伏見宮は特別な宮家だった

 

       竹田恒泰さんの勉強会に出席すると、その後の懇親会ではいつも、

       みなさんとってもわきあいあいと歓談されます。

       すごくフレンドリーに竹田さんに話しかける人がおられたりするのですが、

       私は話しかけるどころか、なるべく離れたところに座ったりします。

       近くにいると緊張してしまうのです。

       知らないということは幸せかもしれない。

 

       竹田恒泰氏の家系である伏見宮家は、

       北朝第3代崇光天皇の皇子である栄仁親王がはじまりとされています。

       栄仁親王は持妙院統の正嫡であり、

       政治的混乱がなければ天皇に即位されるはずの人でした。

       現在の皇室は、栄仁親王の孫の代からの枝分かれとなります。

       600年離れているといっても、南朝側に移行したわけでもなく、

       伏見宮家は、栄仁親王の孫である後花園天皇が即位してからも、

       いざというときのための家系として、600年間、皇族としてお立場を継承されてきたのです。

       その家系の重みを知ると、一介の草莽に過ぎない私ごときが、

       竹田恒泰氏に簡単に話しかけることはできないのです。

 

       ところで初代の伏見宮の父となる北朝第三代崇光天皇のそのまた父は、

       北朝初代の光厳天皇となります。

       光厳天皇は北朝の初代ということになっていますが、

       私はそれが正しいのか、少し疑問があります。

       下の図を参照にしながら考えてみたいと思います。

        

 

       鎌倉時代末期、後醍醐天皇が「正中の変」「元徳の変」により

       隠岐に流されることになるのですが、

       その際に光厳天皇に譲位され、三種の神器も渡されています。

       事情はともかく、この時点で光厳天皇は正式に天皇であったはずなのです。

       ところが、鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇は詔により、

       光厳天皇を廃して建武の新政を開始します。

       そのすぐ後に、足利尊氏と対立し、戦いに発展しますが、

       錦の御旗の有無について痛感した尊氏は、光厳院を担ぐことに成功し、

       入京後に光厳院の弟、豊仁親王が光明天皇として即位します。

       つまり光明天皇が事実上の北朝第一代となるはずです。

       南北朝以降、光厳院が天皇であったことは一度もないので、

       北朝初代となることはないのですが、歴史上、北朝初代ということになっています。

 

       光厳天皇は鎌倉末期に後醍醐天皇から正式に譲位の手続をふんだものの、

       それが無効であったとして皇位を廃されることになるのですが、

       実体上そんなことが可能であるのか、考えてみる必要性もあると思います。

       後醍醐天皇は光厳天皇に譲位した後、

       重祚されたと見ることもでき(96代・後醍醐天皇⇒97代・光厳天皇⇒98代・後醍醐天皇)、

       もしくは、光厳天皇を廃した詔が無効と見るべきなのか(97代・後醍醐天皇⇒98代・光厳天皇⇒99代・光明天皇)、

       様々なことが考えられます。

 

       いずれにしても、光厳天皇が三種の神器のもと、

       正式に即位された事実は動かしがたく、

       栄仁親王は北朝の皇子ではなく、正式な皇孫として、

       伏見宮をおつくりになったと見るべきでだと思います。

       その家系から天皇を輩出し、天皇の御本家に等しい伏見宮家は、いざというときの血のスペアとして、

       大東亜戦争の敗戦まで、皇位継承資格者として連綿と継承されてきました。

       伏見宮系が現皇室から600年離れているということは、

       600年間、誰からも異論なく皇位継承資格者として認められてきた証となります。

       「600年も離れている」という批判は、

       天皇や皇族方を含めて、その600年間の祖先に対しての批判と同じになるのです。

 

       歴代天皇をはじめ、明治天皇の御意志に還り、今こそ本来のお姿のように、

       伏見宮系の方々には、皇統の藩屏として、

       皇室に戻っていただくのが伝統に則った本筋の方策であると考えます。

 

 

 

 

 

        もどる