呉座勇一氏はなぜ歴史学界を代表して弁護しているのか



『日本国紀』(百田尚樹著)という発行部数65万部の大ベストセラーから派生して、

井沢元彦氏(作家)、呉座勇一氏(歴史学者)、八幡和郎氏(評論家)らによる

議論が巻き起こった。


事の発端は、呉座氏が朝日新聞紙上で『日本国紀』を批判したことだった。

その内容は井沢元彦氏の『逆説の日本史』の影響が強いことを指摘し、

『日本国紀』は通史の決定版と銘打ちながら、

通説とかけ離れた作家の思いつきが下地になっているのは

いかがものかと述べたことだ。


そこで『日本国紀』の監修を務めた歴史学者の久野潤氏が、

わが国の歴史学界において通説はそんなに誇れるものかと反論。


それに対して呉座氏は、久野氏の監修作業はなっていないと

あさっての方向の再反論をするだけで、

久野氏の批判には真正面から答えなかった。


今度は、井沢氏が週刊ポスト紙上で、

歴史学界が権威主義と硬直化により機能していないから、

逆説というかたちで自分が歴史の深層に挑戦しているのであって、

作家の思いつきとは無礼千万と呉座氏を批判


そこに八幡氏が井沢氏の主張には一理ある、

呉座氏の反論に期待すると中間的な見解を述べると、

呉座氏は週刊ポストで反論するとともに、

井沢氏や八幡氏が歴史学者を批判して好き勝手に陰謀論的な歴史論を語るので、

歴史学者は困っていると述べた。


話が少々ややこしいのは、井沢氏と八幡氏では、

特に古代や奈良時代の天皇史について考え方が異なるのだが、

歴史学界に対する批判という点では、共通する部分がある。

一方で不思議なのは、どういうわけか、

呉座氏が歴史学界を背負っているかのごとく、そこに反論していることだ。


私は井沢氏の歴史観には否定的だが、

日本の歴史学界のあり方にも疑問を持っている。

その中でも呉座氏が八幡氏に対して向けた批判は、

正論を述べているようで、

現実社会の中で学問を活かすという観点から見れば、

非常におかしなものである。

その象徴的となるのが呉座氏による次の発言である。


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在野の歴史研究家が

「アカデミズムの歴史学者は答えを出していない。怠慢だ!」

と批判する事例は、史料が乏しくて決定打が出せないものばかりである。

史料がないから歴史学者が慎重に解答を留保している事象について、

在野の歴史研究者が勝手に妄想して「謎を解いた!」

と一方的に勝利宣言しているだけである。
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「史料が乏しい」ことと「決定打が出せない」ことをリンクさせていることが、

そもそもおかしいのではないか。

史料が乏しいことを留保しながらある程度の結論を示していく作業は必要である。

井沢氏は史料が乏しいことを理由にして決定打を出さないことは

怠慢であると批判しているのであって、

それへの反論が「史料が乏しいから慎重に解答を留保している」

というのは批判に対する答えにもなっていないし、

いかにも小役人的な貧相な発想と言わざるをえない。


歴史学とは史料から歴史の真実を読み解く作業であって、

史料が乏しければその環境下で歴史の真実に迫るしかない。

史料が乏しいからといって思考停止するのは怠慢である。


ファクト(事実)=リアリティ(真実)ではない。

ファクトだけを見ていては真実はわからない。

例えば、いま日本が大地震で沈没し、

千年後に発掘した人が、残っているコンクリート(ファクト)だけを見て、

かつてあった日本文化とはコンクリートの文化だった

と結論づけるようなものだ。

ファクトは真実を探るヒントであって、答えではない。


このような発想になるのは呉座氏が中世史の専門家だからかもしれない。

史料が乏しくて解答を留保するなら、

そもそも古代史の研究はできないのではないか。

百歩譲って古代史では解答を留保する分野が多くなるのなら、

それはそれで良いとしても、

古代史を専門とする学者のほとんどは、

史料の乏しいものは存在しないかのごとく扱っている。

その典型が初代神武天皇をはじめとする

太古の時代の天皇は実在しなかったと結論付けていることだ。

その理由は乏しい史料からの推論ではなく、

史料が乏しいことそのものが根拠となっている。

典型的な実証主義歴史学である。

呉座氏はこれについても歴史学界を背負って反論するというのか。


さらには、近現代史においては実証主義すら貫かれていない

自己中心的な態度をとっているのが歴史学界である。

その代表的なものが「従軍慰安婦の強制連行」と「南京大虐殺」だ。

この二つの存在を示す史料はほとんど存在しない。

したがって、歴史学者はこれらの事件が存在したかどうかについては

少なくとも「解答を留保する」態度を鮮明にすべきだが、

現実にはそうはなっていない。

もちろん「南京大虐殺」には様々な議論があるのは承知している。

南京において戦闘以外で人が死んでいないなどと述べるつもりはない。

中国軍の捕虜については数千人単位で殺害した可能性はある。

しかし、東京裁判にも提出された埋葬記録を見るかぎり、

南京城内で一般人が無差別に虐殺されるような事実は存在しない。

このようなわかっている事実だけでも明確な姿勢を示すべきではないか。


私が古代史と現代史を問題視したのは、

現代政治にも大きく関わってくる内容であるからだ。

憲法に規定された日本国の象徴であり、

国民統合の象徴である天皇の由来は、非常に重要なテーマである。

また、中国や韓国が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦強制連行」について

根拠不明なプロパガンダを世界中で展開していることについて、

日本の歴史学界は何の役にも立っていないどころか、

日本の国益を損ねる活動しかしていない。


呉座氏が歴史学界を代表して弁明するなら、

このような実態についても是非とも回答してもらいたいものだ。






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