馬鹿とプロパガンダ
『新天皇論』には、まだまだおかしな記述がたくさん掲載されています。
----------小林よしのり----------
元明天皇は8年の在位の後、娘の氷高内親王に譲位する。
元正天皇である。
(中略)
注目すべきは即位前の「内親王」という称号である。
氷高の父は草壁皇子であり、天皇ではない。
男系で位置づければ「内親王」ではなく、「女王」になるはずだ。
これは、古代の皇位継承の制度を定めた「養老継嗣令」の
「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること、女帝の子もまた同じ」
という規定が生きており、「女帝の子」として内親王になった実例である。
その上で、母の女帝から譲位されて即位したのだから、
これはまさに「女系継承」以外のなにものでもない!!
(96頁)
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氷高内親王の母である元明天皇が即位する以前に、弟である文武天皇が即位しています。
「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること」という規定を適用するのであれば、
同母弟である文武天皇即位と同時に、すでに内親王となっているはずです。
氷高は元明天皇という女帝の娘として内親王となる前に、
天皇の兄弟として内親王の位を取得しています。
さらには、弟の文武天皇は即位前には「軽皇子」と呼ばれていました。
父、草壁皇子は即位していなかったため、本来なら「皇子」ではなく「王」となります。
しかし、草壁皇子は天皇になるべき人だったということで、天皇と同格の扱いをされていたのです。
淳仁天皇の時代に、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめしい)として追尊されます。
軽皇子は岡宮天皇の"皇子"として扱われていたのです。
そうなると、軽皇子の姉である氷高は当然に内親王であったと考える方が自然なのです。
いずれにしても、氷高が内親王の地位を取得する可能性の時代的順序は
以下のようになります。
@岡宮天皇の娘
A文武天皇の兄弟
B元明天皇の娘
少なくともAをすっ飛ばして、Bになることは絶対にあり得ません。
小林よしのり氏は、Bだけに着目して、
「女帝の子だから内親王だ!」と一人はしゃいでいるに過ぎないということなのです。
小林氏は漫画家であるから、それでもいいでしょう。
小林よしのり氏の主張は、高森明勅氏による以下の記述が元となっています。
----------高森明勅----------
(養老継嗣令について)この実例を探すと、
元明天皇の皇女、氷高内親王を見出すことができる。
氷高内親王は元明天皇と草壁皇子の間に生まれたが、
草壁皇子の子であれば「女王」とされるべきところを、
同条の規定によって「女帝の子」ゆえ「内親王」とされたのである。
氷高内親王は皇位を継承して元正天皇となられた。
ここに女帝の子が皇位についた実例を指摘できるのである。
(月刊正論平成17年8月号「女系を容認しても天皇の歴史的正統性は失われない」)
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小林よしのり氏は少なくとも高森氏のことを、歴史の専門家であると評価してます。
高森氏は、氷高内親王は、元明天皇の皇女として「内親王」の位を取得したのであって、
文武天皇の兄弟として取得したのではないということを立証できるのでしょうか。
まずできるわけがありません。
文武天皇の御代に大宝律令(養老令も内容は同じ)が施行されているのであるから、
氷高にとって文武天皇が同じ父と母から生まれた弟である以上、
継嗣令を持ち出すのであれば、
弟が天皇である段階で、どうのように考えても内親王となってしまうのです。
高森明勅氏は、元明天皇と氷高内親王のところだけを抜き取って、
女王であった氷高が女帝の子として内親王となったと書いているのです。
文武天皇との関係を忘れていたのであれば、
学者とは言い難い単なる間抜けなことだったということになり、
わざとこのような記述を行っているのであれば、
悪質なプロパガンダといわざるを得ないということでしょう。
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