憲法の連続性を否定したら右も左も八月革命説

 


憲法無効論について否定的見解を述べると、

どうも私が日本国憲法を守ろうとしていると誤解されるケースが多い。

はっきり述べるが私は一言一句改正論者である。

現憲法はろくでもない憲法だと考えている。

 

憲法無効論は、その代表的論者である南出喜久治氏も含めて、

国体論と法理論を混同している場合が非常に多く見受けられる。

南出氏はそれを否定しており、保守派は政治的に日本国憲法の問題性を指摘するが、

憲法としての効力論争を行っておらず、政治論と法律論を混同していると述べるが、

私はむしろ、その反対だと考えている。

極端なことを言えば、改正手続により大日本帝国憲法を復刻すれば、

なぜダメなのかという指摘に対して、無効論者はほとんど有効な説明ができていない。

 

占領憲法を改正すれば、それに正統性を与えることになると言うのだろうが、

法理論を言うのでれば、実体と法が適合すれば、

その過程を必ずしも追求しないのが、近代法理論の原則である。

人間のつくる法であるから、四方八方そんなにうまくいくものではない。

 

無効論者の主張は、帝国憲法の改正手続に違反したという法理論にこだわっている。

確かに帝国憲法の改正手続に問題があったのは誰しもが認めることだが、

主権回復後、国家機関及びほとんどの国民が、

日本国憲法を憲法であるということを前提に国家を動かしてきたのであるから、

手続き上の瑕疵は治癒されたと考える方が法理論としては一般的だ。

要するに法学的には追認により法的瑕疵を治癒したということになる。

 

南出氏は被害者(帝国憲法体制)を差し置いて、

加害者(日本国憲法体制)が追認するなどあり得ないと述べるが、

一つの国のなかで、前後の体制が加害者と被害者に区別される法理論など成り立つのだろうか。

アメリカが加害者で、日本が被害者という構図ならまだわからなくもないが、

帝国憲法体制が被害者で、現体制が加害者というのであれば、

アメリカはどのような位置づけになるのだろうか。

論理立てによって、都合よく、加害者と被害者をつくっているだけである。

占領憲法の違法性を述べるのであれば、

普通は、占領者であるGHQと日本との関係で論じるべきだろう。

被害者が帝国憲法体制であり、加害者が現体制というのは、

無効論者が考え出したフィクションということであって、

単なる仮説に過ぎないといわざるをえない。

主権回復から60年をむかえた状況で、現体制が加害者も何もあったものではないだろう。

少なくとも日本国は外国に主権を侵害されている状況ではない。

 

ではどうすれば追認することが可能だったのか。

南出氏の論理では、主権回復後の日本に追認する手段がないということになってしまい、

追認権者の存在しない無効論など、法理論的としても成立しているとは考えにくい。

帝国憲法体制と同等の機関によって追認しなければ

追認の効力が認められないと主張していることも知っているが、

それは南出氏の主張であって、そこまでしなくても追認できるという論理は成り立つ。

これもまた、あくまで仮説に過ぎないということだろう。

 

さらには、南出氏は共産党や社民党と組んでも、憲法改正を阻止すると述べるが、

その理由は改正してしまったらこの憲法に正統性を与えてしまうという論理ではなかったか。

追認できないのに、正統性を与えてしまうとは如何なることなのか。

この点についても法理論として矛盾している。

 

また、国体論としても追認できないということにならない。

占領中であり、主権のない状態で憲法を改正させられたというのは確かに問題だが、

一方で、GHQに主権があったのかといえば、必ずしもそうとも限らない。

GHQは主権者として日本を何でも好きなようにできたわけではない。

少なくとも皇室(国体)を存続させなければならなかった以上、

帝国憲法の改正手続をとらなければならず、

天皇の御名御璽と上諭が必要だったのだ。

占領者であってもどうにもならない部分があったのであり、

日本側にも非常にごく小さなことであっても追認する可能性は残されていたのである。

つまり国体は断絶していなかったという証である。

 

それとは別に、憲法無効論者は、

帝国憲法を改正するにしても、日本国憲法はその限界を超えている、と述べる。

これは「改正限界説」というもので、憲法は国柄を反映するものであるから、

国体に反する憲法改正はできない、とする。

要するに日本国憲法が憲法だったら、

国体に反するので限界説に基づけば革命が成立したことになるということだ。

これは現憲法を憲法として受けとめられた昭和天皇や今上陛下に対して、

あまりにも無礼な言いようではないだろうか。

憲法としては無効であるが、講和条約としては存続しているなどという

言い訳をされるのかもしれないが、

先帝陛下も今上陛下も「憲法」として受けとめられたのだから、

陛下が革命憲法を容認されたということになる。

 

昭和天皇は、いわゆる人間宣言といわれるもののなかで、五箇条のご誓文を引用されたのは、

日本の民主主義は明治初期からすでにあるもので、

この憲法でもたらされたものではないということが示されているのではないか。

これは帝国憲法と日本国憲法が連続しているということだと考えられる。

 

