法違反」であることをしきりに主張しました。

では、憲法違反であることが「正しさ」を担保できないと考えるのなら、

憲法そのものを変えて、

憲法違反の疑義が払拭されれば「正しさ」は担保されるのでしょうか。

安保法制に反対していた人たちは、おそらくそうは考えないでしょう。

憲法9条は守るべきだという主張です。

では、憲法9条が絶対に正しいという根拠は何でしょうか。

反対に憲法9条改正を主張する人たちの正義とは何でしょうか。

憲法9条を大事に守るべきという主張の人は、

「平和」というものを正義と掲げます。

しかし、隣国に平和を尊重しない国が存在する場合、

その「平和」は成り立ちません。

反対に憲法9条改正を主張する人は「平和」を正義としないのでしょうか。

そんなことはなく、憲法9条改正を主張する人たちは、

備えをしっかりすることで戦争を防ぎ、

平和が実現できると考えるのでしょう。

どちらの主張も平和を求めているのですが、方法論が違うだけなのです。

したがって、この両者は一見、思想は対立しておらず、

単なる方法論の違いですから、もっと現実的な話し合いができるはずです。

しかし、イデオロギーの違いのような激しい対立が繰り広げられています。

なぜなのでしょうか。


話を変えて、国会議員の男女比率を同じにするという政策があるとします。

この政策の推進側の正義とは「男女平等」となるでしょう。

しかし、男女平等とは何なのか。

「結果の平等」か、「機会の平等」か。

日本では国会議員になるために性別による制限はありません。

「機会の平等」は担保されているが、結果的に男性議員が多い。

ここに「結果の平等」を足すとどうなるか。

男女比率を同じにすることで「結果の平等」は担保されるが、

「機会の平等」が制限され、

結果的に制度により女性が優遇されることになります。

平等というものを突き詰めれば絶対の基準など存在しないのです。

さらには、そもそも男女平等が正義という根拠は何でしょうか。


では、さらに話題を一般庶民に広げて考えてみます。

事情のある人を除いて専業主婦を禁止して、

結婚しているすべての女性が仕事をするようにするという政策があるとしましょう。

独身の女性はもちろん仕事をします。

この政策を推進する立場の人は、

「男女共同参画社会」を正義とするでしょう。

では、その男女共同参画社会が正義であるという根拠は何でしょうか。

ここを突き詰めるのが政治哲学です。

「男女共同参画」=「正義」と結論づければそこで思考はストップします。

なぜ男女共同参画が正しいのか突き詰めて考えないといけません。

一方で、男女共同参画に反対する人は、

結婚した女性はなるべく家にいて家庭を守るべきだと主張します。

こちらも「女性が家庭を守る」=「正義」と結論づけるのではなく、

なぜ女性が家庭を守るべきことが正義なのか、

突き詰めて考えないといけません。


一般的には前者が「左翼」「革新」で、後者は「右翼」「保守」と言われますが、

それぞれの主張は結論を定義づけているだけで、

その根拠となる政治哲学まで考えていないように見受けられます。

右翼の人は「情緒論」と言われるので、

政治哲学まで踏み込んで論じる人がいないのは理解できる面もありますが、

論理を重視する革新・左翼の人が政治哲学をまったく知らず、

感情論として語っているという何とも滑稽なことです。

男女共同参画社会がなぜ正義なのか

突き詰めて考えている人はほとんどいません。


では私が代わって「男女共同参画」が正しいとする

思想的根拠を簡単に説明しましょう。

前提にあるのは人間は進歩するという「進歩主義」です。

人間社会は段階的に進歩を繰り返します。

過去は野蛮であり、現代人は進んでいると考えます。

「近代」と「前近代」を区分する考え方はこれがベースにあります。

冒頭で、殺人すら善悪で説明できないということを述べましたが、

革新思想の人たちは進歩主義に基づき、現代人が考えること、

すなわち現代人の「理性」が正しいと考えます。

殺人は悪であるということを決定した

現代人の理性が正しいのだという思想です。

しかし、それは社会が進歩しているだけであって

、人間そのものは進歩していないと考えることもできます。

古代の人間も、現代の人間も、人間そのものは同じ。

一個人の理性には限界があり、

そのようなものが善悪の基準をつくることはできるのでしょうか。

前近代は野蛮、現代人が最高であるという思想のもと、

考え出されたのが共産主義です。

理論上は非常にうまく回る考え方であったので、

世界中のエリートたちが信じ込みました。

20世紀最大の宗教だとも言われました。

理論上は非常にうまくできているのだけど、

実際にそれで国をつくってみたら、まったくうまくいかなかったのです。

1世紀ももたずに崩壊しました。

人間の頭の中だけで考えることなど限界がある。

それよりも実際に世の中を動かしながら築き上げられてきたしくみを前提に

社会のあり方を考えていこうというのが「保守」の思想です。

人間だけでつくる世の中は不安定で混乱しますが、

伝統は世の中を安定させる機能があると考えます。


ところが、ここで伝統とは何かという問題に突き当たります。

ダメ親父が酒を飲んで帰ってきて家で暴れるのは

わが家の伝統ということも起こりえます(笑)

半世紀以上も存続した北朝鮮国家はそろそろ伝統になるのではないか。

続いたものはすべて伝統なのか。

250年以上続いた徳川幕府を倒した明治維新の元勲たちは革新・左翼なのか。


続いているものをすべて残すことはできません。

歴史の中で消えていくものも無数にあります。

良い伝統と悪い伝統があって、良い伝統だけ残せばいいのか。

それでは、良い伝統か悪い伝統かは誰が判断するのか。

薩長にとっては幕府は「悪」ですが、徳川にとっては幕府は「正義」です。

誰が公平な正義をジャッジするのか。

女性は仕事よりも家庭を守るべきだということを正義であると

誰がジャッジできるのか。

そもそも江戸時代までは商人も農民も夫婦共働きで、

数パーセント武士の妻だけが専業主婦をやっていた。

何が伝統であるかは誰にも判断できない。

誰かが「これが伝統である」と断定すれば、

断定した人の「理性」が優先されていることになり、

それもまた革新思想になってしまいます。

革新という枠の中で右翼と革新は表裏一体の関係にあるのです。


一方で、保守の政治思想とは、誰もがジャッジできないという前提のもと、

自然のなりゆきを見守ることになります。

結婚しても働きたい女性は仕事をすればいいし、

仕事を辞めて家庭を守りたい人は専業主婦をやればいい。

各々が好きに考えてやればいいのです。

その結果、専業主婦の人たちが多くなれば

結果を尊重すればいいのです。

すなわち自然のなりゆきによって出来上がった結果を尊重する。

そう言うと、専業主婦になりたいという人は、

世の中の風潮に流されているのだ、

ある意味、既存社会に洗脳されていると考えることもできる

という反論を述べた男女共同参画社会推進論者の人もいました。

それを言うなら、男女共同参画社会が良いという考えも

洗脳されていると考えることもできます。

男女共同参画社会が洗脳されていない正義である

という根拠を示すことができないことはすでに説明しました。

人間の頭の中だけで世の中の仕組みを考えられるというのが革新思想。

人間の不完全性を前提に、過去からの積み重ねの結果を尊重し、

なるべく自由に見守るというのが保守の思想。

ここが政治哲学の出発点です。

まずは出発点からしっかり考えて政治における正義を考えてみると、

世の中の見方が少し変わってくるのではないでしょうか。






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