LGBT論議のポイントとは



杉田水脈議員の『新潮45』でのLGBTに関する論文をめぐり、

いよいよ新潮社の社長までがお詫びコメントするまで発展したので、

これについて私の見解をまとめておく。


まず議論の前提を整理したほうがいい。

@ゲイに対して内心で嫌悪感を抱くこと

Aゲイに対する嫌悪感を口に出して表現すること

Bゲイであるという理由で国家から差別されること


これらを区別して論じないと『新潮45』が台風の目となり論じられている

LGBT問題は、よくわからないと思う。

※話をわかりやすくするためにあえてゲイだけを取り上げた

杉田水脈議員は何を論じたのか。

これを批判する人は何を問題にしているのか。

ゲイであることを公表している明治大学教授の鈴木賢氏は、

「一般の男女は異性愛であることを包み隠さず明らかにできるが、

同性愛はそうはいかない。世の中が偏見に満ちているからだ」と言う。

だから政治においてLGBTの人権を守る必要性を主張する。

さて、これについて杉田さんはどう考えるのか。

その前に、上記Bのゲイであるという理由で

国家から差別されるということについては、

具体的に同性愛婚が認められていないことがあげられる。

Bについては杉田さんは、LGBTは性的趣向の問題が大きいので、

国家が制度として対応すべき問題ではないという主張だ。

これはこれで賛否があって、議論すればいい。

ただし、杉田さんが主張の根拠に生産性を示したことは

明らかに不適切である言わざるをえない。

反対派がギャーギャー言っている

生産性という言葉を用いた是非についてはどうでもいい。

大事なことは、国家において生産性がなくても

費用をかけて政治が関与しなくてはいけないこともある。

杉田さんは同性愛婚を認めない主張をするためのツールとして

生産性を持ち出したのではないのか。

だとすれば、批判している人たちは生産性という言葉に

ヒステリックになるのではなく、本質的な議論をするべきだと詰め寄るべきだ。

しかし、それをやらずに言葉狩りで終わらせようとしている。

なぜか。

LGBTの問題に関係なく、反日自虐史観、

特に従軍慰安婦強制連行が虚構である事実を国際的に広めようとしている

杉田水脈氏を議員辞職させたいからである。

本当はLGBTには関心がなく、代理戦争の道具に利用しているのだ。

では、Aについてはどうか。

問題になった『新潮45』の論文で杉田さんは、

LGBTが偏見により差別されてはいけないと明確に記している。

ではでは、@についてはどうか。

Aと同じで杉田さん個人の意見としては

、LGBTであることを理由に偏見を持つべきではないということになる。

ただし、ここが難しいところで、前段で紹介したゲイであることを公表している

明治大学の鈴木賢教授は、@の内心部分を改めるために

国家が関与しなくてはいけないと述べているが、

杉田さんはそこまでするべきではないという主張になるだろう。

もちろん、@があるからAが起こる、

@を消さなくてはいけないという主張はわからなくもないが、

性的趣向による偏見を国家が消すことがいいことなのか、

さらにはそんなことができるのか。

例えば、20歳の青年が70歳以上の女性にしか興奮を覚えないと言ったら、

世間一般から変な目で見られる。

これを偏見を持って見ないように、という教育を

国家がするというのはどういうことなのか。

性的趣向という意味でゲイと何が違うのか。

杉田さんはそのことを言っているのだろう。

それを表現するために生産性という言葉を使ったのは不手際であって、

議論の本質をわかりにくくしただけである。

LGBTといっても一括りにはできない。

LGBは趣向の要素が強いが、TであるTransgender、すなわち性同一障害は、

性的趣向という問題ではなく、内面と体が男女入れ替わっているのだから、

医療的な側面からもそれなりの対応は必要だろう。

場合よっては性転換手術を健康保険の対象とすることも

検討の余地があるかもしれない。

もちろん、LGBとTの間に明確な区分けがあるわけではないようなので、

単純に割り切れる話ではないという問題もある。

いずれにしても、杉田水脈議員を巡って展開されている議論は、

本質からかけ離れた上辺だけの綺麗ごとであるということは指摘しておきたい。

反対派も賛成派も、正面からの議論を避けては、

この議論に何の発展性もないだろう。


最後に、同性婚について私の見解も付け加えておこう。

結婚や家族は、制度が前提に成り立っているわけではない。

結婚して家族を形成するという実態があって、

それにともなう制度が後からできた。

結婚の本質とは、本人同士が将来を誓い、

それを儀式により周囲に知らしめることによって成立する。

制度はそれを管理しているに過ぎない。

なので、同性であっても、同じ儀式に則れば、本質的に結婚は成立する。

制度の恩恵が受けられないだけだ。

具体的には税控除や相続だ。

制度の恩恵だけが問題なら、同性愛者にも、

そのような恩恵を得られるよう検討すればいいだけだ。

結婚である必要性は必ずしもない。

同性愛は、この結婚の本質部分を形成できるのか。

老女が好みの20歳の青年が、人間の自然な感覚として

社会一般から理解が得られないのと同じで、

同性愛に対する抵抗感も人間の本質として

自然発生的に生まれることなのかもしれない。

公教育で人間本来が持つ偏見を消せるなど淡い期待は持つべきではない。

同性愛者はそめてそれぐらいの覚悟は必要だろう。

偏見を持たれるという前提のなかで、

どのように社会と折り合いをつけるのかが最も重要なところであり、

そこを突き詰めていくことこそが本当の意味で生産性のある議論になると思う。






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