左翼が直面した「猿の惑星的悲劇」
以前から気になっていた、世界的ベストセラーの
『サピエンス全史』を読み始めている。
いきなり面白い。
少しネタバレになるが、この本ではどういうことを言っているかを紹介しよう。
ネアンデルタール人などの旧人類とホモ・サピエンスの決定的違いは何か。
ネアンデルタール人ら旧人類とホモサピエンスは、
元々は大差なく、長く同時代を生きていた。
ところが我々ホモ・サピエンスはおよそ7万年前に
認知革命を起こしているのだという。
その認知革命とは、虚構や架空の事物について語ることのできる能力だとのこと。
それにより無数の赤の他人と柔軟な形で協力ができるのだ。
チンパンジーの群れは多くてせいぜい50頭が限界である。
ボスが直接関わることができる範囲だ。
そこより進歩した旧人類は、150人ぐらいの集団は維持できる。
それもお互いの顔がわかる範囲。
一方、認知革命を起こしたホモ・サピエンスは、
共通の神話をもつことができ、
膨大な見知らぬ人同士が集団を形成できるようになった。
ホモ・サピエンスの認知革命を表す象徴的な遺跡は、
ドイツで発見された、後期旧石器時代(およそ3万2千年前)のものとされる
獅子頭の小立像「ライオンマン」だ。
二足で立ち、人間とライオンが混ざったような
マンモスの象牙でつくった彫刻である。
実際には存在しないのだが、想像でつくられた、神を表現したものかもしれない。
これはネアンデルタール人ら旧人類にはつくれないという。
文化人類学が専門ではないので、
私にはこの本に書かれたことが正しいかどうかわからない。
ただ、正しいという前提に立てば、
ネアンデルタール人らのように直接見たものしか信じられないというのは、
元祖「唯物論」みたいなものだと思った。
マルクスの唯物論は、物質が根源にあり、
それを認識している人間の精神ももまた物質的に機能すると考える
(弁証法的唯物論)。
要するに、目に見えないもの、すなわち物質的に存在しないものは、
この世には存在しえないとなる。
これにより、この世に神など存在しないという「無神論」を導いた。
マルクス主義史観(唯物史観)は、前近代と近代を区分し、
唯物論に目覚めた近代を優位にとらえ、さらに発展していくと考えるが、
『サピエンス全史』から考えると、
唯物論は前近代どころか旧石器時代以前の発想となるのではないか。
自分たちが近代と考えたことが、
実は前近代を遥かにさかのぼることだったというのは、
左翼にとってコペルニクス的転回どころではなく、
「猿の惑星的悲劇」となる。
こんな短編物語の脚本はどうだろうか。
地球から惑星探索の宇宙船が出発した。
新たな惑星を発見して、着陸してみると、
ネアンデルタール人みたいな旧人類のような生物が暮らす惑星だった。
科学は進歩しているようだが、そこに暮らす惑星人は、
何のために生きているのかよくわからない、
ただ死ぬのを待っているだけだ。
医療や福祉は進歩して、生きながらえるのには何の心配もないが、
何一つ面白味のない無機質な世界である。
そして、探索をしていると自由の女神像を見つける。
何とそこは旧人類ばかりとなった地球だった。
しかし、現実にはこの物語のようにはならない。
我々は認知革命を起こしているからこそ、
唯物論がこの世を席巻することはない。
人間であるからこそ、目に見えないものを信じ、
神のような存在に畏れを抱く。
人間から信仰心というものを切り離せないのだ。
自分は宗教には入っていないという人も、
常に心のどこかで何かを祈っている。
病気の友人の回復を祈る、受験の合格を祈る、など。
人間と祈りは不可分の関係にある。
愚かな民衆に唯物論を教えてやり、
理想の国をつくろうとしたのが共産主義国家だが、
結果は人間から信仰心を取り除けないので、
無理矢理それをやろうとして恐怖政治となった。
これまでつくられた共産主義国家は例外なく恐怖政治を行った。
ソ連をはじめとする共産主義国家は
猿の惑星ならぬ「猿の国家」だったのだ。
自分たちは進歩した考え方だと思っていたのに、
実は最も野蛮な社会を形成していたのだ。
人間らしさとは、信仰心と欲望の両立である。
バナナを抱えたネアンデルタール人に、
その「バナナをよこせば天国に行けるぞ」と言っても通用しない。
彼らからすると、そこでバナナを渡すやつは馬鹿なのである。
しかし、天国を信じる馬鹿であるからこそ、
無限に増えていく膨大な人数の人間社会を形成し、
知らない人たちと協力して文明を築くことができる。
馬鹿だと思っていた本人が、実は馬鹿だったということになる。
これと同じで、進歩主義の唯物論は、
神や伝統に畏れを抱いている人間を馬鹿にしているのだが、
自分たちが一番馬鹿だったという
コペルニクス的転回に直面したということだ。
今後、それを「猿の惑星的悲劇」と呼ぼう。
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