旧宮家は正統なる天皇の血筋

 

 

----------小林よしのり----------

(竹田恒泰氏は)開戦前のイラクを一水会の木村三浩氏や鈴木邦男氏らと訪ねて

民間外交をやっているが、

その際「プリンス・タケダ」と紹介され、プリンスとして遇されている。

これも皇室の尊厳を害するのでは?

(177頁)

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海外の常識では旧皇族が「プリンス・オブ・○○」と名乗っても、

何ら問題はありません。

ましてや外国人が勝手にそう呼ぶことに、

皇室の尊厳を害するなどということは一切ありえない。

小林よしのり氏は保阪正康氏などに対して、

日本の国内しか見ていない蛸壷史観であると、よく批判しています。

しかし、一夫一婦制で男系継承を続けられることは

キリスト教国では当たり前であることとか、

旧王族がプリンスと呼ばれるという常識も知らない

「蛸壷皇室史観」を持っているのが小林氏なのです。

こんなレベルだから、二千年の皇室の伝統が

「シナの模倣」などと言ってしまうのも理解できます。

 

そもそも旧宮家が正統な血統であるということについて、

確認しておかなければなりません。

1428年(正長元年)に第101代称光天皇が跡継ぎ不在で崩御されたことで、

「持明院統」の正嫡であった伏見宮に皇位継承の話が回ってきました。

 

「持明院統」といってもよくわからない人もおられると思いますが、

簡単に説明しますと、北朝が「持明院統」(じみょういんとう)、

南朝が「大覚寺統」(だいかくじとう)となります。

南北朝争乱以前には、「持明院統」と「大覚寺統」が交互に天皇を立てるという

暗黙の了解などもあったりしましたが、

後醍醐天皇と足利尊氏の対立により、南北朝に分断されました。

 

北朝第三代の崇光天皇には栄仁親王という嫡子がおられ、

正統な後継者と目されていましたが、

光厳、光明、崇光と3人の上皇が南朝に拉致されるという事態が起こり、

足利尊氏はやむを得ず、異例の形ではあるものの後伏見上皇妃の命ということで、

崇光上皇の同母弟である後光厳天皇(北朝第4代)を即位させます。

その後は、後光厳天皇の皇子である後円融天皇が北朝第五代となり、

その皇子である後小松天皇の時代に南北朝が統一され、

後小松天皇が正式に第100代の皇位に就きました。

 

一方で、本来なら持明院統の正嫡のはずであった

崇光天皇の皇子である栄仁親王は伏見宮となります。

そして、天皇の系統となった後光厳系は第101代称光天皇のときに世継ぎ不在となり、

皇統断絶の危機が到来します。

「大覚寺統」にも少しは期待があったようですが、次の皇位継承者とされたのは、

「持明院統」の正嫡である栄仁親王の孫、彦仁親王(後花園天皇)でした。

後花園天皇が即位したことで、自分が継ぐはずだった伏見宮は、

弟の貞常親王に継承されます。

ただし、伏見宮は単なる宮家ではなく「持明院統」の正嫡の家系であるということで、

御所号を加えて「永世伏見殿御所」と称することを許されました。

以後、伏見宮は宮家の中でも特別の存在として存続し続けたのです。

 

 

----------小林よしのり----------

江戸時代後期、宮家は伏見宮、有栖川宮、桂宮、閑院宮の四親王家だけだった。

(中略)

現実に、これらの宮家から天皇が出たことが3例ある。

(中略)

だが幕末頃の時点で、伏見宮家はすでに400年も天皇を出していなかった!

(中略)

また、桂宮は一人も天皇を出していないものの、8人の皇子を当主として入れ、

有栖川宮も3人の皇子を入れているのに対し、

伏見宮は最も新しく創設された閑院宮と共に、一人しか皇子を当主に迎えていない。

要するに伏見宮は皇室と血のつながりが最も薄い宮家だった!

(193頁)

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確かに伏見宮は当主に皇子を一人迎えたことがありましたが、

その子孫を跡継ぎにはしませんでした。

その理由は、伏見宮は特別の存在であったので、実系を尊重していたからです。

有栖川宮は天皇を出したといっても、

後陽成天皇の次男であった良仁親王が跡継ぎのなかった高松宮(後の有栖川宮)を継いだが、

兄である後光明天皇が崩御されたことで、急遽即位しただけです(後西天皇)。

閑院宮については、後桃園天皇が世継ぎなく崩御されたときに、

伏見宮とどちらが皇位を継承するかという議論が行われ、

後桜町上皇が伏見宮を推すということもありました。

 

伏見宮は後花園天皇により「永世伏見殿御所」とされたことからもわかるように、

自他共に「持明院統」の嫡流としての家系と家格の意識が高く、

実系相続を尊重したことから、世継ぎに皇子といえども迎えることがなかったのです。

他の宮家は世継ぎが途絶えれば、養子を迎えたり、

断絶しても他の宮家が存続していれば問題がないと考えられていましたが、

伏見宮家は皇統断絶危機に後花園天皇を出した皇室の祖であり、

そもそも持明院統の嫡系であるという認識があったことから、

簡単には世継ぎを絶やすことは出来ないという強い思いの上で、宮家を継承させてきました。

簡単にいえば、現天皇の祖となる出身宮家として特別視されていたのです。

 

したがって、「伏見宮が400年も天皇を出していない」とか

「皇子を当主に迎えていない」などという批判は、

伏見宮の存続意義を知らない筋違いの指摘となります。

伏見宮は持明院統の実系として、

いざというときにはいつでも皇位継承者を出す準備を続けてきたのであり、

天皇の血統を受け継ぐ正統なる継承者ということになるのです。






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