日本再生の鍵は日本人の心

           〜不合理を許容する心を取り戻せ

 

最新号の『SAPIO』で小林よしのり氏は、原発推進・維持論者に対して、

保守なのに“進歩主義”になっていると批判しているが、

小林氏はそもそも進歩主義というものをまったく理解していないことがわかる記述である。

“自称保守”などと他人を批判するのはいいが、

小林氏自身の知的レベルそのものが、そもそも限界に達しているのが伺える。

よくわからないことを知ったかぶりで言うと、必然的に底の浅さがばれてしまうのだ。

 

小林氏は“文明の進歩”と“人間の進歩”を完全に混同している。

人間は進歩しないが、文明は進歩する。

こんなことは基本中の基本である。

 

進歩することのない人間のレベルの範囲内で、

どれだけ科学技術など文明の進歩とバランスがとれるのか、

そこが保守主義の神髄となる。

例えば、現代人には原発は扱えないが、

人間が進歩すれば将来扱えるようになることができると考えれば、

これは進歩主義である。

 

ところが現在において人間が扱えるものを、人間のミス・怠慢により失敗したことについて、

失敗しないように制度や技術を発展させようとするのは、進歩主義ではない。

 

進歩主義を一言でいえば、理性の進歩となる。

理性主義の根拠になるのが進歩主義である。

文明の進歩と共に、人間の理性も進歩するという考え方だ。

それに対して保守哲学では、人間は古代人も現代人も、未来の人間も同じであり、

人間そのものが進歩することはないと考える。

人間は不完全であって、誰にでも欲得や業があり、

そんな人間の本質は変化することはないのである。

 

共産主義というものは、“完全な仕組み”を“不完全な人間”に当てはめたことによって崩壊した。

共に働いて平等に富を分かち合うなどというのは、人間の進歩を前提にした考え方となるが、

人間の本質が変化することがない以上、矛盾が発生してしまうのだ。

要するに過去・現代の人間にできないことは未来永劫できない。

それが保守による進歩主義の否定であり、

そして、不完全な人間であっても、できることの積み重ねが文明の進歩となる。

 

私は原子力技術の将来性に期待することについて、

自分の中では明確に結論は出せていないが、

保守派の人間が原発の発展を望むことについては、

進歩主義の否定という保守の思想と何ら矛盾することはない。

文明の発展を進歩主義として否定するのは、単なる右翼原理主義だということだ。

そもそも小林氏は進歩主義の“いろは”すら理解していなかった。

 

小林よしのり氏が自称保守言論雑誌とレッテルを張った『正論』では、

10月号からの「根源へ 草舟立言」という連載企画が始まった。

これがなかなかおもしろい。

編集者が執行草舟氏から、思想的根源となる日本ならではの

“ものの考え方”の本質を引き出すという内容となる。

読者投稿欄ではすでに、第一回の死生観について

「身震いするほどの感動を味わった」という感想が掲載されている。

 

第二回目では、執行氏は日本文明が他の文明と異なる点について

「不合理を許容する心だと思います。不幸を受け入れ、悲しみを抱き締める」

と述べる。

人間は進歩しないことを前提に、私は常々

「人間の不完全性がベースにあるから、先人たちの叡智を尊重する意義を発見するのが保守哲学」

と述べているが、執行氏の発言から

「不合理を許容する心」という文字を目にしたとき、

こういう表現ができるのかということで、とても参考になった。

 

また不合理から生ずるのが動力学的ダイナミズムであると述べ、

ヘーゲルの弁証法についても、動力学的ダイナミズムが生み出したものであるという観点は非常に鋭い。

ヘーゲルをマルクスと同じく左翼であると切り捨てることは簡単である。

しかし、マルクスがヘーゲルに対してどのように批判したかというポイントは重要な意味を含んでおり、

そこが執行氏の述べる「動力学的ダイナミズムの国にして初めて弁証法哲学が生み出された。

その苦しみの中から、尊い一滴の涙が絞り出された」ということになる。

左翼であってもヘーゲルは“絶対的なるもの”と理性の関係に苦渋した。

マルクスはその苦渋を自由主義的であると切り捨て、

自己正当化のためだけに弁証法を悪用したのである。

 

そして執行氏は動力学的ダイナミズムのある日本にも、

弁証法哲学が存在していたことを指摘する。

これは興味深い視点となる。

日本は、伝統を形としてだけ継続させてきたのではなく、

大事な本質を残しつつ、寛容性の中で柔軟に対応してきた。

確かにこの過程を論理的に説明するなら、弁証法的哲学を外すことはできない。

新しい試みに対して、祖先の叡智である伝統に反することにはならないか

というアンチテーゼのなかから、うまく総和させて日本文明は進歩を続けてきた。

日本にはそれを説明する論理など必要なかっただけであり、

弁証法哲学そのものは存在していたと見ることもできる。

そのことを一言で表すなら「寛容性」であり、「不合理を許容する心」ではないだろうか。

執行氏はそれを禅の思想の中から発見することができると述べる。

彼なりの見方であろう。

 

不合理を許容する心とは、不合理の中から合理を導き出すことでもあるといえるのではないか。

人間は進歩しないという不完全性を受け入れ、

その不合理の積み重ねが長い時間による取捨選択のなかで、

日本人が共有する価値として残ったのが、日本の国柄といえる。

 

不完全な人間が、不合理を受け入れた上で、文明の進歩にチャレンジする。

それが現在の日本をつくりあげたダイナミズムの根源となっている。

 

保守の哲学というのは、まず不完全を受け入れることにはじまる。

原発に賛成・反対であろうと、その艱難、苦渋、悪戦苦闘の中から、

新たなダイナミズムが生まれる。

大切な点は、そのことを理解しているかどうかにある。

右派であれ、左派であれ、自己完結させて語っている人間を私は信用しない。

不完全を受け入れた決断の中にこそ、次なるヒントが隠されているだろう。

日本の再生は、不合理を受け入れる心を取り戻せるかということにかかっているのだ。





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