愛国心とコスプレ



ハロウィーンでコスプレ騒ぎが問題になったが、コスプレとは何だろう。

コスプレというとアニメキャラやハロウィーンのゾンビメイクを思い浮かべるが、

和服であっても、非日常であればコスプレだと思う。

日常的に着ないものであれば、和服であっても忍者衣装であっても同じである。

別にコスプレが悪いわけではない。

コスプレであっても日本文化を大事にしようとするのは良いことだ。


一方、女性が結婚式で数年に一度も着ない着物で

出席するのはコスプレではない。

着物は最高の美しい礼服・正装だし、新郎新婦の母親であれば、

着物でなければむしろ失礼になってしまうこともある。

となると、コスプレと非コスプレの差はなんだろうか。

「日常か、非日常か」ということだけではなく、

何かのための正装か、そうでないか、ということになるだろうか。


近代西洋文明に否定的な筋金入りの国粋主義者、右翼的な人が、

その思想に基づき和服を着ていたら、それはある意味でコスプレとなる。

一方、何も考えずに日頃から生活と密着したかたちで

和服を着ている人にとっては日本文化としての自然な衣服となる。


私は自然体でありたいので、特に和服を着たり、

日の丸などのアイテムを身につけることもない。

以前に愛国的な人たちの集まりに顔を出したとき、

私が衣服に日の丸のバッジや、ブルーリボンなど一切着けていないことで、

お叱りを受けたことがある。

「君はそれでも日本人か!」と。

まあ、深酒を浴びておられるようだったので、気にもせず受け流したが、

私にとって、日本人であり、祖国に誇りを持つことは

当たり前すぎることなので、いちいちアイテムで表現したりしないだけだ。


保守系の人はよく日の丸の旗を掲げるが、

一般家庭で祝祭日に国旗を掲げるようになったのは、近代以降のことだ。

アメリカでは今でも何かと国民が星条旗を掲げるのは、

アメリカは移民による多民族国家なので、

国民国家の統合を意識する必要があるため、

国旗がその象徴的役割を担う。

日本のように昔からずっとそこで暮らしている民族は、

特別に国家を意識しなくても、自然と国は一つにまとまってきた。

日本は明治になってはじめて西洋的な近代国民国家となったことで、

一時的に国民が国家の存在を強く意識する必要があったことから、

世間に日の丸が溢れることもあったが、

近代国家としての生活が根付いた今、

個人が日の丸を掲げるかどうかなどは重要なことではなくなった。

公式行事などの節目節目で日の丸を掲げ、

君が代を歌えば、それでいいのではないか。

自然な状態が何より一番。

自然こそが保守の思想の神髄だと考える。

左翼の革新思想は人間の頭で新しい社会を設計できると考える。

一方の保守は、一個人が考え出すものには限界があるとし、

幾世代もの取捨選択に耐え抜いてきた伝統を拠り所としながら

世の中を運営していこうとする。

しかし、何がその伝統なのか、誰にも判断できない。

世の中に存在するものをすべて残していくことは不可能である。

残すもの、残さないものの峻別は避けて通れない。

その峻別を行うのは人間の理性であるのだから、

一人間の理性には限界があると考える以上、

ある程度は自然に任せるしかない。

これが保守による自由主義。

革新であろうと復古であろうと、

無理に世の中を変えようとすることはせず、自然に委ねる。

保守とは無理に伝統を崩さず、無理に残そうともせず、

そっと見守ることだと思う。






もどる