左翼憲法学者は戦前と戦後を分断するために

昭和20年8月15日に革命が起こったとし、

日本国の歴史は一度断絶したという八月革命説を唱えたが、

ほとんどの人は「そんなことはない、国体は変更していない」

という前提で戦後も日本国を運営してきた。

憲法無効論者が、現憲法が帝国憲法改正の限界を超えていると言うのであれば、

日本国憲法が憲法として確定した段階で、

その革命憲法によって革命が成立したことになる。

結局は左翼が言っていた八月革命説を容認したことになる。

帝国憲法と現憲法の法的連続性を否定するということは、

結果的に右も左も八月革命説であるということだ。

 

私は天皇であっても国体に反する行為はできないと考えるが、

戦後、日本国憲法体制であっても天皇は国家・国民の安寧を祈られ、

国民は天皇を大切にお守りしてきた。

占領軍により主権の奪われた状態でも、GHQは国体を変更することができず、

国体を存続するという前提で帝国憲法の改正手続を行ったのである。

そして天皇と民の関係は何も変わっていない。

戦後も国体は一貫して続いているのだ。

 

あとは常識の問題であるといえる部分でもある。

普通の国なら主権が回復すれば、追認せずに無効にするか、改正するのであり、

本来なら私もそうすべきだったと考える。

しかし、日本は政府も国民もこの憲法を憲法として運用してしまった。

詳しい状況についてはここでは省略するが、日本側にもそうした事情があった。

日本国憲法を憲法とする前提で日本国は動いてきたのであるから、

我々はその現実を受け入れ、歴史的経緯をふまえた上で、

現代人の手によって正しい憲法に戻すべきではないか。

日本人とは不合理も受け入れて、新しいものに適応することのできる民族である。

 

現実を受け入れずに、戦後、ほとんどの人が思ってもいなかった

日本国憲法は講和条約であって

実は帝国憲法が現存しているなどというフィクションのようなものを軸に、

日本国憲法を憲法として無効にするなどというのは、

およそ日本人的な発想ではないという印象を受ける。

幕末の不平等条約を地道な交渉で改正していったように、

我々は戦後の日本を受け入れ、

一歩一歩それを改めていくのもまた日本人のあり方ではないかと思う。

明治の政治家たちは、維新でリセット(革命)したのではなく、

江戸時代の負の遺産を受け入れたのだ(復古)。

 

少なくとも主権回復後60年以上経過しているのだから、

現在の日本は日本人の責任である。

日本人の手によって正しくすればいいのであって、

未だにマッカーサーが何だとか、GHQがどうだとか、

そういったことにぐじぐじこだわらず、

一身独立した人間として、自分たちの憲法を自分たちで決めればいい。

 

拉致問題を例に出して、憲法も「まずは原状回復だ」という言説も耳にしたことがあるが、

はっきり断定できるのは、日本はいま拉致などされていない。

主権回復後60年も経過して、まだそんなことを主張しているのは、

あまりに自虐的だと言わざるをえない。

現在の日本は、全部日本の責任である。

占領したぐらいで、他国を洗脳して好きなようにできると考えるのは、やや短絡的である。

公職追放したぐらいでその国の統治がうまくいくなら簡単なものだ。

アメリカはイラクの占領統治でも苦悩したが、

いくら武力で占領しても簡単に自分たちの思うようにいかないのが世界の常識だ。

日本がアメリカの占領体制を打破できなかったのは、日本側の責任はないのか。

少なくとも日本側にも“意思”は存在したのである。

 

無効にしなければ日本は立ち直れないというのもまた、

何かに依存しているような印象を受ける。

無効であろうが、改正であろうが、

現在の状況から脱するのは、すべて現代の日本人の責任ということだ。

そういったことも含めて戦後レジームからの脱却なのではないか。

 

本来、国体と憲法は一体であるはずであるが、国体と憲法に齟齬があれば、

国体に憲法を合わせるのであり、憲法に国体を合わせるのではない。

その観点でいえば、戦後も一貫して続いている国体に、

憲法を改正して合わせることは、何の問題もないはずだ。

帝国憲法は改正によって、少々国体とずれてしまったのだから、

また改正して、国体と合致する憲法にすればいい。

 

いずれにしても無効論を主張するのは自由だとしても、

それを基に改憲論を国賊と罵ることができるほどの論理ではない、

ということを言いたいだけでもある。

保守勢力から期待される安倍元総理らを、改憲派というだけで国賊と罵ることに、

日本の未来があるようには思えない。

 

共産主義がそうだったように、できないことを「できる」と考えることほど、

その思想に属する人々及び、その周囲にとって不幸なことはない。

憲法無効論が現実的に不可能であるのに、

保守勢力がそれをできることであると錯覚し、突き進んでいったら、

改憲論も含めて、保守の勢力が衰退してしまうことになるだろう。

 

ベストがダメでもベターがある。

むしろベストなどは幻想だと考え、

ベターの積み重ねを大切にしてきたのが日本人だと思う。




